第三十六回歴散加藤塾            鎌倉へ梅を見に行く         平成廿年二月十七日 

引率説明  歴散加藤塾 主催 @塾長

 目 次   一、宝戒寺 二、関取場 三、荏柄天神参道 四、荏柄天神 五、瑞泉寺 六、理智光寺跡 七、明王院 八、梶原屋敷跡

例年ですと、北鎌倉へ梅を見に行ってますが、今年は趣向を変えて、小町の宝戒寺のしだれ梅、梅の花といえば天神様、瑞泉寺などへ行ってみましょう。

鎌倉駅を東口へ降りたら、駅前の広場を突っ切って若宮大路まで出ましょう。

信号で向かいへ渡り、北へ向かうと右側に鎌倉警察署があります。

警察署の向こう脇を右へまがり、左の教会の裏の路地へ入りましょう。路地を北へ辿ると左側に沢山の赤い旗が立ったお稲荷さんがあります。

このお稲荷さんは、鎌倉時代には宇都宮一族の屋敷の鬼門の隅にあったといわれますので、この東西の路地を「宇都宮辻子」と呼ぶわけです。三代執権北条泰時が嘉禄元年(1225)幕府をここへ移したといわれ「宇都宮辻子幕府」と呼ばれています。

路地を北へ進むと、突き当りを左へ次は右へとクランクして、清川病院の裏を通り、黒板塀に見越しの松の家は、鞍馬天狗の大仏次郎さんの生前の執筆活動の地でした。板塀にそって右へカーブをすると「若宮大路幕府跡地」の石碑があります。

ここは、嘉禎二年(1236)にたったの十年で宇都宮幕府から引越しをしています。

宇都宮辻子幕府北側の執権屋敷の地へ引っ越したとも、同一敷地内の北側に建物を新築し、若宮大路側に入口を作ったものともいわれます。

そのまま路地を東へ行くと小町大路へ出ます。左側を歩きながらバス通へ出たら、横断歩道で右側へ渡りましょう。正面に寺があります。

一、宝戒寺(天台宗、金龍山釈満院円頓宝戒寺)

この地は、元北条得宗家の屋敷地であった。義時の代から泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時と引き継がれてきたようです。元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めにより、菩提寺の東勝寺(廃寺)にて一族は滅びました。後、建武二年(1335)建武の中興を果たした後醍醐天皇は北条一族の怨霊を弔うため、足利尊氏に命じて、その屋敷地に寺を建立させましたのが、宝戒寺です。

今では、萩の寺として有名ですが、「宗園梅」と呼ばれる「しだれ梅」も見事です。

本尊は唐仏地蔵と呼ばれる貞治四年(1365)三条法印憲円作の木像地蔵菩薩坐像です。慶派系統の多い鎌倉仏に比べ、京下りの優しい表情が特徴です。本堂の本尊に向かって左側には、鎌倉七福神のお一人毘沙門天や密教系のお不動様もおられます。夫婦和合の歓喜天・徳崇大権現・太子堂などの境内社があります。

小町大路へ出たら歩道に沿って北上し、次の信号で右折します。

ここから東への道を「六浦道」とも金沢街道とも呼ばれ、この街道は頼朝入府前からあり、このまま西へまっすぐ寿福寺の前へ達していたそうです。つまり寿福寺の地は六浦道と武蔵大路の出発点源氏屋敷の地だったのです。

京都では、比叡山と東山を結んだ線と平行に、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西に一条大路があります。鎌倉では、天台山と衣張山を結んだ線に平行に、十王岩から四百六十丈の処を宝戒寺前の横大路として、若宮大路を南へ引いたので27度ずれております。この横大路の北に八幡宮を祀りましたので、六浦道の道筋をここで63度曲げたのです。そして、この下に西御門川があるので、「筋替橋」と呼ばれます。

ここから、東を見ると北側には大倉幕府の泥築地の塀が続き、南側には政所別当大江広元の屋敷、事実上の常陸支配者八田知家の屋敷、そして秩父党の希望の星、畠山重忠の屋敷が並んでいたようです。

やがて、現在の分れ道の信号で道の北側へ渡りましょう。

六浦道を先へ、左に「関取場」の石碑があります。

二、関取場

戦国騒乱時代の天文十七年(1548)に小田原北条氏康が関を儲け、通行税として関銭を取り、その銭を荏柄天神社の修造費に当てたとのことです。

麻紙布類の荷物は十文、乾物馬は5文、人の背負い物は三文、運送屋の馬は一頭十文、天秤棒の物売りは十文、往来の僧、庶民、里人は無料だったようです。

左の路地は、頼朝が建立した永福寺へ通じる「二階堂大路」なので、ここが本当の分れ道なのです。六浦道を先へ進むと、左の石段の上に鳥居が立ちます。

三、荏柄天神参道

天神様の参道なので、百本以上の梅ノ木が植えられております。

右側には紅梅が、左側には「古代青軸」と呼ばれる、花の中心が青みがかって見える白梅です。なお、この梅の実は、そのまま漬ける「白梅」と紫蘇の葉を漬けた「赤梅」とで、紅白の梅干にして、受験祈願のお守りとして下賜されるそうです。

参道を登ると、途中で二階堂大路や鎌倉宮参詣のバス通りを横切り、互いにもたれかかった「白槙」をくぐると、正面に階段が見えます。

四、荏柄天神

伝説によると、長治元年(1104)八月二十五日、一転にわかに空が掻き曇り、天から天神像が降ってきたので、人々は恐れ敬いと天神社を建て祀ったといわれます。頼朝入府後、大倉幕府の鬼門に当たることから崇敬したので、一時は日本三天神の一つとして賑わいました。今でも、受験シーズンには大勢の若者がお願いに参ります。

本殿は、徳川将軍二代目秀忠の寄進とも言われる国の重要文化財です。(後補:最近の調査結果で、八幡宮からの払い下げで鎌倉最古の建築物だそうです)

境内には、漫画家清水昆の「かっぱ筆塚」があり、塔には色々な漫画家が描いた河童の絵が銅版になって貼られています。アトムもおります。

白槙の前へ戻ったら、左へ歩きバス通りを突っ切り、次の川淵の二階堂大路を左へ歩くと、鎌倉宮の脇へ出ますので、一休みしていきましょう。

鎌倉宮脇から、先へ歩くと左側にテニスコートがあります。このテニスコートを含んで北側一帯が、永福寺跡史跡として整備され、将来は復元されるようです。この永福寺の本堂が瓦葺で裳腰のついた二階建てに見えたことから、このあたりの地名が「二階堂」と呼ばれ、今でも住所になっております。

二階堂川を通玄橋で渡り、先へ歩くと気がつかない程度の登り道で、ゆるゆると谷戸の奥へ向かって行きます。車いっぱいの狭い切通しの先に総門が見えます。

五、瑞泉寺(臨済宗円覚寺派・錦屏山瑞泉寺)

この裏山は、秋になると木々の葉が色づき錦の屏風のように彩られることから錦屏山と山号をつけられており、この谷間は紅葉谷と呼ばれております。

嘉暦二年(1327)、北鎌倉の円覚寺中興の祖とも云われた夢窓疎石は日増しに名声が上がり、尋ね来る客の多さに辟易して嘆いている処へ、幕府引付衆の二階堂貞藤(法名道薀)が自分の屋敷の一部を提供しました。谷合の静かな場所で、裏山に昇ると海が見えるので、すっかり気に入り、夢窓疎石開山、二階堂道薀開基として一宇を建立しました。特に裏山が気に入り、そこに庵・一覧亭を立て、詩作をしたり、禅を論じたりしたと謂われます。

広い境内には、春は水仙と梅、夏は紫陽花、秋は萩、彼岸花、水引草、そして紅葉が終わると千両万両と一年中何時来ても良い寺の一つです。

左には古い石段、右は新しい石段、どちらも三十bも登れば山門です。山門の手前の左側に小さな竹林、竹の胴を触って見ると四角く感じます。四方竹です。何故か鎌倉の禅寺には必ずと云っていい位この竹が植えられています。意味は不明です。四方竹は、四角竹とも云われ、中国原産だそうなので、そのあたりに謂れがあるかもです。

山門を入って正面が宝形造り裳腰付き本堂、昭和十年の建物だそうです。本堂には正面に釈迦如来、向かって左手に水戸黄門が寄贈した千手観音、右側には開山夢窓疎石の頂像です。本堂前左に黄梅の原木があり、隣が開山堂ぐるりと回ってその裏庭が国指定史跡の夢窓作庭の庭園です。岩盤を刳り貫いて、池や島を作り、東に自然の流水を落とし、左にはジグザグに七曲を石段に刳り貫き、池は心字池とし、正面の岩窟から池に映る月を見て修行をしたとも謂われます。

池の西側に地蔵堂があり、通称「どこもく地蔵」と呼ばれます。昔扇谷の現英勝寺北隣谷の智岸寺谷にあった地蔵堂におられたそうです。その地蔵堂が荒れ果て参詣する人もなくなり、すっかり貧乏して堂守は生活苦に追われ、逃げようとしました。そうすると夜な夜な夢に地藏様があらわれ「どこもく」「どこもく」と告げます。

この意味を八幡宮の坊さんに聞いた処、「それはきっと人間何処へ逃げても、苦しみは付きまとう。何処へ逃げたとて、苦しみから逃げられるものではない。何処も苦、何処も苦なのだから、今の処で一身に励む事が大事なのじゃよ。」と教えられ、今の苦境にめげずに地蔵様を守っていく決心をしたと伝えられます。

苦しい現実からの逃避では何の解決にもならない。現実に向かってこそ花も開こうものだと納得させられる説話です。

瑞泉寺を出たら、先ほどの通玄橋まで戻り、テニスコートの前を左に曲がりましょう。

理智光寺橋を渡り、先へ歩くと右の小さな広場に石碑があります。

六、理智光寺跡

このあたりに、鎌倉時代に建立された理智光寺(理智光院とも)があったそうで、建武中興の際に、後醍醐天皇の息子「護良親王」が、淵野辺伊賀守義博に暗殺され放り出されていた首を、理智光寺の住職が葬ったと伝えられ、裏山の頂上に墓があります。

石碑の前から住宅の中を丘の上へと登って行って見ましょう。突き当りを左へ、登りきった右の切通しは、かつての杉本城の一部を断ち切っています。

出た住宅は、胡桃谷住宅です。南へ道を下っていくと狭い路地になって突き当たります。

左右の道は「稲荷小路」と呼ばれます。左へ曲がれば一帯は「御所の内」と呼ばれる小字で、鎌倉滅亡後の鎌倉公方屋敷地だったことから、こう呼ばれます。

鎌倉公方の屋敷地は、浄妙寺あたりから、このあたり一帯までですので、その広さもさることながら、六浦道をしっかりと監視していることが伺えます。やがて、バス通りへ出たら左へ、道が左へ曲がりながら橋を渡り、百bも歩いて道が右へ曲がるところで、左へ入ります。橋を渡った突き当りが「明王院」です。

七、明王院(真言宗・飯盛山寛喜寺明王院五大堂)

明王とは、不動明王を中心とし、東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王を配する真言密教の世界です。

承久元年(1219)源氏三代の将軍が絶え、政子・義時相談の上、京都九条家左大臣道家からわずか二歳の三寅を貰いうけ、元服の後に将軍につけたのが頼経。尼将軍や義時、そして泰時の傀儡将軍として奉られてきた頼経が思い立ち、嘉禎元年(1235)六月開山されました。五大明王に祈るのは、悪魔降伏・安産・戦勝・息災なのですが、いったい何を祈るために建立したのでしょう。前年の七月には御台所の竹御所が難産で亡くなっております。竹御所は、二代将軍頼家の娘で、泰時が将軍頼経の妻としたのです。複雑な権力者達の思惑が絡み、謎は深まるばかりです。

茅葺屋根の不動堂が本堂で、庫裏も落ち着いた感じです。古都の寺にふさわしい、良く手入れされた庭を味わってください。

八、梶原屋敷跡

寺の入口へ戻ったら、右の谷戸へ歩いてみると、左側に古井戸があります。この谷戸は梶原平三景時の屋敷跡といわれ、梶原井戸と名付けられております。

景時は、幕府草創時に乱暴者の御家人達の統率に一役買い、頼朝には重宝がられましたが、それが告げ口のように思われて御家人仲間から憎まれていました。

頼朝の死後御家人達の弾劾に会い、京都へ落ち延びる途中で討たれてしまいました。かつてはここらも明王院の境内だったようなので、その屋敷跡に建てられたものでしょう。

バスどおりへ戻り、少し鎌倉方面へ歩いたところに「泉水橋」のバス停がありますので、駅へ戻りましょう。

  

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