歴散加藤塾 第八回

     長谷大仏と長谷觀音   平成九年五月十八日 資料作成及び引率説明 加藤正昭

       目次

一 千葉一族屋敷跡  二 諏訪一族屋敷跡  三 高徳院  四 大仏  五 光則寺  六 長谷寺

七 御霊神社  八 甘縄神社  九 安達一族の屋敷跡  十 和田塚  十一 六地蔵(飢渇畑)  十二 裁許橋

 今回は、有名すぎて、つい行き忘れている「鎌倉の大仏」、大きいもの続きの「長谷観音」、日蓮ゆかりの「光則寺」、鎌倉一古いと云われる「甘縄神社」、悲劇の一族和田一族の墓と云われる「和田塚」、裁許橋等を廻りましょう。

 鎌倉駅の東口を出発すると横浜銀行の前から横須賀線の下を潜り、西口に参りましょう。

西口に出たら、駅前からまっすぐ西へ向うと信号に出ます。

一 千葉一族屋敷跡 信号を渡った正面の紀国屋は小字をチバチと云い、と千葉常胤一族が頼朝から賜った屋敷の跡と謂れます。

二 諏訪一族屋敷跡  左の鎌倉市役所にはかつて諏訪神社があり、その手前に参道の名殘りの古木が見えます。諏訪神社があったということは諏訪一族の屋敷地があったものと思われます。

 信号を真っすぐ渡った右側の歩道をそのまま西へ進みますと、右手に諏訪神社を見ながら隧道を抜けた先の

交差点を右へ入ると佐助稲荷や銭洗い弁天方面ですが、真っすぐ進みます。

 次の隧道を抜けた先の交差点を左へ曲がり、道也に南下すると右側に鎌倉大仏の土塀の脇へ出ます。

先へ進むと右側に入り口が有るので、拝観料を払って入りましょう。

三 高徳院

 大異山高徳院清浄泉寺と云い、もとは光明寺の奥の院とも云われますが、開山・開基共に不明。元浄泉寺の支院であったのが高徳院のみが残ったとも云われます。現在は真言宗です。

四 大仏

 奈良の大仏に比べて、鎌倉大仏と一般に謂れ、鎌倉で唯一の国宝の仏像です。

美男におはす 夏木立かな」で有名ですが、大仏の手を見ますと上品上相の印を組んでいますので、阿弥陀如来で有ることがわかります。

 この大仏の制作については、朝廷の正式な事業としての奈良の大仏に比べ、非常に資料に乏しく、不明な点が多いのも特徴で、ミステリアスな存在となっています。

 僅かに吾妻鏡に記述があるので、抜粋してみました。

 吾妻鏡暦仁元年(1238)三月二十三日の条に(嘉禎四年が十一月廿三日に改元している。)、

 今日。相摸國深澤里 大佛堂事始 也。僧淨光令レ勸-ニ進尊卑緇素|。企ニ此營作| 

 訳しますと「僧浄光が諸国の大勢の人に協力を求め、浄財を集めてこの制作を計ったと云うことです。

 そして、仁治二年(1241)三月二十七日の条には、

 廿七日乙夘。(略)又深澤大佛殿同有ニ上棟之儀| 

 この日に、建物の棟上式があったことがわかります。

 又、寛元元年(1243)六月十六日の条には、

 十六日辛酉。未刻小雨雷電。深澤村建-ニ立一宇精舎|。安ニ八丈餘阿弥陀像|。今日展ニ供養| 導師卿僧正良信。讃衆十人。勸進聖人淨光房。此六年之間。勸-ニ進都鄙。尊卑莫レ不ニ奉加|

 深沢村に寺を一つ建て、八丈余(八十尺、約24b立っている場合、ここのは座っているので約半分)の阿弥陀像を安置し、今日開眼供養を行なった。主たる坊主は良信で、共の坊主は十人だった。仏との結縁を呼び掛け浄財を集めて歩く坊主の浄光が、この六年の間、都会も鄙びた村も回って集めたので、偉い人も貧しい人も寄付しないものは無かった。

 と、記されています。建立式を始めてから、開眼供養まで丸五年、足掛け六年が係っています。

 しかし、この時の大仏は、東関紀行によると仁治三年(1242)八月には木造であったことがわかります。

 その後、建長四年(1252)八月十七日の条には、

 今日當ニ彼岸第七日|。深澤里奉レ鑄-ニ始金銅八丈釋迦如來像|

 と記され、初めて金の大仏、八丈の釈迦如来像が鋳始められた。

 とあり、それまでは木造の大仏であったことがわかり、東関紀行による木造が証明されます。

 但し、釈迦如来と有るので、別のものではとも想像されますが、今の処阿弥陀の間違いと思われています。

 実物を正面から見上げますと、全体のバランスが良く、端正な理知的なお顔に出来ており、晶子をして「美男におはす」と唸らせたことが良く感じられます。

 実は、実寸を調査すると、下半身に比べ上半身がかなりアンバランスに大きく作られています。

作者は、初めから出来上がりを下から見上げた場合の遠近感を計算して作成しているわけです。

 像の高さは十一b三十九a、像の横に繋ぎの線が見えますので、一度に作成したわけではなく、下から順に鋳足して行ったことがわかります。

鋳からくりと云って、下段の上縁を噛み加える方法や、下段の上縁に小孔をあけ鋳継ぐ、二方を併用すると云った方法が取られています。このお陰で奈良の大仏が鋳造後百年程で頭が脱落したことに比べ、鎌倉大仏は七百年以上もの間、目立った損傷もなく保たれています。

背中には窓が開いていますが、元型の土を抜いた後とも云われます。

美男の阿弥陀を堪能した後には、先程の入り口から外へ出ましょう。通りへ出たら、通りを南へ向って右側の歩道へ行き、そのまま右側を南下しましょう。

暫らく歩きますと、右側に「光則寺」の入り口が有るので入ってみましょう。

五 光則寺

行時山光則寺、日蓮宗。もと妙本寺末。開山は日朗。開基は執權北條時頼の側近宿屋光則。文永八年(1271)日蓮は竜の口法難の後、佐渡へ流罪になったとき、日朗等の門弟は捕らえられ光則に預けられ、彼等は寺の裏の岩牢に閉じこめられたと云われる。やがて日蓮に帰依した光則が、父の名を山号にし、己れの名を寺号にしたと寺伝に云われますが、詳しい寺史は不明です。本堂前の海棠の巨木と境内奥の日朗土牢が有名です。

光則寺を出たら先程の広い道を更に南下すると長谷の交差点に出ます。

直進だと江の電長谷駅、左は大町大路で下馬へ出ますが、右へ曲がると修学旅行生向けのお土産屋が左右に並びます。突き当たりに長谷寺が有りますので、拝観料を払って入りましょう。

六 長谷寺

海光山慈照院長谷寺。真言宗。天平八年(736)の創建と寺伝では云われるが、大和の長谷寺に習ったものと思われます。梵鐘に文永元年(1264)七月十五日の銘があるので鎌倉時代末期には成立していたものと思われます。

本尊は重要文化財の九b十八aの十一面観音の巨像です。

境内南西隅の潮音亭からの海の眺めが素晴らしいので、まず昼食にしましょう。

境内には、回転する経蔵、丈六の阿弥陀像、洞窟の弁財天等、見物が沢山有りますので、ゆっくり歩いて見ましょう。

長谷寺の門を出たら右へ 駐車場 添いに右へと歩き、道也に今度は左へ曲がると右に「うどんすきの久霧」があるので右脇の路次へ入って行きましょう。

突き当たると神社に出ます。

七 御霊神社

権五郎さんとも云い、祭神は鎌倉権五郎景政。景政は十六歳の時「後三年の役」鳥海の柵の合戰で敵の矢を左目に受けながら、怯まず敵を倒し、陣へ戻ってから怪我を告げ、三浦為継が矢を抜いてあげようと顔に足をかけたことを怒り、為継に謝らせたと云われます。

後に浪人を集め、藤沢から茅が崎にかけて開発し、伊勢神宮を領家にたて大庭の御厨を立庄しました。

子孫には、大庭氏、梶原氏、俣野氏、長尾氏、長江氏の庶家に分かれ鎌倉党として威を張ることになります。

権五郎神社を出たら、先程の長谷の交差点へ戻りましょう。

今度は、大町大路を下馬へ向って歩きましょう。

暫らく歩くと、左に消防署が有りますので、その脇を左へ入りましょう。

突き当たりに神社があります。

八 甘縄神社

甘縄神明神社、祭神は天照大御神等。縁起では、和銅三年(310)行基の草創と云われ、染屋時忠が山上に神明社、山下に寺を建て、後頼義が相模守となって下向して、平直方の娘婿となりこの社に祈り八幡太郎義家をこの地でんだと伝えられます。

神社を出たら左側に秋田城介屋敷跡の石碑があります。

九 安達一族の屋敷跡

この石碑の裏側一帯に安達一族の屋敷があったと云われます。

初代の安達藤九郎盛長は、頼朝が伊豆の蛭ケ小島に流罪になっている頃から仕え、頼朝が政権を取ってからは、必ず正月の行き初めにはこの甘縄神社へ詣り、そのついでに安達一族の屋敷に寄ったと伝えられます。

二代目安達景盛は、頼家と妾のことで上意打ちになりかけた処を政子に救われるなど有りましたが、時頼の時代に出家して高野山に居乍ら、わざわざ降りてきて三代目義景と孫の泰盛を叱咤激励して三浦氏の討伐させてしまいます。

四代目の安達泰盛は、元寇の役の際に恩賞奉行をしていたことが「蒙古襲来絵詞」のなかで武崎季長に馬を送る場面でわかります。

御家人制を復興しようとした安達泰盛と、北條氏の得宗の身内人の勢力を伸ばそうとする平頼綱と対立し、泰盛の嫡男宗景が曾祖父景盛が頼朝のご落胤だと源氏を名乗ったのを謀反人扱いされ、平頼綱に襲われ滅びてしまいます。これを霜月騒動と云います。

近年、御成小学校で発掘された武家屋敷跡を安達泰盛の屋敷跡だとする意見もあります。

左の路次へ入ってみましょう。この辺り一帯が屋敷の跡かと思うと不思議な感じがします。

先へ路次を抜けるとちょっと広いところへ出ますが、左の突き当たりが鎌倉文学館へいけます。

今日は右へ歩き大町大路へ出たら渡って、左斜めへの道を真っすぐに行ってみましょう。

江の電「油比ケ浜駅」の脇を通り、暫らく進むと右に広い道を見た先で十字路になりますので、左へ曲がって行きましょう。

やがて左側に「工芸指導所鎌倉支所」の建物が有り、右側に一段高い所に石碑がある広場があります。

十 和田塚

明治二十五年の道路工事に際し、埴輪片と共に沢山の人骨や馬骨が出たので、和田の乱で全滅した和田一族のものと思われて、和田一族戦没の地として、石碑などが建てられ「和田塚」と名付けられました。

和田の乱というのは、三浦氏の統領「三浦義明」の長男「杉本太郎義宗」の長男で「和田小太郎義盛」が三浦一族から独立し和田と名乗り、鎌倉幕府の初代 別当に任ぜられておりました。

朴訥で典型的な戦闘武者の和田義盛は頼朝の覚えも目出度く、相模の 山内庄や 六浦庄その他を支配しており、又、三代将軍 実朝からは爺と慕われていたものと推定され、時の権力 闘争では北條義時にとっては目の上のたんこぶ的存在でした。  

時に建保元年(1213)二月十六日

義時は和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長とが謀叛に加担しているとして、捕らえます。

三月八日上総国から義盛は急いで参上して実朝に談判し、父の数度の勲功に免じて息子二人は許されます。

しかし、甥の胤長が許されないので、翌九日一族九十八人を率ゐて御所の南庭に並び座って、胤長の免除を求めますが、胤長は今度の謀叛の張本として許さないことを義時が伝え、胤長を後手に縛って曳かれていきました。

その後、十七日に胤長は陸奥国岩瀬郡へ流罪となります。

この時に、胤長の六才の娘の病が重く頻りに父に逢いたがるので、義盛の孫朝盛が似てると云うことで、胤長ふりをして、父が帰ったぞと訪れると、娘は少し頭をもたげて一瞬これを見た後目を閉じてしまったという悲しい話が吾妻鏡の二十一日の条にのっています。

その屋敷地を一旦は義盛に下賜されておりますが、これを義時が無理遣り取り上げてしまい、義盛の面目を失わせてしまったので、とうとう義盛は怒りが納まらず乱を起こしたと吾妻鏡は記しておりますが、内容の所々に矛盾が多く、特に大きな味方の横山時兼等相模の味方が翌日到着しているので、最近では仕掛けたのはどうも義時の方ではと推測されはじめております。乱の勃発は五月二日、横山等は五月三日に到着。

和田塚から先程の道をそのまま北上すると、江の電「和田塚駅」の脇を通り、大町大路とぶつかると、正面に六地蔵があります。

十一 六地蔵(飢渇畑)

この六地蔵から北上する道の東側一帯が鎌倉時代は刑場跡だったと云われ、これを弔うために地蔵を祀ったと云われます。

北上する道はここから寿福寺までが今小路と呼ばれ、和田の乱で和田方の 土屋大學助義清 が甘縄から亀谷に入り、窟堂前を通り、赤橋で流れ矢に死にますので、この道を北上し、寿福寺先の武藏大路の日和見武士を牽制し、右へ曲って八幡宮へ向ったと思われますことと、名前の今小路から鎌倉時代に整備されたと思われます。

十二 裁許橋

しばらく北上すると小さな橋を渡ります。裁許橋と云い、この先に門注所跡があり、ここで裁判で許されたものが通ると云うことで、裁許橋と呼ばれ下の川は佐助川です。

なお北上すると右側に門注所跡の石碑があり、其の先の左に御成小学校、そして鎌倉市役所に出ますので、右へ曲り鎌倉駅で解散としましょう。お疲れ様。  

参考文献

  鎌倉史跡事典   奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

  鎌倉事典     白井永二編 東京堂出版  平成三年十二月二十五日発刊

  鎌倉の史跡めぐり 清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

  日本の美術十一  

  鎌倉地方の仏像  田中義恭

  

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