吾妻鏡入門第五十二巻

文永三年(1266)七月大

文永三年(1266)七月大一日辛夘。雷雨。御家人等或破關有奔參于鎌倉之輩。或廻路有密參之類。皆帶兵具。隱居邊土民屋。及酉刻俄騒動。群集之輩加小具足帶弓箭。然而无事而暮畢。

読下し                    らいう    ごけにんら   ある    せき  やぶ   かまくらに ふんさん    のやから あ
文永三年(1266)七月大一日辛卯。雷雨。御家人等、或ひは關を破り@、鎌倉于奔參する之輩有り。

ある    みち  めぐ   みっさんのたぐいあ    みなひょうぐ  お     へんど  みんや  いんきょ   とりのこく およ    にわか そうどう
或ひは路を廻り、密參之類有り。皆兵具を帶び、邊土の民屋に隠居す。酉刻に及び、俄に騒動す。

ぐんしゅうのやから  こぐそく   くは    ゆみや  お       しかれども こと な   て くれをは
群集 之輩、小具足を加へ、弓箭を帶びる。然而 事無くし而暮畢んぬ。

参考@關を破りは、関戸の霞が関カ?それとも鎌倉に関があったのか?前者を想定する。

現代語文永三年(1266)七月大一日辛卯。雷雨です。御家人達が、ある人は関戸の霞が関を無理矢理に押し通って鎌倉へ走ってきた連中があります。ある人は間道を遠回りして、ひそかに来た連中もあります。皆武器を用意して外鎌倉の民家に隠れておりました。夕方の六時頃になると、急に行動を開始しました。群集している連中は、鎧帷子に手甲や籠手・すね当て等の小具足を纏って、弓矢を抱えています。しかしながら、何事も起きないで、世も暮れてしまいました。

文永三年(1266)七月大三日癸巳。天リ。曉。木犯五諸候第三星。自今曉。民間不安。或破壞家屋。或運隱資財。是皆怖戰塲之故歟。巳一點。甲冑軍士揚旗。自東西馳集。窺參相州門外。次於政所南大路相。一同時音。其後。少卿入道心蓮。信濃判官入道行一等爲相州御使參御所。往還及兩三度云々。先如此軍動之時。將軍家入御執權亭。又可然人々參營中奉守護之歟。今度无其儀。世以恠之。朝馴暮老近臣之類皆出。周防判官忠景。信濃三郎左衛門尉行章。伊東刑部左衛門尉祐頼。鎌田次郎左衛門尉行俊。澁谷左衛門次郎C重等許。相殘御所中云々。

読下し                   そらはれ あかつき もくごしょごうだいさんせい おか   こんぎょうよ  みんかんふあん
文永三年(1266)七月大三日癸巳。天晴。暁、木五諸喉第三星@を犯す。今暁自り民間不安。

ある     かおく   はかい    ある     しざい  はこ  かく   これみな せんじょう おそ     のゆえか
或ひは家屋を破壊し、或ひは資財を運び隠す。是皆、戦場を怖れる之故歟。

 み  いってん  かっちゅう ぐんし はた  あ     とうざい よ  は   あつ      そうしゅう もんがい  うかが さん
巳の一點A甲冑の軍士旗を揚げ、東西自り馳せ集まり、相州の門外に窺ひ參ず。

つぎ まんどころ みなみ おおじ  をい   いちどう  とき  こえ  あは
次に政所の南の大路に於て、一同に時の音を相す。

 そ  ご  しょうきょうにゅうどうしんれん しなののほうがんにゅうどうぎょういつら   そうしゅう おんし   な      ごしょ  まい  おうかんりょうさんど  およ    うんぬん
其の後、 少卿入道心蓮 ・ 信濃判官入道行一 等、相州の御使と爲し、御所へ參り往還兩三度に及ぶと云云。

 ま  かく  ごと   いくさうご   のとき  しょうぐんけ  しっけんてい にゅうぎょ   またしか  べ  ひとびと  えいちゅう さん    これ  しゅご たてまつ    か
先づ此の如きの軍動く之時、將軍家、執權亭に入御し、又然る可き人々、營中に參じ、之を守護し奉るべき歟。

このたび  そ  ぎ な     よ もっ  これ  あや
今度、其の儀無し。世以て之を恠しむ。

ちょうぼ  な     ろうきんしんのたぐいみないで    すおうのほうがんただかげ  しなののさぶろうさえもんのじょうゆきあき  いとうのぎょうぶさえもんのじょうすけより
朝暮に馴れる老近臣之類B皆出て、周防判官忠景C・信濃三郎左衛門尉行章C・ 伊東刑部左衛門尉祐頼・

かまたのじろうさえもんのじょうゆきとし  しぶやのさえもんじろうきよしげ ら はか      ごしょちゅう  あいのこ    うんぬん
鎌田次郎左衛門尉行俊・澁谷左衛門次郎清重等計りて、御所中に相殘ると云云。

参考@五諸候第三星は、ふたご座イオタ星。参考の【50】
参考A時刻の點は、2時間を5等分したのが点。なら9時〜9:24を一点、9:24〜9:48を二点、9:48〜10:12を三点、10:12〜2:36を四点、10:36〜11:00を五点。
参考B
老近臣之類は、將軍近臣。
参考
C周防判官忠景は、島津。
参考C
信濃三郎左衛門尉行章は、二階堂行章なら和泉次郎だし、信濃三郎なら二階堂行綱であるが殆ど出番がないので、和泉次郎行章であろう?

現代語文永三年(1266)七月大三日癸巳。空は晴です。明け方に木星がふたご座イオタ星の軌道へせまりました。
今朝から民間人は恐怖に怯えています。或る者は家を壊したり、或る者は財産を運んで隠したりしてます。これは皆、戦場になる恐れがあるからです。
午前九時過ぎに、鎧兜の武装軍団が旗を掲げて、東西から走って集まり、相州北条時宗の屋敷の門の前に様子を窺いにまいりました。
次に、政所の南の横大路で、一斉に時の声を合せました。
その後、少卿入道心連武藤景頼と信濃判官入道行一行忠達が、北条時宗の使いとして御所との間を三度も往復したんだそうな。この様な戦騒ぎの時は、まず第一に将軍は執権邸にかくまって、又、それなりの政務員の人々はそこへ集まって守るものであろう。今回はそれが無かったので、世の人々は何か変だと感じていました。朝夕に通いなれている長老の将軍近臣たちが、みな出払って、周防判官島津忠景、和泉次郎左衛門尉二階堂行章、伊東刑部左衛門尉祐頼、鎌田次郎左衛門尉行俊、渋谷左衛門次郎清重たちだけが、相談しあって御所の中に残っていたそうな。

文永三年(1266)七月大四日甲午。天リ。申剋雨降。今日午剋騒動。中務權大輔教時朝臣召具甲冑軍兵數十騎。自藥師堂谷亭。至塔辻宿所。依之其近隣弥以群動。相州以東郷八郎入道。令制中書之行粧給。无所于陳謝云々。戌刻。將軍家入御越後入道勝圓佐介亭。被用女房輿。可有御皈洛之御出門云々。
供奉人
 土御門大納言            同中將
 同少將               木工權頭親家
 同子息左衛門大夫季教        同兵衛藏人長教
女房
 一條局〔進參〕           別當局
 兵衛督局              尼右衛門督局
此外
 相摸七郎宗頼            太宰權少貳景頼
路次。出御自北門。赤橋西行。經武藏大路。於彼橋前。奉向御輿於若宮方。暫有御祈念。及御詠歌云々。
供奉人
 相摸七郎宗頼            相摸六郎政頼
 遠江前司時直            越前々司時廣
 彈正少弼業時            駿河式部大夫通時
 尾張四郎篤時            越後六郎實政
 周防判官忠景            城弥九郎長景
 佐々木壹岐入道生西         河越遠江權守經重
 小山四郎              和泉左衛門尉行章
 伊東刑部左衛門尉祐頼        和泉藤内左衛門尉
 武藤新左衛門尉景泰         甲斐三郎左衛門尉爲成
 出羽七郎左衛門尉
此外
 土御門大納言            同子息中將顯實
 同少將               木工權頭親家
 同子息左衛門大夫季教        同兵衛藏人長教
女房
 一條局               別當局
 右衛門督局             民部卿局
 小宰相局              侍從局
 越後                加賀
 但馬                春日

読下し                   そらはれ さるのこくあめふ     きょう  うまのこくそうどう
文永三年(1266)七月大四日甲午。天晴。申尅雨降る。今日、午尅騒動す。

なかつかさごんのだいゆうのりときあそん かっちゅう ぐんぴょうすうじゅっき めしぐ   やくしどうがやつ ていよ    とうのつじ すくしょ  いた
 中務權大輔教時朝臣、 甲冑の軍兵 數十騎を召具し、藥師堂谷の亭自り、塔辻の宿所に至る。

これ  よっ  そ   きんりん いよいよ なり  ぐんどう    そうしゅう とうごうはちろうにゅうどう もっ    ちゅうしょのぎょうしょう  せいせし  たま
之に依て其の近隣 弥々 成て群動す。相州、東卿八郎入道を以て、中書@之行粧を制令め給ふ。

ちんしゃにところな    うんぬん
陣謝于所無しAと云云。

いぬのこく しょうぐんけ  えちごにゅうどうしょうえん さすけ  てい にゅうぎょ    にょぼうごし  もちいら    おんきらく あ  べ    のごしゅつもん  うんぬん
  戌尅、將軍家B、越後入道勝圓Cの佐介の亭へ入御す。女房輿を用被る。御歸洛有る可き之御出門と云云。

          ぐぶにん
    供奉人

  つちみかどだいなごん                 おな   ちゅううじょう
 土御門大納言        同じき中將

  おな   しょうしょう                   もくごんのかみちかいえ
 同じき少將         木工權頭親家

  おな     しそくさえもんたいふすえのり     おな   ひょうえくらんどながのり
 同じき子息左衛門大夫季教  同じき兵衛藏人長教

にょぼう
女房

  いちじょうのつぼね 〔おっ  さん  〕      べっとうのつぼね
 一條局〔追て參ず〕    別當局

  ひょうえのかみのつぼね            あまうえもんのかみのつぼね
 兵衛督局        尼右衛門督局

 こ  ほか
此の外

  さがみのしちろうむねより           だざいごんのしょうにかげより
 相摸七郎宗頼      大宰權少貳景頼

 ろじ   きたもんよ   しゅつご

路次は北門D自り出御。

あかはし にし  い    むさしおおじ   へ    か   はし  まえ  をい    みこしを わかみやかた  む  たてまつ
赤橋を西へ行き武藏大路を經るE。彼の橋の前Fに於て、御輿於若宮方に向け奉る。

しばら  ごきねん あ        ごえいか   およ    うんぬん
暫く御祈念有りて、御詠歌に及ぶと云云。

参考@中書は、中務權太夫の唐名。
参考A陣謝于所無しは、謝るに言葉を尽くしきれない
参考B將軍家は、数え25歳。
参考C
越後入道勝圓は、佐介流北条時盛。
参考D北門は、不浄門。若宮大路幕府の北側の同敷地内執権屋敷を抜け、北門から横大路へ出たのであろう。
参考E赤橋を西へ行き武藏大路を經ては、八幡宮の橋から寿福寺の前を通って佐助谷へ向う。
参考F
彼の橋の前は、赤橋の前で。

 ぐぶにん
供奉人

  さがみのしちろうむねより         さがみのろくろうまさより
 相摸七郎宗頼     相摸六郎政頼

  とおとうみぜんじときなお         えちぜんぜんじときひろ
 遠江前司時直     越前々司時廣

  だんじょうしょうひつなりとき        するがしきぶのたいふみちとき
 彈正少弼業時     駿河式部大夫通時

  おわりのしろうあつとき           えちごのろくろうさねまさ
 尾張四郎篤時     越後六郎實政

  すおうのほうがんただかげ         じょうのいやくろうながかげ
 周防判官忠景     城彌九郎長景

  ささきいににゅうどうしょうせい       かわごえとおとうみごんのかみつねしげ
 佐々木壹岐入道生西  河越遠江權守經重

  おやまのしろう               いずみのさえもんのじょうゆきあき
 小山四郎       和泉左衛門尉行章

  いとうぎょうぶさえもんのじょうすけより  いずみのとうないさえもんのじょう
 伊東刑部左衛門尉祐頼 和泉藤内左衛門尉

  むとうしんさえもんのじょうかげやす   かいのさぶろうさえもんのじょうためなり
 武藤新左衛門尉景泰  甲斐三郎左衛門尉爲成

  でわのしちろうさえもんのじょう
 出羽七郎左衛門尉

 こ  ほか
此の外

  つちみかどだいなごん          おな    しそくちゅうじょうあきざね
 土御門大納言     同じき子息中將顕實

  おな   しょうしょう            もくごんのかみちかいえ
 同じき少將      木工權頭親家

  おな     しそく さえもんたいふすえのり  おな   ひょうえくらんどながのり
 同じき子息左衛門大夫季教 同じき兵衛藏人長教

にょぼう
女房

  いちじょうのつぼね            べっとうのつぼね
 一條局        別當局

  うえもんのかみのつぼね         みんぶのきょうのつぼね
 右衛門督局      民部卿局

  こざいしょうのつぼね           じじゅうのつぼね
 小宰相局       侍從局

  えちご                    かが
 越後         加賀

  たじま                    かすが
 但馬         春日

現代語文永三年(1266)七月大四日甲午。空は晴です。今日の昼頃に騒ぎがありました。中務権大輔北条教時さんが、鎧兜に身を固めた軍隊数十騎を引き連れて、薬師堂(現覚園寺)谷の屋敷から、塔の辻(筋替橋?)の上屋敷(着替え所)にやってきました。これに刺激されたその近所の連中が集まって、はなおさら大騒ぎになりました。相州時宗は、東郷八郎入道を遣わして、教時の団体行動を抑えさせました。教時は謝るのに言葉を尽くしきれませんでした。
午後八時ころ、宗尊親王将軍家は、越後入道勝円(佐介流北条時盛)の佐介谷の屋敷へお入りになりました(入れさせられました)。女物の輿(罪人扱い)を使用しました。京都へお帰りになる(追い返される)ための鎌倉を出るための門出式だそうな。
お供(護送する)の人は
 土御門大納言顕方 同中将 同少将 木工権頭中原親家 同息子左衛門大夫中原季教 同兵衛蔵人中原長教
女官 一条局[後から追っていきました] 別当局 兵衛督局 尼右衛門督局
このほかに 相模七郎北条宗頼 太宰権少弐武藤景頼
道中へは、不浄門とのちに呼ばれる北門からお出になられました。八幡宮の赤橋前の横大路を西へ行き武蔵大路を通られました。その赤橋の前では、輿を八幡宮の方へ向けられました。しばらくお祈りをされて和歌をお読みになりましたとさ。
お供の人は、
 相模七郎北条宗頼 相模六郎北条政頼
 遠江前司北条時直 越前前司北条時広
 弾正少弼北条業時 駿河式部大夫北条通時
 尾張四郎篤時   越後六郎金沢実政
 周防判官島津忠景 城弥九郎安達長景
 佐々木壱岐入道生西泰綱 河越遠江権守経重
 小山四郎     和泉左衛門尉二階堂行章
 伊東刑部左衛門尉祐頼 和泉藤内左衛門尉
 武藤新左衛門尉景泰 甲斐三郎左衛門尉狩野為成
 出羽七郎左衛門尉
このほかに
 土御門大納言顕方 同息子中将顕実 同少将
 木工権頭親家   同息子の左衛門大夫季教 同じ息子の兵衛蔵人長教
女官
 一条局 別当局 右衛門督局 民部卿局 小宰相局 侍従局 越後 加賀 但馬 春日

文永三年(1266)七月大廿日庚戌。天リ。戌刻。前將軍家御入洛。着御左近大夫將監時茂朝臣六波羅亭。

読下し                   そらはれ いぬのこく さきのしょうぐん ごじゅらく  さこんのたいふしょうげんときしげあそん  ろくはら   てい  ちゃくご
文永三年(1266)七月大廿日庚戌。天晴。戌刻、前將軍家御入洛、 左近大夫將監時茂朝臣の六波羅の亭に著御す。

現代語文永三年(1266)七月大二十日庚戌。空は晴れです。午後八時ころ、前の将軍宗尊親王は京都へ入られました。極楽寺流左近大夫将監北条時茂さんの六波羅探題の屋敷へ・・・・

説明この後、七月廿四日に惟康王が七代将軍になる。

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