吾妻鏡入門第一巻

治承四年(1180)九月大

治承四年(1180)九月大一日庚戌。武衛可有渡御于上総介廣常許之由被仰合。北條殿以下各申可然之由。爰安房國住人安西三郎景益者。御幼稚之當初。殊奉昵近者也。仍最前被遣御書。其趣。令旨嚴密之上者。相催在廳等。可令參上。又於當國中京下之輩者。悉以可搦進之由也。

読下し                かのえいぬ ぶえい  かずさのすけひろつね  もとにとぎょあ   べ   のよし   おお  あわさる
治承四年(1180)九月大一日庚戌。武衛、上総介廣常@の許于渡御有る可し之由、仰せ合被る。

ほうじょうどのいげ おのおのしか べ  のよし  もう     ここ あわのくにじゅうにんあんざいのさぶろうかげますは ごようちのとうしょ   こと  じっこんたてまつ ものなり
北條殿以下、各然る可し之由を申す。爰に安房國住人安西A三郎景益者、御幼稚之當初、殊に眤近奉る者也。

よっ  さいぜん おんしょ  つか され    そ おもむき りょうじげんみつのうえは  ざいちょう ら あいもよお さんじょうせし べ
仍て最前に御書を遣は被る。其の趣、令旨嚴密之上者、在廳B等を相催し參上令む可し。

また  とうごくちゅう  きょうげのやから をい は  ことごと もっ  から  しん  べ  のよしなり
又、當國中の京下之輩に於て者、悉く以て搦め進ず可し之由也。

参考@上総介廣常は、長元の乱の首謀者平忠常の直系。
参考A安西は、安房の西なので安西で、三浦の一族。
参考B在廳は、在庁官人と言って、地方の国衙や郡衙の地元の役人を指す。

現代語治承四年(1180)九月大一日庚戌。頼朝様が上総介広常の屋敷に行こうと言い出しました。北条時政殿始め面々はそうすべきだと云いました。安房国に領地のある安西三郎景益は頼朝様の子供の頃に特に仲良くしていた人なので、最初に手紙を出しました。その内容は、「令旨は間違いなく従うべきなので、国衙に勤める在庁官人を同行して参上しなさい。又安房の国内の京都から来ている平家方の連中は、全て捕まえて連れて来なさい。」との内容でした。

治承四年(1180)九月大二日辛亥。御臺所自伊豆山遷秋戸郷給。不奉知武衛安否。獨漂悲涙給之處。今日申尅。土肥弥太郎遠平爲御使自眞名鶴崎參着。雖申日來子細。不被知御乘船後事。悲喜計會云々。

読下し                 かのとい  みだいどころ いずさん よ  あきとのごう  うつ  たま    ぶえい  あんぴ   し たてまつ ず
治承四年(1180)九月大二日辛亥。御臺所、伊豆山自り秋戸郷@に遷り給ふ。武衛の安否を知り奉ら不、

ひと  ひるい  ただよ たま  のところ  きょうさるのこく  といのいやたろうとおひらおんつかい な   まなづるみさき よ   さんちゃく
獨り悲涙に漂い給ふ之處、今日申尅、土肥弥太郎遠平御使と爲し、眞名鶴崎自り參着す。 

ひごろ   しさい  もう    いへど   ごじょうせん  のち  こと  し ら ず   ひき けいかい  うんぬん
日來の子細を申すと雖も、御乘船の後の事は知被不、悲喜計會と云々。

参考@秋戸郷は、熱海伊豆山温泉では、静岡県熱海市伊豆山の水葉亭の地を秋戸郷として、国道135号線に丁寧な説明看板を立てている。

看板の説明「秋戸郷(あきとのごう)  この地は、北条政子が平氏の手より隠れ逃れた場所で、秋戸郷と言われています。治承四年(1180)八月二十三日、源頼朝は石橋山合戦に挙兵しましたが、戦に敗れて安房に逃れました。この間政子は、走湯山に身をひそめて頼朝の安否を気づかっていました。九月二日、政子は、伊豆山権現の別当文陽房覺淵の計らいで密かに熱海の秋戸郷(阿伎戸郷とも書く)に移されました。秋戸郷は足川を南の境とする走湯山の神域の東南隅にあり、浜の方からしか入れないうえ、船着場も近く、神域を後ろ盾に覺淵の保護も行き届き、平氏方の捜索をくらませることができました。その日のうちに土肥實平の子遠平が、頼朝が安房に逃れるまでの経過を知らされたが、頼朝が船に乗ってからの事は分からないので、その夜の秋戸郷には喜びも悲しみも出る道がなかったのでしょう。この年の十月七日、頼朝は鎌倉に入り、秋戸郷をたった政子は、十二日、頼朝との再会を喜びあったと思われます。「吾妻鏡」「熱海市史」より」

現代語治承四年(1180)九月大二日辛亥。御臺所(政子様)は熱海の走湯山権現から秋戸郷に移りましたが、頼朝様の無事を知らないので、一人で悲しんでいましたら、今日の午前八時頃土肥弥太郎遠平が頼朝様の伝令として真鶴岬から来ました。最近の動向を話しましたが、舟に乗ってからの事は分からないので、やっぱり悲しみは去りませんでしたとさ。

治承四年(1180)九月大三日壬子。景親乍爲源家譜代御家人。今度於所々奉射之次第。一旦匪守平氏命。造意企已似有別儀。但令一味彼凶徒之輩者。武藏相摸住人許也。其内。於三浦中村者。今在御共。然者。景親謀計有何事哉之由。有其沙汰。仍被遣御書於小山四郎朝政。下河邊庄司行平。豊嶋權守C元。葛西三郎C重等。是各相語有志之輩。可參向之由也。就中。C重於源家抽忠節者也。而其居所在江戸河越等中間。進退定難治歟。早經海路。可參會之旨。有慇懃之仰云々。又可調進綿衣之由。被仰豊嶋右馬允朝經之妻女云々。朝經在京留守之間也。」今日。自平北郡赴廣常居所給。漸臨昏黒之間。止宿于路次民屋給之處。當國住人長狹六郎常伴。其志依在平家。今夜擬襲此御旅舘。而三浦次郎義澄爲國郡案内者竊聞彼用意。遮襲之。暫雖相戰。常伴遂敗北云々。

読下し               みずのえね  かげちか  げんけふだい ごけにんたりなが     このたびしょしょ をい いたてまつ のしだい
治承四年(1180)九月大三日壬子。景親、源家譜代の御家人爲乍ら、今度所々に於て射奉る之次第は、

いったん へいし   めい  まも   あらず ぞうい  くわだ   すで  べつぎ あ    に
一旦は平氏の命を守るに匪、造意の企て、已に別儀有るに似たり。

ただ    か  きょうと  いちみせし  のやからは  むさし さがみ  じゅうにんばか なり  そ  うち  みうらなかむら  をい  は いまおんとも  あ
但し、彼の凶徒に一味令む之輩者、武藏相摸の住人許り也。其の内、三浦中村に於て者今御共に在り。

しからば かげちか はか  なにごとや あ   のよし  そ   さた あ
然者、景親の計り何事哉有る之由、其の沙汰有り。

よっ  おんしょを おやまのしろうともまさ  しもうこうべしょうじゆきひら てしまのごんのかみきよもと かさいのさぶろうきよしげら つか  さる
仍て御書於小山四郎朝政@・下河邊庄司行平A・豊嶋權守C元B・葛西三郎C重C等に遣は被る。

これ おのおの あいかた  ゆうしのやから さんこうすべ  のよしなり
是、各、相語るの有志之輩は參向可し之由也。

なかんづく  きよしげ  をい    げんけ  ちうせつ  ぬき      ものなり  しか   そ   きょしょ   えど  かわごえら  ちゅうかん あ
就中にC重に於ては源家に忠節を抽んずる者也。而して其の居所は江戸、川越等の中間に在り、

しんたいさだ   おさ    がた  か  はや  かいろ   へ    さんかいすべ のむね  いんぎんのおお あ    うんぬん
進退定めし治まり難き歟。早く海路を經て、參會可し之旨、慇懃之仰せ有りと云々。

また めんい  ちょうしんすべ  のよし   てしまのうまのじょうともつねのさいじょ  おお  られ   うんぬん  ともつね  ざいきょう るす のかんなり
又、綿衣を調進可し之由を、豊嶋右馬允朝經之妻女に仰せ被ると云々。朝經は在京し留守之間也。

きょう へいほくぐん よ    ひろつね きょしょ おもむ たま
今日平北郡D自り、廣常の居所に赴き給ふ。

ようや     こんこく  のぞ  のかん   ろじ   みんやに ししゅく  たま のところ
漸くして昏Kに臨む之間、路次の民屋于止宿し給ふ之處、

とうごくじゅうにん ながさのろくろうつねとも  そ こころざし へいけ あ    よっ     こんや   こ   ごりょかん   おそ      ぎ
當國住人長狹六郎常伴Eは、其の志、平家に在るに依て、今夜、此の御旅舘を襲はんと擬す。

しか    みうらのじろうよしずみ  こくぐん  あないじゃ  なし  か   ようい   うかが き    これ  さえ   おそ
而して三浦次郎義澄F、國郡の案内者と爲、彼の用意を竊い聞き、之を遮ぎり襲ふ。

しばら あいたたか いへど   つねともはいぼく  と    うんぬん
暫く相戰うと雖も、常伴敗北を遂ぐと云々。

参考@小山は、現栃木県小山市。
参考A下河邊は、荒川沿いの幸手市等。
参考B豊嶋は、てしまと読み北区豊島7-31-7に清光寺(北区観光→王子豊島エリア→清光寺)あり。
参考
C葛西は、葛西御厨で現葛飾区と市川市。柴又帝釈天から荒川に沿って上流へ15分位歩いたところに葛西神社がある。また、四ツ木一丁目に西光寺があり、「西光寺は、鎌倉時代、関東の豪族として雄飛した葛西三郎清重の居館跡として知られています。当寺は古く家禄元年(1225)清重の創建と伝えられ、天台宗超越山来迎院と号しています。また、近くにある清重塚と称する古墳は葛西清重夫妻の遺骸を葬った場所といわれています。葛飾区・(社)葛飾区観光協会」
参考D平北郡(現鋸南町安房勝山)から上総廣常の屋敷(上総一ノ宮)へ向かう途中の増間の地には、頼朝が芋を洗っている百姓に「串に刺して焼いて食べたいので芋をくれ。」と乞うものの百姓はケチって「この芋は固いから。」と断ってしまった。それ以来ここでは固い芋しか取れなくなったという伝説がある。
参考E
長狹六郎常伴とは、長寛元年(1163)三浦大介義明の長男杉本太郎義宗が長狭を攻めようと安房白浜で一週間ほど準備しているうちに、情報が漏れて、鴨川へ上陸作戦を展開するが、待ち伏せにあって戦死している。これ程前から三浦の安房進出領土問題で三浦と長狭は対立していた。
参考F三浦次郎義澄長狹六郎常伴との合戦の場所を「一戦場」との地名が残り、公園になっている。又、この時、頼朝は鴨川市のある島にかくまってもらったので、以後この島をかくまってくれた人に配領され、人の名を取って二右衛門島と呼ばれるようになり、今でもその子孫の個人の所有となっているという。

現代語治承四年(1180)九月大三日壬子。大庭三郎景親は源氏代々の家来なのに、今回あちらこちらで頼朝様を討とうとする事は、一応は平家の命令に従っているように見えるが、その行動を見てると、別な考えを持っているようだ。但し、それに荷担しているのは武蔵と相模に領地のある武士計りで、その内の三浦一族と中村一族はここにお供している。そうすると、大庭三郎景親の行動なんてたいしたことは無いので気にするな。とお決めになられました。そこで手紙を小山四郎朝政、下河辺庄司行平、豊島権守清元、葛西三郎清重に遣わしました。これは、それぞれ頼朝様に味方する志の武士は集まるようにとの内容でした。中でも、清重は源氏への忠義心を持っている者です。しかし、その居場所は江戸太郎重長と川越太郎重頼の中間なので、ここへ来るのに道を決め難いだろうから、早く舟で海を渡ってくるように丁寧なお言葉がありましたそうな。又綿入れを作ってよこすように豊島右馬允朝経の妻に言いつけたんだそうだ。豊島右馬允朝経は大番で京都に行っていて留守だからです。

今日平北郡から上総権介広常の屋敷へ向かいました。暗くなるまで歩いて民家に泊ることになりましたが、安房の国に領地のある長狭常伴は、その意思が平家側にあるので、今夜この宿泊所を襲おうと計画している。しかし、三浦次郎義澄はこの辺りの案内人からこの準備のことを聞き知って、逆に先回りをしてこれを襲って暫く戦い、常伴は負けてしまったんだとさ。

治承四年(1180)九月大四日癸丑。安西三郎景益依給御書。相具一族并在廳兩三輩參上于御旅亭。景益申云。無左右有入御于廣常許之條不可然。如長狹六郎之謀者。猶滿衢歟。先遣御使爲御迎可參上之由。可被仰云々。仍自路次。更被廻御駕渡御于景益乃宅。被遣和田小太郎義盛於廣常之許。以藤九郎盛長。遣千葉介常胤之許。各可參上之趣也。

読下し               みずのとうし あんざいのさぶろうかげます おんしょ たま     よっ
治承四年(1180)九月大四日癸丑。安西三郎景益、御書を給はるに依て、

いちぞくならび  ざいちょうりょうさんやからあいぐ   ごりょていに さんじょう
一族并びに在廳兩三輩を相具し、御旅亭于參上す。

かげますもう    い       とこう な   ひろつね もとに にゅうごあ  のじょう   しか べからず  ながさのろくろう ごと  のぼうしゃ  なおみち みつ  か
景益申して云はく、左右無く廣常の許于入御有る之條、然る不可。長狹六郎の如き之謀者、猶衢に滿る歟。

ま  おんつかい つか     おんむか   な   べ  さんじょうのよし  おお  られ  べ    うんぬん
先ず御使を遣はし、御迎へを爲す可く參上之由、仰せ被る可しと云々。

よっ   ろじ よ   さら  おんが   めぐらさ   かげますの たくに とぎょ    わだのこたろうよしもり を ひろつねのもと  つか  され
仍て路次自り更に御駕を廻被れ、景益之宅于渡御し、和田小太郎義盛於廣常之許に遣は被、

とうくろうもりなが   もっ  ちばのすけつねたね のもと  つか    おのおの さんじょう べ のおもむきなり
藤九郎盛長を以て千葉介常胤@之許に遣はす。各、參上す可し之趣也。

参考@千葉介常胤は、上総權介廣常と同族で介は下総の介で千葉の郡司を現すと思われる。

現代語治承四年(1180)九月大四日癸丑。安西三郎景益は手紙を戴いたので、一族と在庁官人をニ、三人を引き連れて宿泊所に来ました。安西三郎景益が云うには、安易に上総権介広常の所へ行くべきではない。長狭のような手柄ばかりを狙っている連中が沢山います。まず途中から使いを出して、迎えに来るように仰せられるのが宜しいと存知ますだってさ。そこで、馬首をまわして安西三郎景益の屋敷に行かれて、和田太郎義盛を上総権介広常の所へ行かせ、藤九郎盛長を千葉常胤の所へ行かせて、それぞれに頼朝様のもとへ来るように伝えさせる内容です。

治承四年(1180)九月大五日甲寅。有御參洲崎明神。寳前凝丹祈給。所遣召之健士悉令歸往者。可奉寄功田賁神威之由。被奉御願書云々。

読下し                きのえとら すのさきみょうじん ほうぜん ぎょさんあ     たんき  こ    たま
治承四年(1180)九月大五日甲寅。洲崎明~@の寳前に御參有り。丹祈を凝らし給ふ。

め  つか    ところのけんし  ことごと   きおうせし  ば   こうでん  しんい  みつ  よ  たてまつ べ  のよし  ごがんしょ たてまつられ  うんぬん
召し遣はす所之健士、悉く、歸往令め者、功田を~威に賁ぎ寄せ奉る可し之由、御願書を奉被ると云々。

参考@洲崎明神社は、千葉県館山市の洲崎神社。最寄駅は内房線館山駅からバスで洲の崎神社前下車。

現代語治承四年(1180)九月大五日甲寅。頼朝様は洲崎神社の祭壇前に出かけて、熱心なお祈りをしました。上総権介広常と千葉常胤に行かせて使者が皆元気に帰って来たら、良い田を神社に寄付しますという願い文を奉納しましたとさ。

治承四年(1180)九月大六日乙卯。及晩。義盛歸參。申云。談千葉介常胤之後。可參上之由。廣常申之云々。

読下し                 きのとう  ばん  およ   よしもり きさん    もう    い
治承四年(1180)九月大六日乙卯。晩に及び、義盛歸參す。申して云はく、

ちばのすけつねたね だん   ののち  さんじょう べ   のよし  ひろつねこれ もう    うんぬん
千葉介常胤に談ずる之後、參上す可し之由、廣常之を申すと云々。

現代語治承四年(1180)九月大六日乙卯。夜になって和田太郎義盛が帰ってきました。報告をするのには、千葉常胤に相談した上で参りますと上総権介広常は言ってましたとさ。

治承四年(1180)九月大七日丙辰。源氏木曽冠者義仲主者。帶刀先生義賢二男也。義賢。去久壽二年八月。於武藏國大倉舘。爲鎌倉悪源太義平主被討亡。于時義仲爲三歳嬰兒也。乳母夫中三權守兼遠懷之。遁于信濃國木曾。令養育之。成人之今。武畧禀性。征平氏可興家之由有存念。而前武衛於石橋。已被始合戰之由。達遠聞。忽相加欲顯素意。爰平家方人有笠原平五頼直者。今日相具軍士。擬襲木曾。々々方人村山七郎義直。并栗田寺別當大法師範學等聞此事。相逢于當國市原。决勝負。兩方合戰半。日已暮。然義直箭窮頗雌伏。遣飛脚於木曾之陣。告事由。仍木曾率來大軍。競到之處。頼直怖其威勢逃亡。爲加城四郎長茂赴越後國云々。

読下し              ひのえたつ  げんじのきそかじゃよしなかぬし は  たてわき せんじょう よしかた じなんなり
治承四年(1180)九月大七日丙辰。源氏木曾冠者義仲主者、帶刀@先生A義賢の二男也B

よしかた  さんぬ きゅうじゅにねん はちがつ むさしのくにおおくらやかた  をい かまくらのあくげんたよしひらぬし ため   う  ほろ  さる
義賢は、去る久壽二年C八月、武藏國大倉舘Dに於て、鎌倉惡源太義平主の爲に、討ち亡ぼ被る。

ときに よしなかさんさい えいじ  な  なり  めのとふなかざごんのかみかねとお これ ふところ   しなののくにきそ に のが   これ  よういくせし
時于義仲三歳の嬰兒を爲すE也。乳母夫中三權守兼遠、之を懷し、信濃國木曾F于遁れ、之を養育令む。

せいじんのいま  ぶりゃくせい  う     へいし  せい   いえ  おこ  べ   のよし  ぞんねんあ
成人之今、武畧性を禀け、平氏を征し、家を興す可し之由、存念有り。

しか    ぶえいいしばし をい    すで  かっせん はじ  らる  のよし  とおぶん  たっ   たちま あいくは      そい   あらは    ほっ
而して武衛石橋に於て、已に合戰を始め被る之由、遠聞に達し、忽ち相加はり、素意を顯さんと欲す。

ここ  へいけ  かたうど おがさわらのへいごよりなお   ものあ    きょう ぐんし   あいぐ    きそ   おそ      ぎ
爰に平家の方人小笠原平五頼直Gとの者有り。今日軍士を相具し木曾を襲はんと擬す。

 きそ   かたうど むらやまのしちろうよしなお なら  くりたじ べっとう だいほうしはんがくら  こ  こと  き     とうごくいちはら に あいあ    しょうぶ  けっ
々々の方人、村山七郎義直H并びに栗田寺I別當大法師範覺等此の事を聞き、當國市原J于相逢い、勝負を决すK

りょうほう かっせんなか   ひ すで  くれ   しか    よしなお や きゅう   すこぶ しふく    ひきゃくを  きそ   じん  つか      こと  よし  つげ
兩方の合戰半ばに日已に暮る。然るに義直箭に窮し、頗る雌伏す。飛脚於木曾の陣に遣はし、事の由を告る。

よっ   きそ たいぐん ひ   き     きそ  いた のところ  よりなお そ いせい  おそ  とうぼう    じょうのしろうながもち くは     ため  えちごのくに おもむ   うんぬん
仍て木曾大軍を率き來たり競い到る之處、頼直其の威勢を怖れ逃亡し、城四郎長茂に加はらん爲、越後國に赴くと云々。

参考@帯刀は、東宮(皇太子)の警備兵で太刀を付けたまま御殿に入れる。一度その職につくとそれを名誉の呼び名として使う。
参考A帶刀先生は、東宮警備兵の隊長。
参考B義賢の二男也は、長男の兄は頼政の宇治合戦で死んでいる。
参考C久寿二年は、1155年で保元の乱の一年前。
参考D武藏國大倉舘は、武蔵嵐山で下車して西へ25分歩くと畠山重忠の菅谷館跡あるが、太田道灌の息子の戦国時代にかなり直している。そばに埼玉県歴史資料館が有る。そこから更に15分歩くと、大倉館跡有り、二町四方の大きさで残っている。二町四方は大豪族の本家で、分家は一町四方の四分の一。その跡は大倉八幡神社になっている。
参考E義仲は三歳の嬰兒を為すは、数え年二歳の間違い。
参考F木曾は、当時の文献では吉祖庄と書かれている。
参考G小笠原平五頼直は、長野県中野市笠原。
参考H
村山七郎義直は、長野市村山。
参考I栗田寺は、長野市栗太。
参考J當國市原は、長野市市原。
参考K勝負を决すは、市原合戦とも善光寺裏合戦とも云い、当時の戦は一に馳せ弓、二に矢戦さだった。切り結びは余りやらない。

現代語治承四年(1180)九月大七日丙辰。木曽冠者義仲は源義賢の次男であります。帯刀先生義賢は昔の久寿二年八月に武蔵国大倉の館で鎌倉悪源太義平に打ち滅ぼされました。そのとき義仲は三歳(二才)の子供だったので、乳母の中三権守中原兼遠が抱いて信州の木曽へ連れて逃げ、これを育てました。成人した今は武士の家系の武芸の血を牽いていて、平家を征伐して源家を起こしたいと云う思いがあります。そこへ頼朝様が石橋山で合戦を始めてしまった耳に届き、直ぐに参加してその志を表したいと思いました。
そしたら平家の味方をしている小笠原平五頼直がいました。今日、兵を集めて木曽の源氏を攻めようと思い立ちました。木曽の味方の村山七郎義直と栗田寺の長官大法師の範覚達がこのことを伝え聞いて、信濃国の市原で出会い、戦となりました。双方の合戦の途中で日が暮れました。しかし、村山七郎義直は矢が無くなり、とても戦えなくなり、伝令を木曽冠者義仲の陣にいかせ、次第を伝えました。それなので、木曽冠者義仲は大軍を連れて急いで来たので、小笠原平五頼直はその勢いに怯えて逃げ出し、城四郎長茂の軍勢に入るため越後の国へ向かったんだとさ。

治承四年(1180)九月大八日丁巳。北條殿爲使節。進發甲斐國給。相伴彼國源氏等。到信濃國。於歸伏之輩者。早相具之。至驕奢之族者。可加誅戮之旨。依含嚴命也。

読下し                          ひのとみ  ほうじょうどのしせつ  なし   かいのくに  しんぱつ  たま
治承四年(1180)九月大八日丁巳。北條殿使節と爲て、甲斐國に進發し給ふ。

か   くに  げんじら   あいともな しなののくに いた   きふく のやから  おい  は  はや これ  あいぐ
彼の國の源氏等を相伴ひ信濃國に到り、歸伏之輩に於て者、早く之を相具し、

きょうしゃのぞく  いた  ば  ちうりく  くわ    べ   のむね  げんめい  ふく    よっ  なり
驕奢之族に至ら者、誅戮を加へる可し之旨、嚴命を含むに依て也。

参考この当時、京都では頼朝の蜂起よりも、甲斐の武田党(武田太郎信義よりも一條次郎忠頼の方が有名)や常陸の佐竹の蜂起は承知していたようだが、頼朝のことは賊首(義朝)の子、名を知れず、が伊豆で反乱を起こした程度にしか知られていなかった。

現代語治承四年(1180)九月大八日丁巳。北条時政殿は、派遣員として甲斐の国へ出発されました 甲斐の国の源氏を一緒に引き連れて信濃の国へ行き、降参し従う連中は一緒に連れて行き、奢れる平家方のやつらには罰を加え殺してしまえ。と云う厳しい命令を(頼朝様から)受けているからです。

治承四年(1180)九月大九日戊午。盛長自千葉歸參申云。至常胤之門前。案内之處。不經幾程招請于客亭。常胤兼以在彼座。子息胤正胤頼等在座傍。常胤具雖聞盛長之所述。暫不發言。只如眠。而件兩息同音云。武衛興虎牙跡。鎭狼唳給。縡最初有其召。服應何及猶豫儀哉。早可被献領状之奉者。常胤云。心中領状更無異儀。令興源家中絶跡給之條。感涙遮眼。非言語之所覃也者。其後有盃酒次。當時御居所非指要害地。又非御曩跡。速可令出相摸國鎌倉給。常胤相率門客等。爲御迎可參向之由申之。

読下し               つちのえうま  もりなが ちば よ  きさん   もう     い      つねたねのもんぜん いた    あない    のところ
治承四年(1180)九月大九日戊午。盛長千葉自り歸參し申して云はく、常胤之門前に至り、案内をこう之處。

いくほど  へず   きゃくていにしょうせい      つねたねかね もっ  か  ざ   あ     しそく たねまさ たねよりら ざ かたわら あ
幾程を經不に客亭于招請される。常胤兼て以て彼の座に在り。子息胤正・胤頼等坐の傍に在り。

つねたね つぶさ もりながののべ ところ き    いへど   しばら はつげん ず  ただねむ   ごと    しか   くだん りょうそくどうおん  い
常胤、具に盛長之述る所を聞くと雖も、暫く發言せ不。只眠るが如し。而して件の兩息同音に云はく、

ぶえい  こが  あと  おこ    ろうるい しず  たま    こと  さいしょ  そ   め   あ     ふくおう  なん  ゆうよ   ぎ  およ    や
武衛虎牙の跡を興して狼唳を鎭め給ふ。縡の最初に其の召し有り。服應に何ぞ猶豫の儀に及ばん哉。

はや りょうじょうのほう  けん  られ  べ    てへ
早く領状之奉を献ぜ被る可し。者り。

つねたね い    しんちゅりょうじょうさら  いぎ な    げんけちうぜつ  あと  おこせし たま  のじょう  かんるいめ さへぎ   げんごの およ  ところ あら   なり   てへ
常胤云はく、心中領状更に異儀無し。源家中絶の跡を興令め給ふ之條、感涙眼を遮り、言語之覃ぶ所に非ざる也。者り。

そ   ご   はいしゅ あ
其の後、盃酒有り。

つい    とうじ   おんきょしょ  さ   た   ようがい  ち   また ごのうせき あらず すみや  さがみのくに かまくら  い  せし  たま  べ
次でに當時の御居所は指し被る要害の地@、又御嚢跡に非。速かに相摸國の鎌倉に出で令め給ふ可し。

つねたねもんきゃくら あいひき  おんむかへ ため さんこうすべ  のよし  これ  もう
常胤門客等を相率ひ、御迎の爲、參向可し之由、之を申す。

参考@要害の地は、囲壁都市または城壁都市といい、鎌倉・後北條氏の小田原・秀吉の大阪城と京都の御土居が考えられる。

現代語治承四年(1180)九月大九日戊午。盛長が千葉から帰ってきて云いました。常胤の門前で案内を申し出た所、幾らも待たせずに客用の建物へ招かれました。常胤は前もってそこの首座におり、子供の胤正と胤頼がそばにいました。常胤はきちんと全て盛長の話すことを聞いているけれども、暫く発言をせず、まるで眠っているかのようです。そんなものなので、その二人の息子は異口同音に言いました。「頼朝様がまるで眠れる虎が目を覚ますが如く、先祖の英雄の跡を思い起こして、世間に我が物顔にはびこっている狼のような平家を攻め鎮めようと、事の最初に我が家に呼びかけられたのに、なんで答えを躊躇しているのですか。早く承諾の手紙を献じることですよ。」と云いました。
常胤が云うには、「心は了承する事に何の異論も無い。源氏の途絶えていた権勢を盛り返そうとのお心に、感動の涙が目に溢れ、言葉では言い表せないのだよ。」と云いました。その後、酒を振舞われました。その時に「今のおられる所は、たいした守りやすい土地でもなし、ましてや先祖の謂れも無い。速やかに相模の鎌倉へ行かれるが良い。常胤が出入りのもの皆引き連れて、頼朝様をお出迎えに参りましょう。」と云いました。

治承四年(1180)九月大十日己未。甲斐國源氏武田太郎信義。一條次郎忠頼已下。聞石橋合戰事。奉尋武衛。欲參向于駿河國。而平氏方人等在信濃國云々。仍先發向彼國。去夜止宿于諏方上宮庵澤之邊。及深更。女一人來于一條次郎忠頼之陣。稱有可申事。忠頼乍怪。招于火爐頭謁之。女云。吾者當宮大祝篤光妻也。爲夫之使參來。篤光申源家御祈祷。爲抽丹誠。參篭社頭。既三ケ日。不出里亭。爰只今夢想。着梶葉文直垂。駕葦毛馬之勇士一騎。稱源氏方人。指西揚鞭畢。是偏大明神之所示給也。何無其恃哉。覺之後。雖可令參啓。侍社頭之間。令差進云々。忠頼殊信仰。自求出野劔一腰。腹巻一領。与彼妻。依此告。則出陣。襲到于平氏方人菅冠者伊那郡大田切郷之城。冠者聞之。未戰放火於舘自殺之間。各陣于根上河原。相議云。去夜有祝夢想。今思菅冠者滅亡。預明神之罸歟。然者。奉寄附田園於兩社。追可申事由於前武衛歟者。皆不及異儀。召執筆人令書寄進状。上宮分。當國平出。宮所兩郷也。下宮分。龍市一郷也。而筆者誤書加岡仁谷郷。此名字衆人未覺悟。稱不可然之由。再三雖令書改。毎度載兩郷名字之間。任其旨訖。相尋古老之處。号岡仁谷之所在之者。信義忠頼等拊掌。上下宮不可有勝劣之神慮已掲焉。弥催強盛信。歸敬礼拝。其後。於平家有志之由風聞之輩者。多以令糺断云々。

読下し                つちのとみ  かいのくに  げんじ  たけだのたろうのぶよし いちじょうのじろうただよりいげ いしばしかっせん こと  き
治承四年(1180)九月大十日己未。甲斐國の源氏、武田太郎信義、一條次郎忠頼已下は石橋合戰の事を聞き、

ぶえい  たず たてまつ    ほっ   するがのくにに さんこう    しか   へいし  かたうどら しなののくに  あ    うんぬん  よっ  ま   か   くに  はっこう
武衛を尋ね奉らんと欲し、駿河國于@參向す。而るに平氏の方人等信濃國に在りと云々。仍て先ず彼の國へ發向す。

さんぬ よ すわのじょうぐういおりざわのへんに ししゅく しんこう  およ  あおめ ひとり  いちじょうのじろうただよりのじんにきた   もう  べ   ことあ     しょう
去る夜諏方上宮庵澤之邊于止宿す。深更に及び女A一人、一條次郎忠頼之陣于來り、申す可く事有りと稱す。

ただよりあやし なが   かろのほとりにまね これ  えっ    おんない    われはとうぐうおおはふり あつみつ つまなり つまのつか   なし  まい  きた
忠頼怪み乍ら、火爐頭于招き之に謁す。女云はく、吾者當宮大祝B篤光の妻也。夫之使いと爲て參り來る。 

あつみつもう    げんけ   ごきとう  ため  たんせい  ぬき   しゃとう  さんろう  すで  みっかび さとてい いでず
篤光申す。源家の御祈祷の爲、丹誠を抽んじ社頭に參籠し既に三ケ日里亭に出不。

ここ  ただいま むそう     かじばもん   ひたたれ き    あしげうま  が   の  ゆうしいっき   げんじ  かたうど  しょう   にし  さ     むち  あ おはんぬ
爰に只今夢想にて、梶葉文Cの直垂を着て葦毛馬に駕す之勇士一騎、源氏の方人と稱し、西を指して鞭を揚げ畢。

これ  ひと   だいみょうじんのしめ たま ところなり  なん  そ  たの  なか   や
是、偏へに大明神之示し給ふ所也。何ぞ其の恃み無らん哉。

さめ  ののち  さんけいせし  べ    いへど  しゃとう  はべ  のかん  さ   しん  せし   うんぬん
覺る之後、參啓令む可しと雖も、社頭に侍る之間、差し進ぜ令むと云々。

ただよりこと  しんこう    みずか もと  い      のだちひとこし はらまきいちりょう  か  つま  あた
忠頼殊に信仰し、自ら求め出だしし野剱一腰・腹巻一領を彼の妻に与える。

こ   つげ   よっ   すなは しゅつじん へいし  かたうど  すげのかじゃ  いなぐんおおたぎりごうの しろに おそ  いた
此の告げに依て、則ち出陣し平氏の方人、菅冠者Dの伊那郡大田切郷之城于襲い到る。

かじゃ これ  き    いま  たたか     たち をい  ひ  はな  じさつ     のかん おのおの ねがみがわらに じん    あいぎ    い
冠者之を聞き、未だ戰はずに舘に於て火を放ち自殺する之間、各、根上河原于陣し、相議して云はく。

さんぬ よ はふり むそう あ    いまおも   すげのかじゃ めつぼう みょうじんのばつ あずか か
去る夜祝の夢想有り。今思うに菅冠者の滅亡は明神之罸に預る歟。 

しからば でんえんを りょうしゃ きふ たてまつ おっ  こと よしを さきのぶえい  もう  べ    かてへ   みな いぎ  およ  ず
然者、田園於兩社に寄附し奉り追て事の由於前武衛に申す可き歟者り。皆異儀に及ば不。

しっぴつ め     きしんじょう  か   せし    じょうぐうぶん  とうごく ひらいで みやどころ りょうごうなり げくうぶん たついち  いちごうなり
執筆を召し、寄進状を書か令む。上宮分は當國の平出、宮所の兩郷也。下宮分は龍市Eの一郷也。

しか   ひっしゃあやま   おかにやごう    か   くわ      こ  みょうじ しゅうじんいま  かくご       しか  べからず  よし  しょう
而るに筆者誤りて岡仁谷郷Fを書き加へる。此の名字は衆人未だ覺悟せず。然る不可の由を稱す。

さいさん か あらた せし   いへど   まいどりょうごう みょうじ  の      のかん  そ   むね まか おわんぬ
再三書き改め令むと雖も、毎度兩郷の名字を載せる之間、其の旨に任せ訖。

ころう  あいたずね のところ  おかにや  ごう   のところこれあ    てへ
古老に相尋る之處、岡仁谷と號す之所之在りと者り。

のぶよし  ただよりら て  う     じょうげ  みや しょうれつあ べからず のしんりょ すで けちえん  ややきょうせい しん もよお きけいれいはい
信義・忠頼等掌を拊ち、上下の宮に勝劣有る不可之神慮、巳に掲焉、彌強盛の信を催し歸敬禮拜す。

そ  のち  へいけ こころざしあ  のよし  ふうぶん   のやから  をい は   おお  もっ  きゅうだん  うんぬん
其の後、平家に志有る之由を風聞する之輩に於て者、多く以て糺斷すと云々。

参考@駿河國には、頼朝のいる相模ではなく、全く違う方向へ出陣しているが、本当に頼朝の味方になろうとしているのか。武田はこれが書かれた時代には殆ど北條氏の被官化しているので、悪口は書かないで弁解している。
参考Aとは、本来女性は結婚すると眉を剃ってしまうが、眉が青いので若い未婚の女性を指す。但しここでは篤光の妻と云ってるので正妻ではないのかも知れない。
参考Bは、日本史用語辞典によると、神に仕える職。神主や禰宜の下位に位置した。とある。
参考C
梶葉文は、諏訪神社の紋で、諏訪梶、根月梶、根有梶とも云い、諏訪市章にもなっている。
参考D
菅冠者は、小田切友則。参考:伊那郡大田切郷は、駒ヶ根市赤穂。(但し諏訪から十余里もある)
参考E龍市は、辰野町立野。
参考F
岡仁谷郷は、岡谷市岡野。

現代語治承四年(1180)九月大十日己未。甲斐の国の源氏である、武田太郎信義と一條次郎忠頼以下は、石橋合戰の事を聞いて、頼朝様に加わろうと考え、駿河の国へ向かいました。しかし、平氏の味方が信濃の國にいるとの事なので、まずそちらの国へ向かって行きました。

昨晩諏訪神社の上宮の庵沢の辺りに宿泊したところ、深夜に婦人が一人一条次郎忠頼の陣に来て、話すことが有ると云いました。一条次郎忠頼は不信に思いながらも、焚き火のほとりに招いて逢いました。女がいうには「私はこの宮の大祝篤光(おおはふりあつみつ)の妻です。夫の使者として来ました。大祝篤光が云うには、源氏のために祈祷をしようと心を込めて、お篭りして三日間も社屋から家へは出てきていません。そしたら夢想の中に梶の葉の紋の直垂を着て葦毛の馬に乗った勇士が一騎、源氏のお味方である。と云って西へ向けて走っていった。これは諏訪明神のご威光が現れたのだから、なんで頼みにならないことがありましょうか。夢のお告げから覚めて、伝えに来ようと思ったけれど、神様の前で拝んでいるべきだと思い、替わりに私を使いによこしました。一条次郎忠頼は特に諏訪様を信仰しているので、自分からわざわざ捜し求めた公卿用の飾り太刀一腰と腹巻一領をその妻に与えました。

そこで、このお告げに従って直ぐに出陣して平氏の味方の菅冠者の伊那郡大田切郷の城へ攻めるため到着しました。菅はこの事を聞いて、戦いも始めない内に館に火を付けて自殺してしまったので、皆根上河原に陣をひいて、相談して云うには、昨夜の祝の夢のお告げがあって、今日菅冠者が滅んだのは明神が罰を与えたからじゃないだろうか。それならば、庄園を上下社に寄附して、後日頼朝様に報告しようかと云えば、皆反対をしませんでした。右筆を呼んで、寄進状を書かせました。上宮の分は信州の平出と宮所の二郷、下宮の分は龍市の一郷です。それなにの書く人が間違えて岡仁谷郷を書き足していました。何度も書き直させましたが、毎回二郷の名前を書いてしまうので、そのままにして置きました。老人に聞いてみると岡仁谷と呼ばれる所があると云いました。武田太郎信義と一條次郎忠頼は手を打って、上下の神社に差別があってはならない~の思し召しが明らかだ。これはすごい神のお告げだと信じて、改めて信心しました。その後、平家方につくと噂される武士達をかなり多く攻め糺したんだとさ。

治承四年(1180)九月大十一日庚申。武衛巡見安房國丸御厨給。丸五郎信俊爲案内者候御共。當所者。御曩祖豫州禪門〔頼義〕平東夷給之昔。最初朝恩也。左典厩〔義朝〕令請廷尉禪門〔爲義〕御讓給之時。又最初之地也。而爲被祈申武衛御昇進事。以御敷地。去平治元年六月一日。奉寄 伊勢太神宮給。果而同廿八日補藏人給。而今懷舊之餘。令蒞其所給之處。廿餘年往時。更催數行哀涙云々。爲御厨之所。必尊神之及惠光給歟。仍無障碍于宿望者。當國中立新御厨。重以可寄附彼神之由。有御願書。所被染御自筆也。

読下し                 かのえさる  ぶえい あわのくに まるのみくりや じゅんけん たま   まるのごろうのぶとし あないじゃ な   おんとも そうら
治承四年(1180)九月大十一日庚申。武衛、安房國丸御厨を巡見し給う。丸五郎信俊案内者と爲し、御共に候う。

とうしょは  おんのうそ よしゅうぜんもん  とうい たいら たま のむかし  さいしょ ちょうおんなり
當所者、御曩祖豫州禪門A東夷を平げ給ふ之昔、最初の朝恩也。

さてんきゅう   ていいぜんもん   おんゆず   う  せし  たま  のとき  またさいしょの ちなり
左典厩B・廷尉禪門Cの御譲りを請け令め給ふ之時、又最初之地也。

しか    ぶえい  ごしょうしん こと  おんしきち   もっ  いの  もうされ  ため  さぬ へいじがんねんろくがつついたち いせだいじんぐう  よ たてまつ たま
而して武衛の御昇進の事を御敷地を以て祈り申被ん爲、去る平治元年六月一日、伊勢太神宮に寄せ奉り給ふD

はたして おな  にじうはちにちくろうど  ぶ    たま
果而、同じき廿八日藏人に補され給ふE

しか    いま かいきゅうのあま  そ   ところ のぞませし たまのところ  にじゅうよねん おうじ  さら  すうぎょう あいるい もよお   うんぬん
而して今、懷舊之餘り其の所に莅令め給ふ之處、廿餘年の往事、更に數行の哀涙を催すと云々。

みくりや  な   のところ かなら せんしんのけいこう およ たま  か
御厨と爲す之所、必ず尊~之惠光に及び給ふ歟。

よっ  しゅくぼうにしょうへき なく ば  とうごくちゅう しんみくりや  た  かさ   もっ   か   かみ  きふ すべ   のよし  ごがんしょ あ
仍て宿望于障碍無ん者、當國中に新御厨を立て重ねて以て彼の~に寄附可し之由、御願書有り。

おんじひつ  そ   られ ところなり
御自筆を染め被る所也。

参考@丸御厨は、千葉県丸山町。御厨は、伊勢神宮の庄園。伊勢神宮は天皇の娘が斎宮になるので天皇家に寄進したと同じご威光を受けられる。
参考A豫州禪門は、源頼義─義家─義親─C廷尉禪門爲義─B左典厩義朝─頼朝
参考D伊勢太神宮に寄せ奉り給ふは、御厨をたてるとも云い、庄園を伊勢神宮に寄進することで、この時点で御厨と云う。
参考E藏人に補され給ふは、上西門院統子(鳥羽上皇の女)の蔵人。頼朝の母の姉二人も仕えている。

現代語治承四年(1180)九月大十一日庚申。頼朝様は安房の丸御厨を見学して回りました。丸五郎信俊がお供して案内しました。ここは先祖の与州禅門源頼義様が前九年の役で阿部一族を征伐した時に初めて朝廷から貰った所です。また源義朝様が父の廷尉為義様から譲渡された最初の地でもあります。そして頼朝様の位の上がることを祈ってこの地を平治元年六月一日に伊勢神宮に庄園を寄進したので、同月の二十八日に蔵人に任命されました。そこで今懐かしく思う余りここに立つと、二十年以上の昔を思い出して、懐かしの涙を流したんだとさ。御厨にした所は必ず~のご加護にあうものなので、この先の願望に対して邪魔が無く旨くいけば、ここ安房の国に新しい御厨を立てて、なお伊勢神宮に寄附しましょうと、願いを自筆で書いて捧げました。

治承四年(1180)九月大十二日辛酉。令奉寄神田於洲崎宮給。御寄進状。今日被送進社頭云々。

読下し                  かのととり  かんだを すのさきみや よ たてまつ せし たま

治承四年(1180)九月大十二日辛酉。~田於洲崎宮に寄せ奉ら令め給ふ。

ごきしんじょう   きょう   しゃとう  おく  すす  られ    うんぬん

御寄進状を今日、社頭に送り進め被ると云々。

現代語治承四年(1180)九月大十二日辛酉。頼朝様は、年貢を神社に納めるための田んぼを洲崎宮に寄進されました。その寄進状を今日神社に送りましたとさ。

治承四年(1180)九月大十三日壬戌。出安房國。令赴上総國給。所從之精兵及三百餘騎。而廣常聚軍士等之間。猶遲參云々。今日。千葉介常胤相具子息親類。欲參于源家。爰東六郎大夫胤頼談父云。當國目代者。平家方人也。吾等一族悉出境參源家。定可挿兇害。先可誅之歟云々。常胤早行向可追討之旨加下知。仍胤頼。并甥小太郎成胤。相具郎從等。競襲彼所。目代元自有勢者也。令数十許輩防戰。于時北風頻扇之間。成胤廻僕從等於舘後令放火。家屋燒亡。目代爲遁火難。已忘防戰。此間胤頼獲其首。

読下し                みずのえいぬ  あわのくに  い    かずさのくに おもむ せし たま    しょじゅう のせいへい さんびゃくよき  およ
治承四年(1180)九月大十三日壬戌。安房國を出でて上総國に赴き令め給ふ。所從@之精兵、三百餘騎に及ぶ。

しか    ひろつね ぐんしら   あつ     のかん  なおちさん   うんぬん  きょう ちばのすけつねたね  しそくしんるい あいぐ    げんけに さん      ほっ
而るに廣常、軍士等を聚める之間、尚遲參すと云々。今日千葉介常胤A、子息親類を相具し、源家于參ぜんと欲す。

ここ とうのろくろうたいふたねより   ちち  だん   い     とうごくは へいけ  かたうどなり
爰に東六郎大夫胤頼B、父に談じて云はく當國者平家の方人也。

われらいちぞく ことごと さかい い    げんけ  まい      さだ    きょうがい さしはさべ     ま  これ  ちゅう べ   か  うんぬん
吾等一族、悉く境を出で、源家に參ると、定めて兇害を挿む可し、先ず之を誅す可き歟と云々。

つねたね はや ゆ   むか  ついとうすべ  のむね  げち  くわ
常胤、早く行き向い追討可し之旨、下知を加う。

よつ  たねよりなら   おい   こたろうなりたね  ろうじゅうら  あいぐ   か  ところ  きそ おそ
仍て胤頼并びに甥の小太郎成胤、郎從等を相具し彼の所に競い襲う。

もくだい もとよ  うぜいのものなり すうじゅうばか   やから ぼうせんせし
目代C元自り有勢者也。數十許りの輩で防戰令む。

ときに きたかぜしきり あお のかん  なりたねぼくじゅうらを  たち うしろ  めぐ      かおく   ひ  はな  せし しょうぼう
時于北風頻に扇ぐ之間、成胤僕從等於、舘の後に廻らせ、家屋に火を放た令め燒亡す。

もくだい かなん ためすで ぼうせん わす    こ   かん たねより そ  くび  え
目代火難の爲已に防戰を忘る。此の間、胤頼其の首を獲る。

参考@所従の用語解説 - 中世の私的隷属民。下人と 同様に,主人に人格的,身分的に隷属し,農耕,家内労働など雑役に駆使された。コトバンク
参考A千葉庄は、平成の合併前の千葉市とほぼ一致する。
参考B東六郎大夫胤頼は、東庄を貰うのは源平合戦が終わってからなので未だ東ではない。現在の東庄町
参考C目代は、国府の代官で、紀季經。場所は市川市国府台(こうのだい)。

現代語治承四年(1180)九月大十三日壬戌。頼朝様は安房の国から上総の国へ向けて出発します。部下として従った強い兵隊達は三百騎に達します。しかし、上総権介広常は兵員を集めるために未だ遅くなるとの事でした。今日、常胤は子供達や親類を率いて、頼朝様の所へ来ようとしましたが、息子の東六郎大夫胤頼が父に進言しました。「この国の兵員は平家に従う者達です。私達一族皆が国境を出て頼朝様のもとへ行けば、必ずや攻め込んでくるに違いないので、まずこちらを攻め殺しておきましょうか。」だとさ。常胤は「では、直ぐに攻め込んで撃ち滅ぼせ。」と命令しました。よって東六郎大夫胤頼とその甥に当る千葉小太郎成胤は部下を連れてその所へ攻めかかりました。ここの平家の代官は元から大豪族なので数十人の兵隊で防戦しました。丁度北風が強く吹くので、千葉小太郎成胤は下っ端達を館の後ろに回らせて、建物に火を付けて燃やさせたので、代官は火事に逃げ惑い、防戦のすべも忘れていました。その間に、東六郎大夫胤頼はその首を獲りました。

治承四年(1180)九月大十四日癸亥。下總國千田庄領家判官代親政者。刑部卿忠盛朝臣聟也。平相國禪閤〔C盛〕通其志之間。聞目代被誅之由。率軍兵欲襲常胤。依之。常胤孫子小太郎成胤相戰。遂生虜親政訖。

読下し                みずのとい  しもふさのくにちだのしょう りょうけ ほうがんだいちかまさは ぎょうぶのきょう ただもりあそん  むこなり
治承四年(1180)九月大十四日癸亥。下總國千田庄@領家A判官代親政者、刑部卿B忠盛朝臣Cの聟也。

へいしょうこくぜんこう そ こころざし つう   のかん  もくだい  ちうされ   のよし き     ぐんぴょう ひき   つねたね  おそ     ほっ
平相國禪閤に其の志を通じる之間、目代が誅被る之由を聞き、軍兵を率い、常胤を襲はんと欲す。

これ  よっ    つねたね まご  こたろうなりたね   あいたたか つい ちかまさ せいりょ  おは
之に依て、常胤の孫子小太郎成胤、相戰い遂に親政を生慮し訖んぬ。

参考@千田庄は、保元の乱(1156)の2年前(1154)に相馬の御厨を千葉介常胤と千田親政が取り合いをしているのを、義朝が取り上げて千葉介常胤に与えているが、平治の乱で源氏が滅びると千田親政が取り返した。この取り返しをやっている。
参考A
領家は、開発領主から寄進をうけた上級荘園領主。主に中央の有力貴族や有力寺社で、その権威が他からの侵害を防いでくれる。本所>領家>預所=下司VS地頭>名主>作人>小作人>在家と続き、実際の耕作は在家がする。
参考B刑部卿は、刑部省(司法全般を管轄し重大事件の裁判・監獄の管理・刑罰を執行する)の長官。
参考C平忠盛は、清盛の父で仁平元年(1151年)刑部卿となる。平家物語の昇殿で有名。

現代語治承四年(1180)九月大十四日癸亥。下総国千田庄の最上級荘園領主である領家の現地管理者の千田判官代親政は刑部卿平忠盛の聟です。平相国禅門清盛に従う意思がありますので、自分の代官が殺されたのを聞いて、兵隊を連れて常胤を攻めようとしました。そこで常胤の孫の千葉小太郎成胤はこれと戦ってついに千田判官代親政を捕虜にしました。

治承四年(1180)九月大十五日甲子。武田太郎信義。一条次郎忠頼已下。討得信濃國中凶徒。去夜歸甲斐國。宿于逸見山。而今日北條殿到着其所給。被示仰趣於客等云々。

読下し                  きのえね  たけだのたろうのぶよし いちじょうのじろうただよりいげ  しなのくにちゅう きょうと   う   え
治承四年(1180)九月大十五日甲子。武田太郎信義・一條次郎忠頼已下、信濃國中の凶徒を討ち得て、

さぬ  よ かいのくに  かえ   いつみやまに  しゅく   しか    きょう   ほうじゅどの  そ  ところ とうちゃく  たま  おもむきをきゃくら しめ  おお  られ   うんぬん
去る夜甲斐國へ歸り、逸見山@于宿す。而して今日、北條殿、其の所に到着し給ひ、趣於客等に示し仰せ被ると云々。

参考@逸見山は、須玉町若神子

現代語治承四年(1180)九月大十五日甲子。武田信義、一条忠頼以下は信濃中の敵を討ち終って、昨夜甲斐へ戻って逸見山に泊りました。そしたら今日北条時政がその場所へ到着され、伝言の内容を彼等に話しました。

治承四年(1180)九月大十七日丙寅。不待廣常參入。令向下総國給。千葉介常胤相具子息太郎胤正。次郎師常。〔號相馬〕三郎胤成〔武石〕四郎胤信〔大須賀〕五郎胤道。〔國分〕六郎大夫胤頼。〔東〕嫡孫小太郎成胤等參會于下總國府。從軍及三百餘騎也。常胤先召覽囚人千田判官代親政。次献駄餉。武衛令招常胤於座右給。須以司馬爲父之由被仰云々。常胤相伴一弱冠。進御前云。以之可被用。今日御贈物云々。是陸奥六郎義隆男。号毛利冠者頼隆也。着紺村濃鎧直垂。加小具足。跪常胤之傍。見其氣色給。尤可謂源氏之胤子。仍感之。忽請常胤之座上給。父義隆者。去平治元年十二月於天台山龍華越。奉爲故左典厩〔義朝〕弃命。于時頼隆産生之後。僅五十余日也。而被處件縁坐。永暦元年二月。仰常胤配下総國云々。

読下し                ひのえとら  ひろつね さんにゅう たのまず しもふさのくに むか せし たま
治承四年(1180)九月大十七日丙寅。廣常の參入を恃不、下総國へ向は令め給ふ。

ちばのすけつねたね しそくたろうたねまさ  じろうもろつね  〔そうま   ごう〕  さぶろうたねなり 〔たけいし〕  しろうたねのぶ 〔おおすが〕
千葉介常胤、子息太郎胤正・次郎師常〔相馬と號す〕三郎胤成〔武石〕四郎胤信〔大須賀〕

 ごろうたねみち 〔こくぶ〕 ろくろうたねより 〔とう〕 ちゃくそんこたろうなりたねら   あいぐ     しもふさのこくふ にさんかい
五郎胤道〔國分〕六郎胤頼〔東〕嫡孫小太郎成胤等を相具し、下総國府@于參會す。

じゅうぐん さんびゃくよき  およ  なり  つねたね しゅうじん ちだほうがんだいちかまさ しょうらん
從軍は三百餘騎に及ぶ也。常胤、囚人千田判官代親政を召覽す。

つい だしゅう  けん    ぶえいつねたねを ざう   まね  せし  たま    しば   もっ  ちち  なす のよしおお  られ   うんぬん
次で駄餉を献ず。武衛常胤於座右に招か令め給ひ、司馬Aを以て父と爲湏之由仰せ被ると云々。

つねたねいちじゃっかん あいともな ごぜん すす   い      これ  もっ  きょう  おんおくりもの もち  らるべ    うんぬん
常胤一弱冠を相伴い御前に進みて云はく、之を以て今日の御贈物に用い被可しと云々。

これ  むつのろくろうよしたか  むすこもりのかじゃよりたか  ごう  なり こんむらこい よろいひたたれ つ    こぐそく   くわ    つねたねのかたわら ひざまづ
是、陸奥六郎義隆Bの男毛利冠者頼隆Cと号す也。紺村濃の鎧直垂を着け、小具足を加へ、常胤之傍に跪く。

そ   けしき   みたま    もっと げんじのいんし   いひ  べ      よっ  これ かん たちま つねたねのざがみ  しょう たま
其の氣色を見給ひ、尤も源氏之胤子と謂つ可し。仍て之を感じ忽ち常胤之座上に請じ給ふ。

ちちよしたかは  さぬ へいじがんえんじうにがつてんだいさんりゅうげごえ  おい   こさてんきゅう おんため  いのち す
父義隆者、去る平治元年十二月天台山竜華越Dに於て、故左典厩の奉爲に命を弃てる。

ときによりたかさんじょうののち わずか ごじゅうよにちなり
時于頼隆産生之後、僅に五十余日也。

しか   くだん えんざ   しょされ   えいりゃくがんねんにがつ つねたね おお   しもふさのくに はい     うんぬん
而して件の縁坐に處被る。永暦元年二月、常胤に仰せて下総國に配さると云々。

参考@下総國府は、市川市国府台。国府で合うとは「千葉」は通らなかったのか?恐らく広常を避けて船で富津か君津あたりから市川へ来たのか?
参考A
司馬は、唐名で国司の次官を司馬という。
参考B陸奥六郎義隆は、八幡太郎義家の末っ子。
参考C源頼隆(生年平治元年 - 不詳)は、平安末期〜鎌倉中期の武将。河内源氏の三代目棟梁八幡太郎義家の七男 陸奥七郎義隆の子。毛利三郎、毛利冠者と称する。信濃国水内郡若槻庄を領してからは若槻を号する。官位は伊豆守従五位下。法名は蓮長(出典、尊卑分脉)子に若槻頼胤、森頼定がいる。ウイキペディアから(ご指摘により訂正しました)
参考D天台山竜華越は、大原から延暦寺北側(京都市左京区大原小出石町)を通り大津市今堅田町へ出る。琵琶湖の浮身堂の側に義隆の墓があるらしい。

現代語治承四年(1180)九月大十七日丙寅。上総権介広常の到着を待たずに下総へ向かいました。千葉介常胤が息子の太郎胤正、相馬次郎師常、武石三郎胤成、大須賀四郎胤信、国分五郎胤道、東六郎大夫胤頼、嫡孫の千葉小太郎成胤を引き連れて、下総国府にやってきました。従う兵隊は三百騎にもなりました。
千葉介常胤は捕らえた囚人の千田判官代親政を見せました。次に昼食を献上しました。頼朝様は千葉介常胤を座席の脇に呼び寄せて、「千葉介常胤を父とも思っている。」とおっしゃられました。
千葉介常胤は一人の若い侍を連れて前へ出てきました。「この者を今日の贈り物としますので、どうぞお使いください。」との事でした。これは、陸奥六郎義隆の息子で毛利冠者頼隆と申します。紺村濃(グラデーション)の鎧直垂を着て、小具足を着け、千葉介常胤の脇に跪いています。その雰囲気を見て、確かに源氏の血筋と云えるでしょう。と感じて、すぐに常胤の隣に呼び寄せました。
彼の父の義隆は過ぎ去った平治元年十二月京の戦に破れ、東国を目指し落ち行くときに、比叡山延暦寺北側片田町竜華へでる峠で、比叡山の武者僧に落人狩りで攻められ、左典厩義朝の身代わりとなって命を捧げました。そのとき頼隆は生まれて未だ50日くらいでした。その影響で罰せられ、永暦元年(1160)二月に常胤に流人として預けられましたとさ。

治承四年(1180)九月大十九日戊辰。上総權介廣常催具當國周東。周西。伊南。伊北。廳南。廳北輩等。率二万騎。參上隅田河邊。武衛頗瞋彼遲參。敢以無許容之氣。廣常潜以爲。如當時者。率土皆無非平相國禪閤之管領。爰武衛爲流人。輙被擧義兵之間。其形勢無高喚相者。直討取之。可献平家者。仍内雖挿二圖之存念。外備歸伏之儀參。然者。得此數万合力。可被感悦歟之由。思儲之處。有被咎遲參之氣色。殆叶人主之躰也。依之忽變害心。奉和順云々。陸奥鎭守府前將軍從五位下平朝臣良將男將門虜領東國。企叛逆之昔。藤原秀郷僞稱可列門客之由而入彼陣之處。將門喜悦之餘。不結(原文?)所梳之髪。即引入烏帽子謁之。秀郷見其輕骨。存可誅罰之趣退出。如本意獲其首云々。

読下し               つちのえたつ  かずさのごんのすけひろつね とうごく すとう すさい  いなん いほく  ちょうなんちょうほく  やから もよお ぐ
治承四年(1180)九月大十九日戊辰。上総權介廣常、當國の周東周西@、伊南伊北A、廳南廳北Bの輩等を催し具し、

 にまんき  ひき  すみだがわへん さんじょう   ぶえいしきり  か  ちさん   いか   あえ  もっ  きょようの け な
二万騎を率い隅田河邊に參上す。武衛頗に彼の遲參を瞋り、敢て以て許容之氣無し。

ひろつねひそか もっ  な   とうじ   ごと  は そつしみな  へいしょうこくぜんこうのかんりょう あらず な
廣常潜に以て爲す。當時の如き者率土皆、平相國禪閤之管領に非は無し。

ここ  ぶえい るにん  な    たやす ぎへい  あ   られ  のかん  そ   けいせいこうかん そう な   ば   じき  これ  う   と  へいけ   けん  べ   てへ
爰に武衛流人と爲し、輙く義兵を擧げ被る之間、其の形勢高喚の相無くん者、直に之を討ち取り平家に献ず可し者り。

よっ  うち   にと の ぞんねん さしはさ いへど  そと きふく の ぎ   そな  さん
仍て内に二圖之存念を挾むと雖も、外に歸伏之儀を備え參ず。

しからば  こ   すうまん  ごうりき  え     かん よろこばるべ  かのよし  おも  もう     のところ ちさん   とが  られ   のけしきあ
然者、此の數万の合力を得て、感じ悦被可き歟之由、思い儲ける之處、遲參を咎め被る之氣色有り、

ほとん ひとぬしのてい かな なり  これ  よっ  たちま がいしん へん わじゅんたてまつ うんぬん
殆ど人主之躰に叶う也。之に依て忽ち害心を變じ和順奉ると云々。

むつちんじゅふさきのしょうぐんじゅごいげたいらのあそんよしまさ おとこまさかど とうごく りょりょう ほんぎゃく くはだて のむかし ふじわらひでさといつわ もんきゃく
陸奥鎭守府前將軍從五位下平朝臣良將の男將門、東國を虜領し、叛逆を企る之昔、藤原秀郷僞りて門客に

れつ  べ   のよし  しょう て   か  じん  はい のところ  まさかどきえつの あま くしけず ところのかみ ゆはえず すなは  えぼし  ひ  い   これ  えっ
列す可し之由と稱し而、彼の陣に入る之處、將門喜悦之餘り梳る所之髪を結不、即ち烏帽子に引き入れ之と謁す。

ひでさとそ  きょうこつ み     ちゅうばつすべ のおもむき ぞん たいしゅつ  ほい  ごと  そ   くび  え     うんぬん
秀郷其の輕骨を見て、誅罸可し之趣を存じ退出す。本意の如く其の首を獲ると云々。

参考@周東周西は、周准郡( すえぐん )東西、木更津市・君津市・富津市
参考A伊南伊北は、夷隅郡(いすみぐん)南北、勝浦市・いすみ市・陸沢町。
参考B廳南廳北は、長柄郡(ながらぐん)南北、茂原市・一宮町・長南町。
参考C隅田河は、翌月の10月2日条で、常胤・広常等の船筏に乗って、太日・隅田両河を渡る。とあり、隅田宿(現東京都荒川区南千住3丁目石浜神社付近と推定)で寒川尼に合うので「太日川」の間違いではないだろうか?

現代語治承四年(1180)九月大十九日戊辰。上総権介広常は上総の周東周西、伊南伊北、庁南庁北の連中を呼び集めて、二万騎で隅田川の辺りに参上してきました。頼朝様はとてもその遅れた参上を怒って、あえて許そうとしませんでした。
上総権介広常は内緒で、現在は侍の殆どが平清盛に仕えていないものは無い。頼朝様は流人でありながら、安易に反逆の蜂起をしたので、その風貌などに高貴な相が無ければ、直ぐにこれを討って平家に差し出そうと云いながら、心に二心を抱きながらも、表面は従う振りをして参上しました。それならば、数万の見方を得て喜ぶだろうと思って来たのに、遅れたのを怒り攻める心がある。これはもう、人の主人になるべき器を持っているんだと、たちまち敵愾心を捨てて心から従いました。
陸奥の将軍をしていた平良将の息子の平将門が関東を制圧して京都の朝廷に反逆した昔の話ですが、俵藤太藤原秀郷が味方に駆けつけたと嘘を言って、陣営に入ると平将門は喜びの余り、解いていた髪をきちんと髷に結わえもしないで、束ねて烏帽子の中に入れて会見しました。その軽軽しい行いを見て、これは宛てにならないので退治すべきだと思いながら引き上げました。その気持ちのとおり平将門の首を得る事が出来ましたとさ。

治承四年(1180)九月大廿日己巳。土屋三郎宗遠爲御使向甲斐國。安房。上総。下総。以上三箇國軍士悉以參向。仍又相具上野。下野。武藏等國々精兵。至駿河國。可相待平氏之發向。早以北條殿爲先達。可被來向黄瀬河邊之旨。可相觸武田太郎信義以下源氏等之由云々。

読下し               つちのとみ  つちやのさぶろうむねとお  おんつか   な  かいのくに  むか
治承四年(1180)九月大廿日己巳。土屋三郎宗遠@、御使いと爲し甲斐國へ向う。

 あわ   かずさ  しもふさいじょうさんかこく  ぐんしことごと もっ  さんこう
安房、上総、下総以上三箇國の軍士悉く以て參向す。

よっ  また  こうずけ しもつけ むさし   くにぐに  せいへい  あいぐ   するがのくに  いた    へいしの はっこう  あいま   べ
仍て又、上野、下野、武藏の國々の精兵を相具し、駿河國に至り、平氏之發向を相待つ可く、

はや  ほうじょうどの もっ  せんだつ な    きせがわへん   きた    むか  らる  べ   のむね
早く北條殿を以て先達と爲し、黄瀬河邊Aに來りて向へ被る可し之旨、

たけだのたろうのぶよし いげ  げんじら   あいふ     べ   のよし  うんぬん
武田太郎信義以下の源氏等へ相觸れる可し之由と云々。

参考@土屋三郎宗遠は、中村庄司宗平の子で平塚市土屋。
参考A黄瀬川は、静岡県駿東郡清水町長沢。

現代語治承四年(1180)九月大廿日己巳。土屋三郎宗遠は頼朝様の使者として甲斐へ向かいました。安房、上総、下総の兵隊は全て参加して来ました。そこで、上野、下野、武蔵の兵隊を連れて、駿河の国へ行き、平家の来るのを待つように、早く北条四郎時政殿を案内として黄瀬川の辺りに来て迎え撃つように、武田太郎信義以下の源氏に伝えるようになんだとさ。

治承四年(1180)九月大廿二日辛未。左近少將惟盛朝臣爲襲源家。欲進發東國之間。攝政家〔基通〕被遣御馬。御厩案主兵衛志C方爲御使。羽林出逢御使。請取御馬云々。去嘉承二年十二月十九日。彼高祖父正盛朝臣〔于時因幡守〕奉 宣旨。爲追討對嶋守源義親。發向之日。參殿下申暇。退出之後。被遣御馬於彼家。御使御厩案主兵衛志爲貞也。依件古例。今及此儀歟。

読下し                   かのとみ  さこんしょうしょうこれもりあそん げんけ おそ   ため  とうごく しんぱつ      ほっ     のかん
治承四年(1180)九月大廿二日辛未。左近少將惟盛朝臣源家を襲はん爲、東國へ進發せんと欲する之間、

せっしょうけ おんうま つか され   みんまや あんずひょうえさかんきよかたおんし な    うりん おんし   であ      おんうま  う   と     うんぬん
摂政家御馬を遣は被る。御厩の案主兵衛志C方御使と爲す。羽林御使と出逢い、御馬を請け取ると云々。

さんぬ かしょうにねんじうにがつじうくにち  か  こうそふ まさもりあそん  「ときにいなばのかみ」 せんじ たてまつ つしまのかみみなもとのよしちか  ついとう ため
去る嘉承二年十二月十九日彼の高祖父正盛@朝臣「時于囙幡守」宣旨を奉り、 對馬守源義親ABを追討せん爲、

はっこうのひ でんか   まい いとま もう  たいしゅつ   ののち  おんうまを か  いえ  つか  され
發向之日殿下に參り暇を申し退出する之後、御馬於彼の家に遣は被る。

おんし  みんまや あんずひょうえさかんためさだなり よっ くだん これい  いまかく   ぎ  およ  か
御使は御厩の案主兵衛志爲貞也。依て件の古例を今此の儀に及ぶ歟。

参考@正盛は、正盛┬忠盛┬清盛┬重盛┬維盛(桓武平氏系図参照)
参考A義親は、義親為義義朝頼朝(清和源氏系図参照)
参考B義親は義家の嫡男で対馬守の時、勝手に九州を平定してしかも、朝廷等への租税を略奪したので、朝廷から追討の宣旨を発出され平正盛に追討された。これにより父の義家も立場が悪くなり源氏の衰退、平家の隆盛が始まった。

現代語治承四年(1180)九月大廿二日辛未。平惟盛は源氏を攻めるため関東に出発しようとしていると、摂政家が馬を与えました。朝廷の厩の案主の兵衛志清方が使いとして来ると、平左近少將惟盛は是に出会って馬を貰い受けました。昔の嘉承二年(1107)十二月十九日に平左近少将惟盛の高祖父の平正盛「当時は因幡守」が宣旨を受けて源義親を追討するため、出発の日に摂政家に行き、出発の挨拶を終えて帰る途中に、馬を平正盛の家へ贈らせたところ、使いは厩の案主の兵衛志爲貞でした。そこで前の縁起の良い古い例をまねすることにしたんでしょうね。

治承四年(1180)九月大廿四日癸酉。北條殿并甲斐國源氏等。去逸見山。來宿于石禾御厨之處。今日子尅。宗遠馳着。傳仰之旨。仍武田太郎信義。一条二郎忠頼已下群集。可參會于駿河國之由。各凝評議云々。

読下し                 みずのととり  ほうじょうどのなら   かいのくに  げんじらいつみやま  さ  いさわのみくりやに きた  やど  のところ
治承四年(1180)九月大廿四日癸酉。北條殿并びに甲斐國の源氏等逸見山を去り石禾御厨于來り宿る之處、

きょう ねのこく  むねとおは  つ  おお  のむね  つた      よっ  たけだのたろうのぶよし いちじょうのじろうただよりいげ ぐんしゅう
今日子尅、宗遠馳せ着き仰せ之旨を傳える。仍て武田太郎信義、一條次郎忠頼已下群集し、

するがのくににさんかい  べ  のよし おのおのひょうぎ こ      うんぬん
駿河國于參會す可し之由、各評議を凝らすと云々

現代語治承四年(1180)九月大廿四日癸酉。北条時政殿と甲斐の源氏達は逸見山から石和へ来て宿泊していましたら、今日の真夜中の十二時頃に土屋宗遠が到着して頼朝様の命令を伝えました。そこで武田太郎信義、一条次郎忠頼以下皆集団で駿河で頼朝様に逢えるよう出発しようと話し合いましたとさ。

治承四年(1180)九月大廿八日丁丑。遣御使。被召江戸太郎重長。依景親之催。遂石橋合戰。雖有其謂。守令旨可奉相從。重能。有重。折節在京。於武藏國。當時汝已爲棟梁。專被恃思食之上者。催具便宜勇士等。可豫參之由云々。

読下し                 ひのとうし  おんつかい つか   えどのたろうしげなが   めさる
治承四年(1180)九月大廿八日丁丑。御使を遣はし江戸太郎重長を召被る。

かげちかのもよお   よっ    いしばしがっせん と      そ   いは あ     いへど   りょうじ  まも   あいしたが たてまつ べ
景親之催しに依て、石橋合戰を遂げる。其の謂れ有る@と雖も、令旨を守りA相從い奉る可し。

しげよし  ありしげ  おりふしざいきょう   むさしのくに をい  とうじ なんじすで  とうりょう   な
重能B、有重は折節在京すC。武藏國に於て當時は汝已に棟梁Dと爲す。

もっぱ たの おも   めさる   のうえは  びんぎ   ゆうし ら   もよお ぐ     よさん   べ   のよし  うんぬん
專ら恃み思い食被る之上者、便≠フ勇士等を催し具し、豫參す可し之由と云々。

参考@其の謂れ有りは、官軍だから仕方が無い。
参考A令旨を守りは、以仁王の令旨を持ってるので従属する。以仁王の死を隠しているのか。玉葉に生存の噂があると数回、頼朝の所にいるとか、木曾冠者義仲に聞いてみれば分かるかも知れないなどと書いている。
参考B重能は畠山次郎重忠の父、有重は重能の弟で江戸太郎重長と同じ秩父一族。(桓武平氏系図参照) 
参考C折節在京は、京都大番役。
参考D棟梁は、秩父党の統領。川越太郎重頼は比企尼の娘聟だから頼りに出来る。

現代語治承四年(1180)九月大廿八日丁丑。頼朝様は、使いを出して江戸太郎重長を呼びつけました。「大庭三郎景親の催促に合せて石橋合戦で敵対した。それはそれで理由は分かるけれども、令旨を守って私に従いなさい。畠山重能と小山田有重はたまたま大番で京都にいるから、武蔵で今は、そなたが一番上なので、頼りにしているので、集まれる勇士を引き連れて、味方に参加するように。」なんだとさ。

治承四年(1180)九月大廿九日戊寅。所奉從之軍兵。當參已二万七千餘騎也。甲斐國源氏。并常陸下野上野等國輩參加者。假令可及五万騎云々。而江戸太郎重長。依令与景親。于今不參之間。試昨日雖被遣御書。猶追討可宜之趣。有沙汰。被遣中四郎惟重於葛西三郎C重之許。可見大井要害之由。僞而令誘引重長。可討進之旨。所被仰也。江戸葛西雖爲一族。C重依不存貳。如此云々。」
又被遣專使於佐那田余一義忠母之許。是義忠石橋合戰時。忽奉命於將殞亡。殊令感給之故也。彼幼息等在遺跡。而景親已下。相摸伊豆兩國凶徒輩。奉成阿黨於源家之餘。定挿害心歟之由。賢慮思食疑之間。爲令安全。早可送進于當時御在所〔下總國〕之由。被仰遣云々。」今日。小松少將〔維盛〕進發關東。薩摩守忠度。參河守知度等從之云々。是石橋合戰事。景親八月廿八日飛脚。九月二日入洛之間。日來有沙汰。首途云々。

読下し                 つちのえとら したが たてまつ ところのぐんぴょう とうさんすで  にまんしちせんよきなり
治承四年(1180)九月大廿九日戊寅。從い 奉る 所之軍兵、當參已に二万七千餘騎也。

かいのくに   げんじなら    ひたち  しもつけ  こうづけら くに  やから さんか     もの  けりょう  ごまんき  およ  べ    うんぬん
甲斐國の源氏并びに常陸、下野、上野等の國の輩、參加する者、假令@五万騎に及ぶ可しと云々。

しか    えどのたろうしげなが  かげちかにくみせし   よっ    いま  さん  ずのかん こころみ さくじつおんしょ つか  さる   いへど
而して江戸太郎重長、景親于与令むに依て、今に參ぜ不之間、試に昨日御書を遣は被ると雖も、

なおついとうよろ      べ  のおもむき さた あ     なかのしろうこれしげを かさいのさぶろうきよしげのもと つか され
猶追討≠オかる可し之趣、沙汰有り。中四郎惟重於 葛西三郎C重之許に遣は被、

おおい   ようがい み   べ   のよし いつ   て しげなが  ゆういんせし   う   しん  べ   の むね  おお  られ  ところなり
大井の要害を見る可し之由、僞はり而重長を誘引令め、討ち進ず可し之旨、仰せ被る所也。

 えど   かさい  いちぞく  な    いへど  きよしげ ふたごころ ぞん ず  よっ    かく  ごと    うんぬん
江戸、葛西は一族を爲すと雖も、C重は貳を存ぜ不に依て、此の如しと云々。

また  せんし を さなだのよいちよしただ  ははのもと  つか  さる
又、專使於佐那田余一義忠の母之許に遣は被る。

これ よしただ  いしばしがっせん とき たちま いのちをしょう たてまつ そんぼう こと  かんぜし たま  のゆえなり  か   ようそくら ゆいせき  あ
是、義忠は石橋合戰の時、忽ち命於將に奉りて殞亡し、殊に感令め給ふ之故也。彼の幼息等遺跡に在り。

しか    かげちかいか さがみ  いず りょうごく  きょうと やから  あとう を げんけ   な たてまつ のあま    さだ   がいしん さしはさ   かのよし
而して景親已下相摸、伊豆兩國の凶徒の輩、阿黨於源家に成し奉る之餘り、定めて害心を挾まん歟之由、

けんりょおぼ め  うたが   のかん  あんぜんせし   ため  はや  とうじ   ございしょ 〔しもふさのくに〕 に おく すす    べ   のよし  おお つか  され   うんぬん
賢慮思し食し疑はる之間、安全令めん爲、早く當時の御在所〔下總國〕于送り進める可し之由、仰せ遣は被ると云々。

きょう  こまつのしょうしょうかんとう しんぱつ  さつまのかみただのり みかはのかみとものりら これ  したが  うんぬん
今日、小松少將關東へ進發す。薩摩守忠度、參河守知度等、之に從うと云々。

これ いしばしがっせん こと  かげちか はちがつにじうはちにち ひきゃく くがつふつか   じゅらく   のかん   ひごろ さた あ   かどで   うんぬん
是、石橋合戰の事、景親の八月廿八日の飛脚が、九月二日に入洛する之間、日來沙汰有り首途すと云々。

参考@假令は、例えば、おおよそ。

現代語治承四年(1180)九月大廿九日戊寅。頼朝様への従軍は二万七千騎以上になりました。甲斐(山梨)の源氏と常陸(茨城)下野(栃木)上野(群馬)から参加してくるものはおおよそ五万騎にもなるとの事だそうな。しかしながら、江戸太郎重長は大庭三郎景親に味方しているので、未だに来ないので試しに手紙を出しましたが、追討した方が良いと決めました。中四郎惟重を葛西三郎清重の処へ行かせて「大井川(太日川)の防衛を確かめよう。」と嘘をついて江戸太郎重長を呼んで殺してしまえと命じた処です。江戸と葛西は同じ秩父一族では有りますが、葛西三郎清重は二心の無いひとなので、こうしたんだとさ。

その他に特別の使いを佐那田余一義忠の母の処へ送りました。この佐那田余一義忠は石橋合戦で頼朝様の為に命を捨てて戦い死んでいったので、特に感謝しているからです。彼の幼い子供達がその遺領にいます。しかしながら、大庭三郎景親に従っている相模・伊豆の敵対している連中が、佐那田の一族たちが源氏に心を寄せているので、さぞかし狙ってくるだろうからと賢く推量されて、安全のために今いる場所〔下総〕へ送り届けるように、伝えられましとさ。

今日、平惟盛が関東へ向けて出発しました。平忠度と知度が配下につきました。これは石橋合戦の事を大庭三郎景親が八月二十八日に送った使者が九月二日に京都に着いたので、検討していましたが、やっと決まって今日出発したとの事だとさ。

治承四年(1180)九月大卅日己卯。新田大炊助源義重入道〔法名上西〕。臨東國未一揆之時。以故陸奥守〔義家〕嫡孫。挿自立志之間。武衛雖遣御書。不能返報。引篭上野國寺尾城。聚軍兵。」又足利太郎俊綱爲平家方人。燒拂同國府中民居。是属源家輩令居住之故也。

読下し                つちのとう  にったのおおいのすけみなもとよししげにゅうどう〔ほうみょうじょうさい〕とうごくいま  いっき      のとき  のぞ
治承四年(1180)九月大卅日己卯。 新田大炊助源義重入道 〔法名上西〕 東國未だ一揆せざる之時に臨み、

こむつのかみ   ちゃくそん もっ   じりつ こころざし さしはさ のかん ぶえいおんしょ  つか     いへど   へんぽう  あたはず
故陸奥守@の嫡孫を以て、自立の志を挾む之間、武衛御書を遣はすと雖も、返報に不能、

こうづけのくにてらおじょう ひきこも  ぐんぴょう あつめ
上野國寺尾城に引籠り、軍兵を聚る。

また あしかがのたろうとしつな  へいけ  かたうど  な    どうこくふちゅう  みんきょ  やきはら   これ  げんけ  ぞく     やから きょじゅうせし のゆえなり
又、足利太郎俊綱A、平家の方人と爲し、同國府中の民居を燒拂う。是、源家に属するの輩が居住令む之故也。

参考@故陸奥守は、陸奥守源朝臣義家(八幡太郎)
参考A足利太郎俊綱は、藤原秀郷流の足利氏。藤性足利氏という。当時上州では藤性足利氏と新田氏とが二大勢力として拮抗していて、下野の小山とも拮抗していた。源性足利氏(足利尊氏の祖先)は未だ小さな新田の分家だった。

現代語治承四年(1180)九月大卅日己卯。新田大炊助源義重入道〔出家名は上西〕は、関東で頼朝様が立ち上がる以前に義家の直系だからと源氏の頭領になろうと云う気持ちがあったので、頼朝様が味方に加わるように手紙を出したのに返事もよこさないで、上州の寺尾城に立てこもって軍隊を集めていました。又、足利太郎俊綱は平家に味方して、上野国府の民家を焼き払いました。これは源氏に従う者たちの屋敷があったからです。

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吾妻鏡入門第一巻

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