歴散加藤塾 第二十一回   鎌倉を辰巳へ歩く

   平成十四年十月二十日

 目次

一、本覚寺   二、小町大路   三、魚町橋   四、辻薬師   五、元八幡   六、妙長寺   七、乱橋   八、九品寺

九、光明寺   十、北条経時墓  十一、内藤藩墓地   十二、補陀楽寺   十三、実相寺   十四、五所神社

十五、来迎寺   十六、大宝寺   十七、東勝橋   十八、若宮大路幕府跡   十九、宇都宮辻子幕府跡   参考資料

 文中の写真は、専属カメラマン血糖値くんの力作です。

鶴岡八幡宮の前身「元八幡宮」鎌倉攻めの新田義貞が本陣を敷いた「九品寺」関東一大きな山門の「光明寺」三浦一族ゆかりの「来迎寺」などを見学しましょう。

鎌倉駅の東口から真っ直ぐに若宮大路へ出たら、そのまま信号を渡り、右へ少し行き郵便局の角を左へ曲ります。その先右側に寺門があるので入りましょう。

一、本覚寺   日蓮宗のお寺ですが、元は身延山久遠寺の末寺で、開山は一乗日出。元々は夷堂があり、日蓮が佐渡流罪の後、暫くこの地にいたが、幕府への布教を断念し、甲州の身延山の地へ去りました。後年、この伝説に因んで永享八年日出が創建したと云われます。二世日朝が身延山まで行けない信者の為に身延山から祖師日蓮の分骨したのが、本堂の脇の分骨堂(写真)で、東身延とも云われる所以です。

本堂に向かって左の渡り廊下向うの墓場の中に、丸い大きな石の無縫塔が二つ並んでありますが、鎌倉時代の名工岡崎五郎正宗とその妻の墓(写真)と云われます。

見学を終えたら、東の山門の左に新しい夷堂があり、昔は山門を出た右側にあったとも云われ、山門を出たところが小町大路です。

 

二、小町大路   この道は、頼朝時代に整備されたものと思われ、宇都宮氏や千葉氏等の屋敷がこの道に向かっていたようです。すぐ前に橋がありますが、昔は夷堂があったことで「夷堂橋」と呼ばれます。この橋から北側を小町、南側を大町と呼びます。

小町大路を南へ歩いて行きましょう。暫く歩くと大きな交差点に出ます。

 

 

 

三、魚町橋   大町の四つ角の辺り一帯は、鎌倉時代に市がたった場所と云われ、それらの名残に少し南に行くと橋があり、「魚町橋」と名がついています。魚は相物と云われ干物との相の物として相物座、他にも米町が米座、絹座、桧物座は木製品、荒物の千朶積座、馬座などがあったと云われます。そういえば、今日行く先には材木座が地名で残っています。

大町四つ角から南は三浦道と呼ばれたようです。三浦道をそのまま南下すると横須賀線の踏み切りの手前右側に小さなお堂があります。

 

四、辻薬師   ここには医王山長善寺という寺があり、その寺内の薬師堂だったわけですが、幕末頃に寺は廃され、明治二十二年の横須賀線開通の際、縮小され小さくなってしまいました。本尊の薬師如来は八幡宮の国宝館にありますが、優しいお顔の平安仏です。

お顔の特徴としては、横長丸の輪郭で目は切れ長の細目で、信州あたりでみた新作のこけしにそっくりです。江戸時代作の日光月光像と鎌倉時代作の十二神将像二体と共に展示されています。この堂の中にも十二神将像があると思います。

 

 

 

 

 

五、元八幡   踏切を渡ったら右側駐車場のはずれに右へ入る路地が有りますので入りましょう。

路地を少し行くと右側に古い井戸がありますが、石清水と呼ばれます。

その奥の右側に社がありますが、これが頼朝の五代先祖の源頼義が前九年の役に勝利した帰りに京都の石清水八幡宮をここへ勧請したと謂われます。又、その後に八幡太郎義家が修理を加えたことが吾妻鏡に記載されています。

治承四年「庚子」(一一八〇)十月小十二日辛卯 快リ。寅尅、祖宗を祟らん爲、小林郷之北山を點じ、宮廟を搆へ鶴岡宮於此の所に遷し奉被る。專光坊を以て暫く別當職と爲す。景義宮寺の事を執行令む。武衛、此の間潔齋し給ふ。(今の八幡宮に対し元八幡)(中略)

本社者 後冷泉院の御宇、伊与守源朝臣頼義 勅定を奉り、安倍貞任を征伐之時、丹祈之旨有りて、康平六年秋八月潜に石清水を勸請し瑞籬於當國由比郷「今之を下若宮と號す」に建る。康平六年秋八月潜に石清水を勸請し瑞籬於當國由比郷「今之を下若宮と號す」に建る。永保元年二月陸奥守同じき朝臣義家修復を加う。(後略)

清和天皇ー貞純親王ー経基王ー満仲ー頼信ー頼義ー義家ー義親ー為義ー義朝ー頼朝

ここで、元八幡の紋を見ると鶴丸印です。鎌倉市の市章は笹竜胆です。どうなっているんでしょう。

六、妙長寺   海潮山妙長寺と云い、この寺は、日蓮が材木座あたりから伊豆へ流罪になった時、伊豆で暗礁に降ろされた日蓮を船に乗せ助けた漁師が日蓮に帰依し弟子となり日実と名乗り、後に日蓮船出の由緒のある鎌倉の海岸に寺を建立したが、度々津波に破壊されたため、この地へ引っ越してきたと謂れ、庭に石船がまつられています。

七、乱橋   三浦道を南下すると小さな堀を渡るのですが、気を付けていないと見過ごしてしまうほどですが、橋があります。乱橋といいますが、一説に鎌倉攻めの新田軍と戦っていた北条軍がここで乱れて敗走したので「乱橋」とついたと云ってますが、実はそれよりズウーッと以前の吾妻鏡に既に「乱橋」の名前が記録されておりますので、これは後で付けた伝説です。

なお、先へ歩くと信号の有る交叉点の右側に寺があります。

八、九品寺   浄土宗弘延山九品寺といいます。鎌倉攻めで稲村ガ崎を破った義貞軍は海岸伝いに攻め進み、ここ九品寺の地に本陣を敷いたと謂われます。何故ここかとの疑問には山門を入り、本堂に向かって左の坂を登ってみると分ります。

かつてここは砂丘の丘で、鎌倉が一望でき、なんと遥かに八幡宮の屋根が見えるではありませんか。(写真中央薄緑の屋根)ここからなら敵の北条軍の動きを充分に見渡す事が出来、作戦も立て易い訳です。後に新田義貞が戦没者の慰霊を慰めるために建立したのがこの寺です。

なお、九品とは阿弥陀様の手の印相が指の組み方や手の位置で3×3=9種類になります。指は親指と人差し指で輪を作るのが上品、中指で輪を造るのが中品、薬指で輪をつくるのが下品です。また、両手をあぐらの真中で掌を上に組むのが上相(定印)、胸の前で掌を正面向けて並べるのが中相(説法印)、右手を胸の前で前向きにし(与願印)、左手をひざの上に乗せ掌を上に向ける(施無意印)のが下相、この三種を架け合わせて九品となります。長谷の大仏様は人差し指で輪を作り膝上で両手を組んでいますので上品上相です。

三浦道に戻り更に南下すると道が左へ大きく曲がり今度は右へ曲がった処にバス停があり、左を見ると大きな寺院があります。

九、光明寺   浄土宗関東総本山で天照山、開基は北条経時、開山は念阿良忠。元は仁治元年(1240)笹目谷に蓮華院を建て、後に執権になるとこの地へ移し、更に大きくして名も光明寺と改めました。総門は明応四年(1495)の建築。その先に大きな山門(写真)が見えます。関東一大きいといわれますが、実はこの山門は八幡宮の山門を廃仏毀釈の際に譲り受けております。山門前の広場の左右には塔頭の千手院と蓮華院があります。山門をくぐると正面に本堂、本尊は念仏宗は阿弥陀如来です。本堂周りの回廊が開放されておりますので、拝顔させていただきましょう。回廊を左回りに進むと本道左側の池には大賀蓮と名づけられた大賀博士が二千年前の蓮の種から復活した蓮が咲きます。

ぐるりと回って南側には最近整備された石庭があります。石にはそれぞれ祖師様達として設定されています。奥の三つの真中が阿弥陀如来、向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩で阿弥陀三尊としています。手前の五つを仏教始祖のインドの釈迦、浄土宗始祖の中国の善導、日本浄土宗始祖の法然、浄土宗再興の智光、ここの開山の良忠と浄土宗の導師達をなぞらえています。

本堂前へ戻りましたら、本堂南脇から裏へ回る道を登り、上の道で右の中学の角を入りましょう。

十、北条経時墓   左の宝篋印塔は四代執権北条経時の墓で寛元三年(1245)わずか二三歳の生涯でした。奥のひときわ大きいのが開山念阿良忠の墓で弘安十年(1287)八十九才さの長寿でした。

道を南へトンネルを抜けて下ると右の下の方に異様な形の石塔が並んでいます。

 

 

十一、内藤藩墓地   殆どが江戸時代の宝篋印塔(写真)です。先ほどのとは違って妙に細長くなり、尖った感じがします。江戸期の日向国延岡藩内藤家の墓地です。向う側正面中央の大きなのが藩祖内藤忠興のです。忠興は大阪夏の陣で手柄を立て大名となり江戸時代初期から晩期までの墓が一同に集まっております。

 

さて、道を右へ右へと辿ると先程の光明寺の前へ出ます。三浦道を左へ曲がり材木座バス停で道は右へ曲がる手前で右の路地へ入るとじきに右に寺らしくない補陀楽寺があります。

十二、補陀楽寺   養和元年(1181)頼朝は源氏の氏神として或いは軍神として八幡宮を建てた。しかし、西海には未だ平家一門が武威を張っているので、平家を調伏するための祈願寺として、文覚上人に不動明王を祀るこの寺を建立させました。始めは七堂伽藍のそろった大寺でしたが、文和年間(1353)に中興しましたが、度々の災害にだんだん縮小してしまいました。名残として入口の石碑に頼朝祈願所と書かれております。

二股を左へ進み突き当たりを左へ、すぐ又右へ進むと右に実相寺があります。

十三、実相寺   日蓮宗で弘安五年(1282)風間信濃守信昭の開基、日昭上人開山の妙法華寺が伊豆に引越し、元和七年(1621)に再建されたのがこの寺です。この地は曽我兄弟の仇討ちで敵役とされた工藤左衛門尉祐經の屋敷跡といわれます。

その先で、右奥に神社が見えるので入っていきましょう。

十四、五所神社   狛犬や石塔の並ぶ参道の奥にあります。明治四十一年の神社整理の際に材木座乱橋村の五つの神社をここへ統合したとの事です。五つとは、三島神社、八雲神社、金毘羅神社、諏訪社、夏目明神だそうです。境内には立派な神輿があり、庚申塔や石仏が沢山あり、鎌倉で一番古いと云われる寛文十二年(1672)の庚申塔や、小堂の中にある弘長二年銘の不動明王の板碑は国の重要美術品に指定されております。

又、立派なおみこしが展示されております

 

道へ戻り少し先の右に寺があります。

 

 

 

十五、来迎寺   時宗 隋我山、本尊は寺名のとおり来迎阿弥陀三尊です。脇侍の観音菩薩、勢至菩薩が腰をかがめて、二十五菩薩を従えて西方浄土から阿弥陀如来が死者を迎えに来る形をしています。一説には、頼朝が治承四年の衣笠合戦で単独篭城して討死した三浦大介義明とその三男で由比ガ浜合戦で戦死した多々良三郎重春を弔うために建立したとも云われ、後に時宗に改められたとも言われます。境内には二人のための供養塔と思われる形の良い五輪塔があります。

又、衣笠の満昌寺の像を真似た明治時代の三浦大介義明像があります。

 

来迎寺を出て道を北へ進んで行くと左右に細い道がありその向う側をちょっと広い道が左右に通って居ます。手前のが旧道で向うのが横須賀水道道です。旧道を左へ行き水道道を渡って右奥へ入ると踏み切りがありますので渡りましょう。

先へ進むと午前中の大町大路を横切り先へ進みます。付近は以前には、お屋敷が連なり鎌倉らしい風景のところだったのですが、近頃ではマンションやおもちゃの兵隊の出てきそうな新興住宅地に変貌しています。左へ入る道がいくつかありますが、大宝寺の案内のある角を左へ曲がりましょう。

十六、大宝寺   日蓮宗多福山一乗院大宝寺という。元は佐竹義盛が応永六年(1399)多福寺を建立したが、まもなく廃寺になったらしく、文安元年(1444)に日出が日蓮宗寺院を創建し、先寺の寺名を山号としたと謂われます。右壇上の多福明神は新羅三郎義光の廟所の跡とも謂われます。寺門前から路地を更に奥に行くと右側に墓地が見えますが、そこの左の壇上に石の瑞垣で囲まれた宝篋印塔は一説に新羅三郎義光の墓とも謂われます。

新羅三郎義光は、八幡太郎義家の弟で後三年の役に陸奥で行き詰まっている兄を助けんと官職を投げ打って駈け付けたと謂われ、その際に足柄峠で笛を吹いた伝説の人です。

先の道へ戻り、北上し、Y字路を左へ行き、カーブミラーが右にあるところで左へ曲がりまっすぐ行くとどんどん上り坂になり、トンネルへ入ります。このトンネルは何時も南風が通りぬけており、暑い日は気持ちが良いトンネルです。

トンネルを出たら今度は下り坂を降りていくと左側に新建材のカラフルなマッチ箱のような分譲地があり橋が見える左へ曲がりましょう。

この谷一帯は、葛西谷と呼ばれますので、頼朝の信頼の厚かった葛西清重が屋敷地を拝領したものと思われます。葛西清重は秩父一族の支流ですが、頼朝旗揚げ時に秩父氏本流が一旦敵対したのに比べ、いち早く頼朝の傘下へ駈け付けていますので信頼を得て、奥州合戦の後に奥州探題に抜擢されております。それに彼の母の病気をとても気にかけたりしています。

しかし、泰時の時代にはこの奥に北条氏の菩提寺「東勝寺」を建立していますので、恐らく畠山重忠が滅ぼされた時に秩父一族はかなり打撃を受けていますので、何らかの理由で北条氏に取り上げられたものと思われます。

十七、東勝寺橋   奥に東勝寺がありますのでそう呼ばれ、橋の下を見ると川底の鎌倉石が四角く切り取られた跡があり、一説に、海から滑川をここまで船で遡り北条氏の物資を運んだ船着場の跡とも謂われます。

また、この橋には青砥藤綱の伝説があります。東勝寺の四代執権北条時頼(大河時宗では渡辺健)を訪ねた青砥藤綱がここで川に十文落としてしまいました。仕方なく共の者に五十文で松明を買ってこさせて十文を探し得ました。世間の人は、十文落としたのを拾うため五十文使うなんてと批判しました。しかし、藤綱は「十文を川に落とせば天下の損失であるが、五十文は使えば世間に渡り天下の宝となって生きるであろう。」と世間を感心させたと謂われます。

藤綱は実在の人物ではないとする学者もおりますが、今までの物々交換経済を銭本位経済に幕府が奨励した逸話だと思われます。

先へ歩くと小町大路へ出ますので右向かいの路地へ入りましょう。

十八、若宮大路幕府跡   道が左へ曲がる所に若宮大路幕府跡の石碑があります。ここから南側、向うは若宮大路までが第三期の鎌倉幕府があった場所と想定されます。黒板塀に見越しの松のある屋敷の表札には「おさらぎ」と書かれています。そう、鞍馬天狗で有名な作家さんの生前の家です。路地を右へ左へと迷路を辿って行くとやがて右側にお稲荷さんがあります。

十九、宇都宮辻子幕府跡   このお稲荷さんは、宇都宮稲荷と云い、宇都宮一族の屋敷内の鬼門を守るためにまつったと思われ、この東西の路地が宇都宮辻子と思われます。

辻子とは、鎌倉では道を広いのを大路、狭いのを小路、路地を辻子と呼びます。この辻子の北側に辻子を向いて幕府の入口があったのでそう呼ばれたと思います。では、後は鎌倉駅で解散としましょう。

考資料:初心者向きには、永井路子さんの「北条政子」がお勧めです。政子の頼朝との出会いからその死まで、鎌倉初期のストーリーが殆ど分かります。

あと、NHK大河北条時宗の時代考証をしている奥富敬之先生の「鎌倉史跡辞典」や、八幡宮司の白井さんの「鎌倉辞典」あとは「吾妻鏡」ですが、これは読み下しでも古典に属しますので一寸難物です。

  

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