歴散加藤塾 第五十七回 常盤邸と大仏切通し 平成廿五年五月十二日  資料作成及び引率説明 @塾長

 

 

 目次

 一 千葉一族屋敷跡  二 諏訪一族屋敷跡

 三 北條政村常磐別邸跡 四 塩田流北條義政亭跡

 五 大仏の切通し  六 高徳院 七 大仏様

 八 甘縄神明社  九 安達一族の屋敷跡

 十 長谷子ども会館  十一 染谷大夫石碑

 十二 一の鳥居  十三 畠山六郎重保墓

 十四 浜の大鳥居跡

 今回は、北條一族の名連署「北條政村」の常磐別邸とその兄、重時の息子、塩田流北條義政の常葉邸跡地、昔の面影の残っている「大仏の切通しが、最近通り抜けられるようにしてくれたので、通り抜けてみましょう。有名すぎて、つい行き忘れている「鎌倉の大仏」、鎌倉で一番古い神社「甘縄神明社」若宮大路の一の鳥居と廻りましょう。

鎌倉駅の東口を出発すると横浜銀行の前から横須賀線の下を潜り、西口に参りましょう。西口に出たら、駅前から西へ向うと信号に出ます。

一、千葉一族屋敷跡

 信号を渡った正面の紀国屋は小字をチバチと云い、と千葉常胤一族が頼朝から賜った屋敷の跡と謂れます。ある学者さんによると有力御家人の屋敷は五百坪(約40m四方)にもなるとも言われます。五十坪が約7m四方ですので、大きさの見当がつきますか。

二、諏訪一族屋敷跡

 左の鎌倉市役所の歩道に大きな古い楠があります。この道路は昭和も五十年代に開通したばかりですので、道路の並木にしては古すぎます。どうしてでしょう。実は市役所がここへ移転する前にここにあった諏訪神社の境内木なんです。市役所建設の際に神社は移転しましたが、樹木はそのまま残された訳です。

そのまま西へ向かって進むと右に現在の諏訪神社を見ながら一つ目の隨道を抜け法務局前交差点は佐助谷。右への道が佐助稲荷、銭洗い弁天の参道。

二つ目の隨道を抜けた交差点は長谷大谷戸で左へ行けば大仏。

三つ目の隨道を抜けるとそこの小字は一向堂少し先の右側の広場に説明板があります。

 

三、北條政村常磐別邸跡地

 北條政村(大河ドラマ時宗では伊東四郎さん)は、北條義時の四男で母は伊賀氏の娘。義時の死亡時に母とその兄が三浦義村と結託して総領の泰時を廃し、北條政村を執権につけ、その後見として乳母夫の義村を立てる姦計を企てました。しかし、政子が夜中に女房一人を連れ義村と直談判し義村を納得させ、泰時を執権につけました。

しかし、泰時は義村の証言により北條政村自身には何の企ても無いことを知り、家督(相続財産)も多く分け、その後政治にも重用しました。

この屋敷地の発掘では、硯、水差し、骨製サイコロ等が発見され、六代将軍(宗尊親王)の頃に連署になった政村の別業へ訪問した記事に符合しますので、一種の別荘のような存在だったのではないでしょうか。

吾妻鏡抜粋建長八年(1256)八月小廿日戊寅。新奥州〔元前右馬權頭(政村)。〕執權(連署)の事を奉る之後。將軍家始めて彼の御常葉の別業于入御有る可し之由。日來其の沙汰有り。治定す。既に來る廿三日爲る可しに依て、今日供奉人を催お被る。其の散状を披覽之後。御前に於て、故障之替已下を相加へ被る事有り。

建長八年(1256)八月小廿三日辛巳。天リ。將軍家新奥州の常葉第于入御す。巳刻御出。〔御水干。御騎馬。〕

 又、江戸時代に大瓶一杯の朱が見つかり、血と間違え百姓が気味悪がって川に流し捨てたとも云われ、金一升朱一升と云われる位なので、その裕福さが偲ばれます。

この屋敷地から道路を隔てた崖の下あたりを腰巻という小字があります。一般に腰巻とは城等の周りに廻る掘を控えた崖を云いますので、きっとあの上に守備隊がいたのかも知れません。

☆歩き・先へ歩きますが、北條政村の屋敷はこの右側一帯で有った可能性もあります。

暫く歩くと右側に円久寺という日蓮宗の寺がありますので、その手前路地を右へ入りましょう。

四、塩田流北條義政亭跡地

 奥へ入っていくと雑草に覆われた広場が段々に奥へ続いています。地形的に先程の北條政村亭跡地とよく似ています。ここが北條義時の三男重時(平幹次郎)の息子義政(渡辺徹)の常葉邸跡地です。

彼は連署(執権と共に命令書にサインする人)の地位にありながら、突然出家を遂げ、知行地の塩田平@に遁世してしまい、無断出家の咎でその所領を執権の時宗(和泉元也)に召し上げられてしまいます。想像ですが、得宗Aの身内人Bとの政治的確執を恐れ、出家遁世したものと思われます。

参考@塩田平とは、信州(長野県)の真田幸村で有名な上田から別所温泉にかけての盆地を差します。鎌倉建長寺の蘭渓道隆(中国僧で建長寺開山)は、「建長寺は鎌倉で、安楽寺は塩田でそれぞれ百人、五十人の僧が修行し、仏教の中心になっている。」と大覚禅師語録にあるそうなので、鎌倉との交流があった事が偲ばれます。塩田平東端にある龍光院は北條国時開基とも言われ、義政の墓と云われる石塔もありますので、領主として塩田平に居館を構え、威を張っていたと思われます。安楽寺国宝の八角三重塔は鎌倉末期頃と考えられており(左写真)、常楽寺の石造多宝塔(重文)や前山寺の未完の三重塔(重文)などもあり、今でも信州の鎌倉と呼ばれています。

参考A得宗とは、二代目北條四郎義時の法名にちなんで北條家の嫡総(ちゃくそう・跡取)を代々そう呼んでいます。

参考B身内人とは、本来は得宗家の家政を司る執事の事ですが、得宗の権力が強まる。(得宗専制)に従い、その取次ぎ窓口として実権を掌握し始めてきました。特に平頼綱は時宗の絶大なる信頼を受けて、その子貞時の乳母をして後見として活躍するうちに、得宗すらないがしろにする程の実権を持って来てしまいました。

☆歩き・寺の脇へ戻ったら横断歩道を渡って先の路地へ入り、脇を川が流れる道と出会ったらこれは古道ですので、右へ進んでバス通りへ出ます。このバス通りは左が大仏へ、右は梶原・深沢を経て大船方面へ出ます。

バス通りで左へ曲ると「火の見下」のバス停があり、少し先の左への路地を入ります。路地は右折して直ぐ又左へ民家の一部みたいな路地を先へ進んで森の中へ入ります。

五、大仏の切通し

 森の中の辿道に「史跡 大仏の切通し」の標柱があります。

叢の左上の広場前に「やぐら」が見え、右手には大きな岩を断ち切った様にポッカリと道がつけられています。ちょっときつめの坂を上り詰めたら振り返ってみましょう。

ここから、上がってくる人に対し、弓矢を構えてみてください。ここに櫓門を建てしっかりと門を閉じ、矢石を飛ばせば侵入者を防げます。新田義貞も切通しを破ることは出来ず稲村ガ崎の太刀投げとなる訳です。しかし、ちょっと坂がきつすぎるところや、置石風にゴロゴロしている岩は後年崩れ落ちたものとも推定できます。

先へ歩くと所々に開けたところがありますが、平場と呼ぶ駐屯地と思われます。

切通しはかなり長く続き、途中後年大仏トンネル建設の際に古道が崩れ落ちてしまった場所に出ます。最近、抜け道を作ってくれたので足元に気をつけて進んでみましょう。。峠を下ると大仏ハイキングコースへ出ます。右へ下り階段を下り始めたところで、右へ上ると大仏配水池を越えて極楽寺裏へ出ますが、階段を下り大仏トンネルの通りへ下りますが、通りの向こう側を見てください。崖の中央に神社が見えます。古道はあの神社からここへ繋がっていたのです。

バス通りへ出たらトンネルと反対側へ歩きます。正面に大仏様の寺が見えますが、すぐの歩行者用信号で向かいへ渡り、路地へ入りましょう。

この路地がかつての大仏の切通しへの古道なのです。右の奥に先ほどの神社が見えます。下っていくとバスどおりへ出ますので、先の歩行者用信号を渡ると高徳院です。

門の前、左に庚申塔が並んでいます。庚申塔は本来集落の入口に立てるものなのですが、きっと道路拡張工事の際にこちらへ引越ししたのでしょう。

六 高徳院

 大異山高徳院清浄泉寺と云い、もとは光明寺の奥の院とも云われますが、開山・開基共に不明。元浄泉寺の支院であったのが高徳院のみが残ったとも云われます。

七 大仏様

 奈良の大仏に比べて、鎌倉大仏と一般に謂れ、鎌倉で唯一の国宝の仏像です。

 与謝野晶子の「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」で有名ですが、大仏の手を見ますと上品上相の印を組んでいますので、お釈迦様ではなく阿弥陀如来で有ることがわかります。

 この大仏の制作については、朝廷の正式な事業としての奈良の大仏に比べ、非常に資料に乏しく、不明な点が多いのも特徴で、ミステリアスな存在となっています。

 僅かに吾妻鏡に記述があるので、抜粋してみました。

 吾妻鏡暦仁元年(一二三八)三月二十三日条(嘉禎四年を十一月二十三日に改元)今日、相模国深沢里大仏堂事始也。僧浄光尊卑の緇素に勧進令め、此営作を企てると云々。

訳しますと「僧浄光が諸国の大勢の人に協力を求め、浄財を集めてこの制作を計ったと云うことです。

 そして、仁治二年(1241)三月二十七日の条には、

 仁治二年三月二十七日条(前略)又深沢の大仏殿同じく上棟之儀有りと云々。

 この日に、建物の棟上式があったことがわかります。

 又、寛元元年(1243)六月十六日の条には、

寛元元年六月十六日条未刻小雨雷電、深沢村に一宇の精舎を建立し、八丈余の阿弥陀像を安んず。今日供養を展ず。導師は卿の僧正良信、讃衆十人。勧進聖人浄光房、此六年之間、都鄙を勧進す。尊卑奉加不は莫し。

 深沢村に寺を一つ建て、八丈余(八十尺、約24b立っている場合、ここのは座っているので約半分)の阿弥陀像を安置し、今日開眼供養を行なった。主たる坊主は良信で、共の坊主は十人だった。仏との結縁を呼び掛け浄財を集めて歩く坊主の浄光が、この六年の間、都会も鄙びた村も回って集めたので、偉い人も貧しい人も寄付しないものは無かった。

 と、記されています。建立式を始めてから、開眼供養まで丸五年、足掛け六年が係っています。

 東関紀行によると仁治三年(1242)八月この時の大仏は木造であったとのことです。

その後、建長四年(1252)八月十七日の条には、

 今日彼岸第七日に當り、深澤里金銅八丈の釋迦如來像を鑄し始め奉る。

 と記され、初めて金の大仏、八丈の釈迦如来像が鋳始められた。

 とあり、それまでは東関紀行の木造であったことが証明されます。

 但し、釈迦如来と有るので、別のものではとも想像されますが、「阿弥陀」の間違いだろうと思われています。

 実物を正面から見上げますと、全体のバランスが良く、端正な理知的なお顔に出来ており、晶子をして「美男におはす」と唸らせたことが良く感じられます。

 実は、実寸を調査すると、下半身に比べ上半身がかなりアンバランスに大きく作られていまして、作者は、初めから出来上がりを下から見上げた場合の遠近感を計算して作成しているわけです。

 像の高さは十一b三十九a、像の横に繋ぎの線が見えますので、一度に作成したわけではなく、下から順に鋳足して行ったことがわかります。

その、継ぎ目は鋳からくりと云って、下段の上縁を噛み加える方法(図一)や、下段の上縁に小孔をあけ鋳継ぐ(図二)、二方を併用する(図三)方法が取られています。

このお陰で奈良の大仏が鋳造後百年程で頭が脱落したことに比べ、鎌倉大仏は七百年以上もの間、目立った損傷もなく保たれています。 

図の一       図の二      図の三 

なお、最近の発掘調査の結果、下の礎石図のように、伝説どおり六十本の柱で大仏殿が建てられていたことが判明しております。

これによると、正面は二十七尺(約8.2m)そして左右に二十二尺(約6.7m)の間が二つ、そして十五尺の回廊状の廂か、裳腰があったものと思われます。

背中には窓が開いていますが、内型を支えた土を抜いた後とも云われます。

美男の阿弥陀を堪能した後には、先程の入り口から外へ出ましょう。通りへ出たら、通りを少し南へ向って左側の路地へ入りましょう。裏道へ出たら右へ曲がり、裏道に沿って南へ下ります。正面に「和紙」の店があるので、その左側の路地へ真っ直ぐ進みましょう。

路地を抜けると、長谷小路のコロッケ屋さんの脇へ出ます。長谷小路を左へ曲がり、消防署の脇を左へ入ると正面に神社があります。

八 甘縄神明社

甘縄神明神社、祭神は天照大御神等。縁起では、和銅三年(310)行基の草創と云われ、染屋時忠が山上に神明社、山下に寺を建て、後頼義が相模守となって下向して、平直方の娘婿となりこの社に祈り八幡太郎義家をこの地でんだと伝えられます。

神社を出たら左側に秋田城介屋敷跡の石碑があります。

九 安達一族の屋敷跡

この石碑の裏側一帯に安達一族の屋敷があったと云われます。

初代の安達藤九郎盛長は、頼朝が伊豆の蛭ケ小島に流罪になっている頃から仕え、頼朝が政権を取ってからは、必ず正月の行き初めにはこの甘縄神社へ詣り、そのついでに安達一族の屋敷に寄ったと伝えられます。

二代目安達景盛は、頼家と妾のことで上意打ちになりかけた処を政子に救われるなど有りましたが、時頼の時代に出家して高野山に居乍ら、わざわざ降りてきて三代目義景と孫の泰盛を叱咤激励して三浦氏の討伐させてしまいます。

四代目の安達泰盛は、元寇の役の際に恩賞奉行をしていたことが「蒙古襲来絵詞」のなかで武崎季長に馬を送る場面でわかります。

御家人制を復興しようとした安達泰盛と、北條氏の得宗の身内人の勢力を伸ばそうとする平頼綱と対立し、泰盛の嫡男宗景が曾祖父景盛が頼朝のご落胤だと源氏を名乗ったのを謀反人扱いされ、平頼綱に襲われ滅びてしまいます。これを霜月騒動と云います。

神社前から左の路次へ入ってみましょう。この辺り一帯が屋敷の跡かと思うと不思議な感じがします。先へ進むと長谷子ども会館があります。  

十 長谷子ども会館

この建物は、明治41年に福島浪蔵氏邸として建てられ、大正10年に桑名の実業家諸戸清六氏の所有となり、昭和55年に鎌倉市に寄贈されました。 外観は、バルコニーの柱にギリシア建築の様式を取り入れ、メダリオン飾りが付けられており、ドア枠と窓枠には手の込んだ装飾が施されるなど、きわめて華麗です。また、内部も古典的な雰囲気が感じられます。突き当たったら右へ、次の角を左に曲がり、次の突き当りを巳下へ折れると、長谷小路へ出ます。

信号で向かいへ渡り、左斜めへの道を真っすぐに行ってみましょう。

少し歩くと、右に「染谷太郎大夫時忠」の石碑があります。

十一 染谷太郎石碑

染谷太郎タフ時忠は、藤原鎌足の玄孫(やしゃご)に当り、奈良東大寺良弁僧正の父にして、文武天王の御宇(698-707)より、聖武天皇の神亀年中(724-728)に至る間、鎌倉に居住し、東八か国の総追補使となり、東夷を鎮め、一に由井長者の称ありと伝えらるるも 其の事蹟詳らかならず 此の処の南方に長者久保の遺名あるは かの邸跡と唱えらる 尚甘縄神明宮の別当甘縄院は時忠の開基なりしと云う

江の電「油比ケ浜駅」の脇を通り、そのまままっすぐに歩いていくと、若宮大路の海岸橋交差点に出ます。若見大路を左へ歩くと「一の鳥居」へ行きます。

十二 一の鳥居

現在の鳥居は、寛文八年(1668)江戸幕府四代将軍徳川家綱によって寄進された高さ8.5mの石造明神鳥居です。この時二の鳥居も三の鳥居も同時に寄進されましたが、関東大震災で三基とも倒壊し、一の鳥居だけが同じ材料で元通りに再建されました。

十三 畠山六郎重保墓

近くに、畠山重保の墓と云われる宝篋印塔が立っています。畠山重保は、畠山次郎重忠の六男で嫡流であった。北条時政と奥さんの牧の方の姦計にあって父と同時期に滅ぼされております。吾妻鏡には

元久二年(1205)六月小廿二日戊申。快リ。午前四時ごろ、鎌倉中が騒がしくなり、軍隊が由比ガ浜に競うように走って行く。「謀反人を征伐するんだ。」と云ってます。是を聞いて重保は従者三人を引き連れてそちらに向かったところ、北條時政殿に命じられた三浦平六兵衛尉義村が、佐久間太郎に重保を取り囲ませたので、戦いになりましたが、重保は多勢に無勢で主従共に殺されました。

そしてこの日の午後、父の畠山次郎重忠は二俣川で134騎で討死しております。この辺りに重保の屋敷があったとも謂われます。  

十四 浜の大鳥居跡

八幡宮へ向かって緩い坂を下った信号のそばに、「浜の大鳥居跡」の説明と石で造られたイメージ史跡があります。発掘調査の結果「寄木造の柱跡」は、戦国時代の小田原北条氏の氏康によって造立された鳥居の物であるようです。

では、このまま北上して鎌倉駅へ出ましょう。

参考文献

  鎌倉史跡事典   奥富敬之著 新人物往来社 平成九年三月十五日発刊

  鎌倉事典      白井永二編 東京堂出版  平成三年十二月二十五日発刊

  鎌倉の史跡めぐり 清水銀造著 丸井図書出版 平成三年十一月再版

  日本の美術十一  鎌倉地方の仏像  田中義恭編 至文堂    昭和五十九年十一月十五日発行

  

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