歴散加藤塾第十八回長谷へ大仏と観音を見に行く

平成十三年五月十三日

目次 

一 千葉一族屋敷跡  二 諏訪一族屋敷跡  三 高徳院   四 大仏       五 光則寺  

六 長谷寺      七 御霊神社     八 甘縄神社  九 安達一族屋敷跡  十 和田塚

十一 六地蔵(飢渇畑)十二 裁許橋     参考文献

今回は、有名すぎてつい行き忘れている「鎌倉の大仏」、大きいもの続きの「長谷観音」、日蓮所縁の「光則寺」、今をときめく時宗の産湯の井戸のある「甘縄神社」、悲劇の和田一族の墓と名づけられた「和田塚」を廻りましょう。

鎌倉駅の東口を出発すると横浜銀行の前から横須賀線の下を潜り、西口に行きましょう。西口へ出たらまっすぐ西へ向かうと信号に出ます。

一 千葉一族の屋敷跡信号を渡った正面の紀伊国屋の地は、小字をチバチといい、千葉常胤一族が頼朝に賜った屋敷の跡と謂われます。鎌倉初期には、鎌倉の屋敷から国許へ行くときは、必ず八幡宮か幕府の前を通る位置に屋敷地を配置されたようです。

二 諏訪一族の屋敷跡左の鎌倉市役所にはかつて諏訪神社があり、その手前に名残の古木が見えます。諏訪神社があったということは、諏訪一族の屋敷地があったものと思われます。

信号を真っ直ぐ渡った道路右側の歩道をそのまま西へ進みますと、右手に諏訪神社を見ながら隨道を抜けた先の信号を右へ入ると佐助稲荷や銭洗い弁天方面ですが、今回は真っ直ぐ進みます。次の隨道を抜けた先の交差点を左に曲がり、道沿いに右へカーブして、もう一度左へカーブすると右側の路地の向こうに賑やかな通りがあるので、そちらに行きましょうバス通りに出たら、右に高徳院の入り口があるので拝観料を支払って入りましょう。

三 高徳院大異山高徳院清浄光寺といい、もとは光明寺の奥の院ともいわれますが、開山、開基共に不明。元浄泉寺の支院であったのが、高徳院のみ残ったともいわれます。現在では真言宗です。

四 大仏奈良の大仏に比べて鎌倉大仏と呼ばれ、鎌倉で仏像では唯一の国宝です。与謝野晶子の「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」で有名ですが、大仏の手を見ますと上品上相の印を組んでいますので、阿弥陀如来であることがわかります。この大仏の製作については、朝廷の正式な事業としての奈良の大仏に比べ、非常に資料に乏しく、不明な点が多いのも特徴で、ミステリアスな存在です。わずかに吾妻鏡に記述があるので抜粋してみました。

●暦仁元年(一二三八)三月二十三日条(嘉禎四年を十一月二十三日に改元)今日、相模国深沢里大仏堂事始也。僧浄光尊卑の緇素に勧進令め、此営作を企てると云々。

訳しますと、僧の浄光が諸国の大勢の人に協力を求め、浄財を集めてこの製作を計ったということです。

●仁治二年(一二四一)三月二十七日条(別項に付き略)又深沢の大仏殿同じく上棟之儀有りと云々

この日に大仏の建物の棟上式があったことがわかります。当初は、奈良と同じく大仏殿の中に入っていたことが、礎石以外でも確認できます。

●寛元元年(一二四三)六月十六日条未刻小雨雷電、深沢村に一宇の精舎を建立し、八丈余の阿弥陀像を安んず。今日供養を展ず。導師は卿の僧正良信、讃衆十人、勧進聖人浄光房、此六年之間、都鄙を勧進す。尊卑奉加不は莫し。

深沢村に寺を一つ建て八丈余(八十尺、約二十四bで立ってる姿をいうのでここのは座っているので約半分である。)の阿弥陀像を安置し、今日開眼供養を行った。主たる坊さんは良信で共は十人だった。仏との結縁を呼び掛け浄財を集めて歩く坊さんの浄光がこの六年の間都会も鄙びた村も廻って集めたので、偉い人も貧しい人も寄付しないものはなかった。

と記されていますので、建立式を始めてから開眼供養まで丸五年、足掛け六年が係っています。しかし、この時は「東関紀行」によると仁治三年(一二四二)八月には木造であったことが記されています。但し、同書には「釈迦如来」とあり、別物かと思われますが、今の所阿弥陀の間違いだとされています。

実物を正面から見上げますと、全体のバランスがよく、端正なお顔に仕上がっており、晶子をして「美男におはす」と唸らせたことが感じられます。しかし、実寸を調査すると下半身に比べ上半身がかなり大きく造られています。作者は、初めから出来上がりを下から見上げた場合の遠近感を計算して作成している訳です。

像の高さは十一b三十九a、像に横継ぎの線が見え、一度に鋳造した訳ではなく、何回かに分けて下から順に鋳継いでいった訳です。継ぎの処には、「いからくり」といって、次の図一の胴体の継ぎに下段の上縁を噛み加える方法や、図二は立ち上がり部分の下段の縁に小穴を穿ち鋳継ぐ方法、図三は肩等に二方法を併用するといった方法を用いています。

               図一                 図二              図三

                                                        

           大仏の後の窓                   大仏の造り方

                                            

(図は、有隣堂発行、清水眞澄著、鎌倉大仏ー東国文化の謎から抜粋)

このお陰で奈良の大仏が鋳造後百年程で頭が脱落したことに比べ、鎌倉大仏は七百年以上もの間、目立った損傷もなく保たれています。背中には窓が開いていますが、元形の土を抜いた跡ともいわれます。

美男の阿弥陀を堪能した後には、先ほどの入口から出たら、バス通りを南へ向って右側の歩道へ行き、そのまま南下しましょう。暫く歩くと右側に「光則寺」の入口があります。

五 光則寺行時山光則寺、日蓮宗、もと妙本寺末。開山は日朗。開基は執権北条時頼の側近宿屋光則。文永八年(一二七一)日蓮は竜の口法難の後、佐渡へ流罪になった時、日朗等の門弟は捕えられ光則に預けられました。彼等は寺の裏にある岩牢に閉じ込められたと謂われます。やがて日蓮に帰依した光則が、父の名を山号にし、己の名を寺号にしたと寺伝にいわれますが、詳しい寺史は不明です。本堂前の海棠の巨木が見事です。

光則寺を出たら先程の広い道を更に南下すると長谷の交差点に出ます。直進は、江ノ電長谷駅、左は大町大路で下馬へ出ますが、右へ曲りましょう。修学旅行向けのお土産屋さんが並んだ突き当りに長谷寺があります。

六 長谷寺海光山慈照院長谷寺。真言宗。天平八年(七三六)の創建と寺伝では、云っておりますが、大和の長谷寺に習ったものと思われます。梵鐘に文永元年(一二六四)七月十五日の銘があるので鎌倉時代末期には成立していたものと思われます。本尊は重要文化財の九b十八aの十一面観音の巨像です。境内南西角の潮音亭からの海の眺めが素晴らしいので、ここで昼食にしましょう。境内には、回転する経蔵、丈六の阿弥陀像、洞窟の弁財天等、見物が沢山ありますので、ゆっくり歩いてみましょう。

長谷寺を出たら右の駐車場添いに右へと歩き、道也に今度は左へと曲ると「うどんすきの久霧」の右の路地へ入りましょう。突き当たりに神社があります。

七 御霊神社権五郎さんともいい、祭神は鎌倉権五郎景政。景政十六歳「後三年の役」のおり、鳥海の柵の合戦で敵の矢を目に受けながら、怯まず敵を射倒し、陣へ戻ってから仲間に怪我を告げると、三浦為継が矢を抜いてあげようと顔に足をかけると、「戦において敵に倒されるのは武士の本望なれど、生きながらにして面に足を掛けられるは恥辱である。今からはそなたが敵じゃ。」と為継に切りかかり、為継に謝らせたといわれます。後に浪人を集め藤沢から茅ヶ崎にかけて開発し、伊勢神宮を領家にたて大庭の御厨を立庄しました。子孫に、大庭氏、梶原氏、俣野氏、長尾氏、長柄氏に分かれ鎌倉党として威を張ることになります。

権五郎神社を出たら、先程の長谷の交差点へ戻りましょう。今度は、大町大路を下馬へ向かって歩きましょう。暫く歩くと左に消防署があるので、その脇を左に入ると突き当たりに神社があります。

八 甘縄神社甘縄神明神社、祭神は天照大神等。縁起では、和銅三年(三一〇)行基の草創といわれ、染屋時忠が山上に神明社を、山下に寺を建てたとのこと。後に前九年の役の源頼義が相模守となって下向し、平直方の娘婿となりこの社に祈り八幡太郎義家をこの地で産んだと伝えられます。

満仲―頼信―頼義―義家―義親=為義―義朝―頼朝

神社を出たら左側に秋田城介屋敷跡の石碑があります。

九 安達一族の屋敷跡この石碑の裏側一帯に安達一族の屋敷があったといわれます。初代の藤九郎盛長は、頼朝が伊豆の蛭ケ小島に流罪になっている頃から仕え、頼朝が政権をとってからは、必ず正月の御行始めにはこの甘縄神社へ詣で、そのついでに安達の屋敷に寄ったと伝えられます。二代目景盛は、頼家と妾のことで上意討ちになりかけた処を政子に救われる等ありましたが、時頼の時代に出家して高野山に居乍ら、わざわざ山を降りてきて、三代目の義景と孫の泰盛とを叱咤激励して、三浦一族を討伐させてしまいます。

屋敷の様子は、国宝の竹崎季長蒙古襲来絵詞の中で、安達泰盛が季長に馬を与える場面でわかります。

御家人制を復興しようとした安達泰盛と、北條得宗家の身内人の勢力を伸ばそうとする平頼綱と対立します。しかし、泰盛の嫡男宗景が曽祖父景盛は頼朝の御落胤だから源氏を名乗り、それを謀反人扱いされ、平頼綱に襲われ滅ぼされてしまいます。これを霜月騒動といい、御家人の多くが連座の罪を着せられ滅ぼされてしまいます。

すぐ左の路地へ入ってみましょう。この辺り一帯が屋敷の跡かと思うと不思議な感じがします。先へ路地を抜けるとちょっと広いところへ出ますが、左の突き当たりが鎌倉文学館です。今日は右へ歩き大町大路へ出たら通りを渡り左斜めの道へ行ってみましょう。江ノ電「由比ヶ浜駅」の脇をとおり、暫く進むと右に広い道を見た先で十字路になりますので、左へ曲ってゆきましょう。やがて右側に一段高いところに石碑があります。

十 和田塚古くは無常堂塚と呼ばれていた高塚式古墳であったが、明治二十五年の道路工事の際、埴輪片と共に沢山の人骨や馬骨が出たので、発掘した学者が和田一族のものと思い込んで、和田一族戦没の地として、石碑などが建てられてしまいました。和田の乱というのは、三浦氏の統領「三浦大介義明」の長男「杉本太郎義宗」のまた長男で「和田小太郎義盛」が三浦一族から独立し和田と名乗り、鎌倉幕府の初代侍所別当に任ぜられております。朴訥で典型的な戦闘武者の和田義盛は頼朝の覚えも目出度く、相模の山内庄や武蔵の六浦庄その他を支配しており、又、三代将軍実朝からは爺と慕われていたものと推定され、時に権力闘争中の北条義時にとっては目の上のたんこぶ的存在でした。時に建保元年(一二一三)二月十六日 北条義時は、、和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長とが謀反に荷担しているとして捕えられます。三月八日上総国から義盛は急いで参上して実朝に談判し、父の数度の勳功に免じて息子二人は許されます。

しかし、甥の胤長だけは許されないので、翌九日義盛は一族九十八人を率いて御所の南庭に並び座って、胤長の免除を求めますが、胤長はこの度の謀反の張本人として許さないことを義時が伝え、胤長を後手に縛って曳かれていきました。その後、十七日には胤長は陸奥国岩瀬郡へ流罪となります。

この時に、胤長の六歳の娘の病が重く頻りに父に逢いたがるので、義盛の孫の朝盛が似てるということで、胤長のふりをして、父が帰ったぞと訪れると、娘は少し頭をもたげ一瞬確認した後、目を閉じてしまったという、悲しい話が吾妻鏡の二十一日条にのっています。

その屋敷地を一旦は義盛に下賜されておりますが、これを義時が無理矢理取り上げてしまい、義盛の面目を失わせてしまったので、とうとう義盛は怒りが納まらず乱を起こしたと吾妻鏡は記しております。

しかし、内容の処々に矛盾が多く、特に大きな味方の横山時兼等相模の味方が翌日到着していることから察してみると、仕掛けたのはどうも義時の方ではとも、推測されます。乱の勃発は五月二日、横山党の到着が五月三日でした。

和田塚から前の道を北上すると、江ノ電「和田塚駅」の脇をとおり、大町大路とぶつかると正面にお地蔵様があります。

十一 六地蔵この六地蔵から北上する道の東側一帯が鎌倉時代は刑場だったのでこれを弔うために地蔵を祀りました。北上する道はここから寿福寺までが今小路と呼ばれ、和田乱で和田方の土屋大学助義Cが甘縄からここで北へ向かい寿福寺先の武蔵大路にいる日和見武士を牽制し、右へ曲って窟堂前を東に向かい、八幡宮前の赤橋で宮側から飛んできた矢にあたり死にます。名前の今小路から察するに鎌倉時代に新たに整備されたものと思われます。

十二 裁許橋暫く北へ歩くと小さな橋を渡ります。裁許橋といい、この先に問注所跡がありここの裁判で許された者がホッとしてとおるということで、裁許橋と呼ばれ下の川は佐助川です。やがて、右に問注所跡の石碑があります。その先左に御成小学校、鎌倉市役所があり、その先の交差点は今朝とおった交差点ですので、右へ曲れば鎌倉駅です。

 参考文献

鎌倉大仏・清水眞澄・有隣新書  鎌倉地方の仏像・田中義恭編・至文堂  鎌倉史跡辞典・奥富敬之著・新人物往来社 鎌倉辞典・白井永二編・東京堂出版  鎌倉の史跡めぐり・清水銀造著・丸井図書出版

   

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