第四十八回歴散加藤塾   鎌倉へ梅を見に行く  平成廿三年二月二十日 

  一、宝戒寺   二、「仏涅槃図」  三、筋替橋

 四、関取場  五、荏柄天神参道  六、荏柄天神

 、瑞泉寺  八、理智光寺跡  九、明王院

昨年は、三月に鎌倉へいきましたので、今年は一昨年と同じ内かまくらにしてみました。

今年も一昨年同様に梅の開花が早いので、多少心配ですが、鎌倉歩きを楽しみましょう。

鎌倉駅を東口へ降りたら、駅前の広場を突っ切って若宮大路まで出ましょう。

信号で向かいへ渡り、北へ向かうと右側に鎌倉警察署があります。

警察署の向こう脇を右へまがり、左の教会の裏の路地へ入りましょう。路地を北へ辿ると左側に沢山の赤い旗が立ったお稲荷さんがあります。

このお稲荷さんは、鎌倉時代には宇都宮一族の屋敷の鬼門の隅にあったらしく、又、屋敷の入口がこの東西の路地に向いていたようなので「宇都宮辻子」と呼ぶわけです。

三代執権北条泰時が嘉禄元年(1225)幕府をここへ移したといわれ「宇都宮辻子幕府」と呼ばれています。

路地を北へ進み、突き当りを左へ次は右へとクランクして、清川病院の裏を通った先の、「粋な黒塀・見越しの松」の家は、鞍馬天狗の大仏次郎さんの生前の執筆活動の地でした。板塀にそって右へカーブをすると「若宮大路幕府跡地」の石碑があります。

ここは、嘉禎二年(1236)にたったの十年で宇都宮辻子から引越したようです。

宇都宮辻子幕府北側の執権屋敷の地へ引っ越したとも、同一敷地内の北側に建物を新築し、若宮大路側に入口を作ったからだともいわれます。

そのまま路地を東へ行くと小町大路へ出ます。左側を歩きながらバス通へ出たら、横断歩道で右側へ渡りましょう。正面に寺があります。  

一、宝戒寺(天台宗、金龍山釈満院円頓宝戒寺)

この地は、元北条得宗家の屋敷地であった。義時の代から時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時と引き継がれてきたようです。元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めにより、菩提寺の東勝寺(廃寺)にて一族は滅びました。

後、建武二年(1335)建武の中興を果たした後醍醐天皇は北条一族の怨霊を弔うため、足利尊氏に命じて、その屋敷地に寺を建立させましたのが、宝戒寺です。

今では、萩の寺として有名ですが、「宗園梅」と呼ばれる「しだれ梅」も見事です。

本尊は唐仏地蔵と呼ばれる貞治四年(1365)三条法印憲円作の木像地蔵菩薩坐像です。

慶派系統の多い鎌倉仏に比べ、京下りの円派の優しい表情が特徴です。

本堂の本尊に向かって左側には、鎌倉七福神のお一人毘沙門天や密教系のお不動様もおられます。庭には夫婦和合の歓喜天・徳崇大権現・太子堂などの境内社があります。

さて、この時期には、仏殿の中央に掛け軸が広げられています。  

二、「仏涅槃(ネハン)図」

釈迦入滅の図です。二月十五日が涅槃の日なので同日から二月一杯架けられております。

釈迦は、三十歳で悟りをひらかれ五十年の長きに渡り人々を導いてきました。

しかし、八十歳で死期をさとり、北枕に西方浄土を向いて涅槃に入ります。

図には沙羅(サーラ)の木が二本づつ並んでいるので沙羅双樹(サラソウジュ)、画面右上の釈迦の母麻耶夫人(マヤブニン)が天上界から薬を包んだ風呂敷包みを投げたのですが、沙羅の木に引っかかって間に合わなかったとの伝説から風呂敷が左端の木に描かれています。又、沙羅の木の真っ赤な花びらが釈迦が息を引き取ったとたんに白く色あせてしまったといわれ、これが平家物語の沙羅双樹の花の色と語られる訳です。

図の中の十代弟子は、悟っていますので静かに沈黙しております。未だ、修行中の阿羅漢達は、泣き喚いている者もおります。

又、同時にインド中の動物が集り、その死を悼んでいます。

左側のほうに、顔が女性で身体が鳳凰と同じような鳥の格好をしたのが迦陵頻伽(カリョウビンガ)です。迦陵頻伽は、  極楽浄土に住み、いつも美しい声で歌を歌っているのですが、さすがにこの時は黙って静かに見つめていました。(右図は、他の寺のですが参考に)

小町大路へ出たら歩道に沿って北上し、次の信号で右折します。

三、筋替橋

ここから東への道を「六浦道(ムツラミチ)」とも金沢街道とも呼ばれ、この街道は頼朝入府前からあり、このまま西へまっすぐ寿福寺の前へ達していたそうです。つまり寿福寺の地は六浦道と武蔵大路の出発点源氏屋敷の地だったのです。

京都では、比叡山と東山を結んだ線と平行に、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西に一条大路があります。鎌倉では、天台山と衣張山を結んだ線に平行に、十王岩から四百六十丈の処に横大路として、若宮大路を南へ引いたので、27度ずれております。この横大路の北に八幡宮を祀りましたので、六浦道の道筋をここで63度曲げ替えたところから、この下を流れる西御門川に架かる橋を「筋替橋(スジカエバシ)」と呼ぶのです。

ここから、東を見ると北側には大倉幕府の泥築地の塀が続き、南側には政所別当大江広元の屋敷、事実上の常陸支配者八田知家、そして秩父党の畠山重忠の屋敷が並んでいたようです。

やがて、現在の分れ道の信号で道の北側へ渡りましょう。  

六浦道を先へ進むと、左に「関取場」の石碑があります。

四、関取場

戦国騒乱時代の天文十七年(1548)に小田原北条氏康が関を儲け、通行税として関銭を取り、その銭を荏柄天神社の修造費に当てたとのことです。

麻紙布類の荷物は十文、乾物馬は5文、人の背負い物は三文、運送屋の馬は一頭十文、天秤棒の物売りは十文、往来の僧、庶民、里人は無料だったようです。

左の路地は、頼朝が建立した永福寺へ通じる「二階堂大路」なので、ここが本当の分れ道なのです。六浦道を先へ進むと、左の石段の上に鳥居が立ちます。

五、荏柄天神参道

天神様の参道なので、百本以上の梅ノ木が植えられております。  

右側には紅梅が、左側には「古代青軸」と呼ばれる、花の中心が青みがかって見える白梅です。なお、この梅の実は、そのまま漬ける「白梅」と紫蘇の葉を漬けた「赤梅」とで、紅白の梅干にして、受験祈願のお守りとして下賜されるそうです。

参道を登ると、途中で二階堂大路や鎌倉宮参詣のバス通りを横切り、互いにもたれかかった「白槙」をくぐると、正面に階段が見えます。  

 

六、荏柄天神

伝説によると、長治元年(1104)八月二十五日、一転にわかに空が掻き曇り、天から天神像が降ってきたので、人々は恐れ敬い天神社を建てて祀ったといわれる。頼朝入府後、大倉幕府の鬼門に当たることから崇敬したので、一時は日本三天神の一つとして賑わいました。今でも、受験シーズンともなれば大勢の若者がお願いに参ります。

本殿は、徳川将軍二代目秀忠の寄進とも言われる国の重要文化財です。

境内には、漫画家清水昆の「かっぱ筆塚」と、横山隆一が発起した筆供養の塔には、色々な漫画家が描いた河童の絵が銅版になって貼られています。鉄腕アトムもおります。  

白槙の前へ戻ったら、左へ歩きバス通りを突っ切り、次の川っぷちの二階堂大路を左へ歩くと、鎌倉宮の脇へ出ますので、トイレ休憩としましょう。

鎌倉宮脇から、先へ歩くと左側にテニスコートがあります。このテニスコートを含んで北側一帯が、永福寺跡史跡として整備され、将来は復元されるようです。この永福寺の本堂が瓦葺で裳腰のついた二階建てに見えたことから、このあたりの地名が「二階堂」と呼ばれ、今でも住所になっております。

二階堂川を通玄橋で渡り、先へ歩くと気が付かない程度の登り道で、ゆるゆると谷戸の奥へ向かって行きます。車いっぱいの狭い切通しの先に総門が見えます。  

七、瑞泉寺(臨済宗円覚寺派 錦屏山瑞泉寺)

ここは、周りを山に囲まれ、秋になると木々が色づき、錦の屏風のようだと山号を名付けたように、谷の名前を紅葉谷(モミジガヤツ)と呼ばれます。

円覚寺の中興の祖とも呼ばれる無窓疎石(ムソウソセキ)が、名声が上りすぎて来客が多さに辟易としていました。そんな折、鎌倉幕府引付衆の一人二階堂貞藤、法名を道薀(ドウウン)が自分の屋敷の一部を提供しました。谷あいの静かなところへもって、裏山に上ると海が見えるからと、疎石は喜び、開山は無窓疎石、開基は二階堂道薀で、建立したわけです。

裏山に庵を儲け、一覽亭と名付け仲間を集め、詩作や禅を論じたといわれます。

境内には、水仙と梅を始め、四季折々に花々が楽しめます。

入口を入るとすぐ、左側に梅林が広がり、先に本堂へと上る新旧の階段があります。左の古いほうの階段は、鎌倉石の石段が磨り減って時の流れを感じさせます。

石段を上ると山門の前へ出ます。左に小さな竹林がありますが、幹に触れると四角なのが分かります。四方竹と言う種類ですが、なぜか鎌倉の円覚寺系のお寺に多いのが不思議です。中国原産だそうなので、その辺りに何か謂れがあるのかも知れません。

山門を入ると正面に本堂が、方形造り裳腰付きの昭和十年の建築です。本堂内部の正面には釈迦如来、向かって左手が水戸黄門寄贈の千手観音、右側には、開山無窓疎石の坐像です。

本堂に向かって左脇には、黄梅の原木。隣の開山堂をぐるりと回った裏手に、国指定史跡の無窓疎石の造った庭があります。岩盤を繰り抜き、手前には心字池を、向かって右には瀧をしつらえ、左にはジグザグに七曲りをつけて、裏山の一覽亭へ登っています。正面の岩窟から池に映る月を見て座禅に励んだとも伝えられます。

池の西側に地蔵堂があります。昔、英勝寺の北側の谷に「智岸寺」があり、智岸寺谷(チガンジガヤツ)と呼ばれ、地蔵堂があったそうです。時代の流れの中で、智岸寺は廃寺となり、残った地蔵堂も荒れ果てて参拝の人もなくなり、すっかり貧乏になってしまいました。生活苦から堂守も、何時逃げ出そうかと悩む日々となりました。そんな時、夜な夜な堂守の夢枕に地蔵様があらわれ「どこもく、どこもく」とおっしゃられます。

どういうことなのか分からず、八幡宮の坊さんに聞いてみた所、「それはきっと、お釈迦様は人間生まれたときから苦しみを背負って生きている。何処で生きようが苦しみは同じなのだ。それをお前に教えるために「何処も苦」とおっしゃられたのであろう。何処へ行っても同じなら、今の場所で苦に耐えて励むのが一番の生き方であろう。」と諭されて、今の苦境に負けずに、お地蔵様を守っていこうと決心したそうです。そこで、このお地蔵様を「どこもく地蔵」と呼ぶようになったんだとさ。

苦しいからといって、現実からの逃避では何も出来ない。今の苦しみを乗り越えてこそ、幸せがやってくるものなのだという、仏の教えなのでしょう。

瑞泉寺を出たら、テニスコートの脇まで戻り、左の道へ入りましょう。宅地へ出ると左側に瑞垣に囲まれ、階段が登っています。

八、理智光寺跡

このあたりに、鎌倉時代に建立された理智光寺(リチコウジ)があったそうで、建武の中興に後醍醐天皇(ゴダイゴテンノウ)の息子の護良親王(モリヨシシンノウ)が、足利尊氏の策謀により謀反の罪で捕えられ、足利直義によって鎌倉へ流罪に連れてこられ、現在の鎌倉宮の場所に幽閉されていました。ところが、北条高時の遺児「時行」が、得宗被官の諏訪一族に助けられ、鎌倉を奪還しようと「中先代の乱」を起こします。

直義は、鎌倉を守りきれず逃げ出すときに、淵野辺伊賀守義博(フチノベイガノカミヨシヒロ)に親王殺害を命じました。

義博は、なんとか殺害したものの、その恨みを呑んだ目におびえ、この辺りに首を捨てて逃げたそうです。それを理智光寺の住職が拾い、寺の裏山に葬ったのがここだと謂われます。

住宅街の真ん中の坂道を登って行き、突き当りを左へ行くと杉本城壁を断ち切った切通しに出ます。ここから南の胡桃谷(クルミガヤツ)分譲地を下へ下へと下っていきます。下の道へ出たら右へ行くと谷を抜け、T字路に突き当たります。右奥の浄明寺から左の先まで、室町時代初期の鎌倉公方屋敷跡なので「御所の内」との小字が残ります。左右の道は稲荷小路と言いますが、左へ歩くと鎌倉市有形民俗文化財の庚申塔が二基並んでおります。その先を左へ右へとたどりながら、バス通りへ出ますので、左へ歩きましょう。百メートルも歩くと左に橋を渡って明王院へ出ます。  

九、明王院(真言宗)

鎌倉将軍源氏三代の後、京都の九条家から貰ってきた二歳の三寅が成長して、四代将軍頼経となり、彼の祈願で五大明王を祀る五大堂明王院を嘉禎元年(1235)建立しました。

密教によると「五大明王法」とは、悪魔降伏、安産、戦勝、息災を祈るための法だそうで、不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五人を祀ります。

政子や義時、泰時と幕府政権の実権を握った人達の傀儡将軍としての頼経が、何を目的に建立したのか、謎めいております。

茅葺の不動堂や、庫裏のたたずまいは落ち着いた事の風情を味わいましょう。

明王院から戻る際に、右への路地をたどると、左側に古井戸があり、梶原井戸と呼ばれます。この谷戸は梶原平三景時の屋敷跡といわれます。

景時は、鎌倉幕府草創期の荒武者どもの集りに、武家政権としての規範を通すため、御家人の素行などを頼朝に告げ重宝がられましたが、それを告げ口と思われ、御家人達の不興を買いました。頼朝の死後御家人仲間から弾劾され、正治二年(1200)京へ落ち延びる途中の一月二十日に静岡県で討たれてしまいました。その屋敷跡へ、明王院は建立されたものと思われます。

では、バス通りへ出て「泉水橋」から駅へ戻りましょう。

参考文献

 鎌倉史跡事典   奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

 鎌倉事典     白井永二編 東京堂出版  平成三年十二月二十五日発刊

 鎌倉の史跡めぐり 清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

 かまくら子供風土記 鎌倉市教育研究会編集 鎌倉市教育委員会 平成五年発行

  

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