第五十二回歴散加藤塾  春待つ鎌倉を歩く 平成廿四年三月三日       引率説明       歴散加藤塾主催 @塾長

  一、若宮大路  二、宝戒寺  三、筋替橋  四、関取場  五、荏柄天神参道  六、荏柄天神  、瑞泉寺  八、理智光寺跡  九、明王院

お詫びと訂正

今年の異常な寒さのため、梅の開花が望めません。そこで題名を「春待つ鎌倉を歩く」に変更し、コースも逆にして、宝戒寺・荏柄天神・瑞泉寺・明王院とし、光触寺は除きます。御了解の上、ご参加ください。

昨年は、二月二十日に観梅に来ました。今年二週間遅らしたので、梅は満開だろうと予測しておりました。しかし、今年の寒さは異常です。未だ梅は咲くのを忘れています。

仕方ないので、今日は、単なる史跡巡りで、春待つ鎌倉を歩きましょう。

鎌倉駅を東口へ降りたら、駅前の広場の左側に鳥居が立っております。お土産屋さんと観光客でにぎわう「小町通り」へ鳥居をくぐって入りましょう。

最初の角を右へ歩くと広い通り「若宮大路」へ出ます。「若宮」とは鶴岡八幡宮は石清水八幡宮から勧請しておりますので、子供的存在として「若宮」と呼び、その参道なので「若宮大路」と呼ばれます。信号で道の真ん中にある島のような場所へ行きましょう。

一、若宮大路

この若宮大路は、鎌倉に住んでいる人も、訪れる観光客の我々も南北にまっすぐだと思い込んでおります。しかし、地図を見ると東へ傾いていることが分かります。

京都では、比叡山と東山を結んだ線と平行に、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西路の一条大路を築きました。

鎌倉では、天台山と衣張山を結び、その線に合わせて十王岩から南へ四百六十丈の処に三の鳥居前の横大路を設定し、鶴岡八幡宮の南境とし、これにあわせて若宮大路を一直線にしました。このため、若宮大路は27度東へぶれているのです。

これにより、頼朝は京都の街づくりに習い、八幡宮を内裏にみたて、朱雀大路をまねて若宮大路をこさえたと謂われます。

発掘調査の結果、二の鳥居あたりで幅十一丈(33m)両端には幅一丈(3m)深さ五尺(1.5m)の堀が造られていたそうです。堀の向こうには背丈以上の土が盛られ土塁のようになっており、屋敷は皆、背を向けていたようです。

若宮大路を横切ることが出来るのは、上の下馬橋、中の下馬橋、下の下馬橋の三箇所だけが通れたようです。下馬とは、敬うべき神社仏閣、貴人の前では馬から降り礼を尽くすのが仕来りなのです。特に注目に値するのが二の鳥居辺で、横切る小路が若宮大路で食い違っているのが不思議です。一説に京都朝廷を牛耳っている平家の来襲を想定し、頼朝在住の大倉幕府への堀の役目を与えたとも謂われます。

又、その出入り口には馬から降りる釘貫と呼ばれた踊り塲のような存在も確認されてます。

段葛は、若宮大路整備時に、当時は未だ海水面が高かったので、堀道にした大路はぬかっていたと予想されます。神様が社へこられる道、或いは儀式の参詣路として、中央に川原石を敷いたのが始まりと思われ、後に両を葛石で固め土を埋めて一段高くしたものと思われます。

島からなおも向かいへ渡り、右側の警察署手前を左へまがり、左の教会の裏の路地へ入りましょう。路地を北へ辿ると左側に沢山の赤い旗が立ったお稲荷さんがあります。

このお稲荷さんは、鎌倉時代には宇都宮一族の屋敷の鬼門の隅にあったらしく、又、屋敷の入口がこの東西の路地に向いていたようなので「宇都宮辻子」と呼ぶわけです。

三代執権北条泰時が嘉禄元年(1225)幕府をここへ移し「宇都宮辻子幕府」と呼ばれています。

路地を北へ進み、突き当りを左へ次は右へとクランクして、清川病院の裏を通った先の、黒板塀に見越しの松の家は、鞍馬天狗の大仏次郎さんの生前の執筆活動の地でした。板塀にそって右へカーブをすると「若宮大路幕府跡地」の石碑があります。

ここは、嘉禎二年(1236)にたったの十年で宇都宮辻子から引越したようです。

宇都宮辻子幕府北側の執権屋敷の地へ引っ越したとも、同一敷地内の北側に建物を新築し、若宮大路側に入口を作ったからだともいわれます。

そのまま路地を東へ行くと小町大路へ出ます。左側を歩きながらバス通へ出たら、横断歩道で右側へ渡りましょう。正面に寺があります。

二、宝戒寺(天台宗、金龍山釈満院円頓宝戒寺)

この地は、元北条得宗家(本家)の屋敷地であった。義時の代から時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時と引き継がれてきたようです。元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めにより、菩提寺の東勝寺(廃寺)にて一族は滅びました。

後、建武二年(1335)建武の中興を果たした後醍醐天皇は北条一族の怨霊を弔うため、足利尊氏

に命じて、その屋敷地に寺を建立させましたのが、宝戒寺です。

今では、萩の寺として有名ですが、「宗園梅」と呼ばれる「しだれ梅」も見事です。

本尊は唐仏地蔵と呼ばれる貞治四年(1365)三条法印憲円作の木像地蔵菩薩坐像です。

たくましい慶派系統の多い鎌倉仏に比べ、京下りの優しい表情が特徴です。

本堂の本尊に向かって左側には、鎌倉七福神のお一人毘沙門天や密教系のお不動様もおられます。境内には夫婦和合の歓喜天・徳崇大権現・太子堂などの境内社があります。

小町大路へ出たら歩道に沿って北上し、次の信号で右折します。

三、筋替橋

ここから東への道を「六浦道」とも金沢街道とも呼ばれ、この街道は頼朝入府前からあり、このまま西へまっすぐ寿福寺の前へ達していたそうです。つまり寿福寺の地は六浦道と武蔵大路の出発点源氏屋敷の地だったのです。

京都では、比叡山と東山を結んだ線と平行に、船岡山から南へ四百六十丈の処に東西に一条大路があります。鎌倉では、天台山と衣張山を結んだ線に平行に、十王岩から四百六十丈の処に横大路として、若宮大路を南へ引いたので、27度ずれております。この横大路の北に八幡宮を祀りましたので、六浦道の道筋をここで63度曲替えたところから、この下を流れる西御門川に架かる橋を「筋替橋」と呼ぶのです。

ここから、東を見ると北側には大倉幕府の泥築地の塀が続き、南側には政所別当大江広元の屋敷、事実上の常陸支配者八田知家、そして秩父党の畠山重忠の屋敷が並んでいたようです。

やがて、現在の分れ道の信号で道の北側へ渡りましょう。

六浦道を先へ進むと、左に「関取場」の石碑があります。

四、関取場

戦国騒乱時代の天文十七年(1548)に小田原北条氏康が関を儲け、通行税として関銭を取り、その銭を荏柄天神社の修造費に当てたとのことです。

麻紙布類の荷物は十文、乾物馬は5文、人の背負い物は三文、運送屋の馬は一頭十文、天秤棒の物売りは十文、往来の僧、庶民、里人は無料だったようです。

左の路地は、頼朝が建立した永福寺へ通じる「二階堂大路」なので、ここが本当の分れ道なのです。六浦道を先へ進むと、左の石段の上に鳥居が立ちます。

五、荏柄天神参道

天神様の参道なので、百本以上の梅ノ木が植えられております。

右側には紅梅が、左側には「古代青軸」と呼ばれる、花の中心が青みがかって見える白梅です。なお、この梅の実は、そのまま漬ける「白梅」と紫蘇の葉を漬けた「赤梅」とで、紅白の梅干にして、受験祈願のお守りとして下賜されるそうです。

参道を登ると、途中で二階堂大路や鎌倉宮参詣のバス通りを横切り、互いにもたれかかった「白槙」をくぐると、正面に階段が見えます。

六、荏柄天神

伝説によると、長治元年(1104)八月二十五日、一転にわかに空が掻き曇り、天から天神像が降ってきたので、人々は恐れ敬い天神社を建てて祀ったといわれる。頼朝入府後、大倉幕府の鬼門に当たることから崇敬したので、一時は日本三天神の一つとして賑わいました。今でも、受験シーズンともなれば大勢の若者がお願いに参ります。

本殿は、徳川将軍二代目秀忠の寄進とも言われる国の重要文化財です。

境内には、漫画家清水昆の「かっぱ筆塚」があり、横山隆一等が建立した絵筆塚塔には色々な漫画家が描いた河童の絵が銅版になって貼られています。アトムもおります。

白槙の前へ戻ったら、左へ歩きバス通りを突っ切り、次のかわっぷちの二階堂大路を左へ歩くと、鎌倉宮の脇へ出ますので、一休みしていきましょう。

鎌倉宮脇から、先へ歩くと左側にテニスコートがあります。このテニスコートを含んで北側一帯が、永福寺跡史跡として整備され、将来は復元されるようです。この永福寺の本堂が瓦葺で裳腰のついた二階建てに見えたことから、このあたりの地名が「二階堂」と呼ばれ、今でも住所になっております。

二階堂川を通玄橋で渡り、先へ歩くと気が付かない程度の登り道で、ゆるゆると谷戸の奥へ向かって行きます。車いっぱいの狭い切通しの先に総門が見えます。

七、瑞泉寺(臨済宗円覚寺派 錦屏山瑞泉寺)

ここは、周りを山に囲まれ、秋になると木々が色づき、錦の屏風のようだと山号を名付けたように、谷の名前を紅葉谷と呼ばれます。

円覚寺の中興の祖とも呼ばれる無窓疎石が、名声が上りすぎて来客が多さに辟易としていました。そんな折、鎌倉幕府引付衆の一人二階堂貞藤、法名を道薀が自分の屋敷の一部を提供しました。谷あいの静かなところへもって、裏山に上ると海が見えるからと、疎石は喜び、開山は無窓疎石、開基は二階堂道薀で、建立したわけです。

裏山に庵を儲け、一覽亭と名付け仲間を集め、詩作や禅を論じたといわれます。

境内には、水仙と梅を始め、四季折々に花々が楽しめます。

入口を入るとすぐ、左側に梅林が広がり、先に本堂へと上る新旧の階段があります。左の古いほうの階段は、鎌倉石の石段が磨り減って時の流れを感じさせます。

石段を上ると山門の前へ出ます。

山門を入ると正面に本堂が、方形造り裳腰付きの昭和十年の建築です。本堂内部の正面には釈迦如来、向かって左手が水戸黄門寄贈の千手観音、右側には、開山無窓疎石の坐像です。

本堂に向かって左脇には、黄梅の原木。隣の開山堂をぐるりと回った裏手に、国指定史跡の無窓疎石の造った庭があります。岩盤を繰り抜き、手前には心字池を、向かって右には瀧をしつらえ、左にはジグザグに七曲りをつけて、裏山の一覧亭へ登っています。正面の岩窟から池に映る月を見て座禅に励んだとも伝えられます。

池の西側に地蔵堂があります。昔、英勝寺の北側の谷に「智岸寺」があり、智岸寺谷と呼ばれ、地蔵堂があったそうです。時代の流れの中で、智岸寺は廃寺となり、残った地蔵堂も荒れ果てて参拝の人もなくなり、すっかり貧乏になってしまいました。生活苦から堂守も、何時逃げ出そうかと悩む日々となりました。そんな時、夜な夜な堂守の夢枕に地蔵様があらわれ「どこもく、どこもく」とおっしゃられます。

どういうことなのか分からず、八幡宮の坊さんに聞いてみた所、「それはきっと、お釈迦様は人間生まれたときから苦しみを背負って生きている。何処で生きようが苦しみは同じなのだ。それをお前に教えるために「何処も苦」とおっしゃられたのであろう。何処へ行っても同じなら、今の場所で苦に耐えて励むのが一番の生き方であろう。」と諭されて、今の苦境に負けずに、お地蔵様を守っていこうと決心したそうです。そこで、このお地蔵様を「どこもく地蔵」と呼ぶようになったんだとさ。

苦しいからといって、現実からの逃避では何も出来ない。今の苦しみを乗り越えてこそ、幸せがやってくるものなのだという、仏の教えなのでしょう。

瑞泉寺を出たら、テニスコートの脇まで戻り、左の道へ入りましょう。宅地へ出ると左側に瑞垣に囲まれ、階段が登っています。

八、理智光寺跡

このあたりに、鎌倉時代に建立された理智光寺があったそうで、建武の中興に後醍醐天皇の息子の護良親王が、足利尊氏の策謀により謀反の罪で捕えられ、足利直義に鎌倉へ流罪に連れてこられ、現在の鎌倉宮の場所に幽閉されていました。ところが、北条高時の遺児「時行」が、得宗被官の諏訪一族に助けられ、鎌倉を奪還しようと「中先代の乱」を起こします。

直義は、鎌倉を守りきれず逃げ出すときに、淵野辺伊賀守義博に親王殺害を命じました。

義博は、なんとか殺害したものの、その恨みを呑んだ目におびえ、この辺りに首を捨てて逃げたそうです。それを理智光寺の住職が拾い、寺の裏山に葬ったのがここだと謂われます。

住宅街の真ん中の坂道を登って行き、突き当りを左へ行くと杉本城壁を断ち切った切通しに出ます。ここから南の胡桃谷分譲地を下へ下へと下っていきます。下の道へ出たら右へ行くと谷を抜け、T字路に突き当たります。右奥の浄妙寺から左の先まで、室町時代初期の鎌倉公方屋敷跡なので「御所の内」との小字が残ります。左右の道は稲荷小路と言いますが、左へ歩くと鎌倉市有形民俗文化財の庚申塔が二基並んでおります。その先を左へ右へとたどりながら、バス通りへ出ますので、左へ歩きましょう。しばらく歩くと左に橋を渡って明王院へ出ます。

九、明王院(真言宗)

鎌倉将軍源氏三代の後、京都の九条家から貰ってきた二歳の三寅が成長して、四代将軍頼経となり、彼の祈願で五大明王を祀る五大堂明王院を嘉禎元年(1235)建立しました。

密教によると「五大明王法」とは、悪魔降伏、安産、戦勝、息災を祈るための法だそうで、不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五人を祀ります。

北条政子や義時、泰時と幕府政権の実権を握った人達の傀儡将軍としての頼経が、何を目的に建立したのか、なぞめいております。

茅葺の不動堂や、庫裏のたたずまいは落ち着いた事の風情を味わいましょう。

明王院から戻る際に、右への路地をたどると、左側に古井戸があり、梶原井戸と呼ばれます。この谷戸は梶原平三景時の屋敷跡といわれます。

景時は、鎌倉幕府草創期の荒武者どもの集りに、武家政権としての規範を通すため、御家人の素行などを頼朝に告げ重宝がられましたが、それを告げ口と思われ、御家人達の不興を買いました。頼朝の死後御家人仲間から弾劾され、正治二年(1200)京へ落ち延びる途中の一月二十日に静岡県で討たれてしまいました。その屋敷跡へ、明王院は建立されたものと思われます。

  

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