吾妻鏡入門第四巻

元暦二年(1185)三月大「八月十四日文治元年と爲す」

元暦二年(1185)三月大一日甲申。入夜。西國飛脚參着。合戰事歟之由。成推量之間。鎌倉中諸人馳參云々。

読下し                     よ   い      さいごく  ひきゃくさんちゃく
元暦二年(1185)三月大一日甲申。夜に入り@、西國の飛脚參着す。

かっせん  ことかのよし   すいりょう な   のかん  かまくらちう  しょにんは  さん    うんぬん
合戰の事歟之由、推量を成す之間、鎌倉中の諸人馳せ參ずと云々。

参考@夜に入りなので、馬の蹄の音で皆にわかったのかも知れない。

現代語元暦二年(1185)三月大一日甲申。夜になって、関西駐屯軍からの早馬伝令が鎌倉へ到着しました。これは、平家との合戦の報告だろうと聞きつけて、鎌倉中の人たちが集まってきましたとさ。

元暦二年(1185)三月大二日乙酉。去夜飛脚者澁谷庄司重國之使也。去正月參州自周防國被渡豊後國之時。最前渡海。討種直之由申之。」今日。内藏寮領山城國精進御薗事。止給人景C妨。可令刑部丞信親領掌之旨。武衛直令下知給云々。

読下し                     さぬ よ   ひきゃくは  しぶやのしょうしげくに の つか なり
元暦二年(1185)三月大二日乙酉。去る夜の飛脚者、澁谷庄司重國@之使い也。

さぬ しょうがつ さんしゅう すおうのくによ  ぶんごのくに わたられ  のとき  さいぜん  とかい    たねなお   う   のよし  これ  もう
去る正月、參州、周防國自り豊後國へ渡被る之時、最前に渡海し、種直Aを討つ之由、之を申す。」

きょう   くらりょうりょう やましろのくにしょうじん みその  こと  きゅうにん かげきよ さまた   と
今日、内藏寮領
B山城國精進の御薗Cの事、給人D景CEが妨げFを止め、

ぎょうぶんじょうのぶちか りょうしょうせし べ  のむね  ぶえいじき   げち せし たま    うんぬん
刑部丞信親、 領掌令む可し之旨、武衛直に下知令め給ふと云々。

参考@澁谷庄司重國は、神奈川県大和市福田の小田急江ノ島線「高座渋谷駅」東北(上和田)に城山の小字地名あり。但し、標柱には和田小太郎義盛の城跡と書いてある。町名に和田が残っている。後世に、綾瀬市早川へ移ったので、あちらの早川城址に石碑が残る。
参考A種直は、原田大夫種直で大宰少貳種直。
参考B内藏寮領は、京都朝廷内蔵寮の領地で公領と云う、反対は私領で荘園だが、しかしここはこれで内蔵寮長官の個人的な領地となっている。中世は荘園公領体制と呼ばれる。
参考C
精進の御薗は、精進会の費用を捻出する荘園で、園は畑の荘園。
参考D給人は、現地預かり人を指すが、あくまでも役職であり、現地へは代官を派遣している。
参考E景Cは、謡で有名な「悪七兵衛景C」。
参考F
妨げは、横取り。

現代語元暦二年(1185)三月大二日乙酉。昨晩の伝令は、澁谷庄司重國が発した使いでした。先の一月に、源參河守範頼様が豊後国(大分県)へ渡った時に、(重國が)一番乗りをして原田大宰少貳種直を討ち取ったと伝えました。

今日、京都朝廷内蔵寮の領地の山城国(京都府)の精進会の費用を捻出する荘園(畑)の年貢を悪七兵衛景Cが横取りするのを阻止して、刑部丞信親が支配するように、頼朝様は命令を出させましたとさ。

元暦二年(1185)三月大三日丙戌。有左馬頭義仲朝臣妹公。是先日武衛御臺所有御猶子之契。而自美濃國〔一村有御志間在國〕上洛。募御息女之威。在京之間。奸曲之輩多以属之。捧往日弃損古文書。寄附不知行所々於件姫公之後。又稱其使節。押妨權門庄公等。此事。當時人庶之所愁也。既達關東遠聞之間。号之物狂女房。且停止彼濫吹。且可搦進相順族之由。今日被仰遣近藤七國平并在京畿内御家人等之許。但於御一族之中。奸濫人相交之條。依耻世謗給。於御書之面。雖被載物狂之由。潜有憐愍御志。可參向關東之趣内々被諌仰云々。

読下し                     さまのかみよしなかそん  いもうとぎみ あ   これ  せんじつぶえい みだいどころ ごゆうし のちぎり  あ
元暦二年(1185)三月大三日丙戌。左馬頭義仲朝臣に妹公@有り。是、先日武衛が御臺所御猶子A之契り有り。

しか    みののくに 〔いつそんおこころざしあ かん ざいこく   〕  よ   じょうらく
而して美濃國〔一村 御志 有るの間在國すB自り上洛す。

ごそくじょ の い   つの    ざいきょうのかん かんきょくのやからおお もつ これ  ぞく    おうじつきえん  こもんじょ   ささ
御息女之威に募り
C、在京之間、奸曲之 輩多く以て之に属し、往日弃損の古文書Dを捧げ、

ちぎょうせず しょしょをくだん ひめぎみ  きふ     ののち  またそ   しせつ  しょう   けんもんしょうこう ら  お   さまた
不知行の所々於件の姫公に寄附する之後、又其の使節と稱し、權門庄公
E等を押し妨ぐF

こ   こと   とうじ じんしょのうれ   ところなり
此の事、當時人庶之愁うる所也。

すで  かんとう  えんぶん たつ    のかん  これ  ものぐる   にょうぼう  ごう    かつう  か   らんすい ちょうじ
既に關東の遠聞に達する之間、之を物狂いの女房と号し
G、且は彼の濫吹を停止し、

かつう あいしたが やから から  しん  べ   のよし  きょうこんどうしちくにひらなら    ざいきょう きないごけにん ら の もと  おお  つか  さる
且は、相順う族を搦め進ず可し之由、今日近藤七國平并びに在京
H畿内御家人I等之許へ仰せ遣は被る。

ただ  ごいちぞくの なか  をい    かんらんにんあいまじ   のじょう  よ   そし    はじたま    よつ
但し御一族之中に於て、奸濫人相交はる之條、世の謗りを耻給ふに依て、

おんしょのつら  をい      ものぐるいのよし の   らる   いへど   ひそか れんみん おこころざしあ
御書之面に於ては、物狂之由を載せ被ると雖も、潜に憐愍の御志有りて、

かんとう さんこうすべ のおもむき ないない かん  おお  らる   うんぬん
關東へ參向可し之趣、内々に諌じ仰せ被ると云々。

参考@義仲の妹は、尊卑文脈に「菊子」とあり、脇に「真理子」とふってあるので、元の字の意味は「鞠子」である。
参考A猶子は、「なお子の如し」で相続権のない養子。これが「親の分、子の分と分限をわきまえる」となり、当時の文書には「親分」「子分」と出てくる。
参考B一村御志有るの間在國すは、一村を頼朝が与えておいたので、その村に住んでいた。遠山庄(現岐阜県瑞浪市。但し、荘園全体の総地頭は加藤次景廉なので、彼女は一村の小地頭。
参考C御息女之威を募るは、政子の子と言う立場の権威を利用して。
参考D往日弃損の古文書は、無効になった文書。
参考E權門庄公は、@権力者や門閥の荘園やA國衙が支配している公の領地。
参考F押し妨ぐは、力に物を言わせて勝手に徴税していくので、正規の徴税者の妨げとなる。
参考G之を物狂いの女房と号しは、気が違っていることにして罪をまぬかれる。
参考H在京は、在京御家人。
参考I畿内御家人は、五畿内で山城、摂津、河内、和泉、大和の御家人。

現代語元暦二年(1185)三月大三日丙戌。木曾義仲に妹があります。以前に御台所(政子)様の子供同様としての約束をなされました。そこで美濃国(岐阜県)〔一村(遠山庄内)を与えたのでそこに住んでいました〕から京都へ上りました。政子様の縁故の権威を使って、京都にいる間に悪い連中が寄ってきて、政子様の名を語り、無効になっている古い文書を利用しては、自分の領地でもない土地をその姫君に寄付したことにした上で、姫君の派遣員だと言って、荘園や公領の年貢を横取りしました。それが今、庶民たちの嘆きの種になっていると言う話です。そのことが頼朝様の耳に入ったので、気が物欲に狂っている女だと言う事にして、一つはその横暴を止める事、一つは実際に横取りしている連中を捕まえる事を、今日近藤七國平や京都その周辺に居る御家人たちへ命令を発しました。但し、源氏の一族に悪いことをする人がいたのでは、世間から非難を受けるので、書面には物欲狂いの女と書いたけれども、裏では大事にしてやろうという心積もりがあるので、関東へ来て弁解をするようにと、内々に注意を促し伝えさせましたとさ。

元暦二年(1185)三月大四日丁亥。爲鎭畿内近國狼唳。以典膳大夫久經。近藤七國平。爲御使。被差遣已訖。而猶在洛武士現狼藉之由。依令聞及給。爲散叡疑之恐。被言上其子細云々。
 武士之上洛候事者。爲令追討朝敵候也。朝敵不候者。武士又不可令上洛。武士又不令上洛者。不可致狼藉候歟。而敵人隔海之間。于今不遂追討。經廻之武士。國々庄々。無四度計事其聞多候。仍被追討以後。可令沙汰直之由。雖存思給候。於近國者。且爲令糺定。使者二人所令上洛候也。其以前不覺者候。只守 院宣。相副御使。爲廻行許候。不可然者令進退候者。定似自由之沙汰候歟。募頼朝威武士濫妨事。令停止候之許也。子細勒状。給使者候畢。以此旨可令申沙汰給候。恐々謹言。
     三月四日                       頼朝
   謹上 藤中納言殿

読下し                     きないきんごく  ろうるい   しず    ため  てんぜんたいふひさつね こんどうしちくにひら もつ
元暦二年(1185)三月大四日丁亥。畿内近國の狼唳@を鎭めん爲、典膳大夫久經A、近藤七國平を以て、

おんつかい な    さ   つか され     すで おはんぬ しか   なおざいらく  ぶし ろうぜき あらは のよし
御使と爲し、差し遣は被んこと已に訖。而るに猶在洛の武士狼藉を現す之由、

き   およ  せし  たま   よつ    えいぎの おそ    ちら    ため   そ   しさい  ごんじょうさる    うんぬん
聞き及ば令め給ふに依て、叡疑之恐れを散さん爲
B、其の子細を言上被るCと云々。

参考@畿内近國の狼唳は、統制をとっていても、どうしても略奪などが起こるので。
参考A典膳大夫久經は、典膳大夫中原久經。元暦二年二月五日典膳大夫中原久經近藤七國平は、頼朝の命で使節として京都へきている。
参考B叡疑之恐れを散さん爲は、後白河法皇の怒りをそらすために。
参考C其の子細を言上被るは、弁解をしている。

  ぶしの じょうらく そうろうことは ちょうてき ついとうせし  ためそうろうなり ちょうてきそうあはずんば ぶしまたじょらくせし べからず
 武士之上洛候事者、朝敵を追討令めん爲候也。 朝敵不候者、 武士又上洛令む不可。

  ぶし また じょらくせし  べからずんば ろうぜきいた べからずそうろうか しか   てきじんうみ  へだ   のかん  いまについとう  とげず
 武士又上洛令め不可者、 狼藉致す不可候歟。 而るに敵人海を隔てる之間、今于追討を不遂。

  けいかいの ぶし  くにぐにしょうしょう  しどけ  な   こと そ  きこ  おお そうろう
 經廻之武士、國々庄々、四度計無き
D事其の聞へ多く候。

  よつ  ついとうされ  いご     さた  なお  せし  べ   のよし  ぞん  おぼ  たま そうろう いへど  きんごく  をい  は
 仍て追討被る以後、沙汰し直さ令む可し之由、存じ思し給ひ候と雖も、近國に於て者、

  かつう ただ  さだ  せし      ため    ししゃふたり じょうらくせし そうろうところなり
 且は糺し定め令めんが爲に、使者二人
E上洛令め候所也。

   そ   いぜん  ふかく   ものそうら     ただいんぜん まも   おんつかい あいそ   けいこう  な   ばか   そうろう
 其の以前に不覺の者候へば、只院宣を守り、御使に相副へ、廻行を爲す許りに候。

  しか  べからずんばしんたいせし そうらはば さだ   じゆう の  さた    にそうろうか
 然る不可者 進退令め候者、定めて自由之沙汰
Fに似候歟。

  よりとも   い   つの  ぶし らんぼう  こと  ちょうじせし そうろうのはか なり   しさい  じょう ろく     ししゃ  たま  そうらひをはんぬ
 頼朝が威を募る武士濫妨の事、停止令め候之許り也。子細を状に勒し、使者に給ひ候畢。

  こ   むね  もつ  もう  さた せし  たま  べ  そうろう きょうこうきんげん
 此の旨を以て申し沙汰令め給ふ可く候。恐々謹言。

           さんがつよっか                                      よりとも
     三月四日                  頼朝

    きんじょう とうのちうなごんどの
  謹上 藤中納言殿
G

参考D四度計無きは、きちんとしていないの意味で源氏物語、枕草子、うつぼ物語、大鏡、平治物語、漢文の平家物語にも使われている。
参考E使者二人は、中原久經と近藤七國平を代官として。
参考F自由之沙汰は、わがまま勝手な行動。
参考G謹上 藤中納言は、吉田經房で後白河法皇には直接手紙を出せないので、関東申し次を通している。

現代語元暦二年(1185)三月大四日丁亥。畿内近国(京都周辺)での、略奪暴行などを止めさせるために典膳大夫中原久經と近藤七國平を頼朝様の代官として、行かせる事はもうすでにやっております。それでも猶、武士達が止めない事をお聞きになられて、後白河法皇から関東がわざとしていると疑われるので、その内容を手紙で申し上げました。

 関東武士達が京都へ出陣したのは、京都朝廷の敵である平家を攻めるためです。もし、平家がいなければ、関東武士も京都へは出陣しません。関東武士達が京都へ入らなければ、彼等の略奪暴行も起こらなかったことでしょう。それなのに敵の平家は、海上へ逃げたので未だ攻め滅ぼすことが出来ません。敵を追いかけ廻っている武士達が、国々や荘園などできちんと納税規則を守っていないとの噂も少なくございません。そこで、平家を滅ぼしてから、改めてきちんと命令を出して守らせようと考えていましたが、京都近辺では、きちんと納付以下の規則を守らせるために、代官を二人派遣した処です。それ以前に滞納者が出れば、後白河法皇の院宣を守らせるように、院の使いに二人を同行させ、巡検させましょうか。そうせずにおいておけば、好き勝手なにしても良いと言ってるようなものですよ。頼朝の権力を借りて威張っている武士達の横柄な振る舞いは、止めさせるための手立てです。詳しい内容を手紙に書いて使者に与えてありますので、この内容を良く理解戴きお伝え願えるように、恐れもうしあげます。 三月四日 頼朝  謹んで中納言藤原經房殿

元暦二年(1185)三月大六日己丑。景廉所勞事。武衛御歎息殊甚。仍景廉病痾事。尤可加療養。平癒之後者早可歸參之由。可被示付之趣。被献御書於參州。亦被遣慇懃御書於景廉。被訪仰病惱事。剩被引送御馬〔御厩小鴾毛。景義進〕一疋。駕之可參云々。因幡前司奉行之。

読下し                     かげかど しょろう   こと  ぶえい ごたんそくこと はなはだ
元暦二年(1185)三月大六日己丑。景廉が所勞@の事。武衛御歎息殊に甚し。

よつ  かげかど びょうあ こと   もつと りょうよう  くは    べ     へいゆの のちは  はやばや きさん すべ  のよし  しめ  つ  らる  べ のおもむき
仍て景廉が病痾の事、尤も療養を加へる可し。平癒之後者、早〃と歸參可し之由、示し付け被る可し之趣。

おんしょを さんしゅう けん られ    また  いんぎん おんしょを かげかど つか  さる   びょうのう こと  とぶら おお  らる
御書於參州に献ぜ被る。亦、慇懃の御書於景廉に遣は被る。病惱の事を訪ひ仰せ被る。

あまつさ おんうま 〔みうまや こつきげ   かげよししん  〕 いっぴき ひ   おくられ  これ が     さん  べ   うんぬん  いなばのぜんじこれ  ぶぎょう
剩へ御馬〔御厩の小鴾毛
A。景義進ず〕一疋を引き送被、之に駕して參ず可しと云々。因幡前司之を奉行す。

参考@景廉が所勞は、加藤次景廉の病気。
参考A鴾毛は、葦毛でやや赤みをおびたもの。葦毛は、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢とともにしだいに白くなる。

現代語元暦二年(1185)三月大六日己丑。加藤次景廉の病気のことについて、頼朝様はとても心配をなさっています。そこで、加藤次景廉の病気は特に療養をしなさい。治ったら直ぐに鎌倉へ帰ってくるように、連絡をとるように命じられた内容の手紙を源參河守範頼様へお出しになられました。又、優しく丁寧な手紙を加藤次景廉にも送られました。病気見舞いのお言葉です。そればかりか、馬〔御所の厩の馬で小月毛。大庭景能の献上品〕一頭を送られて、これに乗って帰ってきなさいとなんだとさ。前因幡守大江広元が担当指揮をしました。

元暦二年(1185)三月大七日庚寅。東大寺修造事。殊可抽丹誠之由。武衛被遣御書於南都衆徒中。又被送奉加物於大勸進重源聖人訖。所謂八木一万石。沙金一千兩。上絹一千疋云々。御書云。
   東大寺事
 右當寺者。破滅平家之乱逆。遂逢回禄之厄難。佛像爲灰燼。僧徒及没亡。積悪之至比類少之者歟。殊以所歎思給也。於今者。如舊令遂修復造營。可被奉祈鎭護國家也。世縱雖及澆季。君於令施舜徳者。 王法佛法共以繁昌候歟。御沙汰之條。 法皇定思食知候歟。然而如當時者。朝敵追討之間。依無他事。若令遲々候歟。且又當寺事。可致丁寧之由。所令相存候也。仍勒状如件。
     三月七日                   前右兵衛佐源朝臣

読下し                     とうだいじしゅうぞう こと   こと  たんせい ぬき    べ   のよし
元暦二年(1185)三月大七日庚寅。東大寺修造@の事、殊に丹誠を抽んず可し之由、

ぶえいおんしょを なんと  しゅうと ちゅう つか  さる    また  ほうかぶつ を だいかんじん ちょうげんしょうにん おくられをはんぬ

武衛御書於南都の衆徒A中に遣は被る。又、奉加物B於大勸進C重源聖人Dに 送被訖。

いはゆる やぎ いちまんごく  さきんいっせんりょう  じょうけん いっせんびき  うんぬん  おんしょ い
所謂 八木E一万石、沙金一千兩F、上絹G一千疋と 云々。御書に云はく。

参考@東大寺修造は、朝廷も平家も源氏も寄附している、後白河は周防国からの徴税分を修繕費に当てている。
参考A
衆徒は、僧の下位の者で高地位の僧(学生(がくしょう)学匠、学侶)の下働きだったが、領家の年貢収奪の為、武力を持つようになって僧衆・悪僧と呼ばれ、江戸時代以後僧兵と呼ばれる。僧兵は後年の言語なので、あえて「武者僧」とした。
参考B奉加物は、寄付をする物品。
参考C大勸進は、勧進が仏教で寺の修理や創建に寄付金を集めて歩く人で、大勧進はその長官。
参考D重源聖人は、(1121-1206) 鎌倉初期の浄土宗の僧。俊乗房(しゆんじようぼう)、南無阿弥陀仏と号す。密教を学んだのち、法然から浄土教を学び諸国を遊行。三度入宋したといわれる。東大寺再建のための大勧進職に任じられ、天竺様式をとり入れた大仏殿を完成。民衆の教化、救済、また架橋、築池などの土木事業にも尽くした。
参考E八木は、八と木を足すと米。(一表は四斗で60kgなので一石は150kg。一万石は1500t。10kg4,000円として60,000,000円)
参考F
沙金一千兩は、砂金千両で77,989,000円。金一両は元来一両(大宝律令では小両、延喜式以降は10匁)の質量の砂金という意味であったが、次第に質量と額面が乖離するようになり鎌倉時代には金一両は5匁、銀は4.3匁となり、鎌倉時代後期には金一両が4.5から4.8匁へと変化している。一匁は、明治以降は3.75gで五円玉の重さであるが、近世を通じた平均値で3.736グラムであり、江戸時代終盤にやや増加して3.75グラムを超えたという。一両は金3.736g×五匁=18.68g。2011.05.26買い取り価格1g4,175円。一両は、4,175×18.68g=77,989円。
参考G上絹は、細くて上質な絹らしい。現在でも健康グッズなどでこの言葉を使っており、値段的には五割り増しになっている。対照的な存在として「あしぎぬ(上絹ではなく太絹のこと。)」ともある。絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物。一反は一尺一寸×五丈一尺。

       とうだいじ  こと
   東大寺の事

  みぎ  とうじは  へいけのらんぎゃく  はめつ   つい  かいろくのやくなん あ    ぶつぞうかいじん な   そうとぼつぼう  およ
 右の當寺者、平家之乱逆に破滅し、遂に回禄之厄難に逢うH。佛像灰燼と爲し、僧徒没亡に及ぶ。

  せきあくにいた  ひるいすく      のものか  こと  もつ  なげ  おぼ  たま  ところなり
 積悪之至り比類少なき之者歟。殊に以て歎き思し給ふ所也。

  いま  をい  は  むかし ごと  しゅうふくぞうえい と   せし    ちんごこっか  いの たてまつられ べ  なり
 今に於て者、舊の如く修復造營を遂が令め、鎭護國家を祈り奉被る可き也。

   よ たと  ぎょうき   およ   いへど   きみ  しゅん とく せせし    をい  は   おうほう  ぶっぽうとも  もつ  はんじょうそうろうか
 世縱ひ澆季Iに及ぶと雖も、君が舜J徳を施令むに於て者、王法、佛法共に以て繁昌候歟。

   ごさた  のじょう  ほうおうさだ    おぼ  め   し    そうろうか
 御沙汰之條、法皇定めし思し食し知られ候歟。

  しかれども とうじ   ごと    ば   ちょうてきついとうのかん  たごとな    よつ    も   ちち せし  そうろうか
 然而、當時の如くん者、朝敵追討之間、他事無きに依て、若し遲々令め候歟。

  かつう また  とうじ   こと  ていねい  いた  べ   のよし  あいぞん せし そうろうところなり  よつ じょう ろく      くだん ごと
 且は又、當寺の事、丁寧に致す可し之由、相存じ令め候所也。 仍て状を勒すKこと件の如し。

          やよいなぬか                                さきのうひょうのすけみなもとのあそん
     三月七日               前右兵衛佐源朝臣

参考H回禄之厄難に逢うは、回禄は忌み言葉で火災の事。治承四年(1180)十二月小廿八日重衡が南都を焼き払った。
参考I澆季は、世も末。〔「澆」は軽薄、「季」は末の意〕道義の衰え乱れた末の世。末世。季世。
参考Jは、中国の古伝説上の聖王。五帝の一人。儒教の聖人の一人。姓は虞(ぐ)、名は重華。その治世は、先帝尭(ぎよう)の世とともに天下が最もよく治まった黄金時代とされる。大舜。有虞氏。
参考K勒すは、書き記す。

現代語元暦二年(1185)三月大七日庚寅。東大寺の再建については、特に丹精を込めるように、頼朝様は奈良の武者僧達に手紙を出されました。又、寄付の品物を東大寺復興委員長の重源上人に送られました。その内容は、米を一万石、砂金千両、上絹千疋なんだとさ。お手紙に書いてあるのは、

 東大寺の事
 右に書いたお寺は、平家が反逆した時に、攻撃をされて、とうとう全焼の災難にあいました。仏像も燃えて灰とし、坊さん達を滅ぼしました。幾つもの悪いことを積み重ねた例は、比べるものがないだろうと、特別に嘆かわしいと思いました。仕方が無いので、昔のように修理復興をして、国を平和に沈めるよう祈るべきではないでしょうか。いかに世の末とは言いながら、天皇が天下を良く治めれば、社会秩序も仏法も一緒に栄えるのではないでしょうか。そうするように後白河法皇もきっとそう思っておられることでしょう。しかし、今の様子では、朝廷の敵平家を攻め滅ぼすのが忙しいので、他の事には構っていられないので、復興は遅々として進んでいないことでしょうか。そこで、この寺院の復興の事は、大事にしなければならないと考えているので、手紙を書いたのはこのとおりです。
   三月七日 
前右兵衛佐源朝臣

元暦二年(1185)三月大八日辛卯。源廷尉〔義經〕飛脚自西國參着。申云。去月十七日。僅率百五十騎。凌暴風。自渡部解纜。翌日卯尅。着于阿波國。則遂合戰。平家從兵或被誅。或逃亡。仍十九日。廷尉被向屋嶋訖。此使不待其左右馳參。而於幡磨國顧後之處。屋嶋方黒煙聳天。合戰已畢。内裏以下燒亡無其疑云々。

読下し                     げんていい  〔よしつね〕 ひきゃく  さいごくよ   さんちゃく   もう    い
元暦二年(1185)三月大八日辛卯。源廷尉〔義經〕が飛脚、西國自り參着し、申して云はく。

さんぬ つきじうしちにち わずか ひゃくごじっき ひき    ぼうふう  しの    わたなべ よ ともづな と    よくじつ  うのこく  あはのくにに つ
去る月十七日、僅に百五十騎を率ひ、暴風を凌ぎ、渡部@自り纜を解く。翌日の卯尅、阿波國于着く。

すなは かっせん と     へいけ  じゅうへいある   ちうされ  ある   とうぼう    よつ  じうくにち  ていい  やしま  むかはれをはんぬ
則ち合戰を遂ぐ。平家の從兵或ひは被誅、或ひは逃亡す。仍て十九日、廷尉屋嶋へ向被訖。

こ  つかいそ  そう   またず  は   さん    しか    はりまのくに  をい うしろ かえりみ のところ  やしま  ほう  こくえんてん  そび
此の使其の左右を不待に馳せ參ず。而して幡磨國に於て後を顧る之處、屋嶋の方に黒煙天に聳ゆ。

かっせんすで をはんぬ  だいりいげ  しょうぼう  そ  うたが な     うんぬん
合戰已に畢。 内裏以下の燒亡、其の疑ひ無しと云々。

参考@渡部は、大阪市北区中之島3丁目に渡辺橋に名が残る。

現代語元暦二年(1185)三月大八日辛卯。源廷尉〔義經〕様の伝令が、関西から(鎌倉へ)到着して、申し上げたのは、先月の十七日に、ほんの百五十騎を連れて、暴風の中を渡辺の津から乗船しました。翌日の卯刻(朝六時)には阿波の国(徳島県)へ着きました。直ぐに合戦をしました。平家の軍隊は、殺されたり、逃げてしまったりしました。そして十九日に源廷尉〔義經〕は屋島へ向かわれました。この使いは、その屋島での白黒決着を待たずに走り向かってきたのです。なんと播磨国(兵庫県)に着いて、後ろを振り返って見た所、屋島の方に黒煙が空へ上って見えたので、合戦は既に終わって、平家の陣営が燃えていることは疑いがないと確信したんだとさ。

元暦二年(1185)三月大九日壬辰。參河守自西海被献状云。就爲平家之在所近々。相搆着豊後國之處。民庶悉逃亡之間。兵粮依無其術。和田太郎兄弟。大多和二郎。工藤一臈以下侍數輩。推而欲歸參之間。抂抑留之。相伴渡海畢。猶可被加御旨歟。次熊野別當湛増依廷尉引汲。承追討使。去比渡讃岐國。今又可入九國之由有其聞。四國事者。義經奉之。九州事者。範頼奉之處。更又被抽如然之輩者。匪啻失身之面目。已似無他之勇士。人之所思。尤爲耻云々。

読下し                     みかわのかみ さいかいよ じょう けん  られ  い
元暦二年(1185)三月大九日壬辰。參河守、西海自り状を献ぜ被て云はく。

へいけのざいしょきんきん  な     つ     あいかま    ぶんごのくに  つ  のところ  みんしょことごと とうぼうのかん ひょうろうそ すべ な    よつ
平家之在所近々を爲すに就き、相搆へて豊後國に着く之處、民庶悉く逃亡之間、兵粮其の術無きに依て、

わだのたろうきょうだい   おおたわのじろう   くどうのいちろう  いげ さむらいすうやから お  て きさん      ほつ    のかん  まげ   これ  おさ   とど
和田太郎兄弟
@、大多和二郎A、工藤一臈B以下の侍數輩、 推し而歸參せんと欲する之間、抂てC之を抑へ留め、

あいともな うみ わた をはんぬ なお おんむね くは  られ  べ   か   つぎ  くまののべっとうたんぞう ていい   いんきゅう よつ   ついとうし  うけたまは
相伴ひ海を渡り畢。猶、御旨を加へ被る可き歟
D。次に熊野別當湛増、廷尉の引汲に依て、追討使を承り、

さんぬ ころ  さぬきのくに   わた    いままた きゅうこく  い  べ    のよし そ   きこ   あ
去る比、讃岐國へ渡る。今又、九國に入る可し之由其の聞へ有り。

しこく   ことは  よしつねこれ うけたまは きゅうしゅう ことは  のりよりこれ うけたまは ところ さら また   しか  ごと  のやから ぬき  ぜら  ば
四國の事者、義經之を奉り、九州の事者、範頼之を奉る處、 更に又、然る如き之輩を抽ん被れ者、

ただ  み  うしな  のめんもく あらず すで  た の ゆうし な    に       ひとのおも ところ   もつと はじ  な    うんぬん
啻に身を失う之面目に匪。已に他之勇士無きに似たり。人之思う所
E尤も耻と爲すと云々。

参考@和田太郎兄弟は、和田小太郎義盛(神奈川県三浦市初声町和田)と和田次郎義茂(鎌倉市杉本觀音裏山の杉本城)。
参考A大多和二郎は、大多和義成(三浦一族で横須賀市太田和)。桓武平氏系図参照。
参考B工藤一臈は、富士の夜襲で曾我兄弟に討たれる工藤祐經。
参考C
抂ては、強引に。
参考D御旨を加へ被る可き歟は、口ぞえをしてほしい。
参考E人之思う所は、他人にどう思われるかを考えると。

現代語元暦二年(1185)三月大九日壬辰。源參河守範頼様が、九州から手紙を献上してきました。内容は、平家軍の駐屯地が近いと思い、用心しながら豊後国(大分県)へ着いてみたら、庶民が皆逃げてしまったので、兵糧米を徴収の仕様がありませんので、和田太郎義盛兄弟や大多和三郎義久、工藤一臈祐經を始めとする侍達が、云う事を聞かないで(関東へ)帰ろうとするので、強引に押し留めて一緒に海を渡ってきました。一層の命令を出して戴いたほうが良いですよ。それと、熊野権現長官の湛増が、源廷尉〔義經〕の誘いに乗って、朝廷から追討使の任命を受け、近頃讃岐国(香川県)へ進軍して、今度は九州へもやってくると噂が入りました。四国への進駐は源廷尉〔義經〕が命じられ、九州への進駐は範頼が命じられた処ですよね。それなのに更にそのような奴を指名すれば、まるで私の面子が立たないじゃないですか。九州には勇士がいないといわんばかりですよ。人からそう思われたら大恥じゃないですかだとさ。

元暦二年(1185)三月大十一日甲午。被遣參州御返報。湛増渡海事。無其實之由被載之。又自關東所被差遣之御家人等。皆悉可被憐愍。就中千葉介常胤不顧老骨堪忍旅泊之條。殊神妙。抜傍輩可被賞翫者歟。凡於常胤大功者。生涯更不可盡報謝之由云々。又北條小四郎殿(義時)。并小山小四郎朝政。同五郎宗政。齋院次官親能。葛西三郎C重。加藤二景廉。工藤一臈祐經。宇佐美三郎祐茂。天野藤内遠景。新田四郎忠常。比企藤内朝宗。同藤四郎能員。以上十二人中被遣慇懃御書。各在西海殊抽大功之故也。令同心渡豊後國神妙趣。所在御感也。伊豆駿河等國御家人同可承存此旨之由云々。

読下し                       さんしゅう ごへんぽう  つか  さる    たんぞう  とかい  こと  そ  じつな  のよしこれ   の   らる
元暦二年(1185)三月大十一日甲午。參州に御返報を遣は被る。湛増が渡海の事、其の實無き之由之を載せ被る。

また  かんとうよ   さ   つか  さる ところのごけにんら  みなことごと れんみんされ べ
又、關東自り差し遣は被る所之御家人等、皆悉く憐愍被る可し。

なかんづく  ちばのすけつねたね ろうこつ かえりみず りょはく  たんいん  のじょう  こと  しんみょう ぼうはい ぬきん   しょうがんされ べ  ものか
就中に、千葉介常胤は老骨を不顧に旅泊に堪忍する之條、殊に神妙。傍輩に抜でて賞翫被る可き者歟。

およ  つねたね をい    たいこうは   しょうがいさら  ほうしゃ  つく  べからず のよし  うんぬん
凡そ常胤に於ての大功者、生涯更に報謝を盡す不可
@之由と云々。

また  ほうじょうのこしろう  なら    おやまのこしろうともまさ   おな   ごろうむねまさ   さいいんじかんちかよし かさいのさぶろうきよしげ かとうじかげかど
又、北條小四郎殿并びに小山小四郎朝政、同じき五郎宗政、齋院次官親能、葛西三郎C重、加藤二景廉

くどうのいちろうすけつね うさみのさぶろうすげもち あまののとうないとおかげ にたんのしろうつねただ ひきのとうないともむね  おな   とうしろうよしかず
工藤一臈祐經、宇佐美三郎祐茂、天野藤内遠景、新田四郎忠常、比企藤内朝宗、同じき藤四郎能員

いじょうじうににん   うち  いんぎん  おんしょ   つか  さる  おのおの さいかい あ     こと  たいこう  ぬき      のゆえなり
以上十二人の中へ慇懃の御書
Aを遣は被る。各、西海に在りて殊に大功を抽んずる之故也。

どうしんせし ぶんごのくに わた しんみょう おもむき ぎょかんあ ところなり
同心令め豊後國へ渡る神妙の趣、御感在る所也。

 いず   するが ら  くにごけにん   おな   こ   むね  ぞん うけたまは べ  のよし  うんぬん
伊豆、駿河等の國御家人、同じく此の旨を存じ承る可し之由と云々。

参考@生涯更に報謝を盡す不可は、生涯をかけてもなおその恩に報い尽くしきれない。
参考A慇懃の御書は、丁寧なお言葉を与えた。いわゆる感状。

現代語元暦二年(1185)三月大十一日甲午。(頼朝様は)參河守範頼に返事を出されました。そういう事実は無いよと書かれました。又、関東から行かせている御家人達に、全員を大切にすること。中でも、千葉介常胤は老骨に鞭打って、旅生活に耐えていることは、大変素晴らしいことなので、誰よりも抜きん出て大事にするようにな。今までの千葉介常胤の手柄には、生涯かけても返しつくせない程の恩があるんだとさ。又、北條小四郎義時、小山左衛門尉朝政、小山五郎宗政、齋院次官親能、葛西三郎C重、加藤二景廉、工藤一臈祐經、宇佐美三郎祐茂、天野藤内遠景、新田四郎忠常、比企藤内朝宗、比企藤四郎能員の十二人には丁寧な厚情の手紙を届けさせました。それぞれが、九州方面軍にいて、特に手柄を立てたからなのです。心を一つにして豊後国(大分県)へ進軍したことを、偉いと感じられたからです。伊豆や駿河の御家人達にも、同様の趣旨を承知するようにとのお言葉でしたとさ。

元暦二年(1185)三月大十二日乙未。爲征罸平氏。兵船三十二艘日來浮于伊豆國鯉名奥并妻郎津。被納兵粮米。仍早可解纜之由被仰下。俊兼奉行之。

読下し                      へいし   せいばつ ため   へいせんさんじうにそう   ひごろ いずのくにこいな   おきなら
元暦二年(1185)三月大十二日乙未。平氏を征罸の爲に、兵船三十二艘、日來伊豆國鯉名@の奥并びに

 めらのつ に うか    ひょうろうまい おさ  られ
妻郎津
A于浮べ、兵粮米を納め被る。

よつ はやばや ともづな と  べ   のよし  おお  くださる   としかねこれ  ぶぎょう
仍て早〃と纜を解く可し之由、仰せ下被る。俊兼之を奉行す。

参考@鯉名は、静岡県賀茂郡南伊豆町小稲。
参考A妻郎津は、静岡県賀茂郡南伊豆町妻良の妻良港。

現代語元暦二年(1185)三月大十二日乙未。平氏征伐軍への輸送船三十二艘を、この処伊豆の鯉名(小稲)湾の奥と妻良の港に用意して、軍隊の食料用の米を詰み込んでいます。だから早く出航するように命令を出されました。筑後權守俊兼が担当指揮をします。

元暦二年(1185)三月大十三日丙申。對馬守親光者。武衛御外戚也。在任之間。爲平氏被襲之由。依有其聞。可迎取之旨。今日被仰遣參河守之許。剩作過書。所被遣也。
 下 西海山陽道諸國御家人
  可令早無事煩勘過對馬前司上道事
 右。彼對馬前司自任國所被上道也。諸國路次之間。無事煩。無狼藉。可令勘過之状。所仰如件。以下。
      元暦二年三月十三日
 前右兵衛佐源朝臣

読下し                      つしまのかみちかみつ は ぶえいごがいせき なり  ざいにんのかん  へいし   ため  おそわれ  のよし
元暦二年(1185)三月大十三日丙申。對馬守親光@者、武衛御外戚A也。在任之間。平氏の爲に襲被る之由、

そ   きこ   あ     よつ    むか  と   べ   のむね  きょうみかわのかみのもと  おお  つか  さる
其の聞へ有るに依て、迎へ取る可し之旨。今日參河守之許へ仰せ遣は被る。

あまつさ かしょ   つく    つか  さる  ところなり
剩へ過書
Bを作り、遣は被る所也。

参考@對馬守親光は、宗親光。
参考A御外戚は、縁戚は分からない。
参考B過書は、通行手形。

   くだ    さいかい  さんようどうしょこく ごけにん
 下す 西海、山陽道諸國御家人へ

   はやばや  こと  わずら な   かんか せし  べ     つしまぜんじじょうどう  こと
  早〃と事の煩ひ無く勘過
C令む可し、對馬前司上道の事

  みぎ    か   つしまぜんじ   にんこくよ   じょうどう さる ところなり  しょこく   ろじのかん   こと わずらひな  ろうぜきな
 右は、彼の對馬前司、任國自り上道
D被る所也。諸國の路次之間、事の煩無く、狼藉無く、

  かんかせし  べ   のじょう  おお   ところ くだん ごと    もつ  くだ
 勘過令む可し之状、仰せる所、件の如し。以て下す。

            げんりゃくにねんさんがつじうさんにち
      元暦二年三月十三日

  さきのうひょうえのすけみなもとのあそん
 前右兵衛佐源朝臣
E

参考C勘過は、通してあげる。
参考D上道は、京都へ上る。
参考E
前右兵衛佐源朝臣は、公の命令として正式名を並べ、しかも日付より上段に書いているのは、自分より受領者を目下としている。

現代語元暦二年(1185)三月大十三日丙申。対馬守宗親光は、頼朝様の遠い親戚源氏の一族です。対馬に在任中に平家に攻められていると、耳に入ったので迎えに行くように、今日源參河守範頼に命令を届けさせました。そればかりか、命令書まで届けさせることにしました。

 命令する 九州、山陽地方の諸国の御家人達へ
 早く、対馬守の京都への旅を面倒が無いように通してあげなさい
 この命令は、前の対馬守が任務先の対馬から京都へお帰りになるので、諸国の道中が、面倒の無いよう、無事であるように、通してあげなさいとの(頼朝様の)命令が出ていることは、この書状はこの通りなので、改めて命令する。
          元暦二年三月十三日
  
前右兵衛佐源朝臣

元暦二年(1185)三月大十四日丁酉。雨。鬼窪小四郎行親爲使節下向鎭西。被遣御書於參州。是追討可廻遠慮事。賢所并寳物等無爲可奉返入事等。被載之云々。

読下し                      あめ  おにくぼこしろうゆきちか  しせつ  な   ちんぜい  げこう    おんしょをさんしゅう  つか  さる
元暦二年(1185)三月大十四日丁酉。雨。鬼窪小四郎行親@使節と爲し鎭西へ下向し、御書於參州に遣は被る。

これ  ついとう  えんりょ  めぐ    べ   こと  かしこどころ なら  ほうもつら むい   かへ  い たてまつ べ  ことら   これ  の   らる    うんぬん
是、追討に遠慮を廻らすA可き事、賢所B并びに寳物等無爲に返し入れ奉る可き事等、之を載せ被ると云々。

参考@鬼窪小四郎行親は、武蔵七党の野与党。埼玉県南埼玉郡白岡町小久喜中村933鬼窪八幡神社。
参考A遠慮を廻らすは、遠く慮る(おもんばかる)で、じっくりと考える。
参考B賢所は、三種の神器の鏡。寳物等宝物は三種の神器。は安徳天皇と建礼門院で、三種の神器をもって安徳天皇から後鳥羽天皇へ譲位をさせなければならない。

現代語元暦二年(1185)三月大十四日丁酉。鬼窪小四郎行親は、派遣員として九州へ向かい、頼朝様の命令書を源參河守範頼様に持って行かせました。その内容は、平家を追討するのに、じっくりと良く考えて、鏡を始めとする三種の神器や安徳天皇、建礼門院を無事に、京都朝廷へお返しするようにと、文章に載せられましたとさ。

元暦二年(1185)三月大十八日辛丑。於南御堂。番匠一人〔字觀能乎者〕。誤而自木屋上落地。然而其身無殊煩。諸人成奇異之思。是眞實御所願叶佛意之故。此男不及死悶。始終有恃之由。武衛御自愛再三云々。

読下し                      みなみみどう をい    ばんしょう ひとり 〔あざ  かんおうと  いへ 〕 あやま て こや   うえよ   ち   おち
元暦二年(1185)三月大十八日辛丑。南御堂に於て、番匠@一人〔字を觀能乎者り〕誤り而木屋の上自り地に落る。

しかれども そ  み こと    わずら な     しょにん きいの おも    な
然而、其の身殊なる煩ひ無し。諸人奇異之思いを成す。

これ  しんじつ  ごしょがん   ぶつい   かな  のゆえ  こ   おとこしもん  およばず  しじゅうたの  あ   のよし  ぶえい ごじあい さいさん  うんぬん
是、眞實の御所願
A、佛意に叶う之故、此の男死悶に不及。始終恃み有る之由、武衛御自愛再三と云々。

参考@番匠は、大工さん。
参考A
眞實の御所願は、寺を建てようとする意思。

現代語元暦二年(1185)三月大十八日辛丑。南御堂(勝長寿院)の工事中に、大工さんが一人(あざなを観能と云う)が、誤って屋根の上から地面に落ちました。それなのに体の何処にも傷を負わず無事でした。皆不思議に思いました。それはきっと、この寺を建てている願いが正しいので、仏様の意思に叶い、その男も死なずに済んだのであろう。最初から最後まで頼みがいのある神仏なのだと、頼朝様は一層信心を深めましたとさ。

元暦二年(1185)三月大廿一日甲辰。甚雨。廷尉爲攻平氏。欲發向壇浦之處。依雨延引。爰周防國在廳船所五郎正利。依爲當國舟船奉行。献數十艘之間。義經朝臣与書於正利。可爲鎌倉殿御家人之由云々。

読下し                      はなは あめ  ていい  へいし  せ    ため  だんのうら はっこう      ほつ    のところ
元暦二年(1185)三月大廿一日甲辰。甚だ雨。廷尉平氏を攻めん爲、壇浦へ發向せんと欲する之處、

あめ  よつ  えんいん    ここ  すおうにくにざいちょう ふなどころごろうまさとし  とうごくふなぶぎょう たる  よつ    すうじっそう  けん     のかん
雨に依て延引す@。爰に周防國在廳A船所五郎正利B、 當國舟船奉行C爲に依て、數十艘を献ずる之間、

よしつねあそんしょを まさとし  あた     かまくらどのごけにんたる べ   のよし  うんぬん
義經朝臣書於正利に与へ
D、鎌倉殿御家人爲可し之由と云々。

参考@雨に依て延引すは、船に屋根が無いので雨水が溜まり沈んでしまうから。
参考A在廳は、在庁官人と言って、国衙の役人。
参考B船所五郎正利は、國衙の船所の長官を代々やっているので名字になってきている。
参考C舟船奉行は、船所の長官なので、船の扱いも自由になっており私物化している。
参考D義經朝臣書於正利に与へは、東国武士は頼朝に直接名簿奉呈(みょうぶほうてい)して安堵状を貰うが、関西の武士には、範頼、義経、土肥實平、梶原景時等が代官として仲立ちをした。後に現地の家人は義経を主だと勘違いする。

現代語元暦二年(1185)三月大廿一日甲辰。大雨です。源廷尉義經は平氏を攻めるため、壇ノ浦を目指して出発しようと用意していましたが、雨のために延期です。そこへ周防国(山口県東部)の国衙の船所五郎正利は、この国の船奉行をしているので、数十艘を使ってくれと差し出したので、源九郎義經は安堵状を与え、鎌倉殿の御家人に列すると命じましたとさ。

元暦二年(1185)三月大廿二日乙巳。廷尉促數十艘兵船。差壇浦解纜云々。自昨日聚乘船廻計云々。三浦介義澄聞此事。參會于當國大嶋津。廷尉曰。汝已見門司關者也。今可謂案内者。然者可先登者。義澄受命。進到于壇浦奥津邊〔去平家陣卅余町也〕。于時平家聞之。棹船出彦嶋。過赤間關在田之浦云々。

読下し                      ていい  すうじっそう へいせん うなが  だんのうら  さ ともづな と     うんぬん
元暦二年(1185)三月大廿二日乙巳。廷尉數十艘の兵船を促し、壇浦を差し纜を解くと云々。

さくじつよ   じょうせん あつ  はか  めぐ    うんぬん  みうらのすけよしずみこ こと  き     とうごくおおしまのつにさんかい
昨日自り乘船を聚め計り廻らすと云々。三浦介義澄此の事を聞き、當國大嶋津于參會す。

ていい   い    なんじすで  もじぜき   み   ものなり  いま  あないじゃ  いひ  べ    しからば せんとすべ  てへ
廷尉曰はく。汝已に門司關を見る者也。今に案内者と謂つ可し。然者、先登可し者り。

よしずみめい  う     だんのうらおきつへん  〔へいけ じん  さ    さんじうよちょうなり〕 に  すす  いた
義澄命を受け、壇浦奥津邊
@〔平家の陣を去ること卅余町也〕于進み到る。

ときに へいけこれ  き    ふね  さお    ひこじま  い    あかまがせき  す   たのうら   あ     うんぬん
時于平家之を聞き、船に棹さし彦嶋を出で、赤間關Aを過ぎ田之浦Bに在りと云々。

参考@壇浦奥津邊は、山口県下関市豊浦村の干珠、満珠の島のあたり。
参考A赤間關は、山口県下関市阿弥陀町赤間神宮前あたりと思われる。
参考B田之浦は、福岡県北九州市門司区大久保に田野浦埠頭に田ノ浦受電所あり。

現代語元暦二年(1185)三月大廿二日乙巳。源廷尉義經は、数十艘の軍船に命じて、壇ノ浦を目指して出航しましたとさ。昨日から船の数を確かめ乗船の分配を算段しましたとさ。三浦介義澄はこの話を聞きつけ、この国に駐屯していた大島の津から合流してきました。源廷尉〔義經〕が云うには、あんたは門司の海を見た経験者なので、先導者と云える。そこで先頭を受け持ってください。三浦介義澄はその命令を受けて、壇ノ浦の奥津(干珠、満珠の島のあたり)〔平家の陣営から三十余町(3km以上)離れている〕へ進出しました。その時、平家はこの様子を知り、船を出航させて彦島から、赤間関を通り過ぎ、田ノ浦に陣取ったんだとさ。

元暦二年(1185)三月大廿四日丁未。於長門國赤間關壇浦海上。源平相逢。各隔三町。艚向舟船。平家五百余艘分三手。以山峨兵藤次秀遠并松浦黨等爲大將軍。挑戰于源氏之將師。及午剋。平氏終敗傾。二品禪尼持寳釼。按察局奉抱先帝。〔春秋八歳〕共以没海底。建礼門院〔藤重御衣〕入水御之處。渡部黨源五馬允以熊手奉取之。按察局同存命。但先帝終不令浮御。若宮〔今上兄〕者御存命云々。前中納言〔教盛。号門脇〕入水。前參議〔經盛〕出戰塲。至陸地出家。立還又沈波底。新三位中將。〔資盛〕前少將有盛朝臣等。同没水。前内府〔宗盛〕右衛門督〔C宗〕等者。爲伊勢三郎能盛被生虜。其後軍士等乱入御船。或者欲奉開賢所。于時兩眼忽暗而神心惘然。平大納言〔時忠〕加制止之間。彼等退去訖。是尊神別躰。朝家惣持也。 神武天皇第十代 崇神天皇御宇。恐神威同殿。被奉鑄改云々。後朱雀院御宇長暦年中。内裏燒亡之時。圓規已雖虧。平治逆乱之時者。令移師仲卿之袖給。〔其後奉入新造櫃。民部卿資長爲藏人頭沙汰之〕澆季之今。猶顯神變。可仰可恃焉。

読下し                       ながとのくにあかまぜきだんのうらかいじょう をい   げんぺいあいあ おのおの さんちょう へだ  しゅうせん ご  むか
元暦二年(1185)三月大廿四日丁未。長門國 赤間關 壇浦 海上に於て、源平相逢い、各、三町を隔て@舟船を艚ぎ向う。

へいけごひゃくよそう   さんて   わ    やまがのひょうどうじひでとお なら   まつらとう ら   もつ  だいしょうぐん な    げんじのしょうし に ちょうせん
平家五百余艘を三手に分け
A、山峨兵藤次秀遠B并びに松浦黨C等を以て大將軍と爲し、源氏之將師于挑戰す。

参考@各、三町を隔ては、約300mだが、壇ノ浦の一番狭いところで約600m。干珠満珠(東北)と田野浦(西南)の間が約13kmなので双方から近づいてきていることが想像出来る。
参考A平家五百余艘を三手に分けは、四月十一日条に源氏八百四十余艘、平家五百余艘と書かれている。平家物語では千余艘と三千余艘になっているが、いずれにせよ、平家の船数より源氏の船数の方が多いのは明らか。
参考B山峨兵藤次秀遠は、山鹿で福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿に山鹿小学校あり。
参考C松浦黨(党)は、松浦水軍で長崎県松浦市

うまのこく  およ   へいしつい  やぶ かたぶ   にほんぜんに ほうけん  も    あぜのつぼね さきてい〔しゅんじゅうはっさい〕 いだ たてまつ とも  もつ  かいてい  ぼっ
午剋に及び、平氏終に敗れ傾く
D。二品禪尼E寳釼を持ち、按察局 先帝〔春秋八歳〕を 抱き奉り共に以て海底へ没す。

けんれいもんいん 〔ふじがさ   おんぞ〕  じゅすい たま  のところ  わたなべとう げんごうまのじょう くまで  もつ  これ   と  たてまつ  あぜのつぼねおな ぞんめい
建礼門院
F〔藤重ねの御衣〕入水し御う之處。渡部黨の源五馬允、熊手Gを以て之を取り奉る。按察局同じく存命す。

ただ  さきてい  つい  うか  せし  たまはず  わかみや〔きんじょう あに〕は ごぞんめい  うんぬん
但し先帝は終に浮ば令め御不。若宮〔今上が兄
H者御存命と云々。

さきのちうなごん〔のりもり  かどわき  ごう   〕   じゅすい  さきのさんぎ〔つねもり〕 せんじょう い    くがち  いた  しゅっけ    た   かえ またなみぞこ  しず
前中納言〔教盛。門脇と号す
Iは入水。前參議〔經盛〕戰塲を出で、陸地に至り出家し、立ち還り又波底に沈む。

しんざんみちうじょう〔すけもり〕   さきのしょうしょうありもりあそんら  おな   みず  ぼつ
新三位中將〔資盛
J、前少將有盛朝臣等、同じく水に没す。

さきのないふ〔むねもり〕   うえもんのかみ〔きよむね〕 ら は   いせのさぶろうよしもり   ためいけどられ
前内府〔宗盛〕、右衛門督〔C宗〕等者、伊勢三郎能盛の爲生虜被る。

参考D午剋に及び、平氏終に敗れ傾くは、昼頃には勝敗が決したようなので、黒板氏の潮流変化説は根拠が無くなる。
参考E二品禪尼は、平C盛の妻時子。
参考F
建礼門院は、平C盛の娘徳子で、高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生み国母となる。
参考G熊手は、徒歩武者の武器で馬上の武士を鎧紐に引っ掛けて落とす道具。
参考H若宮〔今上が兄〕は、今上後鳥羽天皇の兄で守貞親王。後に息子が後堀川天皇となり自分は天皇経験無しで後高倉院となる。
参考I教盛。門脇と号すは、平C盛の弟でC盛の屋敷の門の脇に屋敷を貰ったので門脇中納言と云う。
参考J新三位中將資盛は、本三位中將重衡と二人中将なので本と新に分けて呼ばれている。重盛の次男で、ご落胤を紀州熊の神社に預けてあるので会いに行ってから入水したと平家物語にある。そのご落胤を北條四郎時政が鎌倉へ連れて行き、北条氏に仕えるようになり、その孫が平頼綱でその子孫が長崎円喜である。

そ   ご   ぐんしら  ごふね  らんにゅう  ある  はかしこどころ ひら たてまつ    ほつ   ときにりょうまなこたちま くら     て しんしんぼうぜん
其の後、軍士等御船に乱入し、或ひ者賢所
Kを開き奉らんと欲す。時于兩眼 忽ち暗くなり而神心惘然とす。

へいだいなごん 〔ときただ〕 せいし  くは    のかん  かれらたいきょ をはんぬ
平大納言〔時忠〕制止を加へる之間、彼等退去し訖。

これ そんしん  べったい  ちょうけ  そうじなり   じんむてんのうだいじうだい すいじんてんのう おんう  しんい  どうでん  おそ     いあらた たてまるられ うんぬん
是、尊神の別躰、朝家の惣持也。神武天皇第十代、崇神天皇の御宇、神威の同殿を恐れ
L、鑄改め奉被ると云々。

ごすざくいん   おんうちょうりゃくねんちう   だいりしょうぼうのとき   えんぎすで  かく  いへど   へいじぎゃくらんのときは  もろなかきょう のそで うつ  せし  たま
後朱雀院の御宇長暦年中に、内裏燒亡之時、圓規
M已に虧と雖も、平治逆乱之時者、師仲卿N之袖に移ら令め給ふ。

 〔そ    ご しんぞう  ひつ  い たてまつ  みんぶのきょうすけながくろうどのとう な これ  さた    〕 ぎょうきのいま   なおしんぺん あらは  あお べしたの べし
〔其の後新造の櫃に入れ奉る。民部卿資長藏人頭と爲し之を沙汰す〕澆季之今、猶神變を顯す。仰ぐ可恃む可焉。

参考K賢所は、三種の神器のうちの鏡。
参考L神威の同殿を恐れは、崇神天皇(伝紀元前148年-紀元前30年)の時代に皇女豊鋤入姫命により天叢雲剣とともに皇居の外に祀るようになった。
参考M圓規は、コンパス。自由な角度に開閉できる二本の脚から成る。円を描いたり、線分の長さを移すのに用いる。ぶんまわし。円規。両脚器。羅針盤。方位磁針(ほういじしん)は、磁石の作用を用いて方位を知るための道具である。この場合は、単なる丸い箱のことらしい。
参考N師仲卿は、源師仲で平治の乱の首謀者の一人だが、敗色濃くなると三種の神器を持って投降したが、許されず下野国へ配流になった。

現代語元暦二年(1185)三月大廿四日丁未。長門国(山口県)赤間関壇ノ浦の海上で、源氏と平家の軍船が出合って、お互いに三町(約300m)離れて、船を漕いで向かい合っています。平家は五百以上の船を三つに分けて、山峨兵藤次秀遠と松浦黨等を戦闘指揮官に任命して、源氏軍と戦いました。昼頃になって平家軍は負けたので、二品禪尼(平C盛の妻時子)は、三種の神器の「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」(草薙剣)を持って、按察局は先帝(安徳天皇)〔数えて八歳〕を抱きかかえて、一所に海へ飛び込みました。建礼門院(平C盛の娘徳子)藤模様の着物〕は、海へ飛び込みましたが、渡辺党の源五馬允が熊手に引っ掛けて、掬い取りました。(安徳天皇を抱いて飛び込んだ)按察局は同様に助かりました。但し、先帝(安徳天皇)はとうとう浮かんできませんでした。若宮〔今上(土御門天皇)の兄〕は、生き残ってたとさ。前中納言〔教盛。門脇と云う〕は入水しました。前參議〔經盛〕は戦場から逃げて、(西方浄土へいけるように)一旦陸地の上で出家をして、又、船へ戻ってから海へ飛び込みました。新三位中將〔資盛〕や前少將有盛さん等も、同様に海へ沈みました。前内府〔宗盛〕と(その子)右衛門督〔C宗〕は、伊勢三郎能盛に捕虜にされました。その後、兵隊たちが天皇の船へ乱入して、三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)を開いて見ようとしたら、突然目がくらんで意識がおかしくなりました。平大納言〔時忠〕が(恐れ多いことだと)止めましたので、兵達は引き上げました。これは、天皇家の神様が仮に現した姿で、天皇家が代々持つものです。神武天皇から十代目の崇神天皇の御世に、神様の代理と一所にいるのは恐れ多いことなので、鋳直して祀ったんだとさ。後朱雀院の御世の長暦年中に内裏が火事で燃えてしまった時に、丸い箱はなくしてしまったけれど、平治の乱のときは、源師仲卿の袖に入れられた。〔その後、新しく櫃(箱)に入れました。民部卿資長が藏人所の頭としてこれを指揮しました〕動議の衰えた末世の今こそ、神鏡の持つ霊力が現れました。拝んだり願ったりするときです。

元暦二年(1185)三月大廿七日庚戌。土左國介良庄住侶琳猷上人。參上于關東。是有功于源家者也。去壽永元年武衛舎弟土佐冠者希義於彼國爲蓮池權守家綱被討取之時。欲曝死骸於遐邇。爰土人之中。自雖有存忠之輩。怖平家後聞。不及葬礼沙汰。而此上人以往日師檀。塡(塩)田郷内點墓所。訪没後未怠。又取幽靈鬢髪。今度則懸頚所參向也。属于走湯山住僧良覺。申子細之間。武衛有御對面。以上人之光臨。用亡魂再來之由。被盡芳讃云々。

読下し                      とさのくにけらのしょうじゅうりょりんゆうしょうにん かんとうにさんじょう   これ  げんけに こうあ   ものなり
元暦二年(1185)三月大廿七日庚戌。土左國介良庄住侶琳猷上人、關東于參上す。是、源家于功有る者也。

さんぬ じゅえいがんねん ぶえい しゃてい  とさのかじゃまれよし  か  くに  をい  はすいけごんかみいえつな ため う    とられ  のとき
去る壽永元年、武衛が舎弟の土佐冠者希義@彼の國に於て 蓮池權守家綱の 爲に討ち取被る之時、

しがいを   かじ    さら       ほつ
死骸於遐邇Aに曝さんと欲す。

ここ  どにんのなか  みづか ちう  ぞん   のやからあ    いへど   へいけ  こうぶん  おそ    さいれい   さた   およばず
爰に土人之中、自ら忠を存ずる之輩有ると雖も、平家の後聞を怖れ、葬礼の沙汰に不及。

しか    こ   しょうにんおうじつ しだん  もつ    しおだごうない  ぼしょ  てん    ぼつご  とぶら いま  おこた
而るに此の上人往日の師檀を以て、塩田郷B内に墓所を點じ、没後の訪ひ未だ怠らず。

また  ゆうれい びんぱつ  と    このたび すなは くび  か  さんこう   ところなり
又、幽靈の鬢髪を取り、今度、則ち頚に懸け參向する所也。

そうとうさんじゅうそうりょうがにぞく       しさい  もう  のかん  ぶえいごたいめんあ
走湯山住僧良覺于属して、子細を申す之間、武衛御對面有り。

しょうにんのこうりん  もつ    もうこん  さいらい  もち    のよし  ほうさん  つくさる   うんぬん
上人之光臨Cを以て、亡魂の再來に用いるD之由、芳讃を盡被るEと云々。

参考@土佐冠者希義は、頼朝の同母弟。その墓所は、高知市介良乙に源希義神社とその近くに西養寺跡(廃寺)がある。なお、同地点を記憶して、グーの地図の検索で1km以下の地図だと神社名が出ている。http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/bijutu/bi30.html
参考A遐邇は、近い所と遠い所で、あっちこっち、その辺り。
参考B塡田(塩田)郷は、高知市介良乙に現在墓所とされる所があり、介良庄は塩田郷とも呼ばれていたとあるので、塩田の写し違いの誤字かもしれない。新人物往来社の「吾妻鏡」で喜志先生は「埴田」と書かれているので「うえだ」と呼んで「植田」で高知県を探すと介良から東北へ6kmくらいの場所に南国市植田があるが、良く分からない。壽永元年(1182)九月小廿五日の記事で殺されたとされる「野々宮」とを比較すると「植田」を頂点に「介良」が左点で「野々宮」が右点のほぼ正三角形ができる。
参考C上人之光臨を以ては、和尚が来てくれたので。
参考D
亡魂の再來に用いるは、死んだ弟に会えたようだ。
参考E芳讃を盡被るは、喜びの言葉を懸命に伝えた。

現代語元暦二年(1185)三月大廿七日庚戌。土佐国介良庄(高知市介良)に住む僧侶の琳猷上人が、関東へ参りました。この人は源氏の家にとって手柄のある人です。以前の寿永元年に、頼朝様の弟の土佐冠者希義が土佐の国で、蓮池權守家綱に滅ぼされたとき、死骸が道端に放り出されたままでした。そこで、住民の中に源氏への忠義を感じる者はいても、平家の仕返しを恐れて、葬式も埋葬もしませんでした。それなのにこの上人は、日頃からの師弟関係の縁を大事にして、植田郷内に葬って、今まで供養を続けていました。又、使者の遺髪を頭陀袋に入れ、敬った首にかけて持ってきました。伊豆山の走湯權現の僧侶の良学を通して、事情を言ってきたので、頼朝様はお会いになられました。琳猷上人の訪問を受けて、死んだ弟とも会えたように思えたので、感謝のお礼を丁寧に尽くしましたとさ。

元暦二年(1185)三月大廿九日壬子。平氏追討事。武衛依被申。爲令勵軍旅之功。被下廳御下文於豊後國住人等之中。是雖爲先日事。彼案文。今日所到來關東也。
 院廳下  豊後國住人〔某〕等
  可弥專征伐遂勳功期勸賞事
 右平家謀叛黨類。往反四國邊嶋。蔑爾朝憲之間。鎭西邊民多入烏合之群。令致狼唳之企。而當國軍兵等。堅守王法不与兇醜。遂艤數船迎取官軍。可令服從九國輩之由有其聞。殊以叡感。弥増鋭兵。可令討滅彼凶徒也。各随其勳功。依請可有賞賜也。當國大名等。宜承知勿令違越者。所仰如件。故下。
        元暦二年二月二日

読下し                       へいしついとう   こと   ぶえいもうされ    よつ    ぐんりょのこう   はげ  せし   ため
元暦二年(1185)三月大廿九日壬子。平氏追討の事@、武衛申被るに依て、軍旅之功を勵ま令めん爲、

ちょう おんくだしぶみを ぶんごのくにじゅうにんらのうち  くださる    これ  せんじつ ことたり  いへど   か  あんぶん  きょう かんとう  とうらい   ところなり
廳の御下文於、豊後國住人等之中へ
A下被る。是、先日の事爲と雖も、彼の案文、今日關東へ到來する所也。

参考@平氏追討の事は、未だ平家が滅びたことを知らない。
参考A
豊後國住人等之中へは、豊前豊後には平家方の武士が多いから。

  いん ちょうくだ      ぶんごのくにじゅうにん〔ぼう〕 ら
 院の廳下すB  豊後國住人〔某〕

  いよいよ せいばつ もつぱ     くんこう   と   けんじょう ご   べ   こと
  弥、征伐を專らにし勳功を遂げ勸賞を期す可き事

  みぎ  へいけむほん  とうるい  しこくへん   しま  おうはん   ちょうけん べつじ     のかん  ちんぜいへん  たみおお  うごうのむれ  い
 右、平家謀叛の黨類、四國邊の嶋を往反し、朝憲を蔑爾する之間、鎭西邊の民多く烏合之群Cに入り、

  ろうるいのくはだて いた せし
 狼唳之企を致さ令む。

  しか    とうごくぐんぴょうら  かた おうほう  まも  きょうしゅう よせず   つい すうせん ふなよそおい かんぐん むか  と
 而るに當國軍兵等、堅く王法を守り兇醜に不与、遂に數船を 艤して官軍を迎へ取り、

  きゅうごく やから ふくじゅうせし べ   のよし  そ  きこ   あ    こと  えいかん  もつ  いよいよ えいへい  ま     か  きょうと  とうめつせし  べ   なり
 九國の輩を服從令め可し之由、其の聞へ有り。殊に叡感を以て、弥、鋭兵を増し、彼の凶徒を討滅令む可き也。

  おのおの そ くんこう したがい  こい  よつ  しょうしあ  べ  なり   とうごく  だいみょう ら   よろ   しょうち  いえつせし      なか  てへ
 各、其の勳功に随て、請に依て賞賜有る可き也。當國の大名D等、宜しく承知し違越令むこと勿れ者れば、

  おお   ところくだん ごと    ゆえ くだ
 仰せの所件の如し。故に下す。

             げんりゃくにねんにがつふつか
      元暦二年二月二日

参考B廳の御下すは、後白河法皇の院の庁からの命令書。
参考C
烏合之群とは、烏合の衆と平家方を馬鹿にしている。
参考D大名は、自分達で開発したり、買い求めたりして自分のものにした田を自分の名で呼ぶので、名田(みょうでん)と云い、所有者を名主(みょうしゅ)と呼ぶ。その範囲が小さいのを小名(しょうみょう)、大きいのを大名と云う。

現代語元暦二年(1185)三月大廿九日壬子。平氏を追討する事について、頼朝様が申し出になられたので、進軍中の旅にある軍隊を元気付けるために、後白河院法王の院の庁の命令書を豊後国(大分県)の豪族達にお出しになられました。それは先日の事ですが、今日やっと、その案文が鎌倉へ到着したところです。

 院の庁から発出する 豊後国の豪族〔某〕殿
 今一層に平家追討の手柄をたてて、褒美を貰うように頑張ること
 この内容は、反逆者の平家の連中が、四国のあたりを行ったり来たりして、朝廷の威光を馬鹿にしているので、九州の武士達の多くが平家の烏合の衆になって、無法な行動をしている。そこで、豊後国の軍人兵員たちは、しっかりと正しい道を守って、醜い犯罪者達に味方したりせずに、数艘の船を用意して、征伐軍を海を渡して迎え、九州の連中を従わせたと、お耳に達している。特に後白河院のご威光をもって、ますます精鋭の兵員達を集めて増やし、逆賊である平家を打ち滅ぼすように。それぞれの手柄に従って、望みどおりに賞を与えるであろう。豊後国の大名主達よ、良く内容を理解し、間違えてたり勝手なことをしないようにと、おっしゃられている事はこの通りである。それで命令する。 元暦二年二月二日

四月へ

吾妻鏡入門第四巻

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