第三十一回 鎌倉へ紅葉狩りに行く 平成十八年十二月三日

           資料作成及び引率説明 @塾長

 目     次

   一 建長寺   二 建長寺山門   三 建長寺梵鐘   四 建長寺仏殿

   五 建長寺法堂 六 建長寺方丈   七 半僧坊     八 十王岩

   九 六国峠   十 貝吹地蔵    十一 北條首    十二 瑞泉寺

   参考文献

 今回は、昨年、建長寺半僧坊の紅葉が素晴らしかったので今年はしたから見上げ、鎌倉城北城壁(天園ハイキングコース)を巡り、紅葉に時期には歴散加藤塾では寄ったことが無かった瑞泉寺へ出ましょう。

☆歩き・北鎌倉駅裏口円覚寺前から横須賀線に沿って東へと歩きます。左側にはアドマチック天国で紹介された喫茶店があったりします。やがて、横須賀線の踏み切り脇に出ますので、県道を鎌倉へ向かい歩くと十分ほどで建長寺入り口へ出ます。

一、建長寺(臨済宗建長寺派総本山・巨福山建長興国禅寺)

建長五年(1253)当時の鎌倉幕府の執権であった北條時頼は、中国僧の南宋から渡来された蘭渓道隆(賜号は大覚禅師)から禅を学び始め、禅宗による国家鎮護と皇帝万歳、將軍千秋、源氏三代・北條一族の弔いを含め、蘭渓道隆を開山に日本で初めての禅宗様式の寺を建立しました。山号は、地元の小袋谷(元は巨福呂)からとり、寺名は年号からつけられています。

二、建長寺山門

山門には後深草天皇御真筆と言われる「建長興国禅寺」の額を掲げております。

山門にまつわる伝説として、江戸時代の頃に板橋の宿に勧進僧が泊まりましたが、女中さんが障子越しに様子がおかしいので覗いてみたら、ご飯を手でつかんで食べています。翌日練馬の宿に止まった晩に、風呂で体を伸ばしていると、女中さんが「お客さん、背中を流しましょう。」と戸を開けると僧はあわてて浴槽の中で居住まいを正しましたが、一瞬尻尾のようなものが見えました。不思議だなーと思い主人に告げましたが「まさか」と話は終わりました。

しかし、翌朝出立のときに犬がやけにほえるので、主人が離したところ、犬は僧めがけて噛み付きました。そこには、僧の衣類を着た狸が死んでおり、頭陀袋に建長寺参門再建の勧進帳と狸が集めた銭とが入っておりました。

宿の主人は、けなげな狸をとても哀れみ、丁寧に弔ってあげ、袋の銭と同額を足して建長寺へ届けたそうです。そこで、字を「狸の山門」と称します。

山門から仏殿を見ると、両側に白槇の古木が並びます。

現在では左右で本数が違いますが、古い図には左右五本づつきちんと並んでおり、開山蘭渓道隆お手植えとも言われますので七百五十年も経っていることでしょう

山門から右を見ると鐘楼があります。

三、建長寺梵鐘

建長七年(1255)北條時頼が寄進した国宝の梵鐘です。名工物部重光の作で「鞭影を見て行くは良馬に非、訓辞を待ちて志を発するは好僧に非云々・・」と蘭渓道隆大覚禅師のお言葉が鋳こまれています。

四、建長寺仏殿

禅宗様式では建築材に一切の装飾をせず、生木のままに建築するのが普通です。ところがこの仏殿は良く見ると、漆塗りの後や彩色の後が良く分かります。

建長寺は元々北條氏が鎌倉幕府の守護のために建立したお寺でしたから、鎌倉幕府も滅び、足利氏の鎌倉公方も追い出され、関東管領の上杉氏も零落してしまうと、有力な檀家もなくなり衰亡してしまいます。

江戸時代初期に、これを嘆いた沢庵和尚が、芝の増上寺の徳川秀忠婦人の御霊屋(おたまや)の拝殿を立て替える際の古材を貰いうけ、唐門とともに移築したものなので桃山風の華麗な装飾がみられます。

本尊は丈六の地蔵菩薩です。禅宗は釈迦如来なのですが、何故お地蔵様なのでしょう。

この地は、その昔地獄谷と言って庶民の風葬の地だったそうです。又、鎌倉時代初期には、鎌倉のすぐ外と言うことで処刑場になっていたとも云われます。

ある時、斎田左衛門と云う人が無実の罪で斬首されそうになり、頭髪中に日ごろ信仰している小さなお地蔵様を結いこんでいましたので、この地蔵に刀が当たり、首が切れなかったので、罪を許されました。このお礼にと、この斎田地蔵を心平寺のお地蔵さまの頭に納めました。(鎌倉子供風土記から参照)

五、建長寺法堂(はっとう)

寺の儀式をしたり、高僧が弟子達に講和をしたりする建物で、千手観音が祀られています。千手觀音は、千本の手を持ち、その手のひらには一つずつ目がついており、千の目を持って衆生の願いを觀て、きいてくれると云う現世利益をもたらします。

千手観音の前の壇に、パキスタン政府から送られた、修行空けのガリガリに痩せた釈迦像が座禅を組んでいます。

釈迦は北インドのシャーキャー族の王子に生まれ、妻を娶り子までなしますが、無常を感じ出家します。六年もの長い間苦行を続けますが、苦行が理想到達への真の道ではないことに気がつき、ナイランジャナー河で身を清め、セナニー村で長者の娘にミルク粥を捧げられ体力を回復します。この時ミルク粥を布施したのがスジャータさんです。やがてピッパラ樹の下で結跏趺坐して悟りを開きますと、この木を菩提樹と呼ぶようになります。

六、建長寺方丈

正面に唐門があります。勅使門と云い、朝廷からの代参の使いだけが入る門です。

本来は、住職の居間で一丈四方から言葉はきています。昭和になって京都般舟院(はんじゅういん)から総門と共に移築したものだそうです。方丈には現在は自由にあがることができ、裏庭を拝観することが出来ます。

方丈のそばにトイレと東屋がありますので一休みしましょう。

☆歩き・東屋脇の舗装道を谷の奥へ奥へと歩いていくと少し広い場所に出ます。かつては何軒もの茶店が立つほど半僧坊の参拝客で賑わったそうです。

正面の階段に何本もの紅葉と銀杏が素晴らしい紅葉を誇らしげにおります。

階段を上っていくと、社殿の前へ出ます。

七、半僧坊

静岡県浜名湖の同じ臨済宗の方広寺に半僧半俗だった従者が奇跡を起こしたという縁起があり、この人が赤ら顔で鼻の高かったことから半僧坊大権現と天狗信仰になり、これを明治の頃にここへ勧請して来たそうです。

☆歩き・半僧坊前を過ぎ、かなりきつい石段を鎖につかまりながら登っていくと左に見晴台があります。鎌倉の海が一望でき、お天気に恵まれれば伊豆の山々までが眺められます。先に木の手すりでさえぎられた奥に椎の木とタブの木に囲まれた瑞垣があります。ここは勝上ケ嶽、建長寺の奥の院です。前への道は明月谷へでるハイキングコースなので、右への道をたどりましょう。

山道に沿って、下ったり上ったり右へ左へと歩いていくと、左側の上に岩が見えます。

八、十王岩

岩をよく見ると三体の石仏が彫られています。風化してしまっているので見分けがつきにくいのですが、左から如意輪観音、地蔵菩薩、閻魔大王が彫られています。人が死んで七日ごとに四十九日まで、そして百か日、一周忌・三回忌と裁判を受けるのが十王で、その代表が閻魔大王ですので別名を十王とも言われます。

昔、この岩の周りには松が一本あり、それが風の強い日はヒュウヒュウと鳴ると、里の母親は、ぐずっている子供に「又十王岩の松が鳴いている。親の言うことを聞かない悪い子達が閻魔大王様に叱られて泣き喚いているのだよ。」と子供をたしなめました。そんな話からこの岩を「喚き十王」と呼ばれるようになりました。

岩を良く観察すると、像の上部に横に梁をつけた跡がありますので、きっと昔はきちんとしたお堂の形をとっていたものでしょう。

☆歩き・尾根伝いに先へ進むと、左側の上に弘法太子像のあるのが鷲峰山、やがて十字路にでると、左は今泉の団地、右は覚園寺前へ出ます。

急な坂を上ると、そこは鎌倉での最高峰「太平山」です。

岩棚を下ると左にゴルフ場管理棟の脇の広場でお昼にしましょう。

トイレはこの先の右側にあります。

ハイキングコースを東へ向かって左にゴルフコースを見ながら坂を上りきると峠の茶屋、その下を通り、岩の上へ出ると展望が開け、鎌倉の海が見えます。

九、六国峠

昔、ここから相模・武蔵・上総・安房・伊豆の國と富士山(駿河)が見えたので、そう呼ばれました。

現役を退いた東郷平八郎が逗子に住み、散歩にたずねてはその美しさに感動し「天園」と名づけたので、この尾根道を「天園ハイキングコース」と云います。

☆歩き・岩場から岩につかまりながら下り、ハイキングコースへ戻ったら、左は金沢方面へ、右へ下ると獅子舞谷、今回はまっすぐに進み、杉林の中を歩いていきます。

五林山・天台山の山脇を通り、大きな岩の切通しから急坂を下り始めると中断左側に石のお地蔵さんがあります。

十、貝吹地蔵

元弘三年(1333)五月二十二日、稲村ガ崎から攻め込んだ新田軍は、当たりかまわず火を放ち、鎌倉中を火の海にしてしまいました。逃げ惑う非戦闘員や一般庶民は煙に巻かれ、多くの人が戦闘に巻き込まれ命を失います。その時に修験僧と思われる方たちが、この天台山でほら貝を吹いて逃げ道を教えたといわれ、後日このお陰で命拾いをした人達が、戦闘に巻き込まれ亡くなった人達の後生を弔うために、ここに供養の地蔵を建立したといわれます。

それが、人の口から口へ伝わるうちに「地蔵様が自ら貝を吹いて人々を助けてくれた」と伝わったので「貝吹き地蔵」と呼ばれるようになりました。

☆歩き・暫く歩くと、左側へ山道があり、足元に「北條家御一門御廟所」とかかれておりますので、小道へ入ってみましょう。

十一、北條首やぐら

小道を入ってくると左側に「やぐら」が並びます。新田義貞軍の猛攻に北條氏は、菩提寺である葛西谷の東勝寺に集合し、一族八百数十人が寺の火をつけ、その中で折り重なるように自害したと伝えられます。その火葬骨をここへ埋葬したと伝えられます。

やぐらの中には、堀残しの五輪塔や梵字も見受けられます。

☆歩き・元の山道へ戻り、進みましょう。やがて左に十二所への道などがあり、T字路に突き当たります。左は初弁天を経て、明王院への道ですが、右へ行きます。少し行くと左下に住宅が見えますが、鎌倉公方の菩提寺永安寺の跡です。第四代鎌倉公方の持氏は京都室町將軍の義教に背いて、今川を始めとする征討軍に敗れ、この永安寺で自害して果てるのです。先へ歩くと右に土塁の切通しがありますので、曲がりましょう。正面はその住宅へ出る道です。

道は、尾根の泥岩をくりぬいたU字の道が下っています。どんぐりや落ち葉を踏むと滑りますので、足元に注意を払って下りましょう。最後に今栗の階段を下りるとアスファルト道へでますので、右へ行くと左側に総門、右側に受付があります。

十二、瑞泉寺(臨済宗円覚寺派 錦屏山瑞泉寺)

この裏山は、秋になると錦の屏風のように彩られることから山号をつけられており、この谷間は紅葉谷と呼ばれております。

嘉暦二年(1327)、北鎌倉の円覚寺におられた夢窓疎石は日増しに名声が上がり、尋ねて来る客の応対で思うように修行にも励めない。と嘆いている処へ、幕府引付衆の二階堂貞藤(道薀)が自分の屋敷の一部を提供しました。谷合の静かな場所で、裏山に昇ると富士山も海もみえるので、すっかり気に入り、ここに夢窓疎石開山、二階堂道薀開基と相成りました。特に裏山が気に入り、そこに庵・一覧亭を立て、詩作をしたり、禅を論じたりしたと謂われます。

広い境内には様々な植物が植えられ、特に花物が多いのが特徴です。

春は水仙と梅、夏は紫陽花、秋は萩、彼岸花、水引草、そして紅葉が終わると千両万両と一年中何時来ても良い寺の一つです。左には古い石段、右は新しい石段、どちらを登っても上りきれば山門です。山門の手前の左側に小さな竹林、竹の胴を触って見ると四角く感

じます。四方竹です。何故か鎌倉の禅寺には必ずと云っていい位この竹が植えられています。意味は不明です。

山門を入って正面の宝形造り裳腰付きが本堂で、昭和十年の建物を修理したものだそうです。本堂には正面に釈迦如来、向かって左手に水戸黄門が寄贈した千手観音、右側には開山夢窓疎石の頂像とがまします。本堂前左に黄梅の原木があり、隣が開山堂ぐるりと回ってその裏庭が国指定史跡の夢窓作庭の庭園です。岩盤を刳り貫いて、池や島を作り、東に自然の流水を落とし、左にはジグザグの石段を刳り貫き、池は心字池とし、正面の岩窟から池に映る月を見て修行をしたとも謂われます。

池の西側に地蔵堂があり、通称「どこもく地蔵」と呼ばれます。昔扇谷の現英勝寺北隣の谷の智岸寺谷にあった地蔵堂におられたそうです。その地蔵堂が荒れ果て参詣する人もなくなり、すっかり貧乏して堂守は生活苦に追われ、逃げようとしました。そうすると夜な夜な夢に地藏様があらわれ「どこもく」「どこもく」と告げます。

この意味を八幡宮の坊さんに聞いた処、「それはきっと人間何処へ逃げても、苦しみは付きまとう。釈迦は生老病死と云って生まれてきたこと自体苦しみでもあるのだと云っているのだから、何処へ逃げたとて、苦しみから逃げられるものではない。何処も苦、何処も苦なのだから、今の処で一身に励む事が大事なのじゃよ。」と教えられ、他を当てにすることなく、今の苦境にめげずに地蔵様を守っていく決心をしたと伝えられます。

苦しい現実からの逃避では何の解決にもならない。現実に向かってこそ花も開こうものだと納得させられる説話です。

先ほどの受付へ戻ったら、山門を抜け、道なりに歩けば、鎌倉宮の前へ出ますので、バスでも歩いてでも鎌倉駅へ出られますので、今日はここで解散としましょう。

参考文献

  鎌倉史跡事典   奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

  鎌倉事典     白井永二編 東京堂出版  平成三年十二月二十五日発刊

  鎌倉の史跡めぐり 清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

  かまくら子供風土記 鎌倉市教育委員会

  鎌倉初期を知るには永井路子さんの小説「北條政子」が分かりやすいです。

紅葉葉に秋を一枚見つけたり

  

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