鎌倉歴史散策 歴散加藤塾 第25回  鎌倉の中央を歩く       

     平成17年5月22日

           資料作成及び説明  歴散加藤塾@塾長

参加者の皆様へのお願い

自分の安全は自分で気をつけてください。

散策中は交通ルール・特に赤信号を守り、狭い道でも車道を占領せず歩道を歩きましょう。

歴史散策グループは、地元住民にとってはただのお邪魔虫です。路地では大きな声で話をしないよう注意しましょう。

史跡を訪ねたときは、目障りな現代の物件(特にビル・電柱)は心眼で画像を修正し、タイムトラベルに浸りましょう。

折角の鎌倉味わいですから、職場の愚痴・ライバルの悪口・孫自慢等の俗世間の話は控えましょう。

目  次

1 若宮大路   2 段葛     3 横大路     4 赤橋      5 源平池

6 流鏑馬馬場     7 舞殿      8 鶴岡八幡宮     9 隠銀杏     10 八幡宮社殿     11 丸山稲荷社

12 白幡神社     13 畠山重忠邸跡      14 西御門     15 頼朝の墓     16 源頼朝     17 頼朝の墓塔

18 大倉幕府     19 頼朝の墓の始まり   20  頼朝の死     21 荏柄天神社     22 文覚上人屋敷跡地

23 勝長寿院跡地     24 釈迦堂谷     25 腹切やぐらと東勝寺     26 若宮大路幕府跡   27 宇都宮辻子幕府跡

鎌倉は、今から八百年も前に日本で最初の武家政権の町だけに、関東武士の歴史が詰まっています。そんな歴史の町を吾妻鏡の記録を追って分かりやすくたどってみましょう。但し、資料作成途中でパソコンが壊れたために間に合わず、漢文の原文・読み下し・現代語訳と入り乱れております。

1 若宮大路

鶴岡八幡宮前から由比ガ浜まで一直線に八幡宮の参詣路として京都の朱雀大路になぞらえて造営されたという説があります。若宮とは新たに勧請した神社をいい、京都石清水八幡宮の御霊を勧請したので、新しい宮ということで若宮と云い、この社殿にちなんでおります。寿永元年(1182)3月、鎌倉の街造りの第一歩として大路を設営しました。頼朝自身が監督し、大庭景義を奉行に北条時政以下の諸将が土石を運んだと伝えられております。

*参考・・吾妻鏡寿永元年三月十五日条(読み下し)

壽永元年(一一八二)三月大十五日乙酉。鶴岳社頭自り由比浦に至り曲横を直し而、詣往の道を造る。

是、日來御素願爲りと雖も、自然に日を渉り而、御臺所御懷孕の御祈に依て、故に此の儀を始被る也。

武衛手自り之を沙汰令め給ふ。仍て北條殿已下 各 土石を運被ると云々。

ここの二鳥居辺りで、幅十一丈約33bあり、一段低く掘り下げその土を両側に積み上げ土塁としました。その土塁の手前に幅一丈約3b深さ五尺約1.5bの堀があり、堀の向こうに御家人の屋敷がありました。

東側は、表は小町大路の方を向き、作業場などの裏側がこちら側になっていたとのことなので、仮想敵国である京都が西から攻めてくるのを想定した軍事的要素を含んだ土塁だった訳です。

又、この大路に交差する道は、上が一の鳥居前、中が二の鳥居前、下が現在の下馬交差点の三箇所にありまして、その場所を下馬といい、馬から降りて横切っていたようです。特に中の下馬では、東西に釘貫と呼ばれる関所のようなものがあり、しかも東と西とを食い違いにして、西からの敵がまっすぐ入れず、一端立ち往生したところを矢石で攻められるように作られていたようです。又、この大路へはその他の場所からはは入れなかったようで、八幡宮への参拝の式などに使用し、一般的には南北に歩けなかった時代もあるようです。

しかし、時代も下って鎌倉中期以降は、若宮大路幕府と執権館は若宮大路側に出入り口が設けられていたようです。

この大路の真中に堤を築いた段葛も同時に造られています。

2 段葛

石垣に囲まれた歩道様の通りを段葛といい、若宮大路と共に造られました。

若宮大路に二条の堤を築き、その堤の両側に葛石を並べて一段高くした参詣道として、政子の安産祈願を兼ねて造営した。

初め、鶴岡八幡宮の社頭から由比ガ浜まで造られましたが、明応四年(1495)8月又は同7年の地震による洪水で破壊されたりして、幕末には下馬までとなり、ついで明治11年の官有地編入によって二鳥居以南を失い、ことに明治22年の横須賀線の工事で鉄道の路盤の土を取るためとうとう取り払ってしまいました。

現在の全長は457bで八幡宮の一部として扱われています。

鎌倉の住人もたまに訪れる我々もそうですが、この段葛も若宮大路も方位は正確に南北を指しているものとして認識していますが、実は27度ずれているのであります。吾妻鏡の記事によりますと鎌倉時代にも同様だったようです。写真は桜の苗木を植えてまだまもない大正時代の風景です。(地図参照)

3 横大路

西は馬場小路(八幡宮西端)から東は筋替橋までを指します。

頼朝が二所詣でに出発するときに横大路を西行し、八幡宮に参り、若宮大路を南行くして稲村ガ崎へ向かったとの記事が吾妻鏡にあります。

*参考・・吾妻鏡建久二年二月四日条(読み下し)

建久二年(1191)二月小四日癸未 前右大將家二所へ御參す。辰剋に横大路を西行し、先ず鶴岡宮に御參す。御奉幣後進發し給ふ。若宮大路を南行し稲村崎に至り行列を整る。(後略)

4 赤橋

鶴岡八幡宮参拝のために池に架けられた朱塗りの板橋でしたので、赤橋といいます。「鎌倉志」には「本社へ行く反橋也、五間に三間有り、昔よりこれを赤橋といふ」とあります。橋は寿永元年(1182)5月15日に初めて架けられたといわれます。

5 源平池

この橋の下で繋がっている二つの池を称して源平池といいます。寿永元年4月24日弦巻田と呼ばれる社前の水田三町余の耕作を止め、大庭景義を奉行として池を造りました。

一説には初め双方とも島が四つだったのを、政子が日の昇る東の島を三つにして、産につづくので源氏とし白い蓮を植えさせ、日の沈む西側を死につながる四つにし、平氏の旗印と同じ赤色の蓮を植えさせたという伝説があります。しかし、源平池という名は江戸時代以降なのだそうです。

*参考・・吾妻鏡寿永元年四月二十四日条(読み下し)

壽永元年(一一八二)四月小廿四日甲子。鶴岳若宮邊の水田「絃巻田と号す」三町余の耕作之儀を停め、池を改め被る。專光景能之を奉行す。

6 流鏑馬馬場

参道を社殿に向かって進むと参道を横切る形で東西に鳥居のある道と交差します。

この道は流鏑馬馬場と呼ばれ、流鏑馬神事のため、馬が走るので中央に耕した跡があります。

頼朝は文治2年(1186)8月15日鶴岡八幡宮の放生会の時に、西行法師(佐藤兵衛尉憲C)と出合い、秀郷流の弓馬の法(流鏑馬も含まれる)を教わっています。

*参考・・吾妻鏡文治二年八月十五日条(読み下し)

文治二年(1186)八月小十五日己。丑二品、鶴岡宮に御參詣而して老僧一人鳥居邊に徘徊す。之を恠み、景季を以て名字を問は令め給ふ之處、佐藤兵衛尉憲清法師也。今は西行と號すと云々。仍て奉幣以後心を靜かに謁見を遂げ、和歌の事を談ずる可し之由、仰せ遣は被る。西行承る之由を申さ令め。

宮寺を廻り、法施奉る。二品彼の人を召さん爲、早速還御す。則ち營中に招引し、御芳談に及ぶ。

此の間、歌道並びに弓馬の事に就き、條々尋ね仰せ被る事有り。西行申して云はく。

弓馬の事者、在俗之當初、憖に家風を傳へると雖も、保延三年八月遁世之時、秀郷朝臣以來九代嫡家相承の兵法を焼失す。罪業の因を爲すに依て、其の事曽へて以て心底に殘し留め不、皆忘却し了んぬ。詠歌者、花月に對して、動感之折節、僅に卅一字を作る許り也。全く奥旨を不知。然者、是彼報じ申さんと欲する所無しと云々。

然而、恩問等閑不之間、弓馬の事に於者、具に以て之を申す。即ち俊兼に其の詞を記し置か令め給ふ。縡終夜を専らに被ると云々。

又、放生会の流鏑馬に際し、謡曲敦盛で有名な熊谷次郎直実が頼朝に的立て役を命じられ、御家人は皆平等なはずなのに、流鏑馬役は騎馬で、的楯役は徒歩あるきなので、そんな役は不公平だと怒るのを、頼朝は的楯役も立派な役目だと説得するのですが、直実はどうにも承知しないので、領地熊谷郷の預所職を取り上げられたといった話もあります。

*参考・・吾妻鏡文治三年八月四日条(読み下し)

文治三年(1187)八月四日壬申。今年鶴岡に於て放生會を始行せ被る可しに依て、流鏑馬射手并びに的立等の役を充て催さ被る。其の人數に熊谷二郎直實を以て、上手の的を立てる可し之由、仰せ被る之處。直實欝憤を含め申して云はく。

御家人者皆傍輩也。而るに射手者騎馬、的立役の人者歩行也。既に勝劣於分けるに似たり。此の如き事者、直實嚴命に從い難し者り。

重ねて仰せて云はく。此の如き所役者、其の身の器を守り、仰せ付け被る事也。全く勝劣を不分。就中、的立役者下職に非。且は新日吉社祭御幸之時、本所の衆を召し、流鏑馬の的を立被畢。其の濫觴の説を思ふに、猶射手之所役に越ゆる也。早く勤仕可し者り。

直實遂に以て進め奉り不能之間、其の科に依て所領を召し分か被る可し之旨仰せ下し被ると云々。

7 舞殿

舞殿では、静御前が頼朝の命で舞ったのですが、その頃はこの舞殿はなく、回廊にて舞ったのです。

この時に「折角の神聖な催しに反逆者である義経を恋い慕う歌を唄うなどけしからん.。」と怒るのですが、それを政子が「私も昔、父に反対されながら、雨の夜道をあなたの元に走った時の自分の気持ちを思うと、愛する義経の

ことを慕っている靜の気持ちが良く分かります。今でも義経を慕うのは貞女である証拠です。」と諭すと、頼朝はそれは殊勝なと感じ入り、褒美に着ている衣を与えました。

*参考・・吾妻鏡文治二年四月八日条(読み下し)

文治二年(1186)四月大八日乙卯。二品并びに御臺所、鶴岡宮に御參す。次を以て、靜女於廻廊に召し出被る。

是、舞曲を施さ令む可しに依て也。

此の事、去る比仰せ被る處、病痾の由を申し參不。身に於て屑と不る者、左右に不能と雖も、豫州の妾と爲し、忽ち掲焉の砌に出る之条、頗る耻辱之由、日來内々に之を澁り申すと雖も、彼は既に天下の名仁也。

適、參向して歸洛近きに在りて其の藝を不見者、無念の由、御臺所頻りに以て勸め申さ令め給ふ之間。之を召被る。偏へに大菩薩の冥感に備う可し之旨、仰せ被ると云々。近日、只別緒之愁有り。

更に舞曲之業無きの由、座に臨みて猶固辭す。然而、貴命再三に及ぶ之間、憖に白雪之袖を廻らし、黄竹之歌を發す。

左衛門尉祐經、鼓つ。是、數代勇士之家に生れ、楯戟之塵を継ぐと雖も、一臈上日之職を歴て、自ら歌吹曲に携はる之故に、此の役に候う歟。畠山二郎重忠銅拍子を爲す。靜先ず歌を吟じ出して云はく

 吉野山峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ

次に別物の曲を歌う之後、又和歌を吟じて云はく、

 シヅヤシヅ〜〜ノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニナスヨシモガナ

誠に是社壇之壯觀、梁の塵殆んど動く可し。上下皆興感を催す。二品仰せて云はく。

八幡宮寳前に於て藝を施す之時、尤も關東の萬歳を祝う可き之處、聞し食す所を不憚、反逆の義經を慕り別れの曲を歌うは奇恠と云々。

御臺所報じ申被て云はく、君が流人と爲し、豆州に坐し給ふ之比。吾に於ては芳契有ると雖も、北條殿時宜を怖れ、潜に之を引籠被る。

而るに猶君に和順し、暗夜に迷い、深雨を凌ぎ、君之所に到る。

亦、石橋の戰場に出で給ふ之時、獨り伊豆山に殘り留まり、君の存亡を不知、日夜魂を消す。

其の愁を論ずれ者、今の如き靜之心は豫州の多年之好を忘れ戀慕不る者、貞女之姿に非ず。

外に形る之風情に寄せ、中に動く之露膽を謝す。尤も幽玄と謂つ可し、抂げて賞翫し給ふ可しと云々。

時于御憤休むと云々。小時して御衣〈夘華重〉於簾外に押し出す。之を纒頭被ると云々。

8 鶴岡八幡宮

祭神は応神天皇、比売神、神功皇后です。宇佐、石清水と共に全国の八幡宮を代表する大社であります。

始まりは、康平六年(1063)源頼義が奥州を鎮定しての帰り、海岸近くの由比郷鶴岡の地に密に石清水八幡宮を勧請し、鶴岡若宮と称しましたのが、辻の踏み切りそばの元八幡です。

これをその後、治承四年、頼朝が鎌倉入りすると小林郷北山に遷座し、鶴岡八幡新宮若宮と称しました。

建久2年(1192)3月3日昼間法会が行われ、箱根権現から呼んだ稚児舞や、流鏑馬、相撲が奉納され、大満足の頼朝でした。

ところが、その夜半(今の翌朝未明)小町大路あたりから出火し、折からの南風にあおられ境内の堂塔ことごとく焼け、おまけに大倉の幕府まで焼失してしまいました。この礎石の跡を見て頼朝は泣きました。

*参考・・吾妻鏡建久二年三月三日四日五日条(読み下し)

建久二年(1191)三月小四日壬子陰。南風烈し。丑尅、小町大路邊から失火す。江間殿、相摸守、村上判官代、比企右衛門尉、同じく藤内、佐々木三郎、昌寛法橋、仁田四郎、工藤小次郎、佐貫四郎巳下の人の屋數十宇燒亡す。餘炎飛ぶが如くし而、鶴岳馬場本之塔婆于移る。

此の間、幕府同じく災す。則ち亦、若宮神殿廻廊經所等悉く以て灰燼と化す。供僧の宿坊等少々同じく此の災を遁れ不と云々。凡そ邦房之言、掌を指すが如き歟。

寅尅藤九郎盛長の甘繩宅に入御す。炎上の事に依て也。

建久二年(1191)三月小六日甲寅。若宮の火災の事、幕下殊に歎息し給ふ。仍て鶴岳に參り、纔かに礎石を拜みて御涕泣歟。則ち別當坊に渡御し、新營の間の事を仰せ含め被ると云々。

そこで、今度は裏山の中腹を削って、新たに勧請して創建しました。

それが石段の上の今の本宮で、上宮ともいわれます。この時に同時に下宮の若宮も再建して上下兩宮としました。以来、当社は鎌倉幕府の首座におかれ、源氏の氏神、武門の守護神として厚く崇敬され、将軍派年初に参詣し、朝廷からの勅旨を受ける時や、拝賀の式も社頭で行うのを恒例としてゆきます。

9 隠銀杏

石段を登りかけた左側に銀杏の古木が公暁が隠れていて実朝を暗殺したとの伝説にいわれる鎌倉で一番古い銀杏の木で「公暁の隠れ銀杏」といわれます。

よく、バスガイド嬢などが「この十三段目に実朝が足をかけた時、突然銀杏の陰から女かずきを冠った公暁が飛び出して、一刀の元に首を掻き切り、この首を小脇に抱え八幡宮裏の大臣山へ逃げ込んで云々。」とか「十三という数字の縁起の悪さは洋の東西を問わず云々。」などと見てきたような話をしております。

しかし、この隠れ銀杏の話は水戸黄門の大日本史以来ともいわれ、又樹齢千年のこの銀杏の木ですが、実朝暗殺は承久元年(1219)なので約780年前の話になります。当時の樹齢は二百数十年と思われますので、隠れるほどに太かったのでしょうか。又、公暁は八幡宮別当といって八幡宮では一番偉い役ですので、拝賀の際ずっと実朝の傍にいる訳ですから、何時でも実朝を討ち取れる立場にあったことになる訳です。

それなのにわざわざここに隠れている必要は全くない訳です。

公暁の実朝暗殺は、親の仇討ちか。将軍の座を狙っての犯行か。誰か炊きつけた者がいたのか。何故、北条義時が具合が悪くなって交代した太刀持ちの源仲章は一緒に殺されたのか。公暁は使いを三浦義村の屋敷に使いを出したのは何故か。その話を受けた三浦義村が被官の長尾定景に公暁を殺させてしまったのは何故か等疑問が増えるばかりです。

*参考・・吾妻鏡承久元年(1219)正月廿七日条(現代語訳)

建保七年(1219)正月廿七日 夜になって、雪が降り、二尺ばかり(60cm)積もりました。今日は将軍家の右大臣任命報告の拝賀のため鶴岡八幡宮へお参りします。お参りは酉の刻(午後6時)です。(行列の御家人名省略)括弧書きは管理人注

路地の警護の軍隊は千騎(沢山の意味)です。八幡宮の楼門に入られる時に、義時は急に気分が悪くなる事があって、将軍の太刀を源仲章に渡して引き下がり、神宮寺の所で列から離れ、小町の屋敷に帰られました。将軍実朝は夜遅くなって神様への参拝の儀式が終わって、やっと引き下がられたところ、八幡宮別当(代表)の公暁が、石階の脇にそっと来て、剣をとって実朝を殺害しました。

その後、警護の武士達が八幡宮社殿の中へ走ってあがり、<武田信光が先頭に進みました>下手人を探しましたが見つかりませんでした。ある人が云うには、上の宮のはしで公暁は「父のかたきを討った。」と名乗っていたとの事です。これに聞いて、武士達はそれぞれ八幡宮の雪ノ下にある御坊(八幡宮西脇の奥)へ攻めかかって行きました。公暁の門弟の僧兵達が中に閉じこもって戦っていましたが、長尾新六定景、その息子の景茂と胤景と先頭を競いましたとこ事です。勇士が戦場へ向かう心得は、こうあるべきだと人は美談にしました。(長尾は石橋山合戦で敵対したため、囚人として三浦に預けられ、被官化している。)ついに僧兵達は負けてしまいました。公暁がここにいなかったので、軍隊はむなしく退散し、皆呆然とするしかなかったのです。

一方公暁は、実朝の首をもって、後見者の備中阿闍梨の雪ノ下の北谷の屋敷へ向かいました。ご飯を進められましたが首を離さなかったとの事です。使いの者の弥源大兵衛尉〈公暁の乳母の子〉を三浦義村の所へ行かせました。「今は将軍の席が空いている。私が関東の長(将軍)に該当するべき順なので、早く方策を考えまとめるように指示しました。これは義村の息子の駒若丸が公暁の門弟になっているから、その縁で頼まれたからなのか。義村はこの事うを聞いて、実朝からの恩義を忘れていないので涙を落としました。しかも言葉を発することもありませんでした。

しばらくして、「私の屋敷に来てください。それに迎えの軍隊を行かせます。」と伝えるよう云いました。使いの者が立ち去った後に、義時の下へ使いを出しましたとの事です。義時からは、躊躇せずに公暁を殺してしまうように命令されましたので、義村は一族を集めて会議をしました。公暁はとても武勇にたけた人なので、たやすくはいかないので、さぞかし大変な事だろうと皆が議論していたところ、義村は長尾定景をさして勇敢な器量を持っていると討手に選びました。

長尾新六定景<八幡宮での合戦の後義村の宅に向かって来ていました。>は辞退することが出来ず、座を立って黒皮脅しの鎧を着て、雑賀次郎<関西の人で強い人です。>と部下を五人連れて、公暁がいる備中阿闍梨の宅へ出かけた時、公暁は義村の使いが送れているので、八幡宮の裏山の峰へ登り、義村の屋敷へ行こうと考えました。それなので、途中で長尾新六定景と出会い、雑賀次郎は忽ちに公暁を抱え互いに戦う処で、長尾新六定景は太刀を取って公暁の首を取りました。<腹巻(簡易な鎧)の上に素絹を着ている。>この人は、前の將軍頼家の息子で、母<爲朝の孫娘です>は賀(蒲)生六郎重長の娘です。公胤僧正(千葉常胤の子)に受戒を受けて出家して、貞暁僧都(前の八幡宮別当)から仏教を習った弟子です。

長尾新六定景はその首を持ち帰りました。直ぐに義村は北條四郎義時の屋敷へ持って行きました。北條四郎義時は出てきてその首を見られました。安東次郎忠家が明かりを取って差し掛けました。北條泰時がおっしゃられました。「正に未だ公暁の顔を拝顔していないので、なお疑いがある。」との事でした。

そもそも、今日の勝事(不吉な事を忌言葉{縁起が悪い言葉}を嫌いこう云う。「梨」を「有の実」とか「するめ」を「当たり目」と云ったり)は前々から現れていた異常な事が一つではないのです。実朝は出発の時間になって、大江廣元が前へ来て云いました。「私は成人してからこの方、未だに涙を顔に浮かべた事が有りません。それなのに今、お側に居ましたら涙が流れて仕方がないのです。これは只事では有りません。何か在るのかもしれません。頼朝様が東大寺の大仏殿完成式に出た日の例に合わせて、束帯(衣冠束帯と云って公式の礼服)の下に腹巻(簡易な鎧)を着けて行かれるのが良いでしょう。」との事でした。源仲章が申し上げました。大臣大將の位まで昇った人で、未だかつてそんな式に出た人はありませんとの事でした。それでこれは取り止めとなりました。

又、宮内公氏が実朝公の髪を梳かしていたら、自ら髪の毛を一本抜いて、「記念だ。」と云ってこれを渡しました。次に庭の梅を見て縁起のよくない和歌を歌われました。「出ていなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」(出て行ってしまったら主人のいない家になってしまうけど、梅よ春になったら忘れずに咲くのですよ。)次に、南門を出られる時は源氏の守り神である鳩が盛んにさえずっていたし、車から降りる時には刀を引っ掛けて折ってしまいましたとの事です。

又、今夜のうちに公暁の仲間を糾弾するように、二位家(政子)から命令が出ました。信濃國の住人で中野太郎助能は少輔阿闍梨勝圓を捕虜にして北條四郎義時の屋敷に連れて来ました。是は公暁の受法の師匠だからとの事です。

建保七年(1219)正月廿八日今朝、加藤判官次郎(加藤次景廉)が使節として京都へ向かいました。これは將軍家が薨去した事を朝廷へ申し上げるためです。行程は五ケ日で行くようにと決めましたとの事です。辰尅(午前八時頃)御臺所(坊門姫)は髪を落とされました。莊嚴房律師行勇(退耕行勇・栄西の弟子)が戒師をしました。又、武藏守親廣、左衛門大夫時廣、前駿河守季時、秋田城介景盛、隱岐守行村、大夫尉景廉以下の御家人達百人以上が堪らず実朝の亡くなった心の傷のため出家をしました。戌尅(午後八時頃)將軍家は勝長壽院の傍に葬られました。昨夜、首が見つからず五体がそろっていないと困った事なので(仏教上成仏出来ない)、昨日公氏に与えられた髪の毛を頭の変わりに入棺しましたとの事です。

10 八幡宮社殿

社殿の建築様式は流れ権現造りといわれ、本殿と拝殿の二棟をつなぎ、幣殿としており、文政11年(1828)将軍徳川家斉の造営です。左右の回廊は西が宝物殿で古神宝類や重文の太刀等があり、東は事務所や控えの間などになっています。

11 丸山稲荷社

本殿の西側の小高い上の稲荷は、丸山稲荷でもとからここにあったというので、地主神といわれ社殿は小さいながらも室町時代の建築で国の重要文化財になっています。

12 白幡神社

祭神は、頼朝実朝を祀っています。ここの御手洗石がよく見ると連弁が逆さになっています。これは、明治の廃仏毀釈以前の一切経の納めてあった輪倉の礎石を逆さまにして中を刳り貫き、手水鉢にしたものです。

13 畠山重忠邸跡

畠山次郎重忠は、頼朝死後六年目の元久2年(1205)、時政の後妻牧の方とその娘婿の平賀朝雅の姦計にあい、謀反の罪をきせられ、嫡男が先に由比ガ浜で殺されました。翌日そうとは知らず領地の菅谷館から、いざ鎌倉とたった134騎で馳せ向かって来ましたが、二俣川で北条義時いか数万騎の軍勢に待ち伏せされ、4時間に渡る激闘の末、愛甲三郎季隆の矢に射止められました。吾妻鏡は重忠特集の時にしましょう。なお、ここが畠山次郎重忠の鎌倉屋敷跡と石碑がありますが、現在では、ここは政所跡と想定されていますので、間違いになります。

先へ進むと突き当たります。

14 西御門

この南北の道が本来の幕府の西門のある通りであった「西御門大路」だったのです。

国大付属小学校の場所に明治政府が師範学校を建てる為、道を移動させたらしいです。

左へ曲がり学校の門前を右へ行くと、現在の西御門大路へ出ます。大路を左へ曲がり北へ行くと左側に「西御門大路」の石碑が有ります所で、右の路地へ入りましょう

15 頼朝の墓

路地を進むと左の公園の先で、左に石碑や石段があり、その上に頼朝の墓が有ります。石段を登った正面に垣根に囲まれた石塔が墓ということになってます。

16 源頼朝

頼朝は、源義朝の三男として、久安3年(1147)に熱田宮司藤原季範の娘を母として生まれました。初めから血筋が良いのか嫡男として育てられました。平治の乱の一時の戦勝時は、右兵衛佐に任じられたことから、以後の伊豆時代に佐殿と呼ばれています。

平治の乱で源氏は敗れ、死罪になる処を、平清盛の継母池禅尼に救われ、伊豆国北条の蛭ケ小島に遠島になります。それから忍ぶこと二十年、治承四年(1180)八月十七日に旗あげし、伊豆の目代山木判官平兼隆を討ち、石橋山の合戦となり、頼朝軍三百騎に対し、京都の平清盛から頼朝追討の命を受けた大庭三郎景親を大将とする平氏軍三千騎が前方から、伊東次郎祐親の三百騎に後方から挟まれ、敗退するのですが、苦戦の末土肥次郎實平の案内で箱根権現に隠れたり、、有名な梶原平三景時がわざと見逃した話などがあり、真鶴から船で安房へ逃れる事になるのです。この合戦で北條義時の兄北條三郎宗時や岡崎義實の息子佐那田余一義忠が討ち死にしています。

さて、安房についた頼朝は、別の船で来た伊豆の諸將、時政親子達や衣笠城落城で逃れてきた三浦一族、その親戚の安房の安西、丸と会って、安房、上総、下総の豪族に呼びかけ、千葉介常胤一族は直ぐに駆けつけたのでその後後陣の栄誉を与えられるのです。

数千騎の軍勢となり、東京湾沿いに鎌倉へ向かい、利根川を渡るところで、葛西三郎C重、足立右馬允遠元の下総の豪族、上総權介廣常の二万騎、畠山、川越、江戸等秩父の一族と熊谷、金子、岡部、児玉の武藏七党、小山、下河邊等下野の豪族が参陣し、五万騎の大軍勢となって武勇で名高い畠山次郎重忠を先頭に荒川を渡り十月六日亀谷坂切通しから鎌倉入りをしました。

17 頼朝の墓塔

この墓の五段の石塔は、安永八年(1779)島津重豪が、わが先祖の島津忠久は、頼朝の御落胤であり、新田氏の分家の庶子のその又云々の徳川家よりも血筋が、とばかりに頼朝の墓を整備し、一山隣に忠久の墓を作りました。江戸時代に江ノ島鎌倉詣でが流行ったので、これ見よがしに墓石前の香炉に島津家の家紋、丸に十の字の轡紋を彫ってあり、関が原以来の島津家の心意気が感じられます。

18 大倉幕府

ここから見える南一帯、六浦道までの間が幕府の御所だった所です。頼朝は鎌倉入りした初めは父義朝の館跡であった寿福寺の地に屋敷を考えたのですが、すでに岡崎四郎義實が義朝供養のお堂を建てていた事や土地が狭い事などから、この大倉の地を選んだとのことです。

19 頼朝の墓の始り

その頼朝が正治元年(1199)正月十三日に亡くなりました。その前には、ここには頼朝の持仏が祀られていました。「吾妻鏡」の文治五年(1189)奥州征伐に出かける頼朝が伊豆山僧侶専光坊を呼びつけて、奥州合戦が無事にいきますように、私が出発して二十日目に御所の裏山に特別な祈願所を自分の手で設けて、私の持仏の二寸銀の正観音像を安置して、祈りなさい。と言いつけております。

*参考・・吾妻鏡文治五年(1189)七月小十八日条(読み下し)

文治五年(1189)七月小十八日丙子。伊豆山住侶專光房(良遷)を召し、仰せて曰はく。奥州征伐の爲に潜に立願有り。汝は持戒の住侶也。留守に候じて祈精を凝らす可し。將又進發之後廿箇日を計り、此の亭の後山に於て、故に梵宇を草創可し。(後の頼朝法華堂)年來の本尊正觀音像を安置し奉らん爲也。別の工匠に仰す不可。汝自ら柱許りを立て置く可し。營作に於て者、以後沙汰有る可し者り。専光領状を申す。

死後そこに法華堂を建立し頼朝の墓とし、右大将家の法華堂という一つの寺となります。

後に和田合戦では実朝がここに逃れ、テレビ時宗の三浦合戦では高橋秀樹の毛利季光や三浦一族276人がここの頼朝の画像の前で往事を偲びながら自刃しております。

20 頼朝の死

その死因は諸説ありまして、例えば、稲毛三郎重成が妻の(時政の娘)供養の為に相模川に橋を架け、その供養の儀式の帰りに落馬したのが原因とも、落馬の原因も脳溢血とか糖尿病による眩暈とか、平家一門、奥州一族、義経、義仲、安徳天皇の怨霊に苛まされ落馬したとか、はたまた女癖の悪い頼朝への恋敵から暗殺されたとか、それに政子の嫉妬が絡んでたとか・・・・諸説紛々でありますが、本当のところは不明です。

先ほどの公園のところまで戻り、左折して東御門大路を横切り進むと左奥の階段上に神社が見えます。

21 荏柄天神社

この神社は、天神さまなので祭神は当然菅原道真公です。長治元年(1104)道真の霊が降臨したので、ここに奉ったと云われます。頼朝が鎌倉入り前からある古社で、大倉幕府の鬼門に当るので頼朝は修復を加え、大社にして信仰したので、盛時には日本三天神社になりました。

吾妻鏡にも何度か記事がでてきますが、建保元年和田の乱の原因である「泉親衛の陰謀」に加担したとして捕らえられた澁河刑部六郎兼守が、和歌を十首荏柄天神社に奉納し、これを読んだ実朝が感動し放免した記事があります。

これには後日談があり、このお礼に、澁河兼守は、六浦道が二階堂川を渡るところに橋をかけたので、この橋を「歌の橋」と呼ぶそうです。

門を入って右側の銀杏は八幡宮の銀杏についで古く、あちらの樹齢千年に一寸遠慮して九百年としています。

建物は、徳川家二代將軍秀忠が復興した社殿で八幡宮より古いのが特徴です。

境内左手には、河童の漫画で有名な清水昆の筆供養の碑があり、石段の上には皆さんにもお馴染みの漫画家が自分のキャラクターを河童にもじって記念プレートを埋め込んである筆塚があります。

天神社を出たらそのまま参道(天神様なので参道の両側に梅の木が植えられています。)を南に向かうと途中でバス通りを横切りますが、この道は明治中期以後に鎌倉宮への道として新しく作られたものです。

少し進むと今度は路地を横切りますが、これこそが鎌倉時代の二階堂大路と呼ばれた、六浦道の別れ道で永福寺への参詣路でした。

六浦道へ出たら歩道を右へ、信号で南へ渡り路地へ入ります。

22 文覚上人屋敷跡地

橋を渡った右手に文覚上人屋敷跡地の石碑があります。

この文覚は、元京都御所警護の北面の武士でしたが、同僚の奥さんと不倫に陥り、同僚を殺してしまおうと不倫相手の奥さんと企み、寝ているところを刺し殺すことにするのですが、ところが罪の意識に責められて、自ら死を選び同僚のふりをして寝ていた不倫相手を刺し殺してしまい、その罪を悔い出家して荒行に励んだのでした。

文覚は神護寺の復興の寄進を後白河法皇にせがみすぎ、伊豆へ流罪になり、頼朝に父義朝の髑髏を見せて平家打倒を決心させたとも云われ、頼朝は大事にしてこの先の大御堂を守る意味でここに屋敷地を与えたのかも知れません。

23 勝長寿院跡地

先へ進み古材木が積んであるところで、右手への道を入り五十b程で左手に石碑と近年追悼供養した五輪塔があります。

文治元年(1185)四月十一日、頼朝がこの勝長寿院の立柱祈願の式典の最中に義経からの平家討滅の手紙を受取り、係りが読んでいるのを頼朝自ら取り上げて巻き持って八幡宮の方を向いて座り、押し黙ったと吾妻鏡にあります。なお、吾妻鏡では「南御堂」と書いています。

*参考・・吾妻鏡元暦二年(一一八五)四月小十一日条(原文)

元暦二年(1185)四月小十一日甲子。未剋、南御堂柱立也。武衛監臨し給ふ。此の間、西海の飛脚參じて、平氏討滅之由を申す。廷尉(義経)一巻の記〈中原信泰之を書くと云々。〉を進める。是、去月廿四日長門國赤間關の海上に於て、八百四十餘艘の兵舩を浮かべる。平氏又、五百餘艚ぎ向ひ合戰す。午尅、逆黨敗北す。(中略平氏の始末の名簿)藤判官代御前に跪き、此の記を讀み申す。因播守(大江広元)并びに俊兼、筑前三郎等其の砌に候う。武衛則ち之を取り、自ら之を巻き持た令め給ひ、鶴岡方に向ひ座ら令め給ふ。御詞を發せ被る不能。柱立上棟等の事終り、匠等禄を賜はる。漸く營中へ還り令め給ふ之後、使者を召し、合戰の間の事を具に之を尋ね下被ると云々。

24 釈迦堂谷切通し

先ほどの道に戻り、先へ行き黒いトタン塀のところで右を見ると釈迦堂谷の順路表示と「通行禁止」の看板のある三叉路を右へ入って行くと、左側に畑や梅林が広がります。このあたりに北条泰時が父北條義時の追善供養に釈迦堂を建てたといわれます。更に進むと砂利道に変わり、その先にポッカリと口をあけた穴があります。釈迦堂谷切通しです。崖の左上の木の葉越しに岩の切れ目が見えますが、北条時政名越邸の裏口とも、かつての三浦道とも云われます。トンネルを出て振り返ると頭上にやぐらの跡が見えます。

トンネルを抜けたら下り、平らになると道は右へ曲り、途中Y字の道は右へ、少し行って左へ曲りかけた所でやたらと鉄パイプで囲まれた家の前では右への道を行きましょう。先のカーブミラーの所で左へ入り、段々上り坂になり又トンネルを抜けます。

このトンネルは何時も涼しい風が吹いています。

下って行くと左側に真新しい今風の小さな住宅分譲がありますので、そこで右へ曲り奥へ登って行きましょう。

25 腹切やぐらと東勝寺跡  

一番奥まで行くと左は空き地で右に2軒ほどの家があるこのあたり一帯が、泰時の建てた鎌倉での北条氏の氏寺「東勝寺」跡です。太平記では新田義貞の鎌倉攻めに敗退し、この寺内で火を放ち北条高時はじめ一族五百人以上が自害して果てたといわれます。又突き当たり山への階段の登り際の左にやぐらがありますが、戦がおさまって焼け残った骨を一同に纏めて埋葬したといわれ、「北条高時腹切りやぐら」と呼ばれています。

道を戻って東勝橋を渡り、出た道が「小町大路」です。右は筋替橋へ、左は材木座まで通じています。

右斜め前の路地へ入りましょう。

26 若宮大路幕府跡

路地が左へカーブする所に「若宮大路幕府跡」の石碑があります。

北条氏執権三代目の泰時は、幕府を二度移転している最後の幕府跡がこの南側にあったと思われます。泰時の私邸はこの北側にあったものと思われています。泰時という人は真面目な人であったらしく、執権職にありながら誰よりも早く出勤するので、役人の中にそれより早く出勤しようとして泊り込んだという話もあります。

吾妻鏡では、泰時のことをとてもよい人に書かれていますが、もっとも書いた人は彼の子孫の人たちなのです。

この石碑の粋な黒塀に見越しの松は「鞍馬天狗」で有名な大仏次郎の生前の家です。

若宮大路と小町大路の中間にあるこの路地を南へ辿り、いくつかの交差する路地を越えて、清川病院の裏を右へ左へと迷路のように曲がりくねって行くとやがて右側に赤い幟が立っているお稲荷さんがあります。

27 宇都宮辻子幕府跡

このお稲荷さんは「宇都宮稲荷」といい栃木県宇都宮の一族の鎌倉屋敷の鬼門にあったものと思われ、その北側の路地を宇都宮辻子と呼ばれ、路地の北側に幕府があり南の宇都宮辻子に向いて門があったので、こう呼ばれるものと思われます。

泰時は、大江廣元も死に、伯母の尼將軍北条政子も死んで、心機一転のために幕府を移したと思われます。

辻子とは、鎌倉独特の言葉で、路地を差します。道の呼び方として「大路」「小路」「辻子」となる訳です。

参考文献

国史大系 吾妻鏡  黒板勝美著 吉川弘文館  昭和十七年十二月二十日再版発行

鎌倉史跡辞典    奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

鎌倉辞典       白井永二編 東京道出版社 平成三年十二月二十五日発刊

鎌倉の史跡めぐり  清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

このほかに、鎌倉初期のおおまかなストーリーを理解するには、永井路子さんの小説「北条政子」がお勧めです。

  

inserted by FC2 system