歴散加藤塾 史跡廻り第三十八回 大船から鎌倉へ 平成廿年十月十九日二十六日  引率説明 歴散加藤塾 主催 @塾長

目次  一、鎌倉「中の道」   二、常楽寺   三、姫宮  四、木曽塚   五、長窪通り

    六、円覚寺   円覚寺総門、山門  円覚寺仏殿  仏日庵、白鹿洞、黄梅庵  方丈  洪鐘

    七、亀ケ谷坂の切通し  八、岩舟地蔵

今回は、外鎌倉の大船で、本格的禅宗を伝えた蘭渓道隆大覚禅師が逗留した常楽寺、厳しいつくりの割には、内鎌倉へ入れない不思議な切通し「長窪通り」、円覚寺、亀谷坂、岩舟地蔵と訪ねてみましょう。

大船駅を東口に降りたら、駅前の横断用信号を渡り、交番の脇を東へ進みましょう。そのまま真っすぐに歩いて行くと左手に大きなパラボラアンテナが屋上に見える予備校の処で、左右に車一台が通れる程度の道が有ります。これが鎌倉「中の道」です。

一 鎌倉古道「中の道」

鎌倉時代には、上の道、中の道、下の道の三本が鎌倉から關東武士達の本拠とを結んでおりました。

中の道は、鎌倉幕府から八幡宮前、子袋谷切通又は 亀坂谷切通 を通り抜け、円覚寺前から水堰橋で上の道と別れ北行して離山地蔵からこの場所に来ます。

今年二月の「古道部 中の道一」を一緒に歩かれた方は、覚えておられると思いますが、この後は、一部道が消えてはいますが、ほぼ旧戸塚区と港南区の境の峰を進み、上永谷の日限地蔵から秋葉と進み、東戸塚駅まで歩きましたね。その後、名瀬、川上団地、戸塚カントリー、二俣川の大池公園、左近山団地際、鶴ケ峰旭区役所裏の畠山次郎重忠の首塚など、重忠関連遺跡までは、来年の三月を予定しています。

鶴ヶ峰からは、今宿東町、白根不動、緑区中山、川崎市宮前平、溝ノ口、多摩川を渡り世田谷に行きます。鎌倉古道のホームページでは、解説が溝の口まで進みました。

文治五年の奥州征闘の際、頼朝が本隊を率ゐて奥州へ向ったのが、この道です。又、北條時政が 畠山重忠 を謀叛人に仕立てあげ、討ち取るため北條義時が大軍を率ゐて二俣川へ向ったのも、重忠の首を持って鎌倉へ凱旋したのもこの道です。

その先へまっすぐに歩き、大船中央病院の脇を先へ歩きます。病院の脇に鎌倉芸術館があり、その裏は、鎌倉検定の試験場に使われる鎌倉女子大です。

その先は、説明し難いのですが、付き合ったら右へ曲がり、そのまま直進で狭いほうの道へ入りましょう。二つ目の左の「鎌倉ブランド」の緑の旗に沿って、路地を歩いていくと生垣に突き当たりますので、右へ出ると左に、茅葺の山門があります。

二 常楽寺

臨済宗建長寺派粟船山常楽寺、開基は北條泰時、開山は退耕莊嚴房僧都行勇。

吾妻鏡によると、嘉禎三年(1237)十二月十三日、北條泰時が妻の母の為にその墓のそばに粟船御堂を建立し、菩提を弔ったのが始まりらしい。

嘉禎三年(1237)十二月大十三日庚寅。リ。右京兆室家の母尼の追福の爲、彼の山内の墳墓之傍に於て、一梵宇を建被る。今日供養の儀有り。導師は莊嚴房律師行勇。匠作、遠江守聽聞令め給ふ。

その後、仁治三年(1242)に泰時が死ぬと此処に葬り、その法名を常楽寺と名付けた。その翌年、孫で執権の北條經時、北條時頼等が泰時の一周忌の供養をしています。

寛元々年(1243)六月大十五日庚申。天霽。 故前武州禪室(泰時)周?の 御佛事、山内の粟船御堂に於て之を修被る。北條左親衛(経時)并びに武衞(時頼)參じ給ふ。遠江入道(朝時)、前右馬權頭(政村)、武藏守(朝直、時房子)以下の人々群集す。曼茶羅供之儀也。大阿闍梨信濃法印道禪、讃衆十二口と云々。此の供は、幽儀御在生之時、殊に信心を抽んずと云々。

常楽寺略記によると頼朝政子の大姫の死後、姫と木曽義高の二人の為に阿弥陀三尊を安置し仏堂を建立したのが始めとも云う。又、大覚禅師蘭渓道隆も建長寺が建つまで一時住みました。

参道を進むと可愛い山門が有り、通用門を入ると正面左に古い枯れた大株とそれを二世の若木達が囲むようにしている銀杏の木があり、退耕行勇のお手植えとも又泰時のお手植えとも云われます。正面には仏殿に阿弥陀三尊、左の文殊堂には鎌倉時代末期の木造の優品ですが、一月二十五日の文殊祭以外は開扉しません。

裏へ回ると、生垣の中に二人の僧と共に泰時の墓があります。北條泰時は、御成敗式目(貞永式目)を作ったことで有名です。

仏殿の東側の池は、色天無熱池と云い、蘭渓道隆が滞在中に江ノ島弁天が大覚禅師の身の回りの世話をするために乙護童子を派遣した。童子が洗濯物を宙に投げると空中に止まって乾かされたと云う。又、弁財天は池に掛かる松の木の上で、禅師を慰めるため琵琶を弾いたので、妙音松と呼ばれたとも云われます。

山門前へ戻り、先ほどの生垣に添って右へ行くと裏山への道があるので登って行きましょう。

三 姫宮

途中、小さな石の祠と墓石があり姫宮の墓とあります。泰時の娘で三浦泰村夫人が25才で女子を生むがすぐに死んでしまい、自分も後を追うように死んでしまったと云う悲劇の女性の墓と云われます。なお登ると頂上に石碑と土盛りの塚があります。

四 木曽塚

木曽塚と呼ばれ、頼朝と政子の間に最初にできた子大姫の許婚木曽義高の墓と云われます。

壽永元年に木曽で旗揚げをした義仲が父の旧跡を思い上州に進出してきたので、頼朝は大群を率い対峙し裏切り者の新宮行家の引渡しを要求します。むざむざ、叔父を殺されるのを分かっていて引渡すことも出来ず、不利を悟り、息子の義高を大姫の婿として人質に、差出しました。

大人ばかりの中で話のあう相手と出会い、大姫はすっかり馴染んでその気になっていました。しかし、義仲が後白河上皇の不興をかって、義經に打たれた際に頼朝は将来の恨みを心配して義高を殺させてしまいます。愛する人を父に殺された大姫は、すっかり人が信じられなくなり鬱病になってしまいます。

この続きは、午後の亀ケ谷坂の岩舟地蔵で話しましょう。

実は、頼朝の父義朝の弟が帶刀先生義賢と云い、その子が木曽義仲なの、ですから木曽義仲は頼朝の従兄弟に当ります。大姫と義高は又従兄弟に当るわけです。

                                ┌義朝ー頼朝ー大姫

 清和天皇ー貞純親王ー経基王ー満仲ー頼信ー頼義ー義家ー義親ー爲義┤

                                └義賢ー義仲ー義高

そして義仲の父義賢は、武蔵嵐山の大倉館で、秩父一族と三浦一族の覇権争いに巻込まれ頼朝の兄義平(母は三浦大介義明の娘)と三浦次郎義澄の軍勢に夜討をかけられ、秩父重隆と共に殺されているのです。それから義平は、叔父殺しの武勲から鎌倉悪源太義平と呼ばれるのです。

なお、元々は離山地蔵の近くに木曽塚とか木曽免と呼ばれる塚があったそうで、江戸時代に畑地を広げるため塚を堀った処、青磁の瓶が出てきたので、これはきっと清水冠者義高の骨に違いないと、これを常楽寺の裏山に納めたとも謂われます。

では、木曽塚の前から住宅の庭先の境にある山道風の路次伝いに左へ緩く曲って行き、墓の手前で左の住宅街の広い道へ出ましょう。広い道を右へ坂を下ると左右に通じる新道へ出たら左へすぐの信号を右へ渡り、旧道を前へと道添いに進みます。

道は、緩く右へ曲がりながら続きます。ここから先が昔の粟船本村だったのです。突き当たったら左へ曲がり、直ぐに右の路地へ入りましょう。この路地が左へ曲がった先に、立派な長屋門があります。甘粕家と云って、代々庄屋を勤めておりました。小田原北条氏の時代、大永六年(1526)に、千葉県の里見実尭が攻め込んできて、玉縄城主の北条氏時は戸部川(柏尾川)を挟んで布陣し、戦いましたが、苦戦を強いられ、地侍の粟船の甘粕氏、村岡の福原氏等が討ち死にしました。これを供養したのが大船駅西側にある「玉縄首塚」です。あの時代から代々続いているなど、驚きですね。

長屋門から右へ行き、直ぐ又右へ曲がり、出た路地を左へ行くと、左右に分かれているので、右の新しい家の前を藪へ向かいましょう。

 

 

 

 

五 長窪通り

(だましの切通し)

いよいよ、切通しに入ります。

人の背の倍ほどもあるきりりと立ち上がった切通しです。有名な鎌倉七切通しに較べると、こちらは改削されていないので、掘削当初の面影がしっかりと残っております。それに幅や、切り落としの立ち上がりなどもすっきりとしております。

こんな立派な切通しを通っても、鎌倉の内へは入れません。それに、これを無理して作ったとしても、さほど用途があるとは思えません。鎌倉から常楽寺へ向かうのなら「中の道」で充分だと思うのです。何ゆえ、こんなに手間をかけて掘りぬいたのか見当も付きません。

そこで思いついたのが、西から攻めてくる敵勢をここへ誘い込んで、内鎌倉への切通しだと思い込ませて、合戦をし、敵の兵力を消耗させる云わば「おとりの切通し」ではないか、ここさへ抜ければ鎌倉だと思わせ、さんざん苦労をさせてやっと通り抜けても、未だ鎌倉の外にしか通じていない「だましの切通し」ではないかと推測しました。

切通しを抜けて住宅街へ出たら、右へ行き広い中央通へ出ます。中央通を右へ三軒ほどで、左へ入り、二軒を右へ曲がりましょう。

少し行くと階段で下りますが、その階段の踊り場から、はるか向こうに大船観音が拝めます。階段を下り、静かな住宅街を抜けると、横須賀線の権兵衛踏み切りに出ます。踏み切りを渡らずに左へ曲がり、北鎌倉駅の下りホームに沿って歩いていくと、途中素掘りのトンネルを抜けますが、ここまでが昔の円覚寺の境内だったようです。じきに、北鎌倉駅裏口、そして円覚寺の前へ出ます。

六 円覚寺、白鷺池

円覚寺へ入る前に、横須賀線の踏み切り向こうに池があり、橋が架かっています。

横須賀線の開通で狭められてしまいましたが、この池は白鷺池と呼ばれ、橋は俗世と聖域とを分ける結界橋の役目をしています。

八代執権北条時宗が建長寺を開山した蘭渓道隆の帰宋を引き止めるため、蒙古襲来の戦での敵味方双方の戦死者の供養の寺を建立しようと適地を捜していました処、八幡神の使いの白鷺が飛んできて、この地に降り立ったので、白鷺池と名づけ、工事を始めたら円覚経を納めた石櫃が出たので、円覚寺とすることにしたと云われます。

円覚寺総門

踏切を渡って、階段を昇ると総門があり、「後光厳天皇」の御宸筆と云われる「瑞鹿山」と書かれた額が掛っていて、天明年間(1781-1789)の建築だそうです。門を入り拝観料を納め、山門そばの広場でお昼にしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

円覚寺山門

正面の大きな山門への階段が降雪時には風情があり、格好の被写体になります。山門には「伏見天皇」の御宸筆と云われる「円覚興聖禅寺」と書かれた額が掛っています。

これら御宸筆の原本は、寺宝として大切に保管されており、毎年「文化の日」前後の宝物風入れの日には、一般公開されます。今年は十一月一日午後に見学に来ます。総門と同じ天明年間の建築で、階上には観音様と十六羅漢とが安置されているとの事です。

円覚寺仏殿

山門の延長線上に仏殿があります。総門、山門、仏殿、法堂、方丈と直線に並んでいるのが禅様式の特徴です。

現在の仏殿は、昭和に再建されたコンクリ造りですが、様式は「舎利殿」を模しているので、弓形の欄間や花頭窓、粽柱、石敷の床等に宋様式が表現されています。本尊は、丈六の宝冠釈迦如来で、頭部は鎌倉時代の作、胴体は江戸初期の補作だそうです。

ここで疑問なのは、如来はお釈迦様が城を出た後衲衣一枚の他一切の飾を捨て、修行の末悟りを開いた姿がモデルなのに、なぜ冠を付けているのでしょう。

逆に菩薩は、修行に出る前のお釈迦様の姿がモデルなので、当時のインドの王族の服装をしております。如来様ではあまりにも尊すぎて近寄りがたいので、もっと身近な菩薩様に近づいていただき、衆生を救って下さるよう、冠をかぶせたとする説があります。

仏殿から左に出ると建築と云われるプロの僧の座禅道場です。さらにその隣が、居士林と呼ばれる元柳生道場から寄進された素人向けの座禅道場があります。さらに寺内を谷奥に向けて歩いて行くと、左側に塔頭が続きます。寿徳庵は三浦道寸中興なので関係者の供養塔がありますが、非公開です。

その先左側に池があり、妙香池と云い、建武の頃に夢窓国師が作造したと云われ、岩盤を刳り貫いて造られています。対岸の岸壁の岩が虎の頭に似ていることから虎頭岩と呼ばれます。池の上の土塀沿い奥に国宝の舎利殿がありますが、非公開なので屋根しか見えません。桜木町の県立歴史博物館に原寸大の模型があります。

仏日庵、白鹿洞、黄梅庵

土塀の角を更に上に向かうと土塀沿いの左の門が仏日庵で、北条時宗廟があり、共にその子貞時、孫の高時の遺骨も納められているとのことです。仏日庵の斜め前の岩壁に小さな洞窟があります。白鹿洞と云い、円覚寺開山供養の際に時宗が宋から招いた導師の無学祖元(仏光国師)の法話の時に、白い鹿の群がこの洞窟から出現して法話を聞いたという伝説があり、そこで円覚寺の山号を瑞鹿山と名付けたと云われます。なお奥に行くと階段の上に門があり、作庭で有名な夢窓国師の隠居所で、四季折々の草花が良く手入れされております。本堂には夢窓国師の木像が安置されております。

方丈

先程の妙香池まで戻り、左手の小さな木戸に入りましょう。建物は方丈です。方丈とは元は住職の住で、一丈四方の大きさから語源が来ていますが、これは大きいので大方丈ですね。右側の板塀沿いに江戸期の線刻された観音様が続き、百観音と呼ばれます。

観音様が終るところに唐門の勅使門があります。昔はきっと朝廷の勅使が祈願等で訪れたことでしょう。また、その脇には仏光国師がご慈愛なされた立派な白槇があります。方丈の庭から通用門を出て、真直ぐに仏殿脇に下ると、左の杉林の小道を入ると、駐車場に土塁の跡が残ります。小道を抜て右へ少し下ると左に昇る石段があるので昇りましょう。

洪鐘(おおがね)

かなりきつい石段を昇り切ると大きな鐘楼があります。国宝の円覚寺洪鐘です。同じく国宝の建長寺、重文の常楽寺と共に鎌倉三大梵鐘と云われます。大きさはこれが一番で、クレーンのない時代にこのような大きな鐘をどうやってここまで引き上げたのでしょう。

そばに弁天様を奉っている社殿がありますが、時に執権貞時は東国最大の梵鐘の鋳造を思い立ちましたが、巧くいかず、江ノ島の弁財天に祈願したところ巧くいったので、鐘楼の前に弁天堂を建て祀り、円覚寺の守護神としたと云われます。

先程の総門へ戻り、トイレを済ませ、円覚寺を出たら、横須賀線にそって左へ歩きましょう。

暫く歩き、川を渡ったところで、左への道は、紫陽花寺の呼称で有名な明月院前を通り、今泉団地へと抜ける道です。先ほどの円覚寺脇からこの辺りまで、北条時頼の建立した最明寺があったそうです。線路脇に小さな休憩所があります。普通の町ですとこんな小さな道端の公園では、休憩するのすら人目を気にするところですが、鎌倉の特徴と言うか、こんな道端でさえハイキング姿の家族連れがおにぎりを広げたりします。

踏み切り前の横断歩道で向こうへ渡ると、けんちん汁の店があります。店の左脇の植え込みに「安陪の清明」の石碑があります。

治承四年、鎌倉入りした頼朝ですが、初入城なので寝るところもままなりません。そこで、

治承四年(1180)十月小九日戊子。大庭平太景義を実施担当の奉行として頼朝様の家を造る行事の作事を始めた。但し直ぐの間に合わせられないので、当分知家事〔兼道〕の山内の屋敷を指定して、是を移転建築させた。この建物は正暦(990-995)の頃に立てられて未だに火災にあっていないのは、安部清明の家を守るお札を貼ってあるからである。

このように、当時の家は釘を使わず、パズルのような木材の組み方で作られておりますので、分解して運び組み立てれば家になってしまうわけです。それを「壊ち渡す」と云います。

先へ歩きましょう。暫く歩くとお土産屋さんの前を通過すると、右の土手の上に長寿寺の門がありますので、その先の角を右へ曲がります。ゆったりとした坂が上って行きます。

七、亀ケ谷坂の切通し

鎌倉七口の一つ「亀ケ谷坂の切通し」であります。切通しのうちでも一番古く、頼朝の鎌倉入りも、この切通しが推定されています。又、鎌倉からここを通り抜けるが、武蔵道で鎌倉古道中の道でもあります。

往時は、現在よりももっと高所を通っていたものと思われますが、鎌倉側は現在でも、かなり急な坂になっております。その名のいわれは、鎌倉からこの坂を登ってきた亀が、あまりの勾配におのれの甲羅の重みに耐え切れず、後ろへひっくり返ってしまったとの伝説があります。

坂を下りかけ、右の岩の途切れた所の石段の上がり口に、昔の水のみ塲の井戸があります。十四五年前までは、自然石を削った石段の脇に水が堪っていましたが、階段をコンクリに整備した際に半分埋められ、分かり難くなってしまいました。

坂を下り終えると、右の角に綺麗で新しい八角堂がります。

 

八、岩舟地蔵

今朝ほど、常楽寺で話した、頼朝と政子の最初の子供「大姫」の守り本尊のお地蔵様が、壇の下に埋められています。その、地蔵様の光背が上の先がとがった船の形をしている「舟形光背」をつけている石で出来た地蔵なので「岩舟地蔵」と称します。

さて、大姫の話の続きなのですが、愛する許婚を父に殺され、何も信じられなくなった大姫は、今で言ううつ病になったしまったのであります。

吾妻鏡では、逃げていく義高に追っ手がかかったのを知って「姫公、周章し魂を銷し令め給ふ。」 現代語*姫君(数え年七歳)はあわてて魂を消すほど打ちしおれてしまいました。

また、義高が討ち取られたことを知った時を「愁歎之餘りに漿水を断た令め給ふ。」現代語*嘆き悲しみの余り、水さえも喉を通らなくなりました。

と表現されております。

鬱々と悲しみと病の日々を送る大姫ですが、数えの十七歳の頃に、京都の従兄弟「一条高能」が遊びにやってくると、母の政子は彼との縁談を進めます。それを聞いた大姫は、「義高様を慕っている心を知りながら、そのような勝手な事をするのなら、深い水の淵に沈んで死んでやる。」と母を脅迫する始末でした。

やがて、その大姫にも頼朝の野心で入内の話が進められ、全てをあきらめ悟った大姫は京都へ向かうのですが、建久八年(1197)七月十四日旅の途中でその生涯を閉じてしまいます。

推測ですが、きっと鳥辺野あたりで荼毘に付され、鎌倉へ悲しみの帰還となり、恐らく大御堂の地に葬られたものと思われます。

では、何故大姫の持仏と謂われる地蔵菩薩がここに埋められたか推理してみましょう。

頼朝と政子の間には四人の子供があったのであります。上から、大姫、頼家、乙姫(三幡)、実朝だったのです。

叶わなかった大姫の入内の替わりに、次女の乙姫に白羽の矢が立てられたのでした。

吾妻鏡では、彼女の出演は少なく、頼朝の死後、入内の準備中に病にかかったところからです。

建久十年(1199)三月五日。先の将軍頼朝の娘の乙姫がこの前から熱の出る病気にかかっています。かなりの重症なので母の政子様は、神社に祈願をし、寺々に経を読ませております。

そして、京都から名医の丹波時長を呼び、治療に当たらせます。

そして五月八日医師は、乙姫に朱砂丸と云う薬を飲ませます。この薬のおかげか一時は、回復して食事も取れた乙姫だったのですが、十四日になって衰弱してきたうえに、目の上が晴れ上がってしまいました。

これを見た医者は、「人力の及ぶところにあらず」とさじを投げてしまい、神頼みより他に打つ手がなくなってしまいました。

そして、六月三十日午の刻(昼の十二時)、とうとう遷化してしまいました。

その夜の戌の刻(午後八時頃)乙姫の亡骸を乳母夫の中原親能の亀谷堂の傍らに埋葬しました。

又、七月六日に姫君の墳墓堂で初七日の法事を行っています。

この記事から、亀谷堂は、中原親能の屋敷内と思われるので、きっとその墳墓堂の地がここであったろうと思われます。

先祖の墳墓から離れた地に埋葬された乙姫の寂しさをなだめるために、母の政子が姉の大姫の持仏を一緒に埋葬してあげたのではないかと思われます。

時代の流れとは云え、あたら青春を政治の道具として散っていった薄幸の姉妹と、おのれよりも先に娘達に先立たれた母の苦しさを、感じないわけにはいきません。

これによって政子はすでに二年前に長女を亡くし、今年の一月に夫を、そして六月に次女を失いました。しかもこの後、長男が伊豆で殺され、次男が孫に殺されるという悲劇が待っていることを政子は未だ知りません。こんなに肉親を失う苦しみを受けた天下人が他にありましょうか。まるで、何者かに呪われているように。

それでも承久の乱では必死に御家人を励まし守った鎌倉幕府、自分達東国人が作った鎌倉幕府こそが、政子にとって一番の子供だったのではないでしょうか。

それでは、この武蔵大路をたどり鎌倉駅へと戻りましょう。

  

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