第三十二回 歴散加藤塾 梅と東慶寺の宝物を見る 平成十九年三月十一日

  目次 一、東慶寺 二、縁切寺法と川柳 三、東慶寺鐘楼 四、松ケ岡宝蔵 五、浄智寺 六、清涼寺谷  七、底抜井・・・・・・・十二頁  八、玄翁和尚

      九、海蔵寺と泣き薬師  十、阿仏尼の墓 十一、寿福寺

鎌倉の春は、瑞泉寺から始まり、東慶寺で終わる。南に山を背負った東慶寺は寒い。

寒いからこそ鎌倉で一番最後に梅が咲く。寒さに耐えたからこそ一段と輝いて咲く。

   寒い冬乗り越え咲いた梅の花心を込めて愛でてやらねば   塾長

歩く☆北鎌倉駅前から、信号で県道を渡り、交番の前から土手に沿った道を東へ歩きます。この土手は、円覚寺の土塁でここまでが円覚寺の境内なのであります。

この土塁に沿った県道の東西には木戸があり、参拝者などの関係者以外はこの裏道を通りましたので「牛馬の道」とも呼ばれます。東側で県道へ戻りましたら、県道の右端を鎌倉へ向かって歩きましょう。横断信号の場所で右に寺があります。

一 東慶寺

蒙古襲来で大河ドラマにもなった北条時宗(1251-1284)、その奥さんで安達泰盛の妹が北条時宗の死後、出家して覚山志道尼と名乗ります。覚山志道尼は、世の女性たちが不幸な結婚をして旨くいかず、いかに夫と別れようと思っても、当時の離婚は男のほうからしかできなかった。そのため、世を儚み思い余って自ずから命を縮めてしまうようなこともあろう。なんとか、そのような薄幸な女性を救えないものだろうかと思いついたのが、離縁を望むものは、寺に入り三年の間勤めれば、俗世のままに縁を切れことができる縁切り寺法だといわれます。

覚山志道尼は、時の執権で息子の貞時にその寺法を願い出て、時の天皇の勅許を得て、寺法は確立されたと伝えられ、開山は覚山志道尼、開基は北条貞時、開創は弘安八年

(1285)です。ただし、文書的には江戸時代のものばかりだそうです。

二、縁切寺法と川柳

その、寺法が有名になるのは、なんといっても江戸時代の川柳が物語っておりますので、川柳で江戸から鎌倉入りまでをたどってみます。

東慶寺と呼ばれるよりも「鎌倉」とか「松ケ岡」の呼称の方が有名だったようです。

     出雲にて結び鎌倉にてほどく

これは、出雲大社が縁結びの神様なのと対比的にかけております。

さて、当時の結婚は殆どが親が勝手に決めたところへ嫁ぐわけですから、相手の善し悪しなんぞ、一緒に暮らしてみなけりゃわかりません。その嫁に行った娘の一人でしょうが、理由はともかくほとほと愛想が尽きたのでしょう。

     鎌倉へ行くと火箸で書いて見せ

実家へ行ったときに、火鉢をはさんで母親にそっと声なく覚悟を告げたものでしょう。しみじみとした母娘二人の悲しみがホロリと伝わってきます。

     鎌倉へ嫁歩いても歩いても

家を飛び出したら、ひたすら鎌倉を目指して歩くわけですが、江戸から鎌倉へは十三里(52km)もありますので、さぞかし遠く感じたものでしょう。

やがて四里歩けば、六郷の渡しで多摩川の向こう岸は川崎です。

  六郷でおあしがないと困ってる

あわてて飛び出しては来たもののへそくりを持って来るのすら忘れ、渡し船の船賃がありません。

川崎・神奈川・保土ヶ谷宿を出て、戸塚宿へ向かうと「権太坂」を上り、境木地蔵で名物の焼餅を売っており、そこから信濃一里塚への下りが「焼餅坂」と難所が続き、明け六つに飛び出してきて、もう日も傾いてきて疲れも出てきます。

  運のなさ焼餅坂で追いつかれ

残念ながらここまで逃げて来ていながら捕まってしまった方もおられたのでしょう。

なんとか戸塚宿まで来れば、吉田大橋の手前で左折し、倉田・豊田・飯島を経て鼬川で鎌倉古道中ノ道といっしょになり大船の笠間へ出ます。昔、その先に小山が三つ並んでいました、大船の長尾台と北鎌倉の六国見山の真ん中なので離山と呼ばれました。

  女房の旅は亭主と離れ山

今では山も削られたり住宅化していますが、離山地蔵にわずかに名が残ります。堰水橋で左へ折れ円覚寺前の牛馬道をぬければ東慶寺はもう目の前です。

慣れない旅で十三里、あたりはすっかり暮れてしまっております。

暮れ六つの鐘とともに東慶寺の門も閉ざされてますので、ぐずぐずしていると追っ手に捕まってしまう。どうしたものかと途方にくれてしまいます。

そこで寺法に、時間外などは本人が入れずとも、簪でも、帯止めでも、身に着けているものを放り込めば入門したことになる定めがあります。

 泥足で玄関へ上がる松ケ岡・・・・・・何も持っていなかったとみえて、思いついて草履を投げ込んでしまったようです。

うまく、たどり着いた人はホッとする場面でしょうが、中にはあわて者もいて、

 うろたへた女五山をあっちこち・・殆ど、鎌倉中を走り回ったようです。

 建長寺うろたへ女叱られる・・・・・・・・間違って建長寺へ飛び込んだのでしょう。

 くやしくば尋ね来て見よ松ケ岡・・東慶寺へ入った者は、落ち着いたと見え急に強くなり、開き直っています。

さて、三年の修行が始まるのですが、出家をする必要は無く、在世のままで寺の作努を果たします。出家をすれば、その時点で俗世と縁が切れるわけですから、何も東慶寺には限りません。このあたりが他の寺とは違う特権も持っているのです。

実は、五世の用堂尼は、三年の長きは余りに不憫と「足かけ三年」つまり二十四ヶ月とします。それでも、世間と縁を絶っての月日ですから、色々と思い出すことも多いでしょう。あれもこれもと、出てくるのは愚痴ばっかりです。

 愚痴無智の甘酒造る松ケ岡   蕪村

しかも、駆け込んできた理由は、皆亭主とのいざこざばかりです。

 松ケ岡似た事ばかり話し合い

そればかりか、ついかっとして飛び込んでは見たものの、置いてきた子を思い出せば、

 松ケ岡あわれもる乳を鉦に受け・・・・・乳飲み子を置いてきたのでしょう。乳が張って仕方が無いので、已む無く金盥なぞに受けているのでしょうが、なんとも置いて行かれた子供の不憫さが沁みてきます。

落ち着けば、寺務を努めるわけですが、これにも格式がありまして、

 一、上搶O ・仏殿に花をあげたり、来客の挨拶など院代様のそばに勤める。

 二、御茶の間・お座敷や方丈の掃除をしたり、食事の調味・来客のお給仕など。

 三、御半下 ・ご飯を炊いたり、洗濯をしたり、庭の草むしりなど下働き。

寺入りの際の冥加金の額によるものらしいです。お寺ですからお経も習うわけですが、

     経文にかなづけをする松ケ岡・・・・・・・一般庶民の教育水準は決して高いものではなかったようです。

「針仕事出来申さず候はばならひお仕立ていたし候事」の規則もありますので、

     針売りも折々はひる松ケ岡・・・・・・・・・裁縫は、習い覚えてでもしなくてはならない、仕事のようでした。

     松ケ岡ちょっとはじくは納所ぶん・・・・・商家のご婦人か、見習い奉公で覚えたのか、算盤の達者な人もいたようです。

こうした人助けの寺法ですが、悲しい身分の人ばかりとは限らず、悪用する人間も現れ、

     間男を連れて相模へ逃げて行き・・・・・なんて、とんでもない女性もいれば、そんな目的で我慢したのに、

     三年のうちに間男気が変わり・・・・・・・・と、がっかりする悪銭身につかずの女もいたようです。

では、拝観料を納め、見学をさせていただきましょう。

山門をくぐると両側に梅の古木が並び、今を盛りと梅の香りを漂わせております。

三、東慶寺鐘楼

左側にかやぶき屋根の鐘楼が見えます。大正五年の建築だそうで、関東大震災以前の建物はこれだけです。鐘は材木座の補陀落寺にあったものだそうで、元々東慶寺にあったはずの貞時夫人製作の鐘は、現在伊豆のくに市韮山の本立寺にあるそうです。(右の写真は、伊豆韮山本立寺にある元東慶寺の梵鐘)

いきさつははっきりしませんが、小田原北条氏の時代に早雲が寺分の大慶寺の鐘を、氏康が浄智寺の鐘を持っていったとの伝承がありますので、大差はないものと思われます。

鎌倉時代鋳造の鐘は、すんなりとスタイルが良く、女性的です。

先へ進むと、右側に本堂があり、本尊は釈迦如来像(寄木造り玉眼入り)です。

本堂を出て突き当たりには金銅の阿弥陀様、後ろの畑は明治神宮から株分けして先代・当代住職一家がとリュックで背負ってきた花菖蒲です。

 

 

左は、水月觀音

 

 

 

 

四、松ケ岡宝蔵

右に土蔵造りのような落ち着いた建物が本日のお目当て松ケ岡宝蔵です。

●聖觀音菩薩立像・寄木造、彩色土紋置玉眼入り、鎌倉後期作(国重文)

西御門来迎寺の奥の横浜国大テニスコートの場所にありました鎌倉尼五山一位太平寺の本尊でありました。太平寺は、伝説によると頼朝が命を救われた池禪尼の姪に尼寺を建てたと謂われます。後に室町時代のことですが、鎌倉公方四代足利持氏の娘や、その弟古河公方の成氏の娘が住寺します。

また、成氏の孫の生実御所義明が(千葉県千葉市中央区南生実町)里美氏と組んで戦った国府台合戦で流れ矢に滅ぶと、その義明の娘が、姉妹で太平寺と東慶寺に住寺しました。

そして、寺伝によると大永六年(1526)安房の里美義弘が鎌倉へ攻め込み、太平寺の本尊と岳尼を奪っていったと謂われます。三山進氏著書の「太平寺滅亡」では、研究の結果異説を唱えておられますが、ここでは寺伝に従っておきましょう。

それを武家の守りの聖觀音を取られた事を北条氏康が悲しんで、蔭涼軒要山尼に頼み取り返しましたが、太平寺は氏康が廃絶させたので、東慶寺に残ったといわれます。

土紋模様とは、京や奈良の中央では、仏像の衣服の模様を截り金細工で表しますが、何故か関東ではその技術がなく、土をお盆に供える落雁菓子のように花模様に抜き、彩色をして仏像に貼り付けています。

足利氏の略系図

 尊氏義詮義満義教義政義尚

    基氏氏満満兼持氏成氏政氏義明頼純(喜連川藩祖)

                                   岳尼・太平寺

                                  旭山尼・東慶寺

●観音菩薩半跏像・寄木造、玉眼入り(県重文)

●釈宗演(1859-1919)書 セイロン文字巴利語の七仏通誡偈がねずみ文字で面白い

●初音蒔絵火取母ひとりも(国重文)室町中期の細工で香をたく道具。図柄は、源氏物語の「年月を松に曳かれてふる人に今日鶯の初音聞かせよ」の歌を題材に描いたもの。

松ケ岡宝蔵を出たら奥へ向かうと右側に大きな岩壁があります。小さな葉は岩タバコで梅雨の時期には五寸(15cm)にもなる紫の花をつけます。

その先、右の石段を上がると中先代の乱で殺害された護良親王の妹で五世の用堂尼の墓、隣が開山覚山志道尼墓、中央に並ぶ石塔は歴代住職の墓です。

ひときわ大きいのは、豊臣秀吉の孫、天秀尼の墓です。天秀尼は秀頼の娘ですが、千姫の養女として大阪落城のおり、一緒に助け出されます。しかし、豊臣の血を引くので不逞の輩に担ぎ出されかねないので、苦慮した家康は出家させ東慶寺へ入寺させます。その際に、何か望みをと言われ、東慶寺に伝わる縁切り寺法を絶やさぬようにお願いをし、東照權現様お墨付きの寺法となり、その力は江戸時代に発揮されました。

歩く☆東慶寺を出たら、道路際の右の黒格子戸の建物は江戸時代の御所役所を模倣しています。バス道を鎌倉方面へ向かって、一町半(150m)程で、右へ曲がります。

正面に総門とそれに続く、鎌倉石のゆるい階段が静かな雰囲気をかもし出しております。

 

 

 

 

 

五、浄智寺

まず池があり、古い石橋で結界を結んでおります。池の左に鎌倉十井のひとつ「甘露ノ井」が今でも綺麗な水を湧き出しております。

総門には、無学祖元(仏光国師)の筆「宝処在近」の額が掲げてあります。人というものは、今自分の置かれている境遇を良しとせず、とかく他へ行ってみれば、きっと未来も開けるだろうと羨ましがるばかりである。それは、己を理解していないからで、何処にいようとも、己を知り、世の中を悟ればそこが一番の場所となる。悟れさえすれば、宝の処は近くに在りとなる。意味は分かっても実感としては遠い話ですね。

緩やかな石段をあがり、拝観料を納め本殿前へ行きましょう。

開基は、北条長時の息子宗政の未亡人とその子師時、開山はこれがややこしくて兀庵普寧・大休正念・南州宏海の三人。兀庵も大休も渡来の人で、兀庵は既に亡くなり故開山、大休は南州の師匠で本開山とし、本当の開山の南州が準開山と遠慮しております。左右に並んだ白槇の古木が古の伽藍を語っています。

右側の本堂を曇華殿と云い、中には阿弥陀・釈迦・弥勒の三如来を配し、過去・現在・未来のご利益を施す三世仏としています。殆ど見た目に変化が無く、見分けにくいのですが、指を見ると阿弥陀は指で輪を作り、釈迦は禅定印を結び、弥勒は左右の手の上下がお釈迦様とは反対のはずです。

順路に従って進むと本堂裏の左に鎌倉で一番古い高野槇の大木がり、丸い茎の孟宗竹と茎が四角い四方竹の林を抜けます。左手奥に、五輪塔や宝篋印塔の残決が積まれて居ます。五輪とは、仏教での宇宙の要素は、空風火水土の五つから出来ているとしています。

突き当たりの洞窟は、横穴井戸で掘削技術の確立していない時代の名残です。

順路に従い、鎌倉七福神のお一人「布袋和尚」のお腹を撫ぜながら、入り口に向かい「押しても引いても開きます」の木戸から出ましょう。

歩く☆浄智寺脇を山へ向かって歩くと、鎌倉らしい閑静な土地に優雅なお屋敷が並びます。往時は、この谷を囲む山稜まで全てが浄智寺の境内だったようです。

道は平地が行き詰ったところで、左の階段へ上ります。山へ向かって最後の家の名字は、鎌倉時代のある人の領地の名と同じだなんぞと、感激してると左に洞門が現れ、尾根を切断するためなのか、向うへの抜け道だったのか、疑問が残ります。先でハイキングコースから左の金網沿いへはずれ、倒れそうな金網に触らないよう気をつけながら、道なりに下っていき、ちょっと怖いくらいの細い石段を降りたところで、住宅前へ出ます。

六、清涼寺谷

鎌倉時代に、金沢実時に請われて奈良西大寺の真言律宗をたてた叡尊が鎌倉へやってきたときに、実時の称名寺への招待を断り、ここの清涼寺と云う無人の寺に泊ったと謂われます。

清涼寺と聞けば、京都嵯峨野の釈迦堂で有名な三国渡来の生身釈迦如来像です。

螺髪が、縄目のようにとぐろを巻き、衣はインドマトゥラー美術的な左右対称に透けて見えそうな襞を表しているのが特徴です。

鎌倉時代にこの模倣が流行して、律宗の奈良西大寺にも、金沢文庫の称名寺にも、鎌倉極楽寺にもありますが、千葉県にも多いようです。

歩く☆谷を抜け出たら右へ、左に「武田流弓馬道」の看板があります。こちらは、衣笠合戦で活躍した金子十郎家忠の子孫で、熊本細川藩の武田流を継いでおられます。

奥へ歩き寺へ突き当たります。

右に石をくりぬいた小さな井戸から水が流れ出ております。

七、底抜井

この井戸は鎌倉十井のひとつ「底抜けの井戸」と呼ばれ、鎌倉時代後半の頃、千代野と云う名の安達泰盛(1231-1285)の娘が長じて金沢顕時(1248-1301)に嫁ぎますが、後に出家し、無学祖元(仏光国師)(1226-1286)の門弟となり、無外如大尼と称します。仏道に修行中のある日この井戸へ水を汲みに来た処、桶の底が抜けてしまい、とっさに詠んだ詩が大悟した時の一句といわれます。

     千代野ふがいただく桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらじ

この詩がなぜ、大悟の証かと言うと、桶のそこが抜けたのですから、水がたまらないのは当たり前です。しかし、「月もやどらじ」とは、水はいろんなことに役立つが、その殆どは水の仕事としての役割ばかりであるが、月を映し出すという清冽な役割さえも出来る。そんな、水の心を見つけたわけですね。

他にも名所都鳥では、千代能は金沢顯時の娘、足利貞氏の妻、無学祖元の弟子とあり、場所も山城国愛宕郡千代野が井の話として書かれ、別の場所としています。

     とにかくにたくみし桶の底ぬけて 水溜らねば月もやどらじ

また、江戸時代の豪商万屋の次男百井塘雨の「笈埃随筆きゅうあいずいひつ」には、京洛北本隆寺の千代能が井戸としており

     兎に角に工し桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらじ

とあり、「一説に千代能がいただく桶のとも聞ゆ」とも書かれています。

海蔵寺の入り口に石塔があり「玄翁和尚」の文字があります。

八、玄翁和尚(1329-1400)

玄翁和尚は、海蔵寺の開山ですが、こんな逸話があります。

鳥羽上皇(1103-1156)に仕える女官の一人に玉藻前と云う、頗る付きの美人がおりました。その美しさに引かれた鳥羽上皇は寵愛を重ねましたが、何故か病に伏せるようになりました。病を陰陽師安部泰成に占はせた処、玉藻は唐の国から逃げてきた白面金毛九尾の狐が化けたと知り、暴露された狐は脱走し行方をくらましました。

その後、下野の那須地方で婦女子がさらわれるなど、異変が相次ぎ、九尾の狐の仕業と分かり、狐討伐軍を編成しました。三浦介義明・上総權介廣常を先頭に向かいましたが、狐の妖術にさんざんにてこずらせられます。そこで、一計を案じ、狐に見立てた犬の尾を的に、犬追い物で騎射の訓練を重ねた上で、攻めたところ三浦介義明の矢が狐の脇腹と首筋を射抜き、上総權介廣常の刃に倒れ、息絶えました。しかし、狐の霊力はいささかも衰えず、巨大な岩となり、その岩からは瘴気が絶えず、行きかう動物は飛んでいる鳥でさえも、その毒気で命を奪われたと謂います。

それから約二百年の後になりますが、会津熱塩の示現寺を建てた玄翁心昭が、この話を聞き、民の難儀を留めてやろうとやってきました。和尚は、経を唱え、法力をもって鉄の鎚でこの岩を打ち砕きましたので、それからは毒気がなくなったと謂われます。そんな話から、鉄の鎚のことをいつか玄翁と呼ぶようになったとか。

 

 

 

 

 

九、海蔵寺と泣き薬師

臨済宗建長寺派。応永元年(1394)上杉氏定が鎌倉公方二代目氏満の命を受け創建したと伝えられます。まずは本堂に一礼して、左側の薬師堂へ参りましょう。

昔、寺の境内で夜な夜な赤子の鳴き声がするので、当寺の住職が不思議に思い探してみると、本堂の裏の墓地の方で声がする。近づいてみると地面が光っている。掘って見ると薬師如来の頭部が現れた。これは奇瑞の現れと新たに薬師如来を彫り、その体内に頭部を納めたので、泣き藥師と呼ばれ、お堂正面に御座します。

薬師堂脇の縁台に腰掛け眺める庫裏のかやぶき屋根や本堂裏手のやぐらなど、静かなひと時を過ごすのにうってこいのお寺です。

薬師堂前から山門へ向かって石段を降りてすぐ右へ、小さな案内に従って進むと、大きなやぐらの前へ出ます。中は暗いので、懐中電灯で照らしてみると地面に四×四の十六の水溜りがあります。正面には像があります。足元を見ると今でもきれいな水が流れ出しておりますので、十六井戸と呼ばれていますが、実のところは何も分かっておりません。ただ謎だらけの洞穴です。

歩く☆海蔵寺前へ出ましたら、道を谷の口へ向かって歩きますと、やがて横須賀線のガードにありますが、ガードをくぐらず右の道へ歩きましょう。左の横須賀線がトンネルへ向かっている谷は、法泉寺谷です。

道を歩くと右側に企業の寮があり、この裏の谷が智岸寺谷と云い、瑞泉寺の「どこもく地蔵」がおられたところだそうです。

右のがけに岩穴があり、中に多宝塔が建っています。

十、阿仏尼の墓

阿仏尼(1222-1283)は、歌道の家を築いた藤原定家(1162-1241)の子爲家の側室となり、冷泉爲相を生みます。爲家は、播磨国細川庄を爲相に譲るとしますが、その死後正妻の子二条爲氏が取り上げてしまったので、これを取り戻さんと鎌倉幕府へ訴訟にきます。

その紀行文が有名な「十六夜日記」であります。しかし、鎌倉ではおりからの元寇の役で、それどころではなく裁判は進みません。とうとう結審をしないままに彼女は鎌倉の地でとも、京都へ帰ってからだとも謂われますが亡くなります。その跡を継いだ爲相が、裁判で勝ちましたので名月記が今でも冷泉家に残ったわけです。なお、この爲相は水戸黄門様が整備した浄光明寺裏山に墓があります。横須賀線をはさんで親子は、今でも向き合っております。

隣のお稲荷様は、隠里稲荷とも白ひげ稲荷とも謂われ、頼朝が伊豆時代に夢枕に立ち彼を病から救い、天下を平定することが出来たとも謂われます。銭洗い弁天の宇賀福神と話が似ています。

歩く☆道を進むと英勝寺の前をとおり崩れかけた土塁に樹木の寺に出ます。

十一、寿福寺

名を亀谷山寿福金剛禅寺と云い、臨済宗鎌倉五山第三位に位置します。

寺の伝承よりも、寿福寺の地を吾妻鏡から追ってみます。

治承四年(1180)十月六日奇跡の挽回を遂げて、鎌倉入りをした頼朝は、翌日にはもうこの地を見学に来ています。もっとも、未だ住む場所も決まっていないので探している最中であります。

●治承四年「庚子」(1180)十月小七日丙戌 先ず鶴岡八幡宮を遙拜し奉り給ふ。

次で故左典厩之龜谷の御舊跡を監臨し給ふ。即ち當所を點じ御亭を建て被る可し之由、其の沙汰有ると雖も、地形廣きに非ず。又、岡崎平四郎義實が彼の没後を訪い奉らん爲、一梵宇を建つ。仍て其の儀を停め被ると云々

現代語 まず鶴岡八幡宮(元八幡)を遠くから拝んで、次に亡き源義朝の亀谷の邸宅跡を見に行きました。直ぐにこの場所に邸宅を構えようと一旦は決められましたが、地形が広くなく、それに岡崎四郎義實が源義朝を弔う為お堂を建てていましたので、父の供養寺を使うわけには行かず、やめることにしました。

●治承五年(1181)三月小一日丁丑。今日、武衛御母儀御忌月を爲すに依て、土屋次郎義Cが龜谷堂に於て、佛事を修被る。導師は筥根山別當の行實、請僧は五人。專光坊良暹、大夫公承榮、河内公良睿、專性房全淵、淨如房本月等也。武衛聽聞令め給ふ。御布施は導師に馬一疋、帖絹二疋、請僧は口別に白布二端也。

現代語 今日は頼朝様のお母さんの亡くなった月ですので、土屋次郎義Cの亀ケ谷のお堂で法事を行いました。主任の坊さんは箱根権現の筆頭の行実で部下の坊さんは五人です。(坊主の名前五人略)頼朝様はお経を聞きました。お布施は、主任に馬一頭、絹二疋、部下の坊主には一人づつに白布二反です。

参考 御母儀御忌月は、平治元年三月死亡となるが、尊卑分脈に頼朝の経歴によると平治元年三月一日に服解(ふくげ)とある。同十二月に平治の乱が起こる。

参考 土屋次郎義Cは、岡崎四郎義實の実子で土屋へ養子に行ってる。

参考 亀谷堂は、岡崎四郎義實の建立した一宇で、後に政子が寿福寺の前身を建立。

参考 口別は、坊主は一人二人と数えず、口で稼ぐばっかりなので、一口二口と書いて「いっく」「にく」と呼ぶ。俗人ではないので、人(にん)と呼ばない。

参考 白布二端也は、まだ銭は普及していない。後に泰時は米一石を銭一貫文としている。

●正治二年(1200)閏二月小十二日戊戌リ。尼御臺所の御願と爲し、伽藍を建立されん爲、土屋次郎義Cが龜谷之地を點じ出だ被る。是、下野國司が御舊跡也。其の恩に報いん爲、岡崎四郎義實兼て草堂を建る者也。今日、民部丞行光・大夫属入道善信件の地を巡檢すと云々。

現代語 尼將軍の政子様の希望でお寺を建立したいので、土屋兵衛尉義Cが管理をしている一宇のある亀谷の土地をお召し上げになりました。この土地は源義朝様が元々お持ちになっていた土地なのです。その義朝様に恩になったお礼にと岡崎四郎義實が供養のためにお堂を建てていた処です。今日、二階堂行光と三善善信がその土地を検分しましたとさ。

●正治二年(1200)閏二月小十三日己亥リ。龜谷の地、葉上坊律師榮西〔後に僧正に昇る〕に寄附被る。C淨結界之地と爲す可し之由仰せ下被る。午剋、結衆等其の地を行道す。

施主監臨し給ふ。所右衛門尉朝光御輿を供奉し、義C假屋を搆へ珍膳を儲けると云々。未剋、堂舎〔壽福寺也〕營作事始也。善信・行光等之を奉行す。

現代語 亀谷のお堂の土地を葉上坊律師栄西(後に僧正にまで出世します)に与えました。この土地を清浄な世間から切り離した地(お寺)にするように命じられました。午の刻(昼頃)に坊さんたちがお経を祈りながらぐるぐる回り清めました。政子様も一緒に見ておられました。所六郎朝光が輿を警護して、土屋兵衛尉義Cは臨時の小屋を立てて、珍しいご馳走を用意しましたとさ。未の刻(午後二時頃)お寺の建物(寿福寺)の地鎮祭をしました。三善善信と二階堂行光が作事奉行(施工指揮官)をしました。

参考 結衆(けっしゅ)は、仏教用語で〔「けっしゅう」とも〕ある目的で集まった人々。

参考 行道(ぎょうどう)は、仏教用語で列を作って読経しながら本尊や仏堂の周りを右に回って供養礼拝すること。お堂の場合は遶堂とも書く。

●建仁二年(1202)二月大廿九日甲辰。故大僕卿〔義朝〕が沼濱の御舊宅於鎌倉へ壞ち渡し、榮西律師の龜谷寺于寄附被る。行光之を奉行す。此の事、當寺建立最初に、其の沙汰有ると雖も、僅に彼の御記念の爲、幕下將軍殊に其の破壞を修復被る。暫く顛倒の儀有る不可之由、定め被る之處、僕卿尼御臺所の御夢中于入り、示被て云はく、吾常に沼濱亭に在り。而るに海邊漁を極む。之を壞し寺中于建立令め。六樂を得んと欲すと云々。御夢覺る之後、善信を令て之を記し給ひ、榮西に遣は被ると云々。大官令云はく、六樂者、六根樂歟と云々。

現代語 故左馬頭義朝様の逗子沼間(堀ノ内)に残る昔の建物を分解して運んで、栄西の亀谷寺に下げ与えました。二階堂行光が指揮官です。この話は、寿福寺を建立する話が出た初めに決めたけれども、父の少ない記念物のひとつなので、頼朝様は特に壊れているところを修復して、暫く倒れないようにきちんと手入れをするように決めておられたので、止めたのです。しかし、左典厩義朝様が尼將軍様の夢の中に現れて云うには、私の霊はいつでも沼間の屋敷に居る。それなのに目の前で盛んに漁をして殺生をしすぎる。だからこの建物を分解して、寺の中に建ててもらえば、六楽になるだろうと言ったんだとさ。夢が覚めてから、三善善信にこの話を書き留めて、栄西にあげることにしたんだとさ。大江広元が云うには、六楽とは、六根清浄の六根が楽になり、成仏できるということさだと。

参考 大僕は、馬頭うまのかみの唐名。典厩とも云う。

参考 海邊漁を極むは、魚を盛んに取るので=殺生をするので。

参考 大官令は、大江広元。

参考 六根は、仏教用語で 感覚や意識をつかさどる六つの器官とその能力。すなわち眼根(げんこん)・耳根(にこん)・鼻根・舌根・身根・意根の総称。六つの根。

との謂れを思いつつ、裏の政子の墓・実朝の墓と謂われるやぐらをお参りしてお開きとしましょう。

  

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