第三十三回歴散加藤塾 七里ヶ浜を歩く 平成十九年五月十三日 引率説明@塾長

      目    次

 一、片瀬川 二、腰越浜 三、小動神社 四、行合橋 五、稲村ガ崎 六、十一人塚 七、日蓮袈裟掛松 八、針磨橋 九、極楽寺

余談、律令制で五尺を一歩とし、三百歩で一里 (454.5m)とした。454.5m×七里は約3.18km、小動崎と稲村ガ崎の間が直線距離で約2.8km6.16里になるので、浜の弛みを換算して切り上げれば七里。

     ♪七里ヶ浜の磯づたい 稲村ガ崎名将の剣投ぜし古戦場

と唱歌「鎌倉」に歌われた七里ヶ浜約2.8kmを腰越から稲村ガ崎まで歩いてみましょう。

一、片瀬川

 小田急江ノ島駅の改札を出たら、駅前広場を横切りしゃれた橋で片瀬川を渡ります。

片瀬川の語は鎌倉時代からあり、石橋山合戦で敵の大将として、頼朝軍を散々に痛めつけた大庭三郎景親が、頼朝の奇跡の挽回の後、戦犯として捕虜になり、ここで処刑されています。

●吾妻鏡抜粋「治承四年(1180)十月廿六日。(前略)今日、固瀬河邊に於て景親梟首さる。弟五郎景久者志猶平家に在る之間潜に上洛すと云々。」

現代語:今日、片瀬川の辺りで大庭三郎景親は打ち首獄門にされました。弟の俣野五郎景久は、平家に付く為に旨く抜け出して京都へ向かったとの事でした。

歩く川を渡ると右側に観光案内所があり、階段を下り、正面へ抜けると江ノ島への歩道、左へ出ると片瀬の海岸に出て、目の前に江ノ島が見えます。東浜海水浴場と名付けられています。

初夏の海に誘われながら浜辺を東へ歩くと、浜の途中で藤沢市から鎌倉市へ入ります。やがて神戸川があるので、自動車道路へ上がり橋を渡ります。

二、腰越浜

 この神戸川に面した山側一帯が昔の腰越浜と言われたようで、鎌倉西側の処刑場だったようです。吾妻鏡から拾ってみると

●吾妻鏡抜粋「治承五年(1181)四月十九日。腰越濱邊に於て囚人平井紀六を梟首す。是、北條三郎主を射る罪科は不輕之間。日來殊に禁じ置か被る所也。」

現代語:腰越の浜で平井紀六をさらし首にしました。この人は石橋合戦で義時の兄の宗時を射殺した罪は重いので、普段から厳重に捕らえられていたのです。

●養和二年(1182)四月小五日乙巳。頼朝様は、江ノ島へ行かれました。足利冠者義兼・北條四郎時政・新田冠者義重・畠山次郎重忠・下河邊庄司行平・下河邊四郎政義・結城七郎朝光・上総權介廣常・足立右馬允遠元・土肥次郎實平・宇佐美平次實政・佐々木太郎定綱・佐々木三郎盛綱・和田小太郎義盛・三浦十郎義連・佐野太郎基綱等がお供をしました。これは、文学上人が、頼朝様の願いをかなえるために、弁財天をこの江ノ島へ呼び祀り、その開眼供養を始めるので、特に訳があって立ち会われました。秘密のことですが、これは奥州平泉の藤原秀衡を祈り殺すためなんだとさ。今日、直ぐにその場で鳥居を立てられました。その後、帰る途中の金洗い沢(七里ガ浜)で牛追物をさせました。下河邊庄司行平・和田小太郎義盛・小山田三郎重成・愛甲三郎季隆などが当てた矢の数が多かったので、それぞれに色染めの皮や藍染の絹を褒美に与えました。

●寿永二年(1183)二月には、叔父の志田三郎先生義廣が裏切って、鎌倉を攻めるために小山四郎朝政と足利太郎俊綱とに強力を求めますが、小山朝政は味方につくふりをして、家来達を等々力沢の地獄谷の林の木の天辺に登らせて、一斉に大声を出させ志田義廣の軍を敗退させます。その志田義廣軍の撃ち取った首を三浦次郎義澄、比企四郎能員などに命令して、腰越浜へ運ばせ、さらさせました。

一方志田義廣に付いた足利俊綱も破れ、逃げますが部下の桐生六郎に殺され、鎌倉へ持ってきて同様に腰越浜で曝されました。

又、頼朝の許可を得ずに勝手に任官した源九郎義經が、平家の捕虜平宗盛を連れて凱旋しましたが、鎌倉へ入れられず、腰越に留め置かれ、赦免の手紙を書いた腰越状が有名ですので、読下しを乗せておきます。

 左衛門少尉源義經恐れ乍ら申し上げ候。意趣者、御代官の其一に撰ばれ、勅宣の御使となし、朝敵を傾け、累代の弓箭の藝を顯し、會稽の耻辱を雪ぐ。抽賞されるべきの處、思ひの外に虎口の讒言に依て、莫大の勳功を黙止される。

義經犯無くして咎を蒙り、功有ると雖も誤無くて、御勘氣を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。倩、事の意を案ずるに。良藥は口に苦く、忠言は耳を逆るの先言也。茲に因て、讒者の實否を糺被不、鎌倉中へ入被不の間、素の意を述るに不能、徒に數日を送る。この時に當り、永く恩顏を拝し奉不。骨肉同胞の儀既に空しきに似り。宿運の極まる處歟。將又、先世の業因を感ずる歟。悲き哉。此の倏、故亡父の尊靈再誕し給不者、誰人が愚意の悲歎を申披き、何輩が哀憐を垂ん哉。事新たに申すの状述懷に似りと雖も、義經身躰髪膚を父母に受け、幾時節を不經、故頭殿御他界之間、無實之子と成し、母の懷中に抱被、大和國宇多郡龍門牧へ赴くの以來、一日片時と安堵の思いに住不。甲斐無きの命許りを存ずと雖も、京都の經廻、難治の間、諸國に流行令め、身於在々所々に隱す。邊土遠國を栖となし、土民百姓等に服仕される。然而、幸慶忽ちに純熟して平家一族追討の爲、これを上洛令め、手合に木曾義仲を誅戮の後、平氏を責め傾けん爲、或時は峨々たる巖石を駿馬に策ち、敵を亡さん爲、命を不顧。或時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈め骸を鯨鯢の鰓に懸くるを不痛。これに加へ甲冑を枕となし、弓箭を業となす。本意は併ら亡魂の憤りを休んじ奉り、年來の宿望を遂んと欲するの外他事無し。剩へ義經五位尉に補任の條、當家の面目、希代の重職、何事をこれに加へんや。然りと雖も、今愁深き歎き切なし。佛神の御助に非るよりの外者、爭か愁訴を達せん。茲に因て、諸神諸社牛王寳印の裏を以て、全く野心を挿不の旨、日本國中の大少の神祇冥道を請け驚かし奉る。數通の起請文を書き進めると雖も、猶以て御宥免無し。其我國は神國也。神は非礼を禀ける不可。憑む所他に非。偏に貴殿の廣大の御慈悲を仰ぎ、秘計を廻被、誤無の旨に優ぜられ、芳免に預ら者、積善の餘慶を家門に及ぼし、永く榮花を子孫に傳へん。仍て年來之愁眉を開き、一期の安寧を得んと、詞を書き盡不。併ら省略令め候ひ畢。賢察を垂被んと欲す。義經 恐惶謹言。

    元暦二年五月日                 左衛門少尉源義經

   進上  因幡前司殿

その源九郎義經も、文治五年(1189)には、奥州で泰衡に打たれ、六月大十三日には、この浜で侍所別当の和田太郎義盛、所司の梶原平三景時が首実検をしました。吾妻鏡には「見る者、涙を拭い、袖を濡らす」とあります。

歩く渡った右側は、腰越漁協です。漁協では第一第三木曜日に朝市が開かれるそうですが、獲り立て新鮮な魚が食べられそうですね。

先へ歩くと左側に寺が、右側に神社があります。

三、小動神社

元々は、左側の玉を八王子山と云い、八王子を祀っていた。八王子とは記紀神話の天照大神と素戔嗚尊が天の安の河で誓約をした時に出生したとされる五男三女になぞらえ祀ったものである。明治の神仏分離の際に現在の名称に変えた。伝説では、弘法大師の話まで出てきますが、それはともかく鎌倉時代の文治年中に佐々木三郎盛綱が、江ノ島詣での途中でこの岬へ立ち寄ったところ、伝説どおり風も無いのに琴を奏でるように松の葉が微妙に揺れているので、これが天女遊戯の霊木と称賛し、神社を勧請したと謂われる。

 

歩く神社を出たら国道を右へ歩き、小動バス停から右の小道へ入り、浜へ出よう。浜には掘っ立て小屋があるが、漁師の番屋のようなもので、季節時間により釜茹でシラス続く七里ヶ浜を歩きましょう。五百メートルで江ノ電の鎌倉高校前駅があり、もう四百メートルで左の階段を昇り、国道に上がりましょう。約五百メートルで橋を渡ります。

 

 

四、行合橋

文永八年(1271)九月十二日、他宗批難や幕府批判で捕まった日蓮(1222-1282)が、江ノ島入口の竜ノ口において、処刑されそうになります。しかし、神の加護があり斬首できないので、判断を仰ぎに幕府へと走った使者と、執権北条時宗の妻が懐妊したので、坊主頃さば七生祟るの縁起があるので、斬首を止めるために竜ノ口へと向かう使者がここで出合ったことから、この名が残ったと謂われます。罪一等を減じられた日蓮は、佐渡へ流罪になりました。

歩くさてこのまま県道の遊歩道を東へ進みましょう。途中右側の海岸に、日本の精神性の基礎を築いた明治時代の本で、唯一今でも再版されている「善の研究」の著者西田幾多郎の碑があります。やがて右に突き出た岬の公園につきます。

五、稲村ガ崎

名前の由来は、この岬を材木座側から見るとちょうど稲藁を積み上げたように見えるところから、この名が付いたと謂われます。

二度にわたる蒙古襲来から五十年も経っているのに未だに恩賞にあずかれない御家人や、北条政権の窓口のはずの御内人による圧政等に不満を抱く御家人達は、後醍醐天皇の呼びかけに立ち上がった。

京都では足利尊氏が大将に、関東では元弘三年(1333)五月八日新田義貞が兵を挙げ、これに近隣の御家人が呼応し、北関東を始め関東中から鎌倉へ攻め寄せました。これを迎え撃つ北条軍は、分倍河原の合戦、瀬谷が原、須崎と敗退し、とうとう鎌倉の切通しを残すのみとなりました。

これを攻めてきた新田義貞ですが、小袋谷・化粧坂の要害に攻めあぐねていました。

時に稲村ガ崎を攻めていた従兄弟の大館宗氏が、守備側の北条に攻められ主從十一騎打ち滅ぼされ、勢いづいた北条軍は行合橋あたりまで軍勢を追い返してしまいます。

これを聞きつけた新田義貞は、ここで鎌倉攻めの意気が消沈してしまってはと、笛田から迂回し、北条勢を極楽寺切通し内へ追いやります。しかし、極楽寺も霊仙山も狭い上に要害ときており、一列で攻めるわけにも行かず、かと云って稲村ガ崎の海岸線は、沖に北条勢の大群の軍船が弓を揃えて待ち構えている。どうにも攻めあぐねた義貞は、元弘三年(1333)五月二十一日満月の晩を狙って、黄金の太刀を竜神に捧げ、願わくば潮を引いて我が軍勢の通り道を開き給えと願ったところ、その日の夜半に見る見るうちに潮は十町も遥か沖へ引いてしまい、大きな干潟が現れたといいます。そこで軍勢は干潟を渡り一気に鎌倉へ攻め入り、勝利へと導いたと伝えられます。

公園には、そのほかに大正時代の逗子開成高校の海難の碑やコッホ博士の記念碑などがあります。それと極楽寺川付近の砂浜の砂が妙に黒いことに注意していてください。

歩く公園から信号で向かい側へ渡り、路地へ入り、少し行って左へ曲がり、橋を渡った先のТ字路左に塚があります。

六、十一人塚

御大将の新田義貞の分家に当たる従兄弟の大館宗氏は、一方の大将として極楽寺口を任され、元弘三年(1333)五月十九日、極楽寺坂から攻め入ろうと準備をしている最中に、鎌倉側武将の本間山城左衛門に本陣に切込まれ、宗氏とその部下十一人が戦死しました。その遺体をここに埋め、十一面観音の像を建ててその魂を祭りましたので、十一人塚と言うと伝えられています。

歩く塚の前から右側へ、鎌倉へと進むと踏切があり、左には稲村ヶ崎駅が見え、右の線路際の肉屋さんは、踏み切り脇と云う江ノ電の長閑さが感じられ、物珍しいと良くテレビに映されたりしています。先へ歩くと左側に松ノ木と石碑があります。

七、日蓮袈裟掛松

元は稲村ガ崎へ来る道中の音無川のたもとに松ノ木があり、竜の口へ連行されていく日蓮が、処刑されて袈裟を血で汚しては恐れ多いと、木の枝に掛けていったと伝説されます。現在では、何の所以かわかりませんが、ここに石碑が建っております。

歩くもう一度江ノ電の踏切を渡って進むと、右側の水路が消えます。

 

八、針磨橋

暗渠になっているので、分かりにくいのですが、鎌倉十橋の一つ針磨橋です。この辺りでは、砂鉄が多く取れたので、針を作る職人が多くいたのでこの名が付いたと謂われます。先ほど、稲村ガ崎で砂が黒いと言ったのは、この砂鉄が多く含まれていたからです。

砂鉄からは刀が作られますので、実はこれが鎌倉に武家政権を開いた理由のひとつだと唱える歴史家もおります。

歩く道は緩やかに上っていきます。やがて左側に極楽寺駅があり、その先で左に江ノ電を超えるさくら橋を渡ると極楽寺の門が見えます。

九、極楽寺

真言律宗西大寺派。霊鷲山感応院極楽寺。開山は良観房忍性。開基は北條重時。元々は重時が作りかけていた寺を子供の長時、業時が完成させ、盛時には、四十九もの支院がある堂々としたものだったようです。

当時、新仏教と呼ばれる法然の浄土宗や親鸞の真宗など「念仏宗」が一般庶民に普及していく中、昔からの真言宗の僧達が弘法太子の遺誡に背き、僧としての行いを正していない。として戒律、特に律を守るべきであると、叡尊により「真言律宗」が生まれます。

その弟子の忍性は、常陸の三村寺から鎌倉へ呼ばれ、文永四年(一二六七)極楽寺を開山しました。彼は宗派の普及だけでなく、慈悲の精神を施すため、悲田院を再興して貧民を救い、道路修築や架橋、伽藍修造、造塔、ハンセン氏病患者の救済などに尽くしました。宝物庫前の石臼で茶をひき、石鉢で茶を入れ庶民に薬として振る舞ったとも云われ、忍性菩薩とも呼ばれ庶民に慕われました。

極楽寺の本尊は、髪の毛が縄の目状に渦を巻いている清涼寺式釈迦如来です。京都清涼寺の三国渡りの釈迦如来を模倣した木造が流行りました。

また、下がり眉の叡尊像と共にそっくりなのが金沢文庫の称名寺にもあります。

なお、裏手の稲村ガ崎小学校運動場奥には、忍性の墓である石造の巨大な五輪塔があります。

では、江ノ電で帰っても良いし、元気な人は鎌倉駅まで歩いても良いでしょう。

  

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