歴散加藤塾 第四十六回 鎌倉史跡めぐり 甘縄・長谷を歩く  平成廿二年十月十七日廿日

  一、問注所跡地

  二、裁許橋

  三、六地蔵

  四、甘縄神明神社

  五、安達一族の屋敷跡

  六、長谷寺

  七、御霊神社

   八、星月ノ井

  九、成就院

  十、極楽寺

今回は、鎌倉の西南方面へ裁許橋、六地蔵、甘縄神明神社、鎌倉大仏の高徳院、御霊神社、成就院、極楽寺とめぐります。

鎌倉駅西口から、市役所前へ出ると、左先の歩道に大きな古い楠があります。この道路は昭和も五十年代に開通したばかりですので、道路の並木にしては古すぎます。どうしてでしょう。実は市役所がここへ移転する前にここにあった諏訪神社の境内木なんです。市役所建設の際に神社は移転しましたが、樹木はそのまま残された訳です。この今小路道を南へ下ります。

           今小路西遺跡の遺構配置概念図

 

 

 

 

市役所と小学校の地には、明治時代に明治天皇の皇女のために「御用邸」が建てられ、皇族方が御成りになったことから付けられた地名が昭和四十年の住居表示で「御成町」とつけられました。  

小学校の門は、御用邸の門を受け継いだものですが、昭和三十年にコンクリートに立て替えられ、柱の看板は「高浜虚子」の筆だそうです。  

校舎の立替で発掘調査の結果、鎌倉時代の武家屋敷が二軒出てきました。又、その下には奈良時代の郡衙の跡も出てきました。

北側の屋敷は、庭に海砂や玉砂利を敷いたり、建物間に鑓水様の水路や木組みの六角井戸などをしつらえた、七十b×五十b超の千坪もの上流階級の屋敷です。青磁の壷や、天目茶碗、天目台なども発掘されており、風流人だったようです。

 

 

 

 

 

 

南側の屋敷も、六十b×六十bもの広大な屋敷で、どちらかと言うと、馬場などの広場を持った武ばった上流階級の武家屋敷のようです。

下、河野真知郎著「中世都市鎌倉」より(北の屋敷上から南の屋敷を見た風景)

 

一、問注所跡地

小学校の道を挟んで東側のマンションの西南の角に「問注所跡」の碑があります。

問注所とは今で言う裁判所のようなものなのであります。

吾妻鏡では、次のように書かれております

第三巻、元暦元年(1184)十月大廿日乙亥。諸人訴論對决の事。俊兼・盛時等を相具し、且は之を召决し。且は其の詞を注さ令め、沙汰申す可し之由、大夫属入道善信に仰せ被ると云々。仍て御亭の東面廂二ケ間を點じ、其の所を爲て、問注所と号す額を打つと云々。

○武士達の領地争いの裁判での訴人(原告)と被訴人(被告)の論理対決の仕組みを、筑後權守俊兼と平民部烝盛時を一緒に連れて、一つは呼び出して対決させる事、もう一つはその言い分を文章にする事を、決めて皆に告げるように、大夫属入道善信に命じられましたとさ。それなので、御所の東側の上がりがまちの部屋の二間を仕切ってその場所に決めて、問注所と書いた額を打ち付けましたとさ。

それから七年後になりますが、前年に上洛し、右大将に任官したので、三位以上に許される政所を設置しました。

第十一巻、建久二年(1191)正月大十五日甲子。政所の吉書始を行被る。前々は諸家人恩澤に浴する之時、或ひは御判を載せ被、或ひは奉書を用ひ被る。而に、今羽林上將に備へ令め給ふ之間、沙汰有り。彼の状を召返し、家の御下文于成し改め被る可し之旨、定め被ると云々。

政所 別當 前因幡守中原朝臣廣元  令 主計允藤原朝臣行政

   案主 藤井俊長「鎌田新藤次」 知家事 中原光家「岩平小中太」

問注所執事 中宮大夫屬三善康信法師「法名善信」

侍所 別當 左衛門少尉平朝臣義盛  所司 平景時「梶原平三」

公事奉行人 前掃部頭藤原朝臣親能 筑後權守同朝臣俊兼 前隼人佐三善朝臣康C

      文章生同朝臣宣衡   民部烝平朝臣盛時  左京進中原朝臣仲業

      前豊前介C原真人實俊

京都守護  右兵衛督「能保卿」

第十六巻、建久十年(1199)四月大一日壬戌。問注所於郭外に建被る。大夫属入道善信を以て、執事爲に今日始て其の沙汰有り。是、故將軍の御時、營中の一所を點じ、訴論人を召决せ被る之間、諸人群集し、皷騒を成し、無礼を現す之條、頗る狼藉之基爲。他所に於て此の儀を行う可き歟之由、内々評議有る之處、熊谷与久下と境相論の事對决之日、直實西の侍に於て鬢髮を除う之後、永く御所中之儀を停止被、善信の家を以て其の所と爲す。(十二巻建久三年十一月二十五日条)今又別郭を新造被ると云々。

この記事から察するところ、熊谷次郎直實の一件以来、三善康信の屋敷を問注所にしていたのを、改めて建設したといっているので、この場所なのかもしれません。

ここで、政所、侍所が別当の役職なのに、問注所は執事になっています。このあたりについては、歴散加藤塾のお客様の女学生さんが論文を発表しておられますのでご覧下さい。

http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/kamakuraorg/index.html

二、裁許橋

さて、尚南下していきますと、鎌倉十橋のひとつ「裁許橋」があります。

問注所で、訴訟を裁許したからとも、又西行がここで頼朝に声をかけられたので「西行橋」とも云われるそうです。吾妻鏡では、頼朝が西行を見かけたのは文治二年(1186)八月小十五日「八幡宮の鳥居辺」とあります。ま、伝説は作られるものなのでしょうね。

南へ歩き、バス通りに出ると、交差点左にお地蔵様がおられます。

三、六地蔵

仏教では、六道輪廻と称して、人は生前の善行によって、

 地獄道  檀陀地蔵、又は金剛願地蔵、

 餓鬼道  宝珠地蔵、又は金剛宝地蔵、

 畜生道  宝印地蔵、又は剛悲地蔵、

 修羅道  持地地蔵、又は金剛幢地蔵、

 人 道  除蓋障地蔵、又は放光王地蔵、

 天 道  日光地蔵又は預天賀地蔵

の六つの道に生まれ替わりを繰り返すのだそうです。

これから脱出するのには、極楽浄土へ成仏するしかないようです。

一方地蔵菩薩は、釈迦入滅後五十六億七千万年後に弥勒菩薩が現れて、人々を救ってくれるまで地を任されております。地を任されておりますので、地の中、或いは地の下の地獄も守備範囲ですので、この世と地獄とを自由に行き来できるパスポートをお持ちなのです。

それに比べ我々人間は片道切符しかない訳です。ですからどの世界に落ちても拾って戴けるように、六道全ての地蔵に拝んでおくのです。

この通りを西へ突き当たると「長谷観音」がおられるので「長谷小路」と呼ばれます。

西へ五百メートル程歩いて、左にピザーラの看板を見て、右の路地に入ります。突き当りが作家の吉屋信子記念館です。女性を主役にした時代小説を主に執筆しておられたそうです。

この東西の路地を左へ突き当たったら、右の奥が鎌倉文学館(旧前田邸)ですが、その手前を左へ曲がります。左へ右へと曲がりくねって歩くと、右の台の上に明治風の建物があります。

現在は、鎌倉市長谷子ども会館になっておりますが、明治四十一年建築旧諸戸邸(国登録有形文化財)です。バルコニーや柱にギリシャ建築が取り入れられております。先へ進み路地を突き当たると旧川端康成邸です。右の神社は、

四、甘縄神明神社

神明さまですから、伊勢の別宮で、祭神は天照大神だが、色々な神様が合祀されています。

伝説では、和銅三年(710)行基の草創で、染谷時忠が山上に神明宮、山下に円徳寺を建立、後に平忠常の長元の乱平定に赴任した平直方がその子孫を娶り住んだが、乱を平定できず解任され、新たに朝廷から乱平定を命じられた源頼信が関東へ下ってきた。

その息子頼義の射芸に惚れた直方は、頼義を娘婿にした。その頼義が子供に恵まれず、この甘縄神明神社に祈ったので、かの有名な「八幡太郎義家」を授かったと謂われます。

五、安達一族の屋敷跡

時代は下って鎌倉時代になりますと、この社前に藤九郎盛長が居住し、初代の安達藤九郎盛長は、頼朝が伊豆の蛭ケ小島に流罪になっている頃から仕え、頼朝が政権を取ってからは、将軍が正月初めて外出する「御行始め」には、頼朝は必ず藤九郎盛長の屋敷へ来て、この甘縄神社にお参りをするのが恒例の行事でありました。

二代目安達景盛は、頼家と妾のことで上意打ちになりかけた処を政子に救われるなど有りましたが、時頼の時代に出家して高野山に居乍ら、わざわざ降りてきて三代目義景と孫の泰盛を叱咤激励して三浦氏の討伐をさせてしまいます。

執権の北条時頼の母「松下禅尼」や、北条時宗の妻は、安達氏の出自であります。それらの伝承からだと思いますが、境内の井戸は北条時宗産湯の井戸と謂われます。

四代目の安達泰盛は、元寇の役の際に恩賞奉行をしていたことが「蒙古襲来絵詞」のなかで武崎季長に馬を送る場面でわかります。

御家人制を復興しようとした安達泰盛と、北條氏の得宗の身内人の勢力を伸ばそうとする平頼綱と対立し、泰盛の嫡男宗景が曾祖父景盛が頼朝のご落胤だとして源氏を名乗ったのを謀反人扱いされ、平頼綱に襲われ滅びてしまいます。これを霜月騒動と云います。

近年、御成小学校で発掘された武家屋敷跡を安達泰盛の屋敷跡だとする意見もあります。

鳥居前からまっすぐ由比ガ浜商店街へ出て、右へたどり長谷の交差点で西側に渡りましょう。

骨董品店や、旅館、お土産屋の並ぶ長谷観音への参道を進みます。  

六、長谷寺

海光山慈照院長谷寺。真言宗。天平八年(736)の創建と寺伝では云われていますが、大和の長谷寺に習ったものと思われます。梵鐘に文永元年(1264)七月十五日の銘があるので鎌倉時代末期には成立していたものと思われます。

本尊は重要文化財の九b十八aの十一面観音の巨像です。

境内南西隅の潮音亭からの海の眺めが素晴らしいので、一休みしましょう。

境内には、回転する経蔵(観音縁日の十八日以外は中止)、丈六の阿弥陀像、洞窟の弁財天等、見物が沢山有りますので、ゆっくり歩いて見ましょう。

長谷寺の門を出たら右へ駐車場添いに右へと歩き、道也に今度は左へ曲がると右に「権五郎神社」の石柱があるので右脇の路次へ入って行きましょう。

突き当たると神社に出ます。

 

 

七、御霊神社

権五郎さんとも云い、祭神は鎌倉権五郎景政。景政は十六歳の時「後三年の役」鳥海の柵の合戰で敵の矢を左目に受けながら、怯まず敵を倒し、陣へ戻ってから怪我を告げ、三浦為継が矢を抜いてあげようと顔に足をかけたことを怒り、為継に謝らせたと云われます。

後に郎人を集め、藤沢あたりを開発し、伊勢神宮を領家にたて大庭の御厨を立庄しました。

子孫には、大庭氏、梶原氏、俣野氏、長尾氏、長江氏の庶家に分かれ鎌倉党として威を張ることになります。

神社から江ノ電の踏切を渡り、通りの角の力餅屋さんを右へ曲がり、黒板塀の先に井戸があります。

八、星月ノ井

「星月夜ノ井」とも「星月ノ井」とも呼ばれ、昔このあたりは老木が鬱蒼と茂り、

昼直暗き故に星月ケ谷と名づけられた。井戸の名もここからきたものであろうが、伝説には、この井戸の中には昼でも星の影が見えていたという。

ある時近所の召使の女が誤って菜切り包丁を井戸の中へ落としてしまい、それ以来星影は消えたしまったと伝えられる。

この他、千葉県印西市の「月影の井」縁起のなかに「清水湧出して四時渇水することなし、伝へて言はく、大菅豊後守の水行場と又月かげの井と称して、鎌倉星の井、奥州二本松の日の井と共に日本三井一なりという」とあります。

千葉が「月影の井戸」福島が「日影の井戸」鎌倉が「星影の井戸」と云うわけです。

隣の虚空蔵さんは、明鏡山星井寺といい目の前の成就院が管理しております。寺伝では、天平二年行基菩薩が当所で虚空求聞持の法を修していたとき、傍らの井戸から明星に似た光輝く奇石を得た。この石を虚空蔵菩薩の化身であろうと菩薩像を彫って安置したといわれます。

人は死ぬと七日ごとに裁判を受け、極楽浄土へ導かれるわけですが、四十九日の法要、百か日、一周忌、三回忌で十王の裁判が終ります。実はこの地獄の王達の裏の姿は仏様で、なんとか往生できるように救おうとしてくれてもいるわけです。

初七日  二七日  三七日  四七日  五七日  六七日  七七日  百か日  一周忌  三回忌

秦広王  初江王  宋帝王  伍官王  閻魔王  変成王  泰山王  平等王  都市王  五道転輪王

不動明王 釈迦如来 文殊菩薩 普賢菩薩 地蔵菩薩 弥勒菩薩 薬師如来 観音菩薩 勢至菩薩 阿弥陀如来

  不動明王       文殊菩薩       普賢菩薩       勢至菩薩        阿弥陀如来

   

それでも往生出来ないものがあれば、七回忌で阿閦如来が、十三回忌で大日如来が往生を手助けするのですが、それでも救われないものを最後の三十三回忌に虚空蔵菩薩が往生させてくれ

るといいます。心配な方は、今のうちによく頼んでおくとよいでしょう。

道を反対側に渡り石段を登ると成就院です。  

九、成就院

古義真言宗大覚寺派、普明山法立寺成就院。承久元年(1219)空海の護摩壇跡に北條泰時が開基として建立したと伝えられる。本尊は不動明王。

石段を登りきったこの高さが往時の極楽寺切通しの高さなのです。通りの向かいの崖を見ますと、石塔が並んでいるのが見えますが、あれがかつての切通し道に並んでいたのです。

上ってきたほうとは、反対側の石段を降ります。道路へ出たら車に気をつけながら、左側を進むと民家の脇に奥へ入れる路地がありますので、三段ほどの石段を上がり路地を奥へ入ります。

路地の奥、左側に三基の五輪塔があります。上杉憲方が生前に建てた供養塔で憲方逆修塔といわれます。憲方は足利義満の時代(1280頃)の人で鎌倉の執事となり、後に関東管領の山内

上杉氏で、明月院を創建した人です。道路へ戻ったら左へ江ノ電の桜橋を渡ると左側に茅葺門が見えます。  

 

 

 

十、極楽寺

真言律宗西大寺派。霊鷲山感応院極楽寺。開山は良観房忍性。開基は北條重時。元々は重時が作りかけていた寺を子供の長時、業時が完成させたようです。往時には、四十九もの支院がある堂々としたものだったそうです。当時、新仏教と呼ばれる「念仏宗」が一般庶民に普及していく中、昔からの真言宗の僧達が弘法太子の遺誡に背き、僧としての行いを正していない。として戒律、特に律を守るべきであるとして、叡尊により「真言律宗」が生まれます。

その弟子である忍性は、常陸の三村寺から鎌倉へ呼ばれ、文永四年(1267)極楽寺を開山しました。彼は宗派の普及だけでなく、慈悲の精神を施すため、悲田院を再興して貧民を救い、道路修築や架橋、伽藍修造、造塔、ハンセン氏病患者の救済などに尽くしました。宝物庫前の石臼で茶をひき、石鉢で茶を入れ庶民に薬として振る舞ったとも云われ、忍性菩薩とも呼ばれ庶民に慕われました。

極楽寺の本尊は、髪の毛が縄の目状に渦を巻いている清涼寺式釈迦如来です。京都清涼寺の三国渡りの釈迦如来を模倣した木造が流行りました。

また、下がり眉の叡尊像と共にそっくりなのが金沢文庫の称名寺にもあります。

なお、裏手の稲村ガ崎小学校運動場奥には、忍性の墓である石造の巨大な五輪塔があります。

では、極楽寺駅から江ノ電で鎌倉駅へ戻りましょう。

  

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