吾妻鏡入門第一巻

治承四年(1180)八月小

治承四年(1180)八月小二日壬午。相摸國住人大庭三郎景親以下。依去五月合戰事。令在京之東士等。多以下着云々。

読下し                みずのえうま  さがみのくにじゅうにん おおばのさぶろうかげちかいげ さぬ ごがつ  かっせん こと  よっ
治承四年(1180)八月小二日壬午。 相摸國住人、 大庭@三郎景親A 以下去る五月の合戰の事に依て、

ざいきょうせし    の とうし ら おお   もっ  げちゃく   うんぬん
在京 令むる之東士等多く以て下着すと

参考@大庭は、藤沢市大庭に大庭城址あり。但し、戦国初期の手が入っている。
参考A景親は、鎌倉権五郎景政の正嫡の子孫。当時は源氏の見方をした三浦氏(大介)が落目で、景親は平家の知盛に仕え相模の代表的地位を持っていたようである。

現代語治承四年(1180)八月小二日壬午相模の国に領地のある大庭景親他の武士達が頼政の合戦によって、京都に行っていた東国の勇士が皆戻ってきたんだとさ。

治承四年(1180)八月小四日甲申。散位平兼隆〔前廷尉。号山木判官〕者。伊豆國流人也。依父和泉守信兼之訴。配于當國山木郷。漸歴年序之後。假平相國禪閤之權。輝威於郡郷。是本自依爲平家一流氏族也。然間。且爲國敵。且令挿私意趣給之故。先試可被誅兼隆也。而件居所爲要害之地。前途後路。共以可令煩人馬之間。令圖繪彼地形。爲得其意。兼日密々被遣邦道。々々者洛陽放遊客也。有因縁。盛長依擧申。候武衛。而求事之次。向兼隆之舘。酒宴郢曲之際。兼隆入興。數日逗留之間。如思至山川村里。悉以令圖繪訖。今日歸參。武衛招北條殿於閑所。置彼繪圖於中。軍士之可競赴之道路。可有進退用意之所々。皆以令指南之給。凡見畫圖之躰。正如莅其境。云々。

読下し                きのえさる さんにたいらのかねたか〔さきのていいやまきのほうがん    ごう   〕  は いずのくに るにんなり
治承四年(1180)八月小四日甲申。 散位@平兼隆A〔前廷尉山木判官Bと号す〕者伊豆國の流人也。

ちち いずみのかみのぶかねの うった    よっ     とうごくやまきごうに はい
父の 和泉守信兼 之訴へCに依て、當國山木郷于配さる。

しばら ねんじょ へ  ののち  へいしょうこくぜんこうのけん  か     いを ぐんごう かがやか
暫く年序を歴る之後、平相國禪閤 之 權を假り、威於郡郷に輝す。

これもと よ へいけいちりゅう うじぞく  な    よっ  なり
是本自り平家一流の氏族を爲すに依て也。

しか  かん  かつ   こくてき  な     かつ    し   いしゅ さしはさ せし たま  のゆえ  ま  こころ   かねたか ちゅうされ べ  なり
然る間、且うは國敵と爲し、且うは私の意趣を挾ま令め給ふ之故、先ず試みに兼隆を誅被る可き也。 

しか    くだん いどころ   ようがいのち   な     ぜんと こうろ とも  もっ  じんば わずら せし  べ   のかん
而るに件の居所は、要害之地を爲し、前途後路共に以て人馬を煩は令む可し之間、

か   ちけい   ずえ せし    そ   い   え  ため  けんじつ みつみつ くにみち つか され   くにみちは らくようほうゆう きゃくなり
彼の地形を圖繪令め、其の意を得ん爲、兼日、密々に邦通を遣は被る。々々者洛陽放遊の客也。

いんねんあ      もりながきょ  もう     よっ    ぶえい そうら
 
因縁 有りて、盛長擧し申すに依て、武衛に候ふ。

しこう   ことのついで もと    かねたかのやかた むか   しゅえんえいきょくのさい かねたかきょう い すうじつとうりゅうのかん
而して事之 次を求め、 兼隆之舘に向ひ、酒宴 郢曲D之際、兼隆興に入り數日逗留之間、

おも    ごと さんせんそんり  いた      ことごと もっ  ずえ せし  お      きょう きさん
思うが如く山川村里に至るまで、悉く以て圖繪令め訖え、今日歸參す。

ぶえい  ほうじょうどのをかんじょ  まね    か   えず を なか  お    ぐんしの きそ おもむ べ   どうろ  しんたいあ  べ   よういのしょしょ
武衛、北條殿 於 閑所に招き、彼の繪圖於中に置き、軍士之競い赴く可き道路、進退有る可き用意之所々、

みなもっ  これ  しなんせし たま    およ  しょがの てい  み       まさ  そ  さかい のぞ  ごと    うんぬん
皆 以て之を指南令め給ふ。凡そ畫圖之躰を見るに、正に其の境に莅む如しと云々。

参考@散位は、位階はあるが、官職についていない。
参考A
平兼隆は、静岡県伊豆の国市韮山山木。山木兼隆とも云う
参考B判官は、検非違使の唐名。
参考C
父の信兼の訴えとは、継母に嫌われた。
参考D
郢曲は、流行り歌。(1)〔中国の春秋時代、楚(そ)の都である郢の人が歌った俗曲の意〕流行歌曲。はやり歌。俗曲。(2)催馬楽(さいばら)・風俗歌(ふぞくうた)・朗詠・今様(いまよう)など、中古・中世の歌謡類の総称。

現代語治承四年(1180)八月小四日甲申。散位兼隆〔前に検非違使をして、今山木にすむので山木の判官と呼ばれる。〕は、父の信兼の訴えに依って伊豆の山木に流罪になりました。永く居るうちに清盛の威光を借りて威信を郡や郷に示しています。彼は元々平氏の一族だからです。だから、国の敵として、しかも私的な恨みもあるので、最初に兼隆を責めよう。しかし、その居所は攻め難く守りやすい地形なので、進もうにも引こうにも人も馬も苦心を強いられるので、そこの地形を図面に書きたい。その為に前もって密かに邦通を差し向けました。邦通は京都で芸達者な遊び人なのです。縁があって盛長が推薦して頼朝様の下へ来ています。そこで、理由を作って兼隆の屋敷に行って酒宴に流行り歌を唄いました。兼隆がすっかり気に入って引きとめたので、暫く居て好きなように山も川も村や里まで全て絵に描き終えて今日帰って来ました。頼朝様は時政殿を静かな部屋に呼んで、その絵を置いて、兵士が戦に勢い込んで行く道や、進退する場所等を全て細かく指定しました。その絵の旨さは、見ているとまるっきり現場に立っているようだったんだとさ。

治承四年(1180)八月小六日丙戌。召邦通。昌長等於御前有卜筮。又以來十七日寅卯尅。點可被誅兼隆之日時訖。其後工藤介茂光。土肥次郎實平。岡崎四郎義實。宇佐美三郎助茂。天野藤内遠景。佐々木三郎盛綱。加藤次景廉以下。當時經廻士之内。殊以重御旨輕身命之勇士等各一人。次第召拔閑所。令議合戰間事給。雖未口外。偏依恃汝。被仰合之由。毎人被竭慇懃御詞之間。皆喜一身拔群之御芳志。面々欲勵勇敢。是於人雖被禁獨歩之思。至家門草創之期。令求諸人之一揆給御計也。然而於眞實密事者。北條殿〔時政〕之外無知之人云々。

読下し               ひのえいぬ くにみちまさながらを ごぜん  め    ぼくぜいあ
治承四年(1180)八月小六日丙戌。邦通昌長等 於御前に召し、ト筮有り。

また きた じうしちにち とらう  とき  もっ   かねたか ちゅうさる べ   のにちじ  てん おはんぬ
又、來る十七日寅卯の尅を以て、
兼隆を誅被る可し之日時を點じ訖。

そ  のち  くどうのすけもちみつ といのじろうさねひら おかざきのしろうよしざね うさみのさぶろうすけもち  あまののとうないとおかげ ささきのさぶろうもりつな
其の後、 工藤介茂光、土肥次郎實平、 岡崎四郎義實、 宇佐美三郎助茂、 天野藤内遠景、 佐々木三郎盛綱、

かとうじかげかど いげ とうじ けいかい  しのうち   こと  もっ おんむね おも   しんめい  かろ      のゆうしら
加藤次景廉以下當時@經廻の士之内、殊に以て御旨を重んじ身命を輕んずる之勇士等、

おのおの ひとり  しだい  かんじょ  め  ぬ         かっせん かん こと  ぎせし  たま
 各、一人を次第に閑所に召し抜きんじ、合戰の間の事を議令め給ふ。

いま  こうがい     いへど  ひとえ なんじ たの   よっ   おお  あ  さる   のよし  ひとごと いんぎん おことば かっ られ   のかん
未だ口外せずと雖も、偏に汝を恃むに依てと仰せ合は被る之由、人毎に慇懃の御詞を竭せ被る之間、

みないっしんばつぐんの ごほうし よろこ   めんめんゆうかん はげ      ほっ
皆 一身 抜群之御芳志を喜び、面々 勇敢を勵まんと欲す。

これひと おい      どっぽの おも    きん  らる   いへど   かもん そうそうの ご  いた   しょにんの いっき  もと  せし  たま    おんはか なり
是人に於ては、獨歩之思いを禁ぜ被ると雖も、家門草創之期に至り、諸人之一揆を求め令め給ふの御計り也。

しかして しんじつ みつじ  おい は   ほうじょうどののほかこれ し   ひと な   うんぬん
然而、眞實の密事に於て者、北條殿 之外之を知る人無しと云々。

参考@當時は、今現在を示す。

現代語治承四年(1180)八月小六日丙戌。通と昌長を御前に呼んで占いをしました。又、今度の十七日の午前五時頃に兼隆を討つ時間と決めました。その後、工藤介茂光、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、宇佐美三郎佑茂、天野藤内遠景、佐々木三郎盛綱、加藤次景廉他の、今身の回りに居る取り巻きの内、特に頼朝様に忠誠している勇士を順に部屋へ呼んで、戦の方法を教えました。表向きには云っては居ませんが、「お前を一番当てにしている。」とそれぞれ皆に丁寧な言葉を掛けましたので、皆頼朝様の気持ちを喜び、勇敢に頑張ろうと思いました。人々は単独行動を止められているが、源氏の権威回復の機会なので、皆の励みを引き出すための作戦でした。でも、本当のことは時政殿以外には知らせていないんだとさ。

治承四年(1180)八月小九日己丑。有近江國住人佐々木源三秀義者。平治逆乱時。候左典厩御方〔義朝〕。於戰塲竭兵畧。而武衛坐事之後。不奉忘舊好兮。不諛平家權勢之故。得替相傳地佐々木庄之間。相率子息等。恃秀衡〔秀義姨母夫也〕赴奥州。至相摸國之刻。澁谷庄司重國感秀義勇敢之餘。令之留置之間。住當國既送二十年畢。此間。於子息定綱盛綱等者。所候于武衛之門下也。
而今日。大庭三郎景親招秀義談云。景親在京之時。對面上總介忠C〔平家侍〕之際。忠C披一封書状。令讀聽于景親。是長田入道状也。其詞云。北條四郎。比企掃部允等。爲前武衛於大將軍。欲顯叛逆之志者。讀終。忠C云。斯事絶常篇。高倉宮御事之後。諸國源氏安否可糺行之由。沙汰最中此状到着。定有子細歟。早可覽相國禪閤之状也云々。景親答云。北條者已爲彼縁者之間。不知其意。掃部允者早世者也者。景親聞之以降。意潜周章。與貴客有年來芳約之故也。仍今又漏脱之。賢息佐々木太郎等被候于武衛御方歟。尤可有用意事也云々。秀義心中驚騒之外無他。不能委細談話。歸畢云々。

読下し                つちのとうし おうみ じゅうにんささきのげんざひでよし       ものあ    へいじぎゃくらん とき
治承四年(1180)八月小九日己丑。近江の住人佐々木@源三秀義という者有り。平治逆乱の時、

さてんきゅう  みかた そうら  せんじょう をい へいりゃく かっ   しか   ぶえいこと   ざ     ののち むかし よしみ わす たてまつ ず
左典厩の御方に候い、戰塲に於て兵畧を竭す。而るに武衛事に坐する之後、舊の 好を忘れ 奉ら 不兮。

へいけ けんせい へつら ずのゆえ  そうでん ち  ささきのしょう  とくたい     のかん  しそくら   あいひき   ひでひら 〔ひでよし しゅうとぼ おっとなり〕    たの
平家の權勢に諛は不之故、相傳の地佐々木庄を徳替される之間、子息等を相率い、秀衡〔秀義の姨母の夫也〕を恃み、

おうしゅう おもむ さがみのくに いた  のとき  しぶやのしょうじしげくに ひでよし ゆうかん かん    のあま    これ  とど お   せし     のかん
 奥州に赴き 相摸國に至る之刻、澁谷A庄司重國、秀義の勇敢に感ずる之餘り、之を留め置か令める之間、

とうごく  す    すで  にじうねん おく おはんぬ こ  かん  しそく さだつなもりつなら おい は   ぶえいのもんかに そうろ ところなり
當國に住まい既に二十年を送り畢。 此の間、子息定綱 盛綱等に於て者、武衛之門下于候う所也。

しこう   きょう おおばのさぶろうかげちか ひでよし まね だん   い
而して今日 大庭三郎景親、 秀義を招き談じて云はく。

かげちかざいきょうのとき かずさのすけただきよ〔へいけのさむらい〕 たいめんのきわ ただきよいっぷう しょじょう ひら   かげちかに よ  き   せし
景親 在京之時、 上總介忠CB〔平家侍〕に 對面之際、忠C 一封の書状を披き、景親于讀み聽か令む。

これおさだのにゅうどう じょうなり
是 長田入道 の状也。

そ  ことば  い     ほうじょうのしろう ひきのかもんのじょうら  さきのぶえいを だいしょうぐん な  ほんぎゃくのこころざし あらわ    ほっ てへ
其の詞に云はく、北條四郎・比企C掃部允等、前武衛於 大將軍と爲し、叛逆 之 志 を 顯さんと欲す者り。

よ   お    ただきよ い      そ  こと じょうへん た
讀み終えて忠C云はく、斯の事 常篇に絶えたり。

たかくらのみや おんことののち しょこくげんじ  あんぴ  ただ  おこな  べ  のよし   さた さいちゅう   こ  じょう とうちゃく   さだ    しさいあ   か
 高倉宮 の御事之後、諸國源氏の安否を糾し行う可し之由、沙汰最中に、此の状 到着す。定めて子細有る歟。

はや しょうこくぜんこう み     べ  のじょうなり  うんぬん
早く相國禪閤に覧せる可き之状也と云々。

かげちか こた   い       ほうじょうはすで か   えんじゃ な   のかん  そ  こころ  し   ず  かもんのじょうは  そうせい  ものなり  てへ
景親 答へて云はく、北條者已に彼の縁者と爲す之間、其の意を知ら不。掃部允 者、早世せる者也、者り。

かげちか これ き     いこう   い ひそか しゅうしょう  ききゃくとねんらい  ほうやくあ  のゆえなり
景親 之を聞くの以降、意 潜に周章す。貴客興年來の芳約有る之故也。

よっ いままたこれ ろうだつ   けんそくささきのたろう ら    ぶえい  みかたにそうら らる か   もっと ようい   ことあ   べ   なり  うんぬん
仍て今又之を漏脱す。賢息佐々木太郎等は武衛の御方于候は被る歟。尤も用意の事有る可き也と云々。

ひでよし しんちゅう  きょうそうの ほか た な    いさい  だんわ      あた ず   かえ おはんぬ うんぬん
秀義の心中は、驚騒之 外他無し。委細を談話するに能は不に歸り畢と 云々。

参考@佐々木は、近江の村上源氏。
参考A渋谷は、小田急江ノ島線「高座渋谷駅」東北に「城山」の地名有り、但し和田義盛の城との伝説有り。
参考B上總介忠Cは、伊藤上總介忠Cで富士川の合戰の侍大将。息子に謡曲景Cの悪七兵衛景C、永福寺造営中に頼朝暗殺がばれて処刑の上総五郎忠光。
参考C比企は、埼玉県比企郡。

現代語治承四年(1180)八月小九日己丑。近江に領地を持っていた佐々木秀義という者がおります。平治の乱の時は、父義朝に味方して戦場では見事な戦いを見せました。しかし、頼朝様が失脚した後、源氏への古くからの忠誠を忘れずに、平家の権力に従う事がなかったので、先祖伝来の佐々木の庄を取り上げられてしまいました。そこで息子達を連れて平泉の秀衡(舅の母の夫)につてを頼んで奥州へ向かいました。相模の国を通過する際に、渋谷庄司重国は秀義の武勇に惚れて引き止めましたので、すでに二十年も経ちました。この間に息子の定綱や盛綱達は頼朝様の家来になっていました。

そして今日、大庭三郎景親が秀義を呼んで話しました。
「景親が京都に居て上総介忠C
(平家侍大将伊藤)に逢った時、忠Cが一通の手紙を開いて景親に読んで聞かせました。この手紙は長田忠致(野間内海庄)の手紙である。その中に北條四郎時政と比企掃部允は頼朝様を将軍にして、平家に反逆しようとしていると書いてあると、読み終えて忠Cは云った。これは常識を超えた一大事なので、以仁王のことがあったので、全国の源氏の様子を確かめようとしている最中にこの手紙が届いた。余程問題があるんじゃないか。早めに清盛様に見せた方が良い手紙だ。とのことでした。景親は答えて云いました。時政はもうすでに頼朝様と縁戚を結んでいるが、その意図は分からない。比企掃部允はもう早死にしている。と云いました。
景親はこの話を聞いてから心の中で困り果て、貴殿秀義と永く親陸に付き合っているからだ。だから今もこの話を漏らしているんだ。貴方の倅の太郎達は頼朝様に仕えているんじゃないのか。考えたほうが良いよ。」なんだとさ。秀義はこれを聞いて心が胸騒ぎをして他のことは考えられなくなり、これ以上話せなくなって帰ってきてしまったんだそうだ

治承四年(1180)八月小十日庚寅。秀義以嫡男佐々木太郎定綱〔近年在宇津宮。此間來澁谷〕。昨日景親所談之趣。申送武衛云々。

読下し           かのえとら ひでよし ちゃくなん ささきのたろうさだつな  〔きんねん  うつのみや   あ       こ    かん しぶや  きた  〕
治承四年(1180)八月小庚寅。秀義の嫡男、佐々木太郎定綱〔近年、宇都宮に在り@。此の間澁谷に來り〕

  もっ    さくじつ  かげちか だん   ところのおもむき ぶえい もう  おく   うんぬん
を以て、昨日、景親の談ずる所之 趣を 武衛に申し送ると云々。

参考@宇都宮に在りは、宇都宮氏(栃木県)の婿となっている。当時は妻問婚の時代と思われる。

現代語治承四年(1180)八月小庚寅。秀義は、嫡男の佐々木太郎定綱〔普段宇都宮に居るが、今度のことで渋谷に来ている。〕に昨日の景親の話を頼朝様に伝えるように云いました。

治承四年(1180)八月小十一日辛卯。定綱爲父秀義使。參着北條。景親申状。具以上啓之處。仰云。斯事。四月以來。丹府動中者也。仍近日欲表素意之間。可遣召之處參上。尤可有優賞。兼亦秀義最前告申。太以神妙云々。

読下し                   かのとう さだつな ちちひでよし つか    な     ほうじょう さんちゃく
治承四年(1180)八月小十一日辛卯。定綱、父秀義の使いと爲し、北條に參着す。

かげちか もう  じょう つぶさ もっ じょうけい  のところ  おお    い       そ   こと しがつ いらい にふちゅう  どう    ものなり
 景親の申す状を具に以て上啓する之處。仰せて云はく、斯の事四月以來 丹府中に動ずる者也。

よっ   きんじつ そ  い  あらわ     ほっ    のかん  め  つか    べ  のところさんじょう
仍て、近日素の意を表さんと欲する之間。召はす可し之處參上す。

もっと ゆうしょう あ   べ    かね また  ひでよしさいぜん つ  もう    はなは もっ  しんみょう うんぬん
尤も 優賞有る可し。兼て亦、秀義 最前に告げ申すは太だ以て神妙と云々。

現代語治承四年(1180)八月小十一日辛卯。定綱が、父秀義の使者として北条に到着しました。景親の話を報告したところ、仰せられるには「その事については、四月頃からずぅーと考えていることである。だから近いうちに実行しようと使いを出して呼ぼうと思った所に来たので、感心している。それに秀義が一番先に私に報告することは、とても誉めてあげたい。」だってさ。

治承四年(1180)八月小十二日壬辰。可被征兼隆事。以來十七日。被定其期。而殊被恃思食岡崎四郎義實。同与一義忠之間。十七日以前。相伴土肥次郎實平。可參向之由。今日被仰遣義實之許云々。

読下し               みずのえたつ かねたか せいさる  べ  こと  きた じうしちにち もっ   そ   ご   さだ  られ
治承四年(1180)八月小十二日壬辰。兼隆を征被る可き事。來る十七日を以て其の期と定め被る。

しか    こと おかざきのしろうよしざね  おな   よいちよしただ   たの  おぼ  めさる   のかん
而して殊に岡崎四郎義實@と同じき与一義忠Aを恃み思し食被る之間。

じうしちにち いぜん  といのじろうさねひら  あいともな さんこう  べ   のよし  きょう  よしざねの もと  おお  つか  さる   うんぬん
十七日 以前に土肥次郎實平Bを相伴ひ參向す可し之由。今日、義實之許に仰せ遣は被ると云々。

参考@岡崎四郎義實は、三浦義明の弟で中村次郎盛平の婿となり平塚市岡崎領主。
参考A余一義忠は、名字を佐那田と云い平塚市佐那田に独立。
参考B土肥は、相模國土肥郷、現在の湯河原町、真鶴町。

現代語治承四年(1180)八月小十二日壬辰。兼隆征伐の襲撃の日は、今度の十七日をその日にしようと決めました。そして岡崎四郎義実と佐那田余一義忠を頼りにしているので、十七日前に土肥次郎実平を一緒に連れて来るように、今日義実に使いを出しましたとさ。

治承四年(1180)八月小十三日癸巳。定綱申明曉可歸畢之由。武衛雖令留之給。相具甲冑等。稱可參上。仍賜身暇。仰曰。令誅兼隆。欲備義兵之始。來十六日必可歸參者。又付定綱。被遣御書於澁谷庄司重國。是則被恃思食之趣也。

読下し                みずのとみ  さだつな みょうぎょう かえ おはんぬべ のよし  もう
治承四年(1180)八月小十三日癸巳。定綱、明曉、歸り畢 可し之由を申す。

ぶえいこれ  とど  せし  たま   いへど かっちゅうら  あいぐ    さんじょう べ    しょう    よっ  み  いとま  たま
武衛之を留め令め給ふと雖も甲冑等を相具し、參上す可しと稱す。仍て身の暇を賜はる。

おお   いは    かねたか ちゅうせし     ほっ ぎへいのはじめ そな きた じうろくにちかなら きさん  べ   てへ
仰せて曰く、兼隆を誅令まんと欲し義兵之始に備へ來る十六日必ず歸參す可し者り。

またさだつな ふ      おんしょを しぶやのしょうじしげくに つか され   これ すなは たの おぼ  めさる  のおもむきなり
又定綱に付して、御書於 澁谷庄司重國に 遣は被る。是 則ち恃み思し食被る之 趣 也。

現代語治承四年(1180)八月小十三日癸巳。定綱は「明日の朝に戻ります。」と云いました。頼朝様はこれを止めましたが「鎧兜を用意した上で来ます。」と云って暇を貰いました。頼朝様は「兼隆を討って正義の挙兵の初めにしたいので、十六日に必ず戻って来るよう。」に云いました。又、定綱に託して手紙を渋谷重国に渡しました。これは頼りにしているからとの内容です。

治承四年(1180)八月小十六日丙申。自昨日雨降。終日不休止。爲明日合戰無爲。被始行御祈祷。住吉小大夫昌長奉仕天曹地府祭。武衛自取御鏡。授昌長給云々。永江藏人頼隆勤一千度御祓云々。」
佐々木兄弟今日可參着之由。被仰含之處不參兮。暮畢。弥無人數之間。明曉可被誅兼隆事。聊有御猶與。十八日者。自御幼稚之當初。奉安置正觀音像。被專放生事。歴多年也。今更難犯之。十九日者。露顯不可有其疑。而澁谷庄司重國。當時爲恩仕平家。佐々木与澁谷。亦同意者也。感一旦之志。無左右被仰含密事於彼輩之條。依今日不參。頻後悔。令勞御心中給云々。

読下し                 ひのえさる さくじつよ  あめふる しゅうじつきゅうし ず   あす  かっせん ぶい  ため
治承四年(1180)八月小十六日丙申。昨日自り雨降。終日休止せ不。明日の合戰無爲の爲、

 ごきとう   しぎょうさる   すみよしこだゆうまさなが  てんちゅうちふさい ほうし
御祈祷を始行被る。住吉小大夫昌長は天冑地府祭を奉仕す。

ぶえ みづか おんかがみ と  まさなが  さず  たま   うんぬん  ながえのくらんどよりたか いっせんど おはらい つと     うんぬん
武衛自ら 御鏡を 取り昌長に授け給ふと云々。 永江藏人頼隆は 一千度の御祓を勤めると云々。

 ささき きょうだい きょうさんちゃく べ   のよし  おお ふく  られ のところ さんぜずとくれおはんぬ
佐々木兄弟は今日參着す可し之由、仰せ含め被る之處。參不兮 暮 畢。

やや にんずう な のかん みょうぎょう かねたか ちゅうされ べ  こと  いささ  ごゆうよ あ
弥 人數無き之間@。明曉、 兼隆を誅被る可き事。聊か御猶預有り。

じうはちにちは  ごようち の とうしょよ  しょうかんのんぞう あんちたてまつ  もっぱ ほうじょうされ こと  たねん  へ  なり
十八日者 御幼稚之當初自り正觀音像を 安置 奉り、專ら放生 被る事、多年を歴る也。

いまさら これ  おか  がた   じゅうくにちは ろけん そ  うたが  あ べからず  しか  しぶやのしょうじしげくに  とうじへいけ  おんつか   な
今更、之を犯し難し。十九日者露顯其の疑い有る可不。而るに澁谷庄司重國、當時平家に恩仕えを爲す。

 ささき  と しぶや  またどういしゃなり いったんのこころざし かん  そう  な   みつじ を  か ともがら おお ふく  られ  のじょう
佐々木与澁谷 亦同意者也。一旦 之 志に 感じ左右無く密事於彼の輩に 仰せ含め被る之條、

 きょう   ふさん  よっ    しきり こうかい ごしんちゅう いたわ せし たま   うんぬん
今日の不參に依て、頻に後悔し御心中を勞ら令め給ふと云々。

参考@やや人数無きの間は、佐々木兄弟のほかに未だ来ていないのは誰であろう。

現代語治承四年(1180)八月小十六日丙申。昨日から雨が降っています。一日中止みません。明日の戦が無事で済みます様、お祈りを始めました。住吉昌長は戦神のお祈りをしました。頼朝様自ら鏡を手に取り昌長に渡しました。永江頼隆は千回拝むお祓いを勤めました。佐々木兄弟に今日着くように言い含めてあるのに来ないで日が暮れてしまいました。人数が足りないので明日の明け方山木兼隆を責めることに躊躇しました。十八日は子供の頃から観音像を祀って祈りに専念すること長年に渉るので、今更替えられせん。十九日になれば、世間に知れてしまうことは疑いありません。それなのに渋谷重国は現在平家に恩が有り仕えている。佐々木も渋谷と同じだ。一時の志に感じて、たやすく秘密の用意を彼等に言ってしまったが、今日来ないので後悔し、心を悩ましておられたのだとさ。

治承四年(1180)八月小十七日丁酉。快リ。三嶋社神事也。藤九郎盛長爲奉幣御使社參。無程歸參。〔神事以前也〕未尅。佐々木太郎定綱。同次郎經高。同三郎盛綱。同四郎高綱。兄弟四人參着。定綱。經高駕疲馬。盛綱。高綱歩行也。武衛召覽其躰。御感涙頻浮顏面給。依汝等遲參。不遂今曉合戰。遺恨萬端之由被仰。洪水之間不意遲留之旨。定綱等謝申之云々。戌尅。藤九郎盛長僮僕於釜殿。生虜兼隆雜色男。但依仰也。此男日來嫁殿内下女之間。夜々參入。而今夜勇士等群集殿中之儀。不相似先々之形勢。定加推量歟之由。依有御思慮如此云々。然間。非可期明日。各早向山木。可決雌雄。以今度合戰。可量生涯之吉凶之由被仰。亦合戰之際。先可放火。故欲覽其煙云々。士卒已競起。北條殿被申云。今日三嶋神事也。群參之輩下向之間。定滿衢歟。仍廻牛鍬大路者。爲往反者可被咎之間。可行蛭嶋融歟者。武衛被報仰曰。所思然也。但爲事之草創。難用閑路。將又於蛭嶋通者。騎馬之儀不可叶。只可爲大道者。又被副住吉小大夫昌長〔着腹巻〕於軍士。是依致御祈祷也。盛綱。景廉者。承可候宿直之由。留御座右。然後蕀木北行。到于肥田原。北條殿扣駕對定綱云。兼隆後見堤權守信遠在山木北方。勝勇士也。与兼隆同時不誅戮者。可有事煩歟。各兄弟者可襲信遠。可令付案内者云々。定綱等申領状云々。子尅。牛鍬東行。定綱兄弟留于信遠宅前田頭訖。定綱。高綱者。相具案内者〔北條殿雜色。字源藤太〕廻信遠宅後。經高者進於前庭。先發矢。是源家征平氏最前一箭也。于時明月及午。殆不異白晝。信遠郎從等見經高之競到射之。信遠亦取太刀。向坤方立逢之。經高弃弓取太刀。向艮相戰之間。兩方武勇掲焉爲。經高中矢。其刻定綱。高綱。自後面來加。討取信遠畢。北條殿以下進於兼隆館前天滿坂之邊。發矢石。而兼隆郎從多以爲拝三嶋社神事參詣。其後到留黄瀬川宿逍遥。然而所殘留之壯士等爭死挑戰。此間。定綱兄弟討信遠之後馳加之。爰武衛發軍兵之後。出御縁。令想合戰事給。又爲令見放火之煙。以御厩舎人江太新平次。雖令昇于樹之上。良久不能見煙之間。召爲宿直所被留置之加藤次景廉。佐々木三郎盛綱。堀藤次親家等。被仰云。速赴山木。可遂合戰云々。手自取長刀。賜景廉。討兼隆之首。可持參之旨。被仰含云々。仍各奔向於蛭嶋通之堤。三輩皆不及騎馬。盛綱。景廉任嚴命。入彼舘。獲兼隆首。郎從等同不免誅戮。放火於室屋。悉以燒失。既曉天。歸參士卒等群居庭上。武衛於縁覽兼隆主從之頚云々。

読下し                 ひのととり  かいせい  みしましゃ  しんじなり
治承四年(1180)八月小十七日丁酉。快リ。三嶋社@の神事也。

とうくろうもりなが ほうへい  おんし  な  やしろ まい  ほどな  きさん     〔しんじいぜんなり 〕
藤九郎盛長奉幣Aの御使と爲し社に參り程無く歸參す。〔神事以前也〕

み   こく  ささきのたろうさだつな  おな   じろうつねたか  おな   さぶろうもりつな  おな   しろうたかつな  きょうだい よにん さんちゃく
未の尅、佐々木太郎定綱、同じき次郎經高、同じき三郎盛綱、同じき四郎高綱、兄弟 四人 參着す。

さだつな つねたか  ひば    が     もりつな たかつな かち なり  ぶえい そ  てい  しょうらん   ごかんるい しきり  がんめん  うか  たま
定綱と經高は疲馬Bに駕し、盛綱と高綱は歩行也。武衛其の躰を召覧し、御感涙 頻に顏面に浮べ給ひ、

なんじら  ちさん  よっ    こんぎょう かっせん とげず  いこんばんたんのよしおお  らる
汝等の遲參に依て、今曉の合戰を遂不。遺恨萬端 之由仰せ被る。

こうずい のかん い     ず ちりゅうのむね さだつならこれ  しゃ  もう    うんぬん
洪水C之間、意なら不遲留之旨、定綱等之を謝し申すと云々。

いぬ  こく   とうくろうもりなが  どうぼく  かまどの おい   かねたか ぞうしきおこと いけど    ただ  おお    よっ  なり
戌の尅、藤九郎盛長の僮僕Dが釜殿に於て、兼隆の雜色E男を生虜る。但し仰せに依て也。

こ  おとこ  ひごろ でんない  げじょ  か     のかん よなよな さんにゅう
此の男、日來 殿内の下女に嫁する之間、夜々 參入す。

しか        こんや ゆうしでんちゅう ぐんしゅう   のぎ   さきざきのけいせい  あいに  ず
而れども、今夜勇士殿中に群集する之儀、先々之 形勢に相似は不。

さだ   すいりょう くわ    か のよし  おんしりょ あ     よっ    かく  ごと   うんぬん
定めし推量を加へる歟之由、御思慮有るに依て、此の如しと云々。

しか  かん  あす    ご   べ   あらず おのおの はや やまき むか  しゆう  けっ  べ
然る間、明日を期す可きに非。 各、 早く山木に向ひ雌雄を決す可し。

こ   たび かっせん もっ   しょうがいのきっきょう はか  べ   のよし  おお  らる
今の度の合戰を以て、生涯 之 吉凶を量る可し之由、仰せ被る。  

また かっせんのきわ ま   ほうか   べ   ことさ    そ  けむり み     ほっ   うんぬん  しそつすで  きそ  お
亦 合戰之際、先ず放火す可し、故らに其の煙を覧んと欲すと云々。士卒已に競い起きる。

ほうじょうどの もうされ  い       きょう   みしま   しんじなり  ぐんさんのともがら  げこうのかん  さだ   みち  み     か
 
北條殿、申被て云はく。今日は三嶋の神事也。群參之 輩、 下向之間、定めし衢に滿つる歟。

よっ  うしくわおおじ  めぐ  ば  おうはんしゃ ため   とが  られ べ   のかん  ひるしまどお    ゆ   べ  か てへ
仍て牛鍬大路を廻ら者、往反者の爲に、咎め被る可し之間、蛭嶋 融りを行く可き歟者り。

ぶえいほう  おお  られ  いは   おも ところ しか なり   ただ  ことのそうそう   ため  かんろ  もち がた
武衛報じ仰せ被て曰く、思う所は然り也。但し事之草創の爲、閑路を用い難し。

はたまた ひるしまどお   おい  は きば の ぎ かな べからず ただ だいどうたるべ  てへ
 
將又 蛭嶋通りに於て者騎馬之儀叶う不可。只、大道爲可し者り。

また すみよしこだゆうまさなが 〔 はらまき  つ    〕  を ぐんし   そ   られ   これ ごきとう  いた    よっ なり
又、住吉小大夫昌長〔腹巻Fを着ける〕於軍士に副え被る。是御祈祷を致すに依て也。

もりつな かげかどは とのい そうら べ  のよしうけたま     おんざう   とど
盛綱、景廉者宿直に候う可し之由 承わり、御座右に留まる。

しか のち  いばらき   きた  ゆ     ひたはら  に いた    ほうじょうどの が  ひか     さだつな  たい    い
然る後、蕀木Gを北へ行き、肥田原H于到る。 北條殿 駕を扣へて、定綱に對して云はく。

かねたか こうけん つつみごんのかみのぶとお やまき ほっぽう   あ    すぐ    ゆうしなり  かねたかと どうじ  ちゅうりく ず  ば   こと わずら あ   べ   か
兼隆の後見の 堤權守信遠は、 山木の北方に在り。勝れた勇士也。兼隆与同時に誅戮せ不ん者、事の煩い有る可き歟。

おのおのきょうだいは のぶとお おそ べ     あないじゃ  つ  せし  べ    うんぬん さだつなら  りょうじょう もう    うんぬん
 各、兄弟者、信遠を襲う可し。案内者を付け令む可しと云々。定綱等、領状を申すと云々。

ね   こく  うしくわ ひがし ゆ    さだつなきょうだい  のぶとお たくまえ たがしらに とど   おはんぬ
子の尅、牛鍬を東へ行き。定綱兄弟は、信遠の宅前の田頭于 留まり訖。

さだつな たかつなは  あないじゃ 〔ほうじょうどの ぞうしき  あざ  げんとうた〕    あいぐ    のぶとお たく  うしろ まわ
定綱、高綱者、案内者〔北條殿の雜色で字は源藤太〕を相具し、信遠の宅の後へ廻る。

つねたかは まえにわを すす  ま  や  はな    これげんけ  へいし  せい    さいぜん いっせんなり
經高者、前庭 於進み先ず矢を發つ。是源家の平氏を征する最前の一箭也。

ときに めいげつ うま およ    ほと   はくちゅう ことな ず  のぶとお ろうじゅうら つねたかの きそ いた   み    これ  い
時于 明月 午に及び、殆んど白晝に異ら不、信遠の郎從等 經高之 競い到るを見て、之を射る。

のぶとおまた  たち  と    ひつじさる ほう むか      これ  た   あ
信遠 亦、太刀を取り、坤の 方に向ひて、之に立ち逢う。

つねたか ゆみ  す     たち   と  うしとら むか   あいたたか のかん りょうほう ぶゆう けちえんなり
經高は弓を弃て、太刀を取り艮に向い、相戰う之 間、兩方の武勇掲焉 也。

つねたか や  あた    そ  とき  さだつな たかつな こうめんよ  きた  くわ     のぶとお  う   と  おはんぬ
 經高 矢に中る。其の刻、定綱、高綱 後面自り來り加わり、信遠を討ち取り畢。

ほうじょうどのいげ  かねたか やかた まえ てんまんざかの へん おい  すす   やせき  はな
北條殿 以下、兼隆の舘の前の天滿坂之 邊に於て進み、矢石を發つ。

しか     かねたか ろうじゅう おお  もっ  みしましゃ  しんじ   おが   ため  もうで    そ   ご   きせがわじゅく  とうりゅう しょうよう
而るに、兼隆の郎從は多く以て三嶋社の神事を拝まん爲に詣でる。其の後、黄瀬川宿に到留し逍遙す。

しかしながら ざんりゅう  ところのそうしら   し  あらそ   ちょうせん  かく かん  さだつなきょうだい のぶとお う       ののち  これ  は   くわ
 然而、 殘留する所之壯士等、死を爭いて挑戰す。此の間、定綱 兄弟は信遠を討ちとる之後。之に馳せ加わる。

ここ    ぶえい ぐんぴょう  はっ   ののち  ごえん  い       かっせん  こと  おも せし  たま
爰に、武衛は軍兵を發する之後、御縁に出でて、合戰の事を想は令め給ふ。

また  ほうかの けむり  みせし   ため  みんまや とねり えたしんへいじ  もっ    き の うえに のぼ  せし  いへど
又、放火之煙を見令めん爲、御厩の舎人江太新平次を以て、樹之上于昇ら令むと雖も、

よ く けむり み    あたはずのかん  とのい ため  これ  とど  お  れるところ かとうじかげかど  ささきのさぶろうもりつな  ほりのとうじちかいえら  め
良久煙を見るに能不之間。宿直の爲、之を留め置か被所の加藤次景廉、佐々木三郎盛綱、 堀藤次親家等を召し、

おお  られ    い     すみやか やまき おもむ  かっせん と    べ     うんぬん
仰せ被れて云はく。速に山木へ赴き、合戰を遂げる可しと云々。

て   よ  なががたな  と    かげかど たまわ   かねたかの くび う      じさん  べ   のむね  おお ふく  られ   うんぬん
手ず自り長刀Iを取り、景廉に賜り。兼隆之 首を討ち、持參す可し之旨、仰せ含め被ると云々。

よっ  おのおの ひるしまどお のつつみをはし むか   さんともがらみなきば  およ ず   もりつな  かげかど  げんめい まか   か  やかた はい
仍て、各、 蛭嶋通り之堤於奔り向う。 三輩 皆騎馬に及ば不。盛綱、景廉は嚴命に任せ、彼の舘に入り

かねたか くび  え    ろうじゅうら  おな   ちゅうりく まぬ    ず     ひ  はな   しつおくことごと  もっ  しょうしつ
兼隆の首を獲る。郎從等、同じく誅戮を免かれ不に、火を放つ、室屋 悉く 以て燒失す。

すで そら あかつき しそつら きさん   ていじょう  ぐんきょ   ぶえい えん おい  かねたか しゅじゅうのくび み     うんぬん
既に天は 曉。士卒等歸參し、庭上に群居す。武衛縁に於て、兼隆 主從之 頸を覧ると云々。

参考@三島社は、静岡県三島市大宮町2−1−5所在の三島大社
参考A奉幣
は、神に幣帛(へいはく)をささげること。幣帛は、榊(さかき)の枝に掛けて、神前にささげる麻や楮(こうぞ)で織った布。
参考B疲馬は、意味が良く解りませんが、あえて云うなら疲れているを「老馬」又は「やせ馬」と考えるべきか?
参考C洪水は、当時は殆ど大きな川には橋をかけることはありません。経済的理由が大きいと思います。又堤防なども殆ど手を付けていませんので、ちょっと大雨が降ると渡れません。
参考D童僕といっても必ずしも子供ではなく、恐らく職業的身分を表すようです。例えば絵巻では牛車の牛飼いは垂髪で白の水干を着て、子供のような格好をしているものの顔は拭けた大人顔です。
参考E雑色は、下男か奴婢のようですが、身分制度は複雑すぎてよく解りません。
参考F腹巻は、鎧の一種。右脇で合わせ草摺が八間(枚)で、大鎧に比べ、前立ても札板剥き出しで、その他は省略されています。大鎧は右脇で合わせ草ずりが前後左右の四間(枚)で前立てには模様の描かれた弦走革が貼られ、栴檀板や鳩尾板、袖、脇楯などが付属し騎馬武者用に造られており豪華である。胴丸は、室町時代半ばになお簡略されたもので、合わせ目が後ろにあり、合わせ目の隙間を庇う為その後ろからもう一枚重ねるが、これを「臆病板」と称し、余り着けなくなってゆきます。なお、腹巻と胴丸は江戸時代になると呼称が逆転してしまい、近藤好和さんの著書以外の本や博物館は、江戸時代の呼称で分けられているので反対だと思ってください。平成19年1月20日訂正
参考G蕀木は、静岡県伊豆の国市原木(ばらき)で旧韮山町原木(ばらき)。
参考H肥田原は、静岡県田方郡函南町肥田。
参考I長刀は、薙刀に似ているが、江戸時代の薙刀は刃渡りが一尺から二尺程度で柄が六尺近いのに比べ、鎌倉時代のは刃渡りが二尺以上の通常の刀と同様で、柄もせいざい三尺程度の柄の長い刀といった処。なお、似たものに室町時代以降流行した長巻があります。

現代語治承四年(1180)八月小十七日丁酉。快リ。三島神社の祭礼です。安達盛長は神に幣帛(へいはく)をささげる代理として出かけましたが、間も無く帰って来ました。〔神事が始まる前でした。〕

午後二時頃佐々木太郎定綱佐々木次郎經高佐々木三郎盛綱佐々木四郎高綱の兄弟四人が到着しました。定綱と經高は疲れた馬に乘り、盛綱、高綱は歩きです。頼朝様は四人を見て感激して涙を浮かべました。「お前達の遅刻で、今朝の戦が出来なかった。残念でならない。」と云いました。「洪水のため思いがけず遅れてしまいました。」と定綱達はお詫びを言いましたとさ。

午後の八時頃に安達盛長の童僕が炊事場で兼隆の雑色を捕らえました。頼朝様のいい付けでです。この雑色は普段北条屋敷の下女と婚姻していて毎夜通ってきています。しかし、今夜は侍達が集まっているので、普段と違うので何かを気付くといけないので、考えてこのようにしました。
そこで、明日にすべきでなく、皆早く山木へ行って戦をしなさい。今度の戦次第で今後の生涯が計られるのだと云われました。又、戦が始まったら火を付けなさい。その火を早く見たいものだと云うことでした。侍達はもう直ぐにでも奮い立っています。
北条時政殿が云われるのには「今日は三島神社の祭りなので、お参りの人たちが大勢くるので、さぞかし道に溢れているだろう。だから牛鍬大通りを回ると行き来する人達に疑われるので、蛭島通りを行った方が良いかも。」と云いました。
すると頼朝様が皆に言うのには「考える処はそうだと思う。だけれども新しい世に替える初めなので、裏道を遣うべきでない。それに侍は蛭島通りでは騎馬のまま行けないので、大通りを行くべきだ。」と云いました。又住吉昌長(腹巻を付ける)を一緒に生かせることにしました。これは戦を祈祷するためです。佐々木三郎盛綱と加藤次景廉は留守番をするよう云われ、頼朝様の傍に留まりました。

その後、兵隊たちは原木を北に進み、肥田原に到着しました。時政は馬を止めて定綱に云いました。「兼隆の後見役の堤権守信遠が山木の北方に居ます。優れた勇者なので、兼隆と一緒に殺して置かないと、後で面倒な事になるんじゃないか。佐々木兄弟は、堤信遠を攻めて下さい。案内人を付けましょう。」と云ったんだそうな。
定綱達は、「了承した。」と云ったそうな。夜中の12時頃に、牛鍬を東へ行き、定綱兄弟は、堤信遠の屋敷の門田の端に止りました。定綱と高綱は案内〔時政の雑用で名を源藤太〕と一緒に屋敷の後ろへまわり、経高は前から庭へ進んで鏑矢を打ち放ちました。これが源氏が平家を征伐してゆく真っ先の一番矢でした。
月が真上(真南)に来て、昼間と変わらない程の明るさです。堤信遠の侍達が、経高の襲ってくるのを見て、矢を射ました。信遠は太刀を取って、西南に向ってこれを迎え撃ちます。経高は弓を捨て、太刀を取って北東に向って戦って、双方共に武勇に優れている事は明白です。
経高が矢に当りました。その時、定綱と高綱が後ろから来て戦いに加わり、信遠を討ち取ってしまいました。

時政達は、兼隆の屋敷の前の天満坂あたりで矢石を放ちました。それなのに兼隆の部下達の多くは、三島神社のお祭りを見に参拝しております。その後、黄瀬川の宿に泊まって遊んでいます。しかし、残留した武士達は、死を恐れず先を争って戦いました。その間に定綱兄弟は、堤信遠を討った後、こちらの戦いに加わりました。

頼朝様は、兵を出発させた後、縁側に出て戦の事を考えていました。命令の火をつけた煙を見るために馬小屋の下男の江太新平次を木の上に昇らせましたが、良く煙は見えませんので、留守番の景廉と盛綱と親家を呼んで云いました。「直ぐに山木へ行き戦をしなさい。」とのこと。自ら長刀を取って景廉に渡し「兼隆の首を取って持って来るべし。」と言い含めました。
そこで皆は蛭島通りの堤防を走って行きましたが、三人とも馬に乗らずに行った。盛綱も景廉も命令どおり、兼隆の屋敷に入って兼隆の首を取りました。部下達も死を逃れられませんでした。火を建物に付けたので全て燃え尽きました。朝も明けました。戻ってきた侍達が庭に集まりました。頼朝様は縁側で兼隆と部下達の首を検査しましたとの事です。

治承四年(1180)八月小十八日戊戌。武衛年來之間不論淨不淨有毎日御勤行等。而自今以後。令交戰塲給之程。定可有不意御怠慢之由被歎仰。爰伊豆山有号法音之尼。是御臺所御經師。爲一生不犯之者云々。仍可被仰付日々御所作於件禪尼之旨。御臺所令申之給。即被遣目録。尼申領状云々。
 心經十九巻
 八幡 若宮 熱田 八釼 大筥根 能善 駒形 走湯權現 礼殿〔雷電〕 三嶋〔第三第二〕
 熊野權現 若王子 住吉 富士大菩薩 祗薗 天道 北斗 觀音〔各一巻。可法樂。云々。〕
 觀音經一巻 壽命經一巻 毘沙門經三巻 藥師咒廿一反 尊勝陀羅尼七反 毘沙門咒一百八反〔己上。爲御所願成就御子孫繁昌也。〕 阿弥陀佛名千百反〔一千反者。奉爲父祖頓證菩提。百反者。左兵衛尉藤原正C得道也。〕

読下し                つちのえいぬ ぶえいねんらいのかん じょうふじょう ろん ず  まいにちごかんぎょうら あ
治承四年(1180)八月小十八日戊戌。 武衛年來之間、浄不浄を論ぜ不、毎日 御勤行等 有り。

しか   いま よ  いご   せんじょう まじ    せし  たま  のほど  さだ    い    ず ごたいまん あ   べ   のよし  なげ おお  られ
而して今自り以後、戰塲に交わら令め給ふ之程、定めて意なら不御怠慢有る可し之由、歎き仰せ被る。

ここ いずさん  ごう   ほうねのあま あ    これみだいどころ ごきょうじ  な    いっしょうふぼんのもの うんぬん
爰伊豆山に号を法音之尼有り。是御臺所の御經師を爲す。一生不犯之者と云々。

よっ   ひび   ごしょさ を   くだん ぜんに  おお  つ  らる  べ  のむね  みだいどころ これ もう  せし たま
仍て日々の御所作於、件の禪尼に仰せ付け被る可し之旨、御臺所 之を申さ令め給ふ。

すなは  もくろく  つか  さる   あま  りょうじょう もう   うんぬん
即ち、目録を遣は被る。尼、領状を申すと云々。

しんぎょう  じうきゅうかん
心經 十九巻

はちまん わかみや あつた  やつるぎ  だいはこね のうぜん  こまがた  そうとうごんげん  れいでん〔らいでん〕  みしま 〔だいさんだいに〕
八幡@ 若宮A 熱田B 八釼C 大筥根D 能善 駒形E 走湯權現F 礼殿〔雷電〕G 三嶋〔第三第二〕

くまのごんげん わかおうじ  すみよし  ふじだいぼさつ   ぎおん  てんどう  ほくと   かんのん〔おのおのいっかん ほうがく べ うんぬん」 
熊野權現 若王子 住吉 富士大菩薩H 祇薗 天道 北斗I 觀音 〔各一巻 法楽す可しと云々〕

かんのんきょういっかん じゅみょうきょういっかん  びしゃもんきょうさんがん    やくしじゅふたじゅういったん    そんしょうだらにしちたん  びしゃもんじゅ
觀音經一巻   壽命經一巻   毘沙門經三巻   藥師咒 廿一反    尊勝陀羅尼七反 毘沙門咒

いっぴゃくはったん  〔いじょう  ごしょがん じょうじゅ ため ごしそんはんじょうなり〕
一百八反  〔已上、御所願成就の爲、御子孫繁昌也〕

あみだぶつみょう せんひゃくたん〔いっせんたんは   ふそ  とんしょう ぼだい   おんため  ひゃくたんは  さひょうえふじわらのまさきよ  とくどうなり〕
阿弥陀佛名 千百反 〔一千反者、父祖J頓證菩提の奉爲、百反者、左兵衛藤原正清の得道也〕

参考@八幡は、宇佐八幡宮。
参考A
若宮は、岩清水八幡宮。
参考B熱田は、熱田神宮。
参考C
八釼は、熱田神宮末社。
参考D大筥根は、箱根神社。
参考E
駒形は、箱根神社末社。箱根町芦川町駒形神社らしい。
参考F
走湯權現は、伊豆山神社。
参考G礼殿は、伊豆山末社。
参考H富士大菩薩は、富士市浅間神社。
参考I
北斗は、妙見信仰で千葉一族が有名。
参考J父祖は義朝、藤原正清は鎌田正清、二人は平治の乱の時、落ち延びる途中で長田庄司忠致に殺された。

現代語治承四年(1180)八月小十八日戊戌。頼朝様はずうーっと、良い日も悪い日も区別無く、毎日お祈りをしています。でも、今からは戦場に行くので、さぼらなければならないと嘆いています。伊豆山に法音とよばれる尼がいます。彼女は政子のお経の師匠です。生涯佛法を守り独身とのことです。だから、日々の祈ってきた方法をその尼に頼んだほうが良いと、政子がいいました。すぐに目録を出したら、尼は承知しました。

般若心経19巻
八幡 若宮 熱田 八釼 大筥根 能善 駒形 走湯權現 礼殿〔雷電〕 三嶋〔第三第二〕
熊野權現 若王子 住吉 富士大菩薩 祗薗 天道 北斗 觀音〔各一巻。法樂可しと云々。〕
百八反〔以上は、祈願の成就と子孫繁栄を祈るものです。〕阿弥陀仏の称名千百反〔千部は義朝の菩提を弔うため、百部は鎌田正清の供養のためです。〕

治承四年(1180)八月小十九日己亥。兼隆親戚史大夫知親。在當國蒲屋御厨。日者張行非法。令悩乱土民之間。可停止其儀之趣。武衛令加下知給。邦道爲奉行。是關東事施行之始也。
其状云。
  下 蒲屋御厨住民等所
   可早停止史大夫知親奉行事
 右。至干東國者。諸國一同庄公皆可爲御沙汰之旨。 親王宣旨状明鏡也者。住民等存其旨。可安堵者也。仍所仰。故以下。
    治承四年八月十九日
又此間。自土肥邊。參北條之勇士等。以走湯山。爲往還路。仍多見狼藉之由。彼山衆徒等參訴之間。武衛今日被遣御自筆御書。被宥仰之。世上属無爲之後。伊豆一所。相摸一所。可被奉寄荘園於當山。凡於關東。可奉輝權現御威光之趣被載之。因茲。衆徒等忽以慰憤者也。及晩。御臺所渡御于走湯山文陽房學淵之坊。邦道。昌長等候御共。世上落居之程。潜可令寄宿此所給云々。

読下し                  つちのとい  かねたか しんせき さかんたいふともちか とうごくかばやのみくりや あ
治承四年(1180)八月小十九日己亥。兼隆の親戚の史大夫知親は當國蒲屋御厨@に在り

ひごろ   ひほう  ちょうこう    どみん  のうらんせし  のかん   そ  ぎ   ちょうじ  べ のおもむき  ぶえい げち  くわ  せし  たま
日者、非法を張行し、土民を惱乱令む之間、其の儀を停止す可し之趣、武衛下知を加へ令め給ふ。

くにみちぶぎょう なす    これかんとう こと  しぎょうのはじ  なり
邦通奉行を爲す。是關東の事Aを施行之始め也。

そ  じょう  い
其の状に云はく

くだ    かばやのみくりやじゅうみんら ところ
下す 蒲屋御厨住民等の所

はや   しのたいふともちか ぶぎょう ちょうじ  べ     こと
早々と史大夫知親の奉行を停止す可きの事
参考史大夫とは、大史で、特に五位に下に叙せられた者。

みぎ  とうごくにいた  ば   しょこくいちどうしょうこうみな  おんさた  な  べ   のむね  しんのうせんじじょう めいきょうならば
右、東國于至ら者、諸國一同庄公皆、御沙汰を爲す可し之旨、親王宣旨状に明鏡也者

じゅうみんら  そ  むね  ぞん    あんど  べ  ものなり   よっ    おお  ところ ゆえ  もっ  くだ
住民等、其の旨を存じ、安堵す可き者也。仍て、仰せる所の故を以て下す

じしょうよねんはちがつじうくにち
治承四年八月十九日

また こ  かん  といのへんよ  ほうじょう  まい  の ゆうしら   そうとうさん  もっ    おうかん  みち  な     よっ    おお  ろうぜき  あらは のよし
又此の間、土肥邊自り北條へ參る之勇士等。走湯山Bを以て、往還の路と爲す。仍て、多く狼藉を見す之由、

か  やま   しゅうとら さんそのかん   ぶえい  きょうおんじひつ   おんしょ つか され  これ なだ  おお られ  せじょう むい   ぞく  ののち
彼の山の衆徒等參訴之間。武衛、今日御自筆の御書を遣は被、之を宥め仰せ被、世上無爲に属す之後、

いずいっしょ   さがみいっしょ  しょうえんをとうさん  よ  たてまつらる べ
伊豆一所C、相摸一所D、庄園於當山に寄せ奉被る可し。

およ  かんとう  おい   ごんげん  ごいこう  かだや たてまつ べ のおもむき これ  の  らる   これ  よっ    しゅうとらたちま  もっ いかり なぐさ ものなり
凡そ關東に於て、權現の御威光を輝き奉る可し之趣、之を載せ被る。茲に因て、衆徒等忽ち以て憤を慰む者也

ばん  およ  みだいどころ  そうとうさんもんようぼうかくえんの ぼうに とぎょ    くにみち  まさながら おんとも そうら
晩に及び、御臺所、走湯山文陽房覺淵之坊于渡御す。邦通、昌長等御共に候う。

せじょう  らっきょのほど  ひそか こ  ところ きしゅくせし  たま  べ     うんぬん
世上、落居之程、潜に此の所に寄宿令め給ふ可しと云々。

参考@蒲屋御厨は、下田市田中の蒲神社。
参考A関東の事とは、今までは東国武士は身分も低く、税を納めるだけの非支配層にすぎなかった。それが頼朝時代には一種の独立国的要素を含み、承久の乱以降は全国に支配が及び、公家側の力は衰退して行き、これが書かれた時代には得宗専制も進み、完全に関東が全国を支配していた。そこで関東施行の初めと表現していると思う。
参考B
走湯山は、今の熱海市の伊豆山権現とも云った伊豆山神社。参考箱根と伊豆山の兩権現は、この時代は、その威光は信ずるものが多かった。箱根権現は、今の元箱根の芦ノ湖の湖畔にある箱根神社で、万巻上人が道場を開いたと云われ、その木像が安置されているが、関東で一番古い木像と云われる。
参考C伊豆一所は、後に馬宮荘を、現在の函南町間宮。
参考D相摸一所は、長墓郷を、現在の小田原市長塚。寄進している。

現代語治承四年(1180)八月小十九日己亥。山木兼隆の親戚の史大夫知親が蒲の御厨にいます。普段から非法に権力を振るい農民を困らしているので、それを止めるように頼朝様は命令を出しました。邦通が担当奉行をしました。これは関東のことを扱い支配した最初の事です。

その文章の内容は

蒲の御厨の住民達に知らせる
史大夫知親の支配を止める事
関東では、どの国も全て庄園も国衙の区別無く頼朝様が命令を出すことが以仁王の宣旨にはっきりかいてある
住民達は安心しなさい。頼朝様の命令に従ってこれを聞いて書き下します。治承4年8月19日

また、この戦騒ぎで、湯河原あたりから北条にくる侍達が、熱海の走湯山伊豆山神社の境内地(庄園地)を通り道にしている連中が作物を奪うなどの狼藉が多いと、その寺の武者僧達が訴えに来ました。頼朝様は、今日自筆の文書(下文・くだしぶみ)を持って行かして宥めてあげました。世の中が落ち着いたら(自分が政権を取ったら)伊豆で一箇所、相模で一箇所、庄園をこの寺に寄付いたします。関東においては、この権現のご威光は輝いております。と云う事を書き添えました。これによって武者僧達の怒りもたちまちに慰められました。

夜になって、北条政子は伊豆山権現の文陽房覚淵の房舎屋に行きました。邦通と昌長をお供につけて、世の中が落ち着くまでここに隠れ住んでいるのが良いとのことだとさ。

治承四年(1180)八月小廿日庚子。三浦介義明一族已下。兼日雖有進奉輩。于今遲參。是A或隔海路兮凌風波。或僻遠路兮泥艱難B之故也。仍武衛先相率伊豆相摸兩國御家人許。出伊豆國。令赴于相摸國土肥郷給也。扈從輩。
 北條四郎      子息三郎      同四郎       平六時定
 藤九郎盛長     工藤介茂光     子息五郎親光    宇佐美三郎助茂
 土肥次郎實平    同弥太郎遠平    土屋三郎宗遠    同次郎義C
 同弥次郎忠光    岡崎四郎義實    同余一義忠     佐々木太郎定綱
 同次郎經高     同三郎盛綱     同四郎高綱     天野藤内遠景
 同六郎政景     宇佐美平太政光   同平次實政     大庭平太景義
 豊田五郎景俊    新田四郎忠常    加藤五景員     同藤太光員
 同藤次景廉     堀藤次親家     同平四郎助政    天野平内光家
 中村太郎景平    同次郎盛平     鮫島四郎宗家    七郎武者宣親
 大見平次家秀    近藤七國平     平佐古太郎爲重   那古谷橘次頼時
 澤六郎宗家     義勝房成尋     中四郎惟重     中八惟平
 新藤次俊長     小中太光家
是皆將之所恃也。各受命忘家忘親云々。

読下し                   かのえね  みうらのすけよしあきいちぞくいか けんじつ すす たてまつ やからあ   いへど いまにちさん
治承四年(1180)八月小廿日庚子。三浦介義明一族@已下、兼日、進め奉るの輩有りと雖も今于遲參す。

これ  ある    かいろ  へだ  て  ふうは    しの   ある    えんろ  さ  て    かんなん なず のゆえなり
是、或いは海路を隔て兮、風波を凌ぐ。或いは遠路を僻け兮、艱難に泥む之故也。

よっ ぶえい ま     いず  さがみりょうごく  ごけにん ばか   あいひき    いずのくに  い    さがみのくにといごう に おもむ せし たま  なり  こじゅう  やから
仍て武衛先ず、伊豆相摸兩國の御家人許りを相率い、伊豆國を出で、相摸國土肥郷于赴か令め給ふ也。扈從の輩は

ほうじょうのしろう          しそくさぶろう           おな   しろう          へいろくときさだ
北條四郎     子息三郎     同じき四郎    平六時定A

とうくろうもりなが          くどうのすけもちみつ       しそくごろうちかみつ       うさみのさぶろうすけもち
藤九郎盛長    工藤介茂光B    子息五郎親光   宇佐美三郎助茂C

といのじろうさねひら       おな   いやたろうとおひら  つちやのさぶろうむねとお    おな   じろうよしきよ
土肥次郎實平   同じき弥太郎遠平 土屋三郎宗遠E   同じき次郎義清

おな  いやたろうただみつ  おかざきのしろうよしざね     おな   よいちよしただ     ささきのたろうさだつな
同じき弥太郎忠光 岡崎四郎義實   同じき余一義忠  佐々木太郎定綱E

おな    じろうつねたか   おな   さぶろうもりつな    おな   しろうたかつな     あまののとうないとおかげ
同じき次郎經高  同じき三郎盛綱  同じき四郎高綱  天野藤内遠景F

おな    ろくろうまさかげ   うさみのへいたまさみつ     おな   へいじさねまさ     おおばのへいたかげよし
同じき六郎政景  宇佐美平太正光  同じき平次實政  大庭平太景義

とよたのごろうかげとし      にたんのしろうただつね      かとうごかげかず         おな   とうたみつかず
豊田五郎景俊G   新田四郎忠常H   加藤五景員    同じき藤太光員

おな    とうじかげかど    ほりのとうじちかいえ       おな   へいしろうすけまさ   あまののへいないみついえ
同じき藤次景廉  堀藤次親家    同じき平四郎助政 天野平内光家

なかむらのたろうかげひら    おな    じろうもりひら     さめじましろうむねいえ      しちろうむしゃのぶちか
中村太郎景平I   同じき次郎盛平  鮫島四郎宗家J   七郎武者宣親

おおみのへいじいえひで    こんどうしちくにひら       ひらさこのたろうためしげ     なごやのきつじよりとき
大見平次家秀K   近藤七國平    平佐古太郎爲重L  那古谷橘次頼時M

さわのろくろうむねいえ      ぎしょうぼうじょうじん       なかのしろうこれしげ       ちゅうはちこれひら
澤六郎宗家N    義勝房成尋O    中P四郎惟重    中八惟平

しんとうじとしなが         こちゅうたみついえ
新藤次俊長Q    小中太光家R

これみなしょうのたの ところなり おのおの めい う   いえ  わす   おや  わす    うんぬん
是皆將之恃む所也。各、命を受け、家を忘れ、親を忘れると云々。

A或隔海路兮凌風波。或僻遠路兮泥艱難からBは、対句。
参考@三浦一族は、頼朝との以前からの約束にあわせて、海上を舟で駆けつける予定でしたが、折からの台風の為陸路を使わざるを得なくなりましたが、暴風のため思うように進めませんでした。
参考A平六時定北條時政の本家の従兄弟とする説(奥富敬之氏)と時政の弟とする説(野口実氏)がある。
参考B工藤介茂光は、大島へ流された鎮西八郎為朝にさんざん悩ませられる。この介は伊豆の国全体を把握する介で大島などの諸島も含んでいると思われる。
参考C宇佐美は、伊豆の宇佐美、工藤と同族。
参考D土屋は、平塚市。義清は岡崎四郎義實の息子で土屋の婿養子。
参考E佐々木は、近江村上源氏。
参考F天野は、伊豆長岡町天野(現静岡県伊豆の国市天野)。政景は遠景の孫。
参考G豊田五郎景俊は、平塚市豊田で大庭の一族。
参考H新田四郎忠常は、伊豆国仁田郷なので、仁田とも書き「にたん」と読み、静岡県田方郡函南町仁田函南小学校そばに墓あり。
参考I中村は、神奈川県足柄上郡中井町(中井は中村と井口村が合併)。
参考J鮫島は、駿河國鮫島郷、現在の富士市鮫島。
参考
K大見家秀は、遠江国大見、浜松市大見。
参考L平佐古は、横須賀市平作。
参考
M那古谷は、
静岡県伊豆の国市奈古谷(旧田方郡韮山町奈古谷)で文覚上人が配流された所。
参考Nは、伊豆田方郡佐婆郷、現在の三島市大場。
参考
O義勝房成尋は、横山党八王子。
参考
Pは、中原。
参考Q新藤次俊長は、藤井で鎌田正清の息子。
参考R小中太は、中原の小太郎。

現代語治承四年(1180)八月小廿日庚子。三浦義明の一族は、前々からの約束に基づき、頼朝様の味方に進んで来るはずの者達が遅れて来ていません。有る場合は海が両者を隔てているので、嵐の波風を乗り越えようかとも思い。それで遠回りの道を避けて大変苦労して進まなかったからです。それで仕方なく頼朝様は、伊豆と相模の部下達だけを連れて伊豆国から相摸の土肥郷へ向って進みました。従っている人たちは、

北条四郎時政   子息北条三郎宗時 同じき四郎義時  平六北条時定
安達藤九郎盛長  工藤介茂光    子息五郎工藤親光 宇佐美三郎助茂
土肥次郎実平   同じき弥太郎遠平 土屋三郎宗遠   同じき次郎義清
同じき弥太郎忠光 岡崎四郎義実   同じき余一義忠  佐々木太郎定綱
同じき次郎経高  同じき三郎盛綱  同じき四郎高綱  天野藤内遠景
同じき六郎政景  宇佐美平太正光  同じき平次実政  大庭平太景義
豊田五郎景俊   新田四郎忠常   加藤五景員    同じき藤太光員
同じき藤次景廉  堀藤次親家    同じき平四郎助政 天野平内光家
中村太郎景平   同じき次郎盛平  鮫島四郎宗家   七郎武者宣親
大見平次家秀   近藤七国平    平佐古太郎為重  那古谷橘次頼時
沢六郎宗家    義勝房成尋    中四郎惟重    中八惟平
新藤次俊長    小中太光家

この人達は皆、頼朝様が頼りにしている人達です。皆命令を重んじて家のことも親のことも忘れて戦う所存です。

治承四年(1180)八月小廿二日壬寅。三浦次郎義澄。同十郎義連。大多和三郎義久。子息義成。和田太郎義盛。同次郎義茂。同三郎義實。多々良三郎重春。同四郎明宗。筑井次郎義行以下。相率數輩精兵。出三浦參向云々。

読下し                 つちのととら  みうらのじろうよしずみ  おな  じゅうろうよしつら おおたわのさぶろうよしひさ しそくよしなり
治承四年(1180)八月小廿二日壬寅。三浦次郎義澄@、同じき十郎義連、太多和A三郎義久、子息義成

わだのたろうよしもり    おな   じろうよしもち   おな  さぶろうよしざね   たたらのさぶろうしげはる  おな   しろうあきむね  つくいのじろうよしゆき いげ
和田B太郎義盛、同じき次郎義茂、同じき三郎義實、多々良C三郎重春、同じき四郎明宗、筑井D次郎義行以下

すうやから せいへい あいひき   みうら   い    さんこう    うんぬん
數輩の精兵を相率い、三浦を出でて參向すと云々。

参考@義澄は、大介義明の次男ながら総領で衣笠が本領。
参考A太多和は、横須賀市大田和。
参考B和田は、義明長男杉本太郎義宗の長男で三浦市初声町和田。
参考C
多々良は、現在の横須賀市鴨居四丁目観音崎。
参考D筑井は、横須賀市津久井。

現代語治承四年(1180)八月小廿二日壬寅。三浦一族の三浦次郎義澄、同十郎義連、太多和三郎義久、息子の義成和田太郎義盛、同次郎義茂、同三郎義実、多々良三郎重春、同四郎明宗、筑井次郎義行以下が沢山の立派な武将を率いて三浦を出発し、頼朝様の元に向かったんだとさ。

治承四年(1180)八月小廿三日癸卯。陰。入夜甚雨如沃。今日寅尅。武衛相率北條殿父子。盛長。茂光。實平以下三百騎。陣于相摸國石橋山給。此間以件令旨。被付御旗横上。中四郎惟重持之。又頼隆付白幤於上箭。候御後。爰同國住人大庭三郎景親。俣野五郎景久。河村三郎義秀。澁谷庄司重國。糟屋權守盛久。海老名源三季貞。曾我太郎助信。瀧口三郎經俊。毛利太郎景行。長尾新五爲宗。同新六定景。原宗三郎景房。同四郎義行。并熊谷次郎直實以下平家被官之輩。率三千餘騎精兵。同在石橋邊。兩陣之際隔一谷也。景親士卒之中。飯田五郎家義。依奉通志於武衛。雖擬馳參。景親從軍列道路之間。不意在彼陣。亦伊東二郎祐親法師率三百餘騎。宿于武衛陣之後山兮。欲奉襲之。三浦輩者。依及晩天。宿丸子河邊。遣郎從等。燒失景親之黨類家屋。其煙聳半天。景親等遥見之。知三浦輩所爲之由訖。相議云。今日已雖臨黄昏。可遂合戰。期明日者。三浦衆馳加。定難喪敗歟之由。群議事訖。數千強兵襲攻武衛之陣。而計源家從兵。雖難比彼大軍。皆依重舊好。只乞効死。然間。佐那田余一義忠。并武藤三郎。及郎從豊三家康等殞命。景親弥乘勝。至曉天。武衛令逃于椙山之中給。于時疾風惱心。暴雨勞身。景親奉追之。發矢石之處。家義乍相交景親陣中。爲奉遁武衛。引分我衆六騎。戰于景親。以此隙令入椙山給云々。

読下し                 みずのとう  くも     よ   い    はなは あめ  そそ   ごと
治承四年(1180)八月小廿三日癸卯。陰り。夜に入り、甚だ雨、沃ぐが如し。 

きょう とら  こく   ぶえい  ほうじょうふし  もりなが  もちみつ  さねひらいげ  さんびゃくき あいひき  さがみのくにいしばしやまにじん たま
今日寅の尅、武衛、北條父子、盛長、茂光、實平以下、三百騎を相率い相摸國石橋山@于陣し給ふ。

こ   かん  くだん りょうじ  もっ    みはた  よこがみ  つ  られ    なかのしろうこれしげこれ も    またよりたか  はくへいを うわや  つ    おんうしろ そうら
此の間、件の令旨を以て、御旗の横上に付け被る。中四郎惟重之を持つ。又頼隆は白幣於上箭Aに付け、御後に候う。

ここ どうこくじゅうにん おおばのさぶろうかげちか またののごろうかげひさ  かわむらのさぶろうよしひで  しぶやのしょうじしげくに
爰に同國住人、大庭三郎景親、俣野B五郎景久、河村三郎義秀C、澁谷D庄司重國、

かすやのごんのかみもりひさ えびなのげんざすえさだ そがのたろうすけのぶ たきぐちのさぶろうつねとし もりのたろうかげゆき
糟屋E權守盛久、海老名F源三季貞、曾我G太郎助信、瀧口三郎經俊、毛利H太郎景行、
ながおのしんごためむね おな  しんろくさだかげ  はらのむねさぶろうかげふさ おな しろうよしゆき  なら     くまがいのじろうさおざね いげ 

長尾I新五爲宗、同じき新六定景、原J宗三郎景房、同じき四郎義行、并びに、熊谷K次郎直實以下、

へいけひかんのやから  さんぜんよき  せいへい ひき    おな    いしばしへん  あ    りょうじんのきわ いちたに へだ なり
平家被官之輩、三千餘騎の精兵を率い、同じく石橋邊に在り。兩陣之際、一谷を隔つ也。

かげちかしそつのなか  いいだのごろういえよし こころざしをぶえい つう たてまつ よっ    は  さん       ぎ    いへど
景親士卒之中、飯田五郎家義、志於武衛に通じ奉るに依て、馳せ參ぜんと擬すと雖も、

かげちか じゅうぐん どうろ   れっ    のかん  い     ず   か   じん  あ
景親の從軍が道路に列する之間、意なら不、彼の陣に在り。

また  いとうのじろうすけちかほっし  さんびゃくよき  ひき  ぶえい  じんのうしろやまに しゅく て  これ  おそ たてまつ    ほっ
亦、伊東M次郎祐親法師、三百餘騎を率い武衛の陣之後山于宿し兮、之を襲い奉らんと欲す。

みうら  やからは  ばんてん  およ   よっ    まりこがわへん  しゅく   ろうじゅうら  つか    かげちかの とうるい  かおく  しょうしつ
三浦の輩N、晩天に及ぶに依て、丸子河邊に宿し、郎從等を遣はし、景親之黨類の家屋を燒失す。

そ  けむりはんてん そび   かげちから  はるか これ  み    みうら やから  しわざのよし   し   おは
其の煙半天に聳ゆ。景親等、遙に之を見て、三浦の輩の所爲之由を知り訖んぬ。

あいぎ     い       きょうすで  たそがれ のぞ   いへど  かっせん  と    べ     あす  ご   ば   みうら  しゅう は   くわ
相議して云はく。今日已に黄昏に臨むと雖も合戰を遂げる可し。明日を期さ者、三浦の衆も馳せ加はり

さだ        もはい   がた     か のよし   ぐんぎことおわ    すうせん  きょうへい   ぶえいの じん  おそ  せ
定めて喪敗し難からん歟之由。群議事訖り。數千の強兵は、武衛之陣を襲い攻める。

しか      げんけ  じゅうへい かぞ        か  たいぐん  くら  がた   いへど   みなきゅうこう  おも       よっ    ただ し  いた      こ
而して、源家の從兵を計へるに、彼の大軍に比べ難しと雖も、皆舊好を重んずるに依て、只死を効さんと乞ふ。

しか  かん  さなだのよいちよしただなら    むとうのさぶろうおよ ろうじゅうぶんざいえやすらいのち おと
然る間。佐那田余一義忠O并びに武藤三郎及び郎從豊三家康等命を殞す。

かげちかややかち じょう  ぎょうてん いた    ぶえいすぎやまのなかに のが  せし  たま    ときに しっぷうこころ なや    ぼうう み  いたは
景親弥勝に乘じ、曉天に至る。武衛椙山之中于逃れ令め給ふ。時于疾風心を惱まし、暴雨身を勞る。

かげちかこれ お たてまつ  やせき  はな のところ  いえよしかげちか じんちゅう あいまじ なが    ぶえい  のが たてまつ  ため
景親之を追い奉り、矢石を發つ之處。家義景親の陣中に相交り乍ら、武衛を遁し奉らん爲、

わがしゅうろっき  ひ  わ  かげちかにたたか   こ   すき  もっ    すぎやま  い  せし  たま   うんぬん
我衆六騎を引き分け景親于戰う。此の隙を以て、椙山に入り令め給ふと云々。

参考@石橋山は、小田原市石橋。
参考A上箭は、箙には戦闘用の征矢(そや)を24本と鏑矢(蟇目とも云う)を2本刺しているが、鏑矢は鏑の分矢が長いので上箭と云う。
参考B俣野は、戸塚区東俣野&藤沢市西俣野。
参考C
河村三郎義秀は、波多野一族のうち神奈川県足柄上郡山北町。JR御殿場線山北駅南に河村城址有り。
参考D渋谷は、小田急江ノ島線「高座渋谷駅」東北に城山の地名有り。後に綾瀬市早川に移り城跡有り。
参考E
糟屋は、伊勢原市上粕屋。
参考F
海老名は、海老名市海老名駅西方河原口に伝屋敷跡有り。
参考G
曾我は、小田原市上下曽我御殿場線下曽我駅(梅林で有名)。
参考H
毛利は、相摸國毛利庄で現厚木市毛利台。
参考I
長尾は、横浜市栄区長尾台町JR大船駅北側岡の上。
参考J
は、武蔵國原郷で現川崎市幸区原町。
参考K熊谷は、埼玉県熊谷市。
参考L
飯田は、横浜市泉区上下飯田。
参考M伊東は、工藤の一族だが伊豆の東なので伊東。
参考N三浦の一族は頼朝との以前からの約束にあわせて、海上を舟で駆けつける予定でしたが、折からの台風の為陸路を使わざるを得なくなりました。しかし丸子河(今の酒匂川)まで来たのですが増水のため渡河できず、上記の仕儀と相成った訳です。
参考O佐那田は平塚市真田で岡崎四郎義實の子。余一は与一とも書き十に余る一なので十一男をさす。与太郎とは云わない。

現代語治承四年(1180)八月小廿三日癸卯。陰り。夜になって大雨、水を浴びるようだ。きょうの午前4時頃、頼朝様は北条親子や安達、工藤、土肥など三百騎で相模石橋山に陣を置きました。この間にあの令旨を旗に括り付け、中四郎惟重がこれを持ちました。又永江藏人頼隆は白幣を箙の鏑矢に付けました。
同じ相模の国に領地のある大庭三郎景親、弟俣野五郎景久、河村三郎義秀、渋谷庄司重国、糟屋権守盛久、海老名源三季貞、曾我太郎祐信、首藤滝口三郎経俊、毛利(森カ)太郎景行、長尾新五為宗、同新六定景、原宗三郎景房、同四郎義行それに熊谷次郎直実を始めとする平家に仕えている武士達が三千騎もの兵隊を率いて石橋山に陣を敷いた。頼朝様と彼等の陣とは谷を一つ隔てるだけです。
景親の兵隊の中にいる、飯田家義は頼朝様に志をもっているので、頼朝様の所に駆けつけようとしたけれども、景親の軍隊が道路に溢れているので、思うようにいかず、景親の軍にまざっています。
伊東祐親は、三百騎の軍隊を率いて、頼朝様の後の山に陣取り、頼朝様を襲おうとしています。

三浦の軍隊は、夜になって酒匂川の向こう岸に到着し、兵隊達を行かして景親の仲間の家屋を焼かせました。その煙が空に昇るのを、景親達は見て、三浦の軍隊の仕業だとわかりました。

景親が皆に相談して云うには、いま黄昏になるけど、戦をするべきだ。もし明日にすれば三浦の兵が走って加わり、簡単に勝利がおぼつかなくなる。と会議を終えて、数千の強兵が頼朝様の陣に攻めかかりました。源氏の兵隊の数はあの大群に比べ様も有りませんが、皆昔からの忠誠を重んじて死を臨んでいる位です。それなので、佐那田義忠と武藤三郎、それに部下の豊三家康が命を落としました。
景親側が優勢のうちに明け方になって、頼朝様は杉山に逃げましたが、風が心を悩ませ、暴風雨が体をさいなみます。景親はこれを追いかけて矢や石を撃ってきます。飯田五郎家義は景親の陣に混ざっていましたが、頼朝様を逃がすため六騎を分けて、景親と戦わせ、この間に頼朝様は杉山に入りました。

治承四年(1180)八月小廿四日甲辰。武衛陣于椙山内堀口邊給。大庭三郎景親相率三千餘騎重競走。武衛令逃後峯給。此間。加藤次景廉。大見平次實政。留于將之御後。防禦景親。而景廉父加藤五景員。實政兄大見平太政光。各依思子憐弟。不進前路。扣駕發矢。此外加藤太光員。佐々木四郎高綱。天野藤内遠景。同平内光家。堀藤次親家。同平四郎助政。同並轡攻戰。景員以下乘馬。多中矢斃死。武衛又廻駕。振百發百中之藝。被相戰及度々。其矢莫必不飮羽。所射殺之者多之。箭既窮之間。景廉取御駕之轡奉引深山之處。景親群兵近來于四五段際。仍高綱。遠景。々廉等。數反還合發矢。

読下し                 きのえたつ  ぶえいすぎやまない ほりくちへんに じん  たま
治承四年(1180)八月小廿四日甲辰。武衛椙山@内の堀口邊于陣し給ふ。

おおばのさぶろうかげちか  さんぜんよき   あいひき   かさ    きそ  はし   ぶえいうしろ みね  のが せし  たま
大庭三郎景親は、三千餘騎を相率いて重ねて競い走る。武衛後の峯に逃れ令め給ふ。

こ  かん  かとうじかげかど  おおみのへいじさねまさ  しょうのおんうしろにとど     かげちか ぼうぎょ
此の間、加藤次景廉、大見平次實政A、將之御後于留まり、景親を防禦す。

しか      かげかど ちち かとうごかげかず  さねまさ あにおおみのへいたまさみつ おのおの こ おも おとうと あわ     よっ
而して、景廉の父加藤五景員、實政の兄大見平太政光、 各、子を思い弟を憐れむに依て、

ぜんろ   すす ず   が   ひか   や   はな
前路に進ま不、駕を扣え、矢を發つ。

こ   ほか  かとうたみつかず   ささきのしろうたかつな   あまののとうないとおかげ おな へいないみついえ ほりのとうじちかいえ おな  へいしろうすけまさ
此の外、加藤太光員、佐々木四郎高綱、天野藤内遠景、同じき平内光家、堀藤次親家、同じき平四郎助政、

おな   くつわ なら  せ  たたか   かげかずいげ  じょうばおお  や  あた  たお  し
同じく轡を並べ攻め戰う。景員以下の乘馬多く矢に中り斃れ死ぬ。

ぶえい また が めぐら    ひゃっぱつひゃくちゅうのげい ふる あいたたかわれ  たびたび  およ    そ やかなら はぶくら の  ざる  な
武衛又駕を廻らし、百發百中之藝を振い、相戰被ること度々に及ぶ。其の矢必ず羽を飮ま不は莫し。

いころ  ところのものこれおお
射殺す所之者之多し。

や すで つき  のかん  かげかどおんがのくつわ と     しんざん ひ たてまつ のところ  かげちか ぐんぺい  しごだん  きわに ちか   きた
箭既に窮る之間、景廉御駕之轡を取り、深山に引き奉る之處、景親の群兵が四五段の際于近より來る。

よっ たかつなとおかげかげかどら すうたんかえ あわ  や  はな
仍て高綱遠景々廉等、數反還り合せ矢を發つ。

参考@椙山は、特に杉山と云う地名としてはない。
参考A八月廿日条では大見平次は家秀で3回出演、同日条で實政は宇佐美平次實政で出演。なのだが、次に大見平太政光も20日条には宇佐美平太政光と書かれている。大見は中伊豆で宇佐美は東伊豆。伊豆スカイラインを挟んで10km位の距離。

現代語治承四年(1180)八月小廿四日甲辰。頼朝様は杉山の堀内という辺りに陣取りました。景親は三千騎の兵隊を率いて同様に追いかけて来ます。そこで加藤次景廉と大見平次實政は頼朝様の後に留まって景親を防ぎました。景廉の父の景員や實政の兄の大見平太政光は それぞれ子を思い弟を思って前へ行かずに馬を止めて矢を射ました。
この他に加藤光員、佐々木高綱、天野遠景、天野光家、堀親家、堀助政も同様に馬を並べて戦ったので、乗馬に矢が当って沢山倒れ死にました。頼朝様も馬を振り返らせて、百発百中の弓の腕を見せ、何度も戦かいました。射る矢は羽まで突き通り沢山の人を殺しました。でも、矢がなくなってしまったので加藤次景廉が乗馬の轡を取って山奥に引いて行きましたが、景親の軍勢が
四五段(4・5反で、一反は6間なので、1.8m×6=10.8mなので40・50m)直ぐそばまで迫ってきました。そこで、高綱天野藤内遠景加藤次景廉も數反(一反は6間1.8m×6=10.8m)戻って相手に逢い矢を放ちました。

北條殿父子三人。亦与景親等。依令攻戰給。筋力漸疲兮。不能登峯嶺之間。不奉從武衛。爰景員。光員。景廉。祐茂。親家。實政等。申可候御共之由。北條殿。敢以不可然。早々可奉尋武衛之旨被命之間。各走攀登數町險阻之處。武衛者令立臥木之上給。實平候其傍。武衛令待悦此輩之參着給。實平云。各無爲參上。雖可喜之。令率人數給者。御隱居于此山。定難遂歟。於御一身者。縱渉旬月。實平加計畧。可奉隱云々。而此輩皆申可候御共之由。又有御許容之氣。實平重申云。今別離者。後大幸也。公私全命。廻計於外者。盍雪會稽之耻哉云々。依之皆分散。悲涙遮眼。行歩失道云々。

ほうじょうどのふしさんにん  またかげちからと せ たたか せし  たま   よっ
北條殿父子三人、亦景親等与攻め戰は令め給ふに依て、

きんりょくようや つか て  みねみね のぼ あたはずのかん  ぶえい したが たてまつ ず ここ   かげかず みつかず かげかど すけもち ちかいえ さねまさら
筋力漸く疲れ兮、峯嶺に登り能不之間、武衛に從い奉ら不。爰に、景員、光員、景廉、祐茂、親家、實政等、

おんとも  そうら べ   のよし  もう    ほうじょうどのあえ  もっ  しか べからず  そうそう  ぶえい  たず たてまつ べ  むね  めいぜら のかん
御共に候う可く之由を申す。北條殿敢て以て然る不可。早々に武衛を尋ね奉る可しの旨、命被る之間、

おのおの すうちょう けんそ はし よじ のぼ  のところ  ぶえいは ふしき のうえ  たたせし  たま   さねひら そ かたわら そうら
各、數町の險阻を走り攀り登る之處、武衛者臥木之上に立令め給ふ。實平は其の傍に候う。

ぶえい かく やからのさんちゃく よろこ   たの せし たま   さねひら い    おのおの むい  さんじょう  これ よろこ べ   いへど
武衛此の輩之參着を悦びて恃ま令め給ふ。實平云はく。各、無爲の參上、之を喜ぶ可しと雖も、

にんずう  ひ  せし  たま  ば  かく やま に ごいんきょ   さだ   と  がた か  ごいっしん  おい  は  たと  しゅんげつ  わた
人數を率か令め給は者、此の山于御隠居、定めて遂げ難き歟。御一身に於て者、縱い旬月に渉ろうと、

さねひら けいりゃく くわ    かく たてまつ べ    うんぬん  しか     かく  やからみなおんとも そうら べ  のよし  もう    また ごきょうようのけ  あ
實平、計畧を加へ、隱し奉る可しと云々。而して、此の輩皆御共に候う可し之由を申す。又御許容之氣有り。

さねひらかさ   もう     い      いま  べつり は  のち たいこうなり  こうしいのち  まっと   はか を ほか  めぐ   ば
實平重ねて申して云はく。今の別離者、後の大幸也。公私命を全うし計り於外に廻らさ者、

なん  かいけいのはじ そそ    や  うんぬん  これ よっ    みなぶんさん   ひるい め さえぎ   ぎょうほみち うしな   うんぬん
盍ぞ會稽之耻を雪がん哉と云々。之に依て、皆分散す。悲涙眼を遮り、行歩道を失うと云々。

参考B馬を射殺すのは当時の戦マナーに反する。乗馬者は徒歩を攻めても手柄にならない。徒歩は乗馬者を攻めれば手柄になる。徒歩に乗馬者が攻められたら逃げるしかない。

現代語時政、宗時、義時の三人は同様に景親と戦っていたが、疲れてしまい、峰まで登れないので、頼朝様に従っていけません。そばに加藤五景員・加藤太光員・加藤次景廉・宇佐美三郎祐茂・堀藤次親家・宇佐美平次實政が時政に御供して行きたいといいましたが、時政は「そうでない、早く頼朝様を捜して追いかけなさい。」と命じたので、彼らは数町の崖を攀じ登って行った所、頼朝様が倒れた木の上に立って、土肥次郎實平が一緒にいました。
頼朝様は皆の到着を喜んで頼もしく思いましたが、土肥次郎實平は皆が無事に集まったのは喜ぶべきであるが、この人数を連れてでは山の中に隠れているのが難しすぎる。頼朝様一人においては、たとえ十日一月に及んでも、實平が工夫をして隠しとおすからとの事でした。でも皆は御供をしたいといい、頼朝様もそう、したがっていますが実平が再度云うには、今ここで分かれることは先の大事なのだから皆命を大事にして他の策略を考えれば、恥は取り戻すことが出来るとの事でした。これを聞いて皆分散しましたが、涙がいっぱいで道も良く見えませんでしたとさ。

其後。家義奉尋御跡參上。所持參武衛御念珠也。是今曉合戰之時。令落于路頭給。日來持給之間。於狩倉邊。相摸國之輩多以奉見之御念珠也。仍周章給之處。家義求出之。御感及再三。而家義申可候御共之由。實平如先諌申之間。泣退去訖。又北條殿。同四郎主等者。經筥根湯坂。欲赴甲斐國。同三郎者。自土肥山降桑原。經平井郷之處。於早河邊。被圍于祐親法師軍兵。爲小平井名主紀六久重。被射取訖。茂光者。依行歩不進退自殺云々。將之陣与彼等之戰塲。隔山谷之間。無據于吮疵。哀慟千万云々。

 そ  ご  いえよしおんあと  たず たてまつ さんじょう  ぶえい  ごねんじゅ  じさん   ところなり
其の後、家義御跡を尋ね奉り參上す。武衛の御念珠を持參する所也。

これ こんぎょうかっせんのとき  ろとうに おとせし  たま
是、今曉合戰之時、路頭于落令め給ふ。

ひごろ も  たま  のかん  かりくらへん  おい さがみのくにのやからおお もつ みたてまつ のねんじゅなり
日來持ち給ふ之間 狩倉邊に於て相摸國之輩多く以て見奉る之念珠也。

よっ しゅうしょう たま  のところ  いえよしこれ  もと  い      ぎょかんさいさん  およ
仍て周章し給ふ之處、家義之を求め出だす。御感再三に及ぶ。

しか    いえよしおんとも  そうら べ  のよし  もう    
而して家義御共に候う可く之由を申す。

さねひらさき  ごと  かん  もう  のかん   な    たいきょ  おは
實平先の如く諫じ申す之間、泣いて退去し訖んぬ。

またほうじょうどの おな    しろうぬしらは   はこね  ゆさか   へ   かいのくに  おもむ     ほっ
又北條殿、同じき四郎主等者C筥根の湯坂Dを經て甲斐國に赴かんと欲す。

おな    さぶろうは  といやま よ   くわばら   お    ひらいごう   へ  のところ
同じく三郎者土肥山自り繻エEに降り、平井郷Fを經る之處、

はやかわへん おい すけちかほっし ぐんぴょうにかこま     こひらいみょうしゅきろくひさしげ  ため う   とられおはんぬ
早川邊に於て祐親法師の軍兵于圍被れ、小平井名主紀六久重の爲に射ち取被訖。

しげみつは ぎょうほしんたい ず  よっ  じさつ    うんぬん
茂光者行歩進退せ不に依て自殺すと云々。

しょうのじんと かれらのせんじょう  さんや  へだ    のかん  きず  す  に よりどこ な    あいどうせんばん うんぬん
將之陣与彼等之戰塲は山谷を隔つる之間、疵を吮う于據ろ無し、哀慟千万と云々。

参考C北條親子は、ここで一旦頼朝をあきらめ、甲斐源氏武田党を頼ろうとしたのか?
参考D湯坂道は、箱根湯本の湯場の駐車場から階段道を昇って湯坂城跡を通り浅間山・鷹ノ巣山を経て芦の湯・精進池・元箱根へと通じる。
参考E繻エは、静岡県田方郡函南町桑原。
参考F平井郷は、静岡県田方郡函南町平井。

現代語その後、飯田五郎家義が頼朝様の跡を捜してやってきました。頼朝様の数珠を持って来ました。これは今朝の合戦のときに落としてしまったのです。これは普段持ち歩いていて、狩の時などに相模の武士達は皆見てしっている数珠である。なくして困っていた所へ飯田五郎家義が見つけて来たのでとても喜びました。そこで飯田五郎家義は御供をしたいと云いましたが、土肥次郎実平は先程と同じように注意した所、泣きながら立ち去りました。
また、時政殿と北條四郎義時様は箱根の湯坂道を通って甲斐国へ向かおうとしました。北條三郎宗時は土肥から桑原に下り平井郷へ向かうとき早川で伊東次郎祐親軍に囲まれて、平井久重に討ち取られました。
工藤介茂光は怪我のため歩けなくなったので自殺しましたとさ。頼朝様の陣と彼等の戦場とは谷を隔てているので助け様が無く悲しみは深かったんだとさ。

景親追武衛之跡。搜求嶺渓。于時有梶原平三景時者。慥雖知御在所。存有情之慮。此山稱無人跡。曳景親之手登傍峯。此間。武衛取御髻中正觀音像。被奉安于或巖窟。實平奉問其御素意。仰云。傳首於景親等之日。見此本尊。非源氏大將軍所爲之由。人定可貽誹云々。件尊像者。武衛三歳之昔。乳母令參籠C水寺。祈嬰兒之將來。懇篤歴二七箇日。蒙靈夢之告。忽然而得二寸銀正觀音像。所奉歸敬也云々。

かげちか ぶえいのあと  おっ みね たに  さが もと    ときに かじわらへいざかげとき      もの あ
景親武衛之跡を追て嶺や渓を搜し求め、時于梶原平三景時
Gという者有り。

たしか ございしょ   ぞん  し    いへど   なさけあ のところ   こ  やまじんせきな    しょう    かげちかのて  ひ かたわら みね  のぼ
慥に御在所Hを存じ知ると雖も、情有る之處、此の山人跡無しと稱し、景親之手を曳き傍の峯に登る

こ   かん ぶえい おんもとどり なか しょうかんのんぞう あるがんくつにやす  たてまつらる
此の間、武衛は御髻の中の正觀音像を或巖窟于安んじ奉被る。

さねひら と たてまつ  そ    ごそい      おお   い
實平問い奉る。其の御素意は。仰せて云はく。

くびを かげちから   つた のひ   こ  ほんぞん  み   げんじ   だいしょうぐん  しょい あらざるのよし  ひとさだ そしり のこ  べ   うんぬん
首於景親等に傳う之日、此の本尊を見て源氏の大將軍の所爲に非之由、人定めて誹を貽す可しと云々。

くだん そんぞうは ぶえいさんさいのむかし  めのときよみずでら さんろうせし えいじのしょうらい  いの  こんあつ
件の尊像者、武衛三歳之昔。乳母C水寺に參籠令め嬰兒之將來を祈り懇篤し、

 ふたなぬか   へ     れいむのつげ  こうむ   こつぜん してにすんぎん しょうかんのんぞう  え  ききょう たてまつ ところなり うんぬん
二七箇日を歴て、霊夢之告を蒙り、忽然と而二寸銀の正觀音像を得て歸敬し奉る所也と云々。

参考G梶原景時は、鎌倉党(桓武平氏系図参照)で鎌倉市梶原に墓と言われる五輪塔群が深沢小学校校庭内にあり。
参考H御在所は、所謂「鵐岩屋(しとどのいわや)」。
この「しとどのいわや」を湯河原町と真鶴町がの本家争いをしているらしいが、この景時神話(洞穴の入り口で鞭にクモの糸を絡ませた)が本当なら、どちらも該当しにくい。
A、湯河原町のは、間口奥行き共に10mほどあるが、入口の高さも10mくらいの半円球状で雨宿り程度はともかく、とても隠れることはできない。
B、真鶴町のは、間口奥行き共に5mくらいだが、同じように入口の高さも5mくらの半円球状なので、やはり隠れられない。近年になってその前に岩を積み重ねて曲がった洞窟状に作っているが、25年前には無かった。

現代語景親が頼朝様を追いかけて峰や谷を探し求めています。その中に梶原景時がいて、頼朝様の所在を感じて知っているけれども考えがあって、この山には人の跡は無いと云って、景親の手を引いて脇の峰に上って行きました。この間に頼朝様は髷に入れてた観音像をとある岩屋に置いたので、土肥次郎實平はいったいどうしたのか尋ねると、頼朝様が云うには首を景親などの平氏に取られる時にこの本尊を見かけると源氏の将軍らしくないと非難されるであろうと云いました。その観音像は頼朝様が三歳のとき、乳母が清水寺にお参りをして、乳母子の将来を熱心に願掛け参りをしたら、十四日を過ぎて夢のお告げがあり、突然二寸の銀の観音像を手に入れたものなので、心から敬い信じておられるんだとさ。

及晩。北條殿參着于椙山陣給。爰筥根山別當行實。差弟僧永實。令持御駄餉。尋奉武衛。而先奉遇北條殿。問武衛御事。北條殿曰。將者不遁景親之圍給者。永實云。客者若爲試羊僧短慮給歟。將令亡給者。客者不可存之人也者。于時北條殿頗咲而相具之。參將之御前給。永實献件駄餉。公私臨餓之時也。直已千金云々。實平云。世上属無爲者。永實宜被撰補筥根山別當軄者。武衛亦諾之給。

ばん およ  ほうじょうどのすぎやま じんにさんちゃく たま
晩に及び北條殿椙山の陣于參着し給ふ。

ここ はこねやまべっとう ぎょうじつ おとうとそう えいじつ さ           ごだしゅう   も   せし  ぶえい  たず たてまつ
爰に筥根山別當I行實は弟僧の永實を差しつかはし御駄餉を持た令め武衛を尋ね奉る。

しこう   ま   ほうじょうどの  あ たてまつ   ぶえい  おんこと  と    ほうじょうどのいは しょうはかげちかのかこ   のが  たま  ずてへ
而して先ず北條殿に遇い奉り、武衛の御事を問ふ。北條殿曰く將者景親之圍みを遁れ給は不者り。

えいじつ い     きゃくは も  ようそう のたんりょ   ため  たま  ためか   しょうほろ せし  たま  ば きゃくはぞん べからずのひと    てへ
永實云はく。客者若し羊僧J之短慮を試し給はん爲歟。將亡ぼ令め給は者客者存ず不可之人なり。者れば

ときに ほうじょうどの すこぶ わら て   これ  あいぐ  しょうのごぜん  まい  たま
時于北條殿は頗る咲い而、之を相具し將之御前に參り給ふ。

えいじつくだん だしゅう けん   こうし うえ  のぞ  のときなり  あたいすで せんきん  うんぬん
永實件の駄餉を献ず。公私餓に臨む之時也。直已に千金と云々。

さねひら い    せじょう むい  ぞく  ば   えいじつ よろ   はこねやまべっとうしき  せんぶせら     てへ      ぶえいまたこれ  だく  たま
實平云はく世上無爲に属さ者、永實を≠オく筥根山別當軄に撰補被るべし者れば、武衛亦之を諾し給ふ。

参考I別當は、Gooの電子辞書には、〔本官をもつ人が他の職務の統轄に当たるときに補任される職名〕
(1)令外の官衙(かんが)(検非違使庁・蔵人所など)の長官。
(2)平安時代以降、院・親王家・摂関家などの政所の長官。また、政所の一部局(文殿・厩司など)の長官もいう。
(3)鎌倉幕府の政所・侍所・公文所などの長官。
(4)東大寺・興福寺・四天王寺などの諸大寺で、三綱の上位にあって寺務を総裁した者。
(5)神宮寺(宇佐・鶴岡・石清水など)で、庶務をつかさどる者。検校に次ぐ。
(6)盲人の官位の一。四階級の第二で、検校の下。
(7)(院の厩の別当から転じて)馬を飼育する人。馬丁。
とありますが、吾妻鏡においては、寺院の場合は、
長官と訳します。
参考J羊僧は、羊のように顎鬚が伸びている余り偉くない坊主を差すので、自分を遠慮して言ってる。

現代語夜になって時政殿は杉山の頼朝様の居場所に到着した。箱根権現長官の行実は弟の永実に弁当を持たせてよこしたので、頼朝様の所在を尋ねていました。永実は時政殿に逢って、頼朝様の消息を聞きました。北条時政殿は「頼朝様は景親の包囲から逃れられなかった。」と云いました。永実が云うには「貴方(時政)は私の浅はかな心を試していますね。頼朝将軍が亡くなれば貴方は生きていない人だ。」と云えば、時政はとても笑って、彼を連れて頼朝将軍の前へ参りました。永実はその弁当を献上しました。将軍も兵隊も皆飢え切っていたので、値千金もの価値があると喜んだそうだ。そして、土肥次郎實平が云うには、世の中が落ち着いたら永実を箱根権現の長官にしてあげてくださいよと云えば、頼朝様も同様に承諾なされました。

其後以永實爲仕承。密々到筥根山給。行實之宿坊者。參詣緇素群集之間。隱密事稱無其便。奉入永實之宅。謂此行實者。父良尋之時。於六條廷尉禪室〔爲義〕并左典厩〔義朝〕等。聊有其好。因茲。行實於京都得父之讓。令補當山別當軄。下向之刻。廷尉禪室賜下文於行實偁。東國輩。行實若相催者可從者。左典厩御下文云。駿河伊豆家人等。行實令相催者可從者。然間。武衛自御坐于北條之比。致御祈祷。專存忠貞云々。聞石橋合戰敗北之由。獨含愁歎云々。弟等雖有數。守武藝之器。差進永實云々。

そ   ご   えいじつ  もっ  しじょう   な    みつみつ はこねやま  いた  たま
其の後、永實を以て仕承Kと爲し、密々に筥根山に到り給ふ。

ぎょうじつのしゅくぼうは さんけい  しそ ぐんしゅう   のかん  おんみつ こと そ  びんな    しょう    えいじつのたく  い たてまつ
行實之宿坊者參詣の緇素Lが群集する之間、隱密の事其の便無しと稱し、永實之宅に入れ奉る。

いは   こ  ぎょうじつは  ちちりょうじんのとき  ろくじょうていいぜんしつ なら   さてんきゅう ら  おい   いささ そ  よしみあ
謂ゆる此の行實者、父良尋之時、六條廷尉禪室M并びに左典厩N等に於て、聊か其の好有り。

これ  よっ   ぎょうじつきょうと  おい   ちちの ゆず   え     とうざんべっとうしき  ぶ  せし   げこうのとき
茲に因て、行實京都に於て、父之讓りを得て、當山別當軄に補令め、下向之刻

ていいぜんしつ くだしぶみをぎょうじつ たま     いは    とうごく やから ぎょうじつ も あいもよお ば  したが  べ  てへ
廷尉禪室、下文於行實に賜はりて称く、東國の輩、行實若し相催さ者、從う可し者り。

さてんきゅう おんくだしぶみ い      するがいず  けにんら  ぎょうじつあいもよおせし  ばしたが  べ  てへ
左典厩の御下文に云はく、駿河伊豆の家人等、行實相催令め者從う可し者り。

しか  かん  ぶえい ほうじょうに ござ   のころよ     ごきとう   いた もっぱ ちゅうてい ぞん   うんぬん
然る間、武衛北條于御坐す之比自り、御祈祷を到し專ら忠貞を存ずと云々。

いしばし  かっせんはいぼくのよし き    ひと  しゅうたん  ふく   うんぬん
石橋の合戰敗北之由を聞き、獨り愁歎を含むと云々。

おとうとらかずあ   いへど  ぶげいいのうつわ まも  えいじつ  さ  しん   うんぬん
弟等數有ると雖も、武藝之器を守る永實を差し進ずと云々。

参考K仕承は、案内人のことで、当時案内と書くと「あない」と読み先例のことを差す。
参考L緇素は、緇が黒服で坊主、素は白服で俗人を差す。
参考M六條廷尉禪室は、廷尉は検非違使の唐名、頼朝の祖父爲義が六条左女牛に住んでる検非違使なので。
参考N左典厩は、左馬頭(さまのかみ)の唐名、頼朝の父義朝が左馬頭なので。

現代語その後、永実を案内人として密に箱根に行きました。行実の住居は参詣の民衆が行き来して集まり、内密に行動するのが難しいので、永実の家に入りました。云って見ると、この行実は父の良尋の時代に、頼朝様の祖父の廷尉爲義様や父の義朝様と親しい仲で、この縁で行実が京都で、父から譲渡を受けて箱根権現の長官に就いて、箱根に下る際に廷尉爲義から命令書を授けました。その内容は「東国の源氏の家人達よ、行実から召集があったら従いなさい。」義朝様の命令書には「駿河と伊豆の部下達よ、行実から召集があったら従いなさい。」とありました。そういうことで、頼朝様が伊豆の北条郷に流罪になっている間、無事を祈って、忠実を尽くしていましたとさ。石橋山の合戦に敗北したことを知り、一人で心配をしていたのだとさ。弟は沢山いますが武芸の筋を守っている武者僧の永実をよこしたのだとさ。

三浦輩出城來于丸子河邊。自去夜相待曉天。欲參向之處。合戰已敗北之間。慮外馳歸。於其路次由井浦。与畠山次郎重忠。數尅挑戰。多々良三郎重春并郎從石井五郎等殞命。又重忠郎從五十餘輩梟首之間。重忠退去。義澄以下又歸三浦。此間。上総權介廣常弟金田小大夫頼次率七十餘騎加義澄云々。

みうら  やからしろ  い    まるこがわへん に きた   さんぬ  よ よ ぎょうてん  あいま     さんこう     ほっ    のところ
三浦の輩城を出で、丸子河邊O于來る。去る夜自り曉天を相待ち、參向せんと欲する之處、

かっせんすで はいぼくのかん  りょがい は  かえ    そ   ろじ  ゆいうら   をい    はたけやまのじろうしげただ と すうこくちょうせん
合戰已に敗北之間、慮外に馳せ歸る。其の路次由井浦に於て、畠山次郎重忠P与數尅挑戰す。

たたらのさぶろうしげはる なら   ろうじゅういしいのごろうらいのち おと
多々良三郎重春并びに郎從石井五郎等命を殞す。

また  しげただ ろうじゅう ごじゅうよやからきょうしゅ   のかん  しげただたいきょ  よしずみいげ またみうら  かえ
又、重忠の郎從五十餘輩梟首される之間、重忠退去す。義澄以下又三浦へ歸る。

こ  かん かずさのごんのすけひろつね  おとうと かねだのこだゆうよりつぐ  しちじゅうよき ひき  よしずみ くわ    うんぬん
此の間、上総權介廣常Rの弟の金田小大夫頼次S、七十餘騎を率い義澄に加はると云々。

参考O丸子河は、神奈川県小田原市の東を流れる今の酒匂川。
参考P畠山次郎重忠は、秩父一族で武蔵国男衾郡、埼玉県嵐山町(鎌倉古道参照)。
参考R上総広常は、平忠常の直系、上総は親王立国なので權介でも事実上の支配者。
参考S金田は、上総国長柄郡金田郷現木更津市金田。後広常が景時に慙死された時に、縁座で蟄居し、蟄居中に病死する。

現代語一方、三浦軍は城(衣笠)を出て、丸子川(酒匂川)辺りまで来ました。昨夜、夜明けを待って来ようとしたら、合戦は既に負けてしまったので、止むを得ず帰りました。その途中の由比ガ浜で、畠山次郎重忠軍と数時間合戦をしました。多々良三郎重春と部下の石井五郎などがやられました。また、畠山次郎重忠の部下も五十人ほどが殺されましたので、畠山次郎重忠は引き上げました。総領の三浦次郎義澄以下も三浦へ帰りました。この間に上総広常の弟の金田小大夫頼次は七十騎ばかりを引き連れて義澄軍に加わったそうだ。

治承四年(1180)八月小廿五日乙巳。大庭三郎景親爲塞武衛前途。分軍兵。關固方々之衢。」俣野五郎景久相具駿河國目代橘遠茂軍勢。爲襲武田一条等源氏。赴甲斐國。而昨日及昏黒之間。宿富士北麓之處。景久并郎從所帶百餘張弓弦。爲鼠被飡切畢。仍失思慮之刻。安田三郎義定。工藤庄司景光。同子息小次郎行光。市川別當行房。聞於石橋被遂合戰事。自甲州發向之間。於波志太山。相逢景久等。各廻轡飛矢。攻責景久。挑戰移刻。景久等依絶弓弦。雖取太刀。不能禦矢石。多以中之。安田已下之家人等。又不免釼刄。然而景久令雌伏。逐電云々。

読下し                  きのとみ  おおばのさぶろうかげちか ぶえい ぜんと  ふさ   ため  ぐんぴょう わ    ほうぼうのみち  せきかた
治承四年(1180)八月小廿五日乙巳。大庭三郎景親、武衛の前途を塞がん爲、軍兵を分かち方々之衢を關固む。

またののごろうかげひさ するがのくに もくだい たちばなとおしげ ぐんぜい あいぐ   たけだいちじょうら げんじ  おそ    ため  かいのくに  おもむ
俣野五郎景久、駿河國の目代、橘遠茂が軍勢を相具し、武田一條等の源氏を襲はん爲、甲斐國に赴く。

しこう    さくじつこんこく  およ  のかん   ふじ ほくろく  やど  のところ
而して、昨日昏Kに及ぶ之間、富士北麓に宿す之處。

かげひさなら    ろうじゅう たい  ところ  ひゃくよはり ゆんづる ねずみ ため く きられおはんぬ
景久并びに郎從の帶する所の百餘張の弓弦、鼠の爲に喰い切被畢。

よっ  しりょ  うしな のとき  やすがのさぶろうよしさだ  くどうのしょうじかげみつ おな    しそくこじろうゆきみつ   いちかわべっとうゆきふさ
仍て思慮を失う之刻、安田三郎義定、工藤庄司景光、同じき子息小次郎行光、市川別當行房、

いしばし  をい  かっせん  と  られ  こと  き    こうしゅうよ  はっこうのかん    はしたかやま  をい  かげひさら  あいあ
石橋に於て合戰を遂げ被ん事を聞き、甲州自り發向之間、波志太山に於て景久等に相逢う。

おのおの くつわ めぐ   や  と    かげひさ  せ  せ     のぞ たたか   とき  うつ
各、轡を廻らし矢を飛ばし景久を攻め責む。挑み戰ひ、刻を移す。

かげひさら ゆんづる た    よっ     たち  と    いへど   やせき  ふさ あた ず  おお  もっ  これ   あた
景久等弓弦を絶つに依て、太刀を取ると雖も、矢石を禦ぎ能は不。多く以て之に中る。

やすだ いか の けにんら また  やいば  まぬ   ず  しかれども かげひさしふくせし    ちくてん   うんぬん
安田已下之家人等又、釼刃を免かれ不。然而、景久雌伏令めて逐電すと云々。

現代語治承四年(1180)八月小廿五日乙巳。大庭景親は頼朝様の行き先を塞ごうと軍隊を分けて方々の道を固めています。又、弟の俣野五郎景久は駿河国の代官の橘遠茂の軍隊と一緒に、武田や一条の源氏を攻めるため甲斐国へ向かいました。そして昨日、夜になったので富士山の北の麓に泊ったところ、景久と部下の持っている百張りの弓の弦を鼠に食いちぎられてしまいました。この為思慮を無くしていた時に、安田三郎義定、工藤庄司景光、その子小次郎行光、市川別当行房が石橋で合戦を始めた事を聞いて、甲斐から出発したところ、あしたか山で景久達に出会いました。それぞれ馬を走り回らせ、矢を射て俣野五郎景久を攻め立てました。戦いは数時間続きました。景久軍は弓弦を切られたので刀で戦いましたが、矢や石は防ぎ様が無く多くが当てられました。安田達の部下も刀で切られました。そして景久は敗北して逃げ出したそうです。

武衛御坐筥根山之際。行實之弟智藏房良暹。以故前廷尉兼隆之祈祷師。背兄弟〔行實永實〕等。忽聚惡徒。欲奉襲武衛。永實聞此事。告申武衛与兄行實之間。行實計申云。於良暹之武勇者。強雖非可怖。及奉謀之儀者。景親等定傳聞之。競馳合力歟。早可令遁給者。仍召具山案内者。實平并永實等經筥根通。赴土肥郷給。北條殿者。爲逹事由於源氏等。被向甲斐國。行實差同宿南光房奉送之。相伴件僧。經山臥之巡路。赴甲州給。而不見定武衛到着之所者。雖欲催具源氏等。彼以不許容歟。然者猶追御後令參上。自御居所。更爲御使。可顏向之由。心中令思案之。立還又尋土肥方給。南光者赴本山云々。

ぶえい はこねやま   ござ   のきわ  ぎょうじつのおとうと ちぞうぼうりょうせん   ことさら さきのていいかねたかの きとうし      もっ
武衛筥根山に御坐す之際、行實之 弟の 智藏房良暹は、故に前廷尉兼隆之祈祷師たるを以て、

きょうだい〔ぎょうじつ  えいじつ〕 ら そむ   たちま  あくと   あつ   ぶえい  おそ たてまつ    ほっ
兄弟〔行實・永實〕等に背き、忽ち惡徒を聚め、武衛を襲い奉らんと欲す。

えいじつ こ  こと  き    ぶえいと あにぎょうじつ つ   もう  のかん  ぎょうじつはか   もう    い
永實此の事を聞き、武衛与兄行實に告げ申す之間。行實計らい申して云はく。

りょうせんのぶゆう  をい  は  あなが    おそ   べ    あらず いへど   はか たてまつ のぎ  およ ば
良暹之武勇に於て者、強ちに怖れる可きに非と雖も、謀り奉る之儀に及ば者、

かげちから さだ    これ  つた  き    きそ  は   ごうりき    か  はや  のが  せし  たま  べ  てへ
景親等定めて之を傳え聞き、競い馳せ合力する歟。早く遁れ令め給ふ可し者り。

よっ  やま  あないじゃ   め  ぐ     さねひらなら    えいじつらはこねみち  へ     といごう    おもむ  たま
仍て山の案内者@を召し具し、實平并びに永實等筥根通を經て、土肥郷Aに赴き給ふ。

ほうじょうどのは こと  よしを げんじら  たっ    ため  かいのくに  むか  られ   ぎょうじつ どうじゅく なんこうぼう  さ     これ おく たてまつ
北條殿者事の由於源氏等に達さん爲、甲斐國に向は被る。行實の同宿の南光房を差して之を送り奉る。

くだん そう  あいともな やまぶしのじゅんろ  へ  こうしゅう  おもむ たま
件の僧を相伴い山臥之巡路を經て甲州に赴き給ふ。

しか    ぶえいとうちゃくのところ  みさだ  ず  ば   げんじら   もよお  ぐ       ほっ   いへど   か  もっ  きょようせずか
而るに武衛到着之所を見定め不ん者、源氏等を催し具さんと欲すと雖も、彼を以て許容不歟。

しからば なおおんあと おっ さんじょうせし   おんきょしょよ   さら おんつかい  な      がんこう  べ   のよし
然者、猶御後を追て參上令め、御居所自り更に御使と爲し、顏向す可き之由。

しんちゅう これ  しあんせし  た  かえ    また といかた  たず  たま   なんこうぼう  ほんざん おもむ   うんぬん
心中に之を思案令め立ち還る。又土肥方を尋ね給ふ。南光房は本山に赴くと云々。

参考@山の案内者は、山に精通している人。
参考A土肥郷は、神奈川県足柄下郡湯河原町、駅山側の城願寺に土肥次郎實平の墓あり。

現代語頼朝様が、箱根山におられる時、行実の弟の智藏房良暹は特別に山木兼隆の祈祷師をしているので、兄の行実や永実に逆らって、武者僧を集めて頼朝様を襲おうと企んでいる事を、永実が聞きつけて頼朝様と兄の行実に言いつけてきた。行実は考えて云いました。「良暹の力は恐れるほどの事は無いので対策を講じる必要は無いが、これを景親が聞きつけ、責めてくるといけないので早く逃げた方が良い。」いいました。そこで山の案内人を呼んで土肥次郎實平と永実達は箱根道を通って土肥郷に行きました。時政はこの次第を他の源氏に伝えるため甲斐国へ向かう事にしたら、行実が同じ宿の南光坊に送って行くように指図しましたので、この僧と共に山伏の道を通って甲斐へ向かいかけました。しかし頼朝様が何処へ落ち延びるのか知っておかないと、源氏等を連れてきても、どうしたものか分からないので、なお、頼朝様の後を追ってお会いして、そこから使いとして出発することに心で決めて戻ることにして土肥を目差したので、南光房は元の箱根に帰りました。

治承四年(1180)八月小廿六日丙午。武藏國畠山次郎重忠。且爲報平氏重恩。且爲雪由比浦會稽。欲襲三浦之輩。仍相具當國黨々。可來會之由。觸遣河越太郎重頼。是重頼於秩父家。雖爲次男流。相繼家督。依從彼黨等。及此儀云々。江戸太郎重長同与之。
今日卯尅。此事風聞于三浦之間。一族悉以引篭于當所衣笠城。各張陣。東木戸口〔大手〕次郎義澄。十郎義連。西木戸。和田太郎義盛。金田大夫頼次。中陣。長江太郎義景。大多和三郎義久等也。及辰尅。河越太郎重頼。中山次郎重實。江戸太郎重長。金子。村山輩已下數千騎攻來。義澄等雖相戰。昨〔由比戰〕今兩日合戰。力疲矢盡。臨半更捨城逃去。欲相具義明。々々云。吾爲源家累代家人。幸逢于其貴種再興之秋也。盍喜之哉。所保已八旬有余也。計餘算不幾。今投老命於武衛。欲募子孫之勳功。汝等急退去兮。可奉尋彼存亡。吾獨殘留于城郭。摸多軍之勢。令見重頼云々。義澄以下涕泣雖失度。任命憖以離散訖。
又景親行向澁谷庄司重國許云。佐々木太郎定綱兄弟四人属武衛奉射平家畢。其科不足宥。然者。尋出彼身之程。於妻子等者。可爲囚人者。重國答云。件輩者。依有年來芳約。加扶持訖。而今重舊好而參源家事。無據于加制禁歟。重國就貴殿之催。相具外孫佐々木五郎義C。向石橋之處。不思其功可召禁定綱已下妻子之由蒙命。今更所非本懷也者。景親伏理。歸去之後。入夜。定綱。盛綱。高綱等出筥根深山之處。行逢醍醐禪師全成。相伴之到于重國澁谷之舘。重國乍喜。憚世上之聽。招于庫倉之内。密々羞膳勸酒。此間。二郎經高者被討取歟之由。重國問之。定綱等云。令誘引之處。稱有存念不伴來者。重國云。存子息之儀已年久。去比參武衛之間。重國一旦雖加制不敍用之。遂令參畢。合戰敗績之今。耻重國心中不來歟者。則遣郎從等於方々令相尋云々。重國有情。聞者莫不感云々。

読下し                 ひのえうま  むさしのくにはたけやまのじろうしげただ
治承四年(1180)八月小廿六日丙午。武藏國畠山次郎重忠は、

かつう へいし  ちょうおん むく   ため   かつう  ゆいうら    かいけい そそ   ため  みうらのやから  おそ     ほっ
且は平氏の重恩に報はん爲@、且は由比浦Aの會稽を雪がん爲、三浦之輩を襲はんと欲す。

よっ  とうごくとうとう   あいぐ   きた  あ   べ   のよし  かわごえのたろうしげより ふ  つか
仍て當國黨々を相具し來り會う可し之由、川越太郎重頼Bに觸れ遣はす。

これしげより  をい    ちちぶけ    じなん  りゅう な    いへど   かとく   あいつ    か   とうら   したが     よっ    かく   ぎ   およ    うんぬん
是重頼に於ては秩父家の次男の流を爲すと雖も、家督を相繼ぎ、彼の黨等を縦えるに依て、此の儀に及ぶと云々。

えどのたろうしげなが おな    これ  よ
江戸太郎重長C同じく之に与す。

きょう うのこく こ  こと   みうらに ふうぶん    のかん  いちぞくことごと もっ   とうしょきぬがさじょう に ひ こ  おのおのじん は
今日卯尅此の事、三浦于風聞する之間、一族悉く以て、當所衣笠城D于引き籠み、各陣を張る。

ひがしきど  〔おおて〕    じろうよしずみ  じうろうよしつら  にしきど   わだのたろうよしもり   かねだのたいふより
東木戸〔大手〕は次郎義澄、十郎義連。西木戸は和田太郎義盛、金田大夫頼次。

つぐちゅうじん  ながえのたろうよしかげ  おおたわのさぶろうよしひさなり
中陣は長江太郎義景、大多和三郎義久等也。

たつのこく およ   かわごえのたろうしげより なかやまのじろうしげざね えどのたろうしげなが  かねこむらやま やからいかすうせんきせ  きた
辰尅に及び、川越太郎重頼、中山次郎重實H、江戸太郎重長、金子村山の輩已下數千騎攻め來る。

よしずみら あいたたか いへど  さく  〔ゆい  いくさ〕 いま  りょうじつ かっせん ちからつか や つき
義澄等相戰うと雖も、昨〔由比の戰〕今、兩日の合戰に力疲れ矢盡る。

はんそう  のぞ   しろ  す   に   さ       ほっ  よしあき  あいぐ    よしあき い
半更に臨み、城を捨て逃げ去らんと欲し義明を相具す。々々云はくE

われげんけ るいだい けにん  な   さいわい そ  きしゅさいこうの ときに あ   なり  なん  これ  よろこ   や
吾源家累代の家人と爲し、幸に其の貴種再興之秋于逢う也。盍ぞ之を喜ばん哉。

たも ところすで はちじゅんゆうよなり よさん  はか    いく    ず   いまろうめいを ぶえい  とう    しそんの くんこう  つの      ほっ
保つ所已に八旬有余也。餘算を計るに幾なら不。今老命於武衛に投じ、子孫之勳功に募らんと欲す。

なんじらいそ たいきょ  て   か  そんぼう  たず たてまつ べ   われひと  じょうかくにのこ  とど     たぐんの せい  も   しげより  みせし   うんぬん
汝等急ぎ退去し兮、彼の存亡を尋ね奉る可し。吾獨り城郭于殘り留まり、多軍之勢を摸し重頼に見令むと云々。

よしずみいげ ていきゅう  ど  うしな  いへど   めい まか    なまじい もっ りさん  おは
義澄以下涕泣し度を失うと雖も、命に任せ、憖に以て離散し訖んぬ。

また  かげちか しぶやのしょうじしげくに もと  ゆ   むか    い      ささきのたろうさだつなきょうだいよにん  ぶえい  ぞく  へいけ いたてまつ おは
又、景親は澁谷庄司重國の許に行き向いて云はく、佐々木太郎定綱兄弟四人は武衛に属し平家を射奉り畢んぬ。

そ   とが なだ   た  ず   しからば  か  み   たず いだ   のほど  さいしら  おい は しゅうじんた  べ   てへ
其の科宥むに足ら不。然者、彼の身を尋ね出す之程、妻子等に於て者囚人爲る可し者り。

しげくにこた    い      くだん やからはねんらい ほうやくあ    よっ     ふち   くわ おはんぬ
重國答へて云はく。件の輩者年來の芳約有るに依て、扶持を加へ訖。

しか   いまきゅうこう  かさ て   げんけ  まい  こと  せいきん くわ   によんどころ な か
而して今舊好を重ね而、源家に參る事、制禁を加へる于據無き歟。

しげくに きでんの もよお  つ     がいそん  ささきのごろうよしきよ  あいぐ  いしばし むか のところ
重國貴殿之催しに就き、外孫佐々木五郎義CFを相具し石橋に向う之處、

 そ  こう  おも  ず   さだつないか   さいし   め   きん べ   のよしめい こうむ
其の功を思は不、定綱已下の妻子を召し禁ず可し之由命を蒙る。

いまさらほんかい あらざ ところなりてへ    かげちか り ふ  かえ  さ   ののち
今更本懷に非る所也者れば、景親理に伏し歸り去る之後。

よ   い     さだつな もりつな たかつならしんざん  いで のところ  だいごぜんじぜんじょう   ゆ  あ    これ  あいともな  しぶや のやかたにいた
夜に入り、定綱、盛綱、高綱等深山を出る之處、醍醐禪師全成Gに行き逢い、之を相伴い、澁谷之舘于到る。

しげくによろこ なが     せじょうのきこえ   はばか   こそうの うちに まね    みつみつ ぜん つく  さけ すす
重國喜び乍らも、世上之聽へを憚り、庫倉之内于招き、密々に膳を羞し酒を勸める。

こ   かん   じろうたかつねは う  とられ   かのよし   しげくにこれ  と
此の間、二郎經高者討ち取被る歟之由、重國之を問う。

さだつなら い      ゆういんせし   のところ  ぞんねんあ   しょう    ともな き     ずてへ
定綱等云はく、誘引令める之處、存念有りと稱し、伴い來たら不者り。

しげくに い       しそくの ぎ  ぞん    すで  としひさ
重國云はく。子息之儀を存じ、已に年久し。

さんぬ ころ  ぶえい  さん    のかん  しげくにいったん  いへど   せい  くわ   これ  じょよう  ず   つい  さんぜし おはんぬ
去る比、武衛に參ずる之間、重國一旦とは雖も、制を加うも之を敍用せ不、遂に參令め畢。

かっせんはいせきのいま しげくに しんちゅう は  き     ず か てへ
合戰敗績之今、重國の心中を耻じ來たら不歟者り。

すなは ろうじゅうらを ほうぼう つか   あいたず せし   うんぬん  しげくになさけあ  き   ものかん ず   な    うんぬん
則ち郎從等於方々に遣はし相尋ね令むと云々。重國情有り聞く者感ぜ不は莫しと云々。

参考@平氏重恩に報はん為は、平家から父重能は武蔵国の指揮権を持つ侍大将になっている。清盛が作った役職で「国大将」、これを源氏になると机催促となる。大庭三郎景親は相模国だけでなく東国全体かも知れない。
参考A由井浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。
参考B川越太郎重頼は、秩父一族の総領家で武蔵国総検校職(軍事召集権)を帯する。後義経の連座で死刑になり、重忠に移る。
参考C江戸太郎重長は、同じく秩父一族で江戸湾の水利権を持ってたようであるが不確か?
参考D衣笠城は、横須賀線衣笠駅から南に1km位の横須賀市衣笠町650辺りが大手、756大善寺辺りが本丸。
参考Eこの三浦介義明の言葉は、あらゆる歴史書の鎌倉時代の本に必ず乗る当時の關東武士の説明に使われる。
参考F
佐々木五郎義Cは、石橋山で敵対したため、暫く出演がないが、後年になって活躍する。
参考G醍醐禅師全成は、頼朝の弟で、常磐が産んだ三人の今若、音若、牛若のうちの今若丸である。 
参考H中山次郎重實は、入来院氏伝「平氏系図」によると秩父平氏の川崎平三大夫重家の子とあり、澁谷庄司重國の兄と有る。盛本昌弘著「鎌倉武士と横浜」から

現代語治承四年(1180)八月小廿六日丙午。武蔵国畠山次郎重忠は、一つは平家の恩に応えるため、ひとつは由比の浦の合戦の屈辱をぬぐうため三浦軍を襲おうとして武蔵国の党達を連れて来るように川越重頼に連絡しました。重頼は秩父家の次男の系統ですが、嫡流として武蔵検校職と言う、秩父党や武蔵七党等を従わせる職権を持っているので、河越重頼に頼むことにしました。江戸重長も同様に協力しました。

今日の午前六時頃 三浦に噂が伝わって来たので、一族全員が衣笠城に引きこもり、それぞれ戦の陣営を張りました。東の木戸の大手口は、総領の三浦次郎義澄と三浦十郎義連。西木戸は和田太郎義盛、金田太夫頼次。中陣は長柄太郎義景と太多和三郎義久達です。午前八時頃になって、川越太郎重頼、中山次郎重実、江戸太郎重長や金子、村山などの数千騎が攻めて来ました。義澄達も戦いましたが、昨日の由比の戦と今日の戦との二日にわたる合戦に力も疲れて矢も無くなりました。

夜半になって、城を捨てて逃げてしまおうと考え、義明を一緒に連れて行こうとしました。しかし、義明が云いました。「私は元々の源氏の家来として、幸せにも尊い源氏の再興の時に出会わせることが出来て、なんでこれを喜ばずにいられようか。年は既に八十を越えてるので、先を計算してもいくらも無い。いまこの老いたる命を頼朝様に捧げて、子孫の手柄として残したい。お前達は、急いで立ち退いて、頼朝様の消息を尋ねなさい。私は一人残って大勢の軍隊のように見せかけて川越重頼に見合ってやろう。」とのことでした。三浦次郎義澄以下は泣きながらどうしていいか悩みながらも、義明の命令に従って、無理やりに離れ分かれていきました。

景親は渋谷庄司重国の所へ行って云いました。「佐々木定綱兄弟四人は頼朝様の家来となり、平家に対して弓を引いた。その罪は許しがたいので、彼等を捜しているが、その妻子等を囚人としたほうが良い。」渋谷庄司重国が応えるには「彼等は前々からの親しい間柄なので、面倒を見てきた。しかし昔からの臣下として源氏に仕える事は、罰を加える理由にはならない。渋谷庄司重国は貴方の呼びかけに呼応して外孫の五郎義清を連れて石橋に駆けつけたのに、その手柄を考えずに彼等の妻子を召し捕れと命令するのは、本来の筋ではないではないか。」といったので、景親は理論に諭されて帰って行きました。
さて、その後の夜になって、定綱、盛綱、高綱たちは深山を出た所で、醍醐禅師全成に出会って、彼を一緒に連れて、渋谷の館に来ました。重国は喜びながらも、世間の憚りを気遣って倉庫の中へ招き入れ、ひそかに食事を整え酒を出しました。「佐々木次郎経高は討ち取られたのか」と重国が尋ねると、定綱が「一緒に来るよう誘ったが、思うところがあると云って来ませんでした。」と云いました。重国は「子供等のやってることを知って随分になるが、或る日、頼朝様の本に通うのを一度だけど止めたことがある。しかし云うことを聞かずに行ってしまった。合戦に負けた今、重国に顔をあわせるのが恥だと思ってこないのかなー。」と云って、直ぐに部下達を方々に行かせ捜させたとの事でした。渋谷庄司重国は情けがあると、この話を聞く人は感心しない人はありませんでしたとさ。

治承四年(1180)八月小廿七日丁未。朝間小雨。申尅已後。風雨殊甚。辰尅。三浦介義明〔年八十九〕爲河越太郎重頼。江戸太郎重長等被討取。齢八旬餘。依無人于扶持也。義澄等者。赴安房國。北條殿。同四郎主。岡崎四郎義實。近藤七國平等。自土肥郷岩浦令乘船。又指房州解纜。而於海上並舟船。相逢于三浦之輩。互述心事伊欝云々。此間。景親率數千騎。雖攻來于三浦。義澄等渡海之後也。仍歸去云々。
加藤五景員并子息光員。景廉等。去廿四日以後。三ケ日之間。在筥根深山。各粮絶魂疲。心神惘然。就中景員衰老之間。行歩進退谷也。于時訓兩息云。吾齢老矣。縱雖開愁眉。不可有延命之計。汝等以壯年之身。徒莫殞命。弃置吾於此山。可奉尋源家者。然間。光員等周章雖斷膓。送老父於走湯山。〔於此山。景員遂出家云々〕兄弟赴甲斐國。今夜亥刻。到着于伊豆國府。抜出之處。土人等怪之。追奔之間。光員。景廉共以分散。互不知行方云々。

読下し                  ひのとみ  あさ あいだこさめ  さるのこくいご  ふうう こと  はなは
治承四年(1180)八月小廿七日丁未。朝の間小雨、申尅已後は風雨殊に甚だし。

たつのこく みうらのすけよしあき 〔としはじうく〕 かわごえのたろうしげより  えどのたろうしげながら  ため  う    とられ。  〔よわいはちじゅんよ〕
辰尅、三浦介義明〔年八十九〕川越太郎重頼・江戸太郎重長等の爲、討ち取被る〔齡八旬餘〕@

 ふち     に ひと な   よっ  なり  よしずみらは あわのくに  おもむ
扶持する于人無きに依て也。義澄等者安房國に赴く。

ほうじょうどの おな    しろうぬし  おかざきのしろうよしざね  こんどうしちくにひらら   といごういわのうら よ    じょうせんせし
北條殿と同じく四郎主・岡崎四郎義實・近藤七國平等は、土肥郷岩浦自り、乘船令め、

また  ぽうしゅう さ  ともづな と   て  かいじょう おい せんせん なら  みうらのやからに あいあ     しんじ  いうつ   の       うんぬん
又、房州を指し纜を解き而、海上に於て舟船を並べ三浦之輩于相逢ふ。心事の伊鬱を述べると云々。

こ  かん かげちかすうせんき  ひき   みうらに せ  きた いへど    よしずみら とかいののちなり  よっ  かえ  さ    うんぬん
此の間、景親數千騎を率い三浦于攻め來る雖も、義澄等渡海之後也。仍て歸り去ると云々。

かとうごかげかず なら    しそくみつかずかげかどら さんぬ にじゅうよっかいご みっかびのかん  はこね  しんざん  あ
加藤五景員并びに子息光員景廉等、去る廿四日以後三ケ日之間、筥根の深山に在り。

おのおの かて た たましいつか しんしんぼうぜん    なかんづく   かげかず すいろうのかん  ぎょうほしんたいきわ   なり
各、粮を絶ち魂疲れ、心神惘然とす。就中に、景員は衰老之間、行歩進退谷まる也。

ときに りょうそく  くん    い      われよわいおい      たと しゅうび ひら   いへど えんめいの はか  あ  べからず
時于兩息に訓じて云はく、吾齡老たり矣。縦い愁眉を開くと雖も延命之計り有る不可。

なんじらそうねんの み もっ  いたず  いのち そこな   な    われを こ   やま  す  お     げんけ  たず たてまつ べ てへ
汝等壯年之身を以て徒らに命を殞うは莫し。吾於此の山に弃て置き、源家を尋ね奉る可し者り。

しか  かん  みつかずらしゅうしょう だんちょう         いへど    ろうふを そうとうさん  おく
然る間、光員等周章す。斷膓のおもいと雖も、老父於走湯山に送る。

 〔 こ  やま  をい  かげかずしゅっけ と     うんぬん 〕 きょうだい かいのくに  おもむ
〔此の山に於て景員出家を遂ぐAと云々。〕兄弟は甲斐國に赴く。

こんや いのこく いずのこくふに とうちゃく  ぬ  いだ   のところ
今夜亥刻伊豆國府于到着し、抜け出す之處、

どにん ら これ あや      お   はし のかん  みつかず かげかどとも  もっ  ぶんさん   いくえ し  ず  うんぬん
土人等之を怪しみ、追い奔る之間、光員、景廉共に以て分散す。行方知ら不と云々。

参考@三浦介義明の討ち取られたと伝説される場所が大矢部5丁目18の腹切松公園という。大介は老馬でここまで落ちて来た処、ここで馬が動かなくなったので、先祖の墓のある円通寺の見えるここを死場所と悟り切腹して果てた。馬は一声いななき、北側の崖の上まで駆け上がり、そこで自ら舌を噛み切って自害したと云う。
参考A
加藤五景員出家は病気などの一時的出家ではなく、世俗と断絶して侍身分ではなくなる出家と思われ、敵対関係も消滅する。しかし、後に入道身分で登場する。

現代語治承四年(1180)八月小廿七日丁未。朝のうちは小雨でしたが、午後四時頃からは風雨が一層激しくなりました。午前八時頃に三浦義明(八十九歳)は川越太郎重頼、江戸太郎重長軍に討ち取られました。助ける人がいないからです。
三浦次郎義澄達三浦一族は、安房の国へ向かいました。北条四郎時政主と義時、岡崎平四郎義実、近藤七国平達は、土肥の岩海岸から舟に乗り、同様に房総半島を目指して出航して海上に舟を進めると、三浦の一族と出会って、心配事を話し合いましたとさ。
この間に、大庭三郎景親は千騎の軍勢を引き連れて三浦へ攻めてきましたが、義澄達は海を渡って行った後なので、自分の領地へ帰りましたとさ。
加藤五景員と倅の加藤太光員・加藤次景廉達は、先日の二十四日から三日間もの間、箱根の山の中に居ました。皆、食料が無くてすっかり疲れて唖然としました。中でも加藤五景員は年寄ですから、歩くのもままならなくなってきて、倅たちに云うのには「私は年老いて、たとえ事が成功しても、そう長くは生きられないので、お前達壮年がやたらと命を捨てる事は無い。私を此の山に置いて行って、頼朝様の基へ行くべきである。」と云いました。加藤太光員達は途方に暮れて断腸のつらさはあるけれども、老いた父親を熱海の伊豆山権現に送りました〔そこで加藤五景員は出家しました〕。兄弟は、甲斐の国へ向って、今夜の十時頃伊豆の国府に到着して、森を抜け出すと地元民が怪しんで追い駆けて来たので、バラバラに逃げて共に行方不明になりましたとさ。

治承四年(1180)八月小廿八日戊申。光員。景廉兄弟。於駿河國大岡牧各相逢。悲涙更濕襟。然後引篭富士山麓云々。」武衛自土肥眞名鶴崎乘船。赴安房國方給。實平仰土肥住人貞恒。粧小舟云々。自此所。以土肥弥太郎遠平爲御使。被進御臺所御方。被申別離以後愁緒云々。

読下し                つちのえさる みつかず かげかどきょうだい するがのくにおおおかのまき  をい おのおのあいあ  ひるいさら えり ぬら
治承四年(1180)八月小廿八日戊申。光員、景廉兄弟、駿河國大岡牧@に於て、各相逢う。悲涙更に襟を濕す。

しか  のち  ふじさんろく   ひ  こ     うんぬん
然る後、富士山麓に引き籠むと云々。

 ぶえい  とい まなづるみさき よ   じょうせん   あわのくにかた おもむ たま    さねひら といにじゅうにんさだつね おお   こぶね よそお   うんぬん
武衛、土肥眞名鶴崎A自り乘船し、安房國方に赴き給ふ。實平、土肥住人貞恒に仰せて小舟を粧ふと云々。

こ  ところよ     といのいやたろうとおひら   もっ  おんつか   な    みだいどころのおんかた すす られ もうさる    べつりいご しゅうしょ  うんぬん
此の所自リ、土肥弥太郎遠平Bを以て御使いと爲し、御臺所御方に進め被て申被る。別離以後愁緒と云々。

参考@大岡牧は、伊豆半島のすぐ隣で、現沼津市大岡である。ここの領主の娘が北條時政の後妻の牧の方である。
参考A真鶴崎は、神奈川県足柄下郡真鶴町の岩海岸から出発したとも、又半島付け根に頼朝が隠れたという「しとどの岩屋」あり、ここで實平が延命の舞を踊ったとの伝説から今でも祭りに踊るとか。但し同名の岩屋は湯河原町にもある。
参考B土肥弥太郎遠平は、実平の子供であるが、父が太郎でその子も太郎の場合に小太郎とか又太郎とか弥太郎と呼ばれるはずなのに、実平は次郎であるのでおかしい。考えられることは実平の兄(太郎)の子である可能性もある。
参考
太郎、次郎、三郎などの呼び名は、鎌倉時代はそれぞれ生まれた順に呼ばれる
輩行(はいこう)と呼ばれる仮の名である。

現代語治承四年(1180)八月小廿八日戊申。加藤太光員、加藤次景廉の兄弟は、駿河の国大岡の牧で互いに逢えましたので、涙を拭い合いました。それから、富士山の麓の森へ入り込みました。
頼朝様は真鶴から舟に乘り安房の国へ向かいました。土肥次郎実平が土肥に領地のある貞恒に命じて小船を用意させました。
ここから、土肥弥太郎遠平を奥様の基へ伝言させました。伊豆で離れてから寂しがっているでしょうからだってさ。

治承四年(1180)八月小廿九日己酉。武衛相具實平。棹扁舟令着于安房國平北郡獵嶋給。北條殿以下人々拝迎之。數日欝念。一時散開云々。

読下し                 つちのととり  ぶえい  さねひら  あいぐ   さお かたむ   ふね  あわのくにひらきたぐんりょうじま に つ せし  たま
治承四年(1180)八月小廿九日己酉。武衛、實平を相具し、掉を扁け、舟を安房國平北郡獵嶋@于着け令め給ふ。

ほうじょうどのいげ   ひとびと  これ はい むか   すうじつ  うつねんいちじ  さんかい   うんぬん
北條殿以下の人々、之を拝し迎へ、數日の鬱念一時に散開すと云々。

参考@安房国平北郡猟島は、現在の千葉県安房郡鋸南町竜島に指定されている。最寄駅は安房勝山駅。この時に皆が敗戦でしおれているのに、和田義盛は頼朝に「天下を取ったら私を侍所の別当にしてくれ。」と言って、「早いおねだりだなぁ。」と皆を笑わせた。その約束により侍所別当に任じたと後日吾妻鏡(11月17日条)に出てくる。

現代語治承四年(1180)八月小廿九日己酉。頼朝様は、実平と共に安房の国平北郡猟島に舟を着けました。北条四郎時政他の人々がお迎えし、今までの苦労が泡のように吹き飛びましたとさ。

閑話休題この上陸の時、頼朝は濡れるのが嫌で、漁師に命じて負ぶわれて上陸したそうな、その褒美として「天下を取ったなら、そなたに安房一国を進ぜよう。」と言うと、漁師は「粟一石は裏の畑でも取れるから、それっぱかり貰ってもしょうがないので、名字をくれ。」と言ったので、左右加馬賀介(そうかばかのすけ)と名づけたそうです。今でもこの辺りには「左右加(そうか)」や「馬賀(まが)」と名乗る子孫がおられるそうな。なお、後の時代になって千葉一族の中に「馬加(まくわり)」氏の名があるがつながるのかは不明。

九月へ

吾妻鏡入門第一巻

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