歴散加藤塾 第二十九回

 「名越の新緑を歩く」

     平成十八年五月十四日二十日

一 宇都宮辻子幕府跡   二 若宮大路幕府跡

三 筋替橋   四 文覚上人屋敷跡地   五 田楽辻子

六 上杉朝宗・氏憲の屋敷跡   七 衣張山頂上

八 鎌倉城の東城壁   九 法性寺   十 大切岸

十一 名越の切通し   十二 空洞

十三 日蓮乞水       十四 銚子の井戸

十五、長勝寺

鎌倉の新緑を味わってみるため、歴散加藤塾で初めて衣張山へ登って見ましょう。

あくまでも伝説ですが

北条政子が、そよとの風もない夏の暑い日に、この暑さを吹き飛ばしたい。何か妙案はと思案しながら目を上げると、御所の庭の先には綺麗に手入れのされた山なら借景にもなろうものを、取り勝手に焚き木取りに荒らされた禿山が聳えておりました。

「えぇーーえ、あの禿山が暑苦しい!いっそ、あの山に雪でも降り積もれば、この蒸し暑さも消え飛ぶのに・・・・。そうだ!御所様にお願いしてあの山に雪を降らせよう。」

そこで、頼朝は御家人等に命じてその山を白い布で覆いつくさせ、白雪の冠した山を愛でながら、夏の暑い盛りに雪見酒を楽しんだといわれ、いつしかその山は「衣張山」と呼ばれるようになりました。

☆歩き・鎌倉駅の東口から小町通りへ入り、一つ目を右へ折れますと二の鳥居へ出ます。信号で鳥居を通り過ぎ向かいの鎌倉警察の脇を入り教会の裏で路地へ左折しましょう。路地は右へ左へと曲がった先の左にお稲荷さんの赤いのぼりが見えます。

 

 

一、宇都宮辻子幕府跡

 このお稲荷さんは「宇都宮稲荷」といい栃木県宇都宮の一族の鎌倉屋敷の鬼門にあったものと思われます。その北側の路地は宇都宮辻子と呼ばれ、路地の北側に幕府があり南の宇都宮辻子に向いて門があったので、こう呼ばれたものと思われます。

嘉禄元年(1225)六月十日大江廣元が死に、後を追うように伯母の尼將軍北条政子も同年七月十一日に死にました。泰時は、心機一転のために幕府を移したと思われます。

辻子とは、鎌倉独特の言葉で、路地を差します。

道の呼び方として「大路」「小路」「辻子」となる訳です。

☆歩き・なお、路地を北へ辿ると清川病院を過ぎると黒板塀に行き着くので右へのカーブを辿りましょう。塀の上を見上げると松の枝が出ています。

「粋な黒塀、見越しの松」とはこのことを云うのでしょうが、この屋敷は「鞍馬天狗」で有名な大仏次郎さんが生前、執筆活動をされていたそうです。

この屋敷の東北の外れに石碑があります。。

二、若宮大路幕府跡

 北条氏執権三代目の泰時は、幕府を二度移転している最後の幕府跡がこの南側にあったと思われます。宇都宮辻子へ移転してからたった十一年でまたもや移転します。

☆歩き・東へ歩くと広いとおりに出ます。小町大路といいます。通りを向かい側へ渡り北へ歩きましょう。八幡宮の前を東西に走る横大路と合流すると右側に、元北條家得宗屋敷跡の宝戒寺があります。別名「萩の寺」と呼ばれ、九月頃には白萩が庭一杯に咲き誇ります。

北へ進むと信号で道は大きく右へ曲がります。

三、筋替橋

 鎌倉十橋のひとつ、筋替橋です。現在は橋の形はありませんが、西御門の奥の谷から国大付属小学校の校庭の下を信号北側の道そしてこの地の地下を西御門川が流れており、そこに架かっている橋なのですが、暗渠なので分かり難いのです。

この名は、頼朝入府以前の六浦道は、ここから西へまっすぐに八幡宮南西の角の金の井の脇をとおり、巌不動の前から、寿福寺の前へと繋がっていたそうです。それを頼朝が八幡宮創建の際に一定の境内を得るために、ここで道を一旦南へ曲げ、宝戒寺前で西へまげて、八幡宮前を通るように替えたのです。つまり、ここで道筋を替えた場所に橋があったので筋替橋と呼ばれるのです。

なお、宝戒寺の得宗家はこの角までが屋敷地だったようです。

☆歩き・六浦道を東へ歩くと北側には大倉幕府の土塀が二百メートルも連なり、南側には、この角から大江広元の屋敷があり、その隣が八田知家の屋敷、幕府正門の前には、畠山重忠の屋敷が並んでいたようです。

分かれ道の信号で、鎌倉宮への道が左にありますが、この道は明治十五年の地図にはありません。そのまま進み次の信号「大御堂橋」で右折しましょう。

この奥に頼朝が自らの菩提寺として建立し、父義朝の骨を供養した南御堂とも大御堂とも呼ばれた「勝長寿院」があったことからこう呼ばれます。

四、文覚上人屋敷跡地

 橋を渡った右手に文覚上人屋敷跡地の石碑があります。

この文覚は、遠藤盛遠と云う武士で、元は京都御所警護の北面の武士でした。

ある日、同僚の奥さんと不倫に陥り、いっそ同僚を殺して一緒になろうと不倫相手の奥さんと企み、寝ているところを刺し殺すことにするのです。ところが罪の意識に苛まされた奥さんは、自ら死を選び同僚のふりをして寝ていたのですが、そうとも知らず、盛遠は約束どおり夜中に忍び込み、奥さんを刺し殺してしまいました。その罪を悔い世の無常を悟り、出家して荒行に励んだのでした。

文覚は京都高雄神護寺の復興の寄進を後白河法皇にせがみすぎ、伊豆へ流罪になり、頼朝に父義朝の髑髏を見せて平家打倒を決心させたとも云われ、頼朝は大事にしてこの先の大御堂を守る意味でここに屋敷地を与えたのかも知れません。

☆歩き・少し歩くと右側に古材がつまれておりますが、ここを右へ入ると「勝長寿院」跡ですが、戦後まもなく住宅として開発されたため、何の面影もありません。

先へ行き黒いトタン塀のところで右に「通行禁止」の看板のある三叉路を右へ入って行くと、釈迦堂谷へ出ます。今日は曲がらずまっすぐに先へ進みます。

やがて左側に「田楽辻子」の説明文があり、右には「犬懸」の石碑があります。

五、田楽辻子

この今歩いてきた路地にそって田楽舞の田楽師集団の住まいがあったと伝えられます。

吾妻鏡では、後に先にもたった一度だけその名が出ます。

康元二年(1257)十一月廿二日癸酉晴。丑尅、若宮大路焼失す。藤次左衛門入道の家から失火。花山院新中納言〔長雅卿〕、陸奥七郎、下野前司、内藏權頭、式部大夫入道が舊宅、壹岐前司、伊豆太郎左衛門尉、前縫殿頭文元等の亭、悉く以て災す。田樂辻子に至り火止まる。

六 上杉朝宗・氏憲の屋敷跡

 上杉氏は、鎌倉幕府六代將軍宗尊親王にしたがって京から下ってきた重房から始まります。鎌倉幕府崩壊後も足利氏に使え鎌倉公方の執事をして関東管領と呼ばれます。

孫、ひ孫の代に四家に別れ、それぞれの住まう屋敷の地名を取り扇谷、宅間、犬懸、山内と呼ばれます。左記の系図のうち氏憲は、出家して禅秀となのりますが、一度執事職についたものの、公方持氏は彼を嫌い、憲基に変えてしまいます。

氏憲は、持氏に不満を抱く満隆や持仲と謀反を起こし、持氏を攻め駿河へ追いやってしまいます。これに対し、京都の將軍家は持氏を支持し、駿河の今川を始めとする東国諸將に救援を呼びかけたため、氏憲は攻め滅ぼされてしまいました。これを「禅秀の乱」といいます。藤沢の遊行寺にこの乱の戦死者を弔う敵味方供養等があります。

参考*鎌倉幕府将軍職九代(罫線は親子、矢印は兄弟、点は他人)

源頼朝―源頼家→源実朝・九条頼経―九条頼嗣・宗尊親王―惟康親王・久明親王―守邦親王

上杉氏

      ┌重顕(扇谷)

 重房─頼重┤

      └憲房┬重能(宅間)

     (犬懸)├憲藤┬朝房

          │  └朝宗─氏憲「禅秀」

     (山内)└憲顕─憲方─憲定─憲基・・上杉謙信

 

足利氏         ┌義持

(京都)尊氏┬義詮─義満┼義嗣

      │       └義教

(鎌倉公方)└基氏─氏満┬満兼┬持氏

            └満隆持仲

☆歩き・田楽辻子から犬懸屋敷を右折し、道に沿って坂を上るとやがて、山道に入ります。階段状に整備されたハイキングコースですが、かなり厳しいのでゆっくりと登りましょう。

しばらく登るとT字路があります。直進は反対側へ下ってしまいますので、右へ曲がるとまもなく頂上です。

 

七 衣張山頂上

百二十メートルほどの標高ですが、鎌倉南半分の景色がよく、ほっとする頂上です。

☆歩き・登ってきた方向と逆に道がありますので、一旦下り再び登った見晴らしは「浅間山」です。こちらも眺望は衣張山と良い勝負です。

 

登ってきたほうとは反対の方へ下っていくとハイランドの公園におります。左が報国寺や巡礼道方面で、まっすぐ進むと右に下っている階段は「黄金やぐら」へ出ます。先へ進むと左がハイランドの住宅街、右はの崖下には大町が眺められます。住宅のはずれに又樹林の公園があり、左手におトイレがありますので休憩にしましょう。

樹林公園を抜けると舗装された道に出ますが、舗装道を登ると水道貯水池の上へ出ます。

昔は報国寺前からの巡礼道が一旦あの天辺へ通じており、そこから逗子の岩殿寺へ下っていく道がありました。

今日は、右の小さな石地蔵のある散策路のほうへ参りましょう。ハイランドの開発により削られたり埋められたりして地形が変わり、一時このあたりは湿地になっていたので、湿地植物めぐりの散策路を作ったようですが、現在では乾燥が進み、単なる雑草地帯に化しております。

右に小道が分かれており、「パノラマ台」の案内標識がありますので、上って見ましょう。本日三つ目の眺望ですが、ここからだと東の金沢方面が見えます。

元の道へ戻り、車止めの先へ歩きましょう。

八、鎌倉城の東城壁

この尾根道の左右はかなり厳しい崖になっていますが、特に左の東側は殆ど絶壁です。何故でしょう。

鎌倉は三方を山に囲まれ、南には海が広がり、要害堅固の地であるといわれます。

その三方の山に手を加えられ尾根は木を切り払い、台形に削り中央を凹形に刳り貫き、人が通れるようにしました。これは万里の長城のミニ版です。

又、各谷戸には有力御家人が屋敷地を配され、崖を削って絶壁にして塀代わりとし、その土で谷を埋めて平地をつくり屋敷を建てました。そのお陰で鎌倉を取り囲む山々は低い割には簡単に昇り降り出来なくなりました。

それが鎌倉を守る言わば城壁となったのです。ここが東城壁、天園ハイキングコースが北の城壁、大仏ハイキングコースが西の城壁になります。

先へ歩いて行くと左側が開けて崖の下に段々畑が見えます。やがて右側に不思議な形の祠があります。この祠については全く資料が無く解りません。

正面のブロック塀に添って左へ下りましょう。自然石の階段は不規則で左右の段がずれていたりします。一説には普段なれている味方以外は踏み外すようにわざと造られているのだとも云います。墓場を通って先へ行くとお堂のある広場に出ます。

九、法性寺

 昔、日蓮が他宗を念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊と排撃非難して念仏衆に松葉谷

の庵を襲撃されたとき、命からがら背後の尾根に逃げここまでやって来て、倒れそうになったところを白い猿が現れて、そこの洞窟に隠し食べ物を運んできて助けてくれた。」という話を弟子の日郎に話したそうです。日郎はそれを後に郎慶に話し、祖師の由緒ある場所なので一宇を建立したいと願ったが、生前に果たされず、松葉谷で荼毘にふし、その地に埋葬するよう弟子の郎慶に頼み、これを果たし建立したのが「法性寺」です。

大きなお堂は祖師堂(本堂は下に別にあります。)、小さなお堂は日郎の廟です。洞窟は日郎の墓とも、日蓮が隠れた洞窟とも言われます。鳥居から上がった岩の上は日枝神社で奥の院です。神仏混交の名残です。

前来た道を戻ると墓場の右向うに段々畑が見えます。このあたりを「お猿畠」と呼ぶのは先ほどの日蓮の逸話からです。

十、大切岸

畑に沿って風化による波模様のある崖が続きます。これは昔波で洗われた磯が隆起したものと思われていました。しかし現在では、北条泰時の時代に朝比奈の切通しや名越の切通しを整備したときに、三浦からの軍事侵攻を阻止するため、わざわざ切り落とした「大切岸」で約700bに渡っています。地形によって何段にも分けている所もありますが、いずれにせよ20kgもの鎧を付けてこの崖はとても上れるものではありません。そして孫の時頼の時代になってこの設備が有効に働いて鎌倉へ味方の軍が入れないうちに三浦氏を滅ぼしてしまうのです。

先ほどの石段を登りブロック塀に沿って先へ進みましょう。左側にバラセンが続いて、右に無縁仏供養塔、左に動物霊供養塔がある小さな広場に出ます。

広場の先に左右に細い山道が見えます。これが名越の切通し道です

十一、名越の切通し

下を見ると道の真中に大きな石が彫り残されています。邪魔なのになんでどけなかったのか不思議ですね。これは馬が一頭でしかもユックリと通らなければならないようにわざと邪魔をしている「置石」という軍事施設なのです。そこで速度を落とし一頭づつ通る所をこちらの平場から矢石を放つのです。ですから向こう側にも平場があるのです。

名越道を左へ行ってみましょう。途中左手に切通しの看板があるところは、道の縁がきちんとした石積みになっているのですが、土で埋まりかけていて分かるでしょうか。

そして自然石の切通しを左へ曲ると正面に大きな岩がせり出して細い通路を作っているのに出会います。最近史跡公園整備が始まったようで、木々は切り払われ風化防止の対策を始めたようですが、木の根が土深く入り込み遺跡に絡み付いてる様子は、まるで失われたインカ文明遺跡さながらです。

十二、空洞

わざわざ岩をせり出してまで、通り憎くしかも馬一頭やっと通れそうにした「空洞」と云う、これも軍事施設です。おまけにその手前の右の岩を見ると平たく段に削り、柱を立てた穴まであります。ここに二階建てのやぐら門を建て、その上には兵士が弓矢を持って、三浦側から攻めて来る三浦軍を一頭づつ迎え打つためにを見張っています。

これが、孫の時頼の代に役立って、三浦軍は安達北条の連合軍及び日和見の御家人等に攻められた時に三浦からの援軍が駆けつけることが出来ずに滅ぼされてしまいました。

前の道へ戻ると右側に上がる階段があり、この上は曼荼羅堂跡遺跡群なのですが、今は

管理者の方がおらず、逗子市が一帯を整備をし始めているので楽しみに待ちましょう。

先ほどの置石の所まで戻り、そのまま下界へ向かって降りましょう。

途中平らな所がありますが、周りを見ると崖の上に平場が見えます。峠を越えた軍勢が広場でホッと一息ついたとたんに崖の上から矢石が降ってくる訳です。

さあ無事なうちに山を降りましょう。

下ると分譲地に出て左の踏切を渡るとそこは鎌倉古道三浦道です。

直ぐ目の前に石碑があります。

十三、日蓮乞水

比叡山で修行を積んだ後、その俗世間と代わりのない、一部の権門盛家の息子達が形ばかりの知識で出世をしていく、本来の釈迦の教えとは違うではないかとの疑問を感じ、故郷の千葉へ戻り清澄寺で朝日を見て法華経一筋を悟った日蓮は、舟で鎌倉に向かい、横須賀の米ケ浜に上陸しました。

そこから衣笠へ出て池上、葉山の高祖坂、一色、森戸、鐙摺、逗子から名越を抜けて、ここまで辿り着いた日蓮が村人に水を乞うたのですが、ここらは「良い水が出ないので。」と断られます。そこで、日蓮が法華経を唱え、錫杖で地面を突くときれいな水が湧き出たので、日蓮乞水と名付けられ鎌倉五名水の一つに数えられます。

ちなみに鎌倉五名水は、建長寺バス停の金竜水、建長寺奥鎌倉高校グランドの不老水、銭洗い弁天の銭洗水、朝比奈峠の梶原平三景時太刀洗水です。

十四、銚子の井戸

先へ歩くと左側の水路に掛かっている鉄製の小さな橋を渡る路地へ入りましょう。左側に立て札があり八角形のベーゴマを伏せたような蓋の銚子の井戸があります。鎌倉十井の一つです。蓋を取ると周りが八角形で内側が丸い井戸枠になっており、これが昔のお銚子(お雛様の三人官女の立ち雛が持っている酒を注ぐもの)に似ているところからこの名があります。

ちなみに、鎌倉十井は、浄智寺の甘露ノ井、名月院の瓶ノ井、扇谷の扇ノ井、浄光明寺先の泉ノ井、海蔵寺前の底脱ノ井、八幡宮前の金ノ井、坂ノ下の星月夜ノ井、材木座の六角ノ井、名越の銚子ノ井、覚園寺の棟立ノ井になります。

バス通りに出たら右へ歩道を歩き、横断歩道で道の向かいへ出ましょう。

十五、長勝寺(日蓮宗石井山長勝寺)

左前方に赤い鳥居に似た入口は、日蓮宗の長勝寺です。元は、石井長勝が自分の名字を山号に名を寺につけ再建したそうです。先程の銚子の井戸は長勝寺の境内なりという説もありますので、かつては先ほどの古道に沿った所まで境内だったのかも知れません。又同寺の本殿改修の際の発掘調査では、小さな掘っ立て小屋を何度にも渡って立て直した跡がみつかり、バザールのような市がたった後であろうと解釈されてます。

祖師堂は室町時代の唐様建築で重要文化財に指定されております。

境内に四天王を従え、威風堂々と立つ日蓮像は、高村光雲の作です。

ここからは、バスで鎌倉駅へ出ても良いし、歩き足りない人は寺前の踏切を渡り、交番の角を右へ入ると「安国論寺」の前を通る旧道ですので、安養院前、八雲神社前、妙本寺前から夷堂橋を渡り本覚寺を抜けて鎌倉駅へ出ても良いでしょう。

鎌倉の歴史を知りたい人のために参考文献を羅列しますが、やさしい読み物として、永井路子さんの小説「北条政子」が鎌倉初期のストーリーが分かりやすいです。

参考文献

 鎌倉史跡事典   奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

 鎌倉事典     白井永二編 東京堂出版  平成三年十二月二十五日発刊

 鎌倉の史跡めぐり 清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

 かまくら子供風土記 鎌倉市教育研究会編集 鎌倉市教育委員会 平成五年発行

 鎌倉の仏教   貫達人・石井進編    有隣新書 平成四年十一月二十日発行

  

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