歴散加藤塾 第卅回 「国宝館と小町大路」

平成十八年十月廿二日

一 鎌倉国宝館   二 妙隆寺   三 日蓮辻説法跡

四 蛭子神社   五 大功寺   六 本覚寺   七 教恩寺

八 延命寺      九 下馬     十 浜の大鳥居跡

「鎌倉を世界遺産登録へ」を目標に鎌倉市を始め、関係者の方々ががんばっておられます。その世界遺産登録への理解を深めることを目的として、特別展「武家の古都鎌倉・世界遺産登録にむけて・」と題して、その時代の優品を一同に集合しております。

この拝観とかつての武士達の住まいが並んでいたと思われる小町大路を歩きましょう。

☆歩き・鎌倉駅から広い若宮大路へ出て、段葛を八幡宮へと向かいましょう。

八幡宮の流鏑馬道まで進み、本殿に遥拝し、流鏑馬道を東へ、左の校倉造の建物です。

一、鎌倉国宝館(鎌倉国宝館ホームページから)

 鎌倉国宝館は、大正一二年の関東大震災による被害を契機に設立が計画されました。

この震災では、鎌倉でも多くの歴史ある社寺が倒壊し、貴重な文化財を損失しましたが、こうした不時の災害から由緒ある文化遺産を保護し、あわせて鎌倉を訪れる方々がこれらの文化財を容易に拝観、見学できるよう一同に展示する施設として企画されました。

 設立に際しては趣旨に賛同した「鎌倉同人会」をはじめ、多くの人々から多額の寄付が寄せられ、昭和三年に多数の文化財の寄託を受け開館しました。

 その後、昭和二五年に現在の文化財保護法が制定されると、二六年には法に基づく勧告・承認施設となり、同年の博物館法の制定の翌二七年には登録博物館となりました。

 館の基本方針は現在も引き継がれており、鎌倉市域、近隣の社寺に伝来するさまざまな文化財のうち、代表的な作品の多くが寄託され、保管・展示されています。

 さらに、昭和四九年には財団法人氏家浮世絵コレクションを館内に設立し、肉筆浮世絵百数十点のコレクションも保管・展示しています。

 昭和五八年一二月に新館(収蔵庫)が竣工し、平成三年三月に本館(展示場)が改修され、施設の充実がはかられました。そして、平成八年、公開承認施設となりました。 また、平成一二年には本館が国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。

今回の展示予定品(鎌倉国宝館ホームページから)

絵 画

 北条顕時像 称名寺 鎌倉時代 国宝

 源範頼像  鎌倉国宝館 江戸時代

 北条時頼像 神奈川県立歴史博物館 室町時代

 白描武人像 覚園寺 鎌倉時代 重要文化財

 足利尊氏像 神奈川県立歴史博物館 江戸時代

 太平記絵巻 埼玉県立博物館 江戸時代 県指定文化財

 源頼朝一代記絵巻 鶴岡八幡宮

 堀川夜討絵巻 神奈川県立歴史博物館 江戸時代

 白衣観音像(政子日課観音)  寿福寺 鎌倉〜南北朝時代 市指定文化財

 地蔵菩薩像(足利尊氏筆) 浄妙寺 貞和五年(1349)

 地蔵菩薩像(足利尊氏筆) 高徳院 文和五年(1356)

彫 刻

 伝源頼朝坐像 東京国立博物館 鎌倉時代 重要文化財

 源実朝坐像  善光寺 鎌倉時代 県指定文化財

 上杉重房像  明月院 鎌倉時代 鎌倉文化財

 三浦義明坐像 満昌寺 鎌倉時代 重要文化財

 薬師如来坐像 寿福寺 鎌倉時代 重要文化財

 足利義詮坐像 瑞泉寺 室町時代

 足利基氏坐像 瑞泉寺 江戸時代

 地蔵菩薩立像(矢拾地蔵) 浄光明寺 南北朝時代 県指定文化財

 退耕行勇坐像 浄妙寺 鎌倉時代 重要文化財

 夢窓疎石坐像 瑞泉寺 南北朝時代 重要文化財

工 芸

 籬菊螺鈿蒔絵硯箱 鶴岡八幡宮 鎌倉時代 国宝

 太刀「正恒」(拵) 鶴岡八幡宮 鎌倉時代  国宝

 鉄黒漆塗二十八間筋兜 神奈川県立歴史博物館 室町時代

 鉄二十八間四方白星兜 神奈川県立歴史博物館 鎌倉時代 重要文化財

 銅鐘 常楽寺  宝治二年(1248)  重要文化財

 銅製経筒 鎌倉市教育委員会

 念珠 鎌倉市教育委員会

 木製櫛 鎌倉市教育委員会

 五輪塔地輪 鎌倉国宝館 元弘三年(1333)

 古瀬戸壺 宝戒寺 鎌倉時代 市指定文化財

 源頼家袖判下文 神奈川県立歴史博物館

 御成敗式目 前田育徳会

 北条時宗下文 鎌倉国宝館

 北条高時書状 鎌倉国宝館

 陸波羅南北過去帳 蓮華寺

 浄光明寺敷地絵図 浄光明寺

 足利持氏血書願文 鶴岡八幡宮

☆歩き・国宝館から八幡宮東門を出ると、右に八幡宮の土塁南へ延びています。九月の初めには萩の花が咲き、九月末には彼岸花でにぎわう土塁です。

南の広い通りが「横大路」、横断歩道で向かいへ渡り、路地へ入りましょう。

路地を南へ南へと歩くと山門に出ます。

二、妙隆寺(叡昌山妙隆寺・日蓮宗)

室町時代(1385)にこの地に屋敷を持っていた千葉常胤の子孫の胤貞が日蓮宗に帰依し、日英を開山に創建しました。二世の日親上人は、この池の水をかぶって百日苦行をなされたそうです。

後、日親上人は立正治国論を著され、永享十一年(1439)室町幕府に提出し政治改革を迫りました。時の將軍足利義教は怒って、真っ赤に焼けた鍋を頭にかぶせるという拷問にかけ改修をせまりました。しかし、日親は屈することなく所信を曲げなかったといわれ、人々は鍋冠日親と呼んで崇敬しました。

☆歩き・山門へ戻り東の小町大路へ出ます。

大路を南へ50mも歩くと左側に竹垣で囲まれた石碑があります。

三、日蓮上人辻説法跡

日蓮さんは、天台宗比叡山に学ぶものの、その退廃振りにあきれ、故郷の安房の鴨川清澄山で「南無妙法法蓮華經」と唱え、開宗したと伝えられます。「法華信仰」を庶民に向かって説いた地とされます。

明治の頃に田中智学と言う学者が、道の向かい側にあった「日蓮上人腰掛石」を現在地に移動し、周囲を整備した(かまくら子ども風土記から)とも、夷堂橋の袂にあった「腰掛石」を渡辺次郎さんが現在地に移した(鎌倉の仏教から)とも言われます。

いづれにせよ、ここ一箇所だけではなく、人の集まる辻で説法をしたと伝えられます。ここ小町は幕府の御所にも近いので、為政者に届くように声を張り上げたものと思われます。

☆歩き・通りへ出て100mほど南へ歩くと、万屋さんの店先に昔ながらの赤いポストが立っています。都会では消えてしまったコンクリート作りのポストが現役でがんばっています。ポストの隣に鳥居が立っています。

四、蛭子神社

ここには、元々七面大明神が祀られていた所へ、本覚寺の夷堂を明治二年神仏分離の際にここへ移転し祀りました。夷神は出身が蛭子命で「蛭子」の文字は「えびす」とも読むので、その名の由来となっています。また、宝戒寺内に祀られていた山王大權現もこの地へ移転して来ました。しかし、近年夷堂は元の本覚寺へ戻られました。

本殿は関東大震災で崩壊したので昭和七年に改築されたそうですが、軒下回りや屋根瓦などの細工にかつての職人気質が感じられる巣晴らしさです。

☆歩き・小町大路をなお、南へ歩くと右側に石柱、その奥に寺があります。

五 大功寺(長慶山正覚院大功寺・日蓮宗)

この寺は、庭が常に綺麗に整備され、一年を通して花々を楽しむことができます。

寺伝によりますと、もとは十二所にあって大行寺という真言宗の寺であったそうな。頼朝がこの寺で戦評定をしたところ、大勝をしたので、巧の文字を与え、大功寺と改めたといわれます。この地へ移転してきた時期は不明ですが、文永十一年(1274)に当時の住持が日蓮さんに帰依して日澄と名乗り日蓮宗になったそうです。

また、この寺の伝説に、天文頃(1535)に五世日棟上人が妙本寺への参詣途中で夷堂橋を渡ろうとしたときに、血だらけの女性が立っていたので声をかけたところ、「難産で苦しみ死に、赤子がなきすがるので成仏できない。」と嘆き悲しむのみでした。

そこで上人は、経を教え、読経すると女性は消えました。後日、その女性が身奇麗な姿で上人を訪れ、礼だといって布に包んだ金子をおいていきました。上人は大倉の秋山勘解由を訪ね、包みを見せたところ、確かに亡くなった妻のものであると言うので、その金子で塔と産女霊神を祭るお堂をと建てました。その産女霊神が「おんめさま」と呼ばれ安産の神様として崇められております。

☆歩き・さらに南下すると右手に大きな山門があります。

六 本覚寺(妙厳山本覚寺・日蓮宗)

立正安国論を幕府へ提出し、その咎で佐渡へ流罪となった日蓮上人が、許されて鎌倉へ帰って来たときに、ここにあった天台宗の夷堂に住まったことがありました。

後に一乗院日出が宗祖の縁起の地と言うことで日蓮宗に改めて創建したと言われます。

また、その弟子の日朝は日蓮さんの二百歳の誕生日に当たる日に生まれたといわれますが、その身延山興隆発展の基礎を築き、宗門の発展に尽くした第十一世法主行学院日朝上人が、関東の信者等が身延山まで足を運ぶのは容易でないからと、日蓮上人のお骨を分骨されたのが、真骨堂で「東身延」と呼ばれます。本堂裏手の墓地には、名刀で有名な正宗夫妻の墓もあります。

☆歩き・山門を出たら「おんめさま」で話に出ている夷堂橋を渡ります。この橋までが「小町」で橋を渡ると「大町」です。しばらく歩くと左側の染物屋さんの先の路地を覗くと、奥に寺が見えます。牡丹餅寺の常栄寺です。その先には和風や一時代前の風景が並び、古都鎌倉の風情があります。

今度の路地の奥には八雲神社が見えますが、反対の右側の路地へ入りましょう。

七、教恩寺(中座山大聖院教恩寺・時宗)

北条氏康の開基、開山は知阿上人。元は光明寺の山裾にありましたが、江戸時代にこの地へ移転してきたとのことです。本尊の来迎阿弥陀三尊は鎌倉時代前期のものといい、市の指定文化財になっています。ここの山門の彫刻が素晴らしく、何人もの仙人らしき人たちがおり、右端には蘇鉄が彫られています。中国の故事にちなんでいるらしいのですが、詳しいことは知りません。

☆歩き・門前からまっすぐに大町大路へ出て、右へ参りましょう。大町大路を西へ歩き、横須賀線の踏み切りを渡ると左側に寺があります。

八、延命寺(帰命山延命寺・浄土宗)

ある日、時頼と婦人が双六勝負に着ている物をかけて、負けた方が脱いでいくことにしました。婦人の方が旗色が悪くて困り果て、心に地蔵菩薩を念じた時、双六盤の上へ裸の地蔵様が現れて、彼女の危機を救ったという伝説のある全裸の地蔵様があります。

この地蔵は、北条時頼夫人の像ともいわれ、俗に身代わり地蔵とも言われます。象を裸形に作って実際の着物を着せると言う、鎌倉彫刻の行き過ぎのリアリズムの結果、このような伝説ができたものと思われます。

この裸地蔵には、後日談として江戸時代に寺の維持費に窮した関係者が、江戸へお地蔵様を出開帳に連れて行ったところ、当時としては女性の裸像そのものが珍しいということで、急に男供が信心深くなり、大勢の人がお参りに来てくれたので、大層寄進を戴くことが出来たそうです。この話を聞いた八幡宮のある坊に、現在深沢の青蓮寺においでになる弘法大師の裸形象がありました。このお象は、着物を着せたときに手足が動くように鎖でつないであるので「鎖大師」とも呼ばれました。

延命寺の裸地蔵で参拝者が大勢集まったのなら、こちらはありがたい「お大師様」でしかも手足まで動くのなら、さぞかし人気が取れるだろうと、江戸へ出開帳に出かけましたが、全然参拝者がありませんでした。何故でしょう?

また、赤穂浪士の岡島八十右衛門の三男が住持になったことがあるそうです。

本堂の裏へ回ってみましょう。

江戸時代の末頃に、この寺に狸が住み着き、よく人になれ和尚さんに頼まれては、酒を買いに行ったそうです。その狸が死ぬと和尚さんが可愛がった狸を偲んで塚を作り葬ったのが「古狸塚」です。

九 下馬

西の大きな交差点は、下の下馬です。若宮大路創建当時は、上・中・下の三箇所だけが若宮大路へ出入りができました。しかし、神聖な神様の道ですので、乗馬のままで通り過ぎる「乗り打ち」を禁じ、必ず馬から下りて歩いて通り過ぎるようにしました。

そのうち、この下の下馬だけが地名として残りました。

下馬から海へ向かって左の歩道を歩くとすぐに石造の橋の欄干があります。若宮大路をここで佐助川が横切っているのを渡る琵琶橋です。

若宮大路が作られた当時は、二の鳥居の場所で幅が十一丈(33m)で南へ整備されていましたが、ここで佐助川を渡る橋は幅広のを架けられず狭まっていたので、これを楽器の琵琶のくびれに連想し、琵琶橋と呼ばれていました。もう少し南下し、次の信号で道を反対側へ渡りましょう。

十 浜の大鳥居跡

ちょっと鎌倉駅へ戻りかけた右に地面に丸く石が敷き詰めてあります。これは、1990年(平成2)に発見された、1553年(天文22)に小田原城主北条氏康により造立された鳥居の遺跡と考えられます。直系三尺三寸寄木造りです。

鎌倉の歴史を知りたい人のために参考文献を羅列しますが、やさしい読み物として、永井路子さんの小説「北条政子」が鎌倉初期のストーリーが分かりやすいです。

参考文献

 鎌倉史跡事典   奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

 鎌倉事典     白井永二編 東京堂出版  平成三年十二月二十五日発刊

 鎌倉の史跡めぐり 清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

 かまくら子供風土記 鎌倉市教育研究会編集 鎌倉市教育委員会 平成五年発行

 鎌倉の仏教   貫達人・石井進編    有隣新書 平成四年十一月二十日発行

  

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