歴散加藤塾 第五十一回鎌倉史跡めぐり 鎌倉の紅葉をさがす    平成二十三年十二月四日

 

一、若宮大路

二、段葛

三、源平池

四、筋替橋

五、関取場

六、永福寺

七、獅子舞谷

八、六国峠見晴らし岩

九、十王岩

十、朱垂木やぐら

十一、太平寺

 

 

鎌倉の紅葉といえば、公称二千本の獅子舞谷です。今年は台風による潮風のため難しいのですが行ってみましょう。

鎌倉駅を東口に降りたら駅前広場をつっきり、先の信号まで出ると南北に大きな通りに出ます。

一、若宮大路

この若宮大路は、鎌倉に住んでいる人も、訪れる観光客の我々も南北にまっすぐだと思い込んでおります。しかし、地図を見ると東へ傾いていることが分かります。

京都では、比叡山と東山とを直線で結ぶとほぼ南北にとおっており、その線に沿って、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西路の一条大路を築きました。

鎌倉では、天台山と衣張山とを結び、その線に沿って十王岩から南へ四百六十丈の処に三の鳥居前の横大路を設定し、鶴岡八幡宮の南境とし、これにあわせて若宮大路を一直線にしました。このため、若宮大路は27度東へぶれているのです。

これにより、頼朝は京都の街づくりに習い、八幡宮を内裏にみたて、朱雀大路をまねて若宮大路をこさえたと謂われます。

発掘調査の結果、二の鳥居あたりで幅十一丈(33m)両端には幅一丈(3m)深さ五尺(1.5m)の堀が造られていたそうです。堀の向こうには背丈以上の土が盛られ土塁のようになっており、屋敷は皆、背を向けていたようです。

若宮大路を横切ることが出来るのは、上の下馬橋、中の下馬橋、下の下馬橋の三箇所だけが通れたようです。下馬とは、敬うべき神社仏閣、貴人の前では馬から降り礼を尽くすのがしきたりなのです。

明治初年頃 大正時代

二、段葛

若宮大路整備時に、当時は未だ海水面が高かったので、堀道にした大路はぬかっていたと予想されます。神様が社へこられる道、或いは儀式の参詣路として、中央に川原石を敷いたのが始まりと思われ、後に両を葛石で固め土を埋めて一段高くしたものと思われます。

上の写真は、明治初年頃の写真ですが、葛石こそはっきりしませんが、段葛の高さは現在同様に一段高く感じます。

この段葛を歩いてみると面白いのは、段々道幅が細くなっていくのです。二の鳥居のあたりで6.5mあるのに、中間の信号の場所で5.5m、三の鳥居前の出口では4.5mしかありません。ダヴィンチよりもずっと昔に既に遠近法を用いているのです。

一説に、仮想敵国の平家が攻め来たときに上と下とで矢合わせになった時、距離感を惑わせるためとも、神社への道が遠く見えることにより、より荘厳に感じるとも謂われます。

信号を渡ると三の鳥居です。

三、源平池

橋の下の池を源平池といい、その謂われは「一説には初め双方とも島が四つだったのを、政子が日の昇る東の島を三つにして、産につづくので源氏とし白い蓮を植えさせ、日の沈む西側を死につながる四つにし、平氏の旗印と同じ赤色の蓮を植えさせたという伝説があります。

池に沿って、休憩所の脇へ出て、北側の流鏑馬道を東へ出ましょう。突き当りを右へ出ると信号が有ります。

四、筋替橋

この地から東への道を「六浦道」とも金沢街道とも呼ばれます。古道を歩く会「下の道壱」では、この道を朝比奈切通しを通って、金沢八景まで歩きました。

この街道は頼朝入府以前からの道で、このまま西へまっすぐ寿福寺の前へ達していたようです。つまり寿福寺の地は六浦道と武蔵大路の出発点源氏屋敷の地だったのです。

京都では、比叡山と東山を結んだ線と平行に、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西に一条大路があります。鎌倉では、天台山と衣張山を結んだ線に平行に、十王岩から四百六十丈のこの横大路の北に八幡宮を祀りましたので、六浦道の道筋をここで63度曲げたのです。そして、この道路の下を西御門川が流れ、架けられていた橋が「筋替橋」なのです。

ここから、東を見ると北側には大倉幕府の泥築地の塀が続き、南側には政所別当大江広元の屋敷、事実上の常陸支配者八田知家の屋敷、そして秩父党の希望の星、畠山重忠の屋敷が並んでいたようです。処に横大路として、若宮大路を南へ引いたので、27度ずれております。

五、関取場

戦国騒乱時代の天文十七年(1548)に小田原北条氏が関を儲け、通行税として関銭を取上げ、これを荏柄天神社の造営に当てたとのことです。麻紙布類の荷物は十文、乾物馬は5文、人の背負い物は三文、運送屋の馬は、一頭十文、往来の僧、俗人、里人は無料だったようです。

左の路地は、頼朝が建立した永福寺へ通じる「二階堂大路」なので、ここが本当の分れ道なのです。北側の発掘調査では、南北に列の柱穴が並んでいますので、挟み板の塀があったのかもしれません。先へ進むと荏柄天神の参道と交差し、やがて鎌倉宮の脇へ出ます。

六、永福寺

先へ進むと右側に大きな石を積んだ家があります。

このあたりは小字を「四石(よついし)」と云い、永福寺の総門があったところといわれます。

左にテニスコートを眺めながら進むと「史跡永福寺跡」の石碑や史跡案内板があります。

ここの左一帯は、頼朝が奥州征伐を終え、平泉の中尊寺や毛越寺・無量光院などの文化に感激し、治承寿永の源平合戦や木曽義仲・義経・奥州合戦で滅びた泰衡や多くの将兵の

御霊を供養するために、建物は中尊寺の大長寿院、庭は毛越寺を見習い建立した浄土庭園の永福寺の跡地なのです。

道を先へ進み、二階堂川にそって左へ曲がり、左の民家の先まで行くと発掘調査を終え、埋め戻した野原になっています。

ここから西側に山を背に真ん中に裳腰付の二階建てに見える本堂(釈迦堂)、北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂と並び、その間を氏の平等院のように回廊で結び、左右の堂からは、手前へ回廊が伸び、その前に北のはずれから南のテニスコートまで池が作られ、その優美な姿を水面に映していたことでしょう。

空き地の出入り口の金網の所からは、北側手前には二階堂川を堰き止め、水を引き入れていた鎌倉石の樋が、北側奥には鑓水の跡も発掘されております。  

その絢爛豪華な永福寺も今では草むらとなっています。

 武士の夢 今はすすきの 永福寺

二階堂川に沿って、上流へと歩きましょう。

やがて人家はなくなり、道は未舗装の砂利道となり、その砂利も消え、いつの間にか山奥へと入ってきてしまいます。ひたすら山道を細流伝いに辿っていくと、両側が屏風のような岩の切り立った場所へ行きます。

七、獅子舞谷

昔、切り立った崖の上に、飛び出した岩が、頭をもたげた獅子舞の獅子頭のような趣だったところから、このあたりを獅子舞谷と呼ばれました。

今ではそれも崩れ落ちて、どれが獅子頭やら分かりません。しかし、良く見るとどうやらここも、切通しとして削り作られたような気がします。この道は、鎌倉を抜けて磯子や上大岡のほうへの間道だったようです。江戸時代から大正時代には、湘南方面からお灸で有名な峰の薬師への通い道だったそうです。

 

道際の水路がなくなり、坂がだんだんきつくなり、露出した泥岩を登ったとたんに、地面いっぱいが黄色い銀杏の絨毯になっている林まで上がれば、そこはもう紅葉の森です。

太陽の逆光に色づき始めた紅葉は、一枝で緑から黄色、黄色からオレンジ、オレンジから赤とグラデーションに輝くのを蜀江錦からとって、塾長は「錦の紅葉」と名付けております。

太陽を背にして、真上を見上げれば、そこは別な美の空間です。

錦の紅葉を堪能したら、一気に尾根まで急坂を登ります。

上りきれば天園ハイキングコースの獅子舞口交差点へ出ます。右が瑞泉寺方面、左前方は茶屋の脇へ出て、そこから右なら金沢文庫方面へ、左へ茶屋の前を登り右へ行けば、北鎌倉方面へ出ます。

直ぐ左脇の岩を登って、鎌倉の海から江ノ島方面の眺望を楽しみましょう。

八、六国峠見晴らし岩

かつて、この頂上から左に安房・上総・下総、正面に伊豆、右には武蔵、天気がよければ富士山の駿河まで見えると、六つの国を見渡せることからその名が付けられました。

現役を引退した東郷平八郎が逗子に住んで、このあたりまで良く散策をして、あまりの眺めのよさから「天園」と名付けたそうで、今では天園ハイキングコースと言われます。

北へ向かい峠の茶の脇を上り詰めたら、セメンのぶんながし舗装を下ると右にゴルフコースのティーグランドが見え、左にトイレがあります。

その先のゴルフ場の裏の広場で昼食にしましょう。

広場の西側に風化され縞模様の段々になったゆるい崖を上ったところが、鎌倉の最高峰152mの太平山です。急な坂を下り、右へ左へとくねりながらハイキングコースは続きます。やが

て尾根の十字路へ出ます。右の北への道は今泉住宅・鎌倉湖と呼ばれる散在ケ池へ、左の南への道は覚園寺前へ出ます。

20mも行くと左側の一段上に「地蔵やぐら」があり、ここらの南側崖一帯には無数のやぐらがあり、通称「百八やぐら」と呼ばれます。十字路へ戻り、西側へ先ほどの続きを歩きましょう。

九、十王岩

やがて、右側のやぐらの上に「弘法大師像」のある鷲峰山、その先右上に「十王岩」と呼ばれるやぐらがあります。三体のお像を彫り残してあり、中央に「地蔵菩薩」向かって「如意輪観音」右に「閻魔大王」です。良く見ると屋根部分に梁の跡が掘られ、かつてはきちんとお堂の形をとっていたことが忍ばれます。又、閻魔大王は地獄の裁判官十人の代表でもあるので「十王」とも呼ばれます。

昔、この地には、余り木が無く、松が一本だけあったそうな。その松が風が吹くとひゅうひゅうと唸り声を上げたそうな。鎌倉の町では、子供が言うことを聞かないと「地獄へ落ちた亡者供が、閻魔様に攻められて、ヒーヒーと泣き声を上げている。お前も悪さばかりしていると閻魔様に泣かされるぞ。」と子供を脅し叱りつけたそうで、別名を「わめき十王」ともいわれます。

十、朱垂木やぐら

道を少し戻ると谷へ降りる分れ道があります。これを辿り、谷間へ降りた左側にやぐらが三基あります。

中央のやぐらには、中に台座・天蓋が掘られており、入口の軒には朱色で垂木の模様が描かれています。「朱垂木やぐら」と呼ばれますが、ここはどうやら墓ではなく、このあたり一帯の本堂を表現しているようです。

そこから谷間へ下っていくと山道が続き、まるで寺院跡でもあったような平場を過ぎると左に人家の屋根が見え、山道の十字路に出ます。

塾長は「西御門奥十字路」と名付けています。

正面の南は、新宮神社や大臣山裏への山道、右が建長寺内塔頭の回春院前へ出て建長寺境内になります。今日は、左の西御門住宅地へ出てみましょう。

段々畑のような住宅地の中のスキーの回転コースみたいな急坂を下ります。

坂を下り終えて、左へ曲がると別な道と合流するので右へ歩きます。しばらく歩くと右の角に「里見ク」の住居跡の記念碑があります。右へ曲がって見ると、高床式の和風の座敷が素晴らしいので、目の保養ですね。

その先で左へ曲がると、正面に来迎寺が、左には「八雲神社」があります。

神社の脇を突き当たったテニスコートは、かつて尼五山第一位「太平寺」があった場所です。

十一、太平寺

初め頼朝が、命を救ってくれた池禅尼の姪の希望で創建したともいわれたり、政子が猶子の木曽義仲の妹、鞠子をこの寺に入れたとか云われますが、よく分かりません。

ただ、戦国時代初期には、足利尊氏の系統の鎌倉公方四代持氏の子で、上杉に追われ古河へ逃れ「古河公方」と呼ばれた成氏、その孫で千葉県の御弓城に寄った御弓御所義明が、里見氏と組んで小田原北条氏と対立しておりました。

しかし、天文七年(1538)国府台(千葉県市川市)の戦で義明は流れ矢で命を失います。

その娘二人を、北条氏は出家させ、姉が青岳尼と称し尼五山第一位の太平寺に、妹は旭山尼と称し、東慶寺の住職になりました。しかし、安房の里見義弘が鎌倉を襲撃して、前の許婚の青岳尼と本尊の聖観音像を奪っていってしまいました。

その後、青岳尼は亡くなり、本尊だけでもと北条氏康は東慶寺の蔭涼軒に頼み、取り返した本尊が、現在東慶寺の宝物館におられる、土紋模様の有る聖観音像です。

また、里見義弘が青岳尼を奪った後、怒った氏康が太平寺を廃絶して、仏殿を円覚寺にくれてやったのが、国宝「円覚寺舎利殿」です。西御門大路を南下して鎌倉駅へ戻りましょう。

 

 鎌倉史跡事典   奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

 鎌倉事典     白井永二編 東京堂出版  平成三年十二月二十五日発刊

 鎌倉の史跡めぐり 清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

 かまくら子供風土記 鎌倉市教育研究会編集 鎌倉市教育委員会 平成五年発行

  

inserted by FC2 system