歴散加藤塾 第廿三回 鎌倉史跡廻り 山ノ内に梅を見に         平成十六年参月七日

目次

   一、円覚寺門柱跡     二、円覚寺五山塔、白鷺池    三、総門、山門

   四、仏殿           五、仏日庵、白鹿洞、黄梅庵   六、方丈

   七、洪鐘           八、東慶寺                九、甘露井、浄智寺

   十、天柱峰          十一、大堀切            十二、葛原ケ岡神社

   十三、化粧坂        十四、源氏山            十五、寿福寺

今回は、鎌倉北条氏の菩提寺や当時の分化センターが集中している北鎌倉から、葛原岡、源氏山、寿福寺を廻り、仏像や鎌倉の禅様式を尋ねてみましょう。

JR横須賀線の北鎌倉駅を表口(南口)に降りましょう。

一、円覚寺門柱跡

駅前から駅舎を背にして前方を見ると、横断用信号の左側に樹木の立ってる小さな土塁が見えますが、実は其処までが円覚寺の境内で、この土手の東西の端に門が立っており、一般者は土塁の向う側、交番前の通りを遠回りしていた訳で、江戸時代には向うの道を馬道とも呼んでいたようです。ところが、明治時代に横須賀線が境内を通り、県道が東西の門を無視して通過してしまいました。

それでも、門は大正の震災まで立っていたそうですが、震災で倒れてしまい、今では小さな門柱の材木とその説明が立っているだけです。(訂正:最近はそれすらも片付けられてしまいました。)

信号を渡らずに県道沿いに左へ少し歩くと、円覚寺正面の参道が左にあります。

二、円覚寺五山塔、白鷺池

円覚寺へ正面に向くと左に風化した鎌倉石の多宝塔がセメントでかろうじて立っています。この塔については、種々説がありますが、建長寺、浄明寺にもあり、鎌倉五山を表す五山塔だとも云います。一時頼朝墓もこれで出来ていましたが、明治初期の写真では五輪塔が写っていましたので、勝長寿院辺から持って来たとも云われますので、五輪塔残決の寄せ集めかとも思われます。

正面に橋が架かり、左右に池がありますが、横須賀線の開通で狭められてしまいました。この池は白鷺池と呼ばれ、橋は俗世と聖域とを分ける結界橋の役目をしています。

八代執権北条時宗が建長寺を開山した蘭渓道隆の帰宋を引き止めるため、元との戦の戦死者の供養の寺を建立しようと適地を捜していた処、八幡神の使いの白鷺が飛んできて、この地に降り立ったので、白鷺池と名づけ、工事を始めたら円覚経を納めた石櫃が出たので、円覚寺とすることにしたと云われます。

三、総門、山門

踏切を渡って、階段を昇ると総門があり、「後光厳天皇」の御宸筆と云われる「瑞鹿山」と書かれた額が掛っていて、天明年間(1781-1789)の建築だそうです。門を入り拝観料を納めましょう。

正面に大きな山門が見えます。以前には山門への階段が地石を刳り貫いて造られていたので、風情がありましたが、今は大谷石で修復されております。それでも降雪の際など格好の被写体になります。

「伏見天皇」の御宸筆と云われる「円覚興聖禅寺」と書かれた額が掛っています。これら御宸筆の原本は、寺宝として大切に保管されており、毎年分化の日前後の宝物風入れの日には、一般公開されます。総門と同じ天明年間の建築で、階上には観音様と十六羅漢とが安置されているとの事です。

四、仏殿

山門の延長線上に仏殿があります。総門、山門、仏殿、法堂、方丈と直線に並んでいるのが禅様式の特徴です。

現在の仏殿は、昭和に再建されたコンクリ造りですが、様式は「舎利殿」を模しているので、弓形の欄間や花頭窓、粽柱、石敷の床等に宋様式が表現されています。本尊は、丈六の宝冠釈迦如来で、頭部は鎌倉時代の作、胴体は江戸初期の補作だそうです。

ここで疑問なのは、如来はお釈迦様が城を出た後衲衣一枚の他一切の飾を捨て、修行の末悟りを開いた姿がモデルなのに、なぜ冠を付けているのでしょう。逆に菩薩は、修行に出る前のお釈迦様の姿がモデルなので、当時のインドの王族の服装をしております。

如来様ではあまりにも尊すぎて近寄りがたいので、もっと身近な菩薩様に近づいていただき、衆生を救って下さるよう、冠をかぶせたとする説があります。

仏殿から左に出ると建築と云われるプロの僧の座禅道場です。さらにその隣が、居士林と呼ばれる元柳生道場から寄進された素人向けの座禅道場があります。

さらに寺内を谷奥に向けて歩いて行くと、左側に塔頭が続きます。寿徳庵は三浦道寸中興なので関係者の供養塔がありますが、非公開です。

その先左側に池があり、妙香池と云い、建武の頃に夢窓国師が作造したと云われ、岩盤を刳り貫いて造られています。対岸の岸壁の岩が虎の頭に似ていることから虎頭岩と呼ばれます。

池の上の土塀沿い奥に国宝の舎利殿がありますが、非公開なので屋根しか見えません。桜木町の県立歴史博物館に原寸大の模型があります。

五、仏日庵、白鹿洞、黄梅庵

土塀の角を更に上に向かうと土塀沿いの左の門が仏日庵で、北条時宗廟があり、共にその子貞時、孫の高時の遺骨も納められているとのことです。

仏日庵の斜め前の岩壁に小さな洞窟があります。白鹿洞と云い、円覚寺開山供養の際に時宗が宋から招いた導師の無学祖元(仏光国師)の法話の時に、白い鹿の群がこの洞窟から出現して法話を聞いたという伝説があり、そこで円覚寺の山号を瑞鹿山と名付けたと云われます。

なお奥に行くと階段の上に門があり、作庭で有名な夢窓国師の隠居所で、四季折々の草花が良く手入れされております。本堂には夢窓国師の木像が安置されております。

六、方丈

先程の妙香池まで戻り、左手の小さな木戸に入りましょう。建物は方丈です。方丈とは元は住職の住で、一丈四方の大きさから語源が来ていますが、これは大きいので大方丈ですね。

右側の板塀沿いに江戸期の線刻された観音様が続き、百観音と呼ばれます。観音様が終るところに唐門の勅使門があります。昔はきっと朝廷の勅使が祈願等で訪れたことでしょう。また、その脇には仏光国師がご慈愛なされた立派な白槇があります。

方丈の庭から通用門を出て、真直ぐに仏殿脇に下ると、左の杉林に小道を入ると、駐車場に土塁の跡が残ります。小道を抜て右へ少し下ると左に昇る石段があるので昇りましょう。

七、洪鐘

かなりきつい石段を昇り切ると大きな鐘楼があります。国宝の円覚寺洪鐘です。同じく国宝の建長寺、重文の常楽寺と共に鎌倉三大梵鐘と云われます。大きさはこれが一番で、クレーンのない時代にこのような大きな鐘をどうやってここまで引き上げたのでしょう。

そばに弁天様を奉っている社殿がありますが、時に執権貞時は東国最大の梵鐘の鋳造を思い立ちましたが、巧くいかず、江ノ島の弁財天に祈願したところ巧くいったので、鐘楼の前に弁天堂を建て祀り、円覚寺の守護神としたと云われます。

先程の総門へ戻りましたら、トイレを済ませてから、外に出ましょう。

総門を出たら、先程のより一つ鎌倉よりの踏切を渡り、県道へ出ると、前のバス停の土塁の石垣が少し引っ込んでいるのは、西門と対の東門の跡が分かります。県道沿いに左へ歩くと横断用の信号があるので、これを渡り正面の駆込み寺で有名な東慶寺に行きましょう。

八、東慶寺

「鎌倉にゆくと火箸で書いてみせ」「うろたえて鎌倉五山を駆巡り」等と江戸川柳に残る寺ですが、昔は妻の方からの離縁は認められませんでしたので、この寺に入って三年修行をすれば離婚が認められると云う、縁切寺法があったので、不幸な結婚をした女性の手助けとなったと云われます。

しかしそれも、世の中の変化と共に悪用する者まで現れたので、「間男を連て相模へ逃て行き」「三年のうちに間男気が変り」等とふざけた川柳まで残っています。

階段を昇り門を入ると、左側の萱葺の鐘楼が風情を添えます。

先へ進むと右側に本堂、その先に宝蔵庫があり、中には室町期の尼五山第一位太平寺住職で鎌倉公方の血を引く青岳尼の本尊と云う聖観音像があります。この像は数奇な運命を辿った末に、本寺住職だった妹の旭日尼の手に渡ったと云われ、鎌倉地方独特の土紋模様が施されています。

他に珍しいイエズス会の紋章の花形十字架とIHSの文字と三本の釘の模様が夜光貝で現されたオチス(聖餐式に用いるパン)を納める容器「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」や三行半等が展示されておりますので、機会がありましたら拝見するのも良いでしょう。

先へ進むと右側に磨り減った鎌倉石の階段の上に護良親王の妹「用堂尼」、開基で縁切寺法を定めたと云われる「覚山尼」、豊臣秀吉の孫の「天秀尼」等代々の尼住職の墓が並びます。平地の墓地には、禅を米国へ広めた「鈴木大拙」や岩波文庫の社長等が眠っています。

 東慶寺前から県道を鎌倉方面に歩くと右奥に浄智寺があります。

九、甘露井、浄智寺

路地を入って行くと、池があり唐様の橋が架かっております。池の左端には井戸があり、今も清水を湧き出させています。鎌倉十井、五名水の「甘露井」です。

石橋は古くて通行禁止ですが、脇を通った先に総門があり、「宝処近在」と無学祖元の書と云われる額が掛っています。言葉の意味は感慨深いものがありますので、それぞれで考えてみましょう。

その先の、鎌倉石の緩やかな階段が造る参道は、古寺の面影を語る鎌倉絶景の一つです。かつての山門跡とおぼしき所の受付の先に珍しい二階建て鐘楼があります。

本堂前の広場の三本残っている白槙が、過去の仏殿の跡等を思わせ、往時の寺格の大きさと時の流れによる衰退をも物語っております。本堂の曇華殿には、左から阿弥陀、釈迦、彌勒の三仏が過去現在未来をあらわし三世仏と云われますが、三体ともよく似ており見分けがつき難いのですが、手の組方が違っていると云います。

本堂脇を入ると左に鎌倉で一番古い槙、右には沙羅の樹が見えます。順路に従って歩くと、古い五輪塔、横穴井戸、やぐら等が見られ、受付へ戻ります。

浄智寺の脇道を谷奥へ向うと、やがて道は狭い石段になり、山道へと変って行きます。何処までも上へ上へと上って行くと山頂に至り、岩盤の上に石造りの多宝塔があります。

十、天柱峰

なんとこの天柱峰までがかつての浄智寺の境内だったのです。鎌倉末期宋から渡来した一山一寧がこの岩盤上で禅を組み修行したと云います。たまにはここから鎌倉の海を見て、遥かな故郷を偲んだこともあるかも知れません。

 山道を道なりに進んで行くと、やがて一寸低い所で妙に道が狭くなっています。

十一、大堀切

左側は、岩盤を切り崩し屏風のように聳えています。右側は小さな谷になっていますが、それにしては崖が急です。

実はこれが大堀切で、敵軍が攻めて来た時に簡単に兵が散開したり、自由に尾根を通行できないようにしています。一番狭い所は、わざと土を盛って土橋とし、いざという時には土を下の海蔵寺側に落とせば通行が出来なくなるようにしています。

道は右の山を取り巻くように進み、やがて広場に出ます。

十二、葛原ケ岡神社

右側に鳥居があり、神社になっています。葛原ケ岡神社と云い、建武の中興寸前に後醍醐天皇と共に倒幕運動失敗で捕らえられ、鎌倉幕府のためにこの地で処刑された「日野俊基」を祀っています。

彼は二度も倒幕を企み、一度目は同僚の「日野資朝」が一身に罪を着て、佐渡へ流罪となり、許されますが、二度目も発覚して捕らえられ、もう一度鎌倉送りとなります。

この時の「東下り」を太平記では、七五調のきれいな文句で語っています。

  落花の雪に踏み惑う 片野の春の桜狩

  錦の紅葉を着て帰る 嵐の山の秋の暮

  一夜を過ごす程だにも 旅宿となれば物憂げに

  恩愛の契り浅からぬ 我が故郷の妻子をば

  行方も告げず思い置き 年久くも住み慣れし

  九重の都をば 今日を限りと返り見て

  思わぬ旅に出でたもう

広い公園内の道を進むと、右側の柵の中に「日野俊基」の墓と云う、宝篋印塔があります。

噴水へ戻り、裏へ入る山道が元からあるもうひとつの梶原古道です。古道を辿るとやがて柵のある広い尾根道へ出ますので、柵と反対側へ歩きましょう。

十三、化粧坂

 この尾根の両側は、険しく削り落としてありますので、化粧坂の防御地点であることが想像されます。先へ進み左へ稲妻形に下る道を一般に化粧坂切通しと呼んでおりますが、ここから梶原への坂の下り口まで全体が、化粧坂の防御施設であったろうと考えています。

左に地表は風化や雨水の為にデコボコになっており、稲妻形にジグザグに下っているのが化粧坂切通しの遺構です。この坂の上が鎌倉時代に商業地として許可されていますので、一説にお化粧を厚く塗った遊君がおられたので「化粧坂」と呼ばれるようになったとも云われます。他にも源平合戦で得た平家の公達の首を鎌倉入り前にここで化粧直しした。とか、険しいがなまったとの説もあります。

新田義貞はここを責めている最中に主だった武将の大館宗氏一族十一騎が極楽寺坂で砦を突破したつもりが罠に嵌り「袋の鼠」と取り込まれ討死にした報を聞き、稲村ガ崎のほうへ回るのでやっぱり守備隊を破れずに終えております。今日は下らず先の広場へ出ると源氏山公園で、真中に頼朝さんが座ってます

十四、源氏山

右先の一番高い山が源氏山で、この山の向うの谷間に頼朝から六代遡った源頼義依頼、源氏屋敷があったと伝えられ、後三年の役に八幡太郎義家が関東の武士を糾合するため、この山に源氏の白旗を立てたといわれます。

道也に下っていくと左に寿福寺の墓があるので、墓の中の階段を下って、奥の井戸のそばに北条政子・実朝の墓といわれるやぐらがあります。

十五、寿福寺

元々この地は頼朝の父義朝の居館があった処で、鎌倉入りした頼朝が初めに自邸を建てようと視察しましたが、土地が狭い事と、すでに岡崎四郎義實が一宇を建てて義朝の菩提を弔っていたので、大倉の地へ建設することになったのです。

その後、この土地は義實の子土屋次郎義Cが守っていましたが、頼朝の死後政子が栄西を招いて寿福寺を創建しました。又、政子は逗子の義朝の旧邸をも寺の建物に移設寄付しております。実朝の墓といわれるやぐらは壁に漆喰の後が唐草模様に見えるところから唐草やぐらとも呼ばれます。では、後は鎌倉の駅に向かって帰りましょう。

参考資料:鎌倉史跡辞典 奥富敬之著書 新人物往来社

鎌倉の史跡めづり 清水銀造著書 丸井図書出版(株)

鎌倉古道 芳賀善次郎著書 さきたま出版

初心者向けには永井路子さんの「北条政子」が分かり易いです。

  

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