郷土の不思議を調べてみます(平成十三年十二月二十六日更新)

鯖神社について郷土神奈川県の地図上で縦に三等分した東の辺りに東京の町田から南下する川があります。川の名を境川と称し、町田のあたりでは武蔵の国と相模の国とを分けており、県内に入ると鎌倉郡と高座郡の境を流れています。この川の両岸に左馬神社・鯖神社・佐波神社・佐婆神社などの名で源義朝を祭神とした神社が点々と10社あります。

「旧鎌倉街道探索の道」を執筆している芳賀善次郎氏によると「全国で11社しかなく、高座郡に6社鎌倉郡に5社」と書いておられます。そこで文字は違えども「さば」と発音する神社を見ると私も行ってみて10社見つけました。

なお、詳しくお調べになっているHPがありますので、リンクの頁から浅次郎さんの頁へ行ってみて下さい。によると12社あり、和泉の三社は多田満仲を祀っているそうです。

先日8月19日。和泉の鯖神社を捜して1番と6,7番を見て来ました。途中で土地の古老のお話を伺ったところ、戸塚区の俣野神社も昔は鯖神社と言ったことがあると聞いているとのことでしたが、明治15年測量の地図によると俣野神社は「八坂社」とありますし、浅次郎さんの頁では別な社を指定しております。しかし、何故「義朝」が祭神なのかは今のところ解明できていません。12月に下飯田の鯖神社で「七さばめぐり」をしている方に出会ったのですが、そのパンフには「七ツ木神社」と「俣野神社」も載っていました。もっと詳しく見せてもらえばよかったと思っています。

一説によると、慶長年間(1596-1614)徳川幕府は旗本長田忠勝・白政兄弟に上瀬谷をお鷹場支配として与え、瀬谷駅近くの「鷹見塚」は将軍家鷹狩の指揮所として築かれた。この長田は、尾張知多半島野間内海庄で義朝を暗殺した長田忠致の子孫と云うので、新田源氏の子孫を名乗っている徳川家に対し先祖が裏切った源氏の義朝を祀ることにより、徳川源氏への忠誠を表現したのではないだろうかと推量してます。

まだまだ謎は深まり行くばかりですが、地図上の北から順に並べてみました。

現名称「左馬神社」

古名称「左馬社」

所在「横浜市瀬谷区橋戸3丁目20−1

文献等「員外社本村南の方に有り。「神奈川県図書館協会編集神奈川県皇国地誌、相摸國鎌倉郡村誌16頁」その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰が盛んでした。(七サバ参り) 当左馬社は、「七サバ神社」と呼ばれるうちの一つであり、祭神は左馬頭源義朝です。 隣接の真言宗西福寺が、この左馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、(後略)境内の区役所の説明版から」

コメント「鎌倉古道「上の道」沿い西福寺隣にあり、かつて西福寺は左馬神社の別当寺であった。」

 

現名称「左馬神社

古名称「左馬神社

所在「大和市上和田1168

文献等「由緒 宝暦14年3月桃園天皇徳川九代将軍家重の代、名主渡辺兵左衛門、小川清右衛門この地に宮を建立、左馬頭源義朝の霊を勧請し村民の精神道場となるや暫時庶民崇敬の的となり、文化3年4月3日上和田信法寺14世住職憧与上人、氏子の賛同を得て五穀豊穣の祈願をなしたるや、其の御神徳の偉大さに武家、一般庶民に深き感銘を与う。以来五穀豊穣はもとより家内安全の守護神として広く世に伝わり崇敬者多し

コメント「県道丸子中山茅ヶ崎線で瀬谷から境川を渡り河岸段丘に上って集落への旧道を南下すると直ぐです。この県道は徳川家康が駿府と江戸の行き来に使った道です。

 

現名称「左馬神社

古名称「左馬神社

所在「現在:大和市下和田1108

文献等「ナシ

コメント「ここの神社のちょっと変っているのは、本殿の前に拝殿ではなく、一見~樂殿のような良く解らない建物があります。でも賽銭箱もない不思議な感じでした。小田急江ノ島線高座渋谷駅から東へ600メートル地点」

 

現名称「飯田神社

古名称「鯖神社」

所在「横浜市泉区上飯田町2517

文献等「式外村社々地東西十三間南北二十間面積二百六十坪本村西南の方に有り、祭神左馬頭源義朝、勧請年月詳らかならず。「神奈川県皇国地誌、相摸國鎌倉郡村誌 45頁」

コメント「鎌倉古道「上の道」沿いにあり。」

 

現名称「佐婆神社

古名称「鯖神社

所在「横浜市泉区和泉町4814番地そば

文献等「員外社本村西の方に有り。「神奈川県皇国地誌、相摸國鎌倉郡村誌 32頁」

コメント「

現名称「中和泉左馬神社

古名称「鯖神社

所在「横浜市泉区和泉町3253

文献等「外村社々地東西九間三尺南北二十四間三尺面積二百三十三坪本村中央に有り、祭神左馬頭源義朝を勧請する、年月詳らかならず。「神奈川県皇国地誌、相摸國鎌倉郡村誌 32頁」

コメント「相鉄いずみ野線いずみ中央駅南600メートル地点の中和泉集落内

現名称「七ツ木神社

古名称「」

所在「藤沢市高倉1126番地そば

文献等「

コメント「古老の話では鯖神社と呼んだと言う。又七さば参りのパンフにも書かれています。

現名称「左馬神社

古名称「鯖神社

所在「横浜市泉区下飯田町1389

文献等「式外村社々地東西九間三尺南北十七間面積百六十二坪本村西北の方に有り、祭神左馬頭源義朝、勧請年月詳らかならず。「神奈川県皇国地誌、相摸國鎌倉郡村誌 50頁」

コメント「鎌倉古道「上の道」沿いにあり。」

現名称「鯖神社」

古名称「鯖神社」

所在「藤沢市湘南台7丁目192

文献等「祭神は源義朝、創立は元禄15年(1702)当地住人井上瀬兵衛により造立される。祭神源義朝が左馬頭であったことから鯖神社と称する。文政9年1826に再建し、昭和8年氏子中により本殿・拝殿が改築される。「昭和60年4月25日発刊藤沢史跡めぐり・藤沢文庫刊行会192頁」から

コメント「場所は境川の藤沢市側の川にそった道沿いの今田の集落内にありました。湘南台中学校の東150mにある。

10

現名称「鯖大明神」

古名称「鯖大明神」

所在「横浜市泉区和泉町709

文献等「員外社本村南の方に有り。「神奈川県皇国地誌、相摸國鎌倉郡村誌 32頁」

コメント「天王森泉公園北旧下和泉集落内

11

現名称「佐波神社

古名称「左馬頭神社

所在「藤沢市石川139

文献等「バス停石河橋より北へ約200m祭神は源義朝、創立は慶長十六年1611頃、一説に戦国時代に当地で勢力のあった石川六人衆、入内嶋・西山・田代・伊沢・佐川・市川によって勧請されたと伝えられる。始めは左馬頭神社、次に鯖神社と称したが、水害にあった時に佐波神社と再度改めた。「昭和60年4月25日発刊藤沢史跡めぐり・藤沢文庫刊行会192頁」から

コメント「保元・平治の乱に義朝に従った大庭兄弟の大庭城の北1キロのあたりにあります。地元では暗くなると傍に近寄らない方が良いという噂があるそうですが、最近はすっかり開けてすぐ隣まで明るい住宅地になっていました。でも出るらしいとの噂があります。

12

現名称「左馬神社

古名称「不明」

所在「藤沢市西俣野」

文献等「ナシ

コメント「西俣野の農家の庭の一部に小さな神社があり、御嶽神社境内の文化財ハイキングコースに表示あり

藤沢の2社は慶長・元禄に4番は宝暦に勧請された事が分かりますが、他は不明です。それに何故「義朝」なのかそれも江戸時代にですよ?

一説によると、慶長年間(1596-1614)徳川幕府は旗本長田忠勝・白政兄弟に上瀬谷をお鷹場支配として与え、瀬谷駅近くの「鷹見塚」は将軍家鷹狩の指揮所として築かれた。この長田は、尾張知多半島野間内海庄で義朝を暗殺した長田忠致の子孫と云うので、新田源氏の子孫を名乗っている徳川家に対し先祖が裏切った源氏の義朝を祀ることにより、徳川源氏への忠誠を表現したのではないだろうかと推量してます。

  

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