歴散加藤塾 史跡廻り第三十九回 鎌倉へ紅葉狩りに行く 平成廿年十二月七日  引率説明 歴散加藤塾 主催 @塾長 

 

目次  一、一、宇都宮稲荷と幕府跡碑   二、筋替橋   三、関取場  四、永福寺   五、獅子舞谷

    六、天園ハイキングコース   七、十王岩  八、朱垂木やぐら  九、太平寺

鎌倉の紅葉といえば、公称二千本の獅子舞谷です。今年もきっと綺麗に色づいてくれているものでしょう。

鎌倉駅を東口へ降りたら、駅前の広場を突っ切って若宮大路まで出ましょう。

信号で向かいへ渡り、北へ向かうと右側に鎌倉警察署があります。

警察署の向こう脇を右へまがり、左の教会の裏の路地へ入りましょう。路地を北へ進むと左側に沢山の赤い旗が立ったお稲荷さんがあります。

一、宇都宮稲荷と宇都宮辻子幕府跡碑

このお稲荷さんは、鎌倉時代には宇都宮一族の屋敷の鬼門の隅にあったと思われます。これから想定すると。この西南側に屋敷があり、北側の路地に向かって入口があったから、この東西の路地を「宇都宮辻子」と呼んだわけです。

そして、鎌倉幕府の幕開けには、頼朝は現在の八幡宮の東側に広大な敷地の大倉幕府を造営したのでしたが、やがて時代は移り、将軍は、頼朝・頼家・実朝の源氏三代も叔父殺しの事件で血脈は断たれ、京都の九条家から二歳の三寅を貰いうけ将軍に立てました。執権も北條時政・義時から泰時が継ぎ、幕府政治の実権を握り始めた嘉禄元年(1255)、六月十日に大江広元が七十八歳で、七月二十一日には後を追うように北条政子が六十九歳で亡くなると、泰時はこの北側へ大倉幕府時代の四分の一程の敷地に幕府を移します。

恐らく、尼将軍政子の死をもって、旧体制から新体制への転換のアピールのため、質素を旨とする意思表示ではなかったのかと思われます。

当時の人達にとって、その場所が陰陽道で言う、四神相応の地かどうかが、とても気になったようで、同年の十月、泰時は陰陽師を集め相談しております。

地相見の坊さんは、頼朝の法華堂の前の地が最高の土地なので引っ越すよりも西側へ広げればよいのでは、などと意見も出ておりますが、それでは当初の思惑の通りに行きませんので、占いをさせて無理やり二番目に良い地だとして、引越しをします。

なお、吾妻鏡では「宇都宮辻子」の単語は同月に三度出ただけで、特に「宇都宮辻子幕府」とは、書かれてはいません。

路地を北へ進むと、突き当りを左へ次は右へとクランクして、清川病院の裏を通り、黒板塀に見越しの松の家は、鞍馬天狗の大仏次郎さんの生前の執筆活動の地でした。

板塀にそって右へカーブをすると「若宮大路幕府跡地」の石碑があります。

吾妻鏡では、嘉禎二年(1236)に新造すると出て、四月二日「若宮大路御所」木造り始めをし、六月二十七日立柱、八月四日に引越しをしています。北側の執権屋敷の地へ引っ越したとも、同一敷地内の北側に建物を新築し、若宮大路側に入口を作ったものともいわれ、まだ確定しておりません。

そのまま路地を東へ行くと小町大路へ出ます。左側を歩きながらバス通へ出たら、横断歩道で北側へ渡りましょう。左側の歩道を北へ向かうと信号の所に石碑があります。

二、筋替橋

この地から東への道を「六浦道」とも金沢街道とも呼ばれます。古道を歩く会「下の道壱」では、この道を朝比奈切通しを通って、金沢八景まで歩きました。

この街道は頼朝入府以前からの道で、このまま西へまっすぐ寿福寺の前へ達していたそうです。つまり寿福寺の地は六浦道と武蔵大路の出発点源氏屋敷の地だったのです。

京都では、比叡山と東山を結んだ線と平行に、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西に一条大路があります。鎌倉では、天台山と衣張山を結んだ線に平行に、十王岩から四百六十丈の処に横大路として、若宮大路を南へ引いたので、27度ずれております。この横大路の北に八幡宮を祀りましたので、六浦道の道筋をここで63度曲げたのです。そして、この道路の下を西御門川が流れ、架けられていた橋が「筋替橋」なのです。

ここから、東を見ると北側には大倉幕府の泥築地の塀が続き、南側には政所別当大江広元の屋敷、事実上の常陸支配者八田知家の屋敷、そして秩父党の希望の星、畠山重忠の屋敷が並んでいたようです。

やがて、現在の分れ道の信号を渡ると左に道があり、「関取場」の石碑があります。

三、関取場

戦国騒乱時代の天文十七年(1548)に小田原北条氏が関を儲け、通行税として関銭を取上げ、これを荏柄天神社の造営に当てたとのことです。麻紙布類の荷物は十文、乾物馬は5文、人の背負い物は三文、運送屋の馬は、一頭十文、往来の僧、俗人、里人は無料だったようです。

左の路地は、頼朝が建立した永福寺へ通じる「二階堂大路」なので、ここが本当の分れ道なのです。北側の発掘調査では、南北に列の柱穴が並んでいますので、挟み板の塀があったのかもしれません。先へ進むと荏柄天神の参道と交差し、やがて鎌倉宮の脇へ出ます。

四、永福寺

先へ進むと右側に大きな石を積んだ家があります。このあたりは小字を「四石」と云い、永福寺の総門があったところといわれます。左にテニスコートを眺めながら進むと「史跡永福寺跡」の石碑や史跡案内板があります。ここの左一帯は、頼朝が奥州征伐を終え、平泉の中尊寺や毛越寺・無量光院などの文化に感激し、治承寿永の源平合戦や木曽義仲・義経・奥州合戦で滅びた泰衡や多くの将兵の御霊を供養するために、建物は中尊寺の大長寿院、庭は毛越寺を見習い建立した浄土庭園の永福寺の跡地なのです。

道を先へ進み、二階堂川にそって左へ曲がり、左の民家の先まで行くと発掘調査を終え、埋め戻した野原になっています。

ここから西側に山を背に真ん中に裳腰付の二階建てに見える本堂(釈迦堂)、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂と並び、その間を氏の平等院のように回廊で結び、左右の堂からは、手前へ回廊が伸び、その前に北のはずれから南のテニスコートまで池が作られ、その優美な姿を水面に映していたことでしょう。

空き地の出入り口の金網の所からは、北側手前には二階堂川を堰き止め、水を引き入れていた鎌倉石の樋が、北側奥には鑓水の跡も発掘されております。

その絢爛豪華な永福寺も今では草むらとなっています。平泉とは、また別な

 夏草や つわものどもが 夢のあと ですね。

二階堂川に沿って、上流へと歩きましょう。

やがて人家はなくなり、道は未舗装の砂利道となり、その砂利も消え、いつの間にか山奥へと入ってきてしまいます。ひたすら山道を細流伝いに辿っていくと、両側が屏風のような岩の切り立った場所へ行きます。

五、獅子舞谷

昔、切り立った崖の上に、飛び出した岩が、頭をもたげた獅子舞の獅子頭のような趣だったところから、このあたりを獅子舞谷と呼ばれました。

今ではそれも崩れ落ちて、どれが獅子頭やら分かりません。しかし、良く見るとどうやらここも、切通しとして削り作られたような気がします。この道は、鎌倉を抜けて磯子や上大岡のほうへの間道だったようです。江戸時代から大正時代には、湘南方面からお灸で有名な峰の薬師への通い道だったそうです。

道際の水路がなくなり、坂がだんだんきつくなり、露出した泥岩を登ったとたんに、地面いっぱいが黄色い銀杏の絨毯になっている林まで上がれば、そこはもう紅葉の森です。

太陽の逆光に色づき始めた紅葉は、一枝で緑から黄色、黄色からオレンジ、オレンジから赤とグラデーションに輝くのを蜀江錦からとって、塾長は「錦の紅葉」と名付けております。

太陽を背にして、真上を見上げれば、そこは別な美の空間です。

錦の紅葉を堪能したら、一気に尾根まで急坂を登ります。

上りきれば天園ハイキングコースへ出ます。右が瑞泉寺方面、左前方は茶屋の脇へ出て、そこから右なら金沢文庫方面へ、左へ茶屋の前を登り右へ行けば、北鎌倉方面へ出ます。

直ぐ左脇の岩を登って、鎌倉の海から江ノ島方面の眺望を楽しみましょう。

六、天園ハイキングコース

かつて、この頂上から左に安房・上総・下総、正面に伊豆、右には武蔵、天気がよければ富士山の駿河まで見えると、六つの国を見渡せることからその名が付けられました。

現役を引退した東郷平八郎が逗子に住んで、このあたりまで良く散策をして、あまりの眺めのよさから「天園」と名付けたそうで、今では天園ハイキングコースと言われます。

北へ向かい峠の茶の脇を上り詰めたら、セメンのぶんながし舗装を下ると右にゴルフコースのティーグランドが見え、左にトイレがあります。

その先のゴルフ場の裏の広場で昼食にしましょう。

広場の西側に風化され縞模様の段々になったゆるい崖を上ったところが、鎌倉の最高峰152mの太平山です。急な坂を下り、右へ左へとくねりながらハイキングコースは続きます。やがて尾根の十字路へ出ます。右の北への道は今泉住宅・鎌倉湖と呼ばれる散在ケ池へ、左の南

への道は覚園寺前へ出ます。

20mも行くと左側の一段上に「地蔵やぐら」があり、ここらの南側崖一帯には無数のやぐらがあり、通称「百八やぐら」と呼ばれます。十字路へ戻り、西側へ先ほどの続きを歩きましょう。

七、十王岩

やがて、右側のやぐらの上に「弘法大師像」のある鷲峰山、その先右上に「十王岩」と呼ばれるやぐらがあります。三体のお像を彫り残してあり、中央に「地蔵菩薩」向かって「如意輪観音」右に「閻魔大王」です。良く見ると屋根部分に梁の跡が掘られ、かつ

てはきちんとお堂の形をとっていたことが忍ばれます。又、閻魔大王は地獄の裁判官十人の代表でもあるので「十王」とも呼ばれます。

昔、この地には、余り木が無く、松が一本だけあったそうな。その松が風が吹くとひゅうひゅうと唸り声を上げたそうな。鎌倉の町では、子供が言うことを聞かないと「地獄へ落ちた亡者供が、閻魔様に攻められて、ヒーヒーと泣き声を上げている。お前も悪さばかりしていると閻魔様に泣かされるぞ。」と子供を脅し叱りつけたそうで、別名を「わめき十王」ともいわれます。

八、朱垂木やぐら

道を少し戻ると谷へ降りる分れ道があります。これを辿り、谷間へ降りた左側にやぐらが三基あります。

中央のやぐらには、中に台座・天蓋が掘られており、入口の軒には朱色で垂木の模様が描かれています。「朱垂木やぐら」と呼ばれますが、ここはどうやら墓ではなく、このあたり一帯の本堂を表現しているようです。

そこから谷間へ下っていくと山道が続き、まるで寺院跡でもあったような平場を過ぎると左に人家の屋根が見え、山道の十字路に出ます。

塾長は「西御門奥十字路」と名付けています。

正面の南は、新宮神社や大臣山裏への山道、右が建長寺内塔頭の回春院前へ出て建長寺境内になります。今日は、左の西御門住宅地へ出てみましょう。

段々畑のような住宅地の中のスキーの回転コースみたいな急坂を下ります。

坂を下り終えて、左へ曲がると別な道と合流するので右へ歩きます。しばらく歩くと右の角に「里見ク」の住居跡の記念碑があります。右へ曲がって見ると、高床式の和風の座敷が素晴らしいので、目の保養ですね。

その先で左へ曲がると、正面に来迎寺が、左には「八雲神社」があります。

神社の脇を突き当たったテニスコートは、かつて尼五山第一位「太平寺」があった場所です。

八、太平寺

初め頼朝が、命を救ってくれた池禅尼の姪の希望で創建したともいわれたり、政子が猶子の木曽義仲の妹、鞠子をこの寺に入れたとか云われますが、よく分かりません。

ただ、戦国時代初期には、足利尊氏の系統の鎌倉公方四代持氏の子で、上杉に追われ古河へ逃れ「古河公方」と呼ばれた成氏、その孫で千葉県の御弓城に寄った御弓御所義明が、里見氏と組んで小田原北条氏と対立しておりました。

しかし、天文七年(1538)国府台(千葉県市川市)の戦で義明は流れ矢で命を失います。

その娘二人を、北条氏は出家させ、姉が青岳尼と称し尼五山第一位の太平寺に、妹は旭山尼と称し、東慶寺の住職になりました。しかし、安房の里見義弘が鎌倉を襲撃して、前の許婚の青岳尼と本尊の聖観音像を奪っていってしまいました。

その後、青岳尼は亡くなり、本尊だけでもと北条氏康は東慶寺の蔭涼軒に頼み、取替えした本尊のが、現在東慶寺の宝物館におられる、土紋模様の有る聖観音像です。

また、里見義弘が青岳尼を奪った後、怒った氏康が太平寺を廃絶して、仏殿を円覚寺にくれてやったのが、国宝「円覚寺舎利殿」です。

それでは、西御門大路を南下して鎌倉駅へ戻りましょう。

  

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