鎌倉歴史散策の会 歴散加藤塾第二十回

銭洗弁天と大仏の切通しを歩く

平成十四年三月三日

               資料作成及び引率説明  @塾長

        目    次

一、千葉一族屋敷跡地    二、諏訪一族屋敷跡地   三、北條政村常磐邸跡地  四、北條義政常葉邸跡地

五、大仏の切通し       六、鎌倉城西城壁      七、古東海道         八、化粧坂入口

九、銭洗い弁天        十、梶原裏古道        十一、日野俊基墓       十二、葛原ケ岡神社

十三、大掘り切り       十四、天柱峰         十五、清涼寺ケ谷      十六、底抜けの井戸

十七、海蔵寺         十八、十六井戸        十九、岩船地蔵       参考図書

北條氏略系図

北條時政─義時┬泰時─時氏┬経時

          ├朝時     └頼時─時宗─貞時─高時─時行(得宗家)

          ├重時┬長時─義宗─久時─守時(赤橋)

          │   ├義政┬国時─俊時(塩田)

          │   └業時─時兼─基時─仲時

          ├政村(常磐)

          └実泰─実時─顕時─貞顕─貞将(金沢)

今回は、前回の名越えの切通しと共に、昔の面影の残っている「大仏(おさらぎ)の切通し、北條一族の名連署「北條政村」の常磐別邸(ときわのべってい)とその兄、重時(しげとき)の息子、塩田流北條義政の常葉邸(ときわてい)跡地、鎌倉城の西城壁と銭洗い弁天等を巡り歩きましょう。参考:連署は幕府の命令文に執権と共に署名する人

☆歩き・鎌倉駅東口を出発すると横浜銀行の前から横須賀線の下を潜り、西口に参りましょう。西口に出たら真っ直ぐ西へ向かうと信号に出ます。

一、千葉一族屋敷跡地 信号を渡った正面の紀伊国屋は小字はチバチと云い、千葉介常胤一族が頼朝から賜った屋敷の跡と謂われます。

二、諏訪一族屋敷跡地 左の鎌倉市役所の歩道に大きな古い楠があります。この道路は昭和も五十年代に開通したばかりですので、道路の並木にしては古すぎます。どうしてでしょう。実は市役所がここへ移転する前にここにあった諏訪神社の境内木なんです。市役所建設の際に神社は移転しましたが、樹木はそのまま残された訳です

☆歩き・そのまま西へ向かって進むと右に現在の諏訪神社を見ながら隨道を抜け一つ目の法務局前交差点は佐助谷(さすけがやつ)で右が佐助稲荷、銭洗い弁天の参道へ行きますが、真っ直ぐ進みましょう。

二つ目の隨道を抜けた交差点は長谷大谷戸で左へ行けば大仏に出ますが、今度も真っ直ぐです。三つ目の隨道を抜けるとそこの小字は一向堂、その少し先の右側の広場に説明板があります。

三、北條政村常磐(ときわ)別邸跡地 北條政村(大河ドラマ時宗では伊藤四郎)は、北條四郎義時の四男で母は伊賀氏の娘。北條四郎義時の死亡時に母とその兄が三浦義村と結託して総領の泰時を廃し、北條政村を執権につけ、その後見として乳母夫の義村を立てる姦計を企てました。しかし、政子が夜中に女房一人を連れ義村と直談判し、泰時を執権につけました。しかし、泰時は北條政村自身には何の企ても無いことを知り、家督(相続財産)も多く分け、その後政治にも重用しました。

この屋敷地の発掘では、硯(すずり)水差し、サイコロ等が発見され、四代将軍の頃に和歌の会を催した記事に符合しますので、一種の別荘のような存在だったのではないでしょうか。又、江戸時代に大瓶一杯の朱が見つかり、血と間違え百姓が気味悪がって川に流し捨てたという話もありますので、金一升朱一升と云われる位なので、その裕福さが偲ばれます。

この屋敷地から道路を隔てた崖の下あたりを腰巻という小字があります。一般に腰巻とは城等の周りに廻る掘りを控えた崖を云いますので、きっとあの上に守備隊がいたのかも知れません。

☆歩き・先へ歩きますが、北條政村の屋敷はこの右側一帯で有った可能性もあります。暫く歩くと右側に円久寺という日蓮宗の寺がありますので、その手前路地を右へ入りましょう。

四、塩田流北條義政亭跡地 奥へ入っていくと雑草に覆われた広場が段々に奥へ続いています。地形的に先程の北條政村亭跡地とよく似ています。ここが北條義時の三男重時(平幹次郎)の息子義政(渡辺徹)の常葉(ときわ)邸跡地です。彼は連署(れんしょ・執権と共に命令書にサインする人)の地位にありながら、突然出家を遂げ、知行地の塩田平に遁世(とんせい)してしまい、無断出家の咎(とが)でその所領を執権の時宗(和泉元也)に召し上げられてしまいます。想像ですが、得宗被官の身内人との政治的確執を恐れ、出家遁世したものと思われます。

得宗とは、二代目北條四郎義時の法名にちなんで北條家の嫡総(ちゃくそう・跡取)を代々そう呼んでいます。

身内人とは、本来は得宗家の家政を司る執事の事ですが、得宗の権力が強まる(得宗専制)に従い、その取次ぎ窓口として実権を掌握し始めてきました。特に平頼綱は時宗の絶大なる信頼を受けて、その子貞時の乳母をして後見として活躍するうちに、得宗すらないがしろにする程の実権を持って来てしまいました。

塩田平とは、信州(長野県)の真田幸村で有名な上田から別所温泉にかけての盆地を差します。鎌倉建長寺の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・中国僧で建長寺開山)は、「建長寺は鎌倉で、安楽寺は塩田でそれぞれ百人、五十人の僧が修行し、仏教の中心になっている。」と大覚禅師語録にあるそうなので、鎌倉との交流があった事が偲ばれます。国宝の八角三重塔は鎌倉末期頃と考えられておりますので、領主として塩田平に居館を構え、威を張っていたと思われますので、きっと義政と関わりがあるものと思われます。常楽寺の石造多宝塔や前山寺の未完の三重塔などもあり、今でも信州の鎌倉と呼ばれています。

☆歩き・寺の脇へ戻ったら横断歩道を渡って先の路地へ入り、脇を川が流れる道と出会ったらこれは古道ですので、右へ進んでバス通りへ出ます。

このバス通りは左が大仏へ、右は梶原・深沢を経て大船方面へ出ます。

バス通りで左へ曲ると「火の見下」のバス停があり、少し先の左への路地を入ります。路地は右折して直ぐ又左へ民家の一部みたいな路地を先へ進んで森の中へ入ります。

五、大仏の切通し 森の中の辿道に「史跡 大仏の切通し」の標柱があります。

叢の左上の広場前に「やぐら」が見え、右手には大きな岩を断ち切った様にポッカリと道がつけられています。ちょっときつめの坂を上り詰めたら振り返ってみましょう。ここから、上がってくる人に対し、弓矢を構えてみてください。ましてやここに櫓門を建てしっかりと門を閉じ、矢石を飛ばせば侵入者を防げます。新田義貞も切通しを破ることは出来ず稲村ガ崎の太刀投げとなる訳です。先へ歩くと所々に開けたところがありますが、平場と呼ぶ駐屯地と思われます。

☆歩き・道は途中で二手に分かれますが、真っ直ぐが本来の古道でしたが、大仏の隨道建設工事で崖が崩れ、通り抜けるのは危険なので、左手の住友住宅へ出ます。住宅を右へ道に沿って進むと小さな公園があります。公園の中へ入り森の中への階段を上りましょう。進むとハイキングコースにでます。この道は北鎌倉の浄智寺から葛原ケ岡を経て大仏へのハイキングコースです。左への階段を昇ってみましょう。

六、鎌倉城西城壁 実は、このハイキングコースは、三方を山に囲まれ、南に海を控える要害の地「鎌倉」を城に例えると中国の要塞都市のように都市を取り囲む西の城壁になるのです。かつては、尾根の木を取っ払い土を凸状に切り崩し、天辺を凹形に刳り貫き、通り道とし万里の長城の土で出来たミニ版にしたのです。又、山裾を削り落としその土で谷を埋めて屋敷地を広げていますので、尾根はよけい切り立ち城壁の役目を果たしているのです。気を付けて歩いていると凹状の名残がありますので注意して見てください。

☆歩き・暫く歩き人家が見えた所で右側が開け、海が見えますとホッとします。

七、古東海道 やがて葛原が岡五叉路に出ます。左から時計回りに左脇が梶原へくだり、次のやや左が公園内へ、真っ直ぐ舗装したのが化粧坂へ、右脇が銭洗いのトンネルへの道となります。やや右への殆ど真っ直ぐの道が旧東海道です。つい最近までは一間幅の切通し形の緩い階段作りの歩道でしたが、梶原へ車で抜ける為に大々的に広げて舗装してしまいました。便利は遺跡を破壊しています。公園内の車道から杭の並んだ先に化粧坂切通しの一部の尾根道が続きます。

八、化粧坂(けわいざか)切通し 左に地表は風化や雨水の為にデコボコになっており、稲妻形にジグザグに下っているのが化粧坂切通しの遺構です。この坂の上が鎌倉時代中期に商業地として許可されていますので、一説にお化粧を厚く塗った遊君がおられたので「化粧坂」と呼ばれるようになったとも云われます。他にも源平合戦で得た平家の公達の首を鎌倉入り前にここで化粧直しした。とか、険しいがなまったとの説もあります。場所的には先ほどの五叉路の所ですが、新田義貞はここを責めている最中に主だった武将の大館宗氏一族十一騎が極楽寺坂で砦を突破したつもりが罠に嵌り袋の鼠と取り込まれ討ち死にした報を聞きつけ、稲村ガ崎のほうへ回るのでやっぱり守備隊を破れずに終えております。今日は下らず先の広場へ出ると源氏山公園です。真中に頼朝さんが座ってますのでお昼にしましょう。

☆歩き・昼食が済んだら、先ほどの杭の並んだ場所に戻り、左の坂を下ると右に銭洗い弁天入口のトンネルがあります。

九、銭洗弁天(ぜにあらいべんてん) 洞窟を抜けると赤い鳥居が沢山並んでいます。弁天様のご利益で儲かった人がお礼に寄附したものです。広場に出ると右側に社殿や社務所、休憩所があり、左隣に洞窟があります。社殿は、宇賀福神を祀り、洞窟の中にはお目当ての霊水が湧いております。社殿前の線香立てでは、霊水で洗った札を熱心に線香の火であぶって乾かしています。湯気と共にご利益も飛んで行ってしまわなければよいのですが。

洞窟の中の霊水で銭を洗うと倍になって戻ってくるという謂れがあり、特に弁天様のお使いは蛇なので、巳の日には賑わいをみせます。ここは景気不景気に関わらず「欲に休み無し」で年中賑わっております。

ことの始まりは、頼朝が平家を倒し、いよいよ政権を開始するに際し、悩んでいると夢枕に老人が立ち「我は鎌倉隠れ里の泉が湧くところに住まう宇賀福神である。その霊水を汲んで祀れば世は静まるであろう。」と告げられたので、畠山重忠に捜させて祀ったといわれる。これは、水を大事にせよ、つまり米作りを大切にの意味であろうとも云われます。(まあ農本主義ですからね。)

その後、五代執権の時頼(大河の渡辺謙)が「福神の水にて銭を洗えば福銭になる。」と銭の普及を図ったのが(物々交換経済を銭本意経済にするため。)室町時代に宇賀福神と弁財天とが一緒くたになり、しかも福は復に通じるので「銭が戻ってくる」が希望が絡んで「倍になって戻ってくる」が最近急に「沢山になって戻ってくる」と解釈が広がって来ました。「●●は欲と得との二人連れ」ってとこでしょうか。

☆歩き・充分銭を洗い終わったら、来た方とは反対側の鳥居を南へ抜けましょう。これが本来の参道です。鳥居を抜けて景色が広がったところで右への細い山道がありますので、そちらへ上りましょう。道は弁天洞窟の上を通り、来た時のトンネルの坂の上へ出ます。トンネルが出来る前の裏参道です。先ほどの柵の所へ戻り、柵を入って直ぐ左へ入りましょう。

十、梶原裏古道 解り憎いのですが、脇が公園として整備される前の梶原へ抜けるもう一本の古道ですが、途中右側に水道か空掘りかと思っているうちに平場の畑があり、直ぐに公園の道路の水飲み場に出ます。道は道路を横切り向うへ続いています。

☆歩き・水飲み場へ出た左前の森へ行きましょう。

十一、日野俊基墓(ひのとしもとぼ) 後醍醐天皇が鎌倉北條氏を打倒しようとした時に主となった日野俊基の墓と謂われる宝篋印塔があります。元弘元年(一三三一)倒幕の相談を裏切り者の為に露見し、加担者は捕らえられ首謀者の日野俊基と日野資朝は鎌倉送りになります。しかし、罪は資朝が一身に受けて佐渡へ流罪となり、俊基は許されて京都へ帰ります。その翌年に又も計画は洩れて、再び捕らえられ鎌倉へ護送されます。この鎌倉下りのくだんを「太平記」では、七五調の名文句で謳いあげています。

 落花の花に 踏み惑う 交野の春の桜狩り  紅葉の錦を着て帰る 嵐の山の 秋の暮れ

 一夜を過ごす 程だにも 旅宿となれば ものうきに  

 恩愛のちぎり 浅からぬ わが故郷の 妻子をば

 行方も知らず 思い置き 年久しくも 住み慣れし

 九重の都をば 今を限りと かえりみて  思わぬ旅に 出でたまう

そしてこの葛原が岡で処刑されております。

明治時代になって、朝廷への忠臣ということでここに墓を建てられました。

☆歩き・墓から道路に出て左の突き当たりに鳥居があり、葛原が岡神社があります。

十二、葛原が岡神社(くずはらがおかじんじゃ) 先ほどの墓同様に明治になってここに祀られました。

☆歩き・鳥居を出たら左へ崖伝いの山道を歩くとすぐに坂を下ります。

十三、大掘切(おおほりきり) 右は岩が途切れて下に海蔵寺の屋根が見えます。左は谷が続いています。右の削られて、左の谷は掘り下げて、わざと南北の通行を妨げている人工的に作られた谷で「大掘り切り」と云います。、かろうじて南北を繋いでいる馬の背道は、土橋と云って土を盛って作った橋代わりなんです。いざ、という時にはこの土橋を海蔵寺側に落として、完全に行き来を絶ってしまう軍事上の要塞です。

☆歩き・大掘切を渡り、先へ進んでいくと一番高い所の岩の上に石柱が立っています。

十四、天柱峰(てんちゅうほう) ここは「天柱峰」といい、かつての浄智寺境内の最奥になり、南北朝期に竺仙梵僊(じくせんぼんせん)が海を眺めて遠く故郷の中国を思いながら、禅を結んだと謂われます。

☆歩き・先へ歩き道が尾根の右から左へ移る所で、右側に反対に戻るような形で下り坂がありますので、これを下ってみましょう。

十五、清涼寺谷(せいりょうじがやつ) 坂を下って行くと、住宅地の中に出ますが、この谷は「清涼寺谷」と云い、奈良の西大寺で真言の戒律の復興を目差していた栄尊(えいそん)が金沢実時(ピーター)の招きで鎌倉へ来た時に、進められた称名寺に入らず、ここにあった無人の寺に居たと謂われ、後に弟子の忍性(にんしょう)が清涼寺を建てたそうです。今でも同じく忍性が建てた極楽寺には清涼寺式といわれる釈迦如来像がありますので、関係深いものと思われます。始めへ戻る

☆歩き・谷の出口に向かって住宅地を歩いて行くと別の道に出ます。この道は左が駅方面ですが、右へ行きます。正面に海蔵寺があり、手前の右に小さな井戸があります。

十六、底抜けの井戸 秋田城介安達泰盛(柳葉敏郎)の娘で北條顕時の妻が夫の死後、尼となって無学祖元(仏光国師)に師事し、修行中にここへ水を汲みに来た処、桶の底が抜けてビッショリと水をかむってしまいます。その時に

  千代能が いただく桶の 底ぬけて 水たまらねば 月もやどらじ

と歌を読んだのが、悟りを得たと認められました。

この歌の素晴らしさを考えますと、底が抜けて水がたまらないのは、誰にでも分かる事ですが、即座に「月もやどらじ」とは、桶の中の水面に映る月をさしている訳ですが、これを思いついたのがすごいところです。

十七、海蔵寺(かいぞうじ) この寺はとても古く、何時の頃からか真言宗の寺があったと謂われますが、分かっている範囲ですと建長五年(一二五三)鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命により藤原仲能が建立し、その後室町時代に上杉憲定(のりさだ)が源翁和尚を開山として中興したと謂われます。この和尚の逸話に那須野の殺生石の悪霊を封じたと謂われ、その時に岩を鉄の鎚で打ち壊したので、鉄の鎚(トンカチ)を別名源翁(げんのう)と云うのです。

寺に入ると本堂が正面に左に薬師堂があります。この薬師如来を泣き薬師といい、昔、墓地で夜な夜な子供の泣き声がするので、なんだろうと確かめに行くと小さな墓から光が差しているのです。不思議がって掘ってみると中から薬師如来の頭が出て来たので、新しく大きな薬師如来を刻み、その胎内に頭部を納めたので泣き声が止んだと謂われます。

十八、十六井戸 薬師堂の脇を奥へ入って行くと、右側に大きなやぐらがあります。中には十六個の穴がうがかれて、清水がこんこんと湧き出ています。壁には観音像等が彫られているのですが、どういう謂れがあるのかはっきりしたことは分かりません。

☆歩き・道を戻って海蔵寺前から先ほど来た道を戻り、真っ直ぐ歩いて横須賀線のガードをくぐった先の三叉路の左角にキンピカの八角堂があります。

十九、岩船地蔵

先日の再建工事の際に地下から謂れどおり、舟形光背を持った石地蔵が出てきたと近所のおばさんが言ってました。この地蔵は大姫の念持仏と言われます。

大姫とは、頼朝と政子の長女として伊豆時代に既に生まれていたものと推定されます。

彼女が七歳位の時に、木曽で旗揚げをした義仲が、父の旧跡を想い上州に進出してきた時、頼朝は関東への進出をいぶかり、大軍をもって追いかけますと、善光寺平(後の川中島)で対峙します。

頼朝は裏切りの叔父志田先生義広を差し出すよう難癖をつけます。殺されると解っている叔父を差し出すことなどできないと人の良い義仲は困惑してしまいます。

そこで、頼朝は打開策として自分の娘の大姫の婿として、義仲の嫡子清水冠者義高を貰い受けようと言い出します。木曽冠者義仲は不利を悟り、泣く泣く息子を婿という名の人質として差し出します。

事情を知らない大姫は大人ばかりの世界で話の合う許婚と出会い、すっかり馴染んでその気になっていました。

しかし、義仲軍は京都から平家を追い出し駐屯すると、折からの飢饉と重なって、寄せ集めの軍隊は統制が取れず、略奪の限りを尽くし、すっかり後白河法皇の不興をかいました。

法王は、木曽冠者義仲追討の令旨をこっそり頼朝に出しました。

頼朝は弟の範頼と義経に数万の軍勢をつけて義仲を追討させます。木曽冠者義仲は近江の粟津で石田爲久に討ち取られました。

頼朝は、将来の恨みを心配して清水冠者義高を殺させてしまいます。

それからというものは、愛する許婚を父に殺され、すっかり人が信用出来なくなり、うつ病状態になってしまいました。十四、五になった時、京都から来た従兄弟(一条高能)との結婚を政子から進められると「清水冠者義高を思う心を知りながら、そんなことを言うと深い淵に身を投げて死んでやる。」と母を脅かす始末でした。そして、入内の話が出て京都へ行く途中で死出の旅路についたと謂われます。

失意のままに十九か二十歳のみそらでその悲恋の生涯を閉じてしまいました。

後は、鎌倉駅へ向かいましょう。

参考図書:

 「新訂増補 国史大系 吾妻鏡」・黒板勝美 編輯・吉川弘文館 発行

 「鎌倉辞典」・白井永二 編・東京堂出版 発行

 「鎌倉史跡辞典」・奥富敬之 著・新人物往来社 発行

 「鎌倉の史跡めぐり」・清水銀造 著・丸井図書出版 発行

 「かまくら子供風土記」・鎌倉市教育研究会 編集・鎌倉市教育委員会

 「吾妻鏡」・龍粛 役注・岩波文庫 発行

  

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