第四十九回歴散加藤塾   鎌倉の新緑を歩く  平成廿三年五月十五日 引率説明       歴散加藤塾主催 @塾長

 一、筋替橋

二、関取場

  三、文覚上人屋敷跡地

  四、田楽辻子

  五、上杉朝宗・氏憲の屋敷跡

  六、巡礼道

  、鎌倉城 東城壁

  八、名越の大切岸

  九、法性寺

  十、名越の切り通し

  十一、銚子の井戸(石の井)

鎌倉は、いつ来てもよい、誰と来てもよい、新緑の鎌倉はすがすがしい。

と云うわけで、報国寺のある宅間谷から巡礼道をたどり、ハイランド西の公園でお昼に、そしてパノラマ台・鎌倉城東城壁・大切岸・名越切通しと緑の中を歩き、長勝寺バス停へ出ましょう。

鎌倉駅を東口へ降りたら、駅前の広場を突っ切って若宮大路まで出ましょう。

信号で向かいへ渡り、北へ向かうと右側に鎌倉警察署があります。  

警察署の向こう脇を右へまがり、左の教会の裏の路地へ入りましょう。路地を北へ辿ると左側に沢山の赤い旗が立ったお稲荷さんがあります。

このお稲荷さんは、鎌倉時代には宇都宮一族の屋敷の鬼門の隅にあったらしく、又、屋敷の入口がこの東西の路地に向いていたようなので「宇都宮辻子」と呼ぶわけです。

三代執権北条泰時が嘉禄元年(1225)幕府をここへ移したといわれ「宇都宮辻子幕府」と呼ばれています。

路地を北へ進み、突き当りを左へ次は右へとクランクして、清川病院の裏を通った先の、黒板塀に見越しの松の家は、鞍馬天狗の大仏次郎さんの生前の執筆活動の地でした。板塀にそって右へカーブをすると「若宮大路幕府跡地」の石碑があります。

ここは、嘉禎二年(1236)にたったの十年で宇都宮辻子から引越したようです。

宇都宮辻子幕府北側の執権屋敷の地へ引っ越したとも、同一敷地内の北側に建物を新築し、若宮大路側に入口を作ったからだともいわれます。

そのまま路地を東へ行くと小町大路へ出ます。左側を歩きながらバス通へ出たら、そのまま横断歩道で北側へ渡り、金沢道を北上します。  

一、筋替橋

ここから東への道を「六浦道」とも金沢街道とも呼ばれ、この街道は頼朝入府前からあり、このまま西へまっすぐ寿福寺の前へ達していたそうです。つまり寿福寺の地は六浦道と武蔵大路の出発点源氏屋敷の地だったのです。

京都では、比叡山と東山を結んだ線と平行に、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西に一条大路があります。鎌倉では、天台山と衣張山を結んだ線に平行に、十王岩から四百六十丈の処に横大路として、若宮大路を南へ引いたので、27度ずれております。この横大路の北に八幡宮を祀りましたので、六浦道の道筋をここで63度曲げ替えたところから、この下を流れる西御門川に架かる橋を「筋替橋」と呼ぶのです。

ここから、東を見ると北側には大倉幕府の泥築地の塀が続き、南側には政所別当大江広元の屋敷、事実上の常陸支配者八田知家、そして秩父党の畠山重忠の屋敷が並んでいたようです。

やがて、現在の分れ道の信号で道の北側へ渡りましょう。

六浦道を先へ進むと、左に「関取場」の石碑があります。

二、関取場

戦国騒乱時代の天文十七年(1548)に小田原北条氏康が関を儲け、通行税として関銭を取り、その銭を荏柄天神社の修造費に当てたとのことです。

麻紙布類の荷物は十文、乾物馬は5文、人の背負い物は三文、運送屋の馬は一頭十文、天秤棒の物売りは十文、往来の僧、庶民、里人は無料だったようです。

左の路地は、頼朝が建立した永福寺へ通じる「二階堂大路」なので、ここが本当の分れ道なのです。六浦道を先へ進み、次の信号で南側へ渡り南への道を入ります。

すぐに橋へ出ます。滑川を大御堂橋で渡ると、橋のたもとに今では鎌倉以外の都会では見られなくなったコンクリートのポストが現役で頑張っています。この奥に頼朝が自らの菩提寺として建立し、父義朝の骨を供養した南御堂とも大御堂とも呼ばれた「勝長寿院」があったことからこう呼ばれます。  

三、文覚上人屋敷跡地

橋を渡った右手に文覚上人屋敷跡地の石碑があります。

この文覚は、遠藤盛遠と云う武士で、元は京都御所警護の北面の武士でした。

ある日、同僚の奥さんと不倫に陥り、いっそ同僚を殺して一緒になろうと不倫相手の奥さんと

企み、寝ているところを刺し殺すことにするのです。ところが罪の意識に苛まされた奥さんは、自ら死を選び同僚のふりをして寝ていたのですが、そうとも知らず、盛遠は約束どおり夜中に忍び込み、奥さんを刺し殺してしまいました。その罪を悔い世の無常を悟り、出家して那智の滝に打たれたり、夏の熊野で裸のまま藪で座禅を組んだりと荒行に励んだのでした。

文覚は京都高尾神護寺の復興の寄進を後白河法皇にせがみすぎ、伊豆へ流罪になり、頼朝に父義朝の髑髏を見せて平家打倒を決心させたとも云われ、頼朝は大事にしてこの先の大御堂を守る意味でここに屋敷地を与えたのかも知れません。

少し歩くと右側に古材がつまれておりますが、ここを右へ入ると「勝長寿院」跡ですが、戦後まもなく住宅として開発されたため、何の面影もありません。

やがて左側に「田楽辻子」の説明文があり、右には「犬懸」の石碑があります。

四、田楽辻子

この今歩いてきた路地にそって田楽舞の田楽師集団の住まいがあったと伝えられます。

吾妻鏡では、後に先にもたった一度だけその名が出ます。

康元二年(1257)十一月廿二日癸酉晴。丑尅、若宮大路焼失す。藤次左衛門入道の家から失火。花山院新中納言〔長雅卿〕、陸奥七郎、下野前司、内藏權頭、式部大夫入道が舊宅、壹岐前司、伊豆太郎左衛門尉、前縫殿頭文元等の亭、悉く以て災す。田樂辻子に至り火止まる。

五、上杉朝宗・氏憲の屋敷跡

上杉氏は、鎌倉幕府六代將軍宗尊親王にしたがって京から下ってきた重房から始まります。鎌倉幕府崩壊後も足利氏に使え鎌倉公方の執事をして関東管領と呼ばれます。

孫、ひ孫の代に四家に別れ、それぞれの住まう屋敷の地名を取り扇谷、宅間、犬懸、山内と呼ばれます。左記の系図のうち氏憲は、出家して禅秀と名乗りますが、一度執事職についたものの、四代鎌倉公方足利持氏は彼を嫌い、憲基に変えてしまいます。

氏憲は、持氏に不満を抱く持氏の叔父の満隆持仲と謀反を起こし、持氏を攻め駿河へ追いやってしまいます。これに対し、京都の将軍家は持氏を支持し、駿河の今川を始めとする東国諸将に救援を呼びかけたため、氏憲は攻め滅ぼされてしまいました。これを「禅秀の乱」といいます。藤沢の遊行寺にこの乱の戦死者を弔う敵味方供養塔があります。

参考*鎌倉幕府将軍職九代(罫線は親子、矢印は兄弟、点は他人)

源頼朝―源頼家→源実朝・九条頼経―九条頼嗣・宗尊親王―惟康親王・久明親王―守邦親王  

上杉氏      ┌重顕(扇谷)  
   重房─頼重┤  
           └憲房┬重能(宅間)  
           (犬懸)├憲藤┬朝房  
               │   └朝宗─氏憲禅秀  
           (山内)└憲顕─憲方─憲定─憲基・・上杉謙信

足利氏                 ┌義持  
(京都)尊氏┬義詮─義満┼義嗣  
           │         └義教  
(鎌倉公方)└基氏─氏満┬満兼┬
持氏
                        └満隆持仲

そのまま路地を抜けると報国寺の前へ出ます。

そのまま寺の脇を谷の奥に向います。この谷を宅間谷と呼びます。絵師下総権守藤原為久(号宅間)が住んでいたので、そう呼ばれます。  

六、巡礼道

若干谷奥へ行くと左側の住宅の間に路次があり、小さな「巡礼道」の札がありますので、見逃さないよう気を付けて路次へ入りましょう。 路次を突き当たったら左へ道也に昇って行きましょう。登り切ると左側に広場があり、石の壁にお地蔵様が掘ってありますが、良く見ると台座が少し前へ出すぎています。想像するに、以前台座にあった石仏がなくなり、後に石壁に石仏を彫ったものと思われます。

元の道に戻り、道也に先へ行きましょう。

この森の中の道は結構森が深く感じて森林浴でもしているような感じがします。道の所々に四角いコンクリの水盤があります。一体なんでしょう。実は自然保護団体がこの谷は水がないので、小鳥の為に水飲み場を設置したんです。森を抜けると広い分譲住宅に出ますので、右の植込の中の道へ入りましょう。  

道也に歩くと大きな整備された公園に出ますので、そのまま、左方向に歩くと右下の大町が見下ろせる場所を通ると、又公園に出ますので、お昼にしましょう。

公園を抜けると舗装した道に出ますので、右へ行き坂を登り始める所に、右へ入る散歩道へ曲がります。忘れ去られたような、自然道が続き左右は湿地帯のような雰囲気です。  

先の分岐点では右へパノラマ台の道標がありますので、昇って見ましょう。頂上からは、大町を主体に鎌倉の町が一望に出来ます。  

七、鎌倉城 東城壁

景色を堪能したら、先程の分岐点へ戻り先へ行きましょう。森の中の道を歩くと左右共に切り落としてあるのが分かるでしょうか。実はこの尾根道は、鎌倉城東側の城壁なのです。

歩いている足元に気を付けてみると、砂岩で出来ている場所等では、通り道が岩を削ってあることに気が付くでしょうか。天園ハイキングコースと同じです。これによって、この尾根が人

工的に整備されたことが分かります。しばらく歩くと左側の崖下に畑が見え始めます。この下の畑一帯はお猿畑と呼ばれます。

その先でブロック塀に突き当たる寸前の右側に不思議な形をした廟様が二つあります。古い宗教的なものと思われますが、詳しいことは解っていません。

ブロック塀に添って左右に道が通っていますが、左へ下って行きましょう。階段状に削られていることに注意しながら下り終えると墓場に出ます。ここは法性寺裏手に当たります。  

八、名越の大切岸

墓の間に広場がありますので、左へ入って行くと先程の東城壁が見えます。その手前に地層が剥出しになった崖が続いています。まるで太古の潮の痕のようですが、実はこれは北條泰時が三浦一族と未来を警戒して作らせた防禦壁と思われています。

何段にも數b毎の階段状に積み上げられ、さながら後の時代の城郭を思わせます。

鎌倉は三方を山で囲まれ、一方は海に面しているので、要害の地と云うことで頼朝は鎌倉を選んだと云われます。頼朝の頃は兎も角、後には三方の尾根の両側を削り落とし、上部を凹状に削って、万里の長城のような兵隊の通り道を付け、城壁としたようです。それらが、今では東が今日通って来た道、北側が天園ハイキングコース、西側が北鎌倉の浄智寺から大仏へのハイキングコースとなっています。  

九、法性寺

猿畠山法性寺と云います。コンクリ道に添って、左にやぐらを見ながら先の広場へ出て、左を向くと正面に祖師堂が、左に小さな山が山王社、その下に洞窟が、右に日朗の廟があります。

この寺は、日蓮が小町大路で辻説法を行なっていたころ、松葉ケ谷に庵を結んでおりましたが、余りに他の宗教を非難するので、怒った念仏衆が日蓮の庵を襲撃したときに、裏山に難を逃れた日蓮を二匹の白い猿が手を引き避難させ、ここの洞窟に匿って食物等を持って来たと云われます。

その事を日蓮が晩年になって、弟子の日朗にこの思い出を語り、ここに一寺を建立するよう頼みました。しかし、日朗は生前にこれを果たせず、日蓮同様池上本門寺で死ぬときに、その弟子の朗慶に松葉ケ谷で荼毘に付し、お猿畠の地に寺を建てここに葬るよう遺言したと云われ、朗慶はこれに従ったとのことです。

先程下ってきたブロック塀脇の道を戻ると、先程の三叉路の右に石塔がありますので、真直ぐに進みます。

山道風や薮道風の道を通り過ぎると一寸した広場に出ます。左右に無縁塚等があり、その先に狭い道が左右に通っています。これが名越の旧道でして、又 旧東海道とも云われます。  

十、名越の切り通し

 よく見るとこちら側と同じように道の向かいの崖の上にも広場があります。これはこの道を警戒する守備隊の溜り場で平場と思われます。又、道の中央には大きな石があります。なんと邪魔なことでしょう。退ければ良いのにと思われますが、実はこれが置石と云って、馬が一頭しか通れないようにわざと置いてあるのです。この石で立ち止まった敵を、両側の平場から矢石を放って殲滅する訳です。

 ここから道を左へ辿るのが名越の切り通しです。途中の切通しや、逆に小さな石を積み上げた道を左へカーブすると、大きな岩が道に迫り出して狭くなっています。

 これは空洞といってわざと狭くして馬が一頭しか通れないようにしてあり、その手前の岩場には建物の柱跡と思われる穴が開いています。これはここに鳥居形の櫓を設け、櫓の下は通り道として、当然何時でも扉は閉められる用にして、二階には盾を構え弓矢を持った兵隊を備えておく訳です。狭められて一頭づつ通って来る敵を弓で射る訳です。  

 

 

 

 

 

 

先の置き石へ戻り道也に下ると大町の踏切に出ますので、踏切を渡ってすぐ右への路次の入り口左に石碑の立った井戸があります。

 

 

 この路次が、旧道の続きです。文永八年の大旱魃の時、通り掛かった日蓮が付近の農民に水を求めたところ、水枯れで困っていると聞き、持っていた錫杖で突いたところ水が出てきたと云われますので、日蓮の乞い水と云います。  

 

十一、銚子の井戸(石の井)

 旧道を先へ歩き左側の鉄板の橋で水路を渡り路次を左へ入ると、鎌倉十井の一つ、「銚子の井戸」があります。一枚岩を刳り貫いてあり、その形が柄長の銚子(酒を注いだ)に似ているのでこの名が付いたと云われます。「鎌倉志」には、長勝寺の境内に岩を切り抜いた井戸とあるので、昔は長勝寺境内はもっと広かったものと思われます。

参考文献

 鎌倉史跡事典   奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

 鎌倉事典     白井永二編 東京堂出版  平成三年十二月二十五日発刊

 鎌倉の史跡めぐり 清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

 かまくら子供風土記 鎌倉市教育研究会編集 鎌倉市教育委員会 平成五年発行

  

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