天台寺(岩手県二戸市浄法寺町)
高速で岩手県の浄法寺町へ、あの瀬戸内寂聴さんがご住職をなさっていて、
毎月一回法話をされるので有名な天台寺です。(現在は引退)
参道の始まりに大きな桂の木があって、その根元から清水が湧いています。
きっと古代には桂の木が水をもたらすので霊力のある木として祀られたのが、仏教と結びついて観音様の恵として「桂泉観音」と呼ばれるようになったと思われます。長い参道は緩やかな階段で上へ上へと続きます。でも車は別の道を通って山の上の駐車場に行けます。
駐車場から案内にしたがって、新しい墓のそばを通ると、下からの参道に出ます。
ここまでは緩やかな参道が、ここから一気に石段を登ります。
やがて仁王門をくぐると幼稚園の運動場位はある広い本堂前広場に出ます。法話の日にはここが千人以上の人で一杯になると聞いています。
本堂には化粧をした丈六の観音様がせまそうにお笑いになってました。本堂の裏へ回ると宝蔵庫があり、文化財的仏像は全てこちらにいらっしゃいます。
ちなみに本堂は、国指定重要文化財の天台寺観音堂です。
浄法寺の名は、畠山次郎重忠の息子(浄法寺殿)が代官として住み着いたところだそうです。
驚いたのは最近二戸市に合併になりました。
鉈彫り観音
本尊の聖観音は桂の一木で体に丸鑿の跡を残す「鉈彫り」です。
大矢先生の論では、丸鑿の跡を残す「鉈彫り」は、木に宿った古来から日本のその土地に住んでいる地主神が、大陸から伝わった新しい神の仏神(ほとけがみ)に変身して行く途中を表現していると云います。
宝蔵庫で隣におられる十一面観音(左の写真)はその仏神に変身し切った形だそうです。神仏混交、本地垂迹説とによって日本古来の神と仏教とを結びつけた結果だと思われます。
明治二年の神仏分離令以来、神と仏は別の世界として育った私たちには理解し憎いかも知れません。
どうしても、皆さんにも我々の遠い祖先の信仰心を感じていただきたくて、天台寺のパンフレットから拝借しました。
その他に昔のこけしみたいな顔をして着物が墨書きの吉祥天様もおられました。
鉈彫りは地元神奈川にも「弘明寺観音」「日向薬師三尊」があります。
成島兜跋毘沙門天
さて、この後ですが、11年12年は成島兜跋毘沙門天を見にいきました。
花巻から猿ケ石川沿いに遠野方面へ向かうと東和町のはずれの北成島に巨大な毘沙門天像があります。
境内に入ると右のほうに旧毘沙門堂があり、その脇を上った上に新しい宝蔵庫があります。
中へ入って思わずびっくり、声も出ません。像の高さは、472cmと5メートル近い巨像が、堂内中央にニョキッと仁王立ちしています。その巨大さに度肝を抜かれ、思わず像の前でひれ伏してしまいました。
「兜跋毘沙門天」とは、仏像辞典によると「毘沙門天」の中でも、西方的な甲冑に身を包み、地天女の掌の上に直立しています。
「兜跋」は、チベット(吐蕃トバン)を指すと云う説もあります。
唐の玄宗皇帝の頃にチベット等が安西城(キジール)に攻めてきたときに、城の北門楼上に地天に押し上げられるように毘沙門天が現れ、危機を救ったとの言い伝えがあります。
なお、この兜跋毘沙門天は坂上田村麻呂の化身だという伝説があります。
毘沙門天を支えている可愛いお嬢さんは「地天」さんなのであります。愛らしい中にも東北の秘めたる力強さが両手にみなぎっております。
堂内には、毘沙門天の眷属「尼藍婆(ニランバ)」「毘藍婆(ビランバ)」の二鬼が両脇にかしずき、左には毘沙門天の后「吉祥天」が象の冠をつけております。右には阿弥陀如来が座しておられます。なお、写真撮影は禁じられていますので、パンフレットから借用しました。
左の写真は、よそ様のホームページから借りました。
偉大なる毘沙門天に別れを告げ、遠野へ向かいました。
遠野物語
遠野へは夕方の五時近くに付きましたので、まず駅前の観光案内所へ行き宿を捜しました。
そして、ネット友達の遠野在住の遠野松崎ジェンゴ2のとらねこさんの掲示板に遠野に来ていることをカキコみましたら、夕食に酒を飲んでいるところへ訪ねて来てくれました。酒を飲みながら色々と話をしました。
では、遠野を私が歩いた範囲で紹介します。
まずは、何と行っても河童でしょう。有名な河童淵へ行きました。観光説明板を紹介しましょう。
遠野の河童は顔が赤いといわれ、その伝説は数多く残っている。「小烏瀬川の姥子淵の辺に、新屋の家といふ家あり、ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに行きしに間に、河童出でてその馬えお引き込まんとし、かへりて馬に引きずられて厩の前に来たり・・・・」遠野物語五八話
この安倍屋敷の水ごうの流れ淵には河童駒引きの伝説を伝える河童神様を祀っている。洞の中には乳首の縫いぐるみが奉納されており、乳の信仰に転化している興味深い民俗がある。
河童の後は、とらねこさんのお進めで早池峰神社へ行きました。
立派な山門にビックリする大きな神社です。案内の謂れには「大同元年(806)の春三月八日、来内村の四角藤蔵が神霊を拝し早池峰山大権現の宮を建てた。その後いく多の時代の変遷を経て現在早池峰神社っとして昔日の威容をしのばせている。早池峰山(1913m)は日本八景山の一つである。古くより山嶽信仰の聖地として崇敬された山霊であり、それを祀る神社であった。早池峰神社は末寺20社を持ち格式を有する神社である。広大な境内と杉、桧、一位の古樹が繁茂して風致が幽玄の趣き深く荘厳の感を受ける。社殿も、鳥居、山門、拝殿、神殿、深宮と続き修験場又一の滝、大横通り、河原の坊、天狗のすべり岩と不思議な神秘的な話がある。と書かれています。
写真の山門は、大河「利家と松」で、利家が父(菅原文太)を亡くし、信長の菩提寺参りの帰りに山門で待ち、敦盛を乞う場面はここで撮影したそうです。
たまたま、隣の中学の先生が写生の時間ということで、生徒さんを連れてきていましたが、生徒さんは二人です。先生のお話では、この辺りの集落は明治期に林野庁から払い下げを受け、新しく入植した所だそうです。
この子達の祖父の時代は二里も三里も離れた学校に通っていたそうで、集落の願いで学校を建てたそうですが、一時は40人もいた生徒が、今では小学校4人中学2人のたったの6人だそうです。
やはり、過疎化の波には勝てないようで、40世帯ほどになってしまったそうです。
「でも、一人一人の生徒に手が届くのが嬉しい。」と先生はおっしゃってました。
平屋建ての校舎に、日本の原風景とか教育のあり方などを感じさせられました。
次に遠野ふるさと村で、「南部曲屋」を集めたテーマパークの一種ですが、自然の感じに建てられているのが印象的でした。おもわず「御邪魔いたしやす」と声をかけたくなります。
「とらねこさん」ととても関係の深い「福泉寺」へ寄らせて戴きました。みものは先代住職が二十年の歳月をかけて刻んだ、丈17mの一木彫りの大十一面観音像がみごとです。それと古くはないようですが、五重塔が立派でした。
次に遠野で不思議な神様に出会いました。名は「コンセイサマ」と云って文字ではここのは「金勢様」と書きますが、一般的には「金精様」と書いて、昔は豊作や子孫繁栄を祈りましたが、近頃では「子授けの神様」として子に恵まれない夫婦が拝みに来るとの事です。
この後、「遠野市立博物館」で、綺麗な紙人形のスライドで語る「遠野の民話」を三本ほど聞いて遠野を後にしました。
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