平成13年9月9日朝いよいよ出発です。家の近所のレンタカーを借ります。車種はホンダのFitです。肥満気味の私にも大きい。歴史散策では普通の人の行かない村の鎮守や田のあぜ道などへも行きますので、小さな車のほうが何処に駐車しても目立たないのですが今回はやばいかも。でも台風のせいで雨が降ったりやんだり、おーいなんとかしてくれよ。では、夜に書き込んで更新します。いってきまーす。

9月9日夕方やっと塩田平、別所温泉につきました。横浜を昼に出てから八王子まで1時間川越までで2時間、途中青梅から圏央道路に入れることを知らずに川越まで16号を延々とたらたらと走って来ました。って、出かける前に地図くらい調べておけって。関越自動車道はそこそこですが、時々台風のせいかパラパラときます。なんて云ってるうちは良かったのですが碓氷峠では断続的豪雨で一時はどうなることかと、しかし峠を越えたら上田市内は上がっていました。でも宿に着いたら降り出して、今外は雨です。露天風呂は雨がかえって気持ちよかった。

9月10日朝おはようございます。台風ですよ。土砂降りどころか、上田地方に大雨洪水警報が出てるんです。天気予報を見たら予定通り行動するとズウーと台風と一緒になってしまいます。身動きしないほうが安全なので、明日の朝には通り過ぎるし、ここから新潟まで3時間程度でいけるらしいので、それにこの土砂降りじゃ見学も出来ないし、(大泣)もう一泊して明朝急いで北条義政の墓だけでも見て行く事にしました。(開き直り)今日は一日湯治です。のんきすぎないかーって。

 

 

9月10日夕方昼過ぎになってやっと雨も上がりましたので、デジカメを持って別所温泉を歩いて見ました。先は、有名な北向観音です。長野の善光寺が南向きで向き合っている所からそう呼ばれるそうです。本尊は千手観音です。ところで紋所が笹竜胆(鎌倉市の市章で村上源氏)です。

 

 

 

 

安楽寺開山の樵谷惟仙(しょうこくいせん)は建長寺開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)と手紙のやり取りをしており、道隆が「建長寺は鎌倉で、安楽寺は塩田でそれぞれ百人、五十人の僧が修行し、仏教の中心となっている。」という意味のことを書き記しているそうです。安楽寺には日本で唯一の国宝八角三重塔があります。

 

 

 

それから常楽寺には鎌倉時代の石塔の多宝塔がありますが、暗くて写真は撮れませんでしたが、本堂の茅葺屋根が綺麗でした。

 

 

 

 

 

9月11日朝、今日も雨です。台風のんびりしていないで早く行ってくれよなー。仕方がないので新潟へ向かいましょう。この土砂降りじゃ見学もしづらいし、何しにきたんだよー。9月11日14時半、越後奥山庄に到着しましたが、今日も土砂降りなので、塩田の一部や小布施や春日山城の見学は中止です。それと宿泊予定先が山の中でPHSは通じないとの事なので、明日町へ出るまで更新できません。

9月12日朝おはよう御座います。今日は待望の奥山庄の見学ツアーです。でもやっぱり小雨です。よほど普段の行い悪いのですね。

 

9月12日夜、今日は奥山庄を案内していただきました。傍示石(ぼうじいし)を見ました。自分一人で捜していたら絶対見つかりません。なぜなら、境界を示す石ですから必ず村の一番外側、つまり隣村との境界なのです。

それが、庄園である奥山庄と国衙領(こくがりょう)の荒川保との境にあったのです。これは多分庄園を任されている地頭と国衙を管理している押領使(意味は変わってきているが)とが領地争いをしたときのものと思われます。この石は用を成さなくなったある時代に場所を動かされたようだとおっしゃっておられました。本当はこの石と一山越えた韋駄天山とが結ばれていてこれが境争論の一決の傍示石との感じでした。

 

 

それと中条氏の館跡を発掘復元中でした。

 

 

 

 

それから、城一族で和田義茂や佐々木盛綱に攻められ藤沢C近に生け捕られた板額御前の鳥坂城(とっさかじょう)が目の前です。

 

 

 

 

9月13日朝はよう御座います。昨日会津での夕方は夕日がさして、久しぶりの太陽でした。しかし今朝はどんよりとしたまるで日本海側の冬の空のように重苦しい雲が立ち込めています。今回は本当に普段の行いがわるいのかなー。でも雨が降らないだけましかも、所で会津に三浦十郎義連の墓というのがあるんです。きっと子孫の芦名氏がたてた供養塔だと思いますが、行ってきます。

9月13日夜三浦十郎義連の墓行って来ましたよ。芦名氏がここへ入ったのは、南北朝時代だと思ったので、やはり子孫の供養塔だと思いますが後日調べます。

推測するに(義連は三浦大介義明の十男で横須賀市佐原を領したので「佐原」を名乗っている。)義連の子孫が会津芦名になっているので先祖の供養塔でも建てたのが始めと思われます。

会津北側は、佐原時連が納め新宮と名乗っていたそうで、会津黒川の宗家は同族ですが、横須賀市芦名を領していたので芦名を名乗っております。この両家は永享の頃にぶつかり合い、新宮氏は滅びています。

熱塩加納村教育委員会の資料によると

「中央にある宝きょう印塔が義連の墓と伝えられるもので、寛文8年(1668)保科正之が、山崎闇斎に命じて史実をさぐり、元禄8年(1695)松平正容が志を継いで「佐原義連之碑」をそばに建立した。」とあります。

 

其の前に会津の喜多方に(ラーメンもいいけど)目面しい拝殿がありました。熊野神社の長床といいます。これも源頼義の勧請だそうです。

 

古仏紀行の立木観音のそばの心清水神社も頼義の勧請です。

 

 

 

 

 

それから大内宿へ行きました。確かに江戸時代に似てはいるんですけど宿場風の家が皆御土産屋に変身しているんです。けっこう異様ですよ。

 

大内宿に面白い伝説があるんです。高倉宮が宇治合戦で生き残って越後へ逃げ延びる途中で立ち寄ったと云うんです。勿論吾妻鏡では

治承四年五月二十六日宮又於光明山鳥居前御事「御年三十云々」となっています。

今でも半夏(はんげ)祭りの7月2日に宮の行列を再現しているそうです。高倉神社には宮と愛馬の連銭葦毛を祀っているのだそうです。

神社の境内は、不気味なので入れませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

おまけに宮を慕ってこの地へたどりついた桜木姫は、長旅の疲れから18歳の若さで亡くなったので葬った場所(写真左)が今でも「御側原」というのだとさ。

 

 

 

 

 

9月14日夜大内宿の近く湯野上温泉に泊まり日光に向かいました。途中のんびりと中ノ沢観音堂(写真右)に立ち寄りました。会津仏教の始祖徳一上人開創の名残です。建造物は室町初期とも云われ国の重文に指定されています。

 

 

 

その他にも楽しい所に行きました。名前を紹介せずに写真を載せますので、考えてください。京都まで行っちゃた? なお、今は鬼怒川温泉に泊まっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

9月15日夜もう家へ帰って来ましたよ。今朝は日光の陽明門を見たくて東照宮へ行って来ました。「五重の塔の前から、侍の格好をして陣笠をかぶった人が個人の為の案内をしており、料金は四百円ですが払わなくても結構です。」と放送で呼びかけていました。丁度間に合ったのでついていきました。

話がとても面白く、例えば「国宝の廊下に座ってみなさい。お尻が冷えますよ。」とか、「狛犬は角があります。でも一方にだけですが、角の生えているのは男女のいずれでしょう。そりゃ角の生えているのは女に決まってます。皆さん経験済みでしょう。」などと笑わせてくれた。又、「厩の三猿はまずい事を見猿、云は猿、聞か猿ではなくて、育ち盛りの子供の教育にいけない事を「みざる、いわざる、きかざる」なので親の方が考えなければならいのだ。」等のためになることなども話してくれました。

陽明門は予想通り華やか&賑やか&鮮やかでした。眠り猫ってとっても小さくて実物大よりも小さいかも。

 

 

 

 

 

今回は旅行中に感じたままを簡単に記載してみました。中条町では公民館の方に資料なども戴き、厚く御礼申し上げます。

出来れば後日、整理して、「紀行文」や「奥山庄について」も載せたいと考えております。今後とも宜しくお願いします。

 

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