歴散加藤塾 第十九回

  名越の切通しを歩く

                                 平成十三年十月二十一日     

目次

一、華の橋   二、巡礼道   三、パノラマ台   四、鎌倉城の東城壁   五、法性寺   六、大切岸   七、名越の切通し

八、空洞   九、日蓮乞水   十、銚子の井戸   十一、安養院   十二、別願寺   十三、八雲神社   十四、妙本寺

今回は、鎌倉駅からバスに乘り浄明寺で下車し、華の橋を渡り、報国寺脇から巡礼道を歩き名越えの切通しへ行き、帰りは大町から妙本寺へ行きましょう。

鎌倉駅で東口へ出たらすぐ右前に見えるバス停から京浜急行バスで「金沢八景行き」「鎌倉霊園太刀洗(たちあらい)行き」「ハイランド行き」のどれでもいいから乗りましょう。実はこの3本のバスはほぼ十分おきに順に出ているのです。バスは八幡宮前・国大前・分かれ道・杉本観音・浄明寺と止まります。バスを降りたら一寸戻った信号で反対側に渡り橋を渡りましょう。

一、華の橋 橋を渡った先の谷が宅間谷(たくまがやつ)と云い、鎌倉時代に京下(きょうげ)の絵描きで勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の壁画を書いた宅間為久の屋敷があったことから名付けられその奥に華頂宮(かちょうのみや)の屋敷があったので「華の橋」と名がつきました。明治以後の話ですから、鎌倉時代の小説に「歌の橋」はいいのですが、「華の橋」が出てきたらそれはインチキです。橋を渡って先へ進むと右側に報国寺があります。竹の寺と呼ばれ竹林の中でいただくお茶は結構です。この道の突き当たりが華頂宮の屋敷後で数年前まで再建差し押さえの競売物件(けいばいぶっけん)の看板が掲げられて荒廃していましたが、この度貴重な洋風建築物として鎌倉市が買い上げ一般公開しています。

二、巡礼道 報国寺の先で左側の家の間に小さな路地があり、路地の入口に「巡礼道」の看板がありますので見逃さないように。路地は突き当たり左へ自然石の階段を上り、一気に尾根まで上がっていますので、無理をせずにのんびり上りましょう。上りきると道は右へ曲っていますが正面に小さな広場があります。広場の岩壁に仏様が彫刻されています。足元を見ると蓮華坐が前に出ていますので、前にはこの蓮華坐の上に像があったのでしょうが、それがなくなったので後の壁に像を彫刻したと思われます。先へ進みましょう。やがて大きな分譲地ハイランドへ出ますので、すぐ左の萩の繁った散歩道へ入りましょう。この散歩道はハイランドの開発協議による提供施設と思われますが、良い例になってます。途中に自然を生かした広場もあり、トイレも整備され、植林された木々も約十年立ちすっかり森を形成し始めています。森の中に水道の蛇口があり、横須賀水道のタンク点検用の舗装道路を右へ、そして左に大きく曲り坂を登り始める所で右へあぜ道様の散歩道がありますので入りましょう。

三、パノラマ台 五十b程で右への道があり「右パノラマ台」の標柱がありますので右へ行きパノラマ台へ上りましょう。ここからは、鎌倉や逗子が一望に眺めることが出来ます。運がよければ富士山さんも見えます。元の道へ戻り、車止めの先へ歩きましょう。

四、鎌倉城の東城壁 この尾根道の左右はかなり厳しい崖になっていますが、特に左の東側は殆ど絶壁です。何故でしょう。鎌倉は三方を山に囲まれ、南には海が広がり、要害堅固の地であるといわれます。その三方の山に手を加えられ尾根は木を切り払い、台形に削り中央を凹形に刳り貫き、人が通れるようにしました。それは万里の長城のミニ版です。又、各谷戸(やと)には有力御家人が屋敷地を配され、崖を削って絶壁にして塀代わりとし、その土で谷を埋めて平地をつくり屋敷を建てました。そのお陰で鎌倉を取り囲む山々は低い割には簡単に昇り降り出来なくなりました。それが鎌倉を守る言わば城壁となったのです。ここが東城壁、天園ハイキングコースが北の城壁、大仏ハイキングコースが西の城壁になります。先へ歩いて行くと左側が開けて崖の下に段々畑が見えます。やがて右側に不思議な形の祠があります。この祠については全く資料が無く解りません。道の正面にブロックの塀に当るので左へ下っていきましょう。自然石の階段は不規則で左右の段がずれていたりします。一説には普段なれている味方以外は踏み外すようにわざと造られているのだとも云います。墓場を通って先へ行くとお堂のある広場に出ますので昼食にしましょう。

五、法性寺(ほっしょうじ) 「昔、日蓮が他宗を排撃非難して念仏衆に松葉谷(まつばがやつ)の庵を襲撃されたとき、命からがら背後の尾根に逃げここまでやって来て、倒れそうになったところを白い猿が現れて、そこの洞窟に隠し食べ物を運んできて助けてくれた。」という話を弟子の日郎に話したそうです。日郎はそれを後に郎慶に話し、祖師の由緒ある場所なので一宇を建立したいと願ったが、生前に果たされず、松葉谷で荼毘にふし、その地に埋葬するよう弟子の郎慶に頼み、これを郎慶が果たし建立したのが「法性寺」です。大きなお堂は祖師堂(本堂は下に別にあります。)、小さなお堂は日郎の廟です。洞窟は日郎の墓とも、日蓮が隠れた洞窟とも言われます。鳥居から上がった岩の上は日枝神社で奥の院です。神仏混交の名残です。前来た道を戻ると墓場の右向うに段々畑が見えます。このあたりを「お猿畠」と呼ぶのは先ほどの日蓮の逸話からです。

六、大切岸(おおきりぎし) 畑に沿って風化による波模様のある崖が続きます。これは昔波で洗われた磯が隆起したものと思われていました。しかし現在では、北条泰時の時代に朝比奈の切通しや名越の切通しを整備したときに、三浦からの軍事侵攻を阻止するため、わざわざ切り落とした「大切岸」で約700bに渡っています。地形によって何段にも分けている所もありますが、いずれにせよ20kgもの鎧を付けてこの崖はとても上れるものではありません。そして孫の時頼の時代になってこの設備が有効に働いて鎌倉へ味方の軍が入れないうちに三浦氏を滅ぼしてしまうのです。先ほどの石段を登りブロック塀に沿って先へ進みましょう。左側にバラセンが続いて、右に無縁仏供養塔、左に動物霊供養塔がある小さな広場に出ます。広場の先に左右に細い山道が見えます。これが名越の切通し道です

七、名越(なごえ)の切通し 下を見ると道の真中に大きな石が彫り残されています。邪魔なのになんでどけなかったのか不思議ですね。これは馬が一頭でしかもユックリと通らなければならないようにわざと邪魔をしている「置石」という軍事施設なのです。そこで速度を落とし一頭づつ通る所をこちらの平場から矢石を放つのです。ですから向こう側にも平場があるのです。名越道を左へ行ってみましょう。途中左手に切通しの看板があるところは、道の縁がきちんとした石積みになっているのが分かるでしょうか。そして自然石の切通しを左へ曲ると正面に大きな岩がせり出して細い通路を作っているのに出会います。右への上り階段は古道が崩落の危険があるので、最近市役所が作った回り道です。

八、空洞(ほうとう) わざわざ岩をせり出してまで、通り憎くしかも馬一頭やっと通れそうにした「空洞」と云う、これも軍事施設です。おまけにその手前の右の岩を見ると平たく段に削り、柱を立てた穴まであります。ここに二階建てのやぐら門を建て、その上には兵士が弓矢を持って、三浦側から攻めて来る三浦軍を一頭づつ迎え打つためにを見張っています。これが、孫の時頼の代に役立って、三浦軍は安達北条の連合軍及び日和見の御家人等に攻められた時に三浦からの援軍が駆けつけることが出来ずに滅ぼされてしまいました。新設の回り道からグルッと回って鎌倉へ攻め入る三浦軍の気持ちを確かめましょう。ほら、切通しへ入ったとたん上には敵兵が大石や材木を投げてきます。まあ、そんなことを思いながら通って鎌倉時代の雰囲気を味わいましょう。前の道を戻ると右側に上がる階段があり、この上は曼荼羅堂跡遺跡群なのですが、今は管理者の方がおらず、逗子市が整備をすると看板が出ています。楽しみに待ちましょう。先ほどの置石の所まで戻り、そのまま下界へ向かって降りましょう。途中平らな所がありますが、周りを見ると崖の上に平場が見えます。峠を越えた軍勢が広場でホッと一息ついたとたんに崖の上から矢石が降ってくる訳です。さあ無事なうちに山を降りましょう。

下ると分譲地に出て左の踏切を渡るとそこは鎌倉古道三浦道です。直ぐ目の前に石碑があります。

九、日蓮乞水 比叡山で修行を積んだ後、そのあり方に疑問を感じ、故郷の千葉へ戻り清澄寺で朝日を見て法華経一筋を悟った日蓮は、舟で鎌倉に向かい、横須賀の米ケ浜に上陸しました。そこから衣笠へ出て池上、葉山の高祖坂、一色、森戸、鐙摺、逗子から名越を抜けて、ここまで辿り着いた日蓮が村人に水を乞うたのですが、ここらは「良い水が出ないので。」と断られます。そこで、日蓮が法華経を唱え、錫杖(しゃくじょう)で地面を突くときれいな水が湧き出たので、日蓮乞水と名付けられ鎌倉五名水の一つに数えられます。

十、銚子の井戸 先へ歩くといくつか目の左側の小さな鉄製の橋を渡り路地へ入りましょう。左側に立て札があり八角形のベーゴマを伏せたような蓋の銚子の井戸があります。鎌倉十井の一つです。蓋を取ると周りが八角形で内側が丸い井戸枠になっており、これが昔のお銚子、お雛様の三人官女の立ち雛が持っている酒を注ぐもの、に似ているところからこの名があります。バス通りに出たら右へ歩道を歩きましょう。左前方に赤い鳥居に似た入口は、日蓮宗の長勝寺です。石井長勝が自分の名をつけ建立したそうです。先程の銚子の井戸は長勝寺の境内なりという説もありますので、かつてはこの古道に沿った所まで境内だったのかも知れません。又同寺の本殿改修の際の発掘調査では、小さな掘っ立て小屋を何度にも渡って立て直した跡がみつかり、バザールのような市がたった後であろうと解釈されてます。踏切を渡り交番の先で右へ曲りましょう。これが古道でバスどおりは新道です。先へ進むと安国論寺の前へでます。日蓮がここの岩屋で立正安国論を執筆したと云われます。左斜めへの道が旧道ですが、妙法寺の石碑のある真っ直ぐの道を進むと右側に妙法寺入口あります。ここは日蓮の庵の跡地に護良親王の遺児の日学が父母の供養のため建立し、裏の尾根に父母の供養塔を建てております。また理智光寺跡の護良親王墓も管理しているそうです。先程の長勝寺と安国論寺、ここの妙法寺とが日蓮の松葉谷の庵はうちにあったのだと論争していますが、日蓮は念仏衆に狙われ追われていたので、点々としていたと推測されますので、恐らく三寺共にあっていると思われます。そのまま進むと、おもちゃの兵隊さんでも出てきそうな真新しいお家が並んでいます。ついこの間までここらは一寸古めのお屋敷の板塀が並んでいたところです。鎌倉も変貌を遂げ始めています。道は突き当たり左へこのあたりもどんどん変貌しています。やがて先の信号へでる手前に右側に路地があるので入りましょう。この路地は石垣の見本市です。安養院の門前に出ます。

十一、安養院 北条政子が頼朝の菩提を弔うため、笹目谷に建立した長楽寺が鎌倉末期にここにあった善導寺にやってきて、政子の法名をとって安養院に改めたといわれます。又、比企谷の田代寺から移された千手観音を田代観音といい、坂東三十三観音札所めぐりの第三番札所となっています。堂内には政子の像も安置されており、裏には重文の塔と共に政子の供養塔があります。道路に面したつつじの土手は四月末頃が見所です。

十二、別願寺 出たら右へ歩くとすぐ右側の金網に無縁仏の塔があるので入ると別願寺で左側に大きな宝塔があります。鎌倉公方四代足利持氏の供養という説があります。塔心の鳥居を良く見て下さい。足が三本に見えますが、真中のは、足ではなくて観音開きの扉が閉まっている重なりの部分を現しています。この世とあの世の境の扉を閉めているのでしょうか。

 

十三、八雲神社 先へ進んで「八雲神社」の看板から右へ曲り少し行くと右に八雲神社があります。後三年の役に兄八幡太郎義家の苦戦を聞いて、朝廷にその援助を願い出るのですが、財政が逼迫している朝廷では、これを清原一族の私闘として援助も褒章も出さないと決めます。そこで、やむを得ぬと新羅三郎義光は御所に弓を投げ出し(朝廷から給付された衛夫としての職を辞す)奥州の兄の元へ駆けつける途中で父祖の地である鎌倉に立ち寄った所、流行り病で村人が難儀をしているので、京の八坂神社から勧請してここに神社を建立してのが、現在の八雲神社と言われます。ですから裏山を祇園山と呼ぶのです。境内の宝蔵庫に江戸時代のお神輿が並んでおりますが、左端の神輿の天辺には鳳凰ではなく、別なものが飾られています。なんだか宛ててどうしてかを考えて下さい。神社を出ると参道が小町大路まで続いていることが確認できます。先へ歩くと、右に「ぼたもち寺」の常栄寺、その先に行くと道の真中に総門が構えます。

 

 

 

十四、妙本寺 頼朝の乳母は四人位いたようですが、その内一番頼朝が苦渋の配流時代に衣服や食物を届けんがために夫に官職を辞させて、配流先に近い武蔵の比企郡に隠居させてまで尽くした比企尼がおります。この善意に報はん為、政権を樹立した頼朝は、鎌倉中の一谷をそっくり屋敷地として与えたので、この谷を比企谷(ひきがやつ)と呼びます。あ、因みに鎌倉では何故か、谷と書いてガヤツと発音します。例えば紅葉谷と書いてモミジガヤツと呼びます。これが戸塚辺りではヤトと発音して戸の字を付けたりしています。この比企の屋敷へは頼朝も尼に呼ばれて瓜を食べに訪れています。

この尼の養子に甥の能員(ヨシカズ)がいて、政子が頼朝の嫡男頼家を出産するときは比企の屋敷に穢れ移住をしてここで産んでおります。その関係か能員の妻が頼家の乳母をしており、その娘は頼家の室になっています。(正妻ではないようです。)そんな訳で頼家は母の実家の北條氏よりも妻の実家の比企の家になついてきます。新将軍家の義父として権力を把握せんとする比企能員、外祖父として掌握せんとする時政との対立は深まるばかりでした。それがある日突然頼家が重病に陥り、明日をも知れない命となったので、時政は頼家が能員の娘に産ませた一幡に関東二十八箇所、又頼家の弟千幡(後の実朝)に関西三十三箇所の地頭職を分割する旨を能員に伝えます。実朝は時政の娘が乳母をしているので、この提案に怒った能員は密に病床の頼家を訪ね、北条氏討伐の相談をします。

これを政子が聞きつけ御所から帰宅途中の時政に手紙を書きます。帰路途中でこれを読んだ時政はそのまま大江廣元を尋ね、これを見せて比企氏を謀反人と決め込みます。その上で、将軍家の病回復のため薬師如来像を作らせ、尼御台政子や因幡守廣元も臨席して開眼供養をするので、出席してくれと通知します。能員の家族は罠かもしれないので、っと止めるのですが、心配いらないと兵具もつけずに時政邸につくといきなり新田四郎忠常と天野藤内遠景に両腕をつかまれ藪に伏せられて首を切り落とされてしまいました。これを屋敷の外で待っていた従者が事を感づいて急ぎここ比企谷へ知らせに帰ってきます。知らせを受けた比企一族が、直ちに戦仕度を始めたとたんに北条三浦を先頭に殆どの御家人が攻め寄せたので、奮戦空しく一族三百人が屋敷に火をつけ、その紅蓮の中で腹掻き切って死に絶えたと云われます。

本堂右側に一族を傷んで供養の塔が建てられており、一段上の銀杏の木の根元には比企の娘の若狭の局の墓があります。また手水そばの垣根の中には一幡の焼けた袖の切れ端が見つかったので、これの供養塔があります。寺は、赤ん坊だったので生き残った能員の子能本が日蓮に寄与して日蓮宗で初めて建てた本格的寺であります。

それでは、寺の前から真っ直ぐ西へ向かい、本覚寺を抜けて鎌倉駅へ向かいましょう。

  

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