吾妻鏡入門第二巻

養和元年(1181)八月小

参考 九条兼実の玉葉八月一日条には、頼朝が平家との和睦を求める密書を後白河法皇に送っている。これを平家の宗盛に知らせるが、宗盛は平相國禪閤〔C盛〕の遺言で頼朝の首を墓前に捧げるよう云われているので、和睦なんか出来ないと返事が来た。と書かれている。

養和元年(1181)八月小十三日丁巳。藤原秀衡可令追討武衛也。平資長可追討木曾次郎義仲之由 宣下。是平氏之依申行也。

読下し            ひのとみ  ふじわらのひでひら   ぶえい ついとうせし  べ  なり
養和元年(1181)八月小十三日丁巳。藤原秀衡@は、武衛を追討令む可き也。

たいらのすけなが  きそのじろうよしなか  ついとうすべ  のよし  せんげ        これ  へいしの もう  おこな   よっ  なり
平資永Aは、木曾次郎義仲を追討可し之由、宣下される。是、平氏之申し行ふに依て也。

参考@藤原秀衡は、奥州平泉の藤原氏の三代目。
参考A
平資永は、越後奥山の荘領主。(奥山の荘は、旧新潟県北蒲原郡紫雲寺町、中条町、黒川村。現在は中条町と黒川村が合併して胎内市に、紫雲寺町は加治町と共に新発田市に合併)桓武平氏系図参照。

現代語養和元年(1181)八月小十三日丁巳。藤原秀衡は頼朝を追討すること。平資永は木曽義仲を追討するように天皇から命令が出ました。これは平氏が無理に申し出たからです。

(切り貼りの誤謬で、寿永二年(1183)四月分と思われるので、読み下し以下はそちらに載せる。)

原文養和元年(1181)八月小十五日己未。鶴岳若宮遷宮。武衛參給云々。」今日。平氏但馬守經正朝臣。爲追討木曾冠者。進發北陸道云々。

(切り貼りの誤謬で、寿永二年(1183)四月分と思われるので、読み下し以下はそちらに載せる。)

原文養和元年(1181)八月小十六日庚申。中宮亮通盛朝臣。爲追討木曾冠者。又赴北陸道。伊勢守C綱。上總介忠C。館太郎貞保發向東國。爲襲武衛也。

(切り貼りの誤謬で、寿永二年(1183)四月分と思われるので、読み下し以下はそちらに載せる。)

原文養和元年(1181)八月小廿六日庚午。散位康信入道所進飛脚申云。今月一日。自福原歸洛。而去十六日。官軍等差東方發向。尤可被廻用意歟。

 

養和元年(1181)八月小廿七日辛未。澁谷庄司重國次男高重竭無貳忠節之上。依令感心操之隱便給。彼當知行澁谷下郷所濟乃貢等所被免除也。

読下し           かのとひつじ  しぶやのしょうじしげくに じなん  たかしげ    むに  ちゅうせつ かっ  のうえ
養和元年(1181)八月小廿七日辛未。澁谷庄司重國が次男の高重は、無貳の忠節を竭す之上

しんそうのおんびん かんぜせし たま   よっ    か  とうちぎょう しぶやしもごう   しょさい のうぐ ら  めんじょさる ところなり
心操之穩便を感令め給ふに依て、彼の當知行澁谷下郷@の所濟乃貢等を免除被る所也。

参考@澁谷下郷は、神奈川県藤沢市長後。

現代語養和元年(1181)八月小廿七日辛未。渋谷庄司重国の次男高重は、またとない忠節を表している上、性格が穏便なのに頼朝様が感動されて、彼の所領である渋谷庄下郷に定められた租税年貢を免除されました。

養和元年(1181)八月小廿九日癸酉。爲御願成就。於若宮并近國寺社。可令轉讀大般若仁王經等之旨被仰下。此内可令致長日御祈祷之所々在之。於鶴岳宮者。兼日被定其式。至伊豆筥根兩山者。今被仰之。注文者各一紙被送遣彼山云々。昌寛奉行之。
   御祈禱次第事
  毎月朔  大般若經一部   衆三十人
  毎月朔  仁王講百座    衆十二人
  長日   觀音品      衆百人五日一人充
  四季   曼茶羅供     衆四人
 右御祈禱注文如件。
    治承五年八月晦日

読下し           みずのととり  ごがんじょうじゅ ため  わかみやなら   きんごくじしゃ  をい
養和元年(1181)八月小廿九日癸酉。御願成就の爲、若宮并びに近國寺社に於て

だいはんにゃ におうきょうら  てんどく せし  べ  のむね  おお  くださる    こ   うち  ちょうじつ  ごきとう   いた  せし  べ   のしょしょこれ あ
大般若 仁王經等を轉讀@令む可し之旨、仰せ下被る。此の内、長日の御祈禱を致さ令む可き之所々之在り。

つるおかぐう をい  は  けんじつ そ  しき  さだ  らる    いず   はこね  りょうさん  いた   は   いまこれ おお  らる
鶴岳宮に於て者、兼日其の式を定め被る。伊豆、筥根の兩山に至りて者、今之を仰せ被る。

ちうもんは おのおのいっし か  やま  おく  つか  さる   うんぬん しょうかんこれ  ぶぎょう
注文者、各一紙を彼の山に送り遣は被ると云々。昌寛之を奉行す。

       ごきとう  しだい    こと
   御祈祷次第の事

     まいげつついたち  だいはんにゃきょういちぶ しゅう さんじうにん
  毎月 朔は、大般若經一部。衆は三十人。

     まいげつついたち  におうきょうひゃくざ   しゅう じうににん
  毎月 朔は、仁王講百座。 衆は十二人。

     ちょうじつ       かんのんぼん      しゅう ひゃくにん  いつか  ひとり  あて
  長日は、  觀音品。   衆は百人。五日に一人を充る。

     しき          まんだらぐ         しゅう よにん
  四季は、  曼荼羅供。  衆は四人。

  みぎ   ごきとう   ちうもん くだん ごと
 右、御祈禱の注文、件の如し。

         じしょうごねんはちがつみそか
    治承五年八月晦日

参考@転読は、略式の飛ばし読みのお経を上げる事で、お経を左右にアコーデオンのように片手から片手へ移しながらお経を唱える。摺り読みとも云う。反対にちゃんと読むのを「真読」と云う。

現代語養和元年(1181)八月小廿九日癸酉。頼朝様の願いが叶うように、八幡宮と関東の寺社で大般若仁王經等を転読するように命令を出されました。その内で一日中お経を上げる長日を行うべき寺があります。八幡宮については、前もってその方式をお決めになられています。伊豆と箱根の両権現については今これを仰せになられました。それを決めた文書はそれぞれに一通づつ送られました。一品坊昌寛がその担当をしました。

  ご祈祷のやり方のきめ
 毎月一日は大般若経一部、坊主は三十人
 毎月一日は仁王百座 坊主は二十人
 一日中唱えるのは観音経 坊主は百人で 五日に一人を割り当てる
 季節ごとのは曼荼羅供 坊主は四人
右のように祈禱のやり方はこの通りである。
   治承五年八月三十日。

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