第五十三回歴散加藤塾  新緑の鎌倉を歩く 平成廿四年五月十三日 引率説明       歴散加藤塾主催 @塾長 

 一、一遍上人と山中稲荷  二、十王堂橋 三、光照寺 四、台神明神社と山崎の切通し 五、鎌倉中央公園 六、葛原岡神社

 七、日野俊基墓 八、化粧坂 九、景清窟 十、底抜けの井戸  一、源翁和尚伝説 十二、海蔵寺 

今年の新緑散歩は、趣向を変えて北鎌倉から鎌倉中央公園・葛原岡の新緑を浴びよう。

北鎌倉駅前の正面に交番が見える。左手前に石垣がある。あの石垣までが円覚寺の境内で、かつては石垣前に木戸が作られていた。寺にかかわりのない一般や牛馬は石垣向こうの道をぐるっと回っていたので、あの裏道を牛馬の道と云う。

交番に向かって右脇の路地をたどり、突き当たったら左へ歩くと稲荷に出会う。

一、一遍上人と山中稲荷

時宗開祖の一遍上人は、日本中を念仏と「南無阿弥陀仏」と書かれた紙片を配って功徳に歩いたと云われる。その一遍上人が鎌倉へもやってきました。

当時、鎌倉では、夜討・強盗・山賊・海賊又は予備軍も含めて「悪党」と名付け警戒していました。また、道路を占拠する乞食など住所不定の輩も「悪党」と同等とみなし、好ましからざる者としていました。

そこへ何も知らない一遍上人とその一行が弘安五年(1282)三月一日、小袋坂の木戸を通り抜けようとした際に、折悪しく時の太守北条時宗の外出とぶつかり、鎌倉入りを阻止されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一遍上人は、二度ほど杖で叩かれ追い返されたのです。しかし、上人は布教の大切さになんとか鎌倉入りをしようと抵抗したようです。

しかし、「鎌倉の外なら御制の限りに非ず」と警護の武士に諭され、野宿をし片瀬へと移動して行かれたそうです。

その様子が「一遍上人聖絵」に描かれております。

この「一遍聖絵」に稲荷に鳥居が珍しいと描かれているのがここ山中稲荷であるとも謂われ、野宿をした山中の場所がこれから行く光照寺の地と謂われます。

稲荷を巻いて先へ進むと広い道へ出ます。

この道は北鎌倉から梶原団地へぬける道です。右へ歩き県道へ出たら左へ歩きます。  

 

 

 

 

二、十王堂橋

右は暗渠で分かりにくいのですが、左側だけ欄干が残り「じゅうおうどうばし」の名が残る「鎌倉十橋」の一つです。昔、この脇に十王堂(閻魔大王を始めとする地獄の十人の裁判官を祀った)があったのですが、今では円覚寺内へ入ってすぐ左の桂昌庵閻魔堂に引っ越して、この名だけが残ります。

なお、大船方面へ歩き次の交差点は「北鎌倉女学園」の入り口、その次の信号が「光照寺入り口」になります。宮ノ台橋を渡り、緩い坂を登ると右側に寺の石段があります。

 

三、光照寺(時宗 西台山英月院光照寺)

先ほどの説明にあったように、鎌倉入りを阻止された一遍上人が野宿した地と謂われます。

石段を登り、山門の欄間を見あげると、クルスの紋があります。

寺伝によると「江戸時代には一遍上人の“信じる事ができない者さえ阿弥陀如来はお救いくだ

さる”との信念により、鎌倉周辺の切支丹を光照寺檀徒として匿ってきました。四十年近く前、切支丹の研究家でもあらせられたルメイ神父の調査を受け、切支丹が寄進した燭台やクルス紋を確認していかれました。ルメイ神父は江戸時代の切支丹が書き残した文書の中に鎌倉光照寺の名が残っていたと教えてくださいました。」庭へ伺うと、本堂の脇にサボテンが大きく育っています。また、墓地の通路には、鎌倉時代の五輪塔や宝篋印塔の残欠が積まれています。

光照寺の下側の細い路地を西へ向かって歩きましょう。道なりに歩いていくと左右の道に突き当たったら右へ、広い通りに出るので左へ歩きましょう。

この辺りの小字を市場と云い、鎌倉時代に馬市が開かれ、江戸時代にも水戸藩の牧場から引いて来た馬市が立ってと謂われます。

四、台神明神社と山崎の切通し

やがて、正面に石段があり、台の神明神社です。創建は元亀年間(1570-)に悪病が流行ったので、疫病退散を願い天照大神を祀ったと謂われます。神社前の緩い登り坂を登って行くと右側には崖が続きます。昔は、左側にも崖が迫っており、切通しとなっていたそうですが、今では運動場と住宅開発のため、わずかに右側だけに名残があります。登って行くと左は小学校に右側には、一部切通しの崖を残してマンションが建ってしまい、往時の面影は消えました。  

 

 

 

 

 

 

 

 

坂を下り小学校の外れを左へ入ってなお左へ行くと、風情のある茅葺の門があります。

 

総面積七千六百坪の「魯山人」の星岡窯があった谷戸です。ここに窯場・住居・古陶磁参考館が点在していました。

当時の建物は、茨城県笠間の日動美術館分館「春風萬里荘」として公開されているそうです。  

 

一時期、その一部にイサムノグチや山口淑子夫妻が住んでいたこともあるそうです。

道を戻り、川沿いに歩くと、先ほどの江の島道へ出ますので、左へ歩きます。

大きなマンションの前を通り、左へ曲がると、その先左側に「鎌倉中央公園」の案内板があるので、左へ曲がりましょう。川に沿って住宅の中を上流へ歩いていくと、公園へ出ます。

つい、十数年前まで、この一帯は田んぼばっかりでした。

 

 

五、鎌倉中央公園

入り口左に大きな岩があり、この岩が見る角度によってライオンの横顔に似ていることから「獅子岩」と呼ばれています。公園でお昼にしましょう。

公園内は、西谷と東谷の二つの谷戸からなり、西谷には二つの池・休憩舎・管理棟・鎌倉市ミニバス停留所などがあり、東谷は休憩舎と大きな広場・教育田など自然豊かです。

鎌倉中央公園は、豊かな自然を生かし、「人と自然」・「人と人」の交流の場として位置づけられ、農業体験など多様な余暇活動や都市緑化植物園として「緑の相談所」を開設し、緑化推進の拠点にもなっている23.7ヘクタールの風致公園です。

池にはカワセミやカモ、サギなどの野鳥も飛来し、春を告げる梅や桜が咲き、緑豊かな公園として自然観察やのんびりと散策もお楽しみいただけます。

公園内に残された田・畑は市民活動団体の手により保全活動が行われており、環境保全や地域に残された生活文化の継承にも取り組んでいます。とホームページに書かれています。

公園内散策と休憩が終えたら、東谷を奥まで詰め、左の梅林横を登って行くと梶原団地へ出ます。団地内を左へ、次も左へ、次を右に曲がると北鎌倉から梶原団地へぬける道へ出ますので左へ歩きましょう。

ゆるゆると坂を登りながら進み、右へカーブして、その先森を抜けた左に数軒の新しい家が並び、右に大きな家の土塀があります。その先で広い道は左へ曲がっていますが、曲がりかけた場所に右へ入る路地があるので、そちらへ行きましょう。

細い道の右側の家は、がけ下から建てているので、二階や三階が玄関になっていたりします。やがて葛原ケ岡公園に出ます。この道が、梶原裏道なのです。

公園へ出ると左側に神社があります。

六、葛原岡神社

  後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社です。明治天皇が日野俊基に従三位を贈り、地元有志と全国の崇敬者の協力により明治二十年(1887)に創建されました。現在では由比ガ浜地区の鎮守として信仰を集めています。

この神社の境内に無患子の木があり、この木の実の種が黒くて硬く、羽根突きの羽の玉に使われます。

七、、日野俊基墓

 鎌倉幕府を倒さんと、後醍醐天皇は画策をしますが、その主役は側近の両日野氏です。

一人が「日野資朝」、もう一人が「日野俊基」、正中元年(1324)の正中の変で二人供に捕えられ、鎌倉送りとなりますが、日野資朝一人が罪を被って佐渡送りとなり、俊基は許され京都へ戻されます。しかし、元徳三年/元弘元年(1331)に発覚した二度め目討幕計画である元弘の変で再び捕らえられ、鎌倉送りとなります。

その当たりを太平記では七五調で叙情豊かに表現しております。

太平記巻第二 俊基朝臣、再び関東下向の事

落花の雪に蹈迷ふ、片野の春の桜がり、紅葉の錦を衣て帰る、嵐の山の秋の暮、

一夜を明す程だにも、旅宿となればに、恩愛の契り浅からぬ、我、故郷の妻子をば、

行末も知らず思い置き、年久しくも住馴れし、九重の帝都をば、

今を限りと顧りみて、思はぬ旅に出玉ふ、

そして、今度は罪を免れる事が出来ずに、ここ葛原岡で処刑されたのであります。

辞世の句は「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらん」

八、化粧坂

公園内の広い道を南へ向かって歩くと、道が右へカーブしている所で、左に木杭の作があるのでそちらへ行きましょう。この辺りが新田義貞鎌倉攻め、化粧坂の激戦地であります。

古代の東海道は、竹の下(御殿場)から足柄峠を越え、南足柄市の関本から矢倉沢往還に沿って、松田・秦野・伊勢原・厚木・海老名の国府へ出て、用田・菖蒲沢・寺分・梶原と来て、ここ化粧坂を下り、鎌倉・逗子。葉山・衣笠・大津・走水から船で上総へ渡ってたのです。

坂は、現在デコボコですが、三十年ほど前の写真を見ると横には平らな坂道でした。廿年ほど前からの中高年のハイキングブームで、道が削られ凸凹になってしまいました。左へ稲妻状に曲がった崖の足元に、丸く削った昔の水飲み場がありますが、落ち葉で埋まって分かりにくい。

次に右へ曲がると舗装された道へ出ます。

だらだらと道を下って行くと、右側の崖上にやぐらが穿たれています。

九、景清窟

謡曲「悪七兵衛景清」で有名ですが、謡曲では平家の武将景清が頼朝の命を狙い鎌倉に潜入するが、捕えられて八田知家に預けられます。しかし、彼の身勝手な行動にうんざりして訴えたところ侍所別当の和田義盛に預け替えとなります。これに当人は恥を知り、この岩窟に籠っ断食して自ら命を絶っったとも、あるいは自ら目をつぶしたので、その勇気に免じ日向へ島流しにあい、これを娘の人丸が探し尋ねたともいわれますが、皆伝説でしょう。

道を下るとT字路に出ますので、左へ暫く歩くと正面に海蔵寺、その右側に井戸があります。

十、底抜けの井戸

安達泰盛の娘で幼名を千代野、長じて金沢氏に嫁ぎ、夫に死別して出家し、無学祖元(仏光国師)の門弟となります。無外如大尼と称し、後に大悟した時の一句といわれるのが、

     千代野ふがいただく桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらじ  です。

寺の入口に石碑があり、開山は源翁和尚とあります。

十一、源翁和尚伝説

 昔、玉藻前と呼ばれる絶世の美女がおりました。最初は藻女(みずくめ)と言われ、子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ、美しく成長しました。

十八歳で宮中に仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となりましたが、次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなりました。

しかし玉藻前と契りを結んだ後、鳥羽上皇は次第に病に伏せるようになり、天皇家お抱えの医者が診断しても、その原因が何なのかが分かりませんでしたが、陰陽師・安倍泰成(安倍泰親、安倍晴明とも)によって病の原因が玉藻前であることが分かりました。その正体が九尾の狐であることを暴露された玉藻前は、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方を暗ましました。

その後、那須野で婦女子をさらうなどの行為が宮中へ伝わり、鳥羽上皇はかねてから九尾の狐

退治を要請していた那須の領主須藤権守貞信の要請に応え、九尾の狐討伐軍を編成しました。

三浦介義明と上総介広常という武士を将軍に、陰陽師・安部泰成を参謀に任命し、八万余りの軍勢を那須野へと派遣しました。

那須野にて、すでに白面金毛九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍は、すぐさま攻撃を仕掛けましたが、九尾の狐の怪しげな術などによって多くの戦力を失い、最初の攻撃は失敗に終わりました。三浦介と上総介ら多くの将兵は九尾の狐を確実に狩るために、犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始します。

二度目とあって、九尾の狐対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいきました。最後の抵抗として、九尾の狐は貞信の夢の中に現れ、若い女性に化けて許しを願いましたが、貞信はこれを九尾の狐が弱まっているものと読み、最後の攻勢に出ました。そして三浦介が放った二つの矢が九尾の狐の脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えました。

でも、九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪いました。そのため村人は後に、この毒石を殺生石と名付けたそうです。この殺生石は鳥羽上皇が亡くなられた後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせました。鎮魂のためにやって来た多くの名僧ですら、殺生石の毒気で次々と倒されていったといわれています。

室町時代となったとき、会津・元現寺を開いた源翁和尚が、殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したといわれます。

玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后美福門院(名は藤原得子)であり、摂関家などの名門出身でもない彼女が権勢をふるって自分の子や猶子を帝位につけるよう画策して、崇徳上皇や藤原忠実・頼長親子と対立して、保元の乱を引き起こし、更には武家政権樹立の

きっかけを作った史実が下敷きになっているとも言われます(ただし、美福門院がどのくらい

皇位継承に関与していたかについては諸説あります)。

十二、海蔵寺(臨済宗建長寺派・扇谷山)

その源翁和尚・心昭空外が、応永元年(1394)に足利氏定を開基に開いたと言われます。

正面を上ると、右に茅葺の庫裏、前が本堂、左側に薬師堂が並びます。

薬師堂の本尊は、別名「啼薬師」と称します。其のいわれは、寺の境内で夜な夜な赤子の鳴き声がするので、当寺の住職が不思議に思い探してみると、本堂の裏の墓地の方で声がする。

近づいてみると地面が光っている。袈裟をぬいでそれへかぶせたら、ぱったり声が絶えた。翌朝、掘って見ると薬師如来の頭部が現れた。

これは奇瑞の現れと新たに薬師如来を彫り、その体内に頭部を納めたので、泣き藥師と呼ばれ、お堂正面に御座します。

  

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