第五十回歴散加藤塾   源氏と鎌倉の伝承  平成廿三年十月十六日 引率説明  歴散加藤塾主催 @塾長

 一、寿福寺の地     二、寿福寺

 三、鉄の井       四、源平池

 五、流鏑馬の馬場    六、舞殿

 七、八幡宮について   八、八幡宮社殿

 九、大倉幕府      十、頼朝墓

 十一、荏柄天神     十二、文覚屋敷跡地

 十三、勝長寿院跡    十四、上杉屋敷跡

 十五、報国寺

鎌倉は、いつ来てもよい、誰と来てもよい、その鎌倉を都市にした頼朝は源氏である。

まず、鎌倉駅から裏駅の今小路へ出て、北へ歩き寿福寺へ向かいましょう。

一、寿福寺の地

治承四年(1180)八月、驕る平家に対し旗揚げをした頼朝が、一敗地にまみえながらも、安房・上総において、奇跡の逆転により、関東の豪族は皆頼朝になびき、鎌倉入りをするのです。

さて、その際に吾妻鏡では、千葉介常胤が「今のおられる所は、たいした守りやすい土地でもなし、ましてや先祖の謂れも無い。速やかに相模の鎌倉へ行かれるが良い。常胤が出入りのもの皆引き連れて、頼朝様をお出迎えに参りましょう。」と云っております。

この、先祖の謂われを調べてみましょう。

それは、頼朝の時代からさかのぼること百六十年の昔、平安時代の長元元年(1028)今の千葉県の豪族平忠常が安房守平惟忠を焼き殺す事件を起こしました。原因は不明だが、受領と在地領主である忠常との対立が高じたものらしい。続いて忠常は上総国の国衙を占領してしまい、これに上総・下総・安房の豪族たちが加担してしまいました。

通常なら、当時、在地豪族(地方軍事貴族)はたびたび国衙に反抗的な行動をとっていましたが、中央の有力貴族との私的な関係を通じて不問になることが多く、実際に追討宣旨が下されることはありませんでした。しかし、この事態に危機を感じた京都朝廷は征伐のため、追討使を立てることにし、将門を滅ぼした平貞盛流の平直方を任命派遣しました。

桓武天皇─葛原親王─高見王─高望王┬国香┬貞盛┬維衡─正度─正衡─正盛┬忠盛┬清盛

                          │        └維時─直方┬惟方

                          └良文┬忠頼┬忠常

関東へ下った直方は、千葉県を攻めるための陣を鎌倉に置きました。金沢へ出て船で攻めるのにも、敵が船で攻めてきた時の用心も考慮して、武蔵道と六浦道の鉤の手に当たる現在の寿福寺の地に館を建て、構えました。 ところが、千葉県の地は戦火を逃れるため農民が逃散し、荒廃してゲリラ戦となってしまったので、思うように戦を平定することが出来ませんでした。

業を煮やした朝廷は直方を解任し、新たに源頼信を任命します。頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向しました。 長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした長元四年(1031)春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏しました。

この長元の乱で、霞ヶ浦の浅瀬を見抜いたり、弓の名人の誉れの高い頼信の子源頼義に直方が惚れ込み、己の娘の婿にします。娘を上げることは全財産を譲ることになり、寿福寺の館はもちろん、鎌倉の地は、これ以来源氏の所領となったのです。その後、この館に住み、子に恵まれないと甘縄神明社に祈願し、長男八幡太郎義家を授かったと伝えられます。

なお、頼朝が鎌倉入りした際に御所の地を決めるのに「亡き父左馬頭源義朝様の亀谷の邸宅跡を見に行きました。直ぐにこの場所に邸宅を構えようと一旦は決められましたが、地形が広くなく、それに岡崎四郎義實が義朝様の供養の為に、お堂を建てていましたので、やめることにしました。」とありますので、頼義ー義家ー義親ー為義ー義朝と引き継がれてきたのでしょう。  

二、寿福寺

(臨済宗壽福金剛禅寺・鎌倉五山第三位)

寿福寺の創立は、岡崎四郎義實の次男で土屋へ養子に行った土屋兵衛尉義Cが継いでいやようで、吾妻鏡には、北条政子が頼朝の死後、元々この地は頼朝の父義朝の土地なのでと、寺を建立するために取り上げます。

正治二年(1200)閏二月小十二日戊戌。尼御台所政子さまの願として、お寺を建立するために、土屋次郎義清所有の亀谷の土地を指定しました。これは、下野国司源義朝の旧宅地です。その先祖を弔うために、岡崎四郎義実が草庵を建てていました。今日、二階堂民部大夫行光と大夫属入道三善善信がその土地を検査しましたとさ。

そして、翌日には、葉上坊律師栄西に与えました。

正治二年(1200)閏二月小十三日己亥。晴れです。亀谷の土地を葉上坊律師榮西〔後に僧正まで昇りました〕に寄付されました。寺地用の清浄な土地として俗界との境界をするように命じられました。午の刻(昼十二時)に坊さん達が集まって、経を唱えながらぐるぐる回る行道を行いました。施主の政子さまも立ち会いました。所六郎右衛門尉朝光が輿を警備し、土屋義清は仮の小屋を建て、珍しい御馳走を用意しましたとさ。未の刻(午後二時頃)に建物〔寿福寺です〕の着手式です。大夫属入道三善善信と二階堂民部大夫行光が担当です。

正治二年(1200)七月小十五日己巳。金剛寿福寺で、先日京都から来て政子さまが寄付した十六羅漢の絵に、魂を吹き込める開眼供養の儀式を行いました。指導僧は、寿福寺長老の葉上坊律師栄西です。尼御台所政子さまもお経を聞くために、お堂を参られたそうです。

それから、二年後に、東逗子の沼間の義朝ゆかりの旧宅を、夢枕で頼まれたと称し、分解して移転させ、寺に寄付しております。

建仁二年(1202)二月大二十九日甲辰。左典厩〔義朝〕の沼間の古い住宅を分解して鎌倉へ運ばせて、葉上坊律師栄西の亀ケ谷の寺に寄付しました。二階堂民部大夫行光が指揮担当です。この話は、この寺を建立した初めにこれを決めましたが、唯一残っている父の記念として、頼朝様が特にその壊れたところを修復させたのです。しばらくの間壊してはならないとお決めになられておりました。しかし、左典厩〔義朝〕が尼御台所の夢の中にあらわれて、わざわざ申されるのには、「私は何時でも沼間の屋敷にいる。しかし、近くの海では猟師が盛んに魚を取る殺生をするので、これを分解して寺の中に建ててくれて、六楽を得たいのだ。」とのことでした。夢が覚めてすぐに大夫属入道三善善信にこれを書き残させ、葉上坊律師栄西に送らせました。大江広元が云うには「六楽とは、六根清浄の六根楽と云うことでしょうね。」だとさ。

元久元年(1204)二月小二十八日壬戌。今日、尼御台所政子様の生きてるうちに死後の冥福を祈る仏事の満願の日です。指導僧は寿福寺の主です。

元久元年(1204)五月小十六日戊寅。尼御台所政子様は、金剛寿福寺で法事を行いました。祖父母の追善供養だそうです。

政子や実朝の信心が篤かったせいか、二人の墓と伝える「やぐら」が裏の墓場にあります。

寿福寺の総門を出た右の植え込みに、石柱が立っておりますが、これは鎌倉十橋のひとつで、徳河家康の妾、お勝が英勝寺の建立と共に、功徳として扇川に橋を架けた石橋があります。

ここから、踏切を渡り東への道は、いわや道と呼ばれています。少し行った先の左に巌谷不動があり、以前は岩窟の中におられたのですが、がけ崩れのため今では表にお堂があります。

吾妻鏡には「窟堂」と書かれ、大寺の法要には坊さんが出ているので、一寺院となっていたものでしょう。

左に輸入映画配給の喜多川長政かしこ夫妻屋敷跡が映画記念館になっています。道は小町通りにぶつかり、左に折れると右に、鎌倉十井のひとつ「鉄の井」があります。  

三、鉄の井

鎌倉時代にこのあたりに頼朝建立の新清水寺があり、丈六の鉄の仏様があったそうです。その寺が火事にあったとき、御本尊は自らこの井戸に逃れたそうです。

それが明治の廃仏毀釈の際に、道端でハンマーで壊していたのを、東京の商人がもったいないと買い取って行きました。その仏様は今でも日本橋人形町の大観音寺にあるそうです。

八幡宮前の東西の道は「横大路」と呼ばれます。  

四、源平池

橋の下の池を源平池といい、その謂われは「一説には初め双方とも島が四つだったのを、政子が日の昇る東の島を三つにして、産につづくので源氏とし白い蓮を植えさせ、日の沈む西側を死につながる四つにし、平氏の旗印と同じ赤色の蓮を植えさせたという伝説があります。

しかし、源平池という名は江戸時代以降なのだそうです。」吾妻鏡では

  寿永元年(1182)四月小廿四日鶴岡八幡宮の前の弦巻田三町ちょっとの水田作りを止めさせ、放生池を作ることにしました。専光坊と大庭景義とに作事奉行を命じました。

とあり、政子様の話は出てきません。

弦巻田とは、現在の源平池であるが、現在は三分の一しかありません。かつては、流鏑馬馬場から南全体が池だった。

参考:弦巻田というのは、田んぼを円形に作り、稲を渦巻きに植えていく神へ捧げる為の米を栽培する斎田のことであろう。私は、飛騨高山の民家園で見た。田植えの仕方は、田んぼを丸く作り、真ん中に棒を立て縄をむすび、縄を杭に巻きつけます。その縄の先端の位置に一尺(30cm)ごとに苗を植えながら柱の周りを回っていくと、ほどける縄の長さに合わせ、自然と渦巻き状に苗は植えられていき、最後に田んぼの畔で上へあがります。

参考:放生池とは、普段魚鳥を食べている殺生禁断の罪を償うために、卑賤の者から魚鳥の生きているのを買い求め、お経に合わせて鳥は空へ、魚は放生池へ放つのです。この儀式を放生会、池を放生池と称し、神仏混交時代の神社仏閣には殆どあったようです。八幡宮では旧暦の八月十五日だったので、今でも神社の祭礼を九月十五日に行っています。但し、放生会は別の機会にしているようです。

参道を社殿に向かい進んでいくと、参道を横切る左右に未舗装の道があります。  

五、流鏑馬の馬場

この道は、両端に鳥居があり、放生会の翌日八幡宮へ奉納する流鏑馬神事の道なのであります。

射手は、狩装束に弓を持ち神様にお参りをした後、自ら馬を引いて西の突き当たりに桟敷を構えた頼朝の前まで挨拶に行きます。そこから東の鳥居前まで厳かに馬を引いてさがり、順に馬にまたがり、左手に弓、右手に三本の矢を手挟み、ここを走りながら三つの的に矢を当て、西の桟敷前で急ブレーキをかけるわけです。

現在でも、春には第三日曜日に武田流が、秋の九月十六日には小笠原流が勇壮に執り行います。

流鏑馬の面白い逸話には

頼朝は文治二年(1186) 八月十五日鶴岡八幡宮の放生会の時に、西行法師(佐藤兵衛尉憲清)と出合い、秀郷流の弓馬の法(流鏑馬も含まれる)を教わっています。

又、文治三年(1187)八月四日条では、謡曲敦盛で有名な熊谷次郎直実が頼朝に的立て役を命じられ、御家人は皆平等なはずなのに、流鏑馬役は騎馬で、的楯役は徒歩あるきなので、そんな役は不公平だと怒るのを、頼朝は的楯役も立派な役目だと説得するのですが、直実はどうにも承知しないので、領地熊谷郷の預所職を取り上げられたといった話もあります。

六、舞殿

静御前の舞で有名ですが、当時は舞殿はなく、内門から社殿へ取り巻くように作られた回廊で踊ったそうです。吾妻鏡では次のように語っております。  

 文治二年(1186)四月大八日乙卯。頼朝様と奥方様は、鶴岡宮にお参りをなされました。その機会を利用して、静御前を回廊にお呼び出しになられました。これは、舞を奉納させるためです。この踊りは、前々から命じておられましたが、病気だと云って云うことを聞きませんでした。

 捕われ人なので、素直に言うことを聞かない訳にはいかないのだけれども、九郎判官義経の妾とあきらかに分かるように皆の前に出るのは、とても恥ずかしい事なので、普段からぐずぐずとごまかしてきたけれども、彼女の舞の名声は、世間に知られた名人なのであります。それが偶然に関東へ来て、近いうちに京都へ帰るというので、その芸を見ないで帰してしまうなんて、なんてもったいないことかと、奥方様が盛んに進めるので、仕方無しに呼び出すことになりました。絶対に八幡大菩薩もお気に入られるであろうとおっしゃられましたとさ。

 最近は、とても悲しいことがありましたので、とても踊りなんて上手に踊る気力もありませんと、回廊に座ってからも未だぐずって辞退していました。しかし、何度も命令されたので、嫌々ながらも、白雪のような真っ白な袖をひるがえして、黄竹の歌を歌いました。

 工藤左衛門尉祐経が鼓を打ちました。彼は、何代か前からの武勇の優れた家に生まれて、戦闘の技を継いでいるだけでなく、六位の蔵人として京都へ勤務した時に自分から歌になじんでいたのでこの役を与えられたのでしょうね。畠山次郎重忠は銅の拍子木を打つ役です。

静御前はまず、歌を歌って述べました。

  吉野山峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ

  (落人として逃げた時に吉野山は女人禁制仕方なくお別れし、深く積った峰の雪を踏んで 山へ分け入って行ったあの人の後姿が忘れられずに、いっそ後を追って行きたかったのに)

  次に別な今様などを歌った後で、和歌を吟じました。

   シヅヤシヅ〜〜ノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今ニナスヨシモガナ

  (しずしずと糸巻きが何度も巻き返しているように、私もあなたとの睦みあっていた昔を 走馬灯のように思い出しては泣いています)

  いやもう、本当に神殿のお供えにぴったりの見ものでした。神殿の梁に積もった塵さえも神様が喜んで震え動いているように、見ている人は上下の別無く感動をしました。それなのに一人だけ野暮なお方の頼朝様が、おっしゃるには、「八幡宮の前で、芸能を奉納する時に、関東の安泰を祝うところだろうのに、神も私も聞いていることを知りながら、 鎌倉に反逆した九郎義経を恋しくて別れの時の事を歌うなんてとんでもないやつだだ。」とさ。そしたら奥方様がたしなめられて云いました。

    「あんたが、犯罪者として島流しにあって、伊豆に蟄居していたときに、私はあんたと 出来ちまったけれど、父の北条時政さんが、平家全盛の時に源氏のせがれとの事を平家への聞こえを心配して、私を合わせないように閉じ込めてしまいました。しかし私はそれでもあんたが恋しくて、真っ暗な夜の闇の中を、激しい雨に打たれながらも、あんたの所へ逃げていったものさ。それに、石橋山の合戦に出陣している時は、一人で走湯神社に逃げ込んで残り、あんたの生き死にを知ることも出来ず、ただ毎日生きた心地もしなかったものでしたよ。その時の悲しみを思い出せば、今の静御前の心は、源九郎義経が可愛がってくれたことを忘れずに恋しがっているので、他の男には目もくれない貞操堅固な女の姿だと云えるんじゃないのかい。踊った外見の素晴らしさもさることながら、内に秘めた感情にも感謝したいよ。本当に魅惑的に感動させられたのだから、そこらへんは我慢をして、褒めてあげてくださいな。」だとさ。それで、頼朝様も(やせ我慢せずに褒めることが出来たので、ほっとして)着ている着物「卯の花重ね」を御簾の外に押し出し、これをご祝儀にしましたとさ。(めでたし、めでたし!)  

七、八幡宮について

祭神は応神天皇、比売神、神功皇后です。宇佐、石清水と共に全国の八幡宮を代表する大社であります。

始まりは、康平六年(1063)源頼義が奥州を鎮定しての帰り、海岸近くの由比郷鶴岡の地に密に石清水八幡宮を勧請し、鶴岡若宮と称しましたのが、辻の踏み切りそばの元八幡です。後永保元年(1081)二月陸奥守同朝臣義家は修理をしました。

これをその後、治承四年(1180)頼朝が鎌倉入りすると小林郷北山に遷座し、鶴岡八幡新宮若宮と称しました。

建久二年(1192)三月三日昼間法会が行われ、箱根権現から呼んだ稚児舞や、流鏑馬、相撲が奉納され、大満足の頼朝でした。ところが、その夜半(今の翌朝未明)小町大路あたりから出火し、折からの南風にあおられ境内の堂塔ことごとくが焼けおち、おまけに大倉幕府までが焼失してしまいました。

 建久二年(1191)三月小四日壬子。曇り。南風が激しい日でした。日付が変わって直ぐの丑の刻午前二時頃に小町大路の辺りから出火です。北条義時、大内惟義、八田知家、比企朝宗、佐々木盛綱、一品房昌寛、新田忠常、工藤行光、佐貫廣綱の家を始め、民家数十軒が燃えてしまいました。その火の粉が飛んで、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の五重塔に燃え移りました。この火事で幕府も同様に燃えてしまいました。たちまち八幡宮の神殿も回廊も経堂も全てことごとく焼失してしまいました。八幡宮の北西奥の坊さん達の宿坊も若干は、同様にこの延焼を逃れられませんでした。昨晩の広田次郎邦房の言葉の云うとおりでした。寅の刻午前四時頃に(頼朝様たちは)藤九郎盛長の甘縄の家へ入られました。火事から逃れるためです。

そして、六日にこの礎石の跡を見て頼朝は泣きました。  

八、八幡宮社殿

社殿の建築様式は流れ権現造りといわれ、本殿と拝殿の二棟をつなぎ、幣殿としており、文政十一年(1828)将軍徳川家斉の造営です。左右の回廊は西が宝物殿で古神宝類や重文の太刀等があり、東は事務所や控えの間などになっています。門を入るときに上の額の「八幡宮」の「八」の文字が鳩になっているのは、源氏の白鳩とも謂われる八幡宮のお使いの白鳩です。

回廊西側の小高い上の稲荷は、丸山稲荷でもとからここにあったというので、地主神といわれ社殿は小さいながらも室町時代の建築で国の重要文化財になっています。

階段を下りて下社は、応神天皇の子、仁徳天皇を祀っています。建物は徳川家光の寄進です。

下社前を東へ進むと左奥に白旗神社があります。

祭神は、頼朝実朝を祀っています。ここの御手洗石がよく見ると連弁が逆さになっています。これは、明治の廃仏毀釈以前の一切経の納めてあった輪倉の礎石を逆さまにして中を刳り貫き、手水鉢にしたものです。廃仏毀釈の嵐のすさまじさを語っております。

南へ歩き、流鏑馬の馬場へ出たら、正面に源平池休憩所がありますので、一休みしましょう。

流鏑馬道を東へ出ると、右角に畠山重忠屋敷跡碑がありますが、石碑を建てた時代はそう思われていましたが、現在ではこの地は政所跡と推定されており、発掘調査で、三十から五十枚づつ束ねた「かわらけ」が数千枚もでてきたそうです。重忠の屋敷は南御門の正面と考えられております。突き当たった北に国大付属小学校の門がありますが、かつての西御門大路は、ここを南北に通っていました。明治時代に明治天皇を迎えて、帝国陸軍の初めての洋式演習をこの地でする際に用地が足りず、西御門大路を付け替えて広げたのです。天皇は八幡宮裏の大臣山のてっぺんで演習を見ていたそうです。

大倉幕府は、北は頼朝墓前の公園の前まで、南は六浦道、東は現在の関取場の石碑、西はここまでの広さだったのです。

小学校の門まで行き、右の路地を現在の西御門通りへ出ましょう。出たら、左へ次の右の土塀前を右へ曲がると、清泉小学校へ出ます。丁度大倉幕府地の真ん中に当たるので、大倉幕府碑が立っています。

九、大倉幕府

幕府内は、このあたりに築地塀で南北に分かれており、南を公邸、北側は私邸だったようです。

吾妻鏡では、和田合戦前に実朝が予言をしております。

  建暦三年(1213)四月小七日戊寅。幕府で女官達を集めて宴会がありました。その時に 山内左衛門尉と筑後四郎兵衛尉等が中庭を仕切った塀の中門のあたりを巡察していました。将軍実朝はこれを御簾の中か見て二人を縁側に呼びつけて、盃を与えながら云う事には、二人共に近いうちに命を落とすことになりそうだよ。一人は敵側となり、一人は見方になるだろうよ。」だとさ。二人とも恐ろしい気持がして、盃を懐に入れて早々に立ち去ったんだとさ。

と、いう具合に書かれていますが、実はこれが書かれたのは百年近く後なので、なんともいえません。

学校脇を北へ歩くと頼朝の墓へ出ます。

十、頼朝墓

その頼朝が正治元年(1199)正月十三日に亡くなりました。その前に、ここには頼朝の持仏が祀られていました。「吾妻鏡」には、

   文治五年(1189)七月小十八日丙子。伊豆山住侶專光房良遷を呼びつけて、命じられました。奥州征伐のために内緒のお祈りごとがあるのだ。そなたは戒律をきちんと守る僧侶なので、私の留守に鎌倉へ来てお祈りをしなさい。私頼朝将軍が鎌倉を出発して二十日目に御所の裏山に特別な祈願所を自分の手で設けて、私の持仏の二寸銀の正観音像を安置して、祈りなさい。他の大工などに頼むことなくそなた自ら柱だけを立てて置けばよいのです。きちんとした社殿造営は先へ行って命令をする予定です。專光坊良暹は承知した旨の手紙をよこしました。

死後そこに法華堂を建立し頼朝の墓とし、右大将家の法華堂という一つの寺となります。

後に和田合戦では実朝がここに逃れ、三浦合戦では三浦泰村、光村、毛利季光など三浦一族とその縁故者二百七十六人がここの頼朝の画像の前で往事を偲びながら自刃しております。

白幡神社公園前を東へ歩くと東御門通りへ出て、先の路地を進むと左に荏柄天神があります。 

十一、荏柄天神

伝説によると、長治元年(1104)八月二十五日、一転にわかに空が掻き曇り、天から天神像が降ってきたので、人々は恐れ敬い天神社を建てて祀ったといわれる。頼朝入府後、大倉幕府の鬼門に当たることから崇敬したので、一時は日本三天神の一つとして賑わいました。今でも、受験シーズンともなれば大勢の若者がお願いに参ります。本殿は、徳川二代目秀忠の寄進とも言われる国の重要文化財です。境内には、漫画家清水昆の「かっぱ筆塚」があり、塔には色々な漫画家が描いた河童の絵が銅版になって貼られています。アトムもおります。荏柄天神の参道を南へ歩くと六浦道へ出ますので、右へ行き信号で向かいへ渡ります。

すぐに橋へ出ます。滑川を大御堂橋で渡ると、橋のたもとに今では鎌倉以外の都会では見られなくなったコンクリートのポストが現役で頑張っています。

この奥に頼朝が自らの菩提寺として建立し、父義朝の骨を供養した南御堂とも大御堂とも呼ばれた「勝長寿院」があったことからこう呼ばれます。

十二、文覚屋敷跡地

橋を渡った右手に文覚上人屋敷跡地の石碑があります。

この文覚は、遠藤盛遠と云う武士で、元は京都御所警護の北面の武士でした。

ある日、同僚の奥さんと不倫に陥り、いっそ同僚を殺して一緒になろうと不倫相手の奥さんと

企み、寝ているところを刺し殺すことにするのです。ところが罪の意識に苛まされた奥さんは、自ら死を選び同僚のふりをして寝ていたのですが、そうとも知らず、盛遠は約束どおり夜中に忍び込み、奥さんを刺し殺してしまいました。その罪を悔い世の無常を悟り、出家して那智の滝に打たれたり、夏の熊野で裸のまま藪で座禅を組んだりと荒行に励んだのでした。

文覚は京都高尾神護寺の復興の寄進を後白河法皇にせがみすぎ、伊豆へ流罪になり、頼朝に父義朝の髑髏を見せて平家打倒を決心させたとも云われ、頼朝は大事にしてこの先の大御堂を守る意味でここに屋敷地を与えたのかも知れません。

道也に路地を歩くと右に古材が詰まれて居ますので、右へ曲がりましょう。

少し入ると左に金網で囲まれた史跡があります。  

十三、勝長寿院跡

頼朝は、この地に父義朝の菩提を弔うため寺を建てます。それが勝長寿院です。

この頃、関西では義経・範頼軍が平家を屋島から壇ノ浦へと追いつめている最中でした。

元暦元年(1184)十一月廿六日辛亥。頼朝様は、お寺を建立するために、鎌倉中の景勝の地を求めて探し回りました。幕府事務所の東南の方向に一つの神聖な聳え立つ場所がありました。それなので、仏閣の建立をその場所に決められました。これは、亡き父への菩提を弔いたいとの願いのためです。(中略)今日鍬入れ式を行いました。

それから一年

元暦二年(1185)二月小十九日癸酉。今日は、南御堂の地鎮祭です。頼朝様<香を焚き染めた水干を着て、月毛の馬に乗られ>その場所へ参られました。南御堂建立の谷戸の南の山麓に、仮設小屋を作り、御臺所(政子)も一緒に入りました。今日の儀式を見るためです。午後四時ごろには、建築技術者に褒美を与えました。褒美に馬を引き出しました。

この勝長寿院の工事中に面白い記事があります。

元暦二年(1185)三月大十八日辛丑。南御堂(勝長寿院)の工事中に、大工さんが一人(あざなを観能と云う)が、誤って屋根の上から地面に落ちました。それなのに体の何処にも傷を負わず無事でした。皆不思議に思いました。それはきっと、この寺を建てている願いが正しいので、仏様の意思に叶い、その男も死なずに済んだのであろう。最初から最後まで頼みがいのある神仏なのだと、頼朝様は一層信心を深めましたとさ。

そして運命の三月二十四日、平家は壇ノ浦に滅びるのです。

元暦二年(1185)四月小十一日甲子。未の刻(午後二時頃)に南御堂(勝長寿院)の立柱式(建前)です。頼朝様も立ち会われました。

そこへ九州からの伝令が到着して、平家を滅亡させた事を申し上げました。源廷尉〔義經〕は一巻の巻物の記録〔中原信泰が書きましたとさ〕をよこしました。これは、先月二十四日に長門国(山口県)赤間関の海上に、八百四十以上の船を用意しました。平家もまた、五百艘以上で船を漕ぎ向かって戦いました。昼頃に、反逆者の平家は負けました。(後略)

元の道へ戻り、先へ歩くとやがて左側に「田楽辻子」の説明文があり、右には「犬懸」の石碑があります。この今歩いてきた路地にそって田楽舞の田楽師集団の住まいがあったそうです。

吾妻鏡では、後に先にもたった一度だけその名が出ます。

康元二年(1257)十一月廿二日癸酉晴。丑尅、若宮大路焼失す。藤次左衛門入道の家から失火。花山院新中納言〔長雅卿〕、陸奥七郎、下野前司、内藏權頭、式部大夫入道が舊宅、壹岐前司、伊豆太郎左衛門尉、前縫殿頭文元等の亭、悉く以て災す。田樂辻子に至り火止まる。

十四、上杉屋敷跡

上杉氏は、鎌倉幕府六代將軍宗尊親王にしたがって京から下ってきた重房から始まります。鎌倉幕府崩壊後も足利氏に使え鎌倉公方の執事をして関東管領と呼ばれます。

孫、ひ孫の代に四家に別れ、それぞれの住まう屋敷の地名を取り扇谷、宅間、犬懸、山内と呼ばれます。左記の系図のうち氏憲は、出家して禅秀と名乗りますが、一度執事職についたものの、四代鎌倉公方足利持氏は彼を嫌い、憲基に変えてしまいます。

氏憲は、持氏に不満を抱く持氏の叔父の満隆や持仲と謀反を起こし、持氏を攻め駿河へ追いやってしまいます。これに対し、京都の将軍家は持氏を支持し、駿河の今川を始めとする東国諸将に救援を呼びかけたため、氏憲は攻め滅ぼされてしまいました。これを「禅秀の乱」といいます。藤沢の遊行寺にこの乱の戦死者を弔う敵味方供養塔があります。

参考*鎌倉幕府将軍職九代(罫線は親子、矢印は兄弟、点は他人)

源頼朝―源頼家→源実朝・九条頼経―九条頼嗣・宗尊親王―惟康親王・久明親王―守邦親王

上杉氏     ┌重顕(扇谷)
   重房─頼重┤
        └憲房┬重能(宅間)
       (犬懸)├憲藤┬朝房
           │  └朝宗─氏憲「禅秀」
       (山内)└憲顕─憲方─憲定─憲基・憲実………上杉謙信

足利氏          ┌義持
(京都
) 尊氏┬義詮─義満┼義嗣
       │     └義教
(鎌倉公方)└基氏─氏満┬満兼┬持氏
            └満隆持仲

そのまま路地を抜けると報国寺の前へ出ます。

この谷を宅間谷と呼びます。絵師下総権守藤原為久(号宅間)が住んでいたので、そう呼ばれます。

十五、報国寺(臨済宗建長寺派・巧臣山)

開基は足利尊氏の祖父の家時といわれ、開山は中国帰りの仏乗禅師(天岸慧広)です。

鎌倉公方足利氏の寺として栄えたが、先ほどの上杉禅秀の乱の後、四代持氏は京都の将軍義教と対立し、嫡子の元服に当たって、京都將軍の一字を受ける慣習を無視して義久と名付けたため、関東管領の上杉憲実は身の危険を察知して職を辞し、上州へ逃れた。これを京都將軍は、鎌倉公方の謀反と受け止め、駿河の今川氏などに攻めさせ、持氏は降伏し、永安寺で切腹した。

この時、嫡男の義久はわずか十四歳の身で、この報国寺で切腹したと伝えられます。

参考文献

 鎌倉史跡事典   奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

 鎌倉事典     白井永二編 東京堂出版  平成三年十二月二十五日発刊

 鎌倉の史跡めぐり 清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

 かまくら子供風土記 鎌倉市教育研究会編集 鎌倉市教育委員会 平成五年発行

  

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