今、神奈川宿が面白い。ー江戸名所図会(1836)で遊ぶ神奈川宿ー

第一図(青木橋から一里塚まで)

江戸方面から来て、現在の青木橋で東海道線を越えると、右の崖の上に本覚寺がある。
かつては、長い石段で登っていたらしいが、鉄道の建設や第一国道の拡張で、だいぶ崖を削られ、まっすぐだった石段が曲げられてしまった。

たまたま本覚寺に聴いたら、中門はこの絵と同じらしい。
 
写真は青木橋の上から本覚寺を撮影。第一国道の拡張で、参道の石段も付け替えられた。当然手前の建物は無くなった。

絵では本覚寺は単独嶺に画いているが、現実は本覚寺には裏山があり、そこから地続きで元の飯綱権現まで続いている。
現在はと言うと、下左の写真のように、都市的に一等地に近いので、あまりの変貌に驚かされる。

三宝寺は、2016年5月14日のNHK「ブラタモリ」で出た、マンションから陸橋で行ける裏の高い場所に引っ越した?寺である。
場所は同じなのだが高さが違う。

第一図の左上にこんぴらが書かれているが、これが下第二図の中央上の「飯綱」と隣である。

第二図(三宝寺から番や先まで)

そして、下左の明治の地図や、下右の現在の地図ではこのようになる。現代の地図の東横線跡地は歩道になっている。
明治の地図の、三宝寺の位置の卍が分かる。
その左の崖の上に、やはり卍が二つあるのは、神仏混淆の金毘羅と飯綱権現であろう。
 

では、飯綱権現をもう一度編集し直すと

第三図(一里塚から番やまで)飯綱権現アップの図(右は現代の地図拡大)
  

一里塚の隣に飯綱権現への参道がある。
この図を見ていただきたい、「飯綱権現」はとても高い場所にあり、相当階段を登らなくてはならない。
現代の地図右に書いてみると上左図のようなイメージになる。

あちこちのHPを見ると、

神仏分離政策によって1869(明治2)年6月21日、大綱神社と改称し、別当普門寺から分離して神主を立てた。
1909(明治42)年、金刀比羅権現(海の神)を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。

明治43年裏山が崩れ金刀羅宮の社殿が崩壊後、再建した機会に合祀し、名称を大綱金刀羅神社とした。
災害で検索すると明治43年8月9日〜10日にかけて連続雨量641mmの雨が降ったそうです。

東海道分間延絵図を歩く(神奈川県)さんのHPから地図を借りてくると下図にありました。今度はえらい山の上です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在は下へ降りてきて、元石段や飯綱社跡はマンションに変貌している。上の社は跡形もない。以上で、飯綱権現への疑問は分った。

第四図(番やから台町まで)

一里塚から西へ進むと「番屋」があったようだが、崖を削ったマンションだらけで、場所の見当もつかない。又、同様に「天神」ももうひとつの「いなり」も、見当たらない。
もしや、天神への道が「関門」のあたりであろうか?

広重の「神奈川宿」の絵の台町は、名所図絵でも旅籠や茶屋が並んでいるのが分かるので、恐らく図会の「番や」の前あたりからの風景であろう。
図絵では、坂道が緩く書かれているが、実際はかなり急坂で、広重の絵のとおりである。
 
海の向こうに見える山々のうち、右手前が現在の戸部、右奥が野毛山、その左が掃部山、海の入江が大岡川河口、松並木は右から弁天社、県警、県庁、山下町と続いている。
その向うの白い山は、山手の「港の見える丘公園」やフランス山のあたりにあたる。
横浜駅は無論海の中。この絵の中の紺絣で客引きをしている女の辺りが、現在の「田中屋」あたりであろう。但し、田中屋はさくら屋の後身との説もある。
なお、坂の上の方の赤い絣に水色の前掛け女の「さくらや」は、横浜市歴史博物館に十分の一位の、とても素晴らしいジオラマがあるので、ぜひ見に行ってほしい。

第五図(台町から保土ヶ谷宿まで)

この第五図では、東海道が右の崖裏へ曲がっているが、これは嘘である。
東海道はまっすぐで、がけ下に民家があるような土地は無く、途中から左へカーブしているのである。下の明治の地図を見ればわかる。

図絵の中央右寄りの「人穴社」が現在の三ツ沢への上り口浅間下交差点の丘の上にある浅間神社。
「人穴」は、埋めてしまい分からない。40年前には崖の途中に穴が見えていた。
この人穴は、富士山の風穴につながっているという伝説があった。
なお、浅間神社の奥の院は、横浜市神奈川区羽沢917県営団地の富士塚である。
昔は、6月1日のお祭りには、神主や氏子代表が羽沢までお参りに行ったそうだ。

図絵の中央左寄りの「天王」が天王町の現橘神社であろう。
江戸時代までは「牛頭天王社」と呼ばれていたので、天王の左の密集して並んだ人家は「保土ヶ谷宿」であろう。

すると手前の崖下に民家があるのは下の明治地図の「谷ケ程至(至保土ヶ谷)」の「至」字のあたりだろうか。

沢渡の公園や県立社会福祉会館のあたりは、沼が入り込んでいる。確かに現地でも旧東海道から一旦上がり、北川は低くなっている。
左端の「東」の文字の横の縦の線は、勧行寺の参道で現在もあるが頭の上を首都高が通っている。
図の下半分の海は、平沼で鶴屋町や北幸町で、現在は埋め立てられて、繁華街のビル群である。

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