第四十四回歴散加藤塾            山内へ梅を見に行く         平成廿二年三月十日十四日 

引率説明  歴散加藤塾 主催 @塾長

 目 次   一、東慶寺 二、縁切寺法と川柳 三、東慶寺鐘楼 四、浄智寺 五、亀ケ谷坂切通し 六、岩舟地蔵 七、底抜けの井戸 八、源翁和尚伝説 九、海蔵寺

 鎌倉の春は、瑞泉寺から始まり、東慶寺で終わる。南に山を背負った東慶寺は寒い。

寒いからこそ鎌倉で一番最後まで梅が咲いている。

寒さに耐えたからこそ一段と輝いて咲くのでしょう。

   寒い冬乗り越え咲いた梅の花 心を込めて愛でてやらねば   塾長

歩く☆北鎌倉駅前から、信号で県道を渡り、交番の前から土手に沿った道を東へ歩きます。 この土手は、円覚寺の土塁でここまでが円覚寺の境内なのであります。

この土塁に沿った県道の東西には木戸があり、参拝者などの関係者以外はこの裏道を通りましたので「牛馬の道」とも呼ばれます。東側で県道へ戻りましたら、県道の右端を鎌倉へ向かって歩きましょう。横断信号の場所で右に寺があります

一 東慶寺(臨済宗円覚寺派・松岡山)

 蒙古襲来で大河ドラマにもなった北条時宗、その奥さんで安達泰盛の妹が北条時宗の死後、出家して覚山志道尼と名乗ります。

 覚山志道尼は、世の女性たちが不幸な結婚をして旨くいかず、いかに夫と別れようと思っても、当時の離婚は男のほうからしかできませんでした。そのため、世を儚み思い余って自ずから命を縮めてしまうようなこともあろう。なんとか、そのような薄幸な女性を救えないものだろうかと思いついたのが、離縁を望むものは、寺に入り三年の間勤めれば、俗世のままに縁を切れことができる縁切り寺法だといわれます。

 覚山尼は、息子の執権北条貞時にその寺法を願い出て、時の天皇の勅許を得、寺法は確立されたと伝えられます。 開山は覚山志道尼、開基は北条貞時です。ただし、文書的には江戸時代のものばかりですが、素直にその覚山志道尼の心根に感激しましょう。

二、縁切寺法と川柳

 その、寺法が有名になるのは、なんといっても江戸時代の川柳が物語っておりますので、川柳で江戸から鎌倉入りまでをたどってみます。

 実は、東慶寺と呼ばれるよりも「鎌倉」とか「松ケ岡」の呼称の方が有名だったようです。

     出雲にて結び鎌倉にてほどく

これは、出雲大社が縁結びの神様なのと対比的にかけております。

 さて、当時の結婚は殆どが親が勝手に決めたところへ嫁ぐわけですから、相手の善し悪しなんぞ、一緒に暮らしてみなけりゃわかりません。その嫁に行った娘の一人でしょうが、理由はともかくほとほと愛想が尽きたのでしょう。

     鎌倉へ行くと火箸で書いて見せ

実家へ行った際に、火鉢をはさんで母親にそっと声なく覚悟を告げたものでしょう。しみじみとした母娘二人の悲しみがホロリと伝わってきます。

     鎌倉へ嫁歩いても歩いても

家を飛び出したら、ひたすら鎌倉を目指して歩くわけですが、江戸から鎌倉へは十三里  (52 km)もありますので、いくら歩いてもちっとも進んでいないと気がもめたものでしょう。

やがて四里(16 km)歩けば、六郷の渡しで向こう岸は川崎です。

     六郷でおあしがないと困ってる

あわてて飛び出しては来たもののへそくりを持って来るのすら忘れたのでしょう。

 川崎宿・神奈川宿とを抜け、保土ヶ谷宿のしまいは「権太坂」を上ります。坂を登りきり、ほっと一息つくと、境木地蔵で名物の焼餅を売っております。そこから信濃一里塚への下りが「焼餅坂」と難所が続き、明け六つに飛び出してきて、もう日も傾いてきて疲れも出てきて足も遅くなります。

     運のなさ焼餅坂で追いつかれ

残念ながらここまで逃げて来ていながら捕まってしまった方もおられたのでしょう。

 なんとか戸塚宿まで来れれば、吉田大橋の手前で左折して柏尾川の堤防沿いに進み、倉田・豊田・飯島を経て鼬川で鎌倉古道中ノ道といっしょになり大船の笠間へ出ます。

女房の旅は亭主と離れ山

今では山も削られたり住宅化していますが、離山地蔵にわずかに名が残ります。堰水橋で左へ折れ円覚寺前の牛馬道をぬければ東慶寺はもう目の前です。

 慣れない旅で十三里、あたりはすっかり暮れてしまっております。

暮れ六つの鐘とともに東慶寺の門も閉ざされておりますので、ぐずぐずしていると追っ手に捕まってしまう。どうしたものかと途方にくれてしまいます。

そこで寺法に、時間外などは本人が入れずとも、簪でも、帯止めでも、身に着けているものを放り込めば入門したことになる定めがありますので、あわてて何かを放り投げます。

     泥足で玄関へ上がる松ケ岡

 何も持っていなかったとみえて、思いついて草履を投げ込んでしまったようです。

うまく、たどり着いた人はホッとする場面でしょうが、中にはあわて者もいて、

     うろたへた女五山をあっちこち

殆ど、鎌倉中を走り回ったようです。又、建長寺へ飛び込んだ女性は、

     建長寺うろたへ女叱られる

東慶寺へ入った者は、落ち着いて安心したと見え急に気が強くなり、開き直っています。

     くやしくば尋ね来て見よ松ケ岡

 さて、三年の修行が始まるのですが、出家をする必要は無く、在世のままで寺の作努を果たします。出家をすれば、その時点で俗世と縁が切れるわけですから、何も東慶寺には限りません。このあたりが他の寺とは違う特権も持っているのです。

 実は、五世の用堂尼は、三年の長きは余りに不憫と「足かけ三年」つまり二十四ヶ月とします。それでも、世間と縁を絶っての月日ですから、色々と思い出すことも多いでしょう。あれもこれもと、出てくるのは愚痴ばっかりです。

     愚痴無智の甘酒造る松ケ岡   蕪村

しかも、駆け込んできた理由は、皆亭主とのいざこざばかりです。

     松ケ岡似た事ばかり話し合い

そればかりか、ついかっとして飛び込んでは見たものの、置いてきた子を思い出せば、

     松ケ岡あわれもる乳を鉦に受け

乳飲み子を置いてきたのでしょう。乳が張って仕方が無いので、やむなく金盥なぞに受けているのでしょうが、なんとも置いて行かれた子供の不憫さが沁みてきます。

落ち着けば、寺務を努めるわけですが、これにも格式がありまして、

 一、上搶O ・仏殿に花をあげたり、来客の挨拶など院代様のそばに勤める。

 二、御茶の間・お座敷や方丈の掃除をしたり、食事の調味・来客のお給仕など。

 三、御半下 ・ご飯を炊いたり、洗濯をしたり、庭の草むしりなど下働き。

寺入りの際の冥加金の額によるものらしいです。お寺ですからお経も習うわけですが、

     経文にかなづけをする松ケ岡

一般庶民の教育水準は決して高いものではなかったようです。

「針仕事出来申さず候はばならひお仕立ていたし候事」の規則もありますので、

裁縫は、習い覚えてでもしなくてはならない、仕事のようでした。

     針売りも折々はひる松ケ岡

たまには、針売りの男性が寺内に来るので、中にはそわそわする女性も居たのでしょうか、冷やかし半分の川柳ですね。

     松ケ岡ちょっとはじくは納所ぶん

商家のご婦人か、見習い奉公で覚えたのか、算盤の達者な人もいたようです。

 こうした人助けの寺法ですが、悲しい身分の人ばかりとは限らず、悪用する人間も現れ、

     間男を連れて相模へ逃げて行き

なんて、とんでもない女性もいれば、そんな目的で我慢したのに、

     三年のうちに間男気が変わり

と、がっかりする悪銭身につかずの女もいたようです。

 では、拝観料を納め、見学をさせていただきましょう。

山門をくぐると両側に梅の古木が並び、今を盛りと梅の香りを漂わせております。

三、東慶寺鐘楼

左側にかやぶき屋根の鐘楼が見えます。大正五年の建築だそうで、関東大震災以前の建物はこれだけです。鐘は材木座の補陀落寺にあったものだそうで、元々東慶寺にあったはずの貞時夫人製作の鐘は、現在伊豆のくに市韮山の本立寺にあるそうです。

 いきさつははっきりしませんが、小田原北条氏の時代に早雲が寺分の大慶寺の鐘を、氏康が浄智寺の鐘を持っていったとの伝承がありますので、大差はないものと思われます。

 鎌倉時代鋳造の鐘は、すんなりとスタイルが良く、女性的です。

先へ進むと、右側に本堂があり、本尊は釈迦如来像(寄木造り玉眼入り)です。

 本堂を出て突き当たりには金銅の阿弥陀様、後ろの畑は明治神宮から株分けして先代・当代住職一家がとリュックで背負ってきた花菖蒲です。

松ケ岡宝蔵の前を過ぎると右側に大きな岩壁があります。小さな葉は岩タバコで梅雨の時期には五寸(15cm)にもなる紫の花をつけます。

 その先、右の石段を上がると中先代の乱で殺害された護良親王の妹で五世の用堂尼の墓、隣が開山覚山志道尼墓と並ぶ石塔は歴代住職の墓です。

 

 ひときわ大きいのは、豊臣秀吉の孫、天秀尼の墓です。天秀尼(左絵)は秀頼の娘ですが、千姫の養女として大阪落城のおり、一緒に助け出されます。しかし、豊臣の血を引くので不逞の輩に担ぎ出されかねませんので、苦慮した家康は出家させ東慶寺へ入寺させます。

 その際に、何か望みをと言われ、東慶寺に伝わる縁切り寺法を絶やさぬようにお願いをし、東照權現様お墨付きの寺法となり、その力は江戸時代に発揮されました。

他にも、鈴木大拙、西田幾太郎、岩波茂男、高見順、大松博文等の墓もあります。

 東慶寺を出たら、道路際の右の黒格子戸の建物は江戸時代の御所役所を模倣しています。バス道を鎌倉方面へ向かって、一町半(150m)程で、右へ曲がります。

 

 

正面に総門とそれに続く、鎌倉石のゆるい階段が静かな雰囲気をかもし出しております。

 

 

四、浄智寺(臨済宗円覚寺派・金宝山)

まず池があり、古い石橋で結界を結んでおります。池の左に鎌倉十井のひとつ「甘露ノ井」が今でも綺麗な水を湧き出しております。

総門には、無学祖元(仏光国師)の筆「宝処在近」の額が掲げてあります。

 人というものは、今自分の置かれている境遇を良しとせず、とかく他へ行ってみれば、きっと未来も開けるだろうと羨ましがるばかりである。それは、己を理解していないからで、何処にいようとも、己を知り、世の中を悟ればそこが一番の場所となる。悟れさえすれば、宝の処は近くに在りとなる。意味は分かっても実感としては遠い話ですね。

緩やかな鎌倉石の階段が造る参道は、古寺の面影を語る鎌倉絶景の一つです。かつての山門跡とおぼしき所の受付の先に珍しい二階建ての鐘楼門があります。

本堂前の広場の三本残っている白槙が、過去の仏殿の跡等を思わせ、往時の寺格の大きさと時の流れによる衰退をも物語っております。

本堂の曇華殿には、左から阿弥陀、釈迦、彌勒の三仏が過去現在未来をあらわし三世仏と云われます。三体ともよく似ており見分けがつき難いのですが、手の組方が違っていると云います。又、裳裾が流れるように垂れ下がっているのは宋風様式を伝えています。

本堂脇を入ると左に鎌倉で一番古い槙、右には沙羅の樹が見えます。

順路に従って進むと本堂裏の左に鎌倉で一番古い高野槇の大木がり、丸い茎の孟宗竹と茎が四角い四方竹の林を抜けます。左手奥に、五輪塔や宝篋印塔の残決が積まれて居ます。五輪とは、仏教での宇宙の要素は、空風火水土の五つから出来ているとしています。

突き当たりの洞窟は、横穴井戸で掘削技術の確立していない時代の名残です。

順路に従い、鎌倉七福神のお一人「布袋和尚」のお腹を撫ぜながら、入り口に向かいの木戸から出て先ほどのバス通りへ出ましょう。

踏み切りを渡ると、けんちん汁の店があり、店の左脇の植え込みに「安陪の清明」の石碑があります。

治承四年、鎌倉入りした頼朝ですが、初入城なので寝るところもままなりません。そこで、

吾妻鏡には、治承四年(1180)十月小九日戊子。大庭平太景義を実施担当の奉行として頼朝様の家を造る行事の作事を始めた。但し直ぐの間に合わせられないので、当分知家事〔兼道〕の山内の屋敷を指定して、是を移転建築させた。この建物は正暦(990-995)の頃に立てられて未だに火災にあっていないのは、安部清明の家を守るお札を貼ってあるからである。

このように、当時の家は釘を使わず、パズルのような木材の組み方で作られておりますので、分解して運び組み立てれば家になってしまうわけです。それを「壊ち渡す」と云います。

先へ歩きましょう。暫く歩き、お土産屋さんの前を通過すると、右の土手の上に長寿寺の門がありますので、その先の角を右へ曲がります。ゆったりとした坂が上って行きます。

五、亀ケ谷坂の切通し

鎌倉七口の一つ「亀ケ谷坂の切通し」であります。切通しのうちでも一番古く、頼朝の鎌倉入りも、この切通しが推定されています。又、鎌倉からここを通り抜けるが、武蔵道で鎌倉古道中の道でもあります。

往時は、現在よりももっと高所を通っていたものと思われますが、鎌倉側は現在でも、かなり急な坂になっております。その名のいわれは、鎌倉からこの坂を登ってきた亀が、あまりの勾配におのれの甲羅の重みに耐え切れず、後ろへひっくり返ってしまったとの伝説があります。

坂を下りかけ、右の岩の途切れた所の石段の上がり口に、昔の水のみ塲の井戸があります。十四五年前までは、自然石を削った石段の脇に水が堪っていましたが、階段をコンクリに整備した際に半分埋められ、分かり難くなってしまいました。

坂を下り終えると、右の角に綺麗で新しい八角堂がります。

六、岩舟地蔵(海蔵寺管理)

頼朝と政子の最初の子供「大姫」の守り本尊のお地蔵様が、壇の下に埋められています。その、地蔵様の光背が上の先がとがった船の形をしている「舟形光背」をつけている石で出来た地蔵なので「岩舟地蔵」と称します。

さて、壽永元年に木曽で旗揚げをした義仲が父の旧跡を思い上州に進出してきたので、頼朝は大群を率い対峙し裏切り者の新宮行家の引渡しを要求します。

むざむざ、叔父を殺されるのを分かっていて引渡すことも出来ず、不利を悟り、息子の義高を大姫の婿として人質に、差出しました。

大人ばかりの中で話のあう相手と出会いすっかり馴染んで、いつも義高の後を追いかけている大姫でした。しかし、義仲が後白河上皇の不興をかって、義経に打たれた際に頼朝は将来の恨みを心配して義高を殺させてしまいます。愛する人を父に殺された大姫は、すっかり人が信じられなくなって病がちになってしまいます。

ここで、源氏の頼朝と木曽義仲の関係を話しますと、頼朝の父義朝の弟が帶刀先生義賢と云い、その子が木曽義仲なの、ですから木曽義仲は頼朝の従兄弟に当ります。大姫と義高は又従兄弟に当るわけです。

右の大姫も、下の乙姫も、北条時行ファンの狭雲月記念館の高遠彩華さん提供

 

                                ┌義朝ー頼朝ー大姫

 清和天皇ー貞純親王ー経基王ー満仲ー頼信ー頼義ー義家ー義親ー爲義┤

                                └義賢ー義仲ー義高

そして義仲の父義賢は、武蔵嵐山の大倉館で、秩父一族と三浦一族の覇権争いに巻込まれ頼

朝の兄義平(母は三浦大介義明の娘)と三浦次郎義澄の軍勢に夜討をかけられ、秩父重隆と共に殺されているのです。それから義平は、叔父殺しの武勲から鎌倉悪源太義平と呼ばれるのです。

さて、大姫の話の続きなのですが、愛する許婚を父に殺され、何も信じられなくなった大姫は、今で言ううつ病になったしまったのであります。

吾妻鏡では、逃げていく義高に追っ手がかかったのを知って「姫公、周章し魂を銷し令め給ふ。」 現代語では、姫君(数年七歳)はあわてて魂を消すほど打ちしおれてしまいました。また、義高が討ち取られたことを知った時を「愁歎之餘りに漿水を断た令め給ふ。」とあり、現代語では、嘆き悲しみの余り、水さえも喉を通らなくなりました。と表現されております。

鬱々と悲しみと病の日々を送る大姫ですが、数えの十七歳の頃に、京都の従兄弟「一条高能」が遊びにやってくると、母の政子は彼との縁談を進めます。それを聞いた大姫は、「義高様を慕っている心を知りながら、そのような勝手な事をするのなら、深い水の淵に沈んで死んでやる。」と母を脅迫する始末でした。

やがて、その大姫にも頼朝の野心で入内の話が進められ、全てをあきらめ悟った大姫は京都へ向かうのですが、建久八年(1197)七月十四日旅の途中でその生涯を閉じてしまいます。

推測ですが、きっと鳥辺野あたりで荼毘に付され、鎌倉へ悲しみの帰還となり、恐らく大御堂の地に葬られたものと思われます。

では、何故大姫の持仏と謂われる地蔵菩薩がここに埋められたか推理してみましょう。

頼朝と政子の間には四人の子供があったのであります。上から、大姫、頼家、乙姫(三幡)、実朝だったのです。

叶わなかった大姫の入内の替わりに、次女の乙姫に白羽の矢が立てられたのでした。

吾妻鏡では、彼女の出演は少なく、頼朝の死後入内の準備中に病にかかったところからです。

建久十年(1199)三月五日。先の将軍頼朝の娘の乙姫がこの前から熱の出る病気にかかっています。かなりの重症なので母の政子様は、神社に祈願をし、寺々に経を読ませております。

そして、京都から名医の丹波時長を呼び、治療に当たらせます。

特効薬といって五月八日医師は、乙姫に朱砂丸と云う薬を飲ませます。この薬のおかげか一時は、回復して食事も取れた乙姫だったのですが、十四日になって衰弱してきたうえに、目の上が晴れ上がってしまいました。

これを見た医者は、「人力の及ぶところにあらず」とさじを投げてしまい、神頼みより他に打つ手がなくなってしまいました。

そして、六月三十日午の刻(昼の十二時)、とうとう遷化してしまいました。

その夜の戌の刻(午後八時頃)乙姫の亡骸を乳母夫の中原親能の亀谷堂の傍らに埋葬しました。又、七月六日に姫君の墳墓堂で初七日の法事を行っています。

この記事から、亀谷堂は、中原親能の屋敷内と思われるので、きっとその墳墓堂の地がここであったろうと思われます。先祖の墳墓から離れた地に埋葬された乙姫の寂しさをなだめるために、母の政子が姉の大姫の持仏を一緒に埋葬してあげたのではないかと考えております。

時代の流れとは云え、あたら青春を政治の道具として散っていった薄幸の姉妹と、おのれよりも先に娘達に先立たれた母の苦しさを、感じないわけにはいきません。これによって政子はすでに二年前に長女を亡くし、今年の一月に夫を、そして六月に次女を失いました。

しかもこの後、長男が伊豆で殺され、次男が孫に殺されるという悲劇が待っていることを政子は未だ知りません。こんなに肉親を失う苦しみを受けた天下人が他にありましょうか。まるで、何者かに呪われているように。それでも承久の乱では必死に御家人を励まして守った鎌倉幕府、自分達東国人が作った鎌倉幕府こそが、政子にとって一番の子供だったのではないでしょうか。

お堂の前を右へ曲がり、暫く歩くと正面に海蔵寺があり、その右側に井戸があります。

七、底抜けの井戸

安達泰盛の娘で幼名を千代野、長じて金沢氏に嫁ぎ、夫に死別して出家し、無学祖元(仏光国師)の門弟となります。無外如大尼と称し、後に大悟した時の一句といわれるのが、

     千代野ふがいただく桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらじ  です。

他にも、名所都鳥には千代能は金沢顯時の娘、足利貞氏の妻で無学祖元の弟子とあり、場所も山城国愛宕郡千代野が井の話として書かれ、別の場所としています。

     とにかくにたくみし桶の底ぬけて 水溜らねば月もやどらじ

また、江戸時代の豪商万屋の次男百井塘雨の「笈埃随筆」には、京洛北本隆寺の千代能が井戸としており

     兎に角に工し桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらじ

と書かれ、「一説に千代能がいただく桶のとも聞ゆ」とあります。

寺の入口に石碑があり、開山は源翁和尚とあります。

八、源翁和尚伝説

 昔、玉藻前と呼ばれる絶世の美女がおりました。最初は藻女(みずくめ)と言われ、子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ、美しく成長しました。

十八歳で宮中に仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となりましたが、次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなりました。

しかし玉藻前と契りを結んだ後、鳥羽上皇は次第に病に伏せるようになり、天皇家お抱えの医者が診断しても、その原因が何なのかが分かりませんでしたが、陰陽師・安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)によって病の原因が玉藻前であることが分かりました。その正体が九尾の狐であることを暴露された玉藻前は、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方を暗ましていました。

その後、那須野で婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてから九尾の狐退治を要請していた那須の領主須藤権守貞信の要請に応え、九尾の狐討伐軍を編成しました。

三浦介義明と上総介広常という武士を将軍に、陰陽師・安部泰成を参謀に任命し、八万余りの軍勢を那須野へと派遣しました。

那須野にて、すでに白面金毛九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍は、すぐさま攻撃を仕掛けましたが、九尾の狐の怪しげな術などによって多くの戦力を失い、最初の攻撃は失敗に終わりました。三浦介と上総介ら多くの将兵は九尾の狐を確実に狩るために、犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始します。

二度目とあって、九尾の狐対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいきました。最後の抵抗として、九尾の狐は貞信の夢の中に現れ、若い女性に化けて許しを願いましたが、貞信はこれを九尾の狐が弱まっているものと読み、最後の攻勢に出ました。そして三浦介が放った二つの矢が九尾の狐の脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えました。

でも、九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪いました。そのため村人は後に、この毒石を殺生石と名付けたそうです。この殺生石は鳥羽上皇が亡くなられた後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせました。鎮魂のためにやって来た多くの名僧ですら、殺生石の毒気で次々と倒されていったといわれています。

室町時代となったとき、会津・元現寺を開いた源翁和尚が、殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したといわれます。

玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后美福門院(名は藤原得子)であり、摂関家などの名門出身でもない彼女が権勢をふるって自分の子や猶子を帝位につけるよう画策して、崇徳上皇や藤原忠実・頼長親子と対立して、保元の乱を引き起こし、更には武家政権樹立の

きっかけを作った史実が下敷きになっているとも言われます(ただし、美福門院がどのくらい

皇位継承に関与していたかについては諸説あります)。

 

九、海蔵寺(臨済宗建長寺派・扇谷山)

その源翁和尚・心昭空外が、応永元年(1394)に足利氏定を開基に開いたと言われます。

正面を上ると、右に茅葺の庫裏、前が本堂、左側に薬師堂が並びます。

薬師堂の本尊は、別名「啼薬師」と称します。其のいわれは、寺の境内で夜な夜な赤子の鳴き声がするので、当寺の住職が不思議に思い探してみると、本堂の裏の墓地の方で声がする。近づいてみると地面が光っている。袈裟をぬいでそれへかぶせたら、ぱったり声が絶えた。翌朝、掘って見ると薬師如来の頭部が現れた。これは奇瑞の現れと新たに薬師如来を彫り、その体内に頭部を納めたので、泣き藥師と呼ばれ、お堂正面に御座します。

 薬師堂脇の縁台に腰掛け眺める庫裏のかやぶき屋根や本堂裏手のやぐらなど、静かなひと時を過ごすのにうってこいのお寺です。 薬師堂前から山門へ向かって石段を降りてすぐ右へ、小さな 案内に従って進むと、大きなやぐらの前へ出ます。

 

中は暗いのですが目を凝らして見ると地面に十六の水溜りがあり、正面には像があります。

足元を見ると今でもきれいな水が流れ出しておりますので、十六井戸と呼ばれていますが、実のところは何も分からず、謎だらけの洞穴です。

それでは、先ほどの道を戻り、横須賀線のガード手前を右へ曲がり、英勝寺、寿福寺の前までが「武蔵大路」、其の先が「今小路」と歩いてゆけば、市役所前の信号へ出ますので、左折して鎌倉駅となります。

  

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