吾妻鏡入門 名字の地及び地名事典(13巻建久4年(1193)12月末日まで生理済み)   

あい阿居は、川合の間違いなら、更級郡眞島村河合で長野市真島町川合。又は、長野市三輪相ノ木かもしれない。6巻文治2年(1186)3月12日

あいが相鹿は、常陸国相鹿、茨城県日立市相賀町。2巻養和2年5月25

あいこう愛甲は、神奈川県厚木市愛甲石田3巻壽永3年(1184)3月18日

あいざわ藍澤は、栃木県佐野市会沢町(旧安蘇郡葛生町会沢)。5巻文治1年(1185)10月9日

あいざわ藍澤は、静岡県御殿場市新橋鮎沢に鮎澤神社あり。東名御殿場インターのそば。13巻建久4年(1193)5月8日

あいざわはら藍澤原は、神奈川県横浜市瀬谷区相沢。4巻元暦2年(1185)2月16日

あいだのほう英多保は、岡山県美作市林野の北東に英田郡(アイダグン)の名が残る。7巻文治3年(1187)8月8日

あいはらのしょう相原庄は、信州には相原の地名が見当たらない。吉川本では桐原庄と書かれ、右肩に「相」の文字がついている。そこで、長野県の「桐原」で探すと@長野市桐原。A松本市入山辺東桐原、西桐原。Bに北佐久郡立科町桐原がある。前後からAの松本市内と思われる。6巻文治2年(1186)3月12日

あおはか波賀は、岐阜県大垣市青墓町。10巻文治6年(1190)1029

あかし明石は、兵庫県明石市大明石町。4巻文治1年(1185)8月24

あかだ赤田次郎は、秋田市赤田。9巻文治5年(1189)9月6日

あかたに赤谷は、新発田市赤岩に館跡あり、山をしょっている。後に現在の胎内市中城町鳥坂に移る。2巻壽永1年(1182)9月28

あがたのしょう英多庄は、植科郡松代町。現長野県長野市松代町東条西条のあたりらしい。6巻文治2年(1186)3月12日

あかまがせき赤間關は、山口県下関市阿弥陀町赤間神宮前あたりと思われる。4巻元暦2年(1185)3月22

あがわ吾河は、高知県吾川郡(いの町)。10巻建久1(1190)4月大19

あがわぐん土佐国吾河郡は、高知県吾川郡春野町・いの町・仁淀川町。5巻文治1年(1185)12月30日あがわぐん吾河郡は、現在の高知市、吾川郡いの町、仁淀川町および高岡郡越知町の一部(旧横畠村明治村)も含んでいた。郡役所は伊野村(現在のいの町)に置かれた。7巻文治3年(1187)10月26日

あがわぐんとしこしやま吾河郡年越山は、南国市後免北側の坂折山の頂上に石碑有り。2巻壽永1年(1182)9月25

あさかのみくりや阿射賀御厨は、三重県松坂市小阿坂町。10巻建久1(1190)4月大19

あさば淺羽は、旧遠江国磐田郡。静岡県袋井市浅羽支所2巻養和1年3月13日

あじか足近は、旧美濃國羽島郡足近村で現岐阜県羽島市足近町。5巻文治1年(1185)10月25日

あしかが足利下野國足利庄、栃木県足利市。寿永2年(1183)2月23日

あじき葦敷は、岐阜市安食。2巻養和1年2月12日

あしやのうら葦屋浦は、筑前で現在の福岡県遠賀郡芦屋町。航空自衛隊芦屋基地がある。4巻元暦2年(1185)2月1日

あずさは、下野国梓郷で栃木県栃木市梓町

あすはのみくりや足羽御厨は、福井県福井市足羽(あすは)。12巻建久3年(1192)12月14日

あそうおおわだりょう(かわち)麻生大和田領〔河内〕は、大阪府門真市に大和田駅・大和田小学校・大和田幼稚園有、但し町名は無し。3巻壽永3年(1184)4月6日

あそぬま阿曾沼は、群馬県佐野市浅沼町寿永2年(1183)2月23日

あそうのうら志摩國麻生浦は、三重県度会郡伊勢町阿曽浦、旧度会郡南島町阿曽浦。4巻元暦2年(1185)5月10日

あだち足立は、東京都足立区と埼玉県川口市。3巻元暦1年(1184)10月6日

あだちのぐんごう足立の郡郷は、現足立区・川口・浦和。1巻治承4年10月8日

あぢか足近は、旧美濃國羽島郡足近村で現岐阜県羽島市足近町。5巻文治1年(1185)10月25日

あつかしやま阿津賀志山は、福島県伊達郡国見町西大枝原前に史跡〔阿津賀志山防塁〕あり。9巻文治5年(1189)8月7日

あてがわのしょう阿弖河庄は、和歌山県有田郡有田川町清水。3巻元暦1年(1184)7月2日

あどかわのみくりや安曇河御厨は、滋賀県高島市安曇川町四津川に賀茂神社あり。6巻文治2年(1186)9月5日

あびるのしょう畔蒜庄は、千葉県君津市。袖ヶ浦市。後に得宗領になる。6巻文治2年(1186)6月11日

あぶぐん長門國阿武郡は、山口県阿武郡阿武町。9巻文治5年(1189)2月30日土肥次郎實平から小早河弥太郎遠平に継がれた。戦国時代の小早川の先祖?。9巻文治5年(1189)2月30日9巻文治5年(1189)3月13日

あぶくま逢隈は、阿武隈川。9巻文治5年(1189)8月12日

あぶくまがわみなと遇隅河湊は、宮城県岩沼市阿武隈。9巻文治5年(1189)7月小17日

あぶずる鐙摺は、葉山町鐙摺。釣り船の港で有名。2巻永1年(1182)11月10日

あまかす甘糟は、猪俣党、埼玉県児玉郡美里町大字甘粕。3巻元暦1年(1184)8月18日

あまの天野は、静岡県伊豆の国市天野1巻治承4年8月20日

あまのしょう(あき)安摩庄〔安藝〕は、不明。堀田璋左右先生の注に「江田、瀬戸、倉橋、蒲刈の諸島を含む。清盛が本家、領家分共に厳島社に献ぜり」とある。3巻壽永3年(1184)4月6日

あまは天羽は、上総国天羽庄で千葉県富津市相川と云われる。湊に天羽行政センター、同数馬に天羽高校。しかし、市原市天羽田と云う人もいる。壽永3年(1184)1月17日

あみとごう網戸郷は、栃木県小山市網戸。但し、寒川郡内と思われるので、郡地頭と網戸郷地頭かもしれない。7巻文治3年(1187)12月1日

あゆかわのしょう鮎川庄は、福井県福井市鮎川町らしい。11巻建久2年6月23日

あゆさわ鮎澤は、静岡県御殿場市新橋鮎沢に鮎澤神社あり。東名御殿場インターのそば。32巻嘉禎4年(1238)10月大27日13巻建久4年(1193)5月8日では藍澤で出てる。

あらかわ荒河は、岩手県山田町荒河。9巻文治5年(1189)9月23日

あらきごう飛騨國荒木郷は、岐阜県高山市丹生川町折敷地。旧大野郡丹生川村折敷地。13巻建久4年(1193)11月12日

ありたのしょう(はりま)在田庄〔幡磨〕は、兵庫県加西市上道山町80に兵庫県加西市立西在田小学校あり。3巻壽永3年(1184)4月6日

ありふくのしょう有福庄は、広島県府中市上下町有福。6巻文治2年(1186)9月5日

あわじこくぶんじ國分寺は、兵庫県南あわじ市八木国分。10巻建久1(1190)4月大19

あわづ粟津邊は、滋賀県大津市粟津。3巻壽永3年(1184)1月20日あわづのしょう12巻建久3年(1192)12月14日

あんえいちょくし安永勅旨は、安永は佐久郡安原。長野県佐久市安原。6巻文治2年(1186)3月12日

あんざい安西は、安房の西なので安西。千葉県安房郡鋸南町保田1巻治承4年9月1日

あんどうごう出雲國安東郷は、安来節の島根県安来市安来町の東と思われる。4巻元暦2年(1185)1月22

いいくら飯倉は、東京都港区麻布台に「飯倉バス停」東麻布2−1−1に飯倉小学校(堀田璋左右先生は、「麻布区飯倉町に芝神明社(現芝大神宮)存す」とある。)3巻元暦1年(1184)5月3日

いいじま飯島は、鎌倉の材木座の逗子側の町名。2巻永1年(1182)11月10日

いいだ飯田は、横浜市泉区上飯田下飯田で鎌倉古道上の道沿い。1巻治承4年8月23日・同10月20日・同22日

いいとみ飯冨は、上総國飯富庄で、千葉県袖ヶ浦市飯富。10巻文治6年(1190)918

いいとみのしょう飯富庄は、千葉県袖ヶ浦市飯富。4巻元暦2年6月5日

いいなしのしょう飯生庄は、島根県安来市飯梨町。10巻文治6年(1190)4月19日

いがらのしょう伊賀良庄は、信州伊那郡。長野県飯田市北方3872-1に伊賀良小学校あり。同市上殿岡に伊賀良斎場あり。以上から飯田市の飯田インター周辺。6巻文治2年(1186)3月12日8巻文治4年(1188)6月4日

いからめ伊賀良目は、福島市五十辺。9巻文治5年(1189)8月8日

いかるがのしょう鵤庄は、播磨国揖保郡。兵庫県揖保郡太子町全域。7巻文治3年(1187)3月19日

いけじろうは、鹿沼市池の森かも。寿永2年(1183)2月23日

いけせ池瀬は、愛知県丹羽郡扶桑町山那屋敷地。

いけだ池田は、池田庄、天竜川池田の渡しで、静岡県磐田市池田。10巻文治6年(1190)1221

いけだのしょう池田庄は、紀の川市池田新で旧那賀郡打田町池田新。池田郵便局あり。田中と池田は隣。3巻壽永3年(1184)2月21

いさ伊佐は、茨城県筑西市(旧下館市)仲舘456に朝宗開基の「観音寺」があり。又、西谷貝の伊讃(いさ)小学校に地名の名残有。

いざわ伊澤は、北上市。9巻文治5年(1189)9月24日

いざわのかんべ伊雜神戸は、三重県志摩市磯部町的矢らしい。堀田璋左右先生は、志摩国答志郡伊雑郷と書かれている。答志郡にはかつて鳥羽町・坂手村・神島村・答志村・加茂村・鏡浦村・長岡村 (鳥羽市) 磯部村・的矢村 (磯部町 → 志摩市) 安乗村・国府が存在したので的矢で良い様である。5巻文治1年(1185)10月15日

いさわのしょう(はりま)石作庄〔幡广〕は、兵庫県姫路市安富町安志。3巻壽永3年(1184)4月6日

いしおか石岡三郎友景は、常陸国、茨城県北茨城市中郷町石岡。10巻文治6年(1190)1月18日

いしかわ石河は、河内國石川庄、大阪府南河内郡河南町大字一須賀に石川小学校3巻元暦1年(1184)6月小4日

いしかわのしょう石河庄(信濃)は、旧更級郡川柳村。1950篠ノ井町新設。1959篠ノ井市に。1966長野市に合併。長野市篠ノ井二ツ柳か?6巻文治2年(1186)3月12日

いしかわのしょう石河庄(越後)は、南蒲原郡賀茂町字石河。現在の加茂市石川。6巻文治2年(1186)3月12日

いしだ石田は、神奈川県厚木市愛甲石田。壽永3年(1184)1月20日

いしだごう石田郷は、岐阜県羽島市下中町石田。6巻文治2年(1186)5月29日

いしなざか石那坂は、福島市で後退することになるので、たぶん編纂者の間違い。9巻文治5年(1189)8月8日

いしばしやま石橋山は、小田原市石橋。1巻治承4年8月23日

いしぶ(いそう)のしょう石負庄は、旧丹波国氷上郡石生村。現兵庫県丹波市氷上町石生(イソウ)。福知山線石生駅東、水分れ。(標高100mを切る日本最低所で谷中の中央分水界)ヤフーの地図の真ん中くらいの縮尺(市)に「石負」の文字も現れる。拡大すると消える。6巻文治2年(1186)3月2日

いずこくふ伊豆國府は、三島。10巻文治6年(1190)1月19日

いずさん伊豆山は、伊豆山権現で熱海の走湯神社。10巻文治6年(1190)8月15日

いずみは、尾張泉御園、現安城市和泉2巻養和1年3月10日

いずみかつた武藏國泉勝田は、埼玉県比企郡滑川町和泉。13巻建久4年2月10日

いすみのしょう伊隅庄は、旧千葉県夷隅郡。現在の勝浦市、大多喜町、御宿町、いすみ市の大部分、長生郡睦沢町の一部(旧瑞沢村)。8巻文治4年(1188)6月4日

いそう(いしぶ)のしょう石負庄は、旧丹波国氷上郡石生村。現兵庫県丹波市氷上町石生(イソウ)。福知山線石生駅東、水分れ。(標高100mを切る日本最低所で谷中の中央分水界)ヤフーの地図の真ん中くらいの縮尺(市)に「石負」の文字も現れる。拡大すると消える。6巻文治2年(1186)3月2日

いたい種遠は、大分県臼杵市野津町大字垣河内板井。4巻元暦2年(1185)7月12日

いちかわ市川は、甲斐国八代郡市河庄で現山梨県西八代郡市川三郷町市川大門1巻治承4年8月25日

いちの一野は、宮城県白石市越河市野か。9巻文治5年(1189)8月7日

いちのたに一谷は、神戸市中央区生田から須磨区あたりまでらしい。3巻壽永3年(1184)2月4日いちのたに一谷は、平氏は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。ウィキペディアより3巻壽永3年(1184)2月7日、神戸。3巻元暦1年(1184)9月19日

いちはら市原は、長野県長野市市原。1巻治承4年9月7日

いちむらのしょう市村庄は、長野市市町らしい。6巻文治2年(1186)3月12日

いつみやま逸見山は、須玉町若神子。1巻治承4年9月15日

いで伊堤は、静岡県沼津市井出1巻治承4年10月14日

いとう伊東は、伊豆の東なので伊東。静岡県伊東市。1巻治承4年8月23日

いとのしょう怡土庄は、福岡県怡土郡で魏志倭人伝の伊都国。但し散在型荘園なので、四至がない。貿易港の今津も持っている。本所は後白河院で、後に持明院系統で伝領する。領家は、仁和法金剛院。預所は藤原能盛。待賢門院(鳥羽上皇の中宮で藤原障子)の近親者太宰大弐藤原經忠の斡旋で、在地領主達が連合して寄進した謂われる。元は原田種直領地が平家没管領となり関東御領になった。一旦頼朝は地頭を廃止するが、承久の乱後、地頭設置。弘安年間に北条氏の支配となり、仁和寺の支配は無実化する。145町の広さで貿易港今津を持つ。8巻文治4年(1188)4月12日
いとのしょう怡土庄は、筑前博多(福岡県怡土郡内で魏志倭人伝の伊都国)、元は原田種直領地平家没管領が関東御領になったので地頭を置いた。現実には執権が支配する。10巻文治6年(1190)3月9日

いなきのしょう(おわり)稻木庄〔尾張〕は、愛知県江南市寄木町稲木に稲木神社在り。3巻壽永3年(1184)4月6日

いなげ稻毛は、神奈川県川崎市多摩区枡形6丁目に枡形城跡お呼び稲毛山廣福寺あり。3巻元暦1年(1184)6月16日

いなせがわ稲瀬川は、長谷を南北に流れる。この時代は稲瀬川を鎌倉の内と外の境としているようである。後に白波五人男が勢揃いする。1巻治承4年10月11日、鎌倉市内南西の長谷の交差点の東側を南北に流れる川。政子の鎌倉入りの際も日次がよくないとして、この川の西で泊っていることから、鎌倉時代当初はこの川から東を鎌倉内としたようである。川の名前を捩って「イナセ」から後に芝居で白波五人男が揃うのもここである。3巻元暦1年(1184)8月8日

いなん伊南伊北(いほう)は、元夷隅郡で「い」の音が残っている。周東周西は、元の千葉県周准郡で「す」の音が残り。廳南廳北は、元長柄郡で、「ちょう」の音が残っている。1巻治承4年9月19日

いなん伊南は、勝浦市。1巻治承4年10月3日

いぬまる犬丸は、同じ糸貫郷犬丸名(岐阜県本巣市三橋・旧本巣郡糸貫町)で供に八条院領。10巻文治6年(1190)4月大4日

いのうえ井上は、信濃国高井郡井上庄。http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/11_20/inoue.html3巻元暦1年(1184)7月10日

いのへ井家は、イノヘと読み、石川県金沢市と津幡町一帯で長講堂領=後白河領。10巻文治6年(1190)5月12日

いば伊庭は、近江伊庭荘で現滋賀県神崎郡能登川町伊庭。2巻養和1年2月12日

いはせ湯橋は、和歌山県和歌山市岩橋(イワセ)。10巻文治6年(1190)4月19日

いばらき蕀木は、韮山町茨木。1巻治承4年8月17日

いびのしょう揖斐庄は、美濃国大野郡揖斐庄は、牧場があったのかもしれない。4巻元暦2年(1185)4月15日

いぼ揖保は、旧揖西郡揖保村で現兵庫県たつの市揖保町揖保上、揖保中。6巻文治2年(1186)6月9日

いほう伊南伊北は、元夷隅郡で「い」の音が残っている。周東周西は、元の千葉県周准郡で「す」の音が残り。廳南廳北は、元長柄郡で、「ちょう」の音が残っている。1巻治承4年9月19日

いほう伊北は、勝浦市夷隅町あたりらしい。1巻治承4年10月3日

いまづ今津は、兵庫県西宮市今津港町。4巻元暦2年(1185)4月24

いまなみ今南は、不明。丹波国で今がつくのは、兵庫県篠山市今田町(ササヤマシ)。もうひとつの石負の南三里半。今南は摂津とも言われる。6巻文治2年(1186)3月2日

いまにしのしょう今西庄は、滋賀県東浅井郡湖北町今西?。12巻建久3年(1192)12月14日

いまみぞのしょう今溝庄は、倭名類聚鈔によると「水内郡」内とあるが不明。長野市中村・高田らしい。6巻文治2年(1186)3月12日

いもあらい芋洗は、京都府久世郡久御山町東一口西一口(いもあらい)。宇治川からの巨椋池入口あたり。

いもかわのしょう芋河庄は、長野県上水内郡飯綱町芋川。6巻文治2年(1186)3月12日

いやへいさえもんのじょうむねきよ弥平左衛門尉宗Cは、平治の乱で義朝とはぐれてしまった頼朝を捕らえたが、池禪尼に命乞いをした。3巻元暦1年(1184)6月1日

いるまがわら入間河原は、埼玉県狭山市入間川 3−35−9に清水八幡社がある。http://www.city.sayama.saitama.jp/history/bunkazai/siseki.htm3巻元暦1年(1184)4月26

いわい磐井は、岩井。9巻文治5年(1189)9月24日

いわくら石倉は、京都市左京区岩倉。6巻文治2年(1186)6月22日

いわさき岩崎は、福島県小名浜市岩出岩崎。9巻文治5年(1189)7月小17日

いわさき東海道岩崎は、岩手県北上市和賀町岩崎。10巻文治6年(1190)1月8日

いわむろ岩室は、静岡県磐田市岩室。6巻文治2年(1186)4月21日

いんとう印東は、印旛沼の東。1巻治承4年10月20日。千葉県印旛郡酒々井町。6巻文治2年(1186)3月12日

いんべのかんべ員部神戸は、三重県いなべ市御薗(旧員弁郡員弁町)。5巻文治1年(1185)10月15日

うえだ上田は、近江上田荘、滋賀県近江八幡市上田町2巻養和1年2月12日

うえだのしょう(おいだのしょう越後)於田庄は、上田庄で旧南魚沼郡塩沢町上田で現在の南魚沼市長崎に第一第二上田小学校、交流センター上田の郷あり。6巻文治2年(1186)3月12日

うえだはら上田原は、長野県上田市上田原。21巻建暦3年(1213)2月16日

うかいごう宇甘郷は、岡山県岡山市御津宇甘(みつうかい)。8巻文治4年(1188)6月4日

うかわのしょう宇河庄は、鵜川庄。柏崎市女谷に鵜川郵便局あり。6巻文治2年(1186)3月12日

うさみ宇佐美は、伊豆宇佐美。静岡県伊東市宇佐美2巻養和1年4月7日

うじいえ氏家は、栃木県さくら市氏家。『和名抄』の芳賀郡氏家郷(旧塩谷郡氏家町氏家)。

うすい臼井は、千葉県佐倉市臼井。21巻建暦3年(1213)2月16日

うすき臼杵は、豊後臼杵庄、大分県臼杵市。3巻元暦2年(1185)1月12日

うすまののしょう(ひご)臼間野庄〔肥後〕は、堀田璋左右先生の注に「臼間野は玉名郡南關・坂上・坂下の辺、約三十村を云うと。」とあるので、熊本県玉名郡南関町関町。同上坂下・下坂下。又、熊本県玉名郡南関町下坂下付近に戦国時代の臼間野氏城跡在り。http://f34.aaa.livedoor.jp/~batabaru/sakashitajou.htm別説として、熊本県水俣市長崎に「木臼野」の地名在り。別説に球摩臼間野庄を球磨郡錦町とする説在り(根拠は吾妻鏡・久我家文書とある)。http://www.yumechiyo.jp/yatsushiro/hitoyoshi2.html3巻壽永3年(1184)4月6日

うた宇太は相馬。相馬御厨で茨城県旧北相馬郡で現取手市・守屋市・利根町・常総市、龍ヶ崎市、つくばみらい市の一部と、千葉県旧南相馬郡で我孫子市・柏市の一部(旧富勢村・旧沼南町)。9巻文治5年(1189)7月17日

うたぐん宇多郡は、元暦2年(1185)5月24日条腰越状に大和國宇多郡龍門之牧へ源九郎義經は母常磐御前に抱かれて赴いたとある。源氏ゆかりの地か?6巻文治2年(1186)6月28日

うたじま歌嶋は、広島県尾道市向島町5600に歌島橋東詰交差点あり。10巻建久1(1190)4月大19

うつのみや宇津宮は、現在の宇都宮二荒山神社(ふたらやまじんじゃ)の別号http://61.194.63.139/ext/mukautu.html9巻文治5年(1189)7月25日

うつみ内海は、愛知県知多郡南知多町大字内海。10巻文治6年(1190)1029

うとうまいのかけはし有多宇末井之梯は、青森県青森市大字浅虫の浅虫温泉南の善知烏崎を指すらしい。10巻文治6年(1190)2月12日

うなかみのしょう領所下総國は、海上庄(うなかみのしょう)で後の東庄(東庄、現千葉県香取郡東庄町)はここで取り上げられ、千葉氏に与えられ、常胤の六男千葉六郎大夫胤頼が受領し、東氏となる。但し、現在千葉県海上郡海上町が隣り合っている?2巻養和1年3月27日

うなべのしょう出羽國海邊庄は、海辺庄は最上川南側で、立川町(現山形県東田川郡庄内町)・余目町(同左)・酒田市。10巻文治6年(1190)1月6日

うぬま鵜沼は、岐阜県各務原市鵜沼南町。

うらかみのしょう浦上庄は、堀田璋左右先生の解説に「揖西郡山下・中陣・門前・栄・西搆・東用・萩原・真砂・上河原・市場の十村。」とあるので、ネット検索の結果。兵庫県たつの市に揖保町山下・揖保町中臣(なかじん)・揖保町栄・揖保町西構(にしがまえ)・揖保町東用・揖保町萩原・揖保町真砂・揖保川町市場の地名が見つかったので、揖保町(いぼちょう)と揖保川町(いぼがわちょう)と名の付く一帯だと思われる。9巻文治5年(1189)3月13日

うらののしょう浦野庄は、信州小県郡浦里村大字浦野で現長野県上田市大字浦野。6巻文治2年(1186)3月12日

うんの海野は、長野県東御市本海野(とうみし・もとうんの)元小県郡東部町本海野。3巻元暦1年(1184)4月21海野小太郎幸氏の故郷か?6巻文治2年(1186)3月12日

えぎとおやまのしょう江儀遠山庄は、単に「遠山庄」ともいわれ、南信濃村史『遠山』によれば、遠山の古名「江儀遠山庄」の名の由来となった江儀岳は、池口岳ではないかとのこと。美濃の「遠山」と区別するため、信濃の「遠山」は江儀を冠して「江儀遠山」と呼んだものらしい。長野県飯田市南信濃和田に遠山中学校あり。一方下伊那郡阿南町とも言われる。6巻文治2年(1186)3月12日

えさしぐんとよだやかた江刺郡豐田舘は、江刺市藤里鎌田に東西五十七間南北三十九間を発見。9巻文治5年(1189)9月23日

えちぜんのくに越前国は、知行国主が徳大寺実定で国司を任命する権限を持つ。これは後白河法皇が任料を取って(売官・成功(じょうごう))、この権限を与えた。6巻文治2年(1186)6月17日

えちぜんのくにみずつ越前國水津は、敦賀市杉津。寿永2年(1183)5月4日

えびな海老名は、神奈川県海老名市海老名駅西方河原口に伝屋敷跡有り。1巻治承4年8月23日

えま江間は、伊豆江間郷、静岡県伊豆の国市南北江間。北条の沼津側。2巻養和1年4月7日2巻永1年(1182)11月14日

おいだのしょう(うえだのしょう越後)於田庄は、上田庄で旧南魚沼郡塩沢町上田で現在の南魚沼市長崎に第一第二上田小学校、交流センター上田の郷あり。6巻文治2年(1186)3月12日

おうしゅう奥州は、東北の太平洋側。9巻文治5年(1189)10月24日

おうみのくにあわづ近江國粟津邊は、大津市粟津。3巻壽永3年(1184)1月20日

おえのほう麻殖保は、徳島県吉野川市鴨島町麻植塚。6巻文治2年(1186)閏7月22日8巻文治4年(1188)3月14日

おおい大井は、武蔵国大井庄、東京都品川区大井3巻壽永3年(1184)3月22日

おおいしのうまや大石の驛(うまや)は、富士宮市大石寺辺。1巻治承4年10月13日

おおいそ大磯は、神奈川県中郡大磯町大磯。13巻建久4年(1193)6月18日

おおいどかのう大井戸加納は、岐阜県可児郡河児町大井。承久3年6月3日大井戸の渡りで。10巻建久1(1190)4月大19

おおいのしょう大井庄は、北佐久郡岩村田町。1954北大井村等が合併して小諸町に、同年南大井村等が合併して小諸市に、現在の小諸市柏木に北大井郵便局あり、同市御影新田に南大井郵便局あり。6巻文治2年(1186)3月12日8巻文治4年(1188)6月4日

おおいのしょう大井庄は、神奈川県足柄上郡大井町のうち、旧上大井村、下大井村、西大井村と思われる。8巻文治4年(1188)6月4日

おおおかのしょう(するが)大岡庄〔駿河〕は、北條四郎時政の後妻牧ノ方の出身地大岡の牧と思われる。静岡県沼津市大岡。3巻壽永3年(1184)4月6日

おおおかのまき大岡牧は、伊豆半島のすぐ隣で、現沼津市大岡である。ここの領主の娘が北條時政の後妻の牧の方である。1巻治承4年8月28日8巻文治4年(1188)6月4日

おおかた大潟は八郎潟。10巻文治6年(1190)1月6日

おおかわ大河は、秋田県南秋田郡五城目町。10巻文治6年(1190)1月6日

おおかみのしょう大神庄は、糸魚川市大野。6巻文治2年(1186)3月12日

おおかわど大河戸は、大河戸御厨、埼玉県北葛飾郡松伏町大字松伏2巻養和1年2月18日

おおかわどのみくりや大河土御厨は、埼玉県北葛飾郡松伏町大川戸に緑の丘公園東にまるで条里制のように碁盤の目の田がある。壽永3年(1184)1月3日

おおかわらかしお大河原鹿塩は、長野県伊那郡大鹿村鹿塩。6巻文治2年(1186)3月12日

おおきど大木戸は、福島県伊達郡国見町の阿津賀志山防塁遺跡仙台側に国見町大木戸区に名が残る。9巻文治5年(1189)8月10日

おおぐし大串は、埼玉県比企郡吉見町大串。9巻文治5年(1189)7月19日

おおくぼ大窪は、多賀郡大久保村、茨城県日立市大久保町2巻養和1年3月12日

おおくらのしょう大藏庄は、福井県鯖江市大倉町。6巻文治2年(1186)9月十三

おおくらやかた武藏國大倉舘は、武蔵嵐山で下車して西へ25分歩くと畠山重忠の菅谷館跡あるが、太田道灌の息子の戦国時代にかなり直している。そばに埼玉県歴史資料館が有る。そこから更に15分歩くと、大倉館跡有り、二町四方の大きさで残っている。二町四方は大豪族の本家で、分家は一町四方の四分の一。その跡は大倉八幡神社になっている。1巻治承4年9月7日

おおご大胡は、前橋市大胡町。9巻文治5年(1189)7月17日

おおしおのまき大塩牧は、旧諏訪郡豊平村南大塩で、豊平村は1955諏訪郡茅野町新設。1958茅野市に市制。茅野市豊平に南大塩交差点名あり。6巻文治2年(1186)3月12日

おおしまのしょう大嶋庄は、長岡市大島町。6巻文治2年(1186)3月12日

おおしまのしょう大嶋庄は、岡山県倉敷市大島らしい。6巻文治2年(1186)6月17日

おおぜきやま大關山は花巻。10巻文治6年(1190)1月6日

おおぜきやま大関山は、宮城県柴田郡村田町らしい。9巻文治5年(1189)8月10日

おおそねときなが九郎藤次は、安達藤九郎盛長の次男で大曽根時長。出羽国(現山形県山形市大曽根)。10巻文治6年(1190)1月3日

おおた太田(常陸)は、常陸太田市、旧久慈郡。1巻治承4年11月4日

おおた太田(下野)は、長沼荘大田郷、栃木県芳賀郡二宮町長沼そこは往昔、長沼荘と称し、明治二2年の町村制施行の際、太田、掘込、大道泉、西大島、鷲巣、上江連、古山、青田、砂ケ原、上大曽、上谷貝、谷貝新田などの旧村を合併して良沼村と称したが、昭和二九年の町村合併により、二宮町と称することになった。寿永2年(1183)2月23日

おおた大田(上州)は、上野太田荘、現群馬県太田市。寿永2年(1183)2月23日

おおたぎりごう伊那郡大田切郷は、駒ヶ根市赤穂。(但し諏訪から十余里もある)1巻治承4年9月10日

おおたに*大谷は、不明なれど大崎市三本木大谷カ?。10巻文治6年(1190)10月5日

おおたのしょう太田庄(信濃)は、旧上水内郡鳥居村。1954鳥居村と神郷村が合併して豊野村に、後町に昇格、2005長野市に編入。長野県長野市豊野町豊野らしい。6巻文治2年(1186)3月12日

おおたのしょう大田庄は、旧埼玉郡の久喜市・岩槻市、春日部市、蓮田市、旧南埼玉郡の久喜市、加須市、行田市、熊谷市、大宮市、鴻巣市、羽生市等の186村を含む広大な荘園。8巻文治4年(1188)6月4日(武蔵)は、八条院領で太田庄は荒川(現在の綾瀬川および元荒川)と利根川(現在の古利根川)の流路にはさまれ、流路に沿って北西−東南方両に細長く仲びた地域で、現在の羽生市・加須市・鷲宮町・久喜市・白岡町・蓮田市・春日部市・岩槻市・越谷市などの広大な地域に比定される。十3巻建久4年11月18日

おおたのしょう太田庄(備後)は、備後国世羅郡全体(名は大田村)で、広島県世羅郡世羅町。1955大見村・東大田村・西大田村が合併して世羅町となり、その後も合併を重ね世羅町(2代)となった。本所は高野山で、領家が後白河法皇、預かり所は重盛であった。平家没官領として関東御領となり、土肥弥太郎遠平が地頭である。6巻文治2年(1186)7月24日

おおたわ太多和は、横須賀市太田和。2巻永1年(1182)11月10日

おおつきのしょう大槻庄は、南蒲原郡三条町、現三条市大字月岡903に式内社槻田神社あり。6巻文治2年(1186)3月12日

おおつのみくりや大津御厨は、現在の島田市大津。9巻文治5年(1189)5月22日

おおと大戸は、千葉県香取市大戸に大戸神社あり成田線「大戸駅」。6巻文治2年(1186)3月12日

おおとも大友は、神奈川県小田原市東大友・西大友。3巻元暦2年(1185)4月14日

おおともごう大友郷は、神奈川県小田原市西大友、東大友。8巻文治4年(1188)12月17日

おおなのしょう大穴庄は、旧東筑摩郡明科町で、現安曇野市明科。6巻文治2年(1186)3月12日

おおの大野は、大野荘で現大分県豊後大野市大野町。2巻養和1年2月29日

おおのぐん大野郡は、岐阜県揖斐郡大野町周辺一帯らしい、羽島市、揖斐川町、池田町。瑞穂市等。6巻文治2年(1186)6月2日

おおのごう大野郷は、香川県高松市香川町大野。高松駅と高松空港の真ん中。3巻元暦1年(1184)9月19日

おおののしょう大野荘は、現大分県豊後大野市大野町。2巻養和1年2月29日

おおののまき大野牧は、下伊那郡榊原村。1956川の東岸の平岡村と合併し天龍村。6巻文治2年(1186)3月12日

おおば大庭は、相模国大庭御厨、藤沢市大庭2巻養和1年5月15日、藤沢市大庭に大庭城址あり。但し、戦国初期の手が入っている。1巻治承4年8月2日大庭は、権五郎景政が開発した大庭の御厨を継いでいる嫡流で藤沢市大庭湘南ライフタウン隣に城跡有り。三郎景親が継いでいる。1巻治承4年8月20日・同23日

おおばのみくりや相模国大庭御厨は、神奈川県藤沢市大庭(藤沢市一帯と茅ヶ崎市の一部を含む)で、後3年の役で武名を上げた鎌倉権五郎景政が開発して立荘したと伝えられる。2巻養和1年7月8日

おおべごう大部郷は、兵庫県小野市敷地町に大部小学校あり。北北東5kmに加東市佐保がある。8巻文治4年(1188)6月4日

おおみ大見は遠江国大見、静岡県浜松市大見。1巻治承4年8月20日

おおみね大峯は、大峯山寺は奈良県吉野郡天川村にある修験道の寺院である。大峯山の中心である山上ケ岳の山頂に建つ。女人禁制で毎年5月2日に戸開式、9月22日に戸閉式が行われる。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。6巻文治2年(1186)3月6日

おおみのしょう海庄は、加茂市青海町。6巻文治2年(1186)3月12日

おおみや大宮は、大宮大路。4巻元暦2年(1185)4月24日

おおむろのまき大室牧は、旧埴科郡寺尾村大字大室。寺尾村は1955松代町へ編入、1966長野市へ合併。長野市松代町東寺尾。6巻文治2年(1186)3月12日

おおものしょう大面庄は、三条市新堀・栄荻島など旧栄町。6巻文治2年(1186)3月12日8巻文治4年(1188)6月4日

おおや大屋は、尾張大宅郷、名古屋市中区古渡町。2巻養和1年3月19日

おおや大谷は、不明なれど大崎市三本木大谷カ?。10巻文治6年(1190)105

おおやばし大矢は、茨城郡美野里町大谷と思われる。1巻治承4年11月4日

おかざき岡崎は、相模国岡崎郷、伊勢原市岡崎(城址)と平塚市岡崎領主。1巻治承4年8月12日1巻治承4年8月20日

おがさわら小笠原は、長野県中野市笠原。1巻治承4年9月7日

おがしま小鹿嶋は、秋田県男鹿市。10巻文治6年(1190)1月19日

おがしまたいしゃ小鹿嶋大社は、 秋田県男鹿市北浦真山 字水喰沢97 男鹿真山神社と思われる。10巻文治6年(1190)1月6日

おがた緒方は、豊後緒方荘、大分県豊後大野市緒方町。2巻養和1年2月29日

おかだごう岡田郷は、旧東筑摩郡岡田村。1954松本市に編入。松本市岡田町に平野神社があるので荘園としての分祀であろう。6巻文治2年(1186)3月12日

おかにやごう岡仁谷郷は、長野県岡谷市岡野。1巻治承4年9月10日

おかのまき緒鹿牧は、猪鹿ならば北佐久郡志賀村かもしれない。6巻文治2年(1186)3月12日

おかべ岡部は、駿河国志太郡。静岡県藤枝市岡部町岡部。寿永2年(1183)2月28日

おかもと岡本は、三重県伊勢市岡本町。10巻建久1(1190)4月大19

おかや岡屋は、岡谷市。6巻文治2年(1186)3月12日

おがわ小河は、埼玉県比企郡小川町小川。3巻元暦2年(1185)4月15日

おがわ小河は、近江小川保で現滋賀県神崎郡能登川町小川。2巻養和1年2月12日

おがわごう伊豆國小河郷は、三島市和泉町(喝命所)。4巻元暦2年(1185)7月26日

おがわのしょう小河庄は、長野県上水内郡小川村。6巻文治2年(1186)3月12日

おがわのしょうあかたに小河庄赤谷は、新発田市赤岩に館跡あり、山をしょっている。後に現在の胎内市中城町鳥坂に移る。2巻壽永1年(1182)9月28

おがわのほう小河は、近江小川保で現滋賀県神崎郡能登川町小川。2巻養和1年2月12日

おがわら小河原は、長野県須坂市小河原。3巻元暦1年(1184)7月25

おぎそのしょう大吉祖庄は、旧西筑摩郡木祖村と思われ、その昔美濃国恵那郡檜上郷に属していたらしい。現木曽郡木祖村。6巻文治2年(1186)3月12日

おきつ興津静岡県清水市興津町。1巻治承4年10月1日おきつ奥津は、静岡県静岡市清水区興津本町。10巻文治6年(1190)1225

おぎの荻野は、現厚木市上荻野、下荻野。下荻野に江戸時代の荻野中山藩陣屋跡有り。1巻治承4年10月18日

おぐまのしゅく小熊宿は、小熊保で、岐阜県羽島市小熊町。10巻文治6年(1190)1028

おくやまのしょう奥山庄は、旧北蒲原郡中条町黒川村。越後平氏城一族の所轄。現在中条町と黒川村は合併し胎内市となった。6巻文治2年(1186)3月12日
おくやまのしょう奥山庄は、新潟県胎内市(旧中条町、黒川村)、寒河江市の旧紫雲寺町)8巻文治4年(1188)2月2日

おぐり小栗は、小栗御厨、茨城県筑西市小栗に小栗小学校あり。旧真壁郡協和町小栗。寿永2年(1183)2月23日

おくろくぐん泰衡没年記事。奥六郡は、岩手、志和(しわ)、稗抜(ひえぬき)、和賀(わが)、江刺、伊沢(いさわ)9巻文治5年(1189)9月3日

おさだ長田は、尾張知多半島長田荘、愛知県碧南市長田町。1巻治承4年10月13日

おさだ長田は、河内國若江郡東大阪市長田。10巻建久1(1190)4月大19

おさだのしょう(いが)長田庄「伊賀」は、三重県伊賀市長田。3巻壽永3年(1184)4月6日

おさだのしょう伯耆國長田庄は、鳥取県西伯郡大山町長田(サイハクグンダイセンチョウナガタ)に長田神社あり。近くに妻木晩田遺跡展示室あり。10巻文治6年(1190)116

おじか牡鹿は、宮城。9巻文治5年(1189)9月24日

おちはらのしょう落原庄は、蕗原庄の間違いらしい。蕗原庄は信濃国伊那郡で旧朝日村川島村伊那富村。現辰野町。6巻文治2年(1186)3月12日

おにくぼ鬼窪は、埼玉県南埼玉郡白岡町小久喜中村933鬼窪八幡神社。4巻元暦2年(1185)3月14日

おののしょう小野庄は、小野田庄で愛知県豊橋市加茂町、愛知県豊橋市石巻小野田町。6巻文治2年(1186)10月1日

おのだごう小野田郷は、千葉県長生郡長南町長南上下小野田。13巻建久4年(1193)11月23

おのだのしょう小野庄は、小野田庄で愛知県豊橋市加茂町、愛知県豊橋市石巻小野田町。文治2年(1186)10月1日

おのでら小野寺は、栃木県下都賀郡岩舟町小野寺。寿永2年(1183)2月23日

おののまき小野牧は、旧上伊那郡小野村小野で、昭和36年辰野町に合併し、上伊那郡辰野町小野。6巻文治2年(1186)3月12日

おばせのしょう小橋庄は、摂津国東成郡小橋荘、大阪市天王寺区小橋町(オバセチョウ)。6巻文治2年(1186)1月24日

おはつせのしょう小谷庄は、旧更級郡塩崎村。1959篠ノ井市に合併。1966長野市に合併。長野市篠ノ井塩崎。音からだと小長谷部(おはつせべ)の長が抜けたとも考えられるが、場所は特定できない。6巻文治2年(1186)3月12日

おぶ(いいとみ)のしょう上総國飯富庄は、千葉県袖ヶ浦市飯富。

おまたごう小俣郷は、東筑摩郡笹賀村。現長野県松本市笹賀(ささが)に小俣観音堂・小俣研修センターの名あり。その南に上小俣公民館もある。6巻文治2年(1186)3月12日

おみのみくりや麻續御厨は、長野県東筑摩郡麻積村。6巻文治2年(1186)3月12日

おやま小山は、下野国小山荘、栃木県小山市。1巻治承4年10月2日1巻治承4年9月3日寿永2年(1183)2月20日3巻元暦1年(1184)9月2日

おやまだ小山田は、東京都町田市小山田。2巻養和1年4月20日3巻元暦1年(1184)6月16日

おやまとのしょう小倭庄は、三重県津市白山町と一志町。白山町中ノ村に倭出張所、倭診療所。上ノ村に倭小学校あり。六条院領で地頭は大江広元。後足利尊氏が建武3年に熊野神官にあてがっている。応仁の乱の頃になると戦乱を避けて足利義視が国司北畠を頼ってこの地へ来て、途中常光寺に滞在。戦国時代には小倭衆の一族七人が一揆衆を組んで、国司北畠氏の配下に入っている。10巻建久1(1190)4月大19

おわきのしゅく小脇宿は、滋賀県東近江市小脇町(旧八日市市小脇町)。10巻文治6年(1190)1214

かけがわ懸河は、静岡県掛川市掛川。10巻文治6年(1190)1222

かけがわへん懸河邊は、静岡県掛川市。2巻養和2年5月12日

かげさわ蔭澤は、不明。但し蔭を鹿毛と考えると栃木県芳賀郡二宮町に鹿の地名有り。寿永2年(1183)2月23日

かさい葛西は、葛飾の西なので葛西。東京都葛飾区と千葉県市川市。2巻養和1年4月7日。柴又帝釈天から荒川に沿って上流へ15分位歩いたところに葛西神社がある。1巻治承4年9月3日

かさはらのみまき笠原御牧は、旧下高井郡笠原村は1889に合併し平岡村に、1954中野市に、現在の中野市笠原に笠原神社あり。小笠原の名字の地。6巻文治2年(1186)3月12日

かさはらのまきなんじょう笠原牧〔南條〕は、旧下高井郡笠原村は1889に合併し平岡村に、1954中野市に、現在の中野市笠原に笠原神社あり。の南条であろう。6巻文治2年(1186)3月12日

かさはらのまきほうじょう同北條は、旧下高井郡笠原村は1889に合併し平岡村に、1954中野市に、現在の中野市笠原に笠原神社あり。の北条であろう。6巻文治2年(1186)3月12日

かしいのしょう(ちくぜん)香椎庄〔筑前〕は、福岡県福岡市東区香椎。香椎宮。3巻壽永3年(1184)4月6日

かじのしょう加地庄は、旧北蒲原郡加治川村。現在の新発田市下今泉に「加治駅」あり。佐々木三郎盛綱が地頭。6巻文治2年(1186)3月12日上今泉に加治川小学校あり。10巻文治6年(1190)7月大20

かしま賀島は、富士市加島、富士川から四里。1巻治承4年10月20日

かしわぎ柏木は、近江国甲賀郡柏木庄。現在の水口町。1巻治承4年12月1日

かしわばら柏原は、埼玉県狭山市柏原。9巻文治5年(1189)7月小19日

かしわばら近江國柏原は、滋賀県米原市柏原。10巻文治6年(1190)112

かじわら梶原は、鎌倉市梶原。1巻治承4年8月24日

かすやのしょう糟屋荘は、伊勢原市上粕屋。10巻文治6年(1190)8月大3

かずらやま葛山は、静岡県裾野市葛山。25巻承久3年(1221)5月22日

かせだごう裃田郷は、和歌山県伊都郡かつらぎ町笠田東に「笠田(かせだ)駅」あり。荘園史では、絵図が残っているので有名。西北に静河庄、西が名手庄、南は紀ノ川を越え志富田庄と境を接している。現在のかつらぎ市高田、背山、窪、萩原、笠田中、笠田東、島を含む区域。絵図は神護寺と宝来山神社(旧八幡宮)とに残っている。6巻文治2年(1186)8月26日

かたおか片岡は、旧常陸国新治郡八郷町片岡で現石岡市片岡。5巻文治1年(1185)10月28

かたかみのみくりや方上御厨は、静岡県焼津市方ノ上。静岡県史資料編Eに「足利義政、烏丸右兵衛権佐資任に益津郡方上御厨(方ノ上・坂本・中里・石脇・成沢・馬場・吉津・花沢・野秋・小浜・岡当目・浜当目12か村)等を子烏丸侍従氏光相続安堵。『静岡県史資料編E』」とある。東名高速二本坂パーキングエリヤ周辺。6巻文治2年(1186)閏7月28

かたぎり片切は、長野県上伊那郡中川村片桐。3巻元暦1年(1184)6月小23日

かたせがわ固瀬河は、現在の江ノ島そばの片瀬川。1巻治承4年10月26日

かたせがわ四瀬河は、固瀬川の間違いで五十鈴川支流。2巻養和1年一月21日

かたびらのしょう帷庄は、岐阜県可児市帷子新町?。12巻建久3年(1192)12月14日

かつた勝田は、静岡県牧之原市勝間(勝間田郵便局)元榛原郡榛原町勝間。寿永2年(1183)2月17日

かったぐん苅田郡は、宮城県白石市。9巻文治5年(1189)8月7日

かつらい桂井は、枯井の魯魚(誤り易い文字)ならば、北佐久郡に枯井の地名有り。6巻文治2年(1186)3月12日

かつらうら桂浦は、堀田璋左右先生は勝浦郡小松島と書かれているので、徳島県小松島市小松島。4巻元暦2年(1185)2月18日

かなくらい金倉井は、下高井郡高井村金井かもしれない。6巻文治2年(1186)3月12日

かなさじょう金砂城は、現常陸太田市上宮河内町に西金砂神社あり、旧久慈郡上宮河内村の西、金砂山上にあり。1巻治承4年11月4日

かねあらいさわ金洗澤は、七里ガ浜の行合橋と稲村ガ崎と間。2巻養和2年4月5日

かねだ金田は、上総国長柄郡金田郷、千葉県木更津市金田。1巻治承4年8月24日

かのう狩野は、静岡県伊豆の国市狩野川あたり。3巻壽永3年(1184)3月28日静岡県伊豆市青羽根に狩野小学校。狩野幼稚園あり。13巻建久4年(1193)5月2日

かのうさん狩野山は、伊豆の狩野川周りの山と思われるが、現在の地名にはない。4巻元暦2年(1185)2月12日

かのうのしょう狩野庄は、静岡県伊豆の国市狩野川あたり。或いは、静岡県伊豆市青羽根に狩野小学校。狩野幼稚園あり。8巻文治4年(1188)6月4日

かのうやしろよんかそん同加納屋代四ケ村は、長野県千曲市屋代。6巻文治2年(1186)3月12日

かばは、蒲御厨、静岡県浜松市蒲。寿永2年(1183)2月23日

かばやのみくりや蒲屋御厨は、下田市田中蒲神社。1巻治承4年8月19日

かほく河北は、山形県西村山郡河北町。10巻文治6年(1190)1月6日

がま賀摩は、福岡県嘉麻市。3巻元暦2年(1185)2月1日

かまがた蒲形は、愛知県蒲郡市御幸町に蒲形公園あり。竹谷蒲形は隣町。4巻元暦2年(1185)2月19日

かまた遠江國鎌田は、静岡県磐田市鎌田。伊勢神宮が本所で左兵衛藤原正清は庄司。2巻養和2年5月16日

かまた鎌田は、鉾田市鎌田・旧鹿島郡鉾田町鎌田。寿永2年(1183)2月23日

がまはら蒲原驛は、蒲原宿で静岡県静岡市清水区蒲原で旧庵原郡蒲原町蒲原。3巻元暦1年(1184)7月10日

かみよし神吉は、京都府南丹市八木町神吉(ナンタンシヤギチョウカミヨシ)。6巻文治2年(1186)3月4日

かみやのしょう紙屋庄は、長岡市西南〜小千谷市北西カ。6巻文治2年(1186)3月12日

かめやま龜山は、気仙沼市亀山(気仙沼大島内なので違う)。10巻文治6年(1190)3月10日

かやつしゅく萱津宿は、愛知県海部郡甚目寺町下萱津。6巻文治2年(1186)4月1日

かりたごう信濃國東條庄内狩田郷は、長野県長野市大字若槻東条字蚊里田1313番地に蚊里田八幡宮があるのでここかも知れない。3巻壽永3年(1184)2月30

かわごえ河越は、埼玉県川越市3巻元暦1年(1184)9月14日

かわごえのしょう河越庄は、埼玉県川越市。秩父党の河越太郎重頼が地頭だが義経連座で文治1年(1185)11月12日取上げられ、母に譲られた。6巻文治2年(1186)7月28日、8月5日

かわちのくにやまだごう河内國山田郷は、大阪府枚方市山田。10巻文治6年(1190)8月3日

かわむら・かわむらごう河村郷は、神奈川県足柄上郡山北村。御殿場線山北駅南に城址あり。1巻治承4年8月23日10月23日10巻文治6年(1190)93

かわむらやま河村山は、現在の御殿場線山北駅南に河村城址有り。1巻治承4年10月18日

かわらがや河原谷は、静岡県三島市川原ケ谷。4巻元暦2年(1185)4月20日

かんこく函谷は、函谷関で箱根の山の歌に出てくる中国の関所9巻文治5年(1189)9月27日

かんざき神崎は、千葉県香取郡神崎町。大戸の西隣。成田線「下総神崎駅」。6巻文治2年(1186)3月12日

かんざきのしょう神崎庄は、旧肥前国神崎郡神埼町。現佐賀県神崎市神埼町神崎。吉野ヶ里遺跡で有名。6巻文治2年(1186)2月22日

かんばらのうまや蒲原驛は、蒲原宿で静岡県静岡市清水区蒲原で旧庵原郡蒲原町蒲原。3巻元暦1年(1184)7月10日10巻文治6年(1190)109

きいのくにいけだのしょう紀伊國池田庄は、紀の川市池田新で旧那賀郡打田町池田新。池田郵便局あり。田中と池田は隣。3巻壽永3年(1184)2月21

きいのくにたなかのしょう紀伊國田中庄は、紀の川市田中馬場で旧那賀郡打田町田中馬場。西行が開発したとも言われ、又平家物語後二条関白立願では「殿下の領紀伊国に田中庄といふ所を八王子の御社へ永代寄進せらる」とあり有名。紀の川市打田に田中小学校あり。3巻壽永3年(1184)2月21

きうちのしょう木内庄は、千葉県香取市木内に木内神社あり。旧香取郡小見川町。6巻文治2年(1186)3月12日

きくかわ菊川は、静岡県菊川市。42巻建長4年(1252)3月26日

きくかわのしゅく遠江國菊河宿は、静岡県島田市菊川。10巻文治6年(1190)1013

きくち菊地は、熊本県菊池市。2巻養和1年2月29日

きくまつ菊松は、糸貫郷菊松名。岐阜県本巣市三橋に糸貫中学校あり。(旧本巣郡糸貫町大字上保字菊松の説あり)。10巻文治6年(1190)4月大4日

きさい崎西は、埼玉の西。壽永3年(1184)1月3日

きし貴志は、大阪府富田林市貴志・貴志町・貴志新家町。6巻文治2年(1186)1月10日

きじま木嶋は、京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋神社のあたりか?

きせがわ黄瀬川は、沼津市大岡字木瀬川。1巻治承4年9月20日

きせがわじゅく黄瀬川宿は、沼津市大岡字木瀬川に黄瀬川橋あり1巻治承4年8月17日10巻文治6年(1190)1226

きそ木曾は、当時の文献では吉祖庄と書かれている。1巻治承4年9月7日

きたうち北内は、松本市内田。南内田の北側。6巻文治2年(1186)3月12日

きっかわ吉川は、駿河國吉川郡、静岡県静岡市清水区吉川。3巻元暦1年(1184)7月10日

きぬがさじょう衣笠城は、横須賀線衣笠駅から南に1km位の横須賀市衣笠町650辺りが大手、756大善寺辺りが本丸。1巻治承4年8月26日

きはら木原は、肥後木原名で現竹田市城原キバル。2巻養和1年2月29日

きむら木村は、木村保、栃木県下都賀郡都賀町木。寿永2年(1183)2月23日

きよひさC久次郎秀行は、久喜市。2巻養和1年2月18日

きりゅう桐生六郎は、桐生市。寿永2年(1183)2月25日

くがみさん久我窮山は、新潟県燕市国上(旧西蒲原郡分水町国上)1407の国上山(クガミサン)国上寺(コクジョウジ)。弥彦神社と寺泊の中間。13巻建久4年(1193)7月2日

くじぐん久慈郡は、太子町。常陸太田市の一部。日立市の一部。7巻文治3年(1187)10月29日

くずおかぐん葛岡郡は、旧宮城県玉造郡岩出山町上山里字葛岡。現大崎市岩出山字葛岡。9巻文治5年(1189)8月20日。(後の伊達政宗の二箇所目の城)。9巻文治5年(1189)9月20日

くずかみ葛上は、奈良県御所市佐田に葛上中学校あり。

くずはま葛濱は、葛浜郷、埼玉県加須市(かぞし)。2巻養和1年2月18日

くちだのしょう久千田庄は、阿波国阿波郡久勝村大字久千田で、古地図に阿波郡阿波町稲荷の西光寺の西側に久千田城址あり。又安政には久千田小学校もあった。なので、徳島県阿波市阿波町稲荷の周り一帯だったようである。6巻文治2年(1186)6月9日

くにとみのしょう(ひゅうが)國冨庄〔日向〕は、宮崎市。宮崎県東諸県郡国富町本庄。3巻壽永3年(1184)4月6日

くま(ひご)球摩(原文王偏)〔肥後〕は、堀田璋左右先生の注に「球磨は別所とす。郷名に在り。」とあり、球磨と臼真野を分けておりますので、球磨を熊本県球磨郡球磨村。3巻壽永3年(1184)4月6日

くまいごう熊井郷は、塩尻市片丘。明治7年(1874)に中挟・南熊井・北熊井・南内田・北内田が合併して片丘村となり、昭和34年に塩尻市となった。6巻文治2年(1186)3月12日

くまがい熊谷は、埼玉県熊谷市。1巻治承4年8月23日2巻永1年(1182)6月5日

くまさかのしょう(かが)熊坂庄〔加賀〕は、石川県加賀市熊坂町。3巻壽永3年(1184)4月6日

くまの熊野は、宮城県名取市下増田小字熊野。9巻文治5年(1189)10月2日

くらて鞍手は、福岡県鞍手郡鞍手町。7巻文治3年(1187)10月26日

くらしなのしょう倉科庄は、長野県千曲市倉科。6巻文治2年(1186)3月12日

くりたじ栗田寺は、長野市栗太。1巻治承4年9月7日

くりはら栗原は、宮城県栗原市築館(築館薬師台の双林寺に平安時代の薬師如来有)。9巻文治5年(1189)8月7日

くりはらじ栗原寺は、宮城県栗駒町尾松字栗原西沢上品寺。10巻文治6年(1190)3月10日

くりむらのしょう栗村庄は、和名抄に何鹿郡(いかるがぐん)栗村郷と出ている。現京都府綾部市栗町。6巻文治2年(1186)3月2日

くりやがわ岩井郡厨河邊は、盛岡市厨川。9巻文治5年(1189)9月2日

くりやがわのさく厨河柵は、岩手県盛岡市安倍館町。隣が前九年。9巻文治5年(1189)9月11日

くろいわぐち黒岩口は、栗原市栗駒か宮城県白石市鷹巣黒岩下。9巻文治5年(1189)8月7日

くろかわ黒河は宮城県黒川郡富谷町か同郡大和町。9巻文治5年(1189)8月14日10巻文治6年(1190)105

くろかわごう黒河郷は、群馬県富岡市黒川で、黒川郷と言う公領。3巻元暦1年(1184)7月16日

くろこうち黒河内は、長野県伊那市長谷黒河内。6巻文治2年(1186)3月12日11月8日

くろだ黒田は、愛知県一宮市木曽川町黒田。10巻文治6年(1190)1227

くわばら繻エは、静岡県田方郡函南町桑原。1巻治承4年8月24日

くわばら桑原は、旧揖保郡内らしいが地名としては残っていない。6巻文治2年(1186)6月9日

くわばらごう相摸國桑原郷は、小田原市桑原。1巻治承4年10月16日

くわばらよだ桑原餘田は、長野県千曲市桑原。6巻文治2年(1186)3月12日

けせん花山は、岩手県気仙郡か宮城県気仙沼?10巻文治6年(1190)3月小10日

けらのしょう介良庄は、高知県高知市介良。4巻元暦2年(1185)5月2日

こいずみのしょう小泉庄(信濃)は、小県郡泉田村大字小泉及び室賀村で、現在の上田市小泉と上室賀・下室賀。6巻文治2年(1186)3月12日

こいずみのしょう小泉庄(越後)は、旧岩船郡村上町。現在の村上市・岩船郡神林村・朝日村・山北町。6巻文治2年(1186)3月12日

こいずみのみくりや小泉御厨は、岐阜県可児郡御嵩町平家没官領。建久3年12月14日条で妹一条能保室に譲渡。10巻建久1(1190)4月大19

ごうし合志は、熊本県菊池郡合志町。2巻養和1年2月29日

こうずち神地は、岐阜県美濃市小倉山で旧美濃上有地(みのこうずち)で美濃源氏出身地。1巻治承4年10月19日神地は、美濃上有知荘で美濃源氏。2巻養和1年2月12日

こうつじ高越寺は、徳島県吉野川市山川町井上に高越山高越寺あり。阿波忌部神社別当。10巻建久1(1190)4月大19

こうべ上蝙は、兵庫県神戸。6巻文治2年(1186)6月9日

こうれんじま高連嶋は、文治4年(1188)7月13日条に高運島の名で出てくるが、同じか或いは別でも双方ともに不明。6巻文治2年(1186)6月9日

ごおとのしょう郡戸庄は、東筑摩郡笹賀村神戸で、現在の長野県松本市笹賀。かつての笹賀村役場は笹賀村大字神戸字宮添にあったのが現在の松本市役所笹賀出張所。北側に松本短大があり近くに神戸神社有り。6巻文治2年(1186)6月9日

こおどのしょう郡戸庄は、下伊那郡高森町らしい。6巻文治2年(1186)3月12日

ごかのしょう五箇庄(丹波)は、旧京都府船井郡日吉町(古五ケ荘村)で、現在の京都府南丹市日吉。平家落人伝説がある。6巻文治2年(1186)3月8日

ごかのしょう五箇庄(播磨)は、旧加古郡野寺・北山・中・森安・六分一・国安・岡の七村なので、現兵庫県加古郡稲美町野寺・北山・中村・森安・六分一・国安・岡。6巻文治2年(1186)6月9日8巻文治4年(1188)6月4日

こぎごう小木郷は、近木郷で、大阪府貝塚市近木(コギ)。6巻文治2年(1186)5月25日

ごきそ御器所は、名古屋市昭和区御器所通。10巻建久1(1190)4月大19こくふなかやま國府中山は、宮城県仙台市。9巻文治5年(1189)8月14日

こくぶはら國分原は、仙台市青葉区国分町。9巻文治5年(1189)8月7日

こしごえ腰越は、鎌倉市腰越。鎌倉の外であり、出入り口なので獄門台があると思われる。寿永2年(1183)2月27日・寿永2年(1183)9月16日
こしごえのうまや腰越驛は、神奈川県鎌倉市腰越三丁目の江ノ電が通っている当たりに宿があったと推定されている。4巻元暦2年(1185)5月24日
こしごえはま
腰越濱は、鎌倉市腰越で江ノ島の付け根。2巻養和1年4月19日

こじまのしょう(あわ)小嶋庄〔阿波〕は、堀田璋左右先生の注に「麻殖郡桑島村字川島に其の名を存す。」から探した処、徳島県吉野川市川島町児島と推定される。吉野川市「学(がく)」駅そばに吉野川を渡る橋の名が阿波麻殖(おえ)大橋と書かれている。吉野川市のHPに平成16年10月1日、徳島県北部中央に位置する麻植郡4町村(鴨島町・川島町・山川町・美郷村)が合併し、吉野川市が誕生しました。3巻壽永3年(1184)4月6日

こじま兒嶋は、岡山県玉野市小島・倉敷市藤戸町新倉敷に藤戸寺ありそばの橋に佐々木三郎盛綱の像がある。3巻元暦1年(1184)12月7日

こすぎのみくりや小杉御厨は、静岡県志太郡大井川町上小杉、下小杉。5巻文治1年(1185)10月14日

こそねのしょう小曾祢庄は、長野県長野市中曽根かもしれない。6巻文治2年(1186)3月12日

こたはし古多橋は、現在の宇都宮市下河原町付近の古い地名。『吾妻鑑』には源頼朝が宿泊して二荒山神社に参拝したこと、また近世に書かれた『下野風土記』にもその名が紹介されている。9巻文治5年(1189)7月25

こだま児玉は、埼玉県本庄市児玉町児玉。十3巻建久4年(1193)2月9日

こちのしょう巨智庄は、兵庫県姫路市高岡新町のあたりらしい。32巻嘉禎4年(1238)5月11日

こづくりのしょう(いせ)木造庄〔伊勢〕は、三重県久居市木造町。3巻壽永3年(1184)4月6日

こづつみ小堤は、下河邊荘内で現古河市小堤で旧猿島郡総和町小堤。寿永2年(1183)2月23日

こつぼ小壷は、神奈川県逗子市小坪。12巻建久3年5月1日

こてさしがはら小手差原は、五霞村小手指。寿永2年(1183)2月23日

こばやし小林次郎重弘は、上野國小林郷で群馬県藤岡市小林。4巻元暦2年(1185)1月1日

こまがたみね駒形嶺は、「平泉町の送り火行事「大文字まつり」が(中略)束稲山に連なる駒形峰に赤々と浮かび上がった」と地元のブログにあり、大文字キャンプ場が地図にある。9巻文治5年(1189)9月27日

こまつだて小松楯は、磐井川。9巻文治5年(1189)9月27日

こまつのしょう武庫御厨小松庄は、西宮市小松南町2丁目2-8の岡太社(岡太神社)と平重盛館(小松城)。12巻建久3年(1192)12月14日

こみやま篭山は、長野県佐久市小宮山。21巻建暦3年(1213)2月16日

こもろ小諸太郎光兼は、長野県小諸市。4巻元暦2年(1185)5月3日9巻文治5年(1189)12月23

こわきのしゅく小脇宿は、滋賀県東近江市小脇町(旧八日市市小脇町)。10巻文治6年(1190)12月14日

さいいんじ西院寺は、西隆寺庄。岡山県岡山市東区西隆寺。10巻建久1(1190)4月大19

さえきのしょう(びぜん)佐伯庄〔備前〕は、岡山県和気郡佐伯町佐伯。3巻壽永3年(1184)4月6日

さかいは、千葉県山武郡芝山町境。3巻元暦1年(1184)8月8日

さかいで坂出は、那珂市南北酒出、水郡線常陸太田方面に南坂出駅名有り。1巻治承4年(1180)11月8日

さがおかはま佐賀岡濱は、神奈川県三浦郡葉山町一色海岸。2巻養和1年6月19日

さがみこくふ相摸国府は、大磯町国府新宿内国府本郷飛地に六所神社有り。1巻治承4年10月16日

さがみのくにおおばのみくりや相模国大庭御厨は、神奈川県藤沢市大庭(藤沢市一帯と茅ヶ崎市の一部を含む)で、後3年の役で武名を上げた鎌倉権五郎景政が開発して立荘したと伝えられる。2巻養和1年7月8日

さがみのくにくわばらごう相摸國桑原郷は、小田原市桑原。1巻治承4年10月16日

さがら相良は、旧遠江国榛原郡相良町。静岡県牧之原市相良に相良庁舎あり。2巻養和1年3月13日

さかわ酒匂は、神奈川県小田原市酒匂。10巻文治6年(1190)1228

さかわのうまや酒匂驛は、神奈川県小田原市酒匂。4巻元暦2年(1185)5月15日

さぎぬま鷺沼は、千葉県習志野市鷺沼。1巻治承4年10月1日

さきみのしょう前見庄は、花見庄らしい。北安曇郡に花見あり。北安曇郡池田町会染花見。又は大町市平中花見。松本市内田花見。6巻文治2年(1186)3月12日

さくとものしょう佐久伴野庄は、長野県佐久市伴野。6巻文治2年(1186)3月12日

さこしま佐古嶋は、三重県鳥羽市坂手島であろう。10巻建久1(1190)4月大19

ささき佐々木は、近江安土、滋賀県蒲生郡安土町常楽寺の沙沙貴神社神主。3巻壽永3年(1184)2月27

ささきのしょうは…佐々木庄者、延暦寺千僧供領也は、佐々木の荘は延暦寺が荘園領主(本所)である。11巻建久2年(1191)4月5日

ささげなかむらのしょう捧中村庄は、捧庄(ささげのしょう)が平安時代に松本市に置かれた説有り。6巻文治2年(1186)3月12日

ささげほうじょうのしょう捧北條庄は、同上捧中村庄。6巻文治2年(1186)3月12日

ささやま篠山は、常陸国篠山郷、茨城県下館市御所宮。9巻文治5年(1189)11月17日

さたけ佐竹は、常陸国久慈郡佐竹郷、茨城県常陸太田市天神林町。2巻壽永1年(1182)6月5日

さと佐都は、茨城県常陸 太田市茅根町369に佐都小学校あり。小学校のHPの説明には「佐都のおこりは、太田の郷から北方に,薩都(さつ)の里がある。昔,先住民,国栖(くず)の種族で土雲(つちぐも)と名のるものが住んでいた。そこで,兎上命(うなかみのみこと)は兵をさしむけて,その罪を問うて滅ぼしてしまった。その時、うまく殺させて「幸なことよ」といわれた。それによって、「佐都」(さつ)と名づけたということである。」7巻文治3年(1187)10月29日

さとうのしょうじ佐藤庄司は、信夫庄。福島県福島市全域らしい。9巻文治5年(1189)10月2日

さとみ里見は、群馬県群馬郡榛名町中里見小字堀内、旧碓井郡里見村中里見。1巻治承4年12月22日

さなだ佐那田、神奈川県平塚市真田1巻治承4年8月23日

さぬき左貫は、群馬県邑楽郡オウラグン明和町大佐貫。佐貫庄は、明和町・館林市の一帯。9巻文治5年(1189)7月小17日

さの佐野は、下野佐野荘、栃木県佐野市。寿永2年(1183)2月23日

さばしのしょう佐橋庄は、柏崎市。後に大江広元の四男毛利季光が地頭となり、その子經光がここにいて三浦合戦の難を逃れ、その子孫が足利尊氏から佐橋庄北条・南条および安芸国吉田庄を与えられ、毛利元就の先祖となる。6巻文治2年(1186)3月12日

さはら佐原は、神奈川県横須賀市佐原三丁目15番の上。2巻壽永1年(1182)8月11日

さみのしょう佐味庄は、旧中頚城郡柿崎町柿崎、現在の上越市柿崎区。6巻文治2年(1186)3月12日

さむかわぐん寒河郡は、寒川郡(さむかわぐん)で下野国にかつて存在した郡である。1889年(明治22年)4月1日、下都賀郡に編入された。小山市南部、思川西岸にあたる。ウィキペディアから6巻文治2年(1186)9月30日7巻文治3年(1187)12月1日

さめじま鮫島は、駿河國鮫島郷、静岡県富士市鮫島。1巻治承4年8月20日

さわ澤は、伊豆田方郡佐婆郷、静岡県三島市大場。1巻治承4年8月20日

さんじょうたかくらごしょ三條高倉御所は、現在の中京郵便局の場所。1巻治承4年4月9日D

さんのはざま三迫は、サンノハザマと読み栗原市金成に小迫の地名有、又三迫川の名あり、なお志波姫からの川が一迫川で栗駒泉沢からが二迫川で三川が合流すると迫川になり、下流で旧北上川と合流する。9巻文治5年(1189)8月7日

しいかのう椎加納は、帷加納の間違い。10巻文治6年(1190)4月19日

しおがま塩竃は、陸奥国一ノ宮塩釜神社。宮城県塩竃市一森山1-1。10巻文治6年(1190)2月6日

しおかわのまき塩河牧は、小県郡塩川村なら上田市塩川・東御市塩川。6巻文治2年(1186)3月12日

しおだごう塡田(塩田)郷は、高知市介良乙に現在墓所とされる所があり、介良庄は塩田郷とも呼ばれていたとあるので、塩田の写し違いの誤字かもしれない。新人物往来社の「吾妻鏡」で喜志先生は「埴田」と書かれているので「うえだ」と呼んで「植田」で高知県を探すと介良から東北へ6kmくらいの場所に南国市植田があるが、良く分からない。壽永1年(1182)9月25の記事で殺されたとされる「野々宮」とを比較すると「植田」を頂点に「介良」が左点で「野々宮」が右点のほぼ正三角形ができる。4巻元暦2年(1185)3月27日

しおだのしょう塩田庄は、信濃国小県郡塩田庄で、長野県上田市の上田駅から別所温泉までの別所線の沿線一帯。京都の最勝光院(当時は東寺の末寺)という寺の庄園であったが、この土地の重要性に目をつけた頼朝は、自分のもっとも信頼する惟宗忠久(後に島津忠久といい、薩摩藩主島津氏の祖となる)を、塩田庄の地頭に任命してこの地方一帯を支配させたのである。6巻文治2年(1186)3月12日

しおの塩野は、北佐久郡小沼村大字塩野ならば、現在の北佐久郡御代田町塩野・小諸市塩野。6巻文治2年(1186)3月12日

しおはま塩浜は、久慈郡河原子村。現日立市河原子町。2巻養和1年3月12日

しおばら塩原は、旧諏訪郡米沢村字塩沢か?だとすれば現在の茅野市米沢塩沢。但し、下伊那郡大鹿村鹿塩塩原の地名もある。小県郡青木村田沢とも。6巻文治2年(1186)3月12日

しおや塩谷は、栃木県塩谷郡塩谷町。8巻文治4年(1188)3月17日6月4日

しか志加は、八郎潟の東岸の鯉川あたり10巻文治6年(1190)1月6日

じきのわたし食渡は、岐阜県羽島郡岐南町下印食らしい。

じごくだに登々呂木澤・地獄谷は、ともに江戸時代に埋め立てられて平らな田になっている。寿永2年(1183)2月23日

しじゅうくいん四十九院は、伊賀国阿拝郡四十九院。三重県伊賀市四十九町。42巻建長4年(1252)3月21日

しずきのしょう志筑庄は、兵庫県淡路島志筑。12巻建久3年(1192)12月14日

しだ志太は、常陸信太荘、茨城県稲敷郡美浦村大字信太。1巻治承4年11月7日

しだ志太は、宮城県志田郡(大崎市)。10巻文治6年(1190)105

しだのしょう志太庄は、常陸信太荘、茨城県稲敷郡美浦村大字信太。8巻文治4年(1188)6月4日

しちりがはま七里ガ浜は一里を六町600mで計っている。京都では一里は36町で4km。2巻壽永1年(1182)6月7日

しどのきのしょう志度野岐庄は、新潟県長岡市南部(摂田屋)・小千谷市北カ。6巻文治2年(1186)3月12日

しとろのしょう雙侶庄は、静岡県島田市志戸呂。10巻文治6年(1190)8月大19

しなののくにいちはら當國市原は、長野県長野市市原。1巻治承4年9月7日

しなののくになかののみまき信濃國中野御牧は、長野県中野市中野。牧は、律令制で馬を租税とする。荘園には種類として荘の田。園の畑。杣は山。浦は海。港の津。等あり。3巻壽永3年(1184)2月21

しなののくにちくまがわへん信濃國筑磨河邊は、千曲川、横田河原の合戦、長野県長野市篠ノ井線篠ノ井駅から東南に下車歩いて五分に小さな丘があり神社があり石碑がある。2km東が川中島。2巻永1年(1182)10月9日

しなののくにひがしじょうのしょうないかりたごう信濃國東條庄内狩田郷は、長野県長野市松代町東条かもしれない。長野市浅川には東条も西条もある。東筑摩郡筑北村にも東条と西条がある。信州の市町村の変遷によると埴科郡(はにしなぐん)東条村(ひがしじょうむら)は1955/4/1に松代町に合併し、1966/10/16に長野市へ合併しているので、松代の方らしい。3巻壽永3年(1184)2月30

しのはらしゅく篠原宿は、滋賀県野洲市小篠原。4巻元暦2年(1185)6月21日

しのぶのしょう信敷庄は、広島県庄原市。1898年比婆郡設立当時は「しのう村」とあるが、直ぐに庄原町に施行。6巻文治2年(1186)1月28日

しのみやのしょう四宮庄は、長野市篠ノ井塩崎の中郷神社そばに四野宮公民館がある千曲市大字桑原。6巻文治2年(1186)3月12日しのみやのしょう四宮庄は、長野県長野市篠ノ井にあった篠宮神社。8巻文治4年(1188)2月2日

しのむらのしょう篠村庄は、京都府亀岡市篠町篠上中筋45-1に篠宮八幡宮がある。延朗から一条能保の妻(頼朝姉)に与えられ、子の高能に相続する。後に足利尊氏に渡り、尊氏はここで挙兵した。6巻文治2年(1186)3月26日12巻建久3年(1192)12月14日

しばた柴田は、宮城県柴田郡。10巻文治6年(1190)105

しばたぐんおおたかみや芝田郡大高宮邊は、宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬の大高山神社。9巻文治5年(1189)8月10日

しぶや渋谷は小田急江ノ島線「高座渋谷駅」東北に「城山」の地名有り、但し和田義盛の城との伝説有り。1巻治承4年8月9日。後に綾瀬市早川に移り、城址あり。1巻治承4年8月23日3巻壽永3年(1184)1月28しぶやのしょう澁谷庄は、小田急江ノ島線「高座渋谷」駅周辺。9巻文治5年(1189)11月17日

しぶやしもごう澁谷下郷は、神奈川県藤沢市長後。2巻養和1年8月27日

しほうざか四方坂は、宮城県蔵王町四方峠標高365m。9巻文治5年(1189)8月10日

しまだ嶋田は、静岡県島田市。10巻文治6年(1190)1223

しもつま下妻四郎弘幹は、茨城県下妻市下妻。常陸大掾氏。12巻建久3年(1192)8月9日

しままつのしょう島末庄は、山口県大島郡周防大島町西方。旧東和町。8巻文治4年(1188)12月12日

しもこうべのしょう下河邊庄は、埼玉県栗橋市・古河市・幸手市、杉戸町、庄和町、春日部市、吉川市、三郷市、石岡市、小美玉市(旧小川町三里町玉里村)、松伏町、旧千代田村(現土浦市内)。6巻文治2年(1186)3月12日、八条院領。(この八条院が源氏再興のスポンサー)1巻治承4年5月10日、寿永2年(1183)2月20日4巻文治1年(1185)8月24日8巻文治4年(1188)6月4日

しもつい下津井は、岡山県倉敷市下津井に安徳天皇安在所あり。3巻壽永3年(1184)2月20日

しもはたのしょう下端庄は、兵庫県神戸市垂水区下畑町?。12巻建久3年(1192)12月14日

しもふさこくふ下総國府は、市川市国府台(こうのだい)。1巻治承4年9月17日

しもむらのしょう下村庄は、常陸大宮市下村田らしい。8巻文治4年(1188)3月17日6月4日

じょうげしゃりょう上下社領は、諏訪大社。6巻文治2年(1186)3月12日

しょしゃざん書寫山は、兵庫県姫路市書写山2968円教寺。康保3年(966)性空上人の開創である。4巻文治1年(1185)8月24日

しらい白井は、群馬県渋川市に白井の地名有り。臼井の間違いか?碓氷峠。10巻建久1(1190)4月大19

しらいのしょう白井庄は、旧香取郡神里村白井。香取市白井。6巻文治2年(1186)3月12日

しらかわごう白川郷は、松本市寿豊丘白川。6巻文治2年(1186)3月12日

しらかわのしょう白河庄は、旧北蒲原郡安田村付近遠賀川北岸という。阿賀野市保田安田・水原・京ケ瀬。6巻文治2年(1186)3月12日

しらかわのせき白河關は、福島県白河市旗宿滝に関跡あり。9巻文治5年(1189)7月29

しらとりのしょう白鳥庄は、旧三島郡関原村大字白鳥。現在の長岡市白鳥町。6巻文治2年(1186)3月12日

しれいしのみくりや志礼石御厨は、三重県いなべ市藤原町志礼石新田。 8巻文治4年(1188)2月2日10巻建久1(1190)4月大19  

しわぐん志波郡は、岩手郡紫波郡紫波町。9巻文治5年(1189)9月4日

じんがおか陣岡は、紫波町宮手字陣ヶ岡69。9巻文治5年(1189)9月11日

じんがおかはちしゃ陣岡蜂杜は、紫波町陣ケ岡蜂神社。9巻文治5年(1189)9月4日

じんざい神西は、島根県出雲市神西沖町・神西新町。10巻建久1(1190)4月大19

しんぜき新關は、河内國河内郡新開荘(東大阪市中新開)の間違い。10巻建久1(1190)4月大19

すえたけ末武は、山口県下松市(くだまつし)末武上、中、下。(すえたけ)7巻文治3年(1187)4月23日

すがおのしょう菅生庄は、千葉県木更津市菅生。8巻文治4年(1188)6月4日

すがなのしょう菅名庄は、旧五泉、村松。五泉市五泉、村松。菅が付くのは菅出、菅沢。6巻文治2年(1186)3月12日

すがしま菅嶋は、三重県鳥羽市菅島。10巻建久1(1190)4月大19

すけりょうしょう介良庄は、高知市介良。2巻壽永1年(1182)9月25

すけりょうじょう介良城は、城跡なし。2巻壽永1年(1182)9月25

すさい周東周西は、元の千葉県周准郡で「す」の音が残り。伊南伊北は、元夷隅郡で「い」の音が残っている。廳南廳北は、元長柄郡で、「ちょう」の音が残っている。1巻治承4年9月19日

すさい須細は、知多郡南知多町豊浜須佐ノ浦。10巻文治6年(1190)1025

すずものみくりや鈴母御厨は、不明。5巻文治1年(1185)10月15日

すとう周東周西は、元の千葉県周准郡で「す」の音が残り。伊南伊北は、元夷隅郡で「い」の音が残っている。廳南廳北は、元長柄郡で、「ちょう」の音が残っている。1巻治承4年9月19日

すのまた洲俣は、須股とも墨俣とも書き、旧美濃國安八郡墨俣村で現岐阜県大垣市墨俣町墨俣。 5巻文治1年(1185)10月25

すま須磨は、兵庫県須磨市須磨浦。4巻文治1年(1185)8月24日

すみよしのしょう住吉庄は、安曇郡三郷村・梓川村・豊科町のそれぞれの一部。6巻文治2年(1186)3月12日

すみまたがわ墨俣河=長良川の別名、当時は木曽川と揖斐川が合流し、要害の地であった。墨俣川合戦。2巻養和1年3月10日。当時の東西の境であった。4巻元暦2年(1185)4月15日

すみまたのわたし墨俣渡は、墨俣河=長良川の別名、当時は木曽川と揖斐川が合流し、要害の地であった。3巻壽永3年(1184)2月1日

するがこくふ駿河國府は、静岡県静岡市葵区駿府町。10巻文治6年(1190)1224

するがのくにてごしのうまや駿河國手越驛は、静岡市手越。1巻治承4年10月16日

するがのくにかんばらのうまや駿河國蒲原驛は、蒲原宿で静岡県静岡市清水区蒲原で旧庵原郡蒲原町蒲原。3巻元暦1年(1184)7月10日

すわしゃ(しなの・・諏方社〔信濃。被相博伊賀六ケ山了。〕は、信州の諏訪神社をさすが、六箇山(むこやま)と交換をしたようである。3巻壽永3年(1184)4月6日

すわなんぐうじょうげしゃ諏方南宮上下社は、諏訪大社。諏訪湖の南側に上社(かみしゃ)本宮・前宮の2宮、北側に下社(しもしゃ)春宮・秋宮の2宮があり、計4つの宮から成る。社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木の柱が立っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。別名を南宮とも言い、諏訪大社、南宮大社敢国神社の3社は何らかの関係がある様で、諏訪大社を本山、南宮大社を中の宮、敢国神社を稚(おさな)き児の宮と呼ぶという。ウィキペディアから。6巻文治2年(1186)3月12日

せきもと關下は、神奈川県南足柄市関本。足柄峠の入口。10巻文治6年(1190)105

せた勢多は、滋賀県大津市瀬田と唐橋町の間に瀬田大橋。3巻壽永3年(1184)1月20日

せだかのしょう瀬高庄は、旧筑後国山門郡上下瀬高。元山門郡瀬高町で現在みやま市瀬高町上庄・下庄。6巻文治2年(1186)6月17日

っつのくにいちのたに攝津國一谷は、神戸。3巻元暦1年(1184)9月19日

せのおごう妹尾郷は、岡山県岡山市妹尾。妹尾太郎兼安で、平家物語や平治物語に出演するが吾妻鏡には出演がない。4巻元暦2年(1185)4月29日

せのおへん狹尾辺は、岡山県岡山市南区妹尾・平家の侍大将妹尾太郎兼保出身地。10巻建久1(1190)4月大19

せばのしょう洗馬庄は、長野県塩尻市宗賀に「洗馬駅(せばえき)」あり。中仙道の31番目の宿場。6巻文治2年(1186)3月12日

せや世谷は、久慈郡瀬谷村で、世矢とも書き鹿島神宮権禰宜世谷氏在住。現常陸太田市に世矢中学、世矢小学校、世矢幼稚園あり。2巻養和1年3月12日

ぜんこうじ善光寺は、旧上水内郡芋井村。1954長野市へ合併。現長野市桜に芋井中学あり。普光寺なら長野県上水内郡飯綱町普光寺。6巻文治2年(1186)3月12日

ぜんとみみょう全富名も千富名は、不明。3巻元暦1年(1184)12月29

せんぷく千福は、仙北町(宮城県?)?仙北郡も仙北町も現在は秋田県。10巻文治6年(1190)3月10日

せんぷくやまもと千福山本は、仙北山本郡。出羽国にかつて存在した郡である。10巻文治6年(1190)1月6日

せんぼくぐん山北郡は、秋田県仙北郡。10巻文治6年(1190)1月6日

そうさみなみのしょう匝瑳南庄は、旧匝瑳郡小篠村。千葉県匝瑳市。6巻文治2年(1186)3月12日

そうまのみくりや相馬御厨は、旧相馬郡泉・千賀・布施・藤意・野毛崎・黒崎・横須賀村。現在の茨城県取手市(除く旧藤代町久賀)、守谷市、利根町。常総市南部、龍ヶ崎市南部、つくばみらい市西部と千葉県我孫子市、柏市の一部(旧富勢村、沼南町)6巻文治2年(1186)3月12日

そが曾我は、神奈川県小田原市上下曽我御殿場線下曽我駅。1巻治承4年8月23日

そがのしょう曾我庄は、現神奈川県小田原市曽我。曽我の梅林で有名。1巻治承4年10月18日10巻文治6年(1190)97

そとがはま外ケ浜は、青森県津軽半島東部の陸奥湾沿岸を指す古来の地名である。青森市油川から外ヶ浜町三厩までを指し、現代の区分では青森市・蓬田村・外ヶ浜町・今別町・平内町にほぼ相当する地域名でもある。ウィキペディアから10巻文治6年(1190)2月12日そとがはま外濱は、当時の日本の北の果て。南の果ては、鬼界島で現鹿児島県三島村硫黄島。9巻文治5年(1189)9月17日

そのやまのしょう園山庄は、島根県出雲市西神西町。但し、出雲国神門郡園村で、長浜村になり島根県出雲市園町との説(堀田璋左右先生)もある。6巻文治2年(1186)7月18日

そのをのへ狹尾辺は、岡山県岡山市南区妹尾・平家の侍大将妹尾太郎兼保出身地。10巻文治6年(1190)4月19日

たい田井は、奈良県高市郡高取町田井庄。12巻建久3年(1192)12月14日

たいま當麻太郎は、静岡県浜松市の蒲神明宮の隣に当麻町があったらしい。13巻建久4年(1193)8月10日

だいもつはま大物濱は、大阪市西淀川区大和田。尼崎市では、兵庫県尼崎市大物町2丁目12大物神社・大物橋碑。こちらだと言ってる。5巻文治1年(1185)11月6日

たが多賀は、近江国多賀神社。現在の滋賀県犬上郡多賀町多賀604、多賀大社。12巻建久3年5月26日

たかいののまき高井野牧は、上高井郡高井村大字牧で、現在の上高井郡高山村牧。6巻文治2年(1186)3月12日

たがぐん多賀郡は、現在の日立市の一部、高萩市、北茨城市。旧5町15村。7巻文治3年(1187)10月29日

たがこくふ多賀國府は、宮城県多賀城市市川城前の多賀城。東北本線「国府多賀城駅」下車、北側。南側に国立東北歴史博物館あり。9巻文治5年(1189)8月12日

たかせのしょう高瀬庄は、熊本県玉名市高瀬。阿蘇神社領。6巻文治2年(1186)1月11日

たかだ高田は、高田荘で現大分市高田。2巻養和1年2月29日

たかの高野は、栃木市高谷の思井川の渡し。寿永2年(1183)2月23日

たかはしのしょう高橋庄は、伊予国越智郡日高村高橋で、現在の愛媛県今治市高橋。平業忠が領家。6巻文治2年(1186)6月9日

たかはた高畠は、京都市伏見区醍醐高畑町。

たかはたのしょう尾張國高畠庄は、愛知県西尾市高畠町?。12巻建久3年(1192)12月14日

たかまつ高松は、高松市高松。牟礼・高松共に古高松南駅の近所。4巻元暦2年(1185)2月19日

たかやなぎ高柳は、埼玉県北葛飾郡栗橋町高柳。2巻養和1年2月18日

たかやま高山は、群馬県藤岡市高山。9巻文治5年(1189)7月小17日

たがわ田河太郎行文は、山形県鶴岡市田川。9巻文治5年(1189)8月7日

たけ多氣太郎義幹は、常陸大掾氏の分家で、茨城県つくば市北条(筑波地区)。13巻建久4年(1193)5月1日

たけじょう竹城は、不明。10巻文治6年(1190)105

たけのした竹下は、静岡県御殿場市&駿東郡小山町竹之下。10巻文治6年(1190)1227

たけや竹谷は、愛知県蒲郡市竹谷町に竹谷神社あり。4巻元暦2年(1185)2月19日

たこうのみくりや田公御厨は、不明。5巻文治1年(1185)10月15日

たこのしょう多胡庄は、群馬県多野郡吉井町多胡1巻治承4年12月24日

たじまのくに但馬国は、兵庫県北部。7巻文治3年(1187)11月25日

たしろ田代は、静岡県田方郡函南町田代。4巻元暦2年(1185)4月29日

たたら多々良は、横須賀市鴨居四丁目観音崎。1巻治承4年8月22日

たたりのまき多々利牧は、南安曇郡多井かもしれない。6巻文治2年(1186)3月12日

たちばなは、東荘とも云われ、千葉県香取郡東庄町。6巻文治2年(1186)3月12日

たちばなごう常陸國橘郷は、茨城県小美玉市与沢に橘小学校あり。また、橘小から1km程南の行方市羽生に橘郷造神社あり。弟橘姫伝説有り。4巻文治1年(1185)8月21日

たついち龍市は、辰野町立野。1巻治承4年9月10日

たつおき上野國山上郷龍奥は、群馬県桐生市新里町山上に山上城趾あり。寿永2年(1183)2月25日

たっこくのいわや田谷窟は、現在は達谷窟と書き、毛越寺から西南西の厳美渓へでる途中にある。9巻文治5年(1189)9月28日

だて伊達は、福島県伊達市(旧伊達郡伊逹町)舘ノ内。

だてぐんふじたしゅく伊逹郡藤田宿は、福島県伊達郡国見町。9巻文治5年(1189)8月10日

たなか田中は、茨城県土浦市田中らしい。8巻文治4年(1188)3月17日6月4日

たなかのしょう田中庄は、紀の川市田中馬場で旧那賀郡打田町田中馬場。西行が開発したとも言われ、又平家物語後二条関白立願では「殿下の領紀伊国に田中庄といふ所を八王子の御社へ永代寄進せらる」とあり有名。紀の川市打田に田中小学校あり。3巻壽永3年(1184)2月21

たなかみ田上は、滋賀県大津市田上、上田上。田上山とも云い東大寺の杣があった。10巻建久1(1190)5月大10

たねのしょう近江國田根庄は、滋賀県長浜市野田町に田根小学校あり。10巻文治6年(1190)109

たのかみ田上は、滋賀県大津市田上、上田上。田上山とも云い東大寺の杣があった。10巻文治6年(1190)5月10日

たのうら田之浦は、福岡県北九州市門司区大久保に田野浦埠頭に田ノ浦受電所あり。4巻元暦2年(1185)3月22日

たふのみね多武峰は、奈良県桜井市南部にある地区名。多武峰街道は談山神社から等弥神社を経て山の辺の道に接続する。元は談山神社の奥の院である談山妙楽寺の境内であったが、廃仏稀釈以降現在は談山神社となっている。西暦800年代、巻向山手地方にあった神武天皇の御霊を、同寺に移したとされる。1596年慶長1年)、同寺は郡山に遷され、曹洞宗久松寺として現存する。ウィキペディアから5巻文治1年(1185)11月226巻文治2年(1186)3月6日

たまい玉井四郎資重は、埼玉県熊谷市玉井。3巻元暦1年(1184)9月20日

たまおき玉置は、福井県三方上中郡若狭町玉置。前の遠敷郡(おにゅうぐん)上中町(かみなかちょう)玉置(たまき)。3巻元暦1年(1184)12月1日

たまがきのみくりや玉垣御厨は、旧三重県河曲郡玉垣村で、現鈴鹿市(東西南北)玉垣町。北玉垣町に玉垣小学校あり。6巻文治2年(1186)8月27日

たまつくりぐん玉造郡は、宮城県大崎市鳴子町と同市岩出山町(後、伊達政宗が秀吉に米沢から移された所)。9巻文治5年(1189)8月14日

たまつくりのしょう玉造庄は、旧香取郡南玉造村。千葉県香取郡多古町南玉造。6巻文治2年(1186)3月12日

たるい垂井は、岐阜県不破郡垂井町。

だんのうらおくつへん壇浦奥津邊は、山口県下関市豊浦村に干珠・満珠の島のあたり。4巻元暦2年(1185)3月22日

たんばのくに丹波国は、現在の京都府中部と兵庫県北東部の一部、および大阪府高槻市の一部・大阪府豊能郡豊能町の一部にあたる。12巻建久3年2月24日

ちくにのしょう千國庄は、長野県北安曇郡小谷村大字千国。6巻文治2年(1186)3月12日

ちくまがわへん信濃國筑磨河邊は、千曲川、横田河原の合戦、長野県長野市篠ノ井線篠ノ井駅から東南に下車歩いて五分に小さな丘があり神社があり石碑がある。2km東が川中島。2巻永1年(1182)10月9日

ちだのしょう千田庄は、旧香取郡千田村。千葉県香取郡多古町千田。6巻文治2年(1186)3月12日

ちばのしょう千葉庄は、千葉県千葉市全域。6巻文治2年(1186)3月12日

ちゅうじょう中條は、埼玉県熊谷市上中条。3巻元暦1年(1184)8月8日

ちゅうぜんじ中禪寺奥次郎弘長は、千葉県茂原市中善寺。4巻元暦2年(1185)6月5日

つがる津輕は、津軽半島の方と思われる。10巻文治6年(1190)1月6日

つくもばしへん津久毛橋邊は、宮城県栗原市金成津久毛の三迫川。9巻文治5年(1189)8月20日

つさき津崎は、介良乙の隣に大津乙があるので、介良、大津一帯と思われる。7巻文治3年(1187)1月19日

つちや土屋は、平塚市土屋。1巻治承4年9月20日

つちゆだけ土湯嵩は、土湯温泉かと思ったが、後戻りしすぎるのでおかしい。土湯峠はもっと遠いので違うと思う。9巻文治5年(1189)8月10日

つの都仍は、都濃で、山口県周南市長穂から須々万のあたりらしい。7巻文治3年(1187)4月23日

つぶらりょう津不良領は、岐阜県大垣市津村町。12巻建久3年(1192)12月14日

つわち津和地は、愛媛県松山市津和地が、周防大島と堺を接しているので間違えたか?津和野は石見国だし。10巻文治6年(1190)4月19日

てごし手越は、静岡県静岡市駿河区手越。9巻文治5年(1189)10月5日(静岡の先安倍川を渡った場所)。てごしのうまや1巻治承4年10月16日

てしがわら勅使河原は、埼玉県児玉郡上里町勅使河原。4巻文治1年(1185)8月28日

てしま豊嶋は、北区豊島7-31-7に清光寺1巻治承4年9月3日

てらみやのしょう寺宮庄は、静岡県伊豆の国市寺家。10巻文治6年(1190)921

でわのくに出羽国は、秋田県(羽後)・山形県(羽前)。9巻文治5年(1189)10月24日

てんだいさんりょうきち天台山領小市は、長野市安茂里小市(あもりこいち)らしい。6巻文治2年(1186)3月12日

とい土肥は、神奈川県足柄下郡湯河原町。3巻壽永3年(1184)1月28

といしのしょう周防國遠石庄は、山口県周南市遠石。11巻建久2年(1191)118

とうしじま答志嶋は、三重県鳥羽市答志島。10巻文治6年(1190)4月19日

とう東は、千葉県香取郡東庄町1巻治承4年9月13日

とうかいどう東海道は、今のとは関係なく、海岸通即ち常磐線。大将軍が二人書かれているので八田は軍監かも知れない。常陸は八田が守護で下総は千葉が守護。9巻文治5年(1189)7月17日

とうかいどういわさき東海道岩崎は、岩手県北上市和賀町岩崎。10巻文治6年(1190)1月8日

とうしじま答志嶋は、三重県鳥羽市答志島。10巻建久1(1190)4月大19

とうじょう安房國東條は、千葉県鴨川市東町の東条海岸に名が残る。3巻元暦1年(1184)5月3日

とうじょうのしょう東條庄は、長野県長野市松代町東条らしい。6巻文治2年(1186)3月12日

とうじょうのしょう信濃國東條庄内狩田郷は、長野県長野市大字若槻東条字蚊里田1313番地に蚊里田八幡宮があるのでここかも知れない。3巻壽永3年(1184)2月30

とうじょうのまうけ安房東条庤は、鴨川市天津の天津神明神社。庤は「かんだち」とも云い神館のことでもある。2巻1年(1182)8月11日

とうのしょうは、東荘とも云われ、千葉県香取郡東庄町。6巻文治2年(1186)3月12日

とおだ遠田は、宮城県遠田郡。10巻文治6年(1190)105

とおやま遠山は、美濃國遠山庄は、岐阜県瑞浪市。4巻元暦2年(1185)5月小1日

とがさき戸崎は、北埼玉郡騎西町戸崎。3巻壽永3年(1184)3月18日

ときだのしょう常田庄は、小県郡県村大字常田で現在の上田市常田。6巻文治2年(1186)3月12日

ときたらのしょう土岐多良庄は、岐阜県大垣市上石津町上下石津町。13巻建久4年(1193)9月21日

ときわのまき常盤牧は、下水内郡常磐村で、現在の飯山市常磐。6巻文治2年(1186)3月12日

とくぜん得善は、山口県周南市(しゅうなんし)下上(しもかみ)字徳善(とくぜん)。7巻文治3年(1187)4月23日

とくみつ得光は、福井県福井市徳光町。10巻建久1(1190)4月大19

としこしやま吾河郡年越山は、南国市後免北側の坂折山の頂上に石碑有り。2巻壽1年(1182)9月25

としま冨嶋は、大阪市西区富島町で摂津國西成郡。10巻建久1(1190)4月大19

とちはらのおんしょう橡原御庄は、橡の文字は「とちの木」をあらわすので長野市戸隠栃原かもしれない。6巻文治2年(1186)3月12日

とっとりごえ鳥取越は、国見町小坂峠へ上ると鳥取股根ケ窪に地名が残るし、阿津賀志山の裏へ出られそうである9巻文治5年(1189)8月10日

とば鳥羽は、福井県鯖江市鳥羽。10巻建久1(1190)4月大19

とべのみくりや富都御厨は、長野市川中島町御厨から戸部付近一帯が富部御厨。6巻文治2年(1186)3月12日

とみじま冨嶋は、大阪市西区富島町で摂津國西成郡。10巻文治6年(1190)4月19日

とみやま富山は、宮崎県日向市富高山口らしい。4巻元暦2年(1185)7月22

ともだ鞆田は、三重県伊賀市中友田に鞆田神社、鞆田小学校あり。10巻建久1(1190)4月大19

とみだ富田は、三重県4日市市富田(とみだ)。3巻元暦1年(1184)8月2日

ともののしょう伴野庄は、旧下伊那郡神稲村(くましろむら)の小字。神稲村と河野村が合併して長野県下伊那郡豊丘村神稲伴野原。6巻文治2年(1186)3月12日、10月27日8巻文治4年(1188)9月22日

ともののしょう伴野庄は、長野県佐久市伴野。院御領。6巻文治2年(1186)3月12日、10月27日さくともののしょう参照

とよた豊田は、常陸、茨城県常総市豊田(旧結城郡石下町豊田)。4巻元暦2年(1185)4月15日豊田庄(常陸)〔松岡庄と号す〕は、旧豊田郡松岡村。茨城県水海道市豊岡町付近。1896郡設置で豊田郡は結城郡に。1954豊田村は結城郡石下町へ合併。2006石下町は水海道市と供に常総市へ編入。以上から茨城県常総市豊岡町。6巻文治2年(1186)3月12日

とよたのしょう豊田庄(越後)は、旧北蒲原郡五十公野村。現在の新発田市五十公野(イジミノ)。6巻文治2年(1186)3月12日

とよだのしょう豊田庄は、神奈川県平塚市豊田本郷。8巻文治4年(1188)11月27日

とよだやかた江刺郡豐田舘は、江刺市藤里鎌田に東西五十七間南北三十九間を発見。9巻文治5年(1189)9月23日

とんぐう頓宮は、滋賀県甲賀市土山町頓宮。10巻建久1(1190)4月大19

なかいずみのしょう中泉庄は、栃木県下都賀郡壬生町中泉。5巻文治1年(1185)10月9日文治1年(1185)10月9日に義経追討に京都へ行く土佐房昌俊に与えた。8巻文治4年(1188)3月17日)6月4日

ながいさいとうのべっとうさねもり長井齊藤別當實盛は、埼玉県妻沼町。9巻文治5年(1189)8月9日

ながいのわたし長井の渡しは、浅草・石原町。1巻治承4年10月4日

ながえ長江は、神奈川県三浦郡葉山町長柄殿谷。2巻養和2年2月8日

ながお長尾は、横浜市栄区長尾台町JR大船駅北側岡の上。菩提寺は鎌倉市城廻の久成寺。1巻治承4年8月23日

ながくら長倉は、北佐久郡東長倉村西長倉村で、現在の北佐久郡軽井沢町長倉。6巻文治2年(1186)3月12日

なかぐん那珂郡は、東海村。那珂湊市。勝田市。常陸大宮市。那珂市。7巻文治3年(1187)10月29日

なかごおりのしょう中郡庄は、茨城県西茨城郡岩瀬町。8巻文治4年(1188)6月4日

ながさき長崎は、静岡県伊豆の国市長崎。原木の東北。4巻元暦2年(1185)4月20日

なかじまごおり中嶋郡は、愛知県一宮市・尾西市・稲沢市と岐阜県羽島市。6巻文治2年(1186)3月18日

ながた長田は、河内國若江郡東大阪市長田。10巻文治6年(1190)4月19日

ながたのしょう伯耆國長田庄は、鳥取県西伯郡大山町長田(サイハクグンダイセンチョウナガタ)に長田神社あり。近くに妻木晩田遺跡展示室あり。10巻文治6年(1190)11月6日

ながたのほう長田保は、島根県浜田市金城町長田。32巻嘉禎4年(1238)5月11日

ながぬま長沼は、栃木県芳賀郡二宮町長沼。3巻元暦1年(1184)8月8日

ながねのしょう長包庄は、名古屋市瑞穂区中根町らしい。10巻建久1(1190)4月大19

ながの長野は、熊本県阿蘇郡南阿蘇村長野。2巻養和1年2月29日

ながの長野は、埼玉県行田市長野。9巻文治5年(1189)7月19日

なかののみまき中野御牧は、長野県中野市中野。牧は、律令制で馬を租税とする。荘園には種類として荘の田。園の畑。杣は山。浦は海。港の津。等あり。3巻壽永3年(1184)2月21

ながはらのしょう(やまと)は、奈良県天理市永原町。3巻壽永3年(1184)4月6日

なかみかどひがしのとういん中御門東洞院は、中御門大路と東洞院大路の交差したあたり。現在の京都府京都市上京区京都御苑宗像神社あたりと思われる。

なかむら中村は、神奈川県足柄上郡中井町(中井は中村と井口村が合併)。1巻治承4年8月20日

なかむら中村は、芳賀郡。8巻文治4年(1188)3月17日6月4日

なかむらのしょう中村庄は、現神奈川県足柄上郡中井町。中井町は中村と井口村とが合併した。1巻治承4年10月18日旧(相模余綾郡中村郷)

なきりじま菜切島は、志摩国、三重県志摩市大王町波切。2巻養和1年一月5日

なごや那古谷は、静岡県伊豆の国市奈古谷(旧田方郡韮山町奈古谷)で文覚上人が配流された所。1巻治承4年8月20日

なとり名取は、宮城県名取市。10巻文治6年(1190)105

なめかた行方は茨城県潮来市、行方市9巻文治5年(1189)7月小17日

なるみ鳴海は、愛知県名古屋市緑区鳴海町。10巻建久1年(1190)10月28日

なんごう南郷は、南阿蘇鉄道高森線沿いの熊本県阿蘇郡西原村・南阿蘇村長陽村・久喜村・南阿蘇村白水村吉田。2巻養和1年2月29日

にいばりのまき新張牧は、小県郡祢津村で、現在の東御市(トウミシ)祢津(ネツ)。6巻文治2年(1186)3月12日

にかいどう二階堂の地は、鎌倉市二階堂の永福寺発掘現場。永福寺を二階堂と云ってる最初。12巻建久3年8月24日

にししもごう西下郷は、不明。8巻文治4年(1188)6月4日

にしたかだごう西高同郷は、岡山県真庭市勝山。10巻建久1(1190)4月大19

にしなのみくりや仁科御厨は、旧北安曇郡社村。昭和29年に大町市に合併。長野県大町市社に仁科神社あり。6巻文治2年(1186)3月12日

にしみわ西美和は、岡山県真庭市久世。10巻建久1(1190)4月大19

にたん新田四郎忠常は、伊豆国仁田郷なので、仁田とも書き「にたん」と読み、静岡県田方郡函南町仁田、函南小学校そばに墓あり。1巻治承4年8月20日

にとうじ二藤次忠季は、二桃枝。鹿角市八幡平字桃枝平。10巻文治6年(1190)1月7日

にとべ新渡戸は、 新渡戸稲造の父祖の地とされ、栃木県真岡市水戸部あたりらしい。昭和23年12月10日発行の栃木県那須郡川西町余瀬、蓮實長氏の「那須郡誌」中の”新渡戸駅と新渡戸氏”に記載されており、「新渡戸」の地名は後に「水戸部」と転訛されている旨書かれている。新渡戸記念館新渡戸憲之著9巻文治5年(1189)7月28日

にのみのしょう新屋庄は、三重県久居市新家町(にのみちょう)。10巻建久1(1190)4月大19

にへのき贄柵も、同様に大館付近としている。国土交通省東北地方整備局秋田港湾事務所の〔秋田港の歴史」では、〔大館市仁井田」との記述があるが、大館市に同町名は存在しないのは、専門ではないので仕方のないことであろう。仁井田の地名はは秋田市内と横手市十文字にあるが、おそらく仁井田は新田の変化したものと思われる。9巻文治5年(1189)9月3日

にゅうきた丹生北は、福井県丹生郡、又は旧武生市。越前市府中に武生駅あり。福井県越前市府中に武生駅あり。(旧武生市)。10巻建久1(1190)4月大19

ぬかた糠田は、那珂市額田南郷に水郡線常陸太田方面額田駅あり。寿永2年(1183)2月23日

ぬかだごう糠田郷は、静岡県伊豆の国市原木字糠田らしい。4巻元暦2年(1185)4月20日

ぬかのべ糠部は、現在の行政区画では青森県東部から岩手県北部にかけての地域に相当する。10巻文治6年(1190)2月12日ぬかのべぐん糠部郡は、青森県津軽郡。9巻文治5年(1189)9月3日ぬかのべ糠部は、青森県の浅虫温泉とか。9巻文治5年(1189)9月17日

ぬたのみくりや→ぬまたのみくりや

ぬまたのみくりや沼田御厨は、沼田御牧と同一で亀山市関町古厩(旧鈴鹿郡関町古厩)らしい。又は松阪市内とも。7巻文治3年(1187)6月29日

ぬまたのみまき沼田御牧は、後の沼田御厨で畠山重忠横領騒ぎ。亀山市関町古厩(旧鈴鹿郡関町古厩)らしい。又は松阪市内とも。5巻文治1年(1185)10月15日

ねずがせき念種關は、鼠ケ関。山形県 鶴岡市鼠ケ関。羽越本線鼠ケ関駅北国道七号線沿いに関所跡。9巻文治5年(1189)7月小17日

ねなしふじ根無藤は、前九年の役に頼義が鞭を地に刺したら、その鞭から芽が出て藤の木になったとの伝説。宮城県蔵王町円田字根無藤。9巻文治5年(1189)8月10日

のがみ野上は、岐阜県不破郡関ヶ原町大字野上。42巻建長4年(1252)3月21日

のぎのみや野木宮は、栃木県下都賀郡野木町大字野木に野木神社あり。近くに野木小学校。野木神社南200mに雷電神社があるが轟の名残か。寿永2年(1183)2月23日のぎみや野木宮は、は、栃木県下都賀郡野木町大字野木に野木神社寿永2年(1183)2月23小山朝政が志田義廣と戦った時に隠れた。6巻文治2年(1186)9月30日

のじ野地は、滋賀県草津市野路町。JR南草津駅周辺。

のじぐち野路口は、草津市野路町。4巻元暦2年(1185)6月21

のじしゅく野路宿は、滋賀県草津市野路町。10巻文治6年(1190)115

のぢ野地は、滋賀県草津市野路町。JR南草津駅周辺。

のなか野中は、大分県中津市耶馬溪町らしい。2巻養和1年2月29日

のはらのしょう野原庄は、旧南安曇郡穂高町字矢原で、現安曇野市穂高。6巻文治2年(1186)3月12日

のべのしょう(やまと)野邊長原庄〔大和〕は、堀田璋左右先生の注に「野辺庄は今磯郡纏向村大字東田の辺、東田村は旧名を野辺と云へり。」とあるので、野辺が奈良県桜井市東田(山之辺からの変化)。3巻壽永3年(1184)4月6日

のま野間は、近江では不明。但し伊賀国阿拝郡野間村がある。近江に接している。10巻建久1(1190)4月大19

のまたみちのしょう(いせ)野俣道庄〔伊勢〕は、堀田璋左右先生野俟道と書いておられるので、読みを「のしみち」として似ているのは、三重県桑名郡多度町下野代に野志里神社あり。(未特定)俟の文字はシ・ジ又はまつの意。http://www.isenokaze.com/noshisato.htm3巻壽永3年(1184)4月6日

のまのしょう野間庄は、愛知県知多郡美浜町野間東畠50。野間大坊(のま だいぼう)は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。詳しくは鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)と称し、宗教法人としての公称は「大御堂寺」である。寺がある美浜町野間は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。6巻文治2年(1186)閏7月22日10巻文治6年(1190)1025

のもと野本齋藤左衛門大夫尉基員は、野本が武蔵野本郷で東松山市上野本、下野本。13巻建久4年(1193)10月10日

はぎかない萩金井は、諏訪郡下諏訪町萩倉かも?6巻文治2年(1186)3月12日

はこね筥根は、神奈川県足柄下郡箱根町の箱根神社2巻壽永1年(1182)8月11日

はしたやま波志太山は、鉢田山とも云い。足高山。1巻治承4年10月18日

はしもと橋本は、浜名湖の新居関で、現静岡県湖西市新居町浜名に橋本バス停あり。2巻養和1年3月13日寿永2年(1183)2月17日。但し浜名湖はもと淡水湖で、遠江(遠つ淡海)の国名にもなったほどだが、湖から南の海へ通じた浜名川といふ短い川に架る橋のそばに橋本宿があった。明応七年(1498)の大地震以来、地殻変動によって海水が入りこみ、橋本宿も水没したので、宿場は新居宿へ移ったそうだ。10巻文治6年(1190)1018

はしりいのしょう(かわち)走井庄「河内」は、「堀田璋左右先生は大阪府枚方市走谷としているが、大阪府豊中市走井だと思う。」と書きましたが、okayamateさんから豊中市は摂津国と教わりまして、堀田先生の枚方市走谷(はしりだに)が正解ですね。3巻壽永3年(1184)4月6日

はすいけ蓮池は、土佐国蓮池郷、高知県土佐市蓮池。2巻壽永1年(1182)9月25

はせ長世は、宮城県岩沼市長谷。10巻文治6年(1190)105

はたぎのしょう波多岐庄は、中魚沼郡津南町・10日町市(中里村川西町は2005合併)。6巻文治2年(1186)3月12日

はたけやま畠山は、武蔵国男衾郡、埼玉県深谷市畠山・旧大里郡川本町畠山1巻治承4年8月24日

はたの波多野は、神奈川県秦野市寺山。4巻元暦2年(1185)4月14日

はちまん八幡は、旧葛飾郡八幡・若宮・北方・菅谷・秋山村。千葉県市川市八幡・若宮・北方。松戸市秋山。6巻文治2年(1186)3月12日

はちやのしょう蜂屋庄は、美濃國加茂郡、岐阜県美濃加茂市南半から加茂郡坂祝町北東部、蜂屋町。10巻建久1(1190)4月大19

ひらの平野は、大阪市平野区。10巻文治6年(1190)4月19日

はっけ波氣は、地名カ?盛岡西の盛岡市中太田に八卦の地名有り。地理的に厨川の柵阿部館町の西南にあたるが2kmも離れている。9巻文治5年(1189)9月12日

はった八田は、茨城県筑西市八田・旧下館市八田。寿永2年(1183)2月23日

はとがや鳩谷は、埼玉県川口市桜町1丁目法性寺又は大字里を推定するHPがある。法性寺そばには鳩ケ井の語源の湧水公園があるので有力。35巻寛元1年3月12日

ばば馬塲小次郎資幹は、茨城県常総市馬場。13巻建久4年(1193)6月22日

はやかわのしょう早河庄は、神奈川県小田原市早川。8巻文治4年(1188)6月4日

はやしざきのみくりや林崎御厨は、三重県鈴鹿市林崎。6巻文治2年(1186)6月29日6巻文治2年(1186)7月1日

はやしの林野は、岡山県美作市林野。東に林野高校。北に美作市役所。その北に「林野駅」。駅の北の県道に英田(あいだ)観光交通センターあり。7巻文治3年(1187)8月8日

はら原は、武蔵國原郷、神奈川県川崎市幸区原町。1巻治承4年8月23日

はら宗三郎宗房は、原郷で神奈川県足柄下郡湯河原町吉原字原。5巻文治1年(1185)10月29

はらだ原田は、筑前原田庄、福岡県前原市(マエバルシ)。4巻元暦2年(1185)2月1日

はるちか春近は、福井県坂井市春江町針原。10巻建久1(1190)4月大19

はるちかりょう春近領は、信濃・美濃・越後に渡っていて不明だったが、一条能保のあざなであることが分かった。一条能保が領家と地頭を兼ねているが、本所は後白河法皇。つまり、一条能保が後白河法皇への上納をサボっていた。6巻文治2年(1186)6月9日

はんがや・はんがやつ榛谷は、榛谷御厨、保土ヶ谷区神戸に重朝勧請の神明社有り。又旭区さちが丘に「半ケ谷」のバス停に名が残る。3巻元暦1年(1184)6月16日

はんざわ榛澤は、深谷市榛沢9巻文治5年(1189)7月19日

はんにゃのしょう般若野庄は、旧越中国礪波郡般若野村。後に東礪波郡般若村・東般若村・般若野村・南北般若村で、現高岡市南部と砺波市東部。知行国主は実定。6巻文治2年(1186)6月17日

ひおき日置は、愛知県愛西市日置町字本郷94に日置八幡社あり。7巻文治3年(1187)10月26日

ひがしじょうのしょうないかりたごう信濃國東條庄内狩田郷は、長野県長野市松代町東条かもしれない。長野市浅川には東条も西条もある。東筑摩郡筑北村にも東条と西条がある。信州の市町村の変遷によると埴科郡(はにしなぐん)東条村(ひがしじょうむら)は1955/4/1に松代町に合併し、1966/10/16に長野市へ合併しているので、松代の方らしい。3巻壽永3年(1184)2月30

ひがしはいたのしょう東這田庄は、兵庫県三木市別所町東這田。6巻文治2年(1186)6月9日

ひくま引間は、静岡県浜松市曳馬。42巻建長4年(1252)3月25日

ひさながのほう久永保島根県邑智郡(おおちぐん)邑南町(おおなんちょう)は、島根県中部に位置する町。2004年10月1日に石見町、瑞穂町、羽須美村の合併により誕生した。中世期、邑南町一帯(久永荘)は、たたら製鉄が盛んで、久永荘から輸出される、出羽鋼(いずわはがね)は、千種鋼(ちぐさはがね、兵庫県)とならび、日本刀の原料である、和鋼・玉鋼の最高級銘柄として中央で知られていた。6巻文治2年(1186)10月1日

ひしの菱野は、北佐久郡大里村大字菱平で、小諸市菱平。6巻文治2年(1186)3月12日

ひすみのしょう比角庄は、旧刈羽郡比角村で現在の柏崎市比角。6巻文治2年(1186)3月12日

ひたちかしま常陸鹿嶋は、茨城県鹿嶋市宮中の鹿島神宮2巻壽永1年(1182)8月11日

ひたちこくふ常陸国府は、現茨城県石岡市国府、旧新治郡石岡町国府。西側に常陸国総社宮あり。1巻治承4年11月4日

ひたちしちぐん常陸奥七郡とは、那珂郡、久慈郡、多珂郡の三郡が正しくそれぞれに東西がある。例えば那珂東、那珂西。久慈東、久慈西。1巻治承4年11月8日

ひたちのくにおくぐん常陸國奥郡は、茨城県北茨城市あたり。3巻元暦1年(1184)8月13日

ひたちのくにおくぐんはなぞの常陸國奥郡花園は、北茨城市華川町花園。2巻永1年(1182)6月5日

ひたちみなみぐん當國(常陸)南郡は、公領で国府のある石岡市・小川町・千代田村。3巻元暦1年(1184)4月23

ひたはら肥田原は、函南町肥田。1巻治承4年8月17日

びっちゅうのくにみずしま備中國水嶋は、倉敷市水島。水島合戦で、現在島はコンビナートになり、かつての水道は川となって残っている。3巻壽永3年(1184)2月20日

ひづめやかた比爪舘は、岩手県紫波郡紫波町南日詰箱清水に二町四方の樋爪館跡あり。9巻文治5年(1189)9月4日

ひないぐん肥内郡は、検索の結果多くの方が大館市比内町を指定している。9巻文治5年(1189)9月3日

ひょうごのしょう兵庫庄は、奈良県高市郡高取町兵庫。12巻建久3年(1192)12月14日

ひよどりごえ鵯越は、有名な源九郎義經の鵯越の逆落とし。3巻壽永3年(1184)2月7日

ひらい平井は、静岡田方郡函南町平井。平井氏と関わりがあると思われる平井が後に御家人として出演してくる。今も平井性は小袋谷辺におられる。2巻養和1年4月19日

ひらいごう平井郷は、静岡田方郡函南町平井。1巻治承4年8月24日

ひらいで平井弖は、長野県上伊那郡辰野町平出かも知れない。6巻文治2年(1186)3月12日

ひらさこ平佐古は、横須賀市平作。1巻治承4年8月20日

ひらた平田は、三重県鈴鹿市平田町。(本田技研のあるところ)3巻元暦1年(1184)8月2日

ひらた平田は、平田村、で現在の高知県宿毛市平田町。2巻壽永1年(1182)9月25

ひらた平田は、三重県鈴鹿市平田町。3巻元暦1年(1184)8月2日

ひらの平野は、旧諏訪郡平野村で、1936年市制施行で町を経ずに岡谷市が発足。6巻文治2年(1186)3月12日

ひらの平野庄は、大阪市平野区。10巻建久1(1190)4月大19

ひらやま平山は、東京都日野市平山。八王子市堀之内に平山城址公園1巻治承4年11月4日

ひるしま伊豆國蛭嶋は、蛭嶋郷。2巻養和1年2月18日

ひろたごう廣田郷は、兵庫県南あわじ市広田広田。西宮広田神社の荘園10巻建久1(1190)4月大19

ひろたのみくり弘田御厨は、富山県富山市婦中町広田。10巻建久1(1190)4月大19

ひろのしょう廣庄は、由良の東北隣の和歌山県有田郡広川町。6巻文治2年(1186)8月26日

ひろせのしょう弘瀬庄は、上水内郡芋井村広瀬。長野市広瀬に廣瀬神社あり。6巻文治2年(1186)3月12日

ひろたのしょう廣田庄は、兵庫県南あわじ市広田広田(又は洲本市)で梶原景時が占領している。3巻元暦1年(1184)4月283巻元暦1年(1184)10月27

ひろゆらのしょう廣由良庄は、広庄と由良庄が接近しているので略して一度に云っている。広庄は、由良の東北隣の有田郡広川町。6巻文治2年(1186)8月26日

びわのさく琵琶柵は、奥州市衣川区並木前の衣川柵跡西200mの川端あたりらしい。9巻文治5年(1189)9月27日

ふかざわ深沢は、鎌倉市常盤に湘南モノレール「湘南深沢駅」「深沢郵便局」深沢小学校には梶原一族の墓といわれるやぐらあり。寿永2年(1183)9月16日深澤は、現在は鎌倉市梶原一丁目あたりをさすが、鎌倉大仏の地も吾妻鏡では深沢里と云っている。6巻文治2年(1186)9月7日32巻嘉禎4年(1238)5月19日大仏

ふかだ深田は、不明なれど大崎市鹿島台広長深田カ?。10巻文治6年(1190)105

ふくおのしょう福雄庄は、西蒲原郡福王・福応・福方。現在の西蒲原郡分水町。6巻文治2年(1186)3月12日

ふくおか福岡庄は、岡山県瀬戸内市長船町福岡で、後に黒田官兵衛が住み、九州へ福岡の名称を持っていく。4巻元暦2年(1185)5月1日、一遍上人絵伝に市場の風景が描かれている。8巻文治4年(1188)10月4日

ふくだのしょう福田庄は、出雲国大原郷福田庄で旧島根県大原郡加茂町神原で、今の島根県雲南市加茂町神原。6巻文治2年(1186)10月1日

ふくだのしょう福田庄は、旧加東郡福田村・上福田村で、現兵庫県加東市佐保のあたりらしい。8巻文治4年(1188)6月4日

ふくはらのしょう攝津國福原庄は、神戸三宮。12巻建久3年(1192)12月14日

ふじぐん駿河國冨士郡は、公領で、浅間神社が領家、北條義時が預人。9巻文治5年(1189)11月8日

ふじさわ藤澤は、長野県北佐久郡立科町藤沢。

ふじさわ藤澤は、長野県伊那市高遠町藤沢。6巻文治2年(1186)3月12日11月8日

ふじしまのほう藤嶋保は、福井県福井市藤島町。10巻建久1(1190)4月大19

ふじた藤田は、武蔵藤田庄、埼玉県本荘市牧西に藤田郵便局。3巻壽永3年(1184)3月5日

ふじりょう冨士領は、富士浅間社の領地で、長講堂領地なので後白河法皇の分(御領)。本所が後白河法皇、領家が頼朝、地頭が北條時政。6巻文治2年(1186)6月9日

ふせごう布施郷は、岡山県真庭市湯原温泉。10巻建久1(1190)4月大19

ふせのしょう(はりま)布施庄〔播广〕堀田璋左右先生の注に「布施は布勢とも書く。揖保郡の郷名に在り。後の揖西郡住吉・北沢・竹原・小畑・尾崎・南山・坂・土師の八村これなり。」とあるので、調べると兵庫県龍野市揖西町に住吉・北沢・竹原・小畑・尾崎・南山・土師の小字名在り。尚、揖西西小学校HPの歴史に「明治24年7月布施尋常小学校(小畑村)が誕生。明治42年5月平井・桑原・布施の3村が合併して揖西村となる。」とあるので、堀田先生の説が立証。3巻壽永3年(1184)4月6日

ふせのみくりや布施御厨は、旧更級郡御厨村。1955中津村と合併して川中島町となる。1966長野市へ合併。長野市篠ノ井山布施から布施高田付近に布施御厨があった。6巻文治2年(1186)3月12日

ふせほんじょう布施本庄は、旧更級郡布施五明村と布施高田村が1889合併して布施村に、1914篠ノ井町。篠ノ井市を経て長野市へ。長野市篠ノ井布施6巻文治2年(1186)3月12日

ふたまたやま二俣山は、浜松市天竜区役所が二俣町二俣にある。6巻文治2年(1186)4月21日

ふところじま懷嶋は、茅ヶ崎市円蔵。10巻文治6年(1190)103

ふなえ船江は、伊勢市船江で元は港のこと。2巻養和1年一月21日

ふなき舟木は、千葉県旭市萬歳舟戸。9巻文治5年(1189)3月10日

ふなこし船越は、静岡県静岡市清水区船越。3巻元暦1年(1184)7月10日

ふなつ舩津は、伏見の鴨川の船着場で現伏見区中島鳥羽離宮町城南宮の池が昔の船着場。4巻元暦2年(1185)4月28日

ふなはざまのしゅく船迫宿は、宮城県柴田郡柴田町本船迫。9巻文治5年(1189)8月11日

ふなばしのみくりや船橋御厨は、夏見御厨とも云い、千葉県船橋市船橋、船橋市夏見。6巻文治2年(1186)3月12日

ふるおかきたのほう古岡北保は、旧柵原町(やなはらちょう)なので岡山県久米郡美咲町柵原10巻建久1(1190)4月大19

ふるのしょう 古庄は、相模国愛甲郡古庄(現在の場所は不明)。2巻養和2年(1182)5月25

へいせんじ平泉寺は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63の平泉寺白山神社。10巻建久1(1190)4月大19

へいほくぐん安房国平北郡は、現鋸南町安房勝山。1巻治承4年9月3日

へいほくぐんりょうしま安房国平北郡猟島は、現在の千葉県安房郡鋸南町竜島に指定されている。最寄駅は安房勝山駅。この時に皆が敗戦でしおれているのに、和田義盛は頼朝に「天下を取ったら私を侍所の別当にしてくれ。」と言って、「早いおねだりだなぁ。」と皆を笑わせた。その約束により侍所別当に任じたと後日吾妻鏡に出てくる。1巻治承4年8月29日

へぬき部貫は、稗貫郡。9巻文治5年(1189)11月8日

ほうおんじ報恩寺は、滋賀県高島市新旭町饗庭(あいば)。10巻文治6年(1190)4月19日

ほうじょう北条は、静岡県田方郡韮山、後の堀越公方も同じ地1巻治承4年4月27日

ほおんじ報恩寺は、庄園。滋賀県高島市新旭町饗庭(あいば)。10巻建久1(1190)4月大1910巻建久1(1190)5月大10

ほしな保科は、信濃国高井郡保科(穂科)長野県長野市若穂保科。3巻元暦1年(1184)7月25http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hosina_k.html

ほしなのみくりや保科御厨は、旧上高井郡保科村で、長野市若穂保科。6巻文治2年(1186)3月12日、7巻文治3年(1187)2月25日

ほんだ本田は、深谷市本田9巻文治5年(1189)7月19日

ほんま本間は、神奈川県厚木市上依知下依知出身。4巻元暦2年(1185)4月15日

まきは、駿河大岡牧、沼津市大岡。2巻永1年(1182)11月10日

ましづのしょう益頭庄は、静岡県焼津市と藤枝市のそれぞれ一部に相当。8巻文治4年(1188)6月4日

ましま馬嶋は、更級郡眞島村眞島で長野市真島町真島。6巻文治2年(1186)3月12日

またの俣野は、神奈川県横浜市戸塚区東俣野&藤沢市西俣野。1巻治承4年8月23日

まつえだのほう松枝保は、岐阜県羽鳥郡笠松町長池に松枝小学校有り。保は国衙領(名目上公領)10巻建久1(1190)4月大19

まつえだりょう松枝領は、愛知県一宮市木曽川黒田字松枝?。12巻建久3年(1192)12月14日

まつだ松田は、相摸国足柄上郡松田町で頼朝の兄朝長(母は波多野の女)の屋敷跡。1巻治承4年10月25日

まつだごう松田郷は、神奈川県足柄上郡松田町に総領と庶子の地名あり1巻治承4年10月17日・同年11月20日

まつうら松浦は、長崎県松浦市。4巻元暦2年(1185)3月24

まつなが松永は、若狭国遠敷郡、小浜市。8巻文治4年(1188)9月3日

まつやまみち松山道は、栗駒町か。9巻文治5年(1189)8月21日

まなづる真鶴は、神奈川県足柄下郡真鶴町の岩海岸から出発したとも、又半島付け根に頼朝が隠れたという「しとどの岩屋」あり、ここで實平が延命の舞を踊ったとの伝説から今でも祭りに踊るとか。但し同名の岩屋は湯河原町にもあり。1巻治承4年8月28日

まめど摩免戸は、岐阜県各務原市前渡東町あたりらしい。

まりこ駿河國麻利子は、静岡県静岡市駿河区北丸子(手越の先。とろろ汁店で有名)。9巻文治5年(1189)10月5日

まる丸は、千葉県丸山町。1巻治承4年9月11日

まるくりのしょう丸栗庄は、長野県長野市七ニ会(ナニアイ長野市西部)のあたりから、上水内郡中条村住良木上奈良井、下奈良井、峰奈良井あたりまでらしい。6巻文治2年(1186)3月12日

るこがわ丸子河は、神奈川県小田原市の東を流れる今の酒匂川。1巻治承4年8月24日

まるこのしょう丸子庄は、多摩川を挟み大田区下丸子と川崎市中原区上丸子。1巻治承4年11月10日

まるのみくりや丸御厨は、千葉県丸山町。1巻治承4年9月11日

みおや水尾谷は、水尾谷十郎廣徳の関係者で、埼玉県比企郡川島町76廣徳寺が館跡と云われ、水堀や空堀が現存。小字名は三保谷。6巻文治2年(1186)6月18日

みかみ三上は、栃木県芳賀郡市貝町見上。5巻文治1年(1185)10月9日

みかみしゃ三上社は、滋賀県野洲市三上の御上神社。10巻文治6年(1190)115

みかみのしょう三上庄は、旧近江国野洲郡山出・東林寺・大申小路・稲端・前田・小中小路・妙光寺の七村。現在の滋賀県の野洲市三上に大中小路・前田等の小字あり。隣は大字妙光寺。6巻文治2年(1186)6月17日

みかみのしょう三上庄は、和歌山市南半分。10巻文治6年(1190)5月大1010巻文治6年(1190)5月大29

みくさやま三草山は、大阪府豊能郡能勢町トヨノグンノセチョウと兵庫県加東市上三草カトウシカミミクサの県境の山564.1m。3巻壽永3年(1184)2月5日

みけ美氣は、三池で福岡県大牟田市大字三池。4巻元暦2年(1185)2月1日

みけのしょう(ちくぜん)三ケ庄〔筑前〕は、福岡県朝倉郡筑前町に三箇山と三ケ山あり?又は筑前町夜須。3巻壽永3年(1184)4月6日

みさきのしょう三崎庄は、海上郡三崎村本郷で千葉県銚子市、旭市。6巻文治2年(1186)3月12日9巻文治5年(1189)3月10日

みさきのしょう(しもふさ)下総國三崎庄は、海上郡三崎村本郷で千葉県銚子市、旭市。5巻文治1年(1185)10月28

みさこ三迫は、登米市迫町か。9巻文治5年(1189)8月21日

みずしま水嶋は、岡山県倉敷市水島。水島合戦で、現在島はコンビナートになり、かつての水道は川となって残っている。3巻壽永3年(1184)2月20日

みずしろ水代は、栃木県下都賀郡大平町西水代。寿永2年(1183)2月23日

みずつ越前國水津は、敦賀市杉津。寿永2年(1183)5月4日

みずまのしょう→みづまのしょう

みその御園は、田方郡中郷御園。河原谷は、田方郡錦田村河原谷。長崎は、田方郡韮山村長崎。1巻治承4年10月21日

みその三薗は、静岡県三島市御園。4巻元暦2年(1185)4月20日

みづのまき美豆牧は、旧山城国綴喜郡美豆村。現京都府京都市伏見区淀美豆町。京都競馬場西南。8巻文治4年(1188)7月13日

みづまのしょう三瀦庄は、福岡県久留米市三潴町(みづままち)旧三潴郡三潴町。9巻文治5年(1189)3月13日

みながわ皆河權六太郎は、下野皆川庄。栃木県栃木市皆川城内町。12巻建久3年6月13日

みなとがわ湊河は、湊河庄、茨城県ひたちなか市湊中央。寿永2年(1183)2月23日

みなとがわ湊河は、神戸市中央を流れる湊川。後に足利尊氏と戦って楠木正成が討ち死にするところ。3巻壽永3年(1184)2月7日

みなみうち南内は、旧東筑摩郡片丘村か?だとすれば塩尻市片丘に南内田立石の交差点名あり。6巻文治2年(1186)3月12日

みのうら蓑浦は、滋賀県米原市箕浦。2巻養和1年2月12日みのうらのしゅく箕浦宿は、滋賀県米原市箕浦(旧坂田郡近江町箕浦)。10巻文治6年(1190)1215

みのげ相摸國蓑毛は、神奈川県秦野市蓑毛、波多野城奥、やびつ峠への途中、丈六の大日如来及び五知如来有り。2巻養和1年一月6日

みのだのほう阿波國三野田保は、徳島県三好郡東みよし町足代字美濃田4巻元暦2年(1185)6月5日

みのわ三野和は、河内國若江郡に三野の地名と美濃勅旨、箕輪の地名あり。東大阪市箕輪。10巻建久1(1190)4月大19

みはら信濃國三原は、長野県須坂市。13巻建久4年(1193)3月21日

みはらのしょう(ちくぜん)三原庄〔筑後〕は、福岡県小郡市稲吉に御原郵便局、二夕(フタ)に御原小学校あり。http://www2.wagamachi-guide.com/japanpost/search/syousai.asp?ID=178813巻壽永3年(1184)4月6日

みぶのごう伊賀國壬生野郷は、三重県伊賀市川東(旧阿山郡伊賀町川東)に壬生野郵便局・壬生野小学校あり。

みほざき三穂崎は、滋賀県大津市浜大津の三保ケ崎カ?

みやがわのほう宮川保は、小浜市。8巻文治4年(1188)9月3日

みやぎ宮城は、宮城県宮城郡。10巻文治6年(1190)105

みやこだのみくりや遠江國都田御厨は、静岡県浜松市都田町。3巻壽永3年(1184)3月14日

みやじやまなか宮路山中は、愛知県豊川市赤坂町(旧宝飯郡音羽町)に宮路山あり。隣が御油。10巻文治6年(1190)1219

みやどころ宮所は、上伊那郡伊那富村カ?ならば、長野県上伊那郡辰野町伊那富。6巻文治2年(1186)3月12日

むかつくのしょう向津奥庄は、向津具とも書き、大津郡向具村で、現在の山口県長門市油谷(ユヤ)向津具(ムカツク)上・下。6巻文治2年(1186)7月28日、8月5日

むこのしょう武庫庄は、兵庫県尼崎市武庫之荘(むこのそう)。10巻建久1(1190)4月大19

むこやま六箇山とは、名張川上流の伊勢神宮領のこと。東限高回河、其河後伊賀郡阿保村主(青山町)南限大和国水界(奈良県曽爾村、神末)西限粟河在夏見郷夏見村主(名張市夏見)北限大地頭在(名張市小波田)とある。http://kamnavi.jp/en/mie/kunitu.htm国津、比奈知、太郎生、御杖、曽爾地区は、六箇山(むこやま)と呼ばれる伊勢神宮領であった。http://www.city.nabari.mie.jp/kunitu/machizukuri/k02_1.html3巻壽永3年(1184)4月6日

むさしこくふ武藏國府は、東京都府中市宮町3丁目1大國魂神社の東側と云われる。13巻建久4年(1193)6月1日

むさしのくにいいくら武藏國飯倉は、東京都港区麻布台に「飯倉バス停」東麻布2−1−1に飯倉小学校(堀田璋左右先生は、「麻布区飯倉町に芝神明社(現芝大神宮)存す」とある。)3巻元暦1年(1184)5月3日

むつ陸奥は、奥州とも青森県・岩手県・宮城県・福島県等の東北の太平洋側。9巻文治5年(1189)10月24日

むとべのしょう(たんば)六人部庄〔丹波〕は、福知山市字多保市132−1に六人部中学あり。又、下六人部小学校あり。http://www.nes-k.gr.jp/shimoroku/map.html3巻壽永3年(1184)4月6日

むらた村田は、真壁郡村田庄なので、筑西市村田。8巻文治4年(1188)3月17日6月4日参考常陸國村田下庄は、茨城県筑西市村田、旧真壁郡明野町村田字下町。後に村田上中下は纏められ村田庄となり北條四郎時政のものとなる。12巻建久3年9月12日

むらやま村山は、信濃国村山庄、長野市村山。1巻治承4年9月7日6巻文治2年(1186)3月12日

むれ牟礼は、香川県高松市牟礼町牟礼。4巻元暦2年(1185)2月19日

めら妻郎は、静岡県賀茂郡南伊豆町妻良の妻良港。4巻元暦2年(1185)3月12日

もうり毛利は、相摸國毛利庄、神奈川県厚木市毛利台。1巻治承4年8月23日

もちづきのまき望月牧は、北佐久郡本牧村大字望月で、現在の佐久市望月。6巻文治2年(1186)3月12日

ものみおか物見岡は、宮城県登米市津山町。9巻文治5年(1189)8月14日

ももさだ毛々左田は、百三段ももさだ。秋田市新屋町割山、雄物川河口にある新屋海浜公園。ももさだとは、百三段というこの新屋浜の昔の呼び名。10巻文治6年(1190)1月6日

もりと杜戸は、神奈川県三浦郡葉山町森戸。3巻元暦1年(1184)5月19日

もりのしょう毛利庄(もりのしょう)は、現在の厚木市、愛川町、清川村、城山町の一部。2巻養和1年一月18日

もろ毛呂は、埼玉県入間郡毛呂山町。9巻文治5年(1189)6月9日

もろおか師岳は、神奈川県横浜市港北区師岡町。4巻元暦2年(1185)4月15日

もろはしのほう諸橋保は、石川県鳳珠郡穴水町字前波ホ-108に諸橋郵便局有。又、近くに諸橋駐在所や公民館もある。41巻建長3年(1251)5月27日

やしま八島郷は、大垣市八島町。5巻文治1年(1185)11月20日美濃国八島郷5巻文治1年(1185)11月20日

やす夜須は、夜須郷、高知県香美郡夜須町。2巻壽永1年(1182)9月25

やすがき安垣は、不明だが攝津國能勢郡に倉垣荘があった。島下郡には安井荘。10巻建久1(1190)4月大19

やすだのしょう安田庄は、旧多可郡中村大字東安田・中安田・西安田で現在の兵庫県多可郡多可町中区東安田・中安田・西安田。本所は後白河法皇、預所が丹後局、領家は若狭局、地頭が梶原景時。6巻文治2年(1186)6月9日

やすとみ安冨は、安富町は、兵庫県姫路市安富町(旧宍粟郡安富町)なので播磨の間違いではないか。摂津には見当たらない。10巻建久1(1190)4月大19

やつしろのしょう八代庄は、熊本県八代市。12巻建久3年(1192)12月14日

やのべっぷ矢野別苻は、赤穂郡矢野村で現在の兵庫県相生市矢野町。6巻文治2年(1186)6月25日

やひこのしょう弥彦庄は、西蒲原郡弥彦村。6巻文治2年(1186)3月12日

やまが山鹿は、福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿。4巻元暦2年(1185)3月24

やまがた山方介爲綱は、安芸介で山県郡司。広島県山県郡。3巻元暦1年(1184)10月12日

やまがみ山上太郎高光は、上野國山上保で、群馬県桐生市新里町山上、旧新里村山上。4巻元暦2年(1185)1月1日

やまがみごうたつおき上野國山上郷龍奥は、群馬県桐生市新里町山上に山上城趾あり。寿永2年(1183)2月25日

やまざき山崎は、大分県大分郡湯布院町川南。2巻養和1年2月29日

やまだ山田は、旧岐阜県郡上郡山田村→大和町→現在の岐阜県郡上市大和町。

やまだごう山田郷は、大阪府枚方市山田池。10巻文治6年(1190)8月大3

やまだのしょう山田庄は、麻殖郡山田村で、徳島県吉野川市川島町山田。平業忠が領家。6巻文治2年(1186)6月9日

やまだのしょう山田庄は、旧島下郡山田。佐井寺、上新田、市新田の四村。現在の大阪府吹田市山田(上、市場、丘、東、西、南、北)。7巻文治3年(1187)10月26日

やまだのしょう山田庄は、栃木県矢板市山田かも知れない?11巻建久2年(1191)12月15日

やまな山名は、高崎市山名町。4巻文治1年(1185)8月29日

やまのうち山内は、相模山内庄で、相摸の国最大の庄園で七十一村に及んだ。現在の鎌倉市北鎌倉、藤沢市大鋸、横浜市戸塚区泉区栄区瀬谷区と港南区の上下永谷を含み、八条院領である。1巻治承4年10月23日

やまのうちのしょう山内庄は、相摸の国最大の庄園で七十一村に及んだ。現在の鎌倉市北鎌倉、藤沢市大鋸、横浜市戸塚区泉区栄区瀬谷区と港南区の上下永谷を含み、八条院領である。8巻文治4年(1188)6月4日

やまもと山本は、宮城県山本町?(千福・山本の名は正月六日の条にも出ているが、地域が違うので知ってる地名を書いたに過ぎないと思われる)10巻文治6年(1190)3月10日

やまもとのしょう山本庄は、熊本県鹿本郡植木町山本。(熊本市北側)6巻文治2年(1186)2月7日

やまもも楊梅は、京都の楊梅通り。むかしは「やまもも小路」今は「ようばいどおり」。烏丸五条西側の一本南の小路。6巻文治2年(1186)7月27日

ゆい由比は、鎌倉市由比ガ浜あたりと思われる。6巻文治2年(1186)9月7日

ゆうき結城は、茨城県結城市結城。2巻養和1年4月7日

ゆげのしょう弓削庄は、丹波国桑田郡弓削庄で京都市右京区京北上弓削町。京都市指定登録文化財美術工芸に「丹州桑田郡弓削庄一宮八幡宮御宝鰐口也」の銘文入り鰐口がある。京都府北桑田郡弓削村が1955年他と合併し京北町発足。2005年右京区に編入。(後白河の領地)6巻文治2年(1186)2月21日

ゆらのしょう由良庄は、和歌山県日高郡由良町。6巻文治2年(1186)8月26日、9月25日

ゆり由利八郎は、旧秋田県由利郡由理町。現由利本荘市。9巻文治5年(1189)9月7日

ゆわせ湯橋は、和歌山県和歌山市岩橋(イワセ)。10巻建久1(1190)4月大19

よこち横地は、静岡県菊川市東横地・小笠郡菊川町東横地。寿永2年(1183)2月17日

よこね横根は、千葉県旭市横根。9巻文治5年(1189)3月10日

よこみぞ横溝は、近江国横溝で滋賀県東近江市横溝町。得宗被官。26巻承久4年(1222)1月7日

よこやま横山は、滋賀県東近江市横山町。3巻元暦1年(1184)12月1日

よしおかのしょう吉岡庄は、富山県富山市吉岡かもしれない。と思いましたが、
孫八さんからのご指摘によると元「藤原摂関家長者藤原頼長」の庄園が【保元の乱】で敗れて没収され【後白河上皇の庄園(後院領)】となった【越中吉岡庄】の事で、場所は
富山県高岡市福岡町赤丸周辺の庄園で、聖武天皇の弟の石川朝臣広成(続日本紀)が創建された「赤丸浅井神社」を郷社とした庄園で、南北朝時代の後醍醐天皇迄、皇室庄園として続き、その後、足利義満が相国寺へ寄進した庄園。(ブログ 「赤丸米のふるさとから」 参照)赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!! (goo.ne.jp)

よしかたのいせきのこうづけのくに義賢の遺跡の上野國は、多胡荘で現寄居町。1巻治承4年10月13日

よしかわのしょう吉河庄は、旧三島郡三島町で現長岡市吉崎周辺。6巻文治2年(1186)3月12日

よしだのまき吉田牧は、長野市吉田。6巻文治2年(1186)3月12日

よしずみのしょう善積庄は、近江国高島郡。尾張源氏浦野姓。現高島市今津町。6巻文治2年(1186)2月29日

よしの吉野は、長野市塩生甲吉野かもしれない。古野の間違いなら長野市三輪に「古野」の古名があるらしい。6巻文治2年(1186)3月12日

よしのやま吉野山は、奈良県吉野町にある山地。吉野川の左岸から大峰山脈北端に向けて高まる約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称。桜と南朝の史跡で知られる。6巻文治2年(1186)3月6日

よしみ吉見は、武蔵国吉見郷で埼玉県比企郡吉見町。吉見百穴で有名。9巻文治5年(1189)7月10日

よだのしょう依田庄は、小県郡丸子村大字腰越、依田村飯沼。上田市上丸子・中丸子・下丸子。上田市生田に依田保育園と飯沼神社あり。6巻文治2年(1186)3月12日

よねもち米用は、長野県須坂市米持。2巻養和1年5月16日

りょうしま安房国平北郡猟島は、現在の千葉県安房郡鋸南町竜島に指定されている。最寄駅は安房勝山駅。この時に皆が敗戦でしおれているのに、和田義盛は頼朝に「天下を取ったら私を侍所の別当にしてくれ。」と言って、「早いおねだりだなぁ。」と皆を笑わせた。その約束により侍所別当に任じたと後日吾妻鏡に出てくる。1巻治承4年8月29日

ろくぐん六郡は、奥六郡。9巻文治5年(1189)8月9日

わが和賀は、岩手郡。9巻文治5年(1189)11月8日

わかつきのしょう若月庄は、信濃水内郡岩槻庄で、長野県長野市上野2丁目に若槻養護学校の名あり。若槻村は1954長野市に編入。6巻文治2年(1186)3月12日

わしづ鷲栖は、名古屋市緑区大高町鷲津で、織田信長の鷲津の砦跡あり。10巻文治6年(1190)1029

わしみや鷲宮は、埼玉県北久喜市八甫4丁目の鷲宮神社。 13巻建久4年(1193)11月19日

わだ和田は、神奈川県三浦市初声町和田。1巻治承4年8月22日

わたなべ渡部は、渡辺の津、大阪府大阪市北区中之島3丁目の渡辺橋付近。京阪中之島線「渡辺橋駅」そば。4巻元暦2年(1185)2月18日、渡辺党は嵯峨源氏。本流は、一条戻り橋の逸話渡辺綱から。6巻文治2年(1186)8月27日

わらしながわ藁科河は、静岡市杉尾。9巻文治5年(1189)10月28日

inserted by FC2 system inserted by FC2 system