歴散加藤塾 第二十二回 

  鎌倉東部へ秋を見に行く

平成十五年十月十九日

目  次

一、十二所神社          二、光触寺

三、大江広元屋敷跡        四、明王院

五、初弁天            六、大江広元墓

七、瑞泉寺            八、護良親王墓

九、覚園寺            十、別れ道

十一、若宮大路幕府跡       十二、宇都宮辻子幕府跡 


今回は、一寸セットし難い鎌倉の東側をコースに考えてみました。

鎌倉幕府草創期に文武の文の中心になって、頼朝や政子の信頼を受け、制度の執行や守護地頭制度を提案したり、承久の乱には守備ではなく上洛攻撃こそ幕府を守ることと進言し、鎌倉幕府創始者の一人とも言える大江広元の遺跡等をめぐってみましょう。

鎌倉駅を東口へ降りたら、正面右手から「金沢八景行き」か「大刀洗・鎌倉霊園」行きが土日休日は正時と半が八景行き20分と40分が太刀洗行きすのでバスに乗りましょう。(但し、10分と50分はハイランド行きですので二つ手前の泉水橋で降りて歩くことになります。) 料金は200円です。

バスは「十二所神社(じゅうにそじんじゃ)」で降ります。

バスを降りて左手を見ますと山のふもとに神社が見えます。

一、十二所神社

元々は光触寺の熊野十二所神社で、天神七代、地神五代の合わせて十二代を祀っている。  

歩く*バス通りへ戻ると、電柱の根元にお地蔵様があります。弘化の頃に朝比奈峠を越えてきた巡礼の娘がここまで来て、農家の馬にはねられ川へ落ちて死んでしまったので、不憫に思った村人がこの供養のために地蔵菩薩を祀ったと言われます。

川沿いの桜並木の歩道が続きますので南下しましょう。一旦バス通りへ出て資材置場の先で左へ入りましょう。

路地を歩いていると民家の竹で編んだ塀が見事です。

橋を渡って暫く先の左側に寺があります。  

二、光触寺時宗・岩藏山)

元は鎌倉時代開創の真言宗の寺であったが、弘化二年(一二七九)時の住職が時宗に帰依して自ら開山となった。参道には器量よしの石仏が並び、サルビアが美しいのが特徴です。  

 本尊は、国重文の来迎阿弥陀三尊で、鎌倉中期の作品です。

この阿弥陀如来の伝説では、元館に仕えていた町の局が実朝の招きで鎌倉へやってきていた雲慶に頼んで阿弥陀像を造ってもらい持仏堂に安置して信仰し、召使達にも進めたがそれはまちまちでありました。

そんな中で万歳法師という元は悪さをしていた男が改心して熱心に拝むようになりました。ある日家の中で物がなくなり、万歳法師が疑われ、怒った局は家人等に万歳法師にお仕置きをするよう言いつけて出かけました。

家人達は万歳の頬に焼印を押し当てました。万歳は苦しさの余り、一心に南無阿弥陀仏を唱えました。すると不思議な事に万歳の頬には焼跡が付きませんでした。その夜、局の枕元に現れた阿弥陀様の頬に焼印の跡がありました。目が覚めてから持仏堂の阿弥陀様を見ると頬に焼印の跡があり、万歳の頬には付かなかったことを家人から聞き、恐れ入って万歳の疑いも晴れて、なお一層阿弥陀様へ帰依しました。その後、この阿弥陀様は何度修理しても頬の焼印の跡は直らなかったと国宝「頬焼阿弥陀縁起絵巻」に書かれているそうです。

 

本堂の横に地蔵堂があります。この地蔵様を「塩舐め地蔵」といいます。

元は、寺を出て左へ行った橋の脇にありました。

六浦から鎌倉へ塩を商いに来る行商人が、朝行きがけに初穂の塩を一掴み置いていくと、帰りには必ず無くなっていたので、きっとお地蔵様が舐めたんだろうということになりました。お地蔵様は塩も買えない人々の味方だったのでしょう。

歩く*寺門を出たら左へ付き当って右へ、橋を渡りますがここに先程説明した塩舐め地蔵がおられたと思います。バス通りへ出ると十二所のバス停の信号から左へ、二つ目の緑の橋を渡るのが「鎌倉下の道」のようです。川端には桜並木が続き左側に石碑があります。  

三、大江広元屋敷跡

鎌倉幕府草創期に文武の文の中心になって初代政所別当を勤め、頼朝や政子の信頼を受け、制度の執行や守護地頭制度の提案をしたり、承久の乱には守備ではなく上洛攻撃こそ幕府を守ることと進言し、鎌倉幕府創始者の一人とも言える大江広元の屋敷がここにあったと謂われます。

石井進先生の意見ですと、有力御家人は三つの屋敷地を与えられたようです。

(御家人三点セット)一、幕府へ出仕する際に正式の着物に着替える着替所(鎌倉中心部)。二、鎌倉での寝泊りや普段の生活の為の生活屋敷(鎌倉府内)。三、鎌倉での生活の為の食料を生産し供給する食料生産地(鎌倉の外で西は平塚、北は相模原市、東は川崎市辺りまでだと思われます)。

とすると、この地は二番目の生活屋敷だと思われます。着替所は筋替橋の南東の西御門川の東、六浦道の南と思われます。

歩く*川沿いに左へ歩きガソリンスタンド前の信号で向かいの公園の中の細道が古道なので石碑や墓の入口がこちらを向いています。右に二つ橋を渡り先で正面が明王院ですが、左への道はこの奥に梶原景時の屋敷があったと伝えられます。  

 

四、明王院(真言宗・飯盛山・寛喜寺)

鎌倉幕府では、実朝が公暁に殺された後、九条家から二歳の三寅を貰いうけ四代將軍として奉ります。しかし、その將軍も成人してくると將軍としての権威の無い己の立場を理解し、力を得て本当の將軍として君臨しようと計り、嘉禎元年、時の將軍四代頼経の発願で創建され五大明王(不動明王・降三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)を祀ったのです。しかし、北條氏の方も一歩抜きん出て、これが直接のきっかけではありませんが、彼の息子の頼継との将軍職の交替、京都への追放となっていきます。茅葺の本堂に本尊の不動明王が祀られています。

歩く*門を出たら左の路地へ、すぐ又左へ曲がると少し上ったら左の石段を先へと歩き、山道へ入っていきますので、そのまま登りましょう。一旦登り馬の背で下がり又登った右に椎木の大木の前に小さな祠があります。  

五、初弁天 (はじめべんてん)

頼経が五大堂明王院を創建した際に、その鎮守として裏山の天辺に弁天様を祀ったのだといわれます。当時、弁天様は未だ財産の神様ではなく、戦の神様だったのです。

江戸時代に江ノ島鎌倉詣でが流行ると東海道の保土ヶ谷宿から弘明寺・上大岡・金沢八景と来て朝比奈峠を越えて鎌倉入りし、この弁天様を最初に拝み、最後に江ノ島の弁天様を拝むので、これを初弁天と称しました。

歩く*山道を先へ進むと一旦下って、登りかけた左にわざわざ入りにくく木の枝で塞いである方へ登っていくと天辺の椎木の前に石塔があるので塔の峰と呼びます。

六、大江広元墓

この石塔が大江広元の墓と伝えられています。彼の冷徹なまでの政治観念、鎌倉幕府創りの例として、義經が腰越で足止めされた時に、綿々と肉親の情を訴えてきた有名な「腰越状」を頼朝に見せずに握りつぶしたとまで云われています。義經は頼朝の許しを得ずに官位を授けられ、それを名誉と感じている。それが公卿の使う手で官位を餌に武士同士を戦わせ、双方の力を削いで従わせようとする後白河法皇の手にまんまとひっかかってしまった事に気付かない義經を広元は赦せなかったのでしょう。

歩く*元の山道に戻り先へ歩いていくと三叉路に出ます。右が天園への道なので真っ直ぐ進み、又も三叉路があるので、今度は右の切通し風の法へ進むと、泥岩をくりぬいた凹道が続き、下りきると民家の脇をアスファルト舗装へ出ます。右へ右へと進むと瑞泉寺入口です。

七、瑞泉寺(臨済宗・錦屏山)

嘉暦二年、北鎌倉の円覚寺におられた夢窓疎石は日増しに名声が上がり、尋ねて来る客の応対で思うように修行にも励めない。と嘆いている処へ、幕府引付衆の二階堂貞藤(道薀)が自分の屋敷の一部を提供した。谷合の静かな場所で、裏山に昇ると富士山も海もみえるので、すっかり気に入りここに、夢窓疎石開山、二階堂道薀開基と相成った。特に裏山が気に入り、そこに庵・一覧亭を立て、詩作をしたり、禅を論じたりしたと謂われます。

広い境内には様々な植物が植えられ、特に花物が多いのが特徴です。

春は水仙と梅、夏は紫陽花、秋は萩、彼岸花、水引草、そして紅葉が終わると千両万両と一年中何時来ても良い寺の一つです。左には古い石段、右は新しい石段、どちらを登っても上りきれば山門です。山門の手前の左側に小さな竹林、竹の胴を触って見ると四角く感じます。四方竹です。何故か鎌倉の禅寺には必ずと云っていい位この竹が植えられています。意味は不明です。

山門の上には大きな紅葉(もみじ)が垂れ込めています。紅葉(こうよう)が楽しみです。

山門を入って正面の宝形造り裳腰付きが本堂です。本堂には釈迦如来がまします。本堂前左に黄梅の原木があり、隣が開山堂ぐるりと回ってその裏庭が国指定史跡の夢窓作庭の庭園です。岩盤を刳り貫いて、池や島を作り、東に自然の流水を落とし、左にはジグザグの石段を刳り貫き、池は心字池とし、正面の岩窟から池に映る月を見て修行をしたとも謂われます。  

池の西側に地蔵堂があり、通称「どこもく地蔵」と呼ばれます。昔扇谷の英勝寺の北の谷戸にあった寺の地蔵様でしたが、この地蔵堂が荒れ果て参詣する人もなくなり、すっかり貧乏して堂守は生活苦に追われ、逃げようとしました。そうすると夜な夜な夢に地藏様があらわれ「どこもく」「どこもく」と告げます。この意味を八幡宮の坊さんに聞いた処、「それはきっと人間何処へ逃げても、苦しみは付きまとう。釈迦は生老病死と云って生まれてきたこと自体苦しみでもあるのだと云っているにのだから、何処へ逃げたとて、苦しみから逃げられるものではない。何処も苦、何処も苦なのだから、今の処で一身に励む事が大事なのじゃよ。」と教えられ、他を当てにすることなく、今の苦境にめげずに地蔵様を守っていく決心をしたと伝えられます。

苦しい現実からの逃避では何の解決にもならない。現実に向かってこそ花も開こうものだと納得させられる説話です。  

歩く*入口を出たらそのまま、真直ぐに歩いていくと総門があり、切通しの参道を抜けて、道を下って行き、通玄橋を渡った正面がテニスコートを含んで永福寺跡地です。テニスコート脇から左への道を入り明るい場所に出た右側に「理智光寺跡」の石碑が、左側には宮内庁管理の護良親王墓があります。

八、護良親王墓(大塔宮)

親王は後醍醐天皇の子で建武の中興を成し遂げた一人でもあります。しかし、その過激さと賢さに、足利尊氏の讒言を受けて謀反人として尊氏に預けられ、弟の直義が鎌倉に幽閉しておりました。建武二年、北條高時の遺児「時行」が諏訪の助けを得て蜂起し、鎌倉奪還を試みます。その勢いは強く瀬谷が原での防衛戦に押された直義は鎌倉を落ち延びる際に、淵野辺伊賀守義博に言いつけて親王を惨殺させました。

親王は義博が現れたとき、自分を殺しに来た事に気付き、必死の抵抗をし、相手の刃に噛みついて太刀を使えなくしますが、脇差で刺されて命を落とします。親王の首を切り落とした淵野辺義博が自分の太刀を拾おうとしますが、首がくわえたまま放さないので、気味が悪くなり刀ごと首を茂みに捨ててしまったと云われます。この首を理知光寺僧が拾って寺の裏山の天辺に葬り塚を建てたと謂われます。ただ、この他にも、戸塚の柏尾に親王の首を侍女が洗ったと言う井戸や、それを王子神社本殿の下に葬ったと伝説があります。

又、三島の黄瀬川には、その首を拾った侍女の宮入南の方(藤原保藤の娘)が、首を持ったままそのいきさつを朝廷に報告しようと京都を目指しましたが、黄瀬川を渡るのが困難となって、首をその地に葬り祠を建てたのが、智方神社の由来だという伝説もあります。

又、墓は苔の寺と云われる「妙法寺」にもありますが、そちらは親王の子供が出家して母が死んだときに庵の裏山に葬り、共に父の供養塔を建てたとも云われ、その縁でここも妙法寺が実際の管理をしています。

歩く*道を南下し、右手への道を入ると左へ右へと曲がり、鎌倉宮の裏口へでます。鎌倉宮へ入ってすぐ左にトイレがありますので、休憩しましょう。休憩を終えたら境内の参道を横切り、反対側へ抜け出ましょう。バス停の右側に石道標があり、この谷の一番奥に覚園寺があります。道が狭いので自動車がきたら脇へよけてあげてください。

九、覚園寺(真言宗・鷲峰山真言院)

元々は、北條義時が建立した大倉薬師堂。義時は生まれ年は未年だが、誕生日が戌の日だったのかも知れませんが、伝説には建保元年(1213)左大将になった実朝の拝賀式の後、自宅でまどろんでいるときに、夢に十二神将のうちの戌神将(伐折羅大将)が現れ「今年の御神拝は無事也。されど来春の將軍拝賀のおりは汝かまえて供奉すべからず。」とたんに目が覚めたのが戌の刻だった。この戌神将の加護に報わんため、弟の時房や息子の泰時の諌めにもかかわらず、自費で薬師三尊、十二神将を祀る「大倉新御堂」を建立しました。運慶造立の木像薬師三尊を安置したので通称を「大倉薬師堂」といいました。

そして、翌年実朝の右大臣拝賀の式で行列が八幡宮に差し掛かった時、時に戌の刻、義時の足元に白い犬が見えた途端に心身異乱となり、御剱を源仲章に譲り、自宅に引き返した処、惨劇は直後に起こりました。公暁による実朝暗殺、仲章も共に切り殺されました。もし、あのまま実朝のそばにいたら歴史は変わっていた事でしょう。

その後、大倉薬師堂も鎌倉名物の火事に見舞われ、本佛だけが辛うじて助け出され、その後蒙古来襲などがあり、三度目の蒙古来襲を撃破祈願のため、義時から五代目の貞時が永仁四年(1296)財貨を尽くし心慧上人智海を開山とし、貞時自ら開基となり、鷲峰山覚園寺としました。

歩く*鎌倉宮の前へ出たら裏口の方から南へ行く道、本来の二階堂大路を行きましょう。六浦街道へ出たところが元々の分かれ道です。

十、別れ道

この名が何時から付いたのかは知りませんが、この道が永福寺跡地前をとおり紅葉で最近有名になった「獅子舞谷」から今の天園(六国峠)を経て金沢市民の森方面へ、つい大正時代の初めまで「峰の薬師」のお灸へ通う道だったようです。

歩く*金沢街道へ出たら右の鎌倉方面へ歩き、筋替橋で左折、萩の寺の宝戒寺前を小町大路へ出て、腹切やぐら入口のちょっと手前で右の路地へ入りましょう。先へ進むと粋な黒塀に見越しの松の角に石碑がたっています。

十一、若宮大路幕府跡

嘉禄元年(1225)、大江広元がなくなり、後を追うように尼将軍政子も亡くなりました。執権の泰時は、政情一新の為、大倉幕府からこの先の宇都宮辻子へ移転しましたが、嘉禎二年(1236)それも、建て直して、正門を若宮大路に向けて造りましたので「若宮大路幕府」と呼ばれました。

歩く*黒塀の門へ行くと「おさらぎ」の表札があります。「鞍馬天狗」で有名な大仏次郎氏の生前の家で、現在はお茶席などをしているようです。

路地を左へ右へと歩いていき、清川病院の裏を通り、暫く歩き右へ左へ又右へ左へと歩くと右側にお稲荷様があります。

十二、宇都宮辻子幕府跡

嘉禄元年(1225)、大江広元がなくなり、後を追うように尼将軍政子も亡くなりました。執権の泰時は、政情一新の為、大倉幕府からこの先の宇都宮辻子の北側へ移転しました。 後は鎌倉駅へ戻りましょう。

  

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