第二十七回 鎌倉へ紅葉を見に行く

            平成十七年十二月四日                         資料作成及び引率説明 @塾長

             目     次

  一 宇都宮辻子幕府跡     二 若宮大路幕府跡     三 筋替橋      四 分かれ道・関取場     五 永福寺跡地

  六 獅子舞ケ谷         七 六国峠           八 十王岩      九 半僧坊            十 建長寺方丈

  十一 建長寺法堂        十二 建長寺仏殿      十三 建長寺山門  十四 ・・・・・・・十五頁

 今回は、公称紅葉二千本の獅子舞谷へ紅葉を見に行き、鎌倉城北城壁(天園ハイキングコース)を巡り、鎌倉五山第一位の建長寺へ出ましょう。

☆歩き・鎌倉駅の東口から小町通りへ入り、一つ目を右へ折れますと二の鳥居へ出ます。信号で鳥居を通り過ぎ向かいの鎌倉警察の脇を入り教会の裏で路地へ左折しましょう。路地は右へ左へと曲がった先の左にお稲荷さんの赤いのぼりが見えます。

一、宇都宮辻子幕府跡

 このお稲荷さんは「宇都宮稲荷」といい栃木県宇都宮の一族の鎌倉屋敷の鬼門にあったものと思われ、その北側の路地を宇都宮辻子と呼ばれ、路地の北側に幕府があり南の宇都宮辻子に向いて門があったので、こう呼ばれるものと思われます。辻子とは、鎌倉独特の言葉で、路地を差します。道の呼び方として「大路」「小路」「辻子」となる訳です。

嘉禄元年(1225)六月十日大江廣元が死に、後を追うように伯母の尼將軍北条政子も同年七月十一日に死にました。泰時は、心機一転のために幕府を移したと思われます。

嘉禄元年(1225) 十月大三日庚寅。雨降。相州、武州御所へ參り給ふ。當御所於宇都宮辻子へ移被る可し之由、其の沙汰有り。又、若宮大路東頬に建被る可き歟之旨、同じく群儀に及ぶと云々。

の後、色々と検討するのですが二十日になって、一方の占い師が頼朝の大倉幕府の地が一番の四神相応にあっていて二番目が若宮大路の東側だといいますが、もう一方の占い師は大倉より若宮大路のほうが良いと泰時の腹の内に合わせた物言いを言います。泰時は待ってましたとばかりにこの地に決定します。

☆歩き・なお、路地を北へ辿ると清川病院を過ぎると黒板塀に行き着くので右へのカーブを辿りましょう。塀の上を見上げると松の枝が出ています。

「粋な黒塀、見越しの松」とはこのことを云うのでしょうが、この屋敷は「鞍馬天狗」で有名な大仏次郎が生前、執筆活動をしていたそうです。

この屋敷の東北の外れに石碑があります。。

二、若宮大路幕府跡

 北条氏執権三代目の泰時は、幕府を二度移転している最後の幕府跡がこの南側にあったと思われます。宇都宮辻子へ移転してからたった十一年でまたもや移転します。

嘉禎二年(1236)三月小廿日丁丑。幕府并びに御持佛堂等於若宮大路東頬に新造被る可き事。今日。御所に於て其の定め有り。日次以下の事は、陰陽道の勘文を召す。リ賢、文元等連署令める所也。

泰時の私邸はこの北側にあったものと思われています。泰時という人は真面目な人であったらしく、執権職にありながら誰よりも早く出勤するので、役人の中にそれより早く出勤しようとして前の晩から泊り込んだという話もあります。

吾妻鏡では、泰時のことをとてもよい人に書かれていますが、もっとも書いた人は彼の子孫の人たちなのです。

☆歩き・東へ歩くと広いとおりに出ます。小町大路といいます。通りを向かい側へ渡り北へ歩きましょう。八幡宮の前を東西に走る横大路と合流すると右側に、元北條家得宗屋敷跡の宝戒寺があります。別名「萩の寺」と呼ばれ、九月頃には白萩が庭一杯に咲き誇ります。

北へ進むと信号で道は大きく右へ曲がります。

三、筋替橋

鎌倉十橋のひとつ、筋替橋です。現在は橋の形はありませんが、西御門の奥の谷から国大付属小学校の校庭の下を信号北側の道そしてこの地の地下を西御門川が流れており、そこに架かっている橋なのですが、暗渠なので分かり難いのです。

この名は、頼朝入府以前の六浦道は、ここから西へまっすぐに八幡宮南西の角の金の井の脇をとおり、巌不動の前から、寿福寺の前へと繋がっていたそうです。それを頼朝が八幡宮創建の際に一定の境内を得るために、ここで道を一旦南へ曲げ、宝戒寺前で西へまげて、八幡宮前を通るように替えたのです。つまり、ここで道筋を替えた場所に橋があったので筋替橋と呼ばれるのです。

なお、宝戒寺の得宗家はこの角までが屋敷地だったようです。

☆歩き・六浦道を東へ歩くと北側には大倉幕府の土塀が二百メートルも連なり、南側には、この角から大江広元の屋敷があり、その隣が八田知家の屋敷、幕府正門の前には、畠山重忠の屋敷が並んでいたようです。

分かれ道の信号で、鎌倉宮への道が左にありますが、この道は明治十五年の地図にはありません。信号で向かいのパン屋さんの前へ渡りましょう。そして六浦道を進むと鎌倉カスタードの先で左へ入る道がありますので左へ入りますと石碑があります。

四、分かれ道・関取場

こちらが、鎌倉時代からの分かれ道で、永福寺への二階堂大路です。この道は永福寺・獅子舞谷・六国峠を抜けて磯子や上大岡方面への間道でした。戦国時代初期、小田原北條氏の北條氏康がここに関所を作り、六浦道、二階堂道双方が通るこの場所で関銭を取り、これを荏柄天神の修復費にあてました。道を入ってすぐに左のマンションの建設では、道から敷地内に入った所に道に沿って塀と思われる柱穴が発見されております。

☆歩き・二階堂大路を進むと荏柄天神の参道を横切り、鎌倉宮の脇へ出ます。

鎌倉宮は、明治になってから後醍醐天皇の息子護良親王を祀っています。トイレ休憩にしましょう。道へ戻って二階堂大路を先へ進むと左側にテニスコートがあります。テニスコートの先隣に石碑があります。

五、永福寺跡地

頼朝は、伊豆での旗揚げから、源平合戦に勝利し、唯一独立国を呈している「奥州藤原氏」を文治五年(1189)に元々源家の家来筋であるにもかかわらず、源九郎義經の召しだしに応ぜず匿っていた罪を理由になん癖を付け、奥州藤原氏四代泰衡を攻め滅ぼしたしまいます。

その際に見た、中尊寺の大長寿院の建築物や毛越寺の浄土庭園にあこがれて、自らが滅ぼした平家、木曾冠者義仲、源九郎義經、そして奥州藤原氏の御霊を慰めんためにと、この地に永福寺を建立しました。吾妻鏡では、

文治五年(1189)十二月大九日甲午。(他事につき前略)今日永福寺事始也。奥州に於て、泰衡管領之精舎を覽令め、當寺花搆之懇府を企て被る。且は數万之怨靈を宥め、且は三有さんぬ(三界欲界色界(物質)無色界(深妙))」之苦果を救はん爲也。抑も彼の梵閣等、宇を並ぶる之中に、二階大堂有り〔大長壽院と号す。〕專ら之を摸被るに依て、別して二階堂と号する歟。(他事につき後略)

そして、翌年二月半ばにその建立の土地を選ぶのに自ら大倉のあたりを見て回ります。そしてその地も決めて奉行も三善散位康信、二階堂行政を任命するのですが、三月四日未明大火事で八幡宮も御所も焼けてしまったので、そっちを先に建設しなければならなくなった。

二年後の建久三年正月下旬、建設工事中のこの地へ巡検に来た頼朝は、工事人夫の仲に片目の人を見つけて不審に思うと、それが平家の残党平上総五郎(悪七兵衛景Cの兄)でひそかに頼朝の命を狙って変装していたのを、部下に捕らえさせました。八月には池を掘り、池に立てる岩を取り寄せ、九月には石の配置を決めます。この時に一丈もある岩を畠山次郎重忠一人で池の中へ運んで、びっくりさせます。「見るものその力を感ぜずは無し云々。」とあります。

十月には総門を建て、扉や壁に絵を書かせます。

十一月に入って、やっぱり池の岩の位置が気に入らないと、畠山重忠、佐貫広綱、大井實春の強力三人で片付け、頼朝が大いに褒めちぎりました。二十日には工事を終りましたので、政子も見に来ました。そして十一月下旬に開山供養です。

一年後の建久四年(1193)に薬師堂の供養をして、建久五年には阿弥陀堂を建てていると思うのですが、吾妻鏡では新造の薬師堂とあり、混乱しており、よく分かりません。

ただ、建久五年に寺社奉行を置いているのが面白い記事です。

建久五年(1194)十二月大二日戊午。御願の寺社に奉行人を定め置被れ訖んぬ。而るに今日、重ねて其の沙汰有りて、人數を加へ被る。

 鶴岳八幡宮〔上下〕 大庭平太景義 藤九郎盛長  右京進季時  圖書允C定

 勝長壽院      因幡前司廣元 梶原平三景時 前右京進仲業  豊前介實景

 永福寺       三浦介義澄  畠山次郎重忠 義勝房成尋

 同阿弥陀堂     前掃部頭親能 民部丞行政  武藤大藏丞頼平

 同藥師堂〔今新造〕 豊後守季光  隼人祐康C  平民部丞盛時

☆歩き・永福寺の前を二階堂川に沿って上流へと辿り人家がなくなり、川を渡ります。右に回廊状の壁が巡り、左に流れを見て右へカーブすると、道は地山を削りだしたゆるい階段状となります。左の水はけに小さな段々が小瀧のように水を落とし、別世界を創り出しております。この道の最初の絶景カメラアングルです。

六 獅子舞ケ谷

暫く歩くと切通し状に両側の崖が迫ります。昔、この突き出した岩が獅子舞の頭に似ていたことから「獅子舞谷」と呼ばれました。しかし、残念ながらその後崩れ落ちてしまい、どれがその岩だったかも分からなくなり、名前だけが残ったといわれます。

☆歩き・獅子舞岩からなお、道は山登り状態になり、削れた岩状の土を登り右へ曲がった場所から上への百メートルほどが紅葉の名所です。途中左に岩のある平場で上を見上げるのが、一番の見所です。又、この道は明治時代から大正時代にかけては、湘南方面の人々が峰の灸へ通う参詣路でもあり、水道(みずみち)にその名残を見出せます。

☆歩き・紅葉名所をすぎると急なジグザグの山道となり、数分で尾根道へ出ます。尾根道は右が瑞泉寺・胡桃ケ谷・十二所方面への道で、左向うは金沢方面への近道、左の岩へ登りましょう。

七 六国峠

岩の上へ出ると展望が開け、鎌倉の海が見えます。昔、ここから相模・武蔵・上総・安房・伊豆の國と富士山(駿河)が見えたので、そう呼ばれました。現役を退いた東郷平八郎が逗子に住み、散歩にたずねてはその美しさに感動し「天園」と名づけたので、この尾根道を「天園ハイキングコース」と云います。

☆歩き・尾根伝いに先へ進むと頂上茶屋の下を通り、右にゴルフ場、左に便所、その先のゴルフ場管理棟の脇の広場でお昼にしましょう。先の岩が棚状になっている太平山を登り、下ったり上ったりを繰り返しハイキングコースを歩いていくと、十字路にでます。右は今泉の団地、左は覚園寺前へ出ます。なお、ハイキングコースを進み上り坂を上り詰めると右側の上に弘法太子像のあるのが鷲峰山、先へ進むと右上に展望台、その西に削られた岩があります。

八 十王岩

岩をよく見ると三体の石仏が彫られている。風化してしまっているので見分けがつきにくいのですが、左から如意輪観音、地蔵菩薩、閻魔大王が彫られています。閻魔大王は十王の代表ですので別名を十王とも言われます。昔、この岩の周りには松が一本あり、それが風の強い日はヒュウヒュウと鳴ると、里の母親は、ぐずっている子供に「又十王岩の松が鳴いている。親の言うことを聞かない悪い子達が閻魔大王様に叱られて泣き喚いているのだよ。」と子供をたしなめました。そんな話からこの岩を喚き十王と呼ばれるようになりました。岩を良く観察すると、像の上部に横に梁をつけた跡がありますので、きっと昔はきちんとしたお堂の形をとっていたものでしょう。

☆歩き・先へ歩くと椎の木とタブの木に囲まれた瑞垣があります。ここは勝上ケ嶽、建長寺の奥の院です。右への道は明月谷へでるハイキングコースの続きです。左に見晴台があります。かなりきつい階段を鎖に掴まりながら下っていくと、社殿の前へ出ます。

九 半僧坊

静岡県浜名湖の同じ臨済宗の方広寺に半僧半俗だった従者が奇跡を起こしたという縁起があり、この人が赤ら顔で鼻の高かったことから半僧坊大権現と天狗信仰となり、これを明治の頃にここへ勧請して来たそうです。

☆歩き・正面の階段を下りると素晴らしい紅葉が見られます。階段を下り終わった広場に、かつては何軒もの茶店が立つほど参拝客で賑わったそうです。

☆歩き・建長寺境内を南へ歩くと左に垣根越しに庭園が見え建物がある。

十 建長寺方丈

本来は、住職の居間で一丈四方から言葉はきています。昭和になって京都般舟院(はんじゅういん)から総門と共に移築したものだそうです。方丈の南にトイレと東屋がありますので一休みしましょう。休憩所から方丈を見ると唐門が見えます。勅使門と云いまして、朝廷からの代参の使いだけが入る門です。

十一 建長寺法堂(はっとう)

寺の儀式をしたり、高僧が弟子達に講和をしたりする建物で、千手観音が祀られています。千手觀音は、千本の手を持ち、その手のひらには一つずつ目がついており、戰の目を持って衆生の願いを觀て、きいてくれると云う現世利益をもたらします。千手観音の前の壇に、パキスタン政府から送られた、修行空けのガリガリに痩せた釈迦像が座禅を組んでいます。釈迦は北インドのシャーキャー族の王子に生まれ、妻を娶り子までなしますが、無常を感じ出家します。六年もの長い間苦行を続けますが、苦行が理想到達への真の道ではないことに気がつき、ナイランジャナー河で身を清め、セナニー村で長者の娘にミルク粥を捧げられ体力を回復します。この時ミルク粥を布施したのがスジャータさんです。やがてピッパラ樹の下で結跏趺坐して悟りを開きますと、この木を菩提樹と呼ぶようになります。

十二 建長寺仏殿

禅宗様式では建築材に一切の装飾をせず、生木のままに建築するのが普通です。ところがこの仏殿は良く見ると、漆塗りの後や彩色の後が良く分かります。建長寺は元々北條氏が鎌倉幕府の守護のために建立したお寺でしたから、鎌倉幕府も滅び、足利氏の鎌倉公方も追い出され、関東管領の上杉氏も零落してしまうと、有力な檀家もなくなり衰亡してしまいます。江戸時代初期に、これを嘆いた沢庵和尚が、芝の増上寺の徳川秀忠婦人の御霊屋(おたまや)の拝殿を建て返る際の古材を貰いうけ、唐門とともに移築したものなので桃山風の華麗な装飾がみられます。

本尊は丈六の地蔵菩薩です。禅宗は釈迦如来なのですが、何故お地蔵様なのでしょう。

この地は、その昔地獄谷と言って庶民の風葬の地だったそうです。又、鎌倉時代初期には、鎌倉のすぐ外と言うことで処刑場になっていたとも云われます。ある時、斎田斉田左衛門と云う人が無実の罪で斬首されそうになり、頭髪中に日ごろ信仰している小さなお地蔵様を結いこんでいましたので、この地蔵に刀が当たり、首が切れなかったので、罪を許されました。このお礼にと、この斎田地蔵を心平寺のお地蔵さまの頭に納めました。(鎌倉子供風土記から参照)

仏殿から山門を見ると、両側に白槇の古木が並びます。現在では左右で本数が違いますが、古い図には左右五本づつきちんと並んでおり、開山蘭渓道隆お手植えとも言われますので七百五十年も経っていることでしょう

 

十三 建長寺山門

山門には後深草天皇御真筆と言われる「建長興国禅寺」の額を掲げております。

山門にまつわる伝説として、江戸時代の頃に板橋の宿に勧進僧が泊まりましたが、女中さんが障子越しに様子がおかしいので覗いてみたら、ご飯を手でつかんで食べています。翌日練馬の宿に止まった晩に、風呂で体を伸ばしていると、女中さんが「お客さん、背中を流しましょう。」と戸を開けると僧はあわてて浴槽の中で居住まいを正しましたが、一瞬尻尾のようなものが見えました。不思議だなーと思いましたが、翌朝出立のときに犬がやけにほえるので、主人が離したところ、犬は僧めがけて噛み付きました。そこには、僧の衣類を着た狸が死んでおり、頭陀袋に建長寺参門再建の勧進帳と狸が集めた銭とが入っておりました。宿の主人は、けなげな狸をとても哀れみ、丁寧に弔ってあげ、袋の銭と同額を足して建長寺へ届けたそうです。そこで、字を「狸の山門」と称します。山門から左を見ると鐘楼があります。

十四 建長寺梵鐘

建長七年(1255)北條時頼が寄進した国宝の梵鐘です。名工物部重光の作で「鞭影を見て行くは良馬に非、訓辞を待ちて志を発するは好僧に非云々・・」と蘭渓道隆大覚禅師のお言葉が鋳こまれています。

拝観料を払って総門をでます。では、北鎌倉駅までは歩いて十五分ほどです。

  

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