歴散加藤塾 第五回 鎌倉史跡廻り

名越切通と比企一族旧跡   平成七年十月八日 資料作成及び引率説明 加藤正昭

     目  次

はじめに 一 駅前からバスに乗る 二 華の橋 三 宅間谷 四 巡礼道 五 パノラマ台 六 鎌倉城 東 城壁

七 名越の大切岸 八 法性寺 九 名越の切り通し 十 曼陀羅堂跡 十一 日蓮の乞い水 ・・・・・一  十二 銚子の井戸

十三 安国論寺 十四 妙法寺 十五 安養院 十六 別願寺 十七 大町大路 十八 八雲神社 十九 ぼたもち寺

二十 比企ケ谷 二十一 妙本寺 二十二 夷堂橋 二十三 本覚寺

鎌倉の史跡めぐり はじめに

 鎌倉は、歴史の町です。色々と歩いてみると其処此処に皆歴史を持っています。

 何処の町でも、歴史の無い町は有りませんが、今から八百年も前の日本で初めての武家政権の町だけに、関東の武士の歴史が詰まっています。そんな歴史の町を分かり易く辿ってみましょう。

 では、今回はJR鎌倉駅からバスで「報国寺」前に出て、宅間ケ谷の途中から、巡礼道に入り、鎌倉ハイランド公園、自然の森公園を通り、鎌倉城外郭の名越の城壁道を日蓮法難の「法性寺」で大切岸を見ながら昼にしましょう。

 午後からは、「名越の切り通し」やぐらの集合体「曼陀羅堂跡」を見学し、大町に下ります。

 鎌倉五名水のひとつ「日蓮の乞水」、鎌倉十井の「銚子の井戸」から安国論寺前、妙法寺前、安養院から八雲神社前、ぼたもち寺前を通り妙本寺・本覚寺を見学し、鎌倉駅前へ戻ります。

それぞれの場所に謂れや伝説が有ります。少しでも知ると、もっと楽しく歩けます。

一 駅前からバスに乗る

 まず、JR鎌倉駅を東口に降りましょう。改札を出たら左右にバス停ポールが六っつ立っていますので、右の手前から二つ目から出ている「金沢八景」行、「太刀洗」行、「鎌倉霊園」行が交互に十分毎に出ていますので、どれでも来たバスに乗り、十分程で「浄明寺」バス停で降りましょう。

二 華の橋

 バス停から金沢街道を渡り、向かいのバス停脇の橋を渡りましょう。橋の名は「華の橋」と云い、明治頃に皇族の華頂宮の邸があったので呼ばれます。橋を渡って先へ行くと「報国寺」前に出ます。

三 宅間谷

 そのまま寺の脇を谷の奥に向いますが、この谷を宅間谷と呼びます。絵師下総権守藤原爲久(号宅間)が住んでいたので、そう呼ばれます。

四 巡礼道

 若干谷奥へ行くと左側の住宅の間に路次があり、小さな「巡礼道」の札がありますので、見逃さないよう気を付けて路次へ入りましょう。

 路次を突き当たったら左へ道也に昇って行きましょう。登り切ると左側に広場があり、石の壁にお地蔵様が掘ってありますが、良く見ると台座が少し前へ出すぎています。想像するに、以前台座にあった石仏がなくなり、後に石壁に石仏を彫ったものと思われます。

 元の道に戻り、道也に先へ行きましょう。

 この森の中の道は結構森が深く感じて森林浴でもしているような感じがします。道の所々に四角いコンクリの水盤があります。一体なんでしょう。実は自然保護団体がこの谷は水がないので、小鳥の為に水飲み場を設置したんです。森を抜けると広い分譲住宅に出ますので、右の植込の中の道へ入りましょう。

 道也に歩くと大きな整備された公園に出ますので疲れたら一服しましょう。

 そのまま、左方向に歩くと右下の大町が見下ろせる場所を通ると、又公園に出ます。

 公園を抜けると舗装した道に出ますので、右へ行き坂を登り始める所に、右へ入る散歩道へ曲がります。

 忘れ去られたような、自然道が続き左右には湿地帯のような雰囲気を醸し出しています。

五 パノラマ台

 先の分岐点では右へパノラマ台の道標がありますので、昇って見ましょう。

 頂上からは、大町を主体に鎌倉の町が一望に出来ます。

六 鎌倉城 東 城壁

 景色を堪能したら、先程の分岐点へ戻り先へ行きましょう。森の中の道を歩くと左右共に切り落としてあるのが分かるでしょうか。実はこの尾根道は、鎌倉城 東側の城壁を構成している訳です。

 歩いている足元に気を付けてみると、砂岩で出来ている場所等では、通り道が岩を削ってあることに気が付くでしょうか。天園ハイキングコースと同じです。これによって、この尾根が人工的に整備されたことが分かります。しばらく歩くと左側の崖下に畑が見え始めます。この下の畑一帯はお猿畑と呼ばれます。

 その先でブロック塀に突き当たる寸前の右側に不思議な形をした廟様が二つあります。古い宗教的なものと思われますが、詳しいことは解っていません。

 ブロック塀に添って左右に道が通っていますが、左へ下って行きましょう。階段状に削られていることに注意しながら下り終えると墓場に出ます。ここは法性寺裏手に当たります。

七 名越の大切岸

 墓の間に広場がありますので、左へ入って行くと先程の東城壁が見えます。その手前に地層が剥出しになった崖が続いています。まるで太古の潮の痕のようですが、実はこれは北條氏の泰時が三浦一族を警戒して作られたと思われています。

 何段にも數b毎の階段状に積み上げられ、さながら後の時代の城郭を思わせます。

 鎌倉は三方を山で囲まれ、一方は海に面しているので、要害の地と云うことで頼朝は鎌倉を選んだと云われます。頼朝の頃は兎も角、後には三方の尾根の両側を削り落とし、上部を凹状に削って、万里長城のような兵隊の通り道を付け、城壁としたようです。それらが、今では東が今日通って来た道、北側が天園ハイキングコース、西側が北鎌倉の浄智寺から大仏へのハイキングコースとなっています。

八 法性寺

 猿畠山法性寺と云います。コンクリ道に添って、左にやぐらを見ながら先の広場へ出て、左を向くと正面に祖師堂が、左に小さな山が山王社、その下に洞窟が、右に小型の日朗の廟があります。

 この寺は、日蓮が小町大路で辻説法を行なっていたころ、松葉ケ谷に庵を結んでおりましたが、余りに他の宗教を非難するので、怒った念仏衆が日蓮の庵を襲撃したときに、裏山に難を逃れた日蓮を二匹の白い猿が手を引き避難させ、ここの洞窟に匿って食物等を持って来たと云います。

 その事を日蓮が晩年になって、弟子の日朗にこの思い出を語り、ここに一寺を建立するよう頼みました。

 しかし、日朗は生前にこれを果たせず、日蓮同様池上本門寺で死ぬときに、その弟子の朗慶に松葉ケ谷で荼毘に付し、お猿畠の地に寺を建てここに葬るよう遺言したと云われ、朗慶はこれに従ったとのことです。

 先程下ってきたブロック塀脇の道を戻ると、先程の三叉路の右に石塔がありますので、真直ぐに進みます。

 山道風や薮道風の道を通り過ぎると一寸した広場に出ます。左右に無縁塚等があり、その先に狭い道が左

右に通っています。これが名越の旧道でして、又 旧東海道とも云われます。

九 名越の切り通し

 よく見るとこちら側と同じように道の向かいの崖の上にも広場があります。これはこの道を警戒する守備隊の溜り場で平場と思われます。又、道の中央には大きな石があります。なんと邪魔なことでしょう。退ければ良いのにと思われますが、実はこれが置き石と云って、馬が一頭しか通れないようにわざと置いてあるのです。この石で立ち止まった敵を、両側の平場から矢石を放って殲滅する訳です。

 ここから道を左へ辿るのが名越の切り通しです。途中切り開かれた所や、逆に小さな石を積み上げて作られている所や、又切り開かれた所を左へカーブすると、大きな岩が道に迫り出して狭くなっています。

 これは空洞といってわざと狭くして馬が一頭しか通れないようにしてあり、その手前の岩場には建物の柱跡と思われる穴が開いています。これはここに鳥居形の櫓を設け、櫓の下は通り道として、当然何時でも扉は閉められる用にして、二階には盾を構え弓矢を持った兵隊を備えておく訳です。狭められて一頭づつ通って来る敵を弓で射る訳です。

 道を戻ると右へ曲がって直ぐに、右へ登る道がありますので登って行くと入園管理棟があります。

十 曼陀羅堂跡

 ここは、曼陀羅堂跡地と云われ、沢山のやぐらがあります。まるでやぐらの見本市です。きっと鎌倉時代には曼陀羅堂があり、それを取り巻く墓場だったのでしょう。

 戦後、世界平和を祈願した方が整理し、紫陽花の名所となっています。

 先の置き石へ戻り道也に下ると大町の踏切に出ますので、踏切を渡ってすぐ右への路次の入り口左に石碑の立った井戸があります。

十一 日蓮の乞い水

 この路次が、旧道の続きです。文永八年の大旱魃の時、通り掛かった日蓮が付近の農民に水を求めたところ、水枯れで困っていると聞き、持っていた錫杖で突いたところ水が出てきたと云われますので、日蓮の乞い水と云います。

十二 銚子の井戸(石の井)

 旧道を先へ歩くと左側に「入沢」さんの表札の路次を左へ入ると、鎌倉十井の一つ、「銚子の井戸」があります。一枚岩を刳り貫いてあり、その形が柄長の銚子(酒を注いだ)に似ているのでこの名が付いたと云われます。「鎌倉志」には、長勝寺の境内に岩を切り抜いた井戸とあるので、昔は長勝寺境内はもっと広かったものと思われます。

 そのまま抜けると、バス通りに出ますので右へ歩道を辿ると、先程の旧道の続きを右に見て、先の踏切を渡り、交番の先を右に入ります。この細い道がバス通りの出来る前の旧道です。

 旧道を辿ると、安国論寺前に出ます。

十三 安国論寺(妙法山 日蓮宗)

 日蓮が、この境内にある洞窟の中で、立正安国論を執筆したと云われています。

 先の法性寺で書いた日朗はこの寺の境内で荼毘に付した後、法性寺に埋葬し、堂を建てたと云われます。

 旧道はこの寺の前から直角に曲がり左へ行ってますが、今回は真直ぐに行きます。途中右側に鎌倉の苔寺と云われる妙法寺の前を通ります。

十四 妙法寺(楞厳山 日蓮宗)

 はじめ日蓮を開山とする本国寺があったが、京都へ移った後、護良親王の遺児日叡が正平十二年(1357)に伽藍を再興し、幼名の楞厳丸と房号の妙法を取って付けたと云われます。境内の裏山には彼が祀った護良親王の墓と彼の母の墓とがあります。途中仁王門と法華堂間の階段の苔が美しいと云います。又、二階堂にある護良親王の墓も当寺が管理しているとのことです。

 先の日蓮の法難にあったのは、「長勝寺」「安国論寺」「妙法寺」の各々が自分の寺だと主張しているそうですが、日蓮は度々法難にあったえいるようなので、点々としていたかも分かりませんので、どれもあっているのかも知れません。

 妙法寺の前を通り過ぎると、T字路に突き当たったら、左へ少し行き右側に小さな駐車場がありその左隣に路次があるので、其処へ入って見ましょう。右に築地がありますが、この路次はまるで色々な石垣の見本市です。路次也に右へ曲がると安養院の前へ出ます。

十五 安養院(祗園山長楽寺 浄土宗)

 始め、北條政子が佐々目ケ谷(鎌倉文学館そば)に長楽寺を建立したのが、鎌倉時代末期に当地へ移って安養院と称したと云われます。本堂には政子の像があり、本堂裏手には政子の墓と云われる宝篋印塔と、開山の願行 房憲靜の墓と云われる重要文化財の宝篋印塔があります。又、坂東三十三観音の三番札所でもあります。また大町通り添いには、大むらさき躑躅の木がびっしりと植えられ花の季節には紫色の塀となります。   ベツガン

十六 別願寺(稲荷山超世院 時宗)

 躑躅の塀に添って大町大路を東に向かい少し歩くと、右側に普通の家のようで一寸分かり憎いのですが、墓が見えるので右へ上がると寺とは分からない程に小さな寺があります。これが別願寺です。

 寺へ入って左手の墓の右端に変わった形の石塔がありますが、宝塔といいます。室町時代の鎌倉公方四代足利持氏の墓という伝説がありますが、学術的にはもっと古い時代のものだとも謂われます。

 塔心に鳥居のある珍しいものですが、鳥居の足が三本にみえますが、真ん中のは足ではなく観音開きの扉が閉まっている処を表しているとのことです。

 もう一度大町大路を西へ少し行くと、最初の右へ入る路次を曲がります。

十七 大町大路

 大町大路は鎌倉時代から商店で賑わっていたようです。この辺りには子字で「米町」「魚町」等という地名が残っています。

十八 八雲神社

 北へ少し歩くと右側に鳥居があります。これは八雲神社です。

 この神社は、後三年の役に兄八幡太郎義家の陸奥の国での苦戦に対し、新羅三郎義光が朝廷へ官軍の派遣を願うのですが、当時朝廷の経済状態が良くなかったので、朝廷ではこれを清原一族の私闘と見做し、官軍の派遣を止めてしまいました。

 そこで、義光は弓を京都御所の廊下に投出し、奥州の兄の手助けに走った訳ですが、その途中に鎌倉へ立ち寄った処、流行病に苦しんでいる民の為に京都の八坂神社から勧請してここに祀ったと謂われます。

 そこで、この裏山を祇園山といいます。

十九 ぼたもち寺(恵雲山常栄寺 日蓮宗)

 鳥居へ戻り、右へ少し行くと、右手石段上に「ぼたもち寺」と書かれた常栄寺の門があります。

 この寺が、「ぼたもち寺」と呼ばれるのは、文永八年(1271)日蓮が佐渡流刑にされ江ノ島入り口の竜ノ口へ引かれて行くときに、この地に住んでいた桟敷の尼と申す女性が日蓮に帰依していて、せめてもと日蓮にぼたもちを捧げるのです。その後、佐渡流罪のはずの日蓮を竜ノ口で処刑しようとしたときに奇瑞によって救われたので、縁起が良かったと云ふ由緒があり、慶長十一年(1606)に建立されたとのことです。

 今でも九月十二日のお会式にはここ常栄寺から竜口寺の祖師像へぼたもちを届けています。

 その日には一般の参拝者にもお裾分けがあります。

 先へ進むと、道の真中に門があります。これは妙本寺の総門です。

二十 比企ケ谷

 総門を右へ入って行くと、先にうっそうとした森が続いています。この奥が妙本寺で、この谷一帯を比企ケ谷といいます。頼朝が伊豆配流時代に、乳母の比企の尼が四季折々に衣服や食物を養子の比企能員や女婿の安達盛長に届けさせていましたので、鎌倉入りの後はその恩に報いてこの広大な谷を比企一族に屋敷地として与えたのでこの名がつきました。比企能員は、頼朝に重くもちいられ、文治五年の奥州征伐には、北陸

道の大將軍に任命されております。

 この比企氏の屋敷では、政子が頼家を産んでおり、比企能員の妻は頼家の乳母になっており、また比企能員の女は頼家の側室となって、若狭局と呼ばれています。

 その頼朝が、正治元年(1199)正月十三日に、死にました。二代将軍は頼家となり、比企能員は将軍の姑となり、頼朝の時の時政と同じ立場になった訳です。頼家は祖父の時政に政治の権力をしめつけられ、姑の能員と接近し、ますます能員を重要扱いしていきます。こうなると政子・時政組と頼家・能員組の権力争いとなってきます。そんなときに頼家が病のため危篤におちいると、すかさず時政は政子とはかって、地頭職の相続を頼家の子一幡に関東二十八ケ国を、時政の女(政子の妹で頼朝の弟阿野全成の妻)が乳母をしている

千幡(後の実朝)に関西三十八ケ国を譲ることにしました。

 これを怒った能員が病床の頼家の所にいき、時政討滅を相談したが、これが政子に漏れ、すぐに時政の耳に入れました。そこで時政は、建仁三年九月二日、能員を「頼家の病回復を祈願して造っていた阿弥陀像(藥師のまちがい)ができたので仏事を行なう、政子も大江広元も参加するので、能員も参加して欲しい、ついでに今後の政局について話したい。」と呼ぶ訳です。すると能員は家族が危ぶむのも構わず、まさか時政討滅計画がばれてい

るとは知らないので、いかないとかえって怪しまれると数人の供を連れて名越の時政邸へ行くのです。

 ところが、屋敷の門をくぐったとたんに仁田忠常と天野遠景に押さえつけられ、首をはねられてしまいます。この時すでに北条時政は鎧兜に身を固めていたといわれます。そして、一緒に行った供も皆殺されてしまい、外で待ってた馬引が変事に気付きこのことを比企屋敷に報せに帰り、比企一族は防備を固めるのです。

が、その時すでに遅く小町から北条義時率いる北条軍と小山朝政・畠山重忠・和田義盛の軍勢に攻められ火をかけられ、比企一族は紅蓮の炎のなかに一族滅びてしまうのです。

 助かったのは、まだ赤ん坊で乳母に預けられていた、能員の末っ子能本と頼家の女で後の竹の御所躾子だけだったのです。

二十一 妙本寺(長興山 日蓮宗)

 この生き残った能本が、成人して京都で学者になり、比企大学三郎能本と名のり、順徳天皇に仕え承久の乱の際、天皇と共に佐渡へいき、その後、日蓮に帰依して日学と名のり、鎌倉にやってきて父母兄姉の霊を弔うため、日蓮に寺の建立を依頼したので、弟子の日朗が日蓮宗で初めての本格的寺として開山した。

 参道を歩いていくと鬱蒼とした森の中を歩いているようである。一番奥の石段を登る手前の左側に大きな杉の切り株がある。この切り株は、徳川家康の側室お万の方が日蓮宗に帰依して、寄進した杉が台風で倒れた跡といわれます。

 石段を登ると、持国天と増長天が守る二天門があり、正面に巨大な本堂があります。二天門・本堂ともに天保(1830)の再建です。二天門をくぐったすぐ右脇には、頼家の子一幡の焼けのこった袖が見つかったとい

う一幡の袖塚があり、その後側に比企一族の墓があり、その脇大銀杏のある高台が若狭局の墓といいます。

 また、本堂に向かって左の石段を登った左の墓の突き当たりに、生き残った竹の御所躾子の墓がある。

 躾子は、寛喜二年(1230)二十八歳で四代将軍頼経十三才と結婚させられ、三十二才のとき死産のため脳乱して死んだといわれますが、源氏の血筋を残したくない北条氏の臭いがします。

 もとに戻って総門を通り過ぎて先へ行くと通りに出ます。小町通りで、橋が夷堂橋です。

二十二 夷堂橋

 夷堂橋は、鎌倉十橋のひとつで、ここが小町と大町の境になります。鎌倉時代にはこの橋のたもとに夷堂があったのでこの名がついております。文永十一年(1274)日蓮が佐渡流刑を許されて鎌倉に帰ってきたときにこの夷堂に仮住まいしたので、後に日蓮ゆかりの地として、本覚寺を日出が建てたときに門内に移し、

明治の神仏分離令で今の蛭子神社の地に移され神社になってしまい、廃堂になってた訳ですが、近年立派に建て直されております。

二十三 本覚寺(妙厳山 日蓮宗)

 先に寺の仁王門があります。

 この寺は本覚寺といって、もとこの地にあった天台宗夷堂を、永享八年(1436)一乗日出が日蓮ゆかりの地に、関東公方足利持氏の支援を得て、日蓮宗に改めたのがおこりといわれます。本堂は大正十二年の再建で、本尊の釈迦三尊は南北朝期の作で、宋風のすぐれた作風をそなえています。本堂脇に分骨堂があり、第二世日朝が身延山から受けてきた日蓮の分骨を祀ってあり、「東身延」といわれ隆盛しましたので「日朝様」の

名でも知られ、ほかに木造の日蓮座像と日出・日朝上人像、夷神半跏像、鬼子母神像、二天立像があります。

 また、本堂右側渡り廊下の向こうに、名刀正宗で知られる岡崎正宗の墓があります。正宗は藤三郎行光の子に生まれたが、新藤五国光に学んだ後、諸国を歩いて修業し相州伝を完成しました。嘉暦(1326) 頃亡くなったといわれます。

 以前、鐘楼前 上総木更津八幡宮の鐘を日出が別当泉藏寺での法論に勝ち、従者石渡新左衛門に持ち帰らせたと伝えられる応永十七年(1410)銘の梵鐘がありましたが、現在は県立歴史博物館に展示されています。

 これで、本日の予定は終わります。後は本覚寺を裏口から出て鎌倉駅に向かいましょう。

 參向文献

 「新訂増補 国史大系 吾妻鏡」 編輯者 黒板勝美  発行 吉川弘文館

 「鎌倉の史跡めぐり」 著者 清水銀造  発行 丸井図書出版株式会社

            (時々 若宮大路 島森書店にある。)

 「かまくら子供風土記」 編集 鎌倉市教育研究会  発行 鎌倉市教育委員会

 「鎌倉辞典」 編集 白井永二  発行 鞄結椏ー出版

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