吾妻鏡入門第二巻

寿永元年(1182)八月大

壽永元年(1182)八月大五日癸卯。鶴岳供僧禪愼捧訴状云。長日不退御祈禱更無怠慢之處。於恩賜田畠。准平民被充催公事。愁訴難慰云々。仍則停止万雜公事之由被仰下。召禪愼於御前。直賜恩下文。
 下
  可令早停止若宮供僧禪愼在家役并自作麦畠壹町地子事
 右。件人爲若宮供僧。長日之御祈无懈怠。而在郷令住房。准於土民。懸万雜公事令煩之條。不隱便事也。於自今已後者。云万雜公事。云垣内畠。可令停止其煩之状。所仰如件。以下。
     治承六年八月五日

読下し              みずのえうま  つるがおか ぐそうぜんえい  そじょう  ささ    い      ちょうじつふたい  おんきとう
壽永元年(1182)八月大五日癸卯。鶴岳の供僧禪叡、訴状を捧げて云はく、長日不退の御祈祷、

さら  たいまんな  のところ  おんし  でんぱた  をい    へいみん なら   くじ   あてもよおされ  しゅうそなぐさ がた   うんぬん
更に怠慢無き之處、恩賜の田畠@に於ては平民に准い公事Aを充催被る。愁訴慰め難しと云々。

よっ  すなは まんぞうくじ   ちょうじ    のよし  おおせくださる  ぜんえいを ごぜん  め  じき  おんくださいぶみ たまは
仍て則ち万雜公事Bを停止する之由、仰下被る。禪叡於御前に召し直に御下文を賜る。

   くだ
 下す

  はやばや わかみやぐそうぜんえい ざいけ えきなら    じさく  むぎばたけいっちょう ぢし   ちょうじせし  べ   こと
 早々と若宮供僧禪叡の在家の役并びに自作の麦畠壹町の地子Cを停止令む可き事

  みぎ くだん ひと  わかみやぐそう  な   ちょうじつのおんきけたい な    しか    ざいごう  じゅうぼうせし
 右、件の人、若宮供僧と爲し長日之御祈懈怠无し。而るに在郷に住房令む。

   どみんを なら   まんぞう くじ   か  わずらひせし のじょう おんびんならずことなり
 土民於准い、万雜公事を懸け煩令む之條、穩便不事也。

  いまより いご   をい  は   まんぞうくじ   い   かいとのはたけ  い そ わずらい ちょうじせし  べ  のじょう  おお   ところくだん ごと  もっ  くだ
 今自已後に於て者、万雜公事と云い垣内畠Dと云い其の煩を停止令む可し之状、仰せる所件の如し以て下す。

      じしょうろくねんはがついつか
   治承六年八月五日

参考@恩賜の田畠は、自ら耕していると云う意味。
参考A
公事は、年貢税は米の他の副税で雑事役務をする。例は「いもがゆ」での芋を提出させたこと。
参考B万雜公事は、副税で多くの場合労働又は労働による収穫や作物を出すのである。禪叡は、祈祷と云う労働を行っているので、他の労働を求めるべきではないとする。
参考C地子は、土地から上がる収穫からの税や借地料。
参考D
垣内畠は、屋敷内の庭先の畑。田、畑は税の対象だが、屋敷内の田畑は税の非対象である。

現代語寿永元年(1182)八月大五日癸卯。鶴岡八幡宮寺の僧侶の一人の禅叡が、訴状を提出して云うには、一日中続けて途中でやめないお経を祈り、決してサボったりしていないのに、幕府から与えられた自ら耕している田畑に、一般人と同じように万雑公事と云う労役に借り出されるので、大変哀しい思いをしているのだとさ。そこで(頼朝様は)直ぐに万雑公事を止める様に、命令を決められました。禅叡を直接御所へ呼び寄せて、直接に命令書をお渡しになりました。

 命じる さっさと八幡宮の僧侶の禅叡の耕作民としての負担、及び麦畑一町の収穫税を止めること
 右の その人は、八幡宮の僧侶として日がな上げ続けるお経に手抜きはない。それなのに付近の村に住んでいる住民と同じように、労役をかけて煩わすことは、不穏当である。今から先は、労役も屋敷内田畑の税も全て免除をさせることはこの通りである。
  治承六年八月五日

壽永元年(1182)八月大十一日己酉。及晩。御臺所有御産氣色。武衛渡御。諸人群集。又依此御事。在國御家人等。近日多以參上。爲御祈祷。被立奉幣御使於伊豆筥根兩所權現并近國宮社。所謂。
 伊豆山〔土肥弥太郎〕       筥根〔佐野太郎〕
 相摸一山〔梶原平次〕       三浦十二天〔佐原十郎〕
 武藏六所宮〔葛西三郎〕      常陸鹿嶋〔小栗十郎〕
 上総一宮〔小權介良常〕      下総香取社〔千葉小太郎〕
 安房東条庤〔三浦平六〕      同國洲崎社〔安西三郎〕

読下し                つちのととり  ばん  およ    みだいどころおさん  けしきあ    ぶえい とぎょ
壽永元年(1182)八月大十一日己酉。晩に及びて御臺所御産の氣色有り、武衛渡御す。

しょにんぐんしゅう   また  こ  おんこと  よっ  ざいこくごけにん ら   きんじつおお もっ  さんじょう
諸人群集す。又、此の御事に依て在國御家人@等、近日多く以て參上す。

 ごきとう  ため  ほうへい  おんしを  いず  はこねりょうしょごんげんなら   きんごくぐうしゃ  たてられ   いはゆる
御祈祷の爲に奉幣の御使於伊豆、筥根兩所權現并びに近國宮社に立被る。所謂、

  いずさん    〔といのいやたろう〕           はこね  〔さののたろう〕
 伊豆山A〔土肥弥太郎〕    筥根B〔佐野太郎〕

  さがみいちのみや 〔かじわらのへいじ〕       みうらじゅうにてん   〔さわらのじゅうろう 〕
 相摸一宮C〔梶原平次〕    三浦十二天D〔佐原十郎E

  むさしろくしょのみや 〔かさいのさぶろう〕      ひたちかしま  〔おぐりのじゅうろう〕
 武藏六所宮F〔葛西三郎〕   常陸鹿嶋G〔小栗十郎〕

  かずさいちのみや 〔しょうごんのすけよしつね〕   しもふさかとりしゃ  〔ちばのこたろう〕
 上総一宮H〔小權介良常I   下総香取社J〔千葉小太郎〕

   あわとうじょうまうけ 〔みうらのへいろく〕       どうこく すさきしゃ  〔あんざいのさぶろう〕
 安房東条庤K〔三浦平六〕   同國洲崎社L〔安西三郎〕

参考@在國御家人は、御家人の勤務体系には三種類あり、鎌倉に住み着いている在鎌倉御家人、京都に駐留している在京御家人、自分の地元(国元)に住んでいる在国御家人とがある。
参考A伊豆山は、静岡県熱海市の走湯神社
参考B
筥根は、神奈川県足柄下郡箱根町の箱根神社
参考C相摸一宮は、相模一の宮で神奈川県高座郡寒川町の寒川神社。ついでに二宮は、二宮町川勾神社。三は伊勢原市比々多神社、四は平塚市前鳥神社
参考D三浦十二天は、神奈川県横須賀市芦名1丁目21番25号の十二所神社で天神七代、地神五代を祀る。
参考E佐原十郎は、三浦介義明の十男で、
義連。佐原は、神奈川県横須賀市佐原三丁目15番の上。
参考F武藏六所宮は、東京都府中市の大国魂神社で前九年の役の勝利の礼に頼義、義家親子が馬場大門欅並木を寄付している。
参考G常陸鹿嶋は、茨城県鹿嶋市宮中の鹿島神宮
参考H上総一宮は、千葉県長生郡一宮町一宮の玉前神社
参考I小權介良常は、上総広常の息子だが、あざなから惣領と思われ、出演は後にも先にも是一回。能常と書く場合もある。
参考J下総香取社は、千葉県香取市香取の香取神宮
参考K安房東条庤は、鴨川市天津の天津神明神社。庤は「かんだち」とも云い神館のことでもある。
参考L同國洲崎社は、千葉県館山市洲崎の洲崎神社
参考使いのそれぞれは、その神社地の領主である。但し、箱根の佐野太郎基綱は分からない。

現代語寿永元年(1182)八月大十一日己酉。夜になって、御台所(政子)が産気づきましたので、頼朝様は(産所の比企の屋敷へ)参られました。(この様子を聞いて)武士達が集まりました。又、この吉事を知らされて、地元に住んでいる在国御家人達が、最近沢山鎌倉へ来ております。(無事な出産を祈る)ご祈祷のために使者を伊豆山権現・箱根権現の両権現と近い国の主な神社に行かせました。それは

伊豆山(走湯山神社)へは土肥弥太郎遠平。   筥根(箱根神社)へは佐野太郎忠家。
相模一ノ宮
(寒川神社)へは梶原平次景高。   三浦十二天(十二所神社)へは三浦佐原十郎義連。
武蔵六所宮(大国魂神社)へは葛西三郎清重。  常陸鹿島(鹿島神宮)へは小栗十郎重成。
上総一ノ宮(玉前神社)へは上総小権介良常。  下総香取社(香取神宮)へは千葉小太郎成胤。
安房東条庤(天津神明神社)へは三浦平六義村。 同国洲崎社(洲崎神社)へは安西三郎景益。

壽永元年(1182)八月大十二日庚戌。霽。酉尅。御臺所男子平産也。御驗者專光房阿闍梨良暹。大法師觀修。鳴弦役師岳兵衛尉重經。大庭平太景義。多々良權守貞義也。上総權介廣常引目役。戌尅。河越太郎重頼妻〔比企尼女。〕依召參入。候御乳付。

読下し                かのえいぬ  はれ とりのこく  みだいどころだんしごへいさん なり  ごげんざ  せんこうぼうあじゃりりょうせん  だいほっしかんじゅ
壽永元年(1182)八月大十二日庚戌。霽。酉尅、御臺所男子御平産@也。御驗者Aは專光坊阿闍梨良暹、大法師觀修。

めいげん  やく  もろだけひょうえのじょうしげつね おおばのへいたかげよし たたらのごんのかみさだよし なり
鳴弦の役Bは、師岳兵衛尉重經、 大庭平太景義、 多々良權守貞義C也。

かずさごんのすけひろつね ひきめ やく いぬのこく かわがえのたろうしげより つま 〔ひきのあま むすめ〕 めし よっ  さんにゅう   おんちづけ  そうら
上総權介廣常、引目の役D。 戌尅、河越太郎重頼が妻〔比企尼の女〕召に依て參入す。御乳付Eに候う。

参考@平産は、安産。
参考A御驗者は、生まれた子が偉くなるように祈る役。
参考B鳴弦の役は、弓弦を鳴らして魔を払う。
参考C多々良權守貞義は、一回限りの出演でよく分からない人物(横須賀市鴨居四丁目に多々良公園あり)
参考D引目の役は、矢の蟇目で鏑が付いているので枕元で鳴らして魔払いをする。
参考E
乳付は、乳母になる儀式の一つ。

現代語寿永元年(1182)八月大十二日庚戌。晴。午後六時頃に、御台所(政子)は男の子を出産なされました。無事な出産と子供が偉くなるように祈祷をしたのは、光房阿闍梨良暹と大法師観修です。悪魔祓いの弓の弦を鳴らす役目は、師岳兵衛尉重経と大庭平太景義と多々良権守貞義です。上総権介広常は枕元で鏑の矢を振って鳴らして悪魔祓いをする役でした。午後八時頃になって河越太郎重頼の妻〔比企尼の娘〕が呼ばれてきて、乳母になる初めて乳を吸わせる儀式をしました。

壽永元年(1182)八月大十三日辛亥。若公誕生之間。追代々佳例。仰御家人等。被召御護刀。所謂。宇都宮左衛門尉朝綱。畠山次郎重忠。土屋兵衛尉義C。和田太郎義盛。梶原平三景時。同源太景季。横山太郎時兼等献之。亦御家人等所献御馬。及二百餘疋。以此龍蹄等。被奉于鶴岳宮。當國一宮。大庭庤。三浦十二天。栗濱大明神已下諸社也。兼備父母之壯士等被撰定御使云々。

読下し                  かのとい わかぎみたんじょうのかん だいだいかれい おっ  ごけにん ら   おお   おんまもりがたな めさる
壽永元年(1182)八月大十三日辛亥。若公誕生之間、代々佳例を追て御家人等に仰せて御護刀を召被る。

いはゆる うつのみやのさえもんのじょうともつな はたけやまのじろうしげただ つちやのひょうえのじょうよしきよ わだのたろうよしもり   かじわらのへいざかげとき
所謂、宇都宮左衛門尉朝綱、 畠山次郎重忠、 土屋兵衛尉義C、 和田太郎義盛、梶原平三景時、

おな   げんたかげすえ よこやまのたろうときかねらこれ けん    また  ごけにん ら けん    ところ おんうま  にひゃくよひき  およ
同じき源太景季、横山太郎時兼等之を献ず。亦、御家人等献ずる所の御馬。二百餘疋に及ぶ。

こ   りゅうてい ら もっ   つるがおかぐう とうごくいちのみや  おおばまうけ  みうらじゅうにてん  くりはまだいみょうじん いげ  しょしゃにたてまつらる なり
此の龍蹄@等を以て、鶴岳宮、當國一宮A、大庭庤B、三浦十二天C、栗濱大明~D已下の諸社于奉被る也。

ふぼ けんびの そうし ら おんし  せんていさる   うんぬん
父母兼備之壮士等御使に撰定被ると云々。

参考@龍蹄は、体高四尺以上の名馬。以下を駒と云う。
参考A當國一宮は、神奈川県高座郡寒川町の寒川神社
参考B大庭庤は、藤沢市稲荷の大庭神社カ?又は昔左典厩〔義朝〕が三浦に襲わせた鵠沼神明(烏森皇大神宮)カ?
参考C三浦十二天は、神奈川県横須賀市芦名1丁目21番25号の十二所神社で天神七代、地神五代を祀る。
参考D栗濱大明~は、神奈川県横須賀市久里浜8丁目29の住吉神社。

現代語寿永元年(1182)八月大十三日辛亥。若公(万寿、後の頼家)が誕生したので、武家の棟梁としての慣例に従って御家人達に護り刀を出させました。それは、宇都宮左衛門尉朝綱、畠山次郎重忠、土屋兵衛尉義清、和田太郎義盛、梶原平三景時、梶原源太景季、横山太郎時兼が献上しました。又、御家人達が献上した馬は、二百頭もありました。この名馬を鶴岡宮鶴岡八幡宮相模一ノ宮(寒川神社)大庭庤(大庭神社)三浦十二天(十二所神社)栗浜大明神(久里浜住吉神社)を初めとする神社に奉納しました。両親の揃った若者の武士をその使者に選びましたとさ。

壽永元年(1182)八月大十四日壬子。若公三夜儀。小山四郎朝政沙汰之云々。

読下し                みずのえね  わかぎみさんや  ぎ  おやまのしろうともまさ  これ   さた     うんぬん
壽永元年(1182)八月大十四日壬子。若公三夜の儀、小山四郎朝政が之を沙汰すと云々。

現代語寿永元年(1182)八月大十四日壬子。若公(万寿、後の頼家)の生まれて三日目を祝う儀式を小山四郎朝政が施行しましたとさ。

壽永元年(1182)八月大十五日癸丑。鶴岳宮被始六齋講演。

読下し                みずのとうし  つるがおかぐう ろくさい  こうえん  はじ  らる
壽永元年(1182)八月大十五日癸丑。鶴岳宮に六齋@の講演を始め被る。

参考@六齋は、仏語で、特に身を慎み持戒清浄であるべき日と定められた六か日のことで、月の8,14,15,23,29,30日を云うとのこと。

現代語寿永元年(1182)八月大十五日癸丑。鶴岡八幡宮で六齋のお経を始めました。

壽永元年(1182)八月大十六日甲寅。若公五夜儀。上総介廣常沙汰也。

読下し                 かのえとら  わかぎみいつつや ぎ  かずさのすけひろつね さた なり
壽永元年(1182)八月大十六日庚寅。若公五夜の儀、上総介廣常が沙汰也。

現代語寿永元年(1182)八月大十六日庚寅。若公(万寿、後の頼家)の生まれて五日目を祝う儀式を上総権介広常が実施をしました。

壽永元年(1182)八月大十八日丙辰。七夜儀。千葉介常胤沙汰之。常胤相具子息六人。着侍上。父子裝白水干袴。以胤正母〔秩父大夫重弘女。〕爲御前陪膳。又有進物。嫡男胤正。次男師常舁御甲。三男胤盛。四男胤信引御馬。〔置鞍。〕五男胤道持御弓箭。六男胤頼役御劔。各列庭上。兄弟皆容儀神妙壯士也。武衛殊令感之給。諸人又爲壯觀。

読下し                 ひのえたつ  しちや  ぎ  ちばのすけつねたねこれ さた
壽永元年(1182)八月大十八日丙辰。七夜の儀。千葉介常胤之を沙汰す。

つねたねしそくろくにん  あいぐ   さむらい かみ つ
常胤子息六人を相具し、侍@の上Aに着く。

 ふし しろすいかんはかま よそお たねまさ はは 〔ちちぶのたいふしげひろ むすめ〕 もっ    ごぜん  ばいぜん  な
父子B白水干袴を裝い、胤正の母〔秩父大夫重弘が女〕を以て、御前の陪膳Cと爲す。

また しんもつあ  ちゃくなんたねまさ じなんもろつねおんかぶと か   さんなんたねもり よんなんたねのぶおんうま 〔くらおき〕   ひ
又、進物有り。嫡男胤正、次男師常御甲を舁く。三男胤盛、四男胤信御馬〔置鞍〕を引く。

ごなんたねみちおんきゅうぜん も   ろくなんたねよりおんつるぎ やく おのおの ていじょう れつ  きょうだいみなようぎしんみょう  そうしなり
五男胤道御弓箭を持ち、六男胤頼御劔を役す。各、庭上に列す。兄弟皆容儀~妙Dの壮士也。

ぶえいこと  これ  かん  せし  たま   しょにんまた そうかん  な
武衛殊に之を感ぜ令め給ふ。諸人又、壮觀と爲す。

参考@は、侍所。
参考A
は、頼朝に近い。
参考B父子は、七人で七夜と縁起の良い七になぞらえている。
参考C
陪膳は、お給仕。
参考D容儀~妙は、武士としての面構えが良い。

現代語寿永元年(1182)八月大十八日丙辰。若公(万寿、後の頼家)の生まれて七日目を祝う(お七夜)の儀式を千葉介常胤が実施しました。常胤は息子六人を引き連れて、常胤だけが侍所の部屋の中へ座りました。親子は白い水干を着て、胤正のお母さん〔秩父大夫重弘の娘〕がお給仕役をしました。又、若君への贈り物を用意しました。嫡子の千葉太郎胤正と次男の相馬次郎師常は兜と鎧を持ち、三男の胤盛と四男の胤信は、鞍を乗せて馬を左右で引いています。五男の胤道は弓矢を持って、六男の胤頼は太刀持ちをしています。それぞれ、庭に並びました。七人揃って白い水干なので、その姿は武士としての面構えが立派なものでした。頼朝様はすっかり喜んで感心をしてしまい、それを見ていた人達は壮観だと感心していました。

壽永元年(1182)八月大廿日戊午。若公九夜御儀。外祖〔時政〕令沙汰之給。

読下し              つちのえうま  わかぎみここのや ぎ  がいそ これ さた  せし  たま
壽永元年(1182)八月大廿日戊午。若公九夜の儀、外祖之を沙汰令め給ふ。

現代語寿永元年(1182)八月大廿日戊午。若公(万寿、後の頼家)の生まれて九日目を祝う儀式です。外祖父の北条時政様が実施されました。

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