歴散加藤塾 第二十八回 山内へ梅を見に行く

                    平成十八年三月十二日

                    資料作成引率説明 歴散加藤塾@塾長

   目 次

一 円覚寺西関門跡   二 円覚寺白鷺池頁   三 円覚寺山門   四 円覚寺創建

五 円覚寺仏殿     六 円覚寺洪鐘     七 東慶寺     八 浄智寺

九 天柱峰       十 大堀切       十一 葛原岡神社  十二 古東海道

十三 化粧坂      十四 源氏の鎌倉    参考文献

 

鎌倉の春は、瑞泉寺から始まり、東慶寺で終わる。つまり鎌倉で一番初めに梅が咲くのが瑞泉寺で一番最後まで咲いているのが東慶寺なのです。

瑞泉寺は、北側に山をしょっているので海洋性気候の影響で暖かなのです。

それに比べ東慶寺は逆に南側に山を背負っているので、一段と寒いのです。その寒さに耐えてじっと春を待ってて咲くので、東慶寺の梅は一段と美しいのです。

春を告げる「梅の香」を味わいに参りましょう。

一、円覚寺西関門跡

駅前の信号から県道の向うに土手が見えます。

その土手までが、円覚寺の境内です。かつてこの信号の場所に西の関門が、鎌倉駅側に東の関門があり、寺に関係のない人や馬車などは、向かいの交番の前から土手の向こう側をぐるりと迂回して回るので、向こう側の道は牛馬の道と呼ばれます。

大正時代の写真には、人は自由に出入りできるようにはなっていたようですが、関門が写っておりました。関東大震災で壊れてからは復旧の要もなく、放置されており終いには、柱一本と小さな説明文が五・六年前まではありましたが今は何もありません。

県道に沿って、左へ歩くと円覚寺の正面に出ます。

左側に磨り減った石の多宝塔があります。一般に五山塔と呼ばれ、鎌倉五山の浄智寺以外には同様に立っております。しかし、いつの時代に立てられたか定かではありません。おそらく南御堂あたりから五輪塔などの残穴を集めたものではないかといわれます。

足元の鎌倉石の磨り減りが時代を感じさせます。

左右に池があり、池を橋で渡ります。

二、円覚寺白鷺池

開山の無学祖元(仏光国師)が時の執権北条時宗から、新しい寺の開山の地を求められ、探して歩いているときに八幡宮方面から飛んできた一羽の白い鷺が舞い降りたので、これは八幡宮のお使いが案内してくれたと、この地を選んだので、池を白鷺池と呼びます。

池をまたいで小さな石橋が架かっておりますが、これは不浄の俗世間と清浄地である寺地とを分ける結界の橋ですので心して渡りましょう。

池を渡ると踏み切りです。なんと円覚寺境内を鉄道が通っているのです。

時は明治二十一年、前年に国府津まで開通した東海道線から軍港である横須賀へ政府高官や軍人が行きやすいように横須賀線の建設が急がれ、一年後ヶ月で開通したそうです。

廃仏毀釈の後の富国強兵時代ですから、お寺の方では軍部の言うことに逆らえなかったものでしょう。

踏切を渡ると右側に「贈正二位北条時宗」の石碑が立っております。この「贈」と云うのは、当人が死んでから位を贈られる場合で、彼は明治になってから贈られています。

正面石段の上に総門が見えます。門には「瑞鹿山」と後光厳天皇(北朝1352-1371)の御親筆の額があり、建築は天明年間(1781~)です。拝観料を払い広場から正面を見ると巨大な山門があります。

ここから山門にかけて雪の階段が鎌倉写真スポットのひとつであります。

三、円覚寺山門

山門には、伏見天皇(1287-1297)の御親筆で「円覚興聖禪寺」との額が掲げられております。階上には、観音様と十六羅漢像が安置されています。

山門から仏殿にかけて、白槙が植わっています。禅宗様式の特徴としては、建物が総門・山門・仏殿・法塔・方丈と直線に並んでいます。

また、鎌倉の禅寺では山門と仏殿の間に白槙が並んでいるのも特徴のひとつです。

四、円覚寺創建

円覚寺の創建は、北条時宗が十八歳で執権職に就き、文永十一年に元が北九州へ攻めてきております。有名な元寇の役です。このときは、一般的には台風で退散し、再度の攻撃に備え時宗は自らの精神と武将たちの心を鍛えるために、建長寺開山の蘭渓道隆と一宇の建立を計画しますが、公安元年(1278)道隆が死んだために話は頓挫します。

翌年宋の国から無学祖元を迎えます。そして、その元の情報を元に元寇防塁を築き、祖元の教えによって不動の精神と胆力を養い、元の脅迫に屈しなかったわけです。

そして、弘安四年の再度の元寇をも撃退することができました。

この二度の戦いにより失った敵味方の多くの魂を鎮めるために、この円覚寺を建立したといわれます。

五、円覚寺仏殿

永禄六年(1583)十二月の大火で堂宇悉く焼失し、本尊も頭のみを残し燃えてしまいました。その後、戦乱の世は続き、仏殿の復興もままならない時代が続きました。

やがて、江戸時代に入り世の中も落ち着き、寛永二年に仏殿が復興するのですが、その仏殿も関東大震災で倒壊し、昭和三十九年現在のコンクリート作りで再建されました。桜木町の県立歴史博物館に木造の仏殿の模型がありますが、コンクリートとは申せ、かつての仏殿に似せて作られ、弓形欄間や粽柱・花頭窓に特徴が残されております。

また、寛永二年の復興の際に、先の火事により焼失した本尊の胴体を、家康の側室おろくの方(養厳院)の寄進により補造されたと伝えられます。

本尊は釈迦如来ですが、飾り物をつけ、菩薩形で禅定印を結んでおり、華厳の釈迦とも、華厳の毘盧遮那仏とも云われ、前に法衣を垂らしているのが宋風です。

華厳とは、華厳経のことで、世界を毘盧遮那仏の顕現として、一塵の中に全世界が宿り、一瞬の中に永遠があると云われ、一即一切、一切即一の世界観を説いております。

仏殿の西に「選仏場」という、座禅道場があります。正面に薬師如来、向かって左に鎌倉時代を模造した江戸期の青銅の観音様が豊かに座しておられます。

仏殿の脇を奥へ歩きますと、右の法塔跡地に杉と礎石があります。

 

 

その先右に方丈があり、左には池があります。

池は「妙香池」と名づけ、鎌倉末期(1329)から室町初期(1351)にかけて活躍した夢窓疎石が作庭したと伝えられ、対岸の岩は虎が寝そべって左側を向いているように見えるので「虎頭岩」と呼ばれます。妙香池の上左奥に国宝の「舎利殿」がありますが、一般公開されておりません。なお、実物大に模造したのが、県立歴史博物館にあります。

まっすぐ奥へあがる左側の土塀は北条時宗の廟所「仏日庵」です。

北条時宗・貞時・高時の木造が安置されています。大きな傘と緋毛氈の縁台で野点のお抹茶などもいただけますので、機会があったら訪問してみてください。

仏日庵の門前の向かいに小さな洞窟があります。

開山法要で無学祖元(仏光国師)が経を唱えていると、この洞窟からたくさんの白い鹿が飛び出してきて、国師の経に聞き入ったと伝説があります。それで、総門の「瑞鹿山」と名付けられました。

そのまま、階段を上りますと第十五世夢窓国師の塔頭「黄梅庵」です。良く手入れされた庭には、四季を通して花々に彩られております。正面には觀音様が祀られ、お堂には「夢窓疎石」の彫像があります。

境内を妙香池まで戻り、左の方丈への木戸を入りましょう。

方丈の庭には、線刻彫りの百觀音が並んでいます。堀は浅いですが、綺麗な線で素晴らしい觀音様を彫り上げています。また、仏光国師お手上の白槙もあります。

さて、門へ向かってゆるい坂を下って仏殿の左に低い土手で囲まれた駐車場がありますが、この土手こそ、かつての掻揚げの土手で、この土手の上に二本の材木を立てて、その間に挟み板を挟みこんだのが、鎌倉時代の屋敷の砦形の塀です。工事現場などでエッチ鋼を打ち込んで鉄や木の板で土留めをしてるのがありますが、同じようなものだと思ってください。この挟み板を部分的に切り欠いて窓を開けたのが矢狭間の始まりです。

左の土手に沿って入っていくと石段がありますので上りましょう。

あがると正面に弁才天を祭り左側に大きな梵鐘があります。

六 円覚寺洪鐘

大きな釣鐘ですが、北条時宗の死後、その子貞時が正安三年(1301)に追善供養のため物部重光に鋳込みさせた鐘で、現在国宝になっております。

伝説では、中々うまく鋳込むことができずに困っている折、江ノ島の弁財天に無事を祈ったところ旨くできたので、ここに仕上がることができたので、そのお礼に弁才天をここに祀ったといわれます。

ここの茶店で甘酒でも飲みながら、向かいの東慶寺を眺めているのも風情があります。

さて、寺内を下って総門から表へ参りましょう。

線路際へ出ましたら、先ほど来た白鷺池よりひとつ鎌倉側の踏切を渡り、県道へ出ましょう。県道は、未だ渡らず歩道を左側へ歩くと横断歩道用の信号があります。

ここで横断歩道を渡った正面のお寺へ行きましょう。

七 東慶寺

「駆け込み寺」「駆け入り寺」などと呼ばれる「縁切寺法」で有名です。

かつて日本では、女性のほうから離縁を申し出れる制度がなく、不幸な結婚をしたものが、分かれるに分かれられず思い余って自ら命を絶つといった悲劇がありました。

これを救えるようにと、北条時宗婦人覚山志道尼が、息子で時の執権の貞時に願い出て、勅許を得てこの寺法を守るため弘安8年(1285)覚山尼は、松岡山東慶寺を開創したといわれます。本尊は釈迦如来です。

「鎌倉へ行くと火箸で書いてみせ」最初私なりに解釈をしておりましたのは、亭主が浮気ばかりして、頭にきた女房が家の火鉢の中の灰に落書きをして、亭主に暗に脅しをかけたものと思っていましたが、ある対談の本の中で、先代の住職井上禅定和尚が「実家へ行ったときに愚痴を言いたくても口に出せない娘が、お母さんにだけ伝わるようにそっと火鉢の灰に書いたという、切ない話だ」と読みまして、封建時代の家族制度の厳しさとよき時代の日本人の遠慮がちな清さを理解できました。

「出雲にて結び鎌倉にてほどき」などは、世相を皮肉った川柳ですね。とにかく、一歩でも入れば、それでも間に合わなけりゃ身に着けているものを放り込んでも良いのだと云うので、

「泥足で玄関へ上がる松ヶ岡」と草履を放り込んだ人もいるのですね。

旨く入れた人は良いのですが、

「建長寺うろたへ女しかられる」「うろたえて鎌倉五山を駆け巡り」などは、あまりあわてて通り過ぎてしまったようですね。

さて、寺へ入ったら三年の修行を遂げれば離縁は成立します。それも、丸々三年では寺内も混んできますので、足かけ三年つまり二年と一日でよいことになります。

ほっとしたのか「くやしくば尋ねきてみよ松ヶ岡」なんて開き直っています。

しかし、気の毒なのばかりではなく、寺法を悪用するものも出てきて

「三年の間に間男気が変わり」なんてのもあります。

正面の階段を上り、拝観料を納めると一面に梅の香りが漂います。

左側に茅葺の鐘楼がありますが、現在の鐘は材木座の補陀楽寺に元あったもので、元々東慶寺にあった鐘は韮山町(現伊豆の国市韮山)本立寺にあるそうです。(右の写真)戦国時代に持っていかれたようです。また明治の廃仏毀釈の嵐など、受難の時代もあり、東慶寺の元の仏殿が、現在本牧の三渓園にあります。

本堂、水月堂、宝物館の前を奥へ進み、右側の石段を上りましょう。

瑞垣で囲まれた一角は、当山五世の用堂尼の墓所で、一時は宮内庁の管理でした。

太平記の時代には後醍醐天皇の皇女が、鎌倉で「中先代の乱」のドサクサに暗殺されてしまった兄護良親王の後生を弔うために、出家し第五世用堂尼として入寺以後、寺格の高い尼寺として松ヶ岡御所と称されました。

その向う隣の「やぐら」が開山覚山志道尼の墓所です。広場には歴代の住職方の墓石である「無縫塔(卵塔)」が並んでおります。

ひときわ大きい石塔の文字を読んでみてください。

その後、戦国時代になりますと大坂夏の陣(1615年)で、家康は滅ぼした豊臣秀頼の子どもが、孫娘千姫の養女となっており、豊臣家の残党に担ぎ上げられることの無い様に東慶寺に入山させました。七歳です。

この少女が、寺に預けられた際、家康から望みを聞かれ「開山以来の寺法が断絶することのないように」と願い出て許されたおかげで、江戸時代を通して「縁切り寺法が守られ、不幸な女性の救済となりました第二十代の天秀尼です。

門前へ出ましたら、国道を右へ歩きます。道路の狭い割には交通量が多いので、会話は遠慮して一列になって進みましょう。

道の向かい側には。時頼回国伝説の謡から名をとった料理屋さんが見えます。

百メートルも歩いた踏み切り手前で右へ入ります。正面に総門とそれに続く、鎌倉石のゆるい階段が静かな雰囲気をかもし出しております。

八 浄智寺

まず池があり、古い石橋で結界を結んでおります。池の左に鎌倉十井のひとつ「甘露ノ井」が今でも綺麗な水を湧き出しております。

ちなみに、鎌倉十井は、この甘露ノ井、名月院の瓶ノ井、扇谷の扇ノ井、浄光明寺先の泉ノ井、海蔵寺前の底脱ノ井、八幡宮前の金ノ井、坂ノ下の星月夜ノ井、材木座の六角ノ井、名越の銚子ノ井、覚園寺の棟立ノ井になります。

この他に五名水というものもあり、建長寺バス停の金竜水、建長寺奥鎌倉高校グランドの不老水、銭洗い弁天の銭洗水、名越えの日蓮乞水、朝比奈峠の梶原平三景時太刀洗水をいいます。鎌倉の平地は、砂地でその下が泥炭ですし、今より海面が二丈も高かったので、砂地に浸透した海水が混じり、美味しくなかったからです。

もっとも、鎌倉十井、五名水とは、江ノ島鎌倉詣でが流行った江戸時代に名付けられたようです。

総門には、無学祖元筆の「宝処在近」の額がかかっております。

とかく人というものは、「隣の芝生はなぜ青い」とか「あいつの饅頭なぜでかい」などと隣人のものが己の物より豊かに見えてしまい、羨ましがり、欲しがるものです。

しかし、良く落ち着いて考えてみると、物の価値などというものは、それぞれの心が勝手に決めてしまうものです。今、自分に備わっている物の価値を自分はその能力を充分に引き出しているのであろうかと考えてみると、身近に宝の持ち腐れをしている自分に気がつくものなのだと言う、尊い教えを説いているのです。

その先、鎌倉石の磨り減った階段が、時の流れ、人の歩みを教えてくれています。

拝観料を納めると中国風の鐘楼を兼ねた二階建ての山門をくぐります。

右側に「雲華殿」と書かれた本殿には、三世仏が安置されております。

過去をあらわす「阿弥陀如来」、現世を救う「釈迦如来」五十六億七千万年後に現れ、衆生を救ってくれるという「弥勒如来」の三体です。

如来様は姿形が殆ど同じなのですが、わずかな違いを見つけてください。

裳裾が流れるように垂れ下がっているのは宋風様式を伝えています。

前庭には白槙が並び、円覚寺での並びから推測すると、山門正面の石碑の後方に仏殿があったことが分かりますね。

本殿脇を入ると鎌倉で一番古い槙の大木が佇み、案内にしたがって五輪塔群や横穴井戸、布袋和尚のやぐらなどをめぐります。

拝観料受納所の前から木戸を開けて浄智寺を出ましたら、右右側谷の奥へ向かいましょう。鎌倉のお屋敷という感じの家々が続きます。やがて道は階段に変わり山道へと入っていきます。山道をどんどん上へ登っていくと頂上の大きな岩の上に石塔がたっています。

九 天柱峰

かつてここまでが浄智寺の境内です。宋からの渡来僧竺仙梵僊が、この岩の上に禅を組んだと云われます。ここから海を見ながら、遥かな故郷を偲んだ事でもありましょう。

多宝塔は、竺仙梵僊を偲んで英人サムソンが建てた供養塔です。

ハイキングコースを先へ進むとちょっとした崖状を下った先で、左側に岩の裂け目から下の海蔵寺の屋根が見えます。

十 大堀切

何気なく、谷が右から左へ抜けていますが、ここは向うの尾根とこちらの尾根との間を簡単に行き来が出来ないように、わざわざ掘り抜いて空掘状にしております。その証拠に堀の左右が妙に切り立っております。鎌倉の崖は、その殆どがこのように人口で切り落とし上り下りが容易ではなくされております。これを切岸といいます。

そして一番奥に一部土を埋めて土手上の通路にしております。土橋といい、万一戦の折には土を海蔵寺側に落とし、通路を遮断します。或いは、想像になりますがこの空掘りを鎌倉への入り口と思い、攻め込んできた敵を両側の崖上から矢石を飛ばせば、後ろから味方に押された敵兵が海蔵寺への崖から落ちることになります。

道を先へ進むと広場に出ます広場の右側(東側に)神社の鳥居が見えます。

十一 葛原岡神社

明治政府になって、政権を武士から取り戻した明治天皇は、八百年もの間武士に政権をうばわれていたのは、先祖が敵対したものの怨霊のせいだと考え、ゆかりのものたちを次々と祀っていきます。

建武の中興を成功させた後醍醐天皇の片腕、日野俊基公を祀っております。

俊基は、弘安三年(13331)鎌倉幕府の転覆を図りますが、事前に漏れ、日野資朝とともに捉えられ、鎌倉に送られてきます。そのときは、資朝が罪を一身に着て、佐渡へ流罪となり、許されます。

懲りずに一年後又も倒幕を図りますが、またもや事前に漏れ、捕縛されて鎌倉送りとなります。この時の様子を太平記では七五調で綺麗に表現しております。

落花の雪に 踏み惑う 交野の春の桜狩

紅葉の錦を 着て帰る 嵐の山の秋の暮れ

一夜を過ごす 程だにも 旅宿となれば 物憂きに

恩愛のちぎり 浅からぬ 我が故郷の 妻子をば

行方も知らず 思い置き 年久しくも 住み慣れし

九重の都をば 今を限りと 顧みて 思わぬ旅に 出でたまう

鎌倉では、厳しい吟味の後、死罪と決まり、裸輿で化粧坂上へつれてこられ、「秋を待たで葛原が岡に消ゆる身の露のうらみや世に残るらん」の辞世を残し、首を刎ねられたと伝えられます。この一年後に足利尊氏や新田義貞により鎌倉幕府は滅亡するのでありますから、時の配材というには、悲しい物語です。

公園内の広い通りを南へ少し行くと右に瑞垣に囲まれた、俊基の墓といわれる鎌倉時代の均整の取れた宝篋印塔が、「いい仕事をしてますね」といいたげに立っております。

俊基墓の向かい水のみ場から山道に入りましょう。

鎌倉時代からの梶原道間道です。あの葛原岡公園の直ぐ脇に信じられないくらい深く感じる山道が短い間ですが、自然を与えてくれます。

出たところが、化粧坂の尾根道です。左へ参りましょう。

十二 古東海道

一説に古代奈良から来た東海道は、足柄峠を超えて関東に入り、南足柄市の関本、糟屋、毛利と来て、相模川を渡り、海老名国分寺、座間から藤沢の菖蒲沢と抜け、梶原からここへ上り、杉本觀音前、三浦道、名越、逗子、鐙摺、一色、平作、衣笠、大津、走水から船で安房、上総、下総と通っていたと考えられます。

走水で海を渡ろうとしていたら、嵐のために海が時化ていて渡れないので、妻は畳八枚、筵八枚、鹿皮八枚を重ねしいて乗りましたが海に沈んで生贄となってしまいました。そのお陰で海を渡れたのが「日本武尊」海に沈んだのが「弟橘姫」でした。

十三 化粧坂

西へ進むと左側にかなりでこぼこの稲妻模様に旧坂が下っています。鎌倉七切通しの一つ「化粧坂の切通し」遺構です。かなり厳しさが感じられますが、この坂は内鎌倉への下り坂ですので、ここで鎌倉勢が構えているのではなく、梶原口への下り坂のほうが主たる砦です。とはいうものの、さんざん戦った挙句やっとの思いでここまで来て、あわてて鎌倉へ下ろうものなら、両側に隠れていた北條軍に矢石を飛ばされること必定です。

さきへ進むと、真ん中に頼朝様が胡坐をかかれている源氏山公園に出ます。ここで、トイレ休憩を取りましょう。

東に見える山は、山ふもとに屋敷を構えていた八幡太郎義家が「後三年の役」の際、関東の郎党を集めるために、出陣を伝える源氏の白旗を立てたとの伝説がある源氏山です。

十四 源氏の鎌倉

これから下っていく寿福寺の地は、「天慶の乱(938)」と「前九年の役(1051-1062)」との間の長元元年(1028)に武蔵押領使の平忠常が上総、下総、安房の三国を占領する事件(平忠常の乱)が勃発し、京都朝廷は、上総介平直方に征伐を命じます。

しかし、直方は忠常の勢いの強さに一気に攻めることも出来ず、敵船の来襲があっても構える時間が稼げるちょっと海から離れた地で、逆に千葉へ攻めるときは海へ出やすい鎌倉のこの地に館を構えてゲリラ戦も含めた長期戦に備えます。

しかし、任期に征服できなかった直方を、朝廷は業を煮やして解任し、変わりに甲斐守の「源頼信」を任命します。そうすると長年の戦で疲弊した忠常は、頼信の家来筋だったこともあり、あっさりと降伏します。この時頼信の子頼義の弓馬の武芸の見事さに惚れて、婿になってもらいます。こうして寿福寺の地は源氏の館となり、直方の娘が生んだのが「八幡太郎義家」「賀茂二郎義綱」「新羅三郎義光」となります。

それいらい、源氏の旧跡地となり、義家は「後三年の役」で私財を投げ打ち関東武者との繋がりを深めました。

三代後の義朝はここに屋敷を構え、相馬御厨の千葉家や大庭御厨の鎌倉氏に圧力をかけ、源氏の家人として繋ぎ止めておき、保元の乱や平治の乱で活躍させたのでした。

※ 清和天皇ー貞純親王ー經基王ー満仲ー頼信ー頼義ー義家ー義親ー爲義ー義朝ー頼朝

公園内を東に向かい、公園のはずれにくると、左の墓場は英勝寺の墓地です。

そのさき、右側に石の瑞垣で囲まれた石碑は、英勝寺を建立した徳川家康の側室「お勝の方」が建てた先祖の大田道灌への供養塔です。

少し下ると左のがけ下に墓地が見えますが、今度は寿福寺の墓地です。やがて道も墓地の脇まで来ますので、左の墓地へ入り、石段を下りましょう。

左の墓地奥崖下には「大仏次郎」「高浜虚子」等の墓が並び、崖に沿って右側へ歩くと、現在でも湧水の出ている横穴井戸が左にあり、近年の井戸がある広場に出ると、正面に「北條政子の墓」と書かれた「やぐら」があり、綺麗な形の新しい五輪塔があります。

右のほうには「実朝の墓」とかかれた「やぐら」もあります。

共に供養塔ですが、特に実朝のやぐらは中に漆喰の後が残り、その模様から「唐草やぐら」と呼ばれています。

治承四年(1180)十月六日鎌倉入りを果たした頼朝は、翌日の七日には、この源氏由緒の地を訪れています。吾妻鏡を読んでみますと

治承四年「庚子」(一一八〇)十月小七日丙戌 先ず鶴岡八幡宮を遙拜し奉り給ふ。次で故左典厩之龜谷の御舊跡を監臨し給ふ。即ち當所を點じ御亭を建て被る可し之由、其の沙汰有ると雖も、地形廣きに非ず。又、岡崎平四郎義實が彼の没後を訪い奉らん爲、一梵宇を建つ。仍て其の儀を停め被ると云々。

「まず鶴岡八幡宮を遠くから拝んで、次に亡き源義朝の亀谷の邸宅跡を見に行きました。過ぎにこの場所に邸宅を構えようと一旦は決められましたが、地形が広くなく、それに岡崎四郎義實が源義朝を弔う為、お堂を建てていましたので、やめることにしました。」

というように既に寿福寺の前進となるお堂は立っていたのですが、岡崎四郎義實の実子で土屋三郎宗遠へ婿入りした土屋兵衛尉義Cが相続していたようです。

養和元年(1181)三月小一日に頼朝は、亡き母の追善供養を土屋次郎義Cの亀ケ谷のお堂で法事を行いました。とあります。

頼朝の亡くなった翌年、北条政子は、土屋兵衛尉義Cの亀谷の地に伽藍を建立したいと決めている。ここでも「この地は義朝の謂れの地で、この恩に報いるために岡崎四郎義實が堂を建てていた。」と記述されております。」

また、翌日には「これを葉上坊律師榮西に寄付したのが寿福寺になる」とも書かれています。

正治二年(1200)閏二月小十二日戊戌。リ。爲尼御臺所御願。爲建立伽藍。被點出土屋次郎義C龜谷之地。是下野國司御舊跡也。爲報其恩。岡崎四郎義實兼建草堂者也。今日。民部丞行光。大夫属入道善信巡檢件地云々。

正治二年(1200)閏二月小十三日己亥。リ。龜谷地被寄附葉上坊律師榮西。〔後昇僧正。〕可爲C淨結界之地之由被仰下。午剋。結衆等行道其地。施主監臨給。所右衛門尉朝光供奉御輿。義C搆假屋儲珍膳云々。未剋。堂舎〔壽福寺也。〕營作事始也。善信。行光等奉行之。

墓から下り、左へ曲がり、突き当たりに本堂の裏手が見えます。右へ曲がると左右に掻揚げの土手が、かつての「寺は砦だ」の名残を感じられます。山門前へ出た本堂を振り返るとやはり白槙の木があります。逆になってしまいましたが、掃き清められた参道の先に総門があり、総門前の広場にやはり築地の後が残っています。

さて、以上で本日のコースは終了いたしますが、鎌倉駅まで観光客には知られていない裏道を帰りましょう。

鎌倉の歴史を知りたい人のために参考文献を羅列しますが、やさしい読み物として、永井路子さんの小説「北条政子」が鎌倉初期のストーリーが分かりやすいです。

参考文献

 鎌倉史跡事典   奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

 鎌倉事典     白井永二編 東京堂出版  平成三年十二月二十五日発刊

 鎌倉の史跡めぐり 清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

 かまくら子供風土記 鎌倉市教育研究会編集 鎌倉市教育委員会 平成五年発行

 東慶寺と駆込女 井上禅定(1911-2006.1.26) 有隣新書 平成七年六月十五日発行 

 鎌倉の仏教   貫達人・石井進編    有隣新書 平成四年十一月二十日発行

  

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