鎌倉歴史散策の会 歴散加藤塾第四十二回

ご利益を欲張ろう

平成二十一年十月十八日二十一日

               資料作成及び引率説明  @塾長

        目    次

一、刀剣正宗 二、佐助稲荷 三、銭洗い弁天 四、葛原ケ岡公園 五、日野俊基墓

六、葛原岡神社 七、鎌倉大仏 八、甘縄神明神社

 鎌倉でも、観光客でにぎわう銭洗い弁天や鎌倉大仏、ハイキンググループなどの葛原岡公園など、有名な観光地を加藤節で案内しながら、皆様に一艘のご利益を捜しましょう。

 鎌倉駅前から、お土産屋さんなどが並び、年中観光客で賑わっている「小町通り」へ入ります。右の回転寿司の二階に打ち上げの「養老の滝」の看板を見ながら、人力車が呼び込みをしている最初の四つ角を左へ曲がります。

 横須賀線の踏切を越えた先の左のショウウインドーを覗いてください。

一、刀剣正宗

 相州物で、日本の刀剣のうち一番有名な正宗さんのお店です。鎌倉時代の刀鍛冶、岡崎五郎正宗の技術を今に伝えております。包丁や、刀の出来るまでを、玉鋼から鍛え、折り返し、などを経て刀になっていく様が、現物で分かりやすく展示されています。

 道を先へ進み、今小路を横切ると、右に歴史的景観建築物の鎌倉栄光教会、左に高野邸、その先右には久我邸といつまでも遺しておきたい建物が続きます。

道は左へカーブをして、指月庵の脇でテー字路に突き当たるので右へ歩きましょう。緩い坂を登り、佐助隧道を抜けます。坂を下りきると又、テー字路に突き当たり、右へ行きます。

左記のブイ字を左へ進むと、途中左側に佐助稲荷の下社があり、正面には、赤い鳥居と上り旗が続いています。鳥居をくぐりながら、上って行きましょう。

二、佐助稲荷

 社伝によると、ここ隠れ里の神霊が翁の姿を仮り、兵衛佐頼朝の夢枕に立ち、旗揚げを進め、そのお蔭で平家を打倒し、政権を勝ち得たとの事から、「佐殿を助けた」が「佐助稲荷」となったと謂われます。階段を上った広場に拝殿と社務所があります。拝殿の裏に更に階段があり、上には神殿が鎮座しております。お参りが住んだら、神殿に向かって左の道を進むと、ハイキングコースからの下り道に出くわします。大きな岩の下や周りにお稲荷さんの陶器のお狐さんが、散らばっています。もしかしたら、元々ここが岩倉で佐助稲荷発祥地かもしれません。

下ると今度は、かなり古そうな石祠やお狐さんが沢山置いてあります。きっと、熱心な信者の願掛け祭祀場所ったのでしょう。

さて、この佐助稲荷を吾妻鏡で捜すと、全く記述がありません。

佐助の地名も「佐助」ではなく「佐介」と出てきます。何故でしょう。

実は、佐助の伝説にもう一つ有り、三浦介義澄、千葉介常胤、上総權介廣常の三人の屋敷があったので、「三介ケ谷」と呼んだのが、「佐介ケ谷」となまったとの説もあるのです。

鎌倉時代も後半に、北条時房の子入道越後守時盛の佐介亭がありました。この屋敷には、

第三十七巻寛元四年(1246)六月廿七日、四代将軍藤原頼経が、京都へ追い返される時、

第四十二巻建長四年(1252)三月廿一日、五代将軍藤原頼継が、京都へ追い返される時、

第五十二巻文永三年(1266)七月四日、六代将軍宗敬親王が、京都へ追い返される時に、一旦宿泊するのが、恒例となっていたようです。やはり隠れ里の名の故なのでしょうか。

 階段を下り、下社へ戻ると左への路地の角に案内の石柱があるので、左へ曲がりましょう。

この住宅街の道こそ、銭洗い弁天の本参道なのであります。

道なりに、登って行き、突き当りを右へ右へと進むと鳥居の列に行きあたります。

三、銭洗い弁天

鳥居が沢山並んでいます。弁天様のご利益で儲かった人がお礼に寄附したものです。広場に出ると右側に社殿や社務所、休憩所があり、左隣に洞窟があります。

社殿は、宇賀福神を祀り、洞窟の中にはお目当ての霊水が湧いております。社殿前の線香立てでは、霊水で洗った札を熱心に線香の火であぶって乾かしています。湯気と共にご利益も飛んで行ってしまわなければよいのですが。

洞窟の中の霊水で銭を洗うと倍になって戻ってくるという謂れがあり、特に弁天様のお使いは蛇なので、巳の日には賑わいをみせます。ここは景気不景気に関わらず「欲に休み無し」で年中賑わっております。

ことの始まりは、頼朝が平家を倒し、いよいよ政権を開始するに際し、悩んでいると夢枕に老人が立ち「我は鎌倉隠れ里の泉が湧くところに住まう宇賀福神である。その霊水を汲んで祀れば世は静まるであろう。」と告げられたので、畠山重忠に捜させて祀ったといわれる。これは、水を大事にせよ、つまり米作りを大切にの意味であろうとも云われます。

その後、五代執権の時頼(大河ドラマ北条時宗の渡辺謙)が「福神の水にて銭を洗えば福銭になる。」と銭の普及を図ったのが(物々交換経済を銭本意経済にするため。)室町時代に宇賀福神と弁財天とが一緒くたになり、しかも福は復に通じるので「銭が戻ってくる」が希望が絡んで「倍になって戻ってくる」が最近急に「沢山になって戻ってくる」と解釈が広がって来ました。「信心は欲と得との二人連れ」ってとこでしょうか。

銭洗いを終えたら、先ほどの鳥居を南へ抜けましょう。これが本来の参道です。鳥居を抜けて景色が広がったところで右への細い山道がありますので、そちらへ上りましょう。道は弁天洞窟の上を通り、来た時のトンネルの坂の上へ出ます。トンネルが出来る前の裏参道です。

四、葛原ケ岡公園

北へ階段を登ると、塾長が「化粧坂上五叉路」と名付けている場所に出ます。

北が公園内へ、右の東が源氏山公園へ、左の西が梶原へ、この左右の道は古東海道とも鎌倉古道上の道でもあります。左斜め後ろの西南への道は、大仏ハイキングコースです。

この山一帯を葛原ケ岡公園として整備されております。

では、北のでパーゴラ周りでお昼にしましょう。

昼食場所から北側へ階段を下りて公園内道路に出たら、左側に瑞垣に囲まれて石碑や宝篋印塔があります。

五、日野俊基墓

 鎌倉幕府を倒さんと、後醍醐天皇は画策をしますが、その主役は側近の両日野氏です。

一人が「日野資朝」、もう一人が「日野俊基」、正中元年(1324)の正中の変で二人供に捕えられ、鎌倉送りとなりますが、日野資朝一人が罪を被って佐渡送りとなり、俊基は許され京都へ戻されます。しかし、元徳三年/元弘元年(1331)に発覚した二度め目討幕計画である元弘の変で再び捕らえられ、鎌倉送りとなります。

その当たりを太平記では七五調で叙情豊かに表現しております。

太平記巻第二 俊基朝臣、再び関東下向の事

落花の雪に蹈迷ふ、片野の春の桜がり、紅葉の錦を衣て帰る、嵐の山の秋の暮、

一夜を明す程だにも、旅宿となればに、恩愛の契り浅からぬ、我、故郷の妻子をば、

行末も知らず思い置き、年久しくも住馴れし、九重の帝都をば、

今を限りと顧りみて、思はぬ旅に出玉ふ、

そして、今度は罪を免れる事が出来ずに、ここ葛原岡で処刑されたのであります。

辞世の句は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」

公園の広い道の北側に、彼を祀った神社があります。

六、葛原岡神社

後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社です。明治天皇が日野俊基に従三位を贈り、地元有志と全国の崇敬者の協力により明治二十年(1887)に創建されました。現在では由比ガ浜地区の鎮守として信仰を集めています。

この神社の境内に無患子(ムクロジ)の木があり、この木の実の種が黒くて硬く、羽根突きの羽の玉に使われます。

神社前から先ほどの日野俊基墓前を通り道を南下し、左に柵のある所から右へカーブをすると化粧坂上五叉路の手前に出ます。左への坂を下り、銭洗い弁天入口洞窟の前を更に下っていきます。途中、鎌倉の「くずきり」で有名な「みのわ」の前をなお、南下します。

すると、鎌倉市役所隣から西へ抜けている広い道に出ますので、右へトンネルを一つ抜けると長谷の大谷戸です。信号で左へ渡り、道を南へ下り、道沿いに右へカーブして、もう一度左へカーブすると右側の路地の向こうに賑やかなバス通りに出て、右に高徳院の入り口があります。

八、鎌倉大仏

高徳院大異山高徳院清浄光寺といい、もとは光明寺の奥の院ともいわれますが、開山、開基共に不明。元浄泉寺の支院であったのが、高徳院のみ残ったともいわれます。現在では真言宗です。

良の大仏に比べて鎌倉大仏と呼ばれ、鎌倉で仏像では唯一の国宝です。

与謝野晶子の「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」で有名ですが、大仏の手を見ますと上品上相の印を組んでいますので、阿弥陀如来であることがわかります。

この大仏の製作については、朝廷の正式な事業としての奈良の大仏に比べ、非常に資料に乏しく、不明な点が多いのも特徴で、ミステリアスな存在です。わずかに吾妻鏡に記述があるので抜粋してみました。

●暦仁元年(一二三八)三月二十三日条(嘉禎四年を十一月二十三日に改元)今日、相模国深沢里大仏堂事始也。僧浄光尊卑の緇素に勧進令め、此営作を企てると云々。

訳しますと、僧の浄光が諸国の大勢の人に協力を求め、浄財を集めてこの製作を計ったということです。

●仁治二年(一二四一)三月二十七日条(中)又深沢の大仏殿同じく上棟之儀有りと云々。

この日に大仏の建物の棟上式があったことがわかります。当初は、奈良と同じく大仏殿の中に入っていたことが、礎石以外でも確認できます。

●寛元元年(一二四三)六月十六日条未刻小雨雷電、深沢村に一宇の精舎を建立し、八丈余の阿弥陀像を安んず。今日供養を展ず。導師は卿の僧正良信、讃衆十人、勧進聖人浄光房、此六年之間、都鄙を勧進す。尊卑奉加不は莫し。

深沢村に寺を一つ建て八丈余(八十尺、約二十四bで立ってる姿をいうのでここのは座っているので約半分。)の阿弥陀像を安置し、今日開眼供養を行った。主たる坊さんは良信で共は十人だった。

仏との結縁を呼び掛け浄財を集めて歩く坊さんの浄光がこの六年の間都会も鄙びた村も廻って集めたので、偉い人も貧しい人も寄付しないものはなかった。

と記されていますので、建立式を始めてから開眼供養まで丸五年、足掛け六年が係っています。

しかし、この時は「東関紀行」によると仁治三年(一二四二)八月には木造であったことが記されています。但し、同書には「釈迦如来」とあり、別物かと思われますが、今の所阿弥陀の間違いだとされています。

実物を正面から見上げますと、全体のバランスがよく、端正なお顔に仕上がっており、晶子をして「美男におはす」と唸らせたことが感じられます。しかし、実寸を調査すると下半身に比べ上半身がかなり大きく造られています。作者は、初めから出来上がりを下から見上げた場合の遠近感を計算して作成している訳です。

像の高さは十一b三十九a、像に横継ぎの線が見え、一度に鋳造した訳ではなく、何回かに分けて下から順に鋳継いでいった訳です。

継ぎの部分には、「いからくり」といい、

図一の胴体の継ぎに下段の上縁を噛み加える方法や、

図二は立ち上がり部分の下段の縁に小穴を穿ち鋳継ぐ方法、

図三は肩等に二方法を併用するといった方法を用いています。

  図の一 図の二 図の三    

なお、最近の発掘調査の結果、上の礎石図のように、伝説どおり六十本の柱で大仏殿が建てられていたことが判明しております。

これによると、正面は二十七尺(約8.2m)そして左右に二十二尺(約6.7m)の間が二つ、そして十五尺の回廊状の廂か、裳腰があったものと思われます。

背中には窓が開いていますが、内型を支えた土を抜いた後とも云われます。

大仏を出たら、表通りを南へ50mほどで、左の先ほどの道へ入りましょう。一般観光客の方々は、表通りを歩きますが、我々鎌倉慣れした一向は裏通りを選びます。路地を南へ抜けていくと、長谷大通りのコロッケ屋さんの脇に出ます。左へ曲がり、次ぎの消防小屋から左へ曲がりましょう。突き当たりに神社があります。

八、甘縄神明神社

神明さまですから、伊勢神宮の別宮で、祭神は天照大神だが、色々な神様が合祀されています。

伝説では、和銅三年(710)行基の草創で、染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建立、後に平忠常の長元の乱平定に赴任した平直方がその子孫を娶ったが、乱を平定できず解任された。

新たに朝廷から乱平定を命じられた源頼信が関東へ下ってきた。その息子頼義の射芸に惚れた直方は、頼義を娘婿にしました。その頼義が子供に恵まれず、この甘縄神明神社に祈ったので、かの有名な「八幡太郎義家」を授かったと謂われます。

時代は下って鎌倉時代になりますと、この社前に藤九郎盛長が居住し、将軍が正月初めて外出する「御行始め」には、頼朝は必ず藤九郎盛長の屋敷へ来て、この甘縄神社にお参りをするのが恒例の行事でありました。

なお下ると、執権の北条時頼の母「松下禅尼」や、北条時宗の妻は、安達氏の出自であります。それらの伝承からだと思いますが、境内の井戸は北条時宗産湯の井戸と謂われます。

では、後は鎌倉駅まで歩いて解散としましょう。

 

参考図書:

 「新訂増補 国史大系 吾妻鏡」・黒板勝美 編輯・吉川弘文館 発行

 「鎌倉辞典」・白井永二 編・東京堂出版 発行

 「鎌倉史跡辞典」・奥富敬之 著・新人物往来社 発行

 「鎌倉の史跡めぐり」・清水銀造 著・丸井図書出版 発行

 「かまくら子供風土記」・鎌倉市教育研究会 編集・鎌倉市教育委員会

 「吾妻鏡」・龍粛 役注・岩波文庫 発行

  

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