歴散加藤塾 第二十六回 大仏の切通しと長谷大仏 平成十七年十月三十日  資料作成及び引率説明 @塾長

 

 

参加者の皆様へのお願い

自分の安全は自分で気をつけてください。

交通ルール・特に赤信号を守り、狭い道でも車道を占領せず歩道を歩きましょう。

歴史散策グループは、地元住民にとってはただのお邪魔虫です。路地では大きな声で話をしないよう注意しましょう。

史跡を訪ねたときは、目障りな現代の物件(ビル・電柱)は心眼で画像を修正消去し、タイムトラベルに浸りましょう。

折角の鎌倉味わいですから、普段何気なく口にしている俗世間の下世話な話(職場の愚痴・ライバルの悪口・孫自慢等)は控えましょう。

 目次

 一 千葉一族屋敷跡  二 諏訪一族屋敷跡  三 北條政村常磐別邸跡地

 四 塩田流北條義政亭跡地  五 大仏の切通し  六 高徳院

 七 大仏様  八 長谷寺  九 御霊神社  十 星月ノ井  十一 虚空蔵さん  十二 成就院  十三 極楽寺  十四 月影地蔵

 今回は、北條一族の名連署「北條政村」の常磐別邸とその兄、重時の息子、塩田流北條義政の常葉邸跡地、昔の面影の残っている「大仏の切通しが、最近通り抜けられるようにしてくれたので、通り抜けてみましょう。有名すぎて、つい行き忘れている「鎌倉の大仏」、大きいもの続きの「長谷観音」、鎌倉権五郎の「御霊神社」、紫陽花の「成就院」、花の綺麗な「極楽寺」と廻りましょう。

☆歩き・鎌倉駅の東口を出発すると横浜銀行の前から横須賀線の下を潜り、西口に参りましょう。西口に出たら、駅前から西へ向うと信号に出ます。

一、千葉一族屋敷跡

 信号を渡った正面の紀国屋は小字をチバチと云い、と千葉常胤一族が頼朝から賜った屋敷の跡と謂れます。ある学者さんによると有力御家人の屋敷は五百坪(約40m四方)にもなるとも言われます。五十坪が約7m四方ですので、大きさの見当がつきますか。

二、諏訪一族屋敷跡

 左の鎌倉市役所の歩道に大きな古い楠があります。この道路は昭和も五十年代に開通したばかりですので、道路の並木にしては古すぎます。どうしてでしょう。実は市役所がここへ移転する前にここにあった諏訪神社の境内木なんです。市役所建設の際に神社は移転しましたが、樹木はそのまま残された訳です。

☆歩き・そのまま西へ向かって進むと右に現在の諏訪神社を見ながら一つ目の隨道を抜け法務局前交差点は佐助谷。右への道が佐助稲荷、銭洗い弁天の参道。

二つ目の隨道を抜けた交差点は長谷大谷戸で左へ行けば大仏。

三つ目の隨道を抜けるとそこの小字は一向堂少し先の右側の広場に説明板があります。

三、北條政村常磐別邸跡地

 北條政村(大河ドラマ時宗では伊藤四郎)は、北條義時の四男で母は伊賀氏の娘。義時の死亡時に母とその兄が三浦義村と結託して総領の泰時を廃し、北條政村を執権につけ、その後見として乳母夫の義村を立てる姦計を企てました。しかし、政子が夜中に女房一人を連れ義村と直談判し義村を納得させ、泰時を執権につけました。

しかし、泰時は義村の証言により北條政村自身には何の企ても無いことを知り、家督(相続財産)も多く分け、その後政治にも重用しました。

この屋敷地の発掘では、硯、水差し、骨製サイコロ等が発見され、六代将軍(宗尊親王)の頃に連署になった政村の別業へ訪問した記事に符合しますので、一種の別荘のような存在だったのではないでしょうか。

吾妻鏡抜粋建長八年(1256)八月小廿日戊寅。新奥州〔元前右馬權頭(政村)。〕執權(連署)の事を奉る之後。將軍家始めて彼の御常葉の別業于入御有る可し之由。日來其の沙汰有り。治定す。既に來る廿三日爲る可しに依て、今日供奉人を催お被る。其の散状を披覽之後。御前に於て、故障之替已下を相加へ被る事有り。

建長八年(1256)八月小廿三日辛巳。天リ。將軍家新奥州の常葉第于入御す。巳刻御出。〔御水干。御騎馬。〕

 又、江戸時代に大瓶一杯の朱が見つかり、血と間違え百姓が気味悪がって川に流し捨てたとも云われ、金一升朱一升と云われる位なので、その裕福さが偲ばれます。

この屋敷地から道路を隔てた崖の下あたりを腰巻という小字があります。一般に腰巻とは城等の周りに廻る掘を控えた崖を云いますので、きっとあの上に守備隊がいたのかも知れません。

☆歩き・先へ歩きますが、北條政村の屋敷はこの右側一帯で有った可能性もあります。

暫く歩くと右側に円久寺という日蓮宗の寺がありますので、その手前路地を右へ入りましょう。

四、塩田流北條義政亭跡地

 奥へ入っていくと雑草に覆われた広場が段々に奥へ続いています。地形的に先程の北條政村亭跡地とよく似ています。ここが北條義時の三男重時(平幹次郎)の息子義政(渡辺徹)の常葉邸跡地です。

彼は連署(執権と共に命令書にサインする人)の地位にありながら、突然出家を遂げ、知行地の塩田平@に遁世してしまい、無断出家の咎でその所領を執権の時宗(和泉元也)に召し上げられてしまいます。想像ですが、得宗Aの身内人Bとの政治的確執を恐れ、出家遁世したものと思われます。

参考@塩田平とは、信州(長野県)の真田幸村で有名な上田から別所温泉にかけての盆地を差します。鎌倉建長寺の蘭渓道隆(中国僧で建長寺開山)は、「建長寺は鎌倉で、安楽寺は塩田でそれぞれ百人、五十人の僧が修行し、仏教の中心になっている。」と大覚禅師語録にあるそうなので、鎌倉との交流があった事が偲ばれます。塩田平東端にある龍光院は北條国時開基とも言われ、義政の墓と云われる石塔もありますので、領主として塩田平に居館を構え、威を張っていたと思われます。安楽寺国宝の八角三重塔は鎌倉末期頃と考えられており(左写真)、常楽寺の石造多宝塔(重文)や前山寺の未完の三重塔(重文)などもあり、今でも信州の鎌倉と呼ばれています。

参考A得宗とは、二代目北條四郎義時の法名にちなんで北條家の嫡総(ちゃくそう・跡取)を代々そう呼んでいます。

参考B身内人とは、本来は得宗家の家政を司る執事の事ですが、得宗の権力が強まる。(得宗専制)に従い、その取次ぎ窓口として実権を掌握し始めてきました。特に平頼綱は時宗の絶大なる信頼を受けて、その子貞時の乳母をして後見として活躍するうちに、得宗すらないがしろにする程の実権を持って来てしまいました。

☆歩き・寺の脇へ戻ったら横断歩道を渡って先の路地へ入り、脇を川が流れる道と出会ったらこれは古道ですので、右へ進んでバス通りへ出ます。このバス通りは左が大仏へ、右は梶原・深沢を経て大船方面へ出ます。

バス通りで左へ曲ると「火の見下」のバス停があり、少し先の左への路地を入ります。路地は右折して直ぐ又左へ民家の一部みたいな路地を先へ進んで森の中へ入ります。

五、大仏の切通し

 森の中の辿道に「史跡 大仏の切通し」の標柱があります。

叢の左上の広場前に「やぐら」が見え、右手には大きな岩を断ち切った様にポッカリと道がつけられています。ちょっときつめの坂を上り詰めたら振り返ってみましょう。

ここから、上がってくる人に対し、弓矢を構えてみてください。ここに櫓門を建てしっかりと門を閉じ、矢石を飛ばせば侵入者を防げます。新田義貞も切通しを破ることは出来ず稲村ガ崎の太刀投げとなる訳です。しかし、ちょっと坂がきつすぎるところや、置石風にゴロゴロしている岩は後年崩れ落ちたものとも推定できます。

先へ歩くと所々に開けたところがありますが、平場と呼ぶ駐屯地と思われます。

切通しはかなり長く続き、途中後年大仏トンネル建設の際に古道が崩れ落ちてしまった場所に出ます。最近、抜け道を作ってくれたので足元に気をつけて進んでみましょう。。峠を下ると大仏ハイキングコースへ出ます。右へ下り階段を下り始めたところで、右へ上ると大仏配水池を越えて極楽寺裏へ出ますが、階段を下り大仏トンネルの通りへ下りますが、通りの向こう側を見てください。崖の中央に神社が見えます。古道はあの神社からここへ繋がっていたのです。

☆歩き・バスどおりへ出たらトンネルと反対側へ歩きます。正面に大仏様の寺が見えますが、すぐの歩行者用信号で向かいへ渡り、路地へ入りましょう。

この路地がかつての大仏の切通しへの古道なのです。右の奥に先ほどの神社が見えます。下っていくとバスどおりへ出ますので、先の歩行者用信号を渡ると高徳院です。

門の前、左に庚申塔が並んでいます。庚申塔は本来集落の入口に立てるものなのですが、きっと道路拡張工事の際にこちらへ引越ししたのでしょう。

六 高徳院

 大異山高徳院清浄泉寺と云い、もとは光明寺の奥の院とも云われますが、開山・開基共に不明。元浄泉寺の支院であったのが高徳院のみが残ったとも云われます。

七 大仏様

 奈良の大仏に比べて、鎌倉大仏と一般に謂れ、鎌倉で唯一の国宝の仏像です。

 与謝野晶子の「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」で有名ですが、大仏の手を見ますと上品上相の印を組んでいますので、お釈迦様ではなく阿弥陀如来で有ることがわかります。

 この大仏の制作については、朝廷の正式な事業としての奈良の大仏に比べ、非常に資料に乏しく、不明な点が多いのも特徴で、ミステリアスな存在となっています。

 僅かに吾妻鏡に記述があるので、抜粋してみました。

 吾妻鏡暦仁元年(一二三八)三月二十三日条(嘉禎四年を十一月二十三日に改元)今日、相模国深沢里大仏堂事始也。僧浄光尊卑の緇素に勧進令め、此営作を企てると云々。

訳しますと「僧浄光が諸国の大勢の人に協力を求め、浄財を集めてこの制作を計ったと云うことです。

 そして、仁治二年(1241)三月二十七日の条には、

 仁治二年三月二十七日条(前略)又深沢の大仏殿同じく上棟之儀有りと云々。

 この日に、建物の棟上式があったことがわかります。

 又、寛元元年(1243)六月十六日の条には、

寛元元年六月十六日条未刻小雨雷電、深沢村に一宇の精舎を建立し、八丈余の阿弥陀像を安んず。今日供養を展ず。導師は卿の僧正良信、讃衆十人。勧進聖人浄光房、此六年之間、都鄙を勧進す。尊卑奉加不は莫し。

 深沢村に寺を一つ建て、八丈余(八十尺、約24b立っている場合、ここのは座っているので約半分)の阿弥陀像を安置し、今日開眼供養を行なった。主たる坊主は良信で、共の坊主は十人だった。仏との結縁を呼び掛け浄財を集めて歩く坊主の浄光が、この六年の間、都会も鄙びた村も回って集めたので、偉い人も貧しい人も寄付しないものは無かった。

 と、記されています。建立式を始めてから、開眼供養まで丸五年、足掛け六年が係っています。

 東関紀行によると仁治三年(1242)八月この時の大仏は木造であったとのことです。

その後、建長四年(1252)八月十七日の条には、

 今日彼岸第七日に當り、深澤里金銅八丈の釋迦如來像を鑄し始め奉る。

 と記され、初めて金の大仏、八丈の釈迦如来像が鋳始められた。

 とあり、それまでは東関紀行の木造であったことが証明されます。

 但し、釈迦如来と有るので、別のものではとも想像されますが、「阿弥陀」の間違いだろうと思われています。

 実物を正面から見上げますと、全体のバランスが良く、端正な理知的なお顔に出来ており、晶子をして「美男におはす」と唸らせたことが良く感じられます。

 実は、実寸を調査すると、下半身に比べ上半身がかなりアンバランスに大きく作られていまして、作者は、初めから出来上がりを下から見上げた場合の遠近感を計算して作成しているわけです。

 像の高さは十一b三十九a、像の横に繋ぎの線が見えますので、一度に作成したわけではなく、下から順に鋳足して行ったことがわかります。

その、継ぎ目は鋳からくりと云って、下段の上縁を噛み加える方法(図一)や、下段の上縁に小孔をあけ鋳継ぐ(図二)、二方を併用する(図三)方法が取られています。

このお陰で奈良の大仏が鋳造後百年程で頭が脱落したことに比べ、鎌倉大仏は七百年以上もの間、目立った損傷もなく保たれています。 

図の一       図の二      図の三 

なお、最近の発掘調査の結果、下の礎石図のように、伝説どおり六十本の柱で大仏殿が建てられていたことが判明しております。

 

これによると、正面は二十七尺(約8.2m)そして左右に二十二尺(約6.7m)の間が二つ、そして十五尺の回廊状の廂か、裳腰があったものと思われます。

背中には窓が開いていますが、内型を支えた土を抜いた後とも云われます。

☆歩き・美男の阿弥陀を堪能した後には、先程の入り口から外へ出ましょう。通りへ出たら、通りを南へ向って右側の歩道へ行き、そのまま右側を南下しましょう。

暫らく歩きますと、と長谷の交差点に出ます。

直進だと江の電長谷駅、左は大町大路で下馬へ出ますが、右へ曲がると修学旅行生向けのお土産屋が左右に並びます。突き当たりに長谷寺が有ります。

八 長谷寺

 海光山慈照院長谷寺。真言宗。天平八年(736)の創建と寺伝では云われるが、大和の長谷寺に習ったものと思われます。梵鐘に文永元年(1264)七月十五日の銘があるので鎌倉時代末期には成立していたものと思われます。

石段を登り、何は兎も角一番大きな建物観音堂へ入りましょう。重要文化財の九b十八aに及ぶ十一面観音の巨像です。

右手に錫杖を持つ独特のお姿は「長谷寺式」と呼ばれ、観音菩薩のご利益ばかりではなく、同じように錫杖を突いていらっしゃる地蔵菩薩のご利益も賜ると言われます。

宝物館には、唯一鎌倉に保があった証拠の「長谷保」の文字のある室町時代の鰐口や板碑が展示されています。外へ出ると「大黒堂」「仏足石」「四天王」と続き「経蔵」ばあります。ここの経蔵は回転式で手押し棒をゆったりと押しながら一周すると、この経蔵のお経を全部読んだと同じ功徳を得られると言われます。

境内南西隅の展望台からの海の眺めが素晴らしいので、一休みしましょう。

観音堂の前を戻ると隣に丈六の阿弥陀様は寺のパンフレットによるとこちらがご本尊だそうです。観音様が大きすぎるのと、長谷観音の名で有名すぎるので気が付きませんでした。順路に従い石段を下ると綺麗な池のある庭園になっており、又、洞窟には弁天様のその眷属達の彫り物があります。天井が低いので頭をぶつけないように注意しながら、ゆっくり歩いて見ましょう。

☆歩き・長谷寺の門を出たら先ほどの長谷の交差点まで戻り、右へ60m程で鎌倉彫の店の角を右へ入りましょう。道也に左へ曲がると右に「権五郎神社」の石碑があるので右脇の路次へ入って行きましょう。突き当たると神社に出ます。

九 御霊神社

 権五郎さんとも云い、祭神は鎌倉権五郎景政。景政は十六歳の時「後三年の役」鳥海の柵の合戰で敵の矢を左目に受けながら、怯まず敵を倒し、陣へ戻ってから怪我を告げ、三浦為継が矢を抜いてあげようと顔に足をかけたことを怒り、為継に謝らせたと云われます。

後に浪人を集め、藤沢から茅が崎にかけて開発し、伊勢神宮を領家にたて大庭の御厨を立庄しました。

子孫には、大庭氏、梶原氏、俣野氏、長尾氏、長江氏の庶家に分かれ鎌倉党として威を張ることになります。

☆歩き・権五郎神社の正面江ノ電の踏切を渡り、参道を進みましょう。坂ノ下の通り

へ出ると右角の店、権五郎の「力餅」は三百年の歴史があるそうです。

力餅を右へ曲がり極楽寺方面へ歩くと古風で立派な木造りの塀の先の右側に「星の井」があります。

十 星月ノ井

「星月夜ノ井」とも「星月ノ井」とも呼ばれ、昔このあたりは老木が鬱蒼と茂り、

昼直暗き故に星月ケ谷と名づけられた。井戸の名もここからきたものであろうが、伝説には、この井戸の中には昼でも星の影が見えていたという。

ある時近所の召使の女が誤って菜切り包丁を井戸の中へ落としてしまい、それ以来星影は消えたしまったと伝えられる。

この他、千葉県印西市の「月影の井」縁起のなかに「清水湧出して四時渇水することなし、伝へて言はく、大菅豊後守の水行場と又月かげの井と称して、鎌倉星の井、奥州二本松の日の井と共に日本三井一なりという」とあります。

千葉が「月影の井戸」福島が「日影の井戸」鎌倉が「星影の井戸」と云うわけです。

十一 虚空蔵さん

明鏡山星井寺といい目の前の成就院が管理しております。寺伝では、天平二年行基菩薩が当所で虚空求聞持の法を修していたとき、傍らの井戸から明星に似た光輝く奇石を得た。この石を虚空蔵菩薩の化身であろうと菩薩像を彫って安置したといわれます。

人は死ぬと七日ごとに裁判を受け、極楽浄土へ導かれるわけですが、四十九日の法要、百か日、一周忌、三回忌で十王の裁判が終ります。実はこの地獄の王達の裏の姿は仏様で、なんとか往生できるように救おうとしてくれてもいるわけです。

初七日   二七日  三七日   四七日  五七日   六七日  七七日  百か日   一周忌  三回忌

秦広王   初江王  宋帝王   伍官王  閻魔王   変成王  泰山王  平等王   都市王  五道転輪王

不動明王 釈迦如来 文殊菩薩 普賢菩薩 地蔵菩薩 弥勒菩薩 薬師如来 観音菩薩 勢至菩薩 阿弥陀如来

それでも往生出来ないものがあれば、七回忌で阿閦如来(あしゅくにょらい)が、十三回忌で大日如来が往生を手助けするのですが、それでも救われないものを最後の三十三回忌に虚空蔵菩薩が往生させてくれるといいます。心配な方は、今のうちによく頼んでおくとよいでしょう。

道を反対側に渡り石段を登ると成就院です。

十二 成就院

古義真言宗大覚寺派、普明山法立寺成就院。承久元年(1219)空海の護摩壇跡に北條泰時が開基として建立したと伝えられる。本尊は不動明王。

石段を登る両側には紫陽花が植えられております。階段の途中で立ち止まり振り返ってみましょう。由比ガ浜の海が見えます。海と紫陽花とが絵になり、季節には満員電車並みの人手に驚かされます。石段を登りきったこの高さが往時の極楽寺切通しの高さなのです。通りの向かいの崖を見ますと、石塔が並んでいるのが見えますが、あれがかつての切通し道に並んでいたのです。

☆歩き・上ってきたほうとは、反対側の石段を降ります。道路へ出たら車に気をつけながら、左側を進むと民家の脇に奥へ入れる路地がありますので、三段ほどの石段を上がり路地を奥へ入っていってみましょう。

路地の奥、左側に三基の五輪塔や多層塔があります。上杉憲方が生前に建てた供養塔で憲方逆修塔といわれます。憲方は足利義満の時代(一二八〇頃)の人で鎌倉執事となり山内上杉氏で、明月院を創建した人です。

道路へ戻ったら左へ江ノ電の桜橋を渡ると左側に茅葺門が見えます。

十三 極楽寺

 真言律宗西大寺派。霊鷲山感応院極楽寺。開山は良観房忍性。開基は北條重時。元々は重時が作りかけていた寺を子供の長時、業時が完成させたようです。

往時には、四十九もの支院がある堂々としたものだったらしいです。

当時、新仏教と呼ばれる「念仏宗」が一般庶民に普及していく中、昔からの真言宗の僧達が弘法太子の遺誡に背き、僧としての行いを正していない。として戒律、特に律を守るべきであるとして、叡尊により「真言律宗」が生まれます。

その弟子である忍性は、常陸の三村寺から鎌倉へ呼ばれ、文永四年(一二六七)極楽寺を開山しました。彼は宗派の普及だけでなく、慈悲の精神を施すため、悲田院を再興して貧民を救い、道路修築や架橋、伽藍修造、造塔、ハンセン氏病患者の救済などに尽くしました。宝物庫前の石臼で茶をひき、石鉢で茶を入れ庶民に薬として振る舞ったとも云われ、忍性菩薩とも呼ばれ庶民に慕われました。

極楽寺の本尊は、髪の毛が縄の目状に渦を巻いている清涼寺式釈迦如来です。京都清涼寺の三国渡りの釈迦如来を模倣した木造が流行りました。

また、下がり眉の叡尊像と共にそっくりなのが金沢文庫の称名寺にもあります。

なお、裏手の稲村ガ崎小学校運動場奥には、忍性の墓である石造の巨大な五輪塔があります。

☆歩き・寺を出て桜橋まで戻ったら、左の奥へと歩きましょう。小学校の渡り廊下の下をくぐり、グニャグニャっと道が曲がった先で左へ入りましょう。数件先の左側に地蔵堂が立ちます。

十四 月影地蔵

もとは月影谷に居た阿仏尼の邸内にあった地蔵堂といわれ、何時の頃かここに移されたといわれます。像は江戸時代のものとのことですが、ふっくらとした柔和なお顔をみていますと救われそうな気がします。

地蔵菩薩は、釈迦が入滅したあと、五十六億七千万年後に、弥勒菩薩が衆生を救いに現れるまでの間、天空は先ほどの虚空蔵菩薩が管理し、地上は地蔵菩薩がその功徳を任されたといいます。

観音様をはじめ菩薩様たちが皆、インドの服装をしている中で、ただ一人僧形をし、錫杖を持ち立っているのは、衆生を救いに地獄までをも出向いてくれる慈悲の心を表しているとも云われます。

 

参考文献

  鎌倉史跡事典   奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

  鎌倉事典      白井永二編 東京堂出版  平成三年十二月二十五日発刊

  鎌倉の史跡めぐり 清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

  日本の美術十一  鎌倉地方の仏像  田中義恭編 至文堂    昭和五十九年十一月十五日発行

  

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