吾妻鏡入門第一巻

治承四年(1180)十二月小

治承四年(1180)十二月小一日己卯。左兵衛督平知盛卿率數千官兵。下向近江國。与源氏山本前兵衛尉義經。同弟柏木冠者義兼等合戰。義經已下弃身忘命雖挑戰。知盛卿以多勢之計。放火燒廻彼等舘并朗從宅之間。義經義兼失度逃亡。是去八月。於東國。源家擧義兵之由傳聞之以降。雖卜居於近國。偏存關東一味之儀。頻忽諸平相國禪閤威之故。今及此攻云々。

読下し                                     つちのとう  さひょうえのかみたいらのとももりのきょう すうせん かんぺい ひき   おうみのくに  げこう
治承四年(1180)十二月小一日己卯。左兵衛督 平知盛卿は、數千の官兵を率いて近江國へ下向し、

げんじ やまもとひょうえのじょうよしつね  おな おとうとかしわぎのかじゃよしかね らと かっせん
源氏の山本兵衛尉義經@、同じき弟柏木冠者義兼A等与 合戰す。

よしつねいか み   す いのち わす  ちょうせん  いへど  とももりのきょうたぜいのはか   もっ   ひ   はな
義經已下身を弃て命を忘れ挑戰すと雖も、知盛卿多勢之計りを以て火を放ち、

かれら  やかたなら  ろうじゅう たく  やきまわ  のかん  よしつね よしかね ど うしな   とうぼう
彼等の舘并びに郎從の宅を燒廻る之間、義經、義兼度を失いて逃亡す。

これ さんぬ はちがつとうごく  をい  げんけ ぎへい あ     のよし  これ  つた  き   いこう   きょ  きんごく  おい  ぼく   いへど
是、去る八月東國に於て源家義兵を擧ぐる之由、之を傳へ聞く以降、居を近國に於て卜すと雖も、

ひとへ かんとういちみの ぎ  ぞん   しきり  へいしょうこくぜんこう い   こっしょ    のゆえ  いま こ  せ    およ    うんぬん
偏に關東一味之儀を存じ、頻に平相國禪閤の威を忽緒する之故、今此の攻めに及ぶと云々。

参考@山本は、近江国東浅井郡田中村に山本山の古城あり。新羅三郎義光ー義業ー義定ー義經。又、比叡山の下(本)なので山本。
参考A柏木は、近江国甲賀郡柏木庄。現在の水口町。

現代語治承四年(1180)十二月小一日己卯。左兵衛督平知盛卿は、数千の軍隊を連れて近江国へ向かい、近江源氏の山本兵衛尉義経及び弟の柏木冠者義兼と合戦しました。山本義経を始め身を捨て、命を顧みずに戦いましたが、知盛卿は多勢をかさにきて火を付けて、彼等の屋敷や部下達の家を焼きまわったので、義経も義兼も打つ手が無くなり逃げました。これは、この八月に頼朝様が関東で蜂起した事を伝えられた後、京都に近い所に住んでいるにも関わらず、関東に味方する為、平相国禅門(清盛)の威厳を損ねたので、このような攻撃を受けたんだとさ。

参考玉葉によると、山本・柏木の兄弟が琵琶湖の水運を止めて京都への物資の輸送を邪魔したとある。

治承四年(1180)十二月小二日庚辰。今日。藏人頭重衡朝臣。淡路守C房。肥後守貞能等。指東國發向。是爲襲源家也。但自路次歸洛云々。

読下し              かのえい  きょう  くらんどのとう しげひらあそん あわじのかみきよふさ ひごのかみさだよしら
治承四年(1180)十二月小二日庚亥。今日、藏人頭@重衡朝臣、淡路守C房、肥後守貞能等

とうごく   さ   はっこう   これ  げんけ   おそ   ためなり  ただ  ろじ よ  きらく      うんぬん
東國を指し發向す。是、源家を襲はん爲也。但し路次自り歸洛すと云々。

参考@藏人は、蔵係りの意味があるが、その職務の中に取次役があることから実権を握りやすい。藏人頭はその長官だが、名誉職となっており、実力はない。C房は重衡の弟。

現代語治承四年(1180)十二月小二日庚亥。今日、蔵人頭重衡朝臣と淡路守清房や肥後守貞能等が関東を目差して出発しました。これは、源氏の頼朝様を攻める為です。しかし、途中から京都へ帰ってしまったんだとさ

治承四年(1180)十二月小四日壬午。阿闍梨定兼依召。自上總國參上鎌倉。是去安元々年四月廿六日當國流人也。而有知法之聞。當時鎌倉中無可然碩徳之間。仰廣常所被召出也。今日。則被補鶴岡供僧軄云々。

読下し             みずのえうま  あじゃりていけん め    よっ  かずさのくに よ かまくら  さんじょう
治承四年(1180)十二月小四日壬午。阿闍梨定兼召しに依て上總國自り鎌倉に參上す。

これ さんぬ あんげんがんねんしがつにじうろくにち とうごく  るにんなり  しか   ちほうの きこ  あ
是、去る安元々年四月廿六日、當國に流人也。而るに知法之聞へ有り。

とうじ   かまくらじゅう  しか べ   せきとく な のかん  ひろつね  おお   め  いださる ところなり  きょう  すなは つるがおか ぐそうしき  ぶさる     うんぬん
當時、鎌倉中に然る可き碩徳無き之間、廣常に仰せて召し出被る所也。今日、則ち鶴岡の供僧職に補被ると云々。

現代語治承四年(1180)十二月小四日壬午。阿闍梨定兼が頼朝様に呼ばれて、上総国から鎌倉に参りました。彼は、安元元年の四月二十六日に上総へ流罪になりました。しかし、仏法の知識を有する人だと評判があります。現在、鎌倉にはそれ程の知識人が居ないので、上総権介広常に命じて呼び出されたのです。今日すぐに八幡宮の僧侶に任命されたんだとさ。

治承四年(1180)十二月小十日戊子。山本兵衛尉義經參着鎌倉。以土肥二郎啓案内云。日來運志於關東之由。達平家之聽。觸事成阿黨之刻。去一日。遂被攻落城郭之間。任素意參上。被追討彼凶徒之日。必可奉一方先登者。最前參向尤神妙。於今者。可被聽關東祗候之旨。被仰云々。此義經者。自刑部丞義光以降。相繼五代之跡。弓馬之兩藝。人之所聽也。而依平家之讒。去安元二年十二月卅日。配流佐渡國。去年適預于勅免之處。今又依彼攻牢篭。結宿意之條。更無御疑云々。

読下し           つちのえね  やまもとひょうえのじょうよしつね かまくら さんちゃく
治承四年(1180)十二月小十日戊子。山本兵衛尉義經、鎌倉に參着す。

 といのじろう   もっ  あない   けい   い       ひごろ こころざしをかんとう はこ  のよし   へいけのきこえ たっ
土肥二郎を以て案内を啓して云はく。日來、志於關東に運ぶ之由、平家之聽に達し、

こと  ふ    あだ   な   のとき  さんぬ ついたち つい じょうかく せ  おとされ  のかん   そ   い  まか  さんじょう
事に觸れ阿黨を成す之刻、去る一日、遂に城郭を攻め落被る之間、素の意に任せ參上す。

か   きょうと  ついとうさる  のひ   かなら いっぽう  せんと たてまつ べ  てへ
彼の凶徒を追討被る之日、必ず一方の先登を奉る可し者り。

さいぜん さんこうもっと しんみょう  いま  おい  は  かんとう   しこう  ゆるされ  べ  のむね  おお  られ   うんぬん
最前の參向尤も~妙。今に於て者、關東の祗候を聽被る可し之旨、仰せ被ると云々。

こ   よしつねは ぎょうぶのじょうよしみつよ いこう    ごだいのあと   あいつ    きゅうばのりょうげい  ひとのき ところなり
此の義經者、刑部丞義光自り以降、五代之跡@を相繼ぎ、弓馬之兩藝、人之聽く所也。

しか    へいけのざん  よっ   さんぬ  あんげんにねんじうにがつみそか  さどのくに  はいる      きょねん たまたまちょくめんにあずか のところ
而るに平家之讒に依て、去る安元二年十二月卅日、佐渡國に配流され、去年、適勅免于預る之處。

いままた  か   せ    よっ    ろうろう     すくい   むす のじょう  さら  おんうたが な    うんぬん
今又、彼の攻めに依て、窂籠A。宿意を結ぶ之條、更に御疑い無しと云々。

参考@五代之跡は、義光義業義定義経で曾孫。吾妻の間違いか、それとも数え年的計算か。
参考A牢籠すると牢人で領地を失った人。浪人ではない。

現代語治承四年(1180)十二月小十日戊子。山本兵衛尉義経が鎌倉に着きました。土肥次郎実平を通じ、表敬して云いました。「普段から関東に味方しようと考えている事が平家にばれて、何かにつけてぶつかっていましたが、とうとう城を攻め落とされたので、志どおり参りました。頼朝様が平家を攻撃する時は、必ず一方の先陣をさせて下さい。」といいました。「近畿で一番最初に参った事は神妙である。そこで関東の家人になることを許しましょう。」とおっしゃられたと云う事です。この義経は新羅三郎義光から五代の技法をついだ弓馬の腕は人に知られているところです。ところが平家の讒言によって、去る安元二年十二月三十日佐渡に流罪になり、去年たまたま許されましたが、又今度、平家の攻めによって領地を追われ牢人となりました。平家への恨みをもってるので、味方になること疑い無しだとさ

参考玉葉によると、山本兄弟が琵琶湖の水運を止めて京都への物資の輸送を邪魔したとある(北陸からの納税は船で敦賀へ、敦賀から水口まで七里は陸送、水口から大津までが水運)。

治承四年(1180)十二月小十一日己丑。平相國禪閤遣重衡朝臣於園城寺。与寺院衆徒遂合戰。是當寺僧侶。去五月之比。候三條宮〔似仁王〕之故也。南都同可被滅亡云々。此事。日來無沙汰之處。前武衛依彼令旨。於關東被遂合戰之間。衆徒定奉与歟之由。禪閤廻思慮。及此儀云々。

読下し                   つちのとうし へいしょうこくぜんこう しげひらあそんを おんじょうじ つか      じいん  しゅうととかっせん  と
治承四年(1180)十二月小十一日己丑。平相國禪閤、重衡朝臣於園城寺に遣はし、寺院の衆徒与合戰を遂ぐ。

これ  とうじ  そうりょ  さんぬ ごがつのころ   さんじょうのみや そうら のゆえなり  なんとおな    めつぼうさる べ     うんぬん
是、當寺の僧侶、去る五月之比@、三條宮に候う之故也。南都同じく滅亡被る可しと云々。

およ  かく  こと   ひごろ さた な  のところ  さきのぶえい か  りょうじ よっ    かんとう  をい  かっせん  と  らる  のかん
凡そ此の事、日來沙汰無き之處、前武衛彼の令旨に依て、關東に於て合戰を遂げ被る之間、

しゅうとさだ    よ   たてまつ かのよし  ぜんこうしりょ  めぐ    かく  ぎ  およ    うんぬん
衆徒定めて与し奉る歟之由、禪閤思慮を廻らし此の儀に及ぶと云々。

参考@去る五月之比は、平家はこの時点まで兵糧(秋の収穫の納税がやっときた)と兵力が不足し五月の仕返しを出来なかった。戦は秋の収穫が終ってからでないと兵糧が足りないので、夏場はしない。

現代語治承四年(1180)十二月小十一日己丑。平相国禅閤平清盛は、息子重衡を三井寺に行かせて、武者僧と戦をさせました。これはこの寺の武者僧が五月に以仁王に味方したからです。奈良も同様に滅ぼされることになるだろうなんだとさ。この事は、大して気にせず放っておいたのですが、頼朝様が以仁王の令旨によって関東で合戦をしたので、武者僧も頼朝様に味方するだろうと平相国禅門「清盛」が考えめぐらしてこうさせたんだとさ

治承四年(1180)十二月小十二日庚寅。天リ風靜。亥尅。前武衛「將軍」新造御亭有御移徙之儀。爲景義奉行。去十月有事始。令營作于大倉郷也。時尅。自上總權介廣常之宅。入御新亭。御水干。御騎馬〔石禾栗毛〕和田小太郎義盛候最前。加々美次郎長C候御駕左方。毛呂冠者季光在同右。北條殿。同四郎主〔義時〕。足利冠者義兼。山名冠者義範。千葉介常胤。同太郎胤正。同六郎大夫胤頼。藤九郎盛長。土肥次郎實平。岡崎四郎義實。工藤庄司景光。宇佐美三郎助茂。土屋三郎宗遠。佐々木太郎定綱。同三郎盛綱以下供奉。畠山次郎重忠候最末。入御于寝殿之後。御共輩參侍所。〔十八ケ間〕二行對座。義盛候其中央。着致云々。出仕之者三百十一人云々。又御家人等同搆宿舘。自爾以降。東國皆見其有道。推而爲鎌倉主。所素邊鄙。而海人野叟之外。卜居之類少之。正當于此時間。閭巷直路。村里授号。加之家屋並甍。門扉輾軒云々。」今日。園城寺爲平家燒失。金堂以下堂舎塔廟。并大小乘經巻。顯蜜聖教。大畧以化灰燼云々。

読下し               かのえとら  てんは  かぜしず    いのこく  さきのぶえいしょうぐん しんぞう  おんてい  ごいしのぎ あ
治承四年(1180)十二月小十二日庚寅。天リれ風靜か。亥尅、前武衛將軍、新造の御亭に御移徙之儀有り。

かげよしぶぎょう な    さんぬ じうがつことはじめ あ  おおくらごうに えいさくせし なり
景義奉行を爲す。去る十月事始有り。大倉郷于營作令む也。

 じこく  かずさごんのすけひろつねのたくよ しんてい にゅうぎょ  ごすいかん  おんきば 〔いさはくりげ〕 
時尅、上總權介廣常之宅自り新亭に入御す。御水干、御騎馬〔石禾栗毛〕

 わだのこたろうよしもり  さいぜん そうら   かがみのじろうながきと おんがさほう  そうら   もろのかじゃすえみつ おな   みぎ  あ
和田小太郎義盛最前に候ひ、加々美次郎長C御駕左方に候う。毛呂冠者季光@同じく右に在り。

ほうじょうどの おな    しろうぬし  あしかがのかじゃよしかね やまなのかじゃよしのり ちばのすけつねたね おな   たろうたねまさ  おな   ろくろうたねより
北條殿、同じき四郎主、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同じき太郎胤正、同じき六郎胤頼、

 とうくろうもりなが   といのじろうさねひら  おかざきのしろうよしざね  くどうのしょうじかげみつ うさみのさぶろうすけもち
藤九郎盛長、土肥次郎實平、岡崎四郎義實、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、

つちやのさぶろうむねとお ささきのたろうさだつな  おな   さぶろうもりつな いげ  ぐぶ   はたけやまのじろうしげただ さいまつ そうら
土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同じき三郎盛綱以下供奉す。畠山次郎重忠最末に候う。

しんでんに にゅうごののち おんとも やから さむらいどころ〔じうはちかけん〕 さん   にぎょう  たいざ
寢殿于入御之後、御共の輩は侍所〔十八ケ間〕に參じ、二行に對座す。

よしもり そ  ちゅうおう そうら ちゃくとう  うんぬん  およ  しゅっしのもの さんびゃくじういちにん うんぬん
義盛其の中央に候ひ着到すと云々。凡そ出仕之者三百十一人と云々。

また   ごけにんら おな   しゅくかん かま      じ   よ    いこう  とうごくみな そ  ゆうどう  み   お  て かまくら  ぬし  な
又、御家人等同じく宿舘を搆へる。尓し自り以降、東國皆其の有道を見、推し而鎌倉の主と爲す。

ところ もと    へんぴ     て  かいじんやそうのほか  ぼっきょのたぐい これすく
所は素より邊鄙にし而、海人野叟之外、卜居之類之少なくA

まさ  このときに あた   かん  りょこうみち  すぐ   そんり   ごう  さず   これにくわえ かおくいらか なら   もんぴ のき  きし   うんぬん
正に此時于當るの間、閭巷路を直し、村里に号を授け、加之、家屋甍を並べ、門扉軒を輾むと云々。

きょう   おんじょうじ へいけ  ためしょうしつ  こんどういげ どうしゃ とうびょうなら  だいしょうじょう きょうかん けんみつ せいきょう たいりゃくもっ かいじん か   うんぬん
今日、園城寺平家の爲燒失す。金堂以下堂舎、塔廟并びに大小乘の經巻、顯密の聖教、大畧以て灰燼に化すと云々。

参考@毛呂冠者季光は、埼玉県入間郡毛呂山町。藤原氏。父は成光。頼朝が伊豆時代に食料が無く、従者があちこち食い物を貰いに歩いたが何処でも断られ、とうとう毛呂まで来て、この季光に貰ったという逸話がある。頼朝は天下を取ってからこの人を大事にした。
参考A海人野叟之外、卜居之類之少なくは、最近の説では、これは頼朝の業績を誇張していて鎌倉はそれほど田舎化してはいなかったようです。

現代語治承四年(1180)十二月小十二日庚寅。天晴れ風靜か。午後十時頃に頼朝様が新しく建てたお屋敷に引越しの儀式がありました。大庭平太景義が奉行となって去る十月に事始があって大倉郷に建設をしていました。その時刻になって、上総權介廣常の屋敷から新しい御殿に入られました。水干を着て、騎馬です。「馬は石和栗毛です」

和田太郎義盛が先頭に従い、加々美次郎長清が頼朝様の馬の左側に従い、毛呂冠者季光が同様に右におります。北条四郎時政、同四郎義時、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同太郎胤正、同六郎胤頼、藤九郎盛長、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱等がお供をしました。畠山次郎重忠が一番最後に従います。寝殿に入られた後、お供の人達は侍所「十八間」に来て二行に向かい合って座りました。和田太郎義盛はその中央に座り、着到状の仕事をしたとの事でした。凡そ出仕した者は三百十一人と云う事です。

又、御家人達も同様に宿や館を構えました。これから以後、関東の武士達は皆その力が道に合っている(理屈に合っている)いることを見抜いて、一揆して鎌倉の主人と認めました。鎌倉その所は、元々辺鄙な所で、漁師と百姓以外住んでる人が少なくて、この時に街中の道を真っ直ぐにして、郊外の村や里に名前を付けて、それに加えて家屋が屋根を並べて、家々が増えて軒がひしめき合いましたと云う事です。

今日、園城寺が平家の為に焼かれました。金堂以下建物も堂塔も大乗や小乗のお経も密教の道具類もおよそ殆ど灰になってしまいましたと云う事です。

治承四年(1180)十二月小十四日壬辰。武藏國住人。多以本知行地主。如本可執行之由。蒙下知。北條殿并土肥次郎實平爲奉行。邦通書下之云々。

読下し             みずのえたつ  むさしのくにじゅうにんおお もっ ほんちぎょうじぬししき  もと  ごと  しぎょう  べ   のよし   げち  こうむ
治承四年(1180)十二月小十四日壬辰。武藏國住人多く以て本知行地主職@、本の如く執行す可し之由、下知を蒙る。

ほうじょうどの なら    といのじろうさねひら ぶぎょう な  くにみちこれ  か  くだ    うんぬん
北條殿A并びに土肥次郎實平奉行と爲し邦道之を書き下すと云々。

参考@地主職とは、後代で云う土地の所有者ではなく、地主神とその土地を使うこと(開拓や開墾)を契約した者を指す。これが後に名字の地となり、地名を名字にしていく。
参考A
北條殿は、武蔵の本領安堵を仲介した時政の権威が武蔵に広がり、比企事件・重忠事件に繋がる。

現代語治承四年(1180)十二月小十四日壬辰。武蔵在住の武士達の多くが代々知行している地頭の役を、本来のとおり知行するよう命令を受けました(本領安堵)。北條時政殿と土肥次郎実平とが指揮担当の奉行をして、藤判官代邦通がこの命令を書きましたとさ。

治承四年(1180)十二月小十六日甲午。鶴岡若宮被立鳥居。亦被始行長日最勝王經講讃。武衛令詣給。裝束水干。駕龍蹄給云々。

読下し             きのえうま  つるがおかわかみや とりい た  らる
治承四年(1180)十二月小十六日甲午。鶴岡若宮に鳥居を立て被る。

また  ちょうじつ さいしょうおうきょう こうさん しぎょうされ  ぶえい もう  せし  たま   すいかん しょうぞく りゅうてい  が  たま    うんぬん
亦、長日の最勝王經@講讃を始行被る。武衛詣で令め給ふ。水干を裝束し龍蹄Aに駕し給ふと云々。

参考@最勝王經は、支配者が支配地の安堵を祈るお経なので、頼朝は自分の支配権威を意識している。晩年には薬師経に変わってしまう。
参考A龍蹄は、立派な馬の事で、背高が四尺以下を駒と云い、四尺以上を龍蹄といい、四尺を越えた分の寸を○騎と云う。特に頼朝は四尺八寸のが好きなので、八騎(やき)と云い、これ以上大きい馬を「八騎に余る」と云って頼朝は嫌います。 

現代語治承四年(1180)十二月小十六日甲午。鶴岡八幡宮に鳥居を建てられました。また、一日中絶え間なく最勝王のお経を続け、皆に聞かせる行事を始めました。頼朝様も詣でました。水干を着て、立派な馬に乗って来られたんだとさ

治承四年(1180)十二月小十九日丁酉。右馬允橘公長參着鎌倉。相具子息橘太公忠。橘次公成。是左兵衛督知盛卿家人也。去二日。藏人頭重衡朝臣爲襲東國進發之間。爲前右大將〔宗盛〕之計。被相副之。爲弓馬達者之上。臨戰塲廻知謀。勝人之故。而公長倩見平家之爲躰。佳運已欲傾。又先年於粟田口邊。与長井齋藤別當。片切小八郎大夫〔于時各六條廷尉御家人〕等。喧嘩之時。六條廷尉禪室〔爲義〕定被及 奉聞歟之由。成怖畏之處。匪啻止其憤被宥之。還被誡齋藤片切等之間。不忘彼恩化。志偏在源家。依之。厭却大將軍之夕郎。尋縁者。先下向遠江國。次參着鎌倉。以一所傍輩之好。属加々美次郎長C。啓子細之處。可爲御家人之旨。有御許容云々。

読下し                     ひのととり うまのじょうたちばなきんなが かまくら さんちゃく  しそくきつたきんただ  きつじきんなり  あいぐ
治承四年(1180)十二月小十九日丁酉。右馬允橘公長、鎌倉に參着す。子息橘太公忠、橘次公成を相具す。

これ さひょうえのかみとももりきょう けにんなり  さんぬ ふつか くろうどのとうしげひらあそん  とうごく  おそ   ため  しんぱつ   のかん
是、左兵衛督知盛卿の家人也。去る二日、藏人頭重衡朝臣、東國を襲はん爲、進發する之間、

さきのうだいしょう〔むねもり〕 のはか    なし  これ  あいそ  らる
前右大將〔宗盛〕之計りと爲て之を相副へ被る。

きゅうば  たっしゃ  な  のうえ  せんじょう  のぞ    ちぼう  めぐ        ひと  まさ  のゆえ
弓馬の達者を爲す之上、戰塲に臨みて智謀を廻らすこと人に勝る之故。

しか   きんなが つらつら へいけのていたらく み    かうん すで  かたむ    ほっ
而るに公長、倩、平家之爲躰を見るに佳運已に傾かんと欲す。

また せんねん あわたぐちへん をい ながいのさいとうべっとう かたぎりこはちろうたいふ 〔ときに おのおのろくじょうていい ごけにん〕    らと けんかのとき
又、先年粟田口邊に於て長井齋藤別當、片切小八郎大夫〔時于 各 六條廷尉の御家人〕等与喧嘩之時、

ろくじょうていいぜんしつ さだ    そうもん  およ  らる  かのよし   ふい   な   のところ  ただ  そ  いかり  と   これ  なだ  らる       あらず
六條廷尉禪室、定めて奏聞に及ば被る歟之由、怖畏を成す之處、啻に其の憤を止め之を宥め被るのみに匪。

かえ    さいとう  かたぎりら   いさ  らる  のかん  か  おんげ  わす  ず  こころざし ひと  げんけ  あ
還って齋藤、片切等を誡め被る之間。彼の恩化を忘れ不。志は偏へに源家に在り。

これ  よっ    だいしょうぐんのせきろう  けんきゃく  えんじゃ  たず   ま   とおとうみのくに げこう   つい  かまくら  さんちゃく
之に依て、大將軍之夕郎@を猒却し、縁者を尋ねて先ず遠江國へ下向し、次で鎌倉に參着す。

いっしょぼうはいのよしみ もっ  かがみのじろうながきよ   ぞく     しさい  けい  のところ  ごけにん  な   べ   のむね   ごきょよう あ     うんぬん
一所傍輩之好を以て加々美次郎長Cに属し、子細を啓す之處、御家人と爲す可し之旨、御許容有ると云々。

参考@夕郎は、蔵人の唐名転じて家人の意味。

現代語治承四年(1180)十二月小十九日丁酉。橘右馬允公長が鎌倉に参りました。息子の橘太公忠、橘次公成を連れて来ました。彼は左兵衛督知盛卿の家来です。去る二日に蔵人頭重衡朝臣が関東を攻めようと出発した時に、前の右大将宗盛の進めで付けられました。弓馬の名人だけでなく戦争のときに作戦をたてることが人より優れているからです。しかし橘右馬允公長は色々考えて、平家の様子をみると良い運は傾き始めている。又、ずっと前に粟田口で源為義の家来の長井斎藤別当実盛、片桐小八郎と喧嘩をした時に、廷尉為義が朝廷に言いつけて裁判にされるかと怖れていたところ、それを怒りもせず許し、むしろ自分の家来の斎藤と片桐を叱ってくれました。その恩を忘れることなく源氏への忠誠の心があります。大将軍重衡に勤めることを嫌い、知り合いを頼って遠江へ下り、そして鎌倉へ来ました。同じ所の知り合いの縁で加々美次郎長清を通して、詳しく表敬申し上げたので、御家人にしてあげようと許可が出たんだとさ。

治承四年(1180)十二月小廿日戊戌。於新造御亭。三浦介義澄献垸飯。其後有御弓始。此事兼雖無其沙汰。公長兩息爲殊達者之由。被聞食之間。令試件藝給。以酒宴次。於當座被仰云々。
 射手
  一番
   下河邊庄司行平    愛甲三郎季隆
  二番
   橘太  公忠     橘次  公成
  三番
   和田太郎義盛     工藤小二郎行光
今日御行始之儀。入御藤九郎盛長甘繩之家。盛長奉御馬一疋。佐々木三郎盛綱引之云々。

読下し           つちのえいぬ  しんぞう  おんてい をい   みうらのすけよしずみおうばん けん
治承四年(1180)十二月小廿日戊戌。新造の御亭に於て、三浦介義澄垸飯を献ず。

そ   ご おんゆみはじめあ  こ   ことかね そ   さた な     いへど   きんなが りょうそく こと   たっしゃ  な  のよし
其の後御弓始有り。此の事兼て其の沙汰無きと雖も、公長の兩息殊なる達者を爲す之由、

きこ  め され  のかん  くだん げい ためさし  たま   しゅえん  つい   もっ  とうざ  をい  おお  らる    うんぬん
聞し食被る之間、件の藝を試令め給ふ。酒宴の次でを以て當座に於て仰せ被ると云々。

   いて
 射手

    いちばん      しもこうべのしょうじゆきひら   あいきょうのさぶろうすえたか
  一番   下河邊庄司行平  愛甲三郎季隆

    にばん       きった    きんただ      きつじ    きんなり
  二番   橘太  公忠   橘次  公成

    さんばん      わだのたろうよしもり       くどうのこじろうゆきみつ
  三番   和田太郎義盛   工藤小二郎行光

きょう    みゆきはじめのぎ  とうくろうもりなが   あまなわのいえ  にゅうご   もりながおんうまいっぴき たてまつ ささきのさぶろうもりつな これ  ひ    うんぬん
今日、御行始之儀。藤九郎盛長の甘縄之家へ入御す。盛長御馬一疋を奉る。佐々木三郎盛綱之を引くと云々。

参考弓比べでは一般に上段(原文縦書き・先)に書かれたほうが勝ち。 

現代語治承四年(1180)十二月小廿日戊戌。新築のお屋敷で、三浦介義澄がご馳走を振舞う椀飯を献上しました。その後で新築亭での弓始めをしました。この事は予め決めてあったわけではありませんが、橘右馬允公長の二人の息子が特に弓の名人だからとお聞きになられたので、その腕前を試してみたかったので、宴会の余興にこの席上で言い出しましたとさ。

射手
 一番手に 下河辺庄司行平 対 愛甲三郎季隆
 二番手が 橘太公忠    対 橘次公成
 三番手に 和田太郎義盛  対 工藤小次郎行光

今日、新築の家から始めて外出をする儀式として、藤九郎盛長の甘縄の屋敷へ入りました。藤九郎盛長は馬を引き出物にして捧げました。佐々木三郎盛綱が手綱引きの役をしましたんだとさ。

治承四年(1180)十二月小廿二日庚子。新田大炊助入道上西依召參上。而無左右。不可入鎌倉中之旨。被仰遣之間。逗留山内邊。是招聚軍士等。引篭上野國寺尾舘之由風聞。仰藤九郎盛長被召之訖。上西陳申云。心中更雖不存異儀。國土有鬪戰之時。輙難出城之由。家人等依加諌。猶豫之處。今已預此命。大恐畏云々。盛長殊執申之。仍被聞食開云々。
又上西孫子里見太郎義成自京都參上。日來雖属平家。傳聞源家御繁榮。參之由申之。其志異祖父。早可奉昵近之旨被免之。義成語申云。石橋合戰後。平家頻廻計議。於源氏一類者。悉以可誅亡之由。内々有用意之間。向關東可襲武衛之趣。義成僞申之處。平家喜之。令免許之間參向。於駿河國千本松原。長井齋藤別當實盛。瀬下四郎廣親等相逢云。東國勇士者。皆奉從武衛畢。仍武衛相引數万騎。令到鎌倉給。而吾等二人者。先日依有蒙平家約諾事。上洛之由語申之。義成聞此事。弥揚鞭云々。

読下し                    かのえね にったのおおいのすけにゅうどうじょうさい  めし  よっ  さんじょう
治承四年(1180)十二月小廿二日庚子。新田大炊助入道上西@、召に依て參上す。

しか     そう な   かまくらちう  はい べからずのむね おお  つか さる  のかん  やまのうちへん とうりゅう
而るに左右無く鎌倉中に入る不可之旨、仰せ遣は被る之間。山内邊に逗留す。

これ  ぐんしら   まね  あつ   こうづけのくにてらおやかた ひ  こも  のよしふうぶん    とうくろうもりなが   おお   これ  めされ  おはんぬ
是、軍士等を招き聚めて上野國寺尾舘に引き籠る之由風聞す。藤九郎盛長に仰せて之を召被れ訖。

じょうさいちん もう    い       しんちうさら  いぎ   ぞん  ず  いへど   こくど   とうせん あ  のとき  たやす しろ  い   がた  のよし
上西陳じ申して云はく、心中更に異儀を存ぜ不と雖も、國土に闘戰有る之時、輙く城を出で難し之由、

けにんら いさ    くは      よっ     ゆうよのところ  いますで  こ  めい あずか おお   きょうい    うんぬん
家人等諫めを加へるに依て、猶豫之處。今已に此の命に預り大いに恐畏すと云々。

もりながこと  これ  しっ  もう    よっ  きこ  め   ひら  らる   うんぬん
盛長殊に之を執し申す。仍て聞し食し開か被ると云々。

また じょうさい  まご    さとみのたろうよしなり   きょうと よ  さんじょう
又、上西が孫子、里見太郎義成Aは京都自り參上す。

ひごろ  へいけ   ぞく   いへど    げんけ ごはんえい つた き   まい  のよし  これ  もう
日來、平家に属すと雖も、源家御繁榮を傳へ聞き參る之由、之を申す。

そ こころざし そふ   こと      はや  じっこんたてまつ べ のむね これ  めん  らる
其の志は祖父と異なり、早く眤近奉る可し之旨、之を免ぜ被る。

よしなりかた  もう    い
義成語り申して云はく、

いしばしかっせん のち  へいけしきり けいぎ  めぐ      げんじ  いちるい をい  は ことごと もっ  ちうぼう   べ  のよし
石橋合戰の後、平家頻に計議を廻らし、源氏の一類に於て者、悉く以て誅亡す可し之由、

ないないようい あ   のかん  かんとう  むか   ぶえい  おそ  べ のおもむき よしなりいつわ もう のところ
内々用意有る之間、關東に向ひて武衛を襲ふ可し之趣、義成僞り申す之處、

へいけ これ よろこ   めんきょせし   のかん  さんこう
平家之を喜びて免許令める之間、參向す。

するがのくにせんぼんまつばら をい  ながいのさいとうのべっとうさねもり  せしたのしろうひろちから あいあ    い
駿河國千本松原に於て、長井齋藤別當實盛B、瀬下四郎廣親等と相逢ふて云はく、

とうごく   ゆうしは  みなぶえい したが たてまつ おはんぬ よっ ぶえい すうまんき  あいひ かまくら いた せし  たま
東國の勇士者、皆武衛に從い奉り畢。仍て武衛數万騎を相引き鎌倉へ到ら令め給ふ。

しか    われら ふたりは  せんじつへいけ  やくだく こうむ こと あ    よっ    じょうらく    のよし  これ  かた  もう
而るに吾等二人者、先日平家と約諾を蒙る事有るに依て、上洛する之由、之を語り申す。

よしなり こ  こと  き     ややむち あ      うんぬん
義成此の事を聞き、弥鞭を揚げると云々。

参考@新田大炊助入道上西は、新田大炊助源義重。
参考A里見冠者義成は、群馬県群馬郡榛名町中里見。
参考B長井齋藤別當實盛は、以前廷尉爲義の郎等だが、義朝よりも義賢に従っていた。頼朝の兄の悪源太義平が秩父の義賢を襲ったときにその子木曾冠者義仲を助けた。この後平家に従い、倶利伽羅峠での討ち死にシーンを平家物語巻七の實盛最後で熱く語っている。

現代語治承四年(1180)十二月小廿二日庚子。新田大炊助入道上西が頼朝様に呼び出されてやって来ました。それなのに簡単に鎌倉へ入ってはならないと、命令されて山内に留め置かれました。それは、軍隊を呼び集めて上州の寺尾館に立てこもったと噂が流れたので、藤九郎盛長に言いつけて呼び出したのです。新田義重は弁解をして云いました。「頼朝様に逆らう気持ちはありませんが、戦争が始まったと聞いたので、安易を城を出れば危険だと部下達が止めるので、躊躇していたら、この命令を受けて恐れおののいております。」だとさそこで藤九郎盛長は特にこれを強調して取次いだので、許されることになりましたとさ。

 また、上西の孫の里見冠者義成が京都からやってきました。その時は、平家に従っていたけれども、源氏が復興したことを聞いてやって来ましたと云いました。その志は祖父と違うので、早く身近に仕えるようこれを承知されました。里見義成が云うには、石橋合戦の後、平家は盛んに計略を考えて、源氏の主だった者は全て攻め滅ぼすように内々に言い出した時に、関東に行って頼朝様を襲撃する考えがあると、義成が嘘をいった処、平家は是を聞いて喜んで許可したのでやってまいりました。途中、千本松原で長井斎藤別当実盛と瀬下四郎広親等と会ったら云ってました。「関東の侍は、皆頼朝様に従い主人として仕えてしまった。だから頼朝様は数万の兵士を従え率いて鎌倉へ入られた。しかし、私達二人は前々からの平家との約束の恩があるので、京都へ行かねばならない。」と話しておりました。私はこの事を聞いたのでより一層急いで来ましたとさ。

治承四年(1180)十二月小廿四日壬寅。木曾冠者義仲避上野國。赴信濃國。是有自立志之上。彼國多胡庄者。爲亡父遺跡之間。雖令入部。武衛權威已輝東關之間。成歸往之思。如此云々。

読下し                  みずのえとら  きそのかじゃよしなか  こうづけのくに さ  しなののくに  おもむ
治承四年(1180)十二月小廿四日壬寅。木曾冠者義仲、上野國を避け信濃國へ赴く@

これ  じりつ こころざしあ のうえ   か  くにたこのしょう は ぼうふ  ゆいせきたるのかん  にゅうぶせし  いへど
是、自立の志有る之上、彼の國多胡庄A者亡父の遺跡爲之間、入部令むと雖も、

ぶえい  けんいすで  とうかん  かがや のかん  きおうの おも    な   かく  ごと    うんぬん
武衛の權威已に東關に輝く之間、歸往之思いを成し此の如しと云々。

参考@木曾冠者義仲上野國を避け信濃國へ赴くは、この時に、両者は川中島で対峙し、頼朝は裏切り者の叔父志田先生義広を木曾義仲が匿っており、これを差し出すよう要求した。しかし、木曾義仲が決断できず困り果てているので、嫡子義高を大姫の聟として人質に出すよう要求した。
参考A多胡庄は、群馬県多野郡吉井町多胡。

現代語治承四年(1180)十二月小廿四日壬寅。木曾冠者義仲は上州から信州に立ち退きました。これは自分で独立して立ち上がろうとする意志を持っている上、上州多古庄は父帶刀先生義賢の由緒があるので侵入したけれども、頼朝様の権威が関東に行き渡っているので、怖れを抱いて降伏的和順をもったので、こうなりましたと云う事です。

解説10月13日の記事同様平家物語第七巻「北国下向」によると寿永二年三月上旬に義仲と頼朝との間で対立し、碓氷峠で対抗し、善光寺平へ押し出し長野県長野市中御所に陣を張り、対峙す。(善光寺裏合戦の名だけ残り内容は不明)」とある。幻の寿永二年参照

治承四年(1180)十二月小廿五日癸卯。石橋合戰之刻。所被納于巖窟之小像正觀音。專光房弟子僧奉安閼伽桶之中捧持之。今日參着鎌倉。去月所被仰付也。數日搜山中。遇彼巖窟。希有而奉尋出之由申之。武衛合手。直奉請取給。御信心弥強盛云々。」今日。重衡朝臣爲平相國禪閤使。相率數千官軍。爲攻南都衆徒首途云々。

読下し                   みずのとう  いしばしかっせんのとき がんくつにおさ  らる ところのしょうぞう
治承四年(1180)十二月小廿五日癸卯。石橋合戰之刻、嚴窟于納め被る所之小像、

しょうかんのん せんこうぼう  でしそう あかおけのなか  やす  たてまつ これ  ささ  も   きょう    かまくら さんちゃく
正觀音を專光房の弟子僧閼伽桶之中に安んじ奉り之を捧げ持ち今日、鎌倉に參着す。

さんぬ つき  おお つ  らる ところなり  すうじつさんちう  さが  か  がんくつ あ    けう     て   たず  いだ たてまつ のよし  これ  もう
去る月、仰せ付け被る所也。數日山中を搜し彼の嚴窟に遇ひ希有にし而、尋ね出し奉る之由、之を申す。

ぶえい て  あわ  じか  う   と たてまつ たま   ごしんじんややきょうせい うんぬん
武衛手を合せ直に請け取り奉り給ふ。御信心弥強盛と云々。

きょう   しげひらあそん  へいしょうこくぜんこう つか   な  すうせん  かんぐん  あいひき   なんと  しゅうと   せ    ため  かどで    うんぬん
今日、重衡朝臣、平相國禪閤の使いと爲し數千の官軍を相率ひ、南都の衆徒を攻めん爲に首途すと云々。

現代語治承四年(1180)十二月小廿五日癸卯。石橋山合戦の時にある洞穴に置いてきた、小さな像の正観音を專光坊良暹の弟子僧が閼伽桶の中に入れて、これを捧げもって今日、鎌倉に到着しました。先月申し付けたところです。何日か山中を探して、あの洞窟にめぐり合い、奇跡的に見つけることが出来たといいました。頼朝様は手を合わせて自ら受け取ってまつりあげました。随分信心深いからなんだとさ

今日、重衡が平清盛の命令で数千の軍隊を引き連れて、奈良の武者僧を攻撃する為出発したんだとさ。

治承四年(1180)十二月小廿六日甲辰。佐々木五郎義C爲囚人被召預于兄盛綱。是早河合戰之時。属澁谷庄司。殊奉射之故也。

読下し                   きのえたつ   ささきのごろうよしきよ    めしうど  な   あにもりつなに め あず  らる
治承四年(1180)十二月小廿六日甲辰。佐々木五郎義C@、囚人と爲し兄盛綱于召し預け被る。

これ はやかわがっぜんのとき しぶやのしょうじ ぞく  こと  いたてまつ のゆえなり
是、早河合戰之時、澁谷庄司に属し殊に射奉る之故也。

参考@佐々木五郎義Cは、佐々木源三秀義が澁谷庄司重國の娘に産ませた五男。

現代語治承四年(1180)十二月小廿六日甲辰。佐々木五郎義清は囚人として兄の佐々木三郎盛綱に預けられました。これは、早川合戦の時に渋谷庄司重国に従って敵対し、特に源氏軍に向かって上手に弓を射たからです。

治承四年(1180)十二月小廿八日丙午。出雲時澤可爲雜色長之旨被仰。朝夕祗候雜色等雖有數。征伐之際。時澤之功異他故被抽補彼軄云々。」今日。重衡朝臣燒拂南都云々。東大興福兩寺郭内。堂塔一宇而不免其災。佛像經論同以回祿云々。

読下し                   ひのえうま  いずもときざわ  ぞうしき  おさたるべ   のむね  おお  らる
治承四年(1180)十二月小廿八日丙午。出雲時澤は雜色の長爲可し之旨、仰せ被る。

ちょうせきしこう  ぞうしきら かずあ    いへど   せいばつのさい  ときざわのこう ことな なり  ゆえ かのしき  ぬき    ぶさる    うんぬん
朝夕祗候の雜色等數有りと雖も、征伐之際、時澤之功は異る他。故に彼職を抽んで補被ると云々。

きょう   しげひらあそん なんと  や  はら   うんぬん
今日、重衡朝臣南都を燒き拂うと云々。

とうだいこうふく  りょうじ  かくない  どうとう いちう    て  そ わざわい まぬ   ず  ぶつぞう  けいりんおな   もっ  かいろく    うんぬん
東大興bフ兩寺の郭内、堂塔一宇とし而其の災を免かれ不。佛像、經論同じく以て回祿すと云々。

現代語治承四年(1180)十二月小廿八日丙午。出雲時沢は雑色の長になるように仰せられました。朝夕仕えている雑色は沢山いますが、戦争の時の時沢の手柄は他とは違っていました。そこでその職を抜擢して任命しましたとさ。

今日、重衡は奈良の寺社を焼き払ったんだとさ。東大寺、興福寺の両方の寺の境内のお堂や塔は一つとしてその災禍を外れず、仏像も経典も皆一緒に燃えてしまったんだとさ。

二巻へ

吾妻鏡入門第一巻

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