第四十五回 歴散加藤塾 鎌倉史跡めぐり            大仏ハイキングコース         平成廿二年五月十日十六日・十九日

 一、天柱峰

 二、大掘切

 三、葛原岡神社

 四、日野俊基墓

 五、葛原ケ岡五叉路

 六、大仏ハイキングコース

 鎌倉の初夏の木々の木立の緑の光を浴びて、身近な自然を満喫しましょう。

円覚寺まえから線路にそって鎌倉方面へ歩き、踏み切り脇へ出たら、踏切を渡り大船方面へ戻りかけた最初の横断歩道を渡り、向かいの路地へ入りましょう。

 正面に浄智寺が有り、その手前に池があり古い石橋で結界を結んでおります。池の左に鎌倉十井のひとつ「甘露ノ井」が今でも綺麗な水を湧き出しております。

今日は、浄智寺へは入らず、舗装道路を谷奥へ向かいましょう。浄智寺の奥には、情緒の有る竹林の緑がまぶしい豪邸が並びますが、かつてはこの谷戸全体が浄智寺の七堂伽藍がと所狭しと並んでいたことでしょう。

左側の竹垣の門には「小倉」さんの表札があります。105歳まで長生きした日本画家の小倉遊亀さんのアトリエがトンネルの向こうにあります。

人家が消え、椿並木の山道を登っていくと、大岩の天辺に石造多層塔と石柱があります。

一、天柱峰

 ここが、浄智寺の最奥地で、石碑の「天柱峰」の字は、円覚寺先代管長の朝比奈宗源氏の筆でありまっす。多層塔は、昭和初年に銘木「金峰松」が枯れた後へイギリス人のサムソンが建てた鎌倉末期の住職で中国僧の竺仙梵僊の供養等です。

 伝説では、竺仙梵僊がこの岩の上に座禅を組んで、海を見ながら遥かな故郷を偲んだとも伝えられます。

先へ歩くと、世界遺産登録への事業らしく、険しいところには、女道をつけたり、尾根道に木の階段などを設けるなど備されてきました。余り手を入れると自然が消えると、怒る向きもあるが、実はハイキングコースは、手を入れないと人の通路で地面が削られてとても荒れてしまうので、やむをえない措置だと思います。  

 

東瓜ケ谷やぐら内部

 

二、大掘切

 階段を下りると、左側が開け、切断されたような石の壁があり、そのがけ下には海蔵寺の屋根が見えます。そして、右側にも深い谷が続いています。ここは、大堀切と名付けられ、一説には、縄文時代の猪落しとも、律令国家時代の幅12mの官道だと云う人も有り、鎌倉史研究家の間では、兵の展開を阻止するための尾根を切断した空掘りだとの説も有ります。

空掘り説では、この通り道のところだけを土を盛り上げた「土橋」で、いざ合戦の際には、土を海蔵寺側に落とし、遮断するのだとも言われます。

道を進むと、最近転落防止のために手すりが設けられました。

広場へ出ると右側に神社があります。

三、葛原岡神社

 後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社です。明治天皇が日野俊基に従三位を贈り、地元有志と全国の崇敬者の協力により明治二十年(1887)に創建されました。現在では由比ガ浜地区の鎮守として信仰を集めています。

この神社の境内に無患子(ムクロジ)の木があり、この木の実の種が黒くて硬く、羽根突きの羽の玉に使われます。

公園の広い道を南進すると、右側に大きな木に囲まれた墓石があります。

四、日野俊基墓

 鎌倉幕府を倒さんと、後醍醐天皇は画策をしますが、その主役は側近の両日野氏です。

一人が「日野資朝」、もう一人が「日野俊基」、正中元年(1324)の正中の変で二人供に捕えられ、鎌倉送りとなりますが、日野資朝一人が罪を被って佐渡送りとなり、俊基は許され京都へ戻されます。しかし、元徳三年/元弘元年(1331)に発覚した二度め目の討幕計画である元弘の変で再び捕らえられ、鎌倉送りとなります。

その当たりを太平記では七五調で叙情豊かに表現しております。

太平記巻第二 俊基朝臣、再び関東下向の事

落花の雪に蹈迷ふ、片野の春の桜がり、紅葉の錦を衣て帰る、嵐の山の秋の暮、

一夜を明す程だにも、旅宿となればに、恩愛の契り浅からぬ、我、故郷の妻子をば、

行末も知らず思い置き、年久しくも住馴れし、九重の帝都をば、

今を限りと顧りみて、思はぬ旅に出玉ふ、

そして、今度は罪を免れる事が出来ずに、ここ葛原岡で処刑されたのであります。

辞世の句は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」

砂利道を先へ進むと左側に自販機が並んでいますので、柵とチューンと区分された左の方へ進むと、頼朝さんの鎮座する源氏山公園へ出ますので、お昼にしましょう。

昼食の後は、先ほどの自販機の前へ戻り、来た方とは反対に左へ、右へカーブし、正面の舗装道路を昇ります。登った先が五叉路になっております。

五、葛原ケ岡五叉路

この交差点を塾長は「葛原ケ岡五叉路」と名付けております。

北は公園内へ、東は源氏山へ、南の階段は銭洗い弁天へ、西は梶原へ下り、西南への道が大仏ハイキングコースであります。

梶原への坂道は、古代の東海道とも言われ、下り坂に沿って何段も平場が階段状に続きます。この堅固さが、新田義貞の鎌倉攻めで主戦場として、義貞自身が指揮をして本隊が突入を試みたのですが、全く歯が立たず手が出せなかったのです。

そうこうする内に、極楽寺口を攻めていた一方の大将、従兄弟の大館宗氏の戦死により、稲村ガ崎への黄金の太刀の話となるわけなのです。

六、大仏ハイキングコース

 道は、ほぼ西側へうねりながら歩き、左へ曲がりかけたところで、左側の景色が開け、由比ガ浜が見えます。ほっと一息つきたくなる景色です。

道は南へ向かい人家はなくなり、自然の山道を感じさせます。Y字の交差点では、左は佐助稲荷への下り道ですので、右へ進みます。

時折、道の両側が盛り上がり、小さいながらも切通しになっていたり、両側が沢でいかにも土を盛ったような場所も有ります。

この大仏ハイキングコースは、鎌倉城の西城壁で、天園ハイキングコースが北城壁なのと同様、小山の尾根を切り開き、ミニ万里の長城のように、守備兵が行き来できる城壁だったので、先程の新田義貞の話が出てくるわけです。

上り下りを繰り返すうちに、左にバラセンがあり、右下に住宅が見え始めてきます。その先でかなり急な階段状に削られた泥岩を下ると、大仏ハイキングコースも終りで、標識の有る三叉路に出ます。右は、住友常盤住宅の一向堂公園へ、左が大仏への降り口です。

下る途中の右側に、木製の階段が作られていますが、これが昔の大仏切通し道なのです。

発掘調査の結果、明治時代に切通しに人力車を通すため、岩盤を削った後が出たそうです。

その後、トンネルが出来ると、その工事のため一部崩れてしまったので、この先の水道配水池建設で出た土砂をその手前に積んで通行止めとしてしまったようです。

一度は、何処かの団体が崩れた崖際に人一人やっと歩ける程度の道を着けてくれたのです。歴散加藤塾でも、平成十七年十月にここを通り抜けてきました。

恐らく、それを世界遺産関係で階段を整備したのでしょうが、やはり崖崩れが危険なので通行止めにしたのでしょう。

さらに下ると大仏への現在の道路が見えると同時に、右側へ長い石段が上っています。

ここで疲れた方は、そのまま道路に降りて、先へ歩くと大仏の脇へ出ます。(一次解散)

後は、江ノ電で鎌倉駅へ出ましょう。●表紙の地図の黄色い点線

元気な人は石段を昇りましょう。

石段を昇りきると、水道配水池施設が有り、見晴台が整備されています。

見晴台からは、極楽寺の谷が物静かに見えます。

ここから正面の、スロープを下っていくと極楽寺の稲村ガ崎小学校の脇へ出ますので、左へ行けば極楽寺の桜橋です。●表紙の地図の青い点線(二次解散)

後は、江ノ電で鎌倉駅へ出ましょう。

さらに元気な人は、見晴台の奥まで行き、草深い獣道を配水池施設の裏へ回り、山の中へ入っていきます。●表紙の地図の桃色の点線

獣道をたどって行くと、公園界の境界石沿いに道は続き、竹林の尾根では相当な急坂を登り、急傾斜地の境界石を見ながら進むと左へ曲がったところで、一升枡遺跡に出会います。

この遺跡は、20m×30m位の土塁に囲まれた屋敷地をなしています。しかも土塁の一部が南の極楽寺側道に向かって開いています。

屋敷にしては、水が不便なようですので、おそらく何らかの軍事施設ではないかと思われます。

当時は、周辺の木々は殆ど刈られていたでしょうから、見張り台の施設かもしれません。

その開いている側の道を下っていくと、やがて急傾斜地防護施設に突き当たるので、右へたどると階段が有り、正面に月影地蔵の屋根が見えます。

空き地に出て、家の前の路地を出たら右へ、そのまま進むと稲村ガ崎小学校へ出ますので、

直進して極楽寺の桜橋です。

後は、江ノ電で鎌倉駅へ出ましょう。

  

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