この頁は、歴史古街道団と歴散加藤塾がコラボして鎌倉古道を町田から鎌倉まで歩いた記録です。

いざ鎌倉!塾長と行く鎌倉古道歩き 鎌倉街道・鎌倉往還

予備知識

鎌倉時代には、北関東の各地から鎌倉に向かい三本の道が、官道として整備されていたらしい。武蔵の多摩の辺りで平地ではある程度の広さをもって造られたらしいが、神奈川県内の山道などは、せいぜい一間程度の幅(何故か一割増で六尺六寸らしい。)で特徴としては、舌状大地の先端から一気に尾根へ昇り、尾根伝いに深さ三尺位の堀道にしていたらしい。何故尾根伝いかと云うと川を渡る機会が少ないからだと思われます。

道の発達を私なりに考えて見ると、「尾根道」はどんなに雨が降っても通行不能になることはなく、古く鎌倉時代以前の道と考えられます。里山と田の境の「里山裾の道」は通常の雨では通行は可能ですが、ちょっと大水が出ると通行不能になってしまうので室町頃から物資の流通が盛んになり街道の役目を果たし始めたと思われます。谷の底を通る広い「谷底道」は治水や河川や下水道が改修され車が走りやすい平らな道なのでつい最近の道だと思われます。

何故堀道にしたかと云うと、山賊などに襲われた時に堀残しの土居が楯の役目をするばかりでなく、早馬を走らせた場合に三尺の深さの堀道ならば、体高四尺八寸(八騎約144cm位)の馬なら道を踏み外すことがないはずです。それと鎌倉道はY字の交差点はなく、必ずT字路に造っています。これもY字だとYの先へ向かう馬同士が衝突する恐れがありますが、T字路だと突き当たる側の馬がたった6尺先に背丈ほどもある萱や雑木の藪があるので自然に速度を緩め一時停止をするからです。やむを得ずY字にぶつかる所では、その手前で道を曲げてT字路に造っています。現在でも時々Y字路の手前にT字路もあり、三角の無用地が面影を残しているのは、後年、鎌倉期のT字路で曲らず近回りのため真っ直ぐ通ってしまったからでしょう。又、十字路では必ず鎌倉道の方を食い違いにして、やはり馬同士の衝突を避けていたようです。

教科書としては(株)さきたま出版会発行「芳賀善次郎著「旧鎌倉街道 探索の旅」上道編 中道編 下道編 山道編 を手本とさせて戴きました。芳賀先生がきっと地元の人との交流を通して集められたであろう「小字名」等には感謝しております。また、旧道を決めるのに「明治15年測量同20年出版参謀本部陸軍部測量局の地図」と又(財)日本地図センター発行の同フランス式がとても役立ちました。この地図の使用承認に際しては、国土地理院総務課管理係職員の方には一方ならぬ手間をおかけしてしまい、ここで改めて御礼申し上げます。では、少しづつ鎌倉古道を鎌倉へ向かって歩いてみましょう。

このホームページで使用している地図は、

「国土地理院長の承認を得て、二万分の一迅速側図復刻版を複製したものである。」

(承認番号 平13総測、第8号)

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