歴散加藤塾 第四十七回 鎌倉史跡めぐり 「鎌倉紅葉狩り」  平成二十二年十二月五日 

一、若宮大路  二、段葛  三、源平池  四、永福寺  五、獅子舞谷  六、十王岩  七、半僧坊

八、建長寺方丈  九、建長寺法堂  十、建長寺仏殿

鎌倉の紅葉といえば、公称二千本の獅子舞谷です。今年もきっと綺麗に色づいてくれているものでしょう。又、皆さんも木になっている大銀杏の「ひこばえ」も見て行きましょう。

鎌倉駅を東口に降りたら駅前広場をつっきり、先の信号まで出ると南北に大きな通りに出ます。  

一、若宮大路

この若宮大路は、鎌倉に住んでいる人も、訪れる観光客の我々も南北にまっすぐだと思い込んでおります。しかし、地図を見ると東へ傾いていることが分かります。

京都では、比叡山と東山とを直線で結ぶとほぼ南北にとおっており、その線に沿って、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西路の一条大路を築きました。

鎌倉では、天台山と衣張山とを結び、その線に沿って十王岩から南へ四百六十丈の処に三の鳥居前の横大路を設定し、鶴岡八幡宮の南境とし、これにあわせて若宮大路を一直線にしました。このため、若宮大路は27度東へぶれているのです。

これにより、頼朝は京都の街づくりに習い、八幡宮を内裏にみたて、朱雀大路をまねて若宮大路をこさえたと謂われます。

発掘調査の結果、二の鳥居あたりで幅十一丈(33m)両端には幅一丈(3m)深さ五尺(1.5m)の堀が造られていたそうです。堀の向こうには背丈以上の土が盛られ土塁のようになっており、屋敷は皆、背を向けていたようです。

若宮大路を横切ることが出来るのは、上の下馬橋、中の下馬橋、下の下馬橋の三箇所だけが通れたようです。下馬とは、敬うべき神社仏閣、貴人の前では馬から降り礼を尽くすのがしきたりなのです。

二、段葛

若宮大路整備時に、当時は未だ海水面が高かったので、堀道にした大路はぬかっていたと予想されます。神様が社へこられる道、或いは儀式の参詣路として、中央に川原石を敷いたのが始まりと思われ、後に両側を葛石で固め土を埋めて一段高くしたものと思われます。

左の写真は、明治初年頃の写真ですが、葛石こそはっきりしませんが、段葛が現在同様に一段高く感じます。

この段葛を歩いてみると面白いのは、段々道幅が細くなっていくのです。二の鳥居のあたりで6.5mあるのに、中間の信号の場所で5.5m、三の鳥居前の出口では4.5mしかありません。ダヴィンチよりもずっと昔に既に遠近法を用いているのです。

一説に、仮想敵国の平家が攻め来たときに上と下とで矢合わせになった時、距離感を惑わせるためとも、神社への道が遠く見えることにより、より荘厳に感じるとも謂われます。

信号を渡ると三の鳥居です。  

 

三、源平池

橋の下の池を源平池といい、その謂われは「一説には初め双方とも島が四つだったのを、政子が日の昇る東の島を三つにして、産につづくので源氏とし白い蓮を植えさせ、日の沈む西側を死につながる四つにし、平氏の旗印と同じ赤色の蓮を植えさせたという伝説があります。

そのまま正面へ進むと、流鏑馬馬場をを過ぎ、舞殿の左奥に「おおいちょう」のひこばえが頑張っています。  

八幡様へは、遥拝で今日一日の無事を祈り、白幡神社前、鎌倉国宝館前を過ぎ、流鏑馬馬場を左へ曲がり、東の鳥居を抜けてまっすぐ行くと突き当たるので左へ、横浜国大付属中学の門の前が昔の西御門大路だったのです。

明治六年四月十四日の明治天皇鎌倉行幸の、翌十五日ここで陸軍歩兵隊の点検式並に分列式と攻守対抗火入り演習の為の用地が狭隘なので、通りを東へ移し、演習場を広げたのです。  

大倉幕府は、北は頼朝墓前の公園の前まで、南は六浦道、東は現在の関取場の石碑、西はここまでの広さだったのです。

小学校の門まで行き、右の路地を現在の西御門通りへ出ましょう。出たら、左へ次の右の土塀前を右へ曲がると、清泉小学校へ出ます。学校の角が丁度大倉幕府地の真ん中に当たるので、「大倉幕府跡地」の石碑と小学校の生徒さんの説明とがあります。

幕府内は、このあたりに築地塀で南北に分かれており、南を公邸、北側は私邸になっていたようです。

学校の角から北へ歩くと、突き当たり石段上が頼朝の墓です。

頼朝は、正治元年(1199)正月十三日に亡くなりました。

その前に、ここには頼朝の持仏が祀られていましたが、死後法華堂が建てられ、その地下に埋葬されたものと思われます。

今日は、ここも遥拝して学校の塀に沿って東へ歩くと、荏柄天神社の前、バス通りと通り抜け、一つ先の川沿いの道を左へ曲がり、川に沿って北へ歩きます。

この道は、二階堂大路と呼ばれ、頼朝建立の永福寺への参詣路だったのです。

やがて鎌倉宮の脇へ出ますので、左の境内へ入り、トイレ休憩としましょう。

四、永福寺

先へ進むと右側に大きな石を積んだ家があります。このあたりは小字を「四石」と云い、永福寺の総門があったところといわれます。左にテニスコートを眺めながら進むと「史跡永福寺跡」の石碑や史跡案内板があります。ここの左一帯は、頼朝が奥州征伐を終え、平泉の中尊寺や毛越寺・無量光院などの文化に感激し、治承寿永の源平合戦や木曽義仲・義経・奥州合戦で滅びた泰衡や多くの将兵の御霊を供養するために、建物は中尊寺の大長寿院、庭は毛越寺を見習い建立した浄土庭園の永福寺の跡地なのです。

建久三年の八月には池を掘り、池に立てる岩を取り寄せ、九月には石の配置を決めます。この時に一丈もある岩を畠山次郎重忠一人で池の中へ運んで、びっくりさせます。

西側の山を背に真ん中に裳腰付の二階建てに見える本堂(釈迦堂)、北側に薬師堂、南側に

阿弥陀堂と並び、その間を氏の平等院のように回廊で結び、左右の堂からは、手前へ回廊が伸び、その前に池が作られ、その優美な姿を水面に映していたことでしょう。

空き地の出入り口の金網の所からは、北側手前には二階堂川の支流を堰き止め、水を引き入れていた鎌倉石の樋が、北側奥には、湧き水を流した鑓水の跡も発掘されております。

その絢爛豪華な永福寺も今では草むらとなっています。  

 武士の夢 今はすすきの 永福寺

二階堂川に沿って、上流へと歩きましょう。  

やがて人家はなくなり、道は未舗装の砂利道となり、その砂利も消え、いつの間にか山奥へと入ってきてしまいます。ひたすら山道を細流伝いに辿っていくと、両側が屏風のような岩の切り立った場所へ行きます。  

 

 

 

 

 

 

五、獅子舞谷

昔、切り立った崖の上に、飛び出した岩が、頭をもたげた獅子舞の獅子頭のような趣だったところから、このあたりを獅子舞谷と呼ばれました。

今ではそれも崩れ落ちて、どれが獅子頭やら分かりません。しかし、良く見るとどうやらここも、切通しとして削り作られたような気がします。この道は、鎌倉を抜けて磯子や上大岡のほうへの間道だったようです。江戸時代から大正時代には、湘南方面からお灸で有名な峰の薬師への通い道だったそうです。

道際の水路がなくなり、坂がだんだんきつくなり、露出した泥岩を登ったとたんに、地面いっぱいが黄色い銀杏の絨毯になっている林まで上がれば、そこはもう紅葉の森です。  

太陽の逆光に色づき始めた紅葉は、一枝で緑から黄色、黄色からオレンジ、オレンジから赤とグラデーションに輝くのを蜀江錦からとって、塾長は「錦の紅葉」と名付けております。

太陽を背にして、真上を見上げれば、そこは別な美の空間です。

錦の紅葉を堪能したら、一気に尾根まで急坂を登ります。

上りきれば天園ハイキングコースの獅子舞口交差点へ出ます。右が瑞泉寺方面、左前方は茶屋の脇へ出て、そこから右なら金沢文庫方面へ、左へ茶屋の前を登り右へ行けば、北鎌倉方面へ出ます。

直ぐ左脇の岩を登って、鎌倉の海から江ノ島方面の眺望を楽しみましょう。  

この頂上から左に安房・上総・下総、正面に伊豆、右には武蔵、天気がよければ富士山の駿河まで見えると、六つの国を見渡せることから「六国峠」と名付けられました。

北へ向かい峠の茶の脇を上り詰めたら、セメントのぶんながし舗装を下ると右にゴルフコースのティーグランドが見え、左にトイレがあり、その先の広場で昼食にしましょう。

広場の西側に風化され縞模様の段々になったゆるい崖を上ったところが、鎌倉の最高峰152mの太平山です。急な坂を下り、右へ左へとくねりながらハイキングコースは続きます。やが

て尾根の十字路へ出ます。右の北への道は今泉住宅・鎌倉湖と呼ばれる散在ケ池へ、左の南

への道は覚園寺前へ出ます。

20mも行くと左側の一段上に「地蔵やぐら」があり、ここらの南側崖一帯には無数のやぐらがあり、通称「百八やぐら」と呼ばれます。十字路へ戻り、西側へ先ほどの続きを歩きましょう。  

六、十王岩

やがて、右側のやぐらの上に「弘法大師像」のある鷲峰山、その先右上に「十王岩」と呼ばれるやぐらがあります。三体のお像を彫り残してあり、中央に「地蔵菩薩」向かって「如意輪観音」右に「閻魔大王」です。良く見ると屋根部分に梁の跡が掘られ、かつ

てはきちんとお堂の形をとっていたことが忍ばれます。又、閻魔大王は地獄の裁判官十人の代表でもあるので「十王」とも呼ばれます。

昔、この地には、余り木が無く、松が一本だけあったそうな。その松が風が吹くとひゅうひゅうと唸り声を上げたそうな。鎌倉の町では、子供が言うことを聞かないと「地獄へ落ちた亡者供が、閻魔様に攻められて、ヒーヒーと泣き声を上げている。お前も悪さばかりしていると閻魔様に泣かされるぞ。」と子供を脅し叱りつけたそうで、別名を「わめき十王」ともいわれます。

先へ歩くと椎の木とタブの木に囲まれた瑞垣があります。ここは勝上ケ嶽、建長寺の奥の院です。右への道は明月谷へでるハイキングコースの続きです。左に見晴台があります。かなりきつい階段を鎖に掴まりながら下っていくと、社殿の前へ出ます。  

七、半僧坊

静岡県浜名湖の同じ臨済宗の方広寺に半僧半俗だった従者が奇跡を起こしたという縁起があり、この人が赤ら顔で鼻の高かったことから半僧坊大権現と天狗信仰となり、これを明治の頃にここへ勧請して来たそうです。

建長寺境内を南へ歩くと左に垣根越しに庭園が見え建物がある。  

八、建長寺方丈

本来は、住職の居間で一丈四方から言葉はきています。昭和になって京都般舟院から総門と共に移築したものだそうです。方丈の南にトイレと東屋がありますので一休みしましょう。  

 

九、建長寺法堂

寺の儀式をしたり、高僧が弟子達に講和をしたりする建物で、千手観音が祀られています。千手觀音は、千本の手を持ち、その手のひらには一つずつ目がついており、千の目を持って衆生の願いを觀て、きいてくれると云う現世利益をもたらします。

十、建長寺仏殿

禅宗様式では建築材に一切の装飾をせず、生木のままに建築するのが普通です。ところがこの仏殿は良く見ると、漆塗りの後や彩色の後が良く分かります。建長寺は元々北條氏が鎌倉幕府の守護のために建立したお寺でしたから、鎌倉幕府も滅び、足利氏の鎌倉公方も追い出され、関東管領の上杉氏も零落してしまうと、有力な檀家もなくなり衰亡してしまいます。

江戸時代初期に、これを嘆いた沢庵和尚が、芝の増上寺の徳川秀忠婦人の御霊屋(おたまや)の拝殿を建て返る際の古材を貰いうけ、移築した物なので桃山風の華麗な装飾がみられます。

本尊は丈六の地蔵菩薩です。禅宗は釈迦如来なのですが、何故お地蔵様なのでしょう。

この地は、その昔地獄谷と言って庶民の風葬の地だったそうです。又、鎌倉時代初期には、鎌倉のすぐ外と言うことで処刑場になっていたとも云われ、地蔵が祀られていたからです。

仏殿から山門を見ると、両側に白槇の古木が並びます。現在では左右で本数が違いますが、古い図には左右五本づつきちんと並んでおり、開山蘭渓道隆お手植えとも言われますので七百五十年も経っていることでしょう。では、すぐに北鎌倉駅です。

  

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