歴散加藤塾 史跡廻り第三十七回 鎌倉の草創期を学ぶ 平成廿年五月十一日   引率説明 歴散加藤塾 主催 @塾長

目  次   一、奇跡の大逆転   二、若宮大路  三、段葛  四、源平池  五、流鏑馬の馬場 六、舞殿  七、八幡宮について  八、隠れ銀杏  九、八幡宮社殿  十、頼朝墓

十一、門覚上人屋敷跡  十二、勝長寿院跡  十三、腹切やぐら東勝寺跡

鎌倉駅を東口に降りたら駅前広場をつっきり、先の信号まで出ると南北に大きな通りに出ます。

一、奇跡の大逆転

治承四年(1180)八月、二十年の流人生活に甘んじていた源頼朝が、平家からの難を避けるため蜂起したのが、源平合戦の始まりでした。

左図は前田青邨の頼朝・しとどの巌谷図

始め、石橋山合戦で痛恨の一敗をきっした頼朝ですが、安房へ逃れたのがきっかけで、律令制度以来の年貢管理者にすぎなかった武士達が、関東の独立を求め頼朝の周りに結集したのです。

安房の国には、丸五郎信俊、安西三郎景益、上総の国からは上総権介広常、下総からは千葉介常胤、下河邊庄司行平、常陸の八田武者所知家、下野の小山四郎朝政、宇都宮弥三郎頼綱、上州からは足利冠者義兼、武蔵から畠山次郎重忠、河越太郎重頼、江戸太郎重長等の秩父一族などが、次から次へと集ってきました。

この奇跡の大逆転の結果、千葉介常胤のアドバイスにより、鎌倉に関東政権を樹立する事になりました。その鎌倉入府を吾妻鏡から抜粋し、現代語にしました。

治承四年(1180)十月小六日乙酉。相模の国へ到着しました。畠山次郎重忠が先頭に立ち、千葉介常胤がしんがりをしました。お供の軍勢は数え切れぬ程でした。行動が余りにも早く、居館を作る暇もなかったので、民家を借りて宿泊所にしました。

治承四年(1180)十月小七日丙戌。まず鶴岡八幡宮(元八幡)を遠くから拝んで、次に亡き父左馬頭源義朝様の亀谷の邸宅跡を見に行きました。直ぐにこの場所に邸宅を構えようと一旦は決められましたが、地形が広くなく、それに岡崎四郎義実が義朝様の供養の為に、お堂を建てていましたので、やめることにしました。

治承四年(1180)十月小十二日辛卯。快晴。午前四時頃の寅の刻に祖先からの八幡宮を祀るため小林郷の北山を決めて社殿を造って鶴岡宮をここへ遷されました。專光坊良暹を暫く神社の長としておきます。大庭景能が八幡宮寺の事務担当をします。頼朝様は、今度の実施に際しお清めをされて、八幡宮の居場所、新旧両方の場所の選定を、なお心配されて、神のお告げをお聞きするために宮の前で、ご自分でおみくじを引いて、ここの場所に決定し終わりました。しかし、綺麗な飾りはまだせずにとりあえず、茅葺の社殿を造りました。

そして、十月二十日、富士川の合戦で平家は鳥の羽音に驚き逃げ帰り、十一月に常陸の佐竹を抑え、十二月に新築の大倉御所へ入りました。

治承四年(1180)十二月小十二日庚寅。天晴れ風靜か。午後十時頃に頼朝様が新しく建てたお屋敷に引越しの儀式がありました。大庭平太景義が奉行となって去る十月に事始があって大倉郷に建設をしていました。その時刻になって、上総権介広常の屋敷から新しい御殿に入られました。水干を着て、騎馬です。「馬は石和栗毛です」和田太郎義盛が先頭に従い、加々美次郎長清が頼朝様の馬の左側に従い、毛呂冠者季光が同様に右におります。北条四郎時政、北条小四郎義時、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、千葉太郎胤正、東六郎胤頼、藤九郎盛長、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、佐々木三郎盛綱等がお供をしました。畠山次郎重忠が一番最後に従います。寝殿に入られた後、お供の人達は侍所「十八間」に来て二行に向かい合って座りました。和田太郎義盛はその中央に座り、着到状の仕事をしたのでした。おおよそで出仕した者は三百十一人と云う事です。又、御家人達も同様に宿や館を構えました。これから以後、関東の武士達は皆その力が道理に合っていることを見抜いて、意見を一致させて鎌倉の主人と認めました。鎌倉その所は、元々辺鄙な所で、漁師と百姓以外住んでる人が少なくて、この時に、街中の道を真っ直ぐにして、郊外の村や里に名前を付けて、それに加えて家屋が屋根を並べて、家々が増えて軒がひしめき合ったんだとさ。

翌年には、八幡宮を本格的に工事しています。

下図は、堀のイメージ絵 若宮大路の両はじの堀もこの様な形式で作られていた。底にも板が敷かれている

二、若宮大路

関東政権も安定して二年。妻の北条政子が二人目の子供を身ごもります。この様子が

養和元年(1181)十二月小七日己酉。奥方様(政子)が具合が悪いので、御所の中では身分の高いものも低いものの集まって大騒ぎです。

我々現代人は彼女が後に尼将軍と呼ばれるのを知っているので、つわりでさえ御家人達は大騒ぎだったんだとおかしくなりますが、はてさて?

養和二年(1182)三月大九日己卯。御台所(政子様)の腹帯を着ける儀式です。千葉介常胤の妻が特別の命により、孫の千葉太郎胤正を使いとして帯を献上しました。頼朝様は、自らこれを結わえられました。丹後の局がお手伝いをしました。

そして、有名な若宮大路が整備された記事が出てきます。

養和二年(1182)三月大十五日乙酉。鶴岡八幡宮の神社の前から、由比の浦まで参詣の道を造られました。このことは前からの願いでありましたが、きっかけが無く日を過ごして来てしまいました。御台所政子様の妊娠の安産祈願の爲にこの儀式(神に道を捧げる)を始められました。頼朝様自ら陣頭に指揮を取りました。それなので北条時政殿を初めとして御家人達が土や石を運んだんだとさ。

この若宮大路は、鎌倉に住んでいる人も、訪れる観光客の我々も南北にまっすぐだと思い込んでおります。しかし、地図を見ると東へ傾いていることが分かります。

京都では、比叡山と東山とを直線で結ぶとほぼ南北にとおっており、その線に沿って、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西路の一条大路を築きました。

鎌倉では、天台山と衣張山とを結び、その線に沿って十王岩から南へ四百六十丈の処に三の鳥居前の横大路を設定し、鶴岡八幡宮の南境とし、これにあわせて若宮大路を一直線にしました。このため、若宮大路は二十七度東へぶれているのです。

これにより、頼朝は京都の街づくりに習い、八幡宮を内裏にみたて、朱雀大路をまねて若宮大路をこさえたと謂われます。

発掘調査の結果、二の鳥居あたりで幅十一丈(約33m)両端には幅一丈(3m)深さ五尺(1.5m)の堀が造られていたそうです。堀の向こうには背丈以上の土が盛られ土塁のようになっており、屋敷は皆、背を向けていたようです。(堀のイメージは上図)

若宮大路を横切ることが出来るのは、上の下馬橋、中の下馬橋、下の下馬橋の三箇所だけが通れたようです。下馬とは、敬うべき神社仏閣、貴人の前では馬から降り礼を尽くすのがしきたりなのです。

特に注目に値するのが二の鳥居辺で、横切る小路が若宮大路で食い違っているのが不思議です。一説に京都朝廷を牛耳っている平家の来襲を想定し、頼朝在住の大倉幕府への堀の役目を与えたとも謂われます。又、その出入り口には馬から降りる釘貫と呼ばれた踊り塲のような存在も確認されております。

そして、その大路の中央には島のように歩道が独立しております。

三、段葛

若宮大路整備時に、当時は未だ海水面が高かったので、堀道にした大路はぬかっていたと予想されます。神様が社へこられる道、或いは儀式の参詣路として、中央に川原石を敷いたのが始まりと思われ、後に両を葛石で固め土を埋めて一段高くしたものと思われます。

裏表紙の写真は、明治初年頃の写真ですが、葛石はないようですが、段葛の高さは現在同様に一段高く感じます。

この段葛を歩いてみると面白いのは、段々道幅が細くなっていくのです。二の鳥居のあたりで6.5mあるのに、中間の信号の場所で5.5m、三の鳥居前の出口では4.5mしかありません。

ダヴィンチよりもずっと昔に既に遠近法を用いているのです。

一説に、仮想敵国の平家が攻め来たときに上と下とで矢合わせになった時、距離感を惑わせるためとも、神社への道が遠く見えることにより、より荘厳に感じるとも謂われます。

信号を渡ると三の鳥居です。正面に石造りの太鼓橋が、両脇に赤い橋がかかっております。

鎌倉時代にも、赤い橋だったようでこの前の角に住んでいた北条守時のあざなを赤橋流北条氏といいます。この人の妹が足利尊氏の妻だったので、新田義貞の鎌倉攻めの際に、得宗家やその家人身内人から裏切りを疑われ、その汚名を晴らすため、須崎の戦いで六万騎を率い、一昼夜に六十五度におよぶ合戦を行い壮烈な討ち死にをしたと伝えられます。

四、源平池

橋の下の池を源平池といい、その謂われは「一説には初め双方とも島が四つだったのを、政子が日の昇る東の島を三つにして、産につづくので源氏とし白い蓮を植えさせ、日の沈む西側を死につながる四つにし、平氏の旗印と同じ赤色の蓮を植えさせたという伝説があります。

しかし、源平池という名は江戸時代以降なのだそうです。」吾妻鏡では

寿永元年(1182)四月小廿四日鶴岡八幡宮の前の弦巻田三町ちょっとの水田作りを止めさせ、放生池を作ることにしました。専光坊と大庭景義とに作事奉行を命じました。

とあり、政子様の話は出てきません。

弦巻田とは、現在の源平池であるが、現在は三分の一しかない。かつては、流鏑馬馬場から南全体が池だった。

なお、弦巻田というのは、苗を弦が巻きつくように渦巻きに植えていく神へ捧げる為の米を栽培する斎田のことであろう。私は、飛騨高山の民家園で見た。田植えの仕方は、田んぼを丸く作り、真ん中に棒を立て縄をむすんで巻きつける。この縄の先端の位置に30cmごとに苗を植えながら柱の周りを回っていくと、縄が伸びた分外側に広がり、自然と渦巻き状に苗は植えられていき、最後に畔にぶつかったところで終わる。

放生池とは、普段魚鳥を食べている殺生禁断の罪を償うために、卑賤の者から魚鳥の生きているのを買い求め、お経に合わせて鳥は空へ、魚は放生池へ放つのです。この儀式を放生会、池を放生池と称し、神仏混交時代の神社仏閣には殆どあったようだ。八幡宮では旧暦の八月十五日だったので、今でも神社の儀式を九月十五日に行っている。

参道を社殿に向かい進んでいくと、参道を横切る左右に未舗装の道があります。

五、流鏑馬の馬場

この道は、両端に鳥居があり、放生会の翌日八幡宮へ奉納する流鏑馬神事の道なのであります。

射手は、狩装束に弓を持ち神様にお参りをした後、自ら馬を引いて西の突き当たりに桟敷を構えた頼朝の前まで挨拶に行きます。そこから東の鳥居前まで厳かに馬を引いてさがり、順に馬にまたがり、左手に弓、右手に三本の矢を手挟み、ここを走りながら三つの的に矢を当て、西の桟敷前で急ブレーキをかけるわけです。

現在でも、春には第三日曜日に武田流が、秋の九月十六日には小笠原流が勇壮に執り行います。

流鏑馬の面白い逸話には

頼朝は文治二年(1186) 八月十五日鶴岡八幡宮の放生会の時に、西行法師(佐藤兵衛尉憲清)と出合い、秀郷流の弓馬の法(流鏑馬も含まれる)を教わっています。

又、文治三年(1187)八月四日条では、謡曲敦盛で有名な熊谷次郎直実が頼朝に的立て役を命じられ、御家人は皆平等なはずなのに、流鏑馬役は騎馬で、的楯役は徒歩あるきなので、そんな役は不公平だと怒るのを、頼朝は的楯役も立派な役目だと説得するのですが、直実はどうにも承知しないので、領地熊谷郷の預所職を取り上げられたといった話もあります。

六、舞殿

文治二年(1186)四月大八日乙卯。頼朝様と奥方様は、鶴岡宮にお参りをなされました。その機会を利用して、静御前を回廊にお呼び出しになられました。これは、舞を奉納させるためです。この踊りは、前々から命じておられましたが、病気だと云って云うことを聞きませんでした。捕われ人なので、素直に言うことを聞かない訳にはいかないのだけれども、九郎判官義経の妾とあきらかに分かるように皆の前に出るのは、とても恥ずかしい事なので、普段からぐずぐずとごまかしてきたけれども、彼女の舞の名声は、世間に知られた名人なのであります。それが偶然に関東へ来て、近いうちに京都へ帰るというので、その芸を見ないで帰してしまうなんて、なんてもったいないことかと、奥方様が盛んに進めるので、仕方無しに呼び出すことになりました。絶対に八幡大菩薩もお気に入られるであろうとおっしゃられましたとさ。最近は、とても悲しいことがありましたので、とても踊りなんて上手に踊る気力もありませんと、回廊に座ってからも未だぐずって辞退していました。しかし、何度も命令されたので、嫌々ながらも、白雪のような真っ白な袖をひるがえして、黄竹の歌を歌いました。工藤左衛門尉祐経が鼓を打ちました。彼は、何代か前からの武勇の優れた家に生まれて、戦闘の技を継いでいるだけでなく、六位の蔵人として京都へ勤務した時に自分から歌になじんでいたのでこの役を与えられたのでしょうね。畠山次郎重忠は銅の拍子木を打つ役です。静御前はまず、歌を歌って述べました。

吉野山峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ

(落人として逃げた時に吉野山は女人禁制仕方なくお別れし、深く積った峰の雪を踏んで山へ分け入って行ったあの人の後姿が忘れられずに、いっそ後を追って行きたかったのに)

次に別な今様などを歌った後で、和歌を吟じました。

 シヅヤシヅ〜〜ノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニナスヨシモガナ

(しずしずと糸巻きが何度も巻き返しているように、私もあなたとの睦みあっていた昔を走馬灯のように思い出しては泣いています)

いやもう、本当に神殿のお供えにぴったりの見ものでした。神殿の梁に積もった塵さえも神様が喜んで震え動いているように、見ている人は上下の別無く感動をしました。それなのに一人だけ野暮なお方の頼朝様が、おっしゃるには、「八幡宮の前で、芸能を奉納する時に、関東の安泰を祝うところだろうのに、神も私も聞いていることを知りながら、鎌倉に反逆した九郎義経を恋しくて別れの時の事を歌うなんてとんでもないやつだだ。」とさ。そしたら奥方様がたしなめられて云いました。

「あんたが、犯罪者として島流しにあって、伊豆に蟄居していたときに、私はあんたと出来ちまったけれど、父の北条時政さんが、平家全盛の時に源氏のせがれとの事を平家への聞こえを心配して、私を合わせないように閉じ込めてしまいました。しかし私はそれでもあんたが恋しくて、真っ暗な夜の闇の中を、激しい雨に打たれながらも、あんたの所へ逃げていったものさ。それに、石橋山の合戦に出陣している時は、一人で走湯神社に逃げ込んで残り、あんたの生き死にを知ることも出来ず、ただ毎日生きた心地もしなかったものでしたよ。その時の悲しみを思い出せば、今の静御前の心は、源九郎義経が可愛がってくれたことを忘れずに恋しがっているので、他の男には目もくれない貞操堅固な女の姿だと云えるんじゃないのかい。踊った外見の素晴らしさもさることながら、内に秘めた感情にも感謝したいよ。本当に魅惑的に感動させられたのだから、そこらへんは我慢をして、褒めてあげてくださいな。」だとさ。それで、頼朝様も(やせ我慢せずに褒めることが出来たので、ほっとして)着ている着物〔卯の花重ね〕を御簾の外に押し出し、これをご祝儀にしましたとさ。(めでたし、めでたし!)

七、八幡宮について

祭神は応神天皇、比売神、神功皇后です。宇佐、石清水と共に全国の八幡宮を代表する大社であります。

始まりは、康平六年(1063)源頼義が奥州を鎮定しての帰り、海岸近くの由比郷鶴岡の地に密に石清水八幡宮を勧請し、鶴岡若宮と称しましたのが、辻の踏み切りそばの元八幡です。

これをその後、治承四年(1180)頼朝が鎌倉入りすると小林郷北山に遷座し、鶴岡八幡新宮若宮と称しました。

建久二年(1192)三月三日昼間法会が行われ、箱根権現から呼んだ稚児舞や、流鏑馬、相撲が奉納され、大満足の頼朝でした。

ところが、その翌朝未明、小町大路あたりから出火し、折からの南風にあおられ境内の堂塔伽藍ことごとく焼け、おまけに大倉の幕府まで焼失してしまいました。

建久二年(1191)三月小四日壬子。陰。南風烈し。丑尅、小町大路邊から失火す。(中略)此の間、幕府同じく災す。則ちまた、若宮神殿廻廊経所等悉く以て灰燼と化す。(後略)

この礎石の跡を見て頼朝は泣きました。

建久二年(1191)三月小六日甲寅。若宮火災の事、幕下殊に歎息し給ふ。仍て鶴岳へ參り、わずかに礎石を拝み御涕泣か。

八、隠れ銀杏

石段を登りかけた左側に銀杏の古木が公暁が隠れていて実朝を暗殺したとの伝説にいわれる鎌倉で一番古い銀杏の木で「公暁の隠れ銀杏」といわれます。

よく、バスガイド嬢などが「この十三段目に実朝が足をかけた時、突然銀杏の陰から女かずきを冠った公暁が飛び出して、一刀の元に首を掻き切り、この首を小脇に抱え八幡宮裏の大臣山へ逃げ込んで云々。」とか「十三という数字の縁起の悪さは洋の東西を問わず云々。」などと見てきたような話をしております。

しかし、この隠れ銀杏の話は水戸黄門の大日本史以来ともいわれ、又樹齢千年のこの銀杏の木ですが、実朝暗殺は承久元年(1219)なので約789年前の話になります。当時の樹齢は二百数十年と思われますので、隠れるほどに太かったのでしょうか。又、公暁は八幡宮別当といって八幡宮では一番偉い役ですので、拝賀の際ずっと実朝の傍にいる訳ですから、何時でも実朝を討ち取れる立場にあったことになる訳です。

それなのにわざわざここに隠れている必要は全くない訳です。

公暁の実朝暗殺は、親の仇討ちか。将軍の座を狙っての犯行か。誰か炊きつけた者がいたのか。何故、北条義時が具合が悪くなって交代した太刀持ちの源仲章は一緒に殺されたのか。公暁は使いを三浦義村の屋敷に使いを出したのは何故か。その話を受けた三浦義村が被官の長尾定景に公暁を殺させてしまったのは何故か等疑問が増えるばかりです。

保七年(1219)正月廿七日 夜になって雪が降り、二尺ばかり(60cm)積もりました。今日は将軍家の右大臣任命報告の拝賀のため鶴岡八幡宮へお参りします。お参りは酉の刻(午後6時)です。(中略)路地の警護の軍隊は千騎(沢山の意味)です。八幡宮の楼門に入られる時に、義時は急に気分が悪くなる事があって、将軍の太刀を源仲章に渡して引き下がり、神宮寺の所で列から離れ、小町の屋敷に帰られました。将軍実朝は夜遅くなって神様への参拝の儀式が終わって、やっと引き下がられたところ、八幡宮別当(代表)の公暁が、石階の脇にそっと来て、剣をとって実朝を殺害しました。その後、警護の武士達が八幡宮社殿の中へ走ってあがり、〔武田信光が先頭に進みました〕下手人を探しましたが見つかりませんでした。ある人が云うには、上の宮のはしで公暁は「父のかたきを討った。」と名乗っていたとの事です。これに聞いて、武士達はそれぞれ八幡宮の雪ノ下にある御坊(八幡宮西脇の奥)へ攻めかかって行きました。公暁の門弟の僧兵達が中に閉じこもって戦っていましたが、長尾新六定景、その息子の景茂と胤景と先頭を競いましたとこ事です。勇士が戦場へ向かう心得は、こうあるべきだと人は美談にしました。ついに僧兵達は負けてしまいました。公暁がここにいなかったので、軍隊はむなしく退散し、皆呆然とするしかなかったのです。

方公暁は、実朝の首をもって、後見者の備中阿闍梨の雪ノ下の北谷の屋敷へ向かいました。ご飯を進められましたが首を離さなかったとの事です。使いの者の弥源太兵衛尉〔公暁の乳母の子〕を三浦義村の所へ行かせました。今は将軍の席が空いている。私が関東の長(将軍)に該当するべき順なので、早く方策を考えまとめるように指示しました。これは義村の息子の駒若丸が公暁の門弟になっているから、その縁で頼まれたからなのか。義村はこの事を聞いて、実朝からの恩義を忘れていないので涙を落としました。しかも言葉を発することもありませんでした。しばらくして、「私の屋敷に来てください。それに迎えの軍隊を行かせます。」と伝えるよう云いました。使いの者が立ち去った後に、義時の下へ使いを出しましたとさ。義時からは、躊躇せずに公暁を殺してしまうように命令されましたので、義村は一族を集めて会議を開きました。公暁はとても武勇にたけた人なので、たやすくはいかない。さぞかし大変な事だろうと皆が議論していたところ、義村は長尾定景をさして勇敢な器量を持っていると討手に選びました。長尾新六定景〔八幡宮での合戦の後義村の宅に向かって来ていました。〕は辞退することが出来ず、座を立って黒皮脅しの鎧を着て、雑賀次郎〔関西の人で強い人です。〕と部下を五人連れて、公暁がいる備中阿闍梨の宅へ出かけた時、公暁は義村の使いが送れているので、八幡宮の裏山の峰へ登り、義村の屋敷へ行こうと考えました。それなので、途中で長尾新六定景と出会い、雑賀次郎は忽ちに公暁を抱え互いに争っている処を、長尾新六定景は太刀を取って公暁〔腹巻(簡易な鎧)の上に素絹を着ている。〕の首を取りました。

この人は、前の將軍頼家の息子で、母〔爲朝の孫娘です〕は蒲生六郎重長の娘です。公胤僧正(千葉常胤の子)に受戒を受けて出家して、貞暁僧都(前の八幡宮別当)から仏教を習った弟子です。(後略)長尾新六定景はその首を持ち帰りました。直ぐに義村は北条四郎義時の屋敷へ持って行きました。北条四郎義時は出てきてその首を見られました。安東次郎忠家が明かりを取って差し掛けました。北条泰時殿がおっしゃられました。「正に未だ公暁の顔を拝顔していないので、なお疑いがある。」との事でした。

九、八幡宮社殿

社殿の建築様式は流れ権現造りといわれ、本殿と拝殿の二棟をつなぎ、幣殿としており、文政十一年(1828)将軍徳川家斉の造営です。左右の回廊は西が宝物殿で古神宝類や重文の太刀等があり、東は事務所や控えの間などになっています。門を入るときに上の額の「八幡宮」の「八」の文字が鳩になっているのは、源氏の白鳩とも謂われる八幡宮のお使いの白鳩です。

回廊西側の小高い上の稲荷は、丸山稲荷でもとからここにあったというので、地主神といわれ社殿は小さいながらも室町時代の建築で国の重要文化財になっています。

階段を下りて下社は、応神天皇の子、仁徳天皇を祀っています。建物は徳川家光の寄進です。下社前を東へ進むと左奥に白旗神社があります。

祭神は、頼朝実朝を祀っています。ここの御手洗石がよく見ると連弁が逆さになっています。これは、明治の廃仏毀釈以前の一切経の納めてあった輪倉の礎石を逆さまにして中を刳り貫き、手水鉢にしたものです。廃仏毀釈の嵐のすさまじさを語っております。

南へ歩き、流鏑馬の馬場へ出たら、正面に源平池休憩所がありますので、一休みしましょう。

流鏑馬道を東へ出ると、右角に畠山重忠屋敷跡碑がありますが、石碑を建てた時代はそう思われていましたが、現在ではこの地は政所跡と推定されており、発掘調査で、三十から五十枚づつ束ねた「かわらけ」が数千枚もでてきたそうです。重忠の屋敷は南御門の正面と考えられております。突き当たった北に国大付属小学校の門がありますが、かつての西御門大路は、ここを南北に通っていました。明治時代に明治天皇を迎えて、帝国陸軍の初めての洋式演習をこの地でする際に用地が足りず、西御門大路を付け替えて広げたのです。天皇は八幡宮裏の大臣山のてっぺんで演習を見ていたそうです。

大倉幕府は、北は頼朝墓前の公園の前まで、南は六浦道、東は現在の関取場の石碑、西はここまでの広さだったのです。

小学校の門まで行き、右の路地を現在の西御門通りへ出ましょう。出たら、左へ次の右の土塀前を右へ曲がると、清泉小学校へ出ます。丁度大倉幕府地の真ん中に当たるので、大倉幕府碑が立っています。

幕府内は、このあたりに築地塀で南北に分かれており、南を公邸、北側は私邸だったようです。

吾妻鏡では、和田合戦前に実朝が予言をしております。

建暦三年(1213)四月小七日戊寅。幕府で女官達を集めて宴会がありました。その時に山内左衛門尉と筑後四郎兵衛尉等が中庭を仕切った塀の中門のあたりを巡察していました。将軍実朝はこれを御簾の中か見て二人を縁側に呼びつけて、盃を与えながら云う事には、二人共に近いうちに命を落とすことになりそうだよ。一人は敵側となり、一人は見方になるだろうよ。」だとさ。二人とも恐ろしい気持がして、盃を懐に入れて早々に立ち去ったんだとさ。

と、いう具合に書かれていますが、実はこれが書かれたのは百年近く後なので、なんともいえません。

十、頼朝墓

その頼朝が正治元年(1199)正月十三日に亡くなりました。その前に、ここには頼朝の持仏が祀られていました。

「吾妻鏡」には、

文治五年(1189)七月小十八日丙子。伊豆山住侶專光房良遷を呼びつけて、命じられました。奥州征伐のために内緒のお祈りごとがあるのだ。そなたは戒律をきちんと守る僧侶なので、私の留守に鎌倉へ来てお祈りをしなさい。私頼朝将軍が鎌倉を出発して二十日目に御所の裏山に特別な祈願所を自分の手で設けて、私の持仏の二寸銀の正観音像を安置して、祈りなさい。他の大工などに頼むことなくそなた自ら柱だけを立てて置けばよいのです。きちんとした社殿造営は先へ行って命令をする予定です。專光坊良暹は承知した旨の手紙をよこしました。

死後そこに法華堂を建立し頼朝の墓とし、右大将家の法華堂という一つの寺となります。

後に和田合戦では実朝がここに逃れ、三浦合戦では三浦泰村、光村、毛利季光など三浦一族とその縁故者二百七十六人がここの頼朝の画像の前で往事を偲びながら自刃しております。

頼朝墓の前から、南へ歩き六浦道げ出たら、正面が畠山重忠の屋敷、その西が八田知家の、その西に大江広元の屋敷と並んでいたようです。六浦道を東へ歩き、分れ道の信号を越え、その先の大御堂橋の信号で右の道へ入りましょう。滑川を大御堂橋で渡ると、橋のたもとに今では鎌倉以外の都会では見られなくなったコンクリートのポストが現役で頑張っています。

ポストの向か側に文覚上人屋敷跡の石碑があります。

十一、門覚上人屋敷跡

この文覚は、元は遠藤盛遠と京都御所警護の北面の武士でしたが、十八の時に同僚の渡辺渡の奥さん袈裟御前と不倫に陥り、同僚を殺してしまおうと不倫相手の奥さんと企み、寝ているところを刺し殺すことにするのですが、ところが罪の意識に責められて、自ら死を選び同僚のふりをして寝ていた不倫相手を刺し殺してしまいました。その罪を悔い出家して林に寝たり滝に打たれたりと死にかけるほどの荒行に励んだのでした。

文覚は神護寺の復興の寄進を後白河法皇にせがみすぎ、伊豆へ流罪になり、頼朝に父義朝の髑髏を見せて平家打倒を決心させたとの伝説もあり、頼朝は大事にしてこの先の大御堂を守る意味でここに屋敷地を与えたのだろうと推測されます。

道也に路地を歩くと右に古材が詰まれて居ますので、右へ曲がりましょう。

少し入ると左に金網で囲まれた史跡があります。

十二、勝長寿院跡

頼朝は、この地に父義朝の菩提を弔うため寺を建てます。それが勝長寿院です。

この頃、関西では義経、範頼軍が平家を屋島から壇ノ浦へと追い詰めている最中でした。

元暦元年(1184)十一月廿六日辛亥。頼朝様は、お寺を建立するために、鎌倉中の景勝の地を求めて探し回りました。幕府事務所の東南の方向に一つの神聖な聳え立つ場所がありました。それなので、仏閣の建立をその場所に決められました。これは、亡き父への菩提を弔いたいとの願いのためです。(中略)今日鍬入れ式を行いました。

そして、翌年

元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。今日は、南御堂の地鎮祭です。頼朝様<香を焚き染めた水干を着て、月毛の馬に乗られ>その場所へ参られました。南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、建築技術者に褒美を与えました。褒美に馬を引き出しました。

この勝長寿院の工事中に面白い記事があります。

元暦二年(1185)三月大十八日辛丑。南御堂(勝長寿院)の工事中に、大工さんが一人〔あざなを観能と云う〕が、誤って屋根の上から地面に落ちました。それなのに体の何処にも傷を負わず無事でした。皆不思議に思いました。それはきっと、この寺を建てている願いが正しいので、仏様の意思に叶い、その男も死なずに済んだのであろう。最初から最後まで頼みがいのある神仏なのだと、頼朝様は一層信心を深めましたとさ。

そして運命の三月二十四日、平家は壇ノ浦に滅びるのです。

まるで、運命をあわせたかのように、上棟式の最中に伝令が到着します。

元暦二年(1185)四月小十一日甲子。未の刻(午後二時頃)に南御堂(勝長寿院)の立柱式(建前)です。頼朝様も立ち会われました。そこへ九州からの伝令が到着して、平家を滅亡させた事を申し上げました。源廷尉〔義経〕は一巻の巻物の記録〔中原信泰が書きましたとさ〕をよこしました。これは、先月二十四日に長門国(山口県)赤間関の海上に、八百四十以上の船を用意しました。平家もまた、五百艘以上で船を漕ぎ向かって戦いました。昼頃に、反逆者の平家は負けました。(後略)

後に、大姫も、実朝も尼将軍北条政子もこの地に葬られ、寺は室町時代頃まではあったようですが、この寺さえも滅びてしまいました。

この地は、古都保存法施行よりずうっと前に宅地開発されたので、今では何の面影も残っては居ません。平家を滅ぼした源氏の氏寺も滅びてしまった。時の無常を感じさせられる場面です。

先ほどの古材の場所まで戻り、先へ進みます。

黒いトタン板の塀に沿って右へ曲がります。先へ緩やかに上っていくと、右に「釈迦堂」の説明があり、未舗装になります。右へ入ったところか、このあたりかに泰時が父義時の菩提を弔うため釈迦堂を祀ったそうです。

道は段々ぬかってきて、市役所の通行禁止の看板の先に洞門があります。

通称を「釈迦堂の切通し」と呼ばれますが、トンネルです。何時頃の開通か不明で、近世ではないかとする説もあります。しかし、その風景から時代的神秘さを伝えるので、鎌倉を紹介する観光雑誌には必ずといってよいほど写真の載る名所であります。この左上尾根向こうは「北条時政の名越邸跡」と謂われます。

洞門を抜け急な坂を下り、道也に進み平らになると道は右へ曲り、途中Y字の道は右へ、少し行って左へ曲りかけた所で、正面にやたらと鉄パイプで囲まれた家があるので、右へ曲がりましょう。先のカーブミラーの所で左へ入り、段々上り坂になり又トンネルを抜けます。

このトンネルは何時も涼しい風が吹いています。

下って行くと左側に真新しい今風の小さな住宅分譲がありますので、そこで右へ曲り奥へ登って行きましょう。

十三、腹切やぐら東勝寺跡

一番奥まで行くと左は空き地で右に2軒ほどの家があるこのあたり一帯が、泰時の建てた鎌倉での北条氏の氏寺「東勝寺」跡です。太平記では新田義貞の鎌倉攻めに敗退し、この寺内で火を放ち北条高時はじめ一族五百人以上が自害して果てたといわれます。

又突き当たり山への階段の登り際の左にやぐらがありますが、戦がおさまって焼け残った骨を一同に纏めて埋葬したといわれ、「北条高時腹切りやぐら」と呼ばれています。

「中世鎌倉の発掘」の本に、大三輪先生の談話として「鉄の棒を刺す調査で、腹切やぐらの壁の沿って、一段と落ちて深い穴があり、宝塔の立っている部分の下にも穴があり、合葬の可能性がある。」と述べられております。

但し、鎌倉検定では、高時はここではなく、瑞泉寺裏山やぐら群の北条やぐらだとしています。

道を戻って東勝橋を渡り、出た道が「小町大路」です。右は筋替橋へ、左は材木座まで通じています。右斜め前の路地へ入りましょう。

路地が左へカーブする所に「若宮大路幕府跡」の石碑があります。

北条氏執権三代目の泰時は、幕府を二度移転している最後の幕府跡がこの南側にあったと思われます。泰時の私邸はこの北側にあったものと思われています。泰時という人は真面目な人であったらしく、執権職にありながら誰よりも早く出勤するので、役人の中にそれより早く出勤しようとして泊り込んだという話もあります。

吾妻鏡では、泰時のことをとてもよい人に書かれていますが、もっとも書いた人は彼の子孫の人たちなのです。

この石碑の粋な黒塀に見越しの松は「鞍馬天狗」で有名な大仏次郎の生前の家です。

若宮大路と小町大路の中間にあるこの路地を南へ辿り、いくつかの交差する路地を越えて、清川病院の裏を右へ左へと迷路のように曲がりくねって行くとやがて右側に赤い幟が立っているお稲荷さんがあります。

このお稲荷さんは「宇都宮稲荷」といい栃木県宇都宮の一族の鎌倉屋敷の鬼門にあったものと思われ、その北側の路地を宇都宮辻子と呼ばれ、路地の北側に幕府があり南の宇都宮辻子に向いて門があったので、こう呼ばれるものと思われます。

泰時は、大江広元も死に、伯母の尼將軍北条政子も死んで、心機一転のために幕府を移したと思われます。

さて、それでは、鎌倉駅へ出て解散と致しましょう。

  

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