歴散加藤塾 史跡廻り第四十三回 鎌倉の紅葉を歩く 平成廿一年十二月六日  引率説明 歴散加藤塾 主催 @塾長 

 

目次  一、一、宇都宮稲荷と幕府跡碑   二、筋替橋   三、関取場  四、永福寺   五、獅子舞谷

    六、天園ハイキングコース   七、十王岩  八、朱垂木やぐら  九、太平寺

鎌倉の紅葉といえば、公称二千本の獅子舞谷です。今年もきっと綺麗に色づいてくれているものでしょう。

鎌倉駅を東口へ降りたら、駅前の広場を突っ切って若宮大路まで出ましょう。

一、若宮大路

この若宮大路は、鎌倉に住んでいる人も、訪れる観光客の我々も南北にまっすぐだと思い込んでおります。しかし、地図を見ると東へ傾いていることが分かります。

京都では、比叡山と東山とを直線で結ぶとほぼ南北にとおっており、その線に沿って、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西路の一条大路を築きました。

鎌倉では、天台山と衣張山とを結び、その線に沿って十王岩から南へ四百六十丈の処に三の鳥居前の横大路を設定し、鶴岡八幡宮の南境とし、これにあわせて若宮大路を一直線にしました。このため、若宮大路は27度東へぶれているのです。

これにより、頼朝は京都の街づくりに習い、八幡宮を内裏にみたて、朱雀大路をまねて若宮大路をこさえたと謂われます。

発掘調査の結果、二の鳥居あたりで幅十一丈(約33m)両端には幅一丈(3m)深さ五尺(1.5m)の堀が造られていたそうです。堀の向こうには背丈以上の土が盛られ土塁のようになっており、屋敷は皆、背を向けていたようです。

若宮大路を横切ることが出来るのは、上の下馬橋、中の下馬橋、下の下馬橋の三箇所だけが通れたようです。下馬とは、敬うべき神社仏閣、貴人の前では馬から降り礼を尽くすのがしきたりなのです。

二、段葛

若宮大路整備時に、当時は未だ海水面が高かったので、堀道にした大路はぬかっていたと予想されます。神様が社へこられる道、或いは儀式の参詣路として、中央に川原石を敷いたのが始まりと思われ、後に両を葛石で固め土を埋めて一段高くしたものと思われます。

左の写真は、明治初年頃の写真ですが、葛石こそはっきりしませんが、段葛の高さは現在同様に一段高く感じます。

この段葛を歩いてみると面白いのは、段々道幅が細くなっていくのです。二の鳥居のあたりで6.5mあるのに、中間の信号の場所で5.5m、三の鳥居前の出口では4.5mしかありません。ダヴィンチよりもずっと昔に既に遠近法を用いているのです。

一説に、仮想敵国の平家が攻め来たときに上と下とで矢合わせになった時、距離感を惑わせるためとも、神社への道が遠く見えることにより、より荘厳に感じるとも謂われます。

信号を渡ると三の鳥居です。

三、源平池

橋の下の池を源平池といい、その謂われは「一説には初め双方とも島が四つだったのを、政子が日の昇る東の島を三つにして、産につづくので源氏とし白い蓮を植えさせ、日の沈む西側を死につながる四つにし、平氏の旗印と同じ赤色の蓮を植えさせたという伝説があります。

池に沿って、休憩所の脇へ出て、北側の流鏑馬道を東へ出ましょう。突き当りを右へ出ると信号が有ります。

四、筋替橋

この地から東への道を「六浦道」とも金沢街道とも呼ばれます。古道を歩く会「下の道壱」では、この道を朝比奈切通しを通って、金沢八景まで歩きました。

この街道は頼朝入府以前からの道で、このまま西へまっすぐ寿福寺の前へ達していたそうです。つまり寿福寺の地は六浦道と武蔵大路の出発点源氏屋敷の地だったのです。

京都では、比叡山と東山を結んだ線と平行に、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西に一条大路があります。鎌倉では、天台山と衣張山を結んだ線に平行に、十王岩から四百六十丈の処に横大路として、若宮大路を南へ引いたので、27度ずれております。この横大路の北に八幡宮を祀りましたので、六浦道の道筋をここで63度曲げたのです。そして、この道路の下を西御門川が流れ、架けられていた橋が「筋替橋」なのです。

ここから、東を見ると北側には大倉幕府の泥築地の塀が続き、南側には政所別当大江広元の屋敷、事実上の常陸支配者八田知家の屋敷、そして秩父党の希望の星、畠山重忠の屋敷が並んでいたようです。

やがて、現在の分れ道の信号を渡ると左に道があり、「関取場」の石碑があります。

五、関取場

戦国騒乱時代の天文十七年(1548)に小田原北条氏が関を儲け、通行税として関銭を取上げ、これを荏柄天神社の造営に当てたとのことです。麻紙布類の荷物は十文、乾物馬は5文、人の背負い物は三文、運送屋の馬は、一頭十文、往来の僧、俗人、里人は無料だったようです。

左の路地は、頼朝が建立した永福寺へ通じる「二階堂大路」なので、ここが本当の分れ道なのです。北側の発掘調査では、南北に列の柱穴が並んでいますので、挟み板の塀があったのかもしれません。先へ進むと荏柄天神の参道と交差し、やがて鎌倉宮の脇へ出ます。

六、永福寺

四、永福寺

先へ進むと右側に大きな石を積んだ家があります。このあたりは小字を「四石」と云い、永福寺の総門があったところといわれます。左にテニスコートを眺めながら進むと「史跡永福寺跡」の石碑や史跡案内板があります。ここの左一帯は、頼朝が奥州征伐を終え、平泉の中尊寺や毛越寺・無量光院などの文化に感激し、治承寿永の源平合戦や木曽義仲・義経・奥州合戦で滅びた泰衡や多くの将兵の御霊を供養するために、建物は中尊寺の大長寿院、庭は毛越寺を見習い建立した浄土庭園の永福寺の跡地なのです。

道を先へ進み、二階堂川にそって左へ曲がり、左の民家の先まで行くと発掘調査を終え、埋め戻した野原になっています。

ここから西側に山を背に真ん中に裳腰付の二階建てに見える本堂(釈迦堂)、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂と並び、その間を氏の平等院のように回廊で結び、左右の堂からは、手前へ回廊が伸び、その前に北のはずれから南のテニスコートまで池が作られ、その優美な姿を水面に映していたことでしょう。

空き地の出入り口の金網の所からは、北側手前には二階堂川を堰き止め、水を引き入れていた鎌倉石の樋が、北側奥には鑓水の跡も発掘されております。

その絢爛豪華な永福寺も今では草むらとなっています。

 武士の夢 今はすすきの 永福寺

二階堂川に沿って、上流へと歩きましょう。

やがて人家はなくなり、道は未舗装の砂利道となり、その砂利も消え、いつの間にか山奥へと入ってきてしまいます。ひたすら山道を細流伝いに辿っていくと、両側が屏風のような岩の切り立った場所へ行きます。

五、獅子舞谷

昔、切り立った崖の上に、飛び出した岩が、頭をもたげた獅子舞の獅子頭のような趣だったところから、このあたりを獅子舞谷と呼ばれました。

今ではそれも崩れ落ちて、どれが獅子頭やら分かりません。しかし、良く見るとどうやらここも、切通しとして削り作られたような気がします。この道は、鎌倉を抜けて磯子や上大岡のほうへの間道だったようです。江戸時代から大正時代には、湘南方面からお灸で有名な峰の薬師への通い道だったそうです。

道際の水路がなくなり、坂がだんだんきつくなり、露出した泥岩を登ったとたんに、地面いっぱいが黄色い銀杏の絨毯になっている林まで上がれば、そこはもう紅葉の森です。

太陽の逆光に色づき始めた紅葉は、一枝で緑から黄色、黄色からオレンジ、オレンジから赤とグラデーションに輝くのを蜀江錦からとって、塾長は「錦の紅葉」と名付けております。

太陽を背にして、真上を見上げれば、そこは別な美の空間です。

錦の紅葉を堪能したら、一気に尾根まで急坂を登ります。

上りきれば天園ハイキングコースへ出ます。右が瑞泉寺方面、左前方は茶屋の脇へ出て、そこから右なら金沢文庫方面へ、左へ茶屋の前を登り右へ行けば、北鎌倉方面へ出ます。

直ぐ左脇の岩を登って、鎌倉の海から江ノ島方面の眺望を楽しみましょう。

八、六国峠見晴らし岩

かつて、この頂上から左に安房・上総・下総、正面に伊豆、右には武蔵、天気がよければ富士山の駿河まで見えると、六つの国を見渡せることからその名が付けられました。

現役を引退した東郷平八郎が逗子に住んで、このあたりまで良く散策をして、あまりの眺めのよさから「天園」と名付けたそうで、今では天園ハイキングコースと言われます。

北へ向かい峠の茶の脇を上り詰めたら、セメンのぶんながし舗装を下ると右にゴルフコースのティーグランドが見え、左にトイレがあります。

その先のゴルフ場の裏の広場で昼食にしましょう。

昼食が済んだら、先ほどの獅子舞口交差点まで戻り、瑞泉寺方面へ歩きましょう。

しばらく歩くと、岩を削った小さな切通しを降りると、左側に小さな新しいお地蔵様に花が上がっています。その向こうの壇上に古い石のお地蔵様がおられます。

九、貝吹地蔵

時は元弘三年五月二十二日、稲村ガ崎から進入した新田軍は、鎌倉中に火をつけて周り、追い詰められた北条氏は、菩提寺の東勝寺で腹を欠き切って果てたのです。

しかし、戦に巻き込まれた身分の低い下っ端たちや、一般庶民はそれらの戦禍から逃れようとしても、放火の煙があたり一面に立ち込めまして、方角もままならず惑うのであります。

そんな折、何処からとも無くほら貝の音が鎌倉中に鳴り響きました。

修験のほら貝ならと、その音を頼りに尾根道に登り、ここまでたどり着いた人は、やっとの思いでここから尾根伝いに峰へと向かい、横浜方面に避難する事が出来たのです。

やがて戦が終わり、助かった人々が、戦禍に巻き込まれてしまった人や、戦で戦って死んだ多くの霊を慰めるために、お礼の意味でここに石地蔵を建立したそうです。

それが、貝を吹いてくれた人のおかげだ。が、いつの間にかお地蔵様が貝を吹いてくれたのだ。と法螺を吹かされてしまいましたとさ。

山道を先へ歩くと所々にやぐらが有りますので、気をつけてみましょう。

やがて、右側に鉄線の柵の向こうに建物がみえるので、足元に注意すると石標があります。

石標には「北條家御一門御廟所」とあります。脇の山へ入っていくとやぐらが沢山並んでいます。新田義貞軍の猛攻に北條氏は、菩提寺である葛西谷の東勝寺に集合し、一族八百数十人が寺の火をつけ、その中で折り重なるように自害したと伝えられます。その火葬骨をここへ埋葬したと伝えられます。

元の山道へ戻り進み、T字路に突き当たったら左へ歩きます。

藪をかき分けるように進んでいくと、右の後ろ上に石塔が見えます。大江広元の墓と伝えられる石塔です。この石塔があるので、この地を「塔の峰」と呼ぶそうです。

なお、先へ下って進み、ちょっと登った所に鳥居の立った小さな祠が祀られています。

十、初弁天

江戸時代に鎌倉・江の島詣でが流行ります。

東海道を下ってきた人が、保土ヶ谷宿の金沢横町から下の道を歩き、金沢八景から朝夷名切通しを抜け、最初にここの弁天様を拝みます。それから鎌倉内の八幡宮、銭洗いなどの弁天様を拝み回り、終りに江の島の弁天様を拝んだそうです。

後は、一気に下ります。下りきると右側に茅葺があります。

十一、明王院(真言宗・飯盛山寛喜寺明王院五大堂)

明王とは、不動明王を中心とし、東に降三世明王、南に軍荼利明王、西に大威徳明王、北に金剛夜叉明王を配する密教の世界です。

承久元年(1219)源氏三代の将軍が絶え、政子・義時相談の上、京都九条家左大臣道家からわずか二歳の三寅を貰いうけ、元服の後に将軍につけたのが頼経。尼将軍や義時、そして泰時の傀儡将軍として奉られてきた頼経が思い立ち、嘉禎元年(1235)六月開山されました。五大明王に祈るのは、悪魔降伏・安産・戦勝・息災なのですが、いったい何を祈るために建立したのでしょう。前年の七月には御台所の竹御所が難産で亡くなっております。竹御所は、二代将軍頼家の娘で、泰時が将軍頼経の妻としたのです。複雑な権力者達の思惑が絡み、謎は深まるばかりです。

茅葺屋根の不動堂が本堂で、庫裏も落ち着いた感じです。古都の寺にふさわしい、良く手入れされた庭を味わってください。

  

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