第四十一回 歴散加藤塾 鎌倉史跡めぐり 鎌倉巡礼道を歩く 平成二十一年五月十七日二十日二十四日

  目  次

一、岩殿寺   二、巡礼路(岩殿寺背後部)   三、巡礼路(南側残存部)   四、巡礼路(北側残存部)   五、宅間谷と報国寺   六、杉本観音   坂東三十三観音一覧

 関東には、坂東三十三観音霊場めぐりという現世利益を願う、熱心な方々の巡礼制度がありました。昔は、白装束に菅笠、金剛杖と鈴を持ち、角付けをしながらそのお布施で食い扶持をつなぎ、願掛けをして巡り歩きました。多くの場合、不治の病を観音様のお力で取り除いて戴こうと、雨風を厭わぬ苦行により、観音様の慈悲に預かれると信じられていました。

現在では、プロの先達が付いて、観光バスで巡るツアーもおおいようです。

 そんな、札所めぐりの一番札所が杉本観音で、二番が逗子の岩殿観音なわけです。三番は安養院の田代観音、四番が同じ鎌倉の長谷観音なのです。その後、相模、武蔵、上州など時計回りに千葉県までになります。詳しくは、末尾に乗せておきます。

 逗子駅前から右の商店街を西へ向かってあるき、十字路を右へ曲がると、踏切へ出ます。

踏切を渡ったら、横断歩道で道の向かいへ行き左へ、次ぎを右へ曲がりの祭祀場の前を歩くと石仏があります。次ぎを左へ曲がります。路地を進んで行き、四つ目のマンション脇を右へ曲がります。そのまま路地を入っていくと谷戸の中へ入っていく感じが聖地を思わせます。

一、岩殿寺(曹洞宗 海前山岩殿寺)

 坂東三十三観音霊場廻り第二番札所なので、参道には坂東三十三観音札所の石碑が立ち並び、遠くまで行かずとも、これを拝み歩けば、全部回ったと同じ利益になるのは、いんちき臭いといわれる方もおりますが、遠くへ行きたくてもいけない事情のある方々の切ない願いを聞き届けてくれる優しい仕草なのだと感謝しましょう。

勿論三十三観音回れる人は、もっとご利益があることでしょう。数段で山門をくぐりますと、庫裏は左側にありますが、本堂は石段の上ですので、頑張って登りましょう。

 寺伝では、養老四年(720)行基の創建と謂われます。文治三年には(1187)頼朝の娘の大姫が参詣しているので、鎌倉幕府創立前からあったことは確かだと思われます。

 又、頼朝も政子も建久年間に参詣しており、相当に厚く信仰されていますので、この頃にはきっと本来の観音像があったものと思われます。しかし、現在の本尊は江戸初期に家康の側室のお勝の方が造立した十一面觀音を死後寄贈され、その前には無かったと云われるので、いつか忘失してしまったのでしょう。

 鎌倉時代の参拝の記事を、吾妻鏡で拾ってみましょう。

文治三年(1187)二月小廿三日乙未。大姫公の御願に依て、相摸國内の寺塔に於て、誦經を修せ被る。藤判官代邦通、 河匂七郎政頼等之を奉行す。姫公は岩殿觀音堂へ參り給ふと云々。

 前の年に許婚を失った大姫の愁傷が伝わります。

建久三年(1192)三月小廿三日乙未。幕下(頼朝)岩殿觀音堂へ御參す。三浦介(義澄)。同じき左衛門尉(三浦十郎義連)以下御供に候う。大多和三郎(義久・義澄の弟)?飯を献ずと云々。

建久三年(1192)五月小八日巳卯。法皇の四十九日の御佛事、南御堂に於て之を修被る。百僧供有り。早旦、各、群集す。布施は、口別に白布三段・袋米一也。主計允行政(二階堂)、前右京進仲業之を奉行すと云々。僧衆。鶴岡廿口 勝長壽院十三口 伊豆山(走湯神社)十八口 筥根山(箱根神社)十八口 大山寺三口 觀音寺(金目觀音)三口 高麗寺(高来神社)三口 六所宮(大磯六所神社)三口 岩殿寺二口 大倉觀音堂(杉本寺)一口 窟堂(巌不動)一口 慈光寺(都幾川村)十口 淺草寺三口 眞慈悲寺(百草園)三口 弓削寺(小田原勝福寺)二口 國分寺三口也。「頼朝主催の後白河法皇の追悼供養に二名出席していることが分かります。」

建久四年(1193)八月小廿九日癸亥。御臺所(政子)岩殿觀音堂へ詣で給ふ。北條五郎(時房)御共に候被る。

建久四年(1193)九月大十八日辛巳。將軍家(頼朝)岩殿、大藏(杉本観音)等の兩觀音堂へ詣で令め給ふ。姫君御不例之時の御立願と云々。

建久五年(1194)六月大十七日丙午。將軍家が若公(頼家)岩殿觀音堂で通夜令め給ふ。其の間相撲有り。御共の壯士等を召し决せ被ると云々。

元久元年(1204)四月小十八日辛亥。將軍家(実朝)御夢想之告げに依て、岩殿觀音堂へ參り給ふ。遠州并びに四郎、五郎等主、及び廣元朝臣以下の扈從雲霞の如し。三浦左衛門尉御駄餉すと云々。

承元三年(1209)五月大十五日丁。(実朝)神嵩(神武寺)并びに岩殿觀音堂へ御參す。御還向之間、女房駿河局の比企谷の家へ渡御す。山水納凉之地也と云々。

建暦元年(1211)五月小十八日己巳。御臺所(坊門姫)岩殿觀音堂へ御參す。武州扈從すと云々。

建暦二年(1212)九月小十八日辛酉。將軍家(実朝)岩殿、椙本等の觀音堂へ參り御うと云々。

 以上のような、出演状況から判断すると、未だ坂東三十三観音は決まっていないようで、この岩殿観音から杉本観音へ回っているようです。

 現在では、杉本さんが一番札所でここが二番札所なので、巡礼道を反対に歩くわけです。

二、巡礼路(岩殿寺背後部)

実は、巡礼道は観音堂の裏山を西へ行ったはずれから、大町裏山の水道貯水施設の山へ向かっていたのですが、ハイランドへの道路を掘削してしまったために、途切れてしまいました。

本堂の西脇に手すりの付いた道があるので、入っていきましょう。ここから巡礼路が始まるのですが、先へ行ってみると、石仏のところで行き止まりとなります。

昔はここから、現在のハイランド住宅の端の数軒の上を北側へ通っていたのです。

 仕方が無いので、谷戸の入口へ戻り、右へ歩くと横須賀線の脇の道へ出ます。

暫く先へ歩くと右の石垣の上に庚申塔が並んでいます。やがて信号があり、右にハイランドへの導入路となっています。これをハイランドに向かい桜並木の坂を上って行きます。

やがて右側に小さな公園があるので、ここで道路の向井側右を見ると、新しい家が並び、その間に石段が二つ上っています。この左の石段を上った場所に、岩殿寺からの巡礼道が繋がっていたのです。石段を上って、後ろを振り返ると岩殿寺の山が見えます。

三、巡礼路(南側残存部)

ここから、山道を右へ左へとくねりながら、登って行きます。

時々右側にハイランドの住宅が見え、左にはお猿畠の谷が覗けます。

坂を上りきると、県水道局の地下貯水槽の塀で進路を拒まれてしまいます。仕方が無いので左に新しく整備されたハイキングコースを西側へ下ります。途中、小さなベンチのある所からは、パノラマ台の山と由比ガ浜・稲村ガ崎・江ノ島が望めます。石柱の車止めへ出るので、右の平らな方へ行きましょう。左にパノラマ台への案内標識があり、右には湿原風な散策路となっています。アスファルト路を左へ、水道の左の石橋の先にベンチがあるのでお昼にしましょう。

午後は、この遊歩道を北へ向かうと、途中の左の階段は大町の黄金やぐらへ下ります。先へ進み二又で、右の広場へ出ます。ここら辺の散策路は、ハイランドの開発で失われた巡礼路を埋め立てたりして作った緑地帯をたどれるように15年ほど間から数年かけて整備したものです。

やがて、宅間谷への分岐を左に見て、一旦住宅街の路上へ出ます。すぐ左の森の中へ入ります。

四、巡礼路(北側残存部)

 山道を歩いて行くと、途中左に石切り場があったりしながら進みます。道の所々にコンクリの舛状の物は野鳥の会が此の森には小川が無いので水飲み場として設置したものです。

時々庚申の文字の刻んだ石板が有りますが、江戸時代の庚申塔です。時々「塔」の文字の「土偏」が左側でなく下に付いている字が有ります。これは異体文字と云って、本来の文字をアレンジしたものです。簡単な例では「島」が、正字が「嶋」で「島」は略字で、「嶌」が異体文字です。やがて下り坂手前の右側に広場があり、江戸時代と思われる磨崖仏があります。

そこから、多少きつい下り坂をおりますと、報国寺の脇の道に出ます。

五、宅間谷と報国寺

 此の谷を宅間谷と謂います。佛画の名人藤原為久の子弟宅間派が住んだ事によると謂れます。藤原為久の兄は京都宅間流の絵師を継いでいます。

 報国寺は竹の寺として有名ですが、足利氏の建立した寺で、室町期四代鎌倉公方の持氏が京の將軍義教に反逆した為、永享十一年(1438)上杉持朝、千葉胤直に攻められ瑞泉寺南に有った永安寺で自決した際、その子義久は十四才の若さで此の報国寺に於て自殺しました。武士の習いとは申せなんと酷いことで有りましょう。

 巡礼路は、報国寺前から一旦六浦路へ出て、杉本観音へ行ってるようですが、今日は、田楽辻子への小道を歩きましょう。

十字路に「田楽辻子」の由来案内があり、左には犬懸上杉氏屋敷跡碑があります。

これを右折して川添いに歩くと杉本観音の前へ出ます。

六 杉本寺 天台宗 比叡山延暦寺末 大蔵山杉本寺觀音院

大蔵觀音、杉本觀音とも呼ばれ、頼朝入府前から鎌倉に存在し一番古い寺だとも謂れます。開創は、天平六年(734) 開基は光明皇后と藤原房前、開山は行基と伝えられます。吾妻鏡には、20巻建暦二年(1212)九月十八日に実朝が岩殿・椙本寺の観音堂へお参りしたと「椙本」の名が出ています。

拝観料を納めて石段を登ると仁王門があります。この仁王様のユーモラスなお顔は伊勢原の日向藥師の仁王門や寿福寺にある元八幡宮寺の仁王と良く似ており、江戸時代の作風でしょう。

石段を登り切ると一寸タイムスリップした様な茅葺屋根の本堂が有ります。

靴を脱いで本堂に上らして貰うと、正面に先代の住職が彫られたと謂う十一面觀音を始め所狭しと色々な彫像が立ち並んでおります。

正面祭壇の左脇から裏へ回ると奥の宝殿にお目当ての三体の十一面觀音様がおられます。

左側が行基作、中央が自覚大師円仁作と謂れる平安末期の像、右は恵心僧都源信作と謂れる鎌倉時代の像です。

此の一番古い觀音様に纏わる話として、鎌倉中期、此の觀音の前を乗馬のまま通り過ぎようとした侍が落馬するという珍事が続くので、時の執權北條時頼が建長寺開山の大覚禅師欄渓道隆に相談した処、不信心の者が落馬したとて故を知らずば意味が無いと袈裟の尾で觀音様に覆面をしたので落馬しなくなった。それゆえ覆面觀音と呼ばれるようになったと謂れます。

文治五年(1189)十一月小廿三日己夘。冴え陰る。終日風烈し。夜に入り、大倉觀音堂回祿す。失火と云々。別當淨臺房、煙火を見て涕泣し、堂の砌に到りて悲歎す。則ち本尊を出奉らん爲。焔の中へ走り入る。彼の藥王菩薩者、師徳に報ぜん爲兩臂を燒かれ。此の淨臺聖人者、佛像を扶けん爲五躰を捨つる。衆人の思う所、万死を不疑に、忽然と之を出し奉る。衲衣纔に焦げると雖も、身躰敢て恙無しと云々。偏に是、火も燒くに不能之謂れ歟。

これを現代語に略すと「失火で觀音堂が火事になり、別当の浄台坊が泣き乍ら本尊を担ぎ出そうと煙の中に入って行った。周囲の者は、焼け死ぬことは確実だと心配していた処、衣が少し焼けただけで怪我もせずに運びだして来ました。信心深いので火にも焼けなかったのかなあ。」と感心した記事になります。

一方、謂れでは此の火事の際に觀音様は自分で本堂を抜け出し杉の木の根本に避難したので、杉本觀音と呼ばれるようになったという伝説も有ります。

此処の裏山一体は、三浦介義明の長男杉本太郎義宗の居城があったと伝えられますが、彼は長寛元年(1163)安房で戦死しているので、杉本の名はいずれが先になるのでしょう。

 父から継いだものと思われます。

他にも、吾妻鏡では、頼朝が大姫の病を気遣ってお参りに何度か来ており、実朝も將軍になってからお参りに来ています。

建久二年(1191)九月小十八日甲子。幕下大倉觀音堂へ御參す。是、大倉行事草創の伽藍也。累年 風霜 甍を侵し而軒を破り傾く也。殊に御憐愍有りて、修理の爲、准布二百段を以て之を加へ奉り給ふ。

建久五年(1194)二月小十八日庚戌。大倉觀音堂へ御參す。御還路に江間殿が亭へ渡御すと云々。

 坂東三十三観音一覧

第一番  杉本寺 杉本観音 天台宗     十一面観世音菩薩  神奈川県鎌倉市

第二番  岩殿寺 岩殿観音 曹洞宗     十一面観世音菩薩  神奈川県逗子市

第三番  安養院田代寺 田代観音 浄土宗  千手観世音菩薩   神奈川県鎌倉市

第四番  長谷寺 長谷観音 浄土宗     十一面観世音菩薩  神奈川県鎌倉市

第五番  勝福寺 飯泉観音 古義真言宗   十一面観世音菩薩  神奈川県小田原市

第六番  長谷寺 飯山観音 高野山真言宗  十一面観世音菩薩  神奈川県厚木市

第七番  光明寺 金目観音 天台宗     聖観世音菩薩    神奈川県平塚市

第八番  星谷寺 星の谷観音 真言宗大覚寺派 聖観世音菩薩  神奈川県座間市

第九番  慈光寺      天台宗     十一面千手千眼観音 埼玉県比企郡都幾川村

第十番  正法寺 岩殿観音 真言宗智山派  千手観世音菩薩   埼玉県東松山市

第十一番 安楽寺 吉見観音 真言宗智山派  聖観世音菩薩    埼玉県比企郡吉見町

第十二番 慈恩寺 慈恩寺観音 天台宗    千手観世音菩薩   埼玉県岩槻市

第十三番 浅草寺 浅草観音 聖観音宗    聖観世音菩薩   東京都台東区

第十四番 弘明寺 弘明寺観音 高野山真言宗 十一面観世音菩薩 神奈川県横浜市南区

第十五番 長谷寺 白岩観音 金峯山修験本宗 十一面観世音菩薩 群馬県群馬郡榛名町

第十六番 水沢寺 水沢観音 天台宗     千手観世音菩薩  群馬県北群馬郡伊香保町 

第十七番 満願寺 出流観音 真言宗智山派  千手観世音菩薩  栃木県栃木市

第十八番 中禅寺 立木観音 天台宗     千手観世音菩薩  栃木県日光市

第十九番 大谷寺 大谷観音 天台宗     千手観世音菩薩  栃木県宇都宮市

第廿番  西明寺      真言宗豊山派  十一面観世音菩薩 栃木県芳賀郡益子町

第廿一番 日輪寺 八溝山  天台宗     十一面観世音菩薩 茨城県久慈郡大子町

第廿二番 佐竹寺 北向観音 真言宗豊山派  十一面観世音菩薩 茨城県常陸太田市

第廿三番 観世音寺 佐白観音 普門宗    十一面千手観音  茨城県笠間市 

第廿四番 楽法寺 雨引観音 真言宗豊山派  延命観世音菩薩  茨城県真壁郡大和村

第廿五番 大御堂      真言宗豊山派  千手観世音菩薩  茨城県つくば市

第廿六番 清滝寺      真言宗豊山派  聖観世音菩薩   茨城県新治郡新治村

第廿七番 円福寺 飯沼観音 真言宗     十一面観世音菩薩 千葉県銚子市

第廿八番 竜正院 滑河観音 天台宗     十一面観世音菩薩 千葉県香取郡下総町

第廿九番 千葉寺      真言宗豊山派  十一面観世音菩薩 千葉県千葉市中央区

第卅番  高蔵寺 高倉観音 真言宗豊山派  正観世音菩薩   千葉県木更津市

第卅一番 笠森寺 笠森観音 天台宗     十一面観世音菩薩 千葉県長生郡長南町

第卅二番 清水寺 清水観音 天台宗     千手観世音菩薩  千葉県夷隅郡岬町

第卅三番 那古寺 那古観音 真言宗智山派  千手観世音菩薩  千葉県館山市

巡礼の寺 満願寺 十一面観世音菩薩              千葉県銚子市

  

inserted by FC2 system