吾妻鏡入門

文治元年(1185)九月小

文治元年(1185)九月小一日辛巳。廷尉公朝爲 勅使參營中。二品對面給。被勸盃酒。縡不及再三兮退出。于時賜砂金十兩。馬〔置鞍〕一疋。又以藤判官代邦通爲御使。被送長絹二十疋。紺絹三十端於彼宿所〔比企四郎東御門宅云々〕。

読下し                     ていい きんともちょくし  な   えいちゅう  さん    にほん たいめん  たま    はいしゅ  すす  らる
文治元年(1185)九月小一日辛巳。廷尉@公朝勅使と爲し營中に參ず。二品A對面し給ひ、盃酒を勸め被る。

ことさいさん  およばず   て たいしゅつ  ときに さきん じうりょう  うま 〔くらおき〕 いっぴき  たま
縡再三に及不Bし兮退出す。時于砂金十兩、馬〔置鞍〕一疋を賜ふ。

また  とうのほうがんだいくにみち もつ おんし  な     ちょうけん にじっぴき  こんけんさんじったんを か  しゅくしょ  おくらる      〔ひきのしろう   ひがしみかど  たく  うんぬん〕
又、藤判官代邦通を以て御使と爲し、長絹C二十疋、紺絹三十端於彼の宿所に送被る。〔比企四郎が東御門の宅Dと云々〕

参考@廷尉は、檢非違使の唐名。検非違使大江公朝は後白河法皇の命令で左典厩義朝の首を持ってきた。
参考A二品は、二位でこの場合頼朝。
参考B
再三に及不は、対面式の儀式だけで宴会にはならなかった。
参考C長絹は、糊(のり)で張った仕上げの絹布。絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物。
参考D
宿所〔比企四郎が東御門の宅は、石井進氏の説く御家人の屋敷地三点セット『@は幕府へ出仕する際に正装するための「着替用上屋敷」(鎌倉中心部)。A鎌倉での寝泊りや普段の暮らしの為の「生活用中屋敷」(鎌倉内周辺部)と思われる。Bは鎌倉での生活のための食糧生産の「供給用外屋敷」(鎌倉郊外)。但し名称は塾長命名』のうち@の「着替用上屋敷」と思われる。

現代語文治元年(1185)九月小一日辛巳。検非違使大江公朝が、朝廷の使者として御所へ入りました。頼朝様は対面なされ、酒をお勧めになりました。ほんの形だけの対面式の酒で終えて、大江公朝は引き下がりました。なんと砂金十両、馬〔鞍を載せてあります〕一頭を戴きました。又、頼朝様は大和判官代邦道を挨拶返しの使いとして、長絹二十匹、紺色の絹三十反を大江公朝の宿舎へ送られました。〔宿は比企四郎能員の東御門の家です〕

文治元年(1185)九月小二日壬午。梶原源太左衛門尉景季。義勝房成尋等。爲使節上洛也。南御堂供養導師御布施并堂莊嚴具〔大略已調置京都〕爲奉行也。亦平家縁座之輩未赴配所事。若乍居蒙 勅免者不及子細。遂又可被下遣者。早可有御沙汰歟之由被申之。次稱御使。行向伊与守義經之亭。尋窺備前々司行家之在所。可誅戮其身之由相觸。而可見彼形勢之旨。被仰含景季云々。去五月廿日。前大納言時忠卿以下被下配流官苻畢。而于今在京之間。二品欝憤給之處。豫州爲件亞相聟。依思其好抑留之。加之引級備前々司行家。擬背關東之由。風聞之間如斯云々。

読下し                    かじわらのげんたさえもんのじょうかげすえ  ぎしょうぼうじょうじんら  しせつ  な   じょうらくなり
文治元年(1185)九月小二日壬午。梶原源太左衛門尉景季、 義勝房成尋等、使節と爲し上洛也。

みなみみどう  くよう  どうし   おんふせ なら    どう  しょうごんぐ 〔たいりゃくすで きょうと  ととの お    〕   ぶぎょう  ためなり
南御堂@供養の導師が御布施并びに堂の莊嚴具〔大略已に京都に調へ置くAの奉行の爲也。

また  へいけ  えんざのやからいま   はいしょ  おもむ     こと  も   いながら  ちょくめん こうむ ば   しさい  およばず
亦、平家が縁座之輩未だに配所へ赴かざる事、若し居乍に勅免を蒙ら者、子細に不及。

つい  また  くだ  つかはされるべ  ば   はや  おんさた  あ  べ   か  のよし   これ  もうさる
遂に又、下し遣被可くん者、早く御沙汰有る可き歟B之由、之を申被る。

つぎ  おんし   しょう    いよかみよしつねのてい    ゆ   むか    びぜんぜんじゆきいえのざいしょ  たず  うかが   そ   み  ちうりくすべ  のよし あいふ
次に御使と稱し、伊与守義經之亭Cへ行き向ひ、備前々司行家之在所を尋ね窺ひ、其の身を誅戮可し之由相觸れD

しか    か   けいせい  み    べ    のむね  かげすえ おお  ふく  らる    うんぬん
而して彼の形勢を見るE可し之旨、景季に仰せ含め被ると云々。

さぬ  ごがつはつか  さきのだいなごんときただきょういげ  はいるかんぷ   くだされをはんぬ
去る五月廿日、前大納言時忠卿以下の配流官苻Fを下被畢。

しか    いまに ざいきょう   のかん  にほんうっぷん  たま  のところ  よしゅうくだん あしょう  むこ  な     そ   よしみ おも    よつ  これ  おさ  とど
而るに今于在京する之間、二品欝憤し給ふ之處、豫州件の亞相Gの聟と爲しH、其の好を思うに依て之を抑へ留む。

これ  くは  びぜんぜんじゆきいえ  いんきゅう   かんとう  そむ      なぞら   のよし  ふうぶんのかん そ  ごと    うんぬん
之に加へ備前々司行家を引級し、關東に背かんと擬える之由、風聞之間斯の如くと云々。

参考@南御堂は、勝長寿院。
参考A調へ置くは、買い揃える。
参考B
早く御沙汰有る可き歟は、早く実行をしなさい。
参考C伊与守義經之亭は、六条堀川亭。
参考D
相觸れは、表向きには行家を討てと云った。
参考E彼の形勢を見るは、義經が行家と手を組んでいるかどうかの様子を見る。
参考F官苻は、太政官符。
参考G亞相は、亞は〔次の〕とか〔違う〕の意味で、相は〔大臣〕なので〔大臣に告ぐ〕となり〔大納言〕を指す。
参考H豫州件の亞相の聟と爲しは、義經は平時忠の末娘を妾に貰ったので、京都守護でありながら時忠の流罪を実行していない。

現代語文治元年(1185)九月小二日壬午。梶原源太左衛門尉景季と義勝房成尋が、派遣員として京都へ上ります。南御堂の仏式完成祝賀会の指導僧へのお布施や、お堂の飾り金具等〔殆ど京都で買い集めております〕を調達するためです。又、平家の共犯者の連中が、流罪を宣告されながら、配流先へ行かずに、京都にいるうちに恩赦でも出されたら仕方が無いけれど、そうではなく、ただ行かせていないだけならば、早く実施するべきだと、伝えるように申されました。それと、頼朝様の使いとして伊予守義経の屋敷へ行って、前備前守行家の居場所を探し見つけて殺してしまうように言いつけて、源九郎義経の挙動を伺うように、梶原左衛門尉景季に云って聞かせましたとさ。前の五月二十日に前大納言平時忠を初めとした平家関係者に流罪の太政官布告を出されました。それなのに未だに京都に住んでいるので、頼朝様は怒っていますが、源九郎義経は時忠の娘を妾に貰い、娘婿になっているので、その人情から京都に引き止めております。そればかりか、行家を味方に引き込んで、関東に対して反逆をしようとたくらんでいるとの噂があるので、そのようにしなさいと云う訳です。

文治元年(1185)九月小三日癸未。子尅。故左典厩御遺骨〔副正C首〕奉葬南御堂之地。路次被用御輿。惠眼房。專光房等令沙汰此事也。武藏守義信。陸奥冠者頼隆。御輿。二品〔着御素服給〕參給。御家人等多雖供奉。皆被止郭外。只所被召具者。義信。頼隆。惟義等也。武州者平治逆乱之時爲先考御共。〔于時号平賀冠者〕頼隆者亦其父毛利冠者義隆相替亡者之御身被討取訖。彼此依思食舊好跡被召抜之云々。

読下し                     ねのこく   こさてんきゅう  ごゆいこつ 〔まさきよ  くび  そ  〕  みなみみどうのち ほうむ たてまつ
文治元年(1185)九月小三日癸未。子尅@。故左典厩の御遺骨〔正Cの首を副へ〕南御堂之地に葬り奉る。

 ろじ   おんこし  もち  らる     えがんぼう  せんこうぼうら こ  こと   さた せし  なり
路次は御輿を用い被る。惠眼房、專光房等此の事を沙汰令む也。

むさしのかみよしのぶ  むつのかじゃよりたか  おんこし  にほん 〔ごそふく   ちゃく  たま 〕  さん  たま
 武藏守義信、 陸奥冠者頼隆、御輿、二品〔御素服を着し給ふ〕參じ給ふ。

 ごけにんら おお   ぐぶ    いへど  みなかくがい  と  らる    ただ  めしぐ さる  ところは  よしのぶ  よりたか  これよしら なり
御家人等多く供奉すと雖も、皆郭外に止め被る。只に召具被る所者、義信、頼隆、惟義等也。

ぶしゅうは へいじぎゃくらんのとき せんこう  おんとも  な   〔ときにひらがのかじゃ   ごう    〕
武州者平治逆乱之時、先考の御共と爲す〔時于平賀冠者と号す〕

よりたかはまた  そ   ちち もりのかじゃよしたか もうじゃのおんみに  あいかは う   とられをはんぬ
頼隆者亦、其の父毛利冠者義隆、亡者之御身に相替り討ち取被訖A

かれこれきゅうこう あと おぼ め        よつ  これ  め   ぬ   らる    うんぬん
彼此舊好の跡を思し食さるに依て之を召し抜か被ると云々。

参考@子尅は、真夜中だが、夜の闇が穢れを隠すとされる。
参考A亡者之御身に相替り討ち取被訖は、平治の乱で敗戦した左典厩義朝が都落ちに比叡山の竜華越えで横川の大衆の落ち武者狩りに遭遇し、毛利義隆は首に矢を受けて身代わりになった。

現代語文治元年(1185)九月小三日癸未。真夜中の子の刻に左典厩義朝の遺骨〔鎌田正Cの首も一緒に〕を南御堂勝長寿院に葬りました。途中は輿に乗せましたが、恵眼坊と專光坊良暹が担当指揮をしました。大内武蔵守義信、陸奥冠者毛利頼隆、遺骨を乗せた輿、二品頼朝様〔穢れなき白い浄衣を着ました〕の順に参りました。御家人達が沢山お供に来ましたが、皆、勝長寿院の敷地外に止められました。一緒に入るのは、大内義信、毛利頼隆、大内惟義達源氏です。武蔵守義信は、平治の乱の時、左典厩義朝のお供をしています〔当時は平賀冠者と名乗っていました〕。陸奥冠者毛利頼隆は、そのお父さんの毛利冠者義隆が竜華越えで左典厩義朝の身代わりになって討たれています。そのような昔の因縁を考えられて、この人達を特に選ばれたんだとさ。

文治元年(1185)九月小四日甲申。 勅使江判官公朝歸洛。二品御餞物尤慇懃也。此程依風氣逗留渉日云々。又依去七月大地震事。且被行御祈且可被滿遍徳政於天下事。并 崇徳院御靈殊可被奉崇之由事等。被申京都。是可奉添 朝家宝祚之旨。二品御存念甚深之故也云々。

読下し                     ちょくしえのほうがんきんとも きらく    にほんごせんべつもっと いんぎんなり
文治元年(1185)九月小四日甲申。勅使江判官公朝歸洛す。二品御餞物尤も慇懃也。

こ   ほど  かぜっけ  よつ  とうりゅう ひ わた  うんぬん
此の程、風氣に依て逗留日を渉ると云々。

また  さぬ しちがつ  おおぢしん  こと  よつ    かつう おいのり  おこな れ  かつう とくせいを てんか  まんべんさる  こと
又、去る七月の大地震の事に依て、且は御祈を行は被、且は徳政於天下に滿遍被る事、

なら    すとくいん    ごりょう  こと  あがめ たてまるらる べ   のよし   ことら   きょうと  もうさる
并びに崇徳院@の御靈、殊に崇め 奉被る 可き之由の事等、京都へ申被る。

これ  ちょうけ  ほうそ    そ   たてまつ べ  のむね  にほん  ごぞんねん はなは ふか  のゆえなり  うんぬん
是、朝家の宝祚Aを添へ奉る可き之旨、二品が御存念甚だ深き之故也と云々。

参考@崇徳院は、保元の乱の首謀者で後白河法皇と覇者をめぐって負け讃岐に流され恨みを呑んで死んだ。当時〔治承寿永の合戦〕が長引いたのは崇徳天皇の祟りだと信じられていた。
参考A宝祚は、天子の位。皇位。所謂〔諡号(しごう)〕か〔追号〕か〔追贈〕のことだと思う。

現代語文治元年(1185)九月小四日甲申。京都朝廷の使者の検非違使大江公朝が京都へ帰ります。頼朝様の接待は、特に丁寧なものでした。それは、大江公朝が風邪を引いて長逗留になったからです。それと、七月の大地震を考えれば、きちんと祈祷をして、良い政治を天下の隅々まで行き渡らせる事、それに崇徳院のたたりで戦が長引いたので、特に丁寧に供養を行うようにと、京都へ伝言をなされました。それは、天皇家の贈り名をきちんとするべきだと、頼朝様は深く考えているからです。なんだとさ。

文治元年(1185)九月小五日乙酉。小山太郎有高押妨威光寺領之由。寺僧捧解状。仍令停止其妨。任例可經寺用。若有由緒者。令參上政所。可言上子細之旨被仰下。惟宗孝尚。橘判官代以廣。藤判官代邦通等奉行之。前因幡守廣元。主計允行政。大中臣秋家。右馬允遠元等加署判。新藤次俊長。小中太光家等爲使節相觸有高云々。

読下し                     おやまのたろうありたか  いこうじ りょう   おうぼう のよし  じそう げじょう   ささ
文治元年(1185)九月小五日乙酉。小山太郎有高@、威光寺A領を押妨之由、寺僧解状Bを捧ぐ。

よつ  そ   さまた   ちょうじせし    れい  まか  じよう  へ   べ
仍て其の妨げを停止令め、例に任せ寺用に經る可し。

も   ゆいしょ  あ  ば   まんどころ  さんじょうせし   しさい  ごんじょうすべ のむねおお くださる
若し由緒C有ら者、政所Dへ參上令め、子細を言上可し之旨仰せ下被る。

これむねたかなお  たちばなのほうがんだいもちひろ とうのほうがんだいくにみち ら これ ぶぎょう
惟宗孝尚、  橘判官代以廣、  藤判官代邦通 等之を奉行す。

さきのいなばのかみひろもと かぞえのじょうゆきまさ  おおなかとみあきいえ  うまのじょうとおもとら しょはん くは
前因幡守廣元、  主計允行政、 大中臣秋家、 右馬允遠元等署判を加へ、

 しんとうじとしなが  こちうたみついてら しせつ  な   ありたか  あいふる   うんぬん
新藤次俊長、小中太光家等使節と爲し有高に相觸ると云々。

参考@小山太郎有高は、横山氏の四代目孝兼の四男小山経時の子の有高は町田市小山にいたといわれる。
参考A威光寺は、川崎市多摩区長尾三丁目の妙楽寺がかつての源氏祈願寺の長尾山威光寺跡と云われる。
参考B解状は、下役から上役へ出すのを解、上役から下役へは符す、同格には移か牒となる。
参考C
由緒は、権利の理由。
参考D政所は、この時点ではまだ出来ていないので、公文所が正しい。

現代語文治元年(1185)九月小五日乙酉。小山太郎有高に、威光寺(川崎市多摩区長尾の)の領地を横取りされたと、寺の坊さんが願い状を持って来ました。それなので、その横領を止めさせて、昔どおり寺の用に充てる事。若し、権利の理由があるのならば、政所へ来て、詳しく申してみなさいと小山宛におっしゃってくれました。筑前三郎惟宗孝尚、橘判官代以広、藤判官代邦通が、担当事務を行いました。前因幡守広元、主計允藤原行政、大中臣秋家、足立右馬允遠元が署名花押を書いて、新藤次鎌田俊長と小中太光家が派遣員として有高に申し渡したんだとさ。

参考この話は、四巻元暦二年(1185)四月小十三日に、威光寺院主長榮が訴え来たので、元通りにするよう命令書を出しているが、このとおりなので地頭は鎌倉殿の命令に中々簡単には服従していないことが理解できる。

文治元年(1185)九月小十日庚寅。御堂供養導師事。被請申本覺院僧正公顯之處。領状先畢。仍下向之間宿次雜事以下。今日被宛催御家人等。因幡前司。齋院次官等奉行之。進發日雜事。佐々木太郎左衛門尉定綱可沙汰之云々。

読下し                      みどうくよう   どうし   こと  ほんがくいん そうじょうこうけん う   もうさる  のところ りょうじょうさき をはんぬ
文治元年(1185)九月小十日庚寅。御堂供養@の導師の事、本覺院A僧正公顯、請け申被る之處、領状先に畢。

よつ  げこう のかん  すくじ   ぞうじ  いげ   きょう  ごけにんら   あてもよ  さる     いなばのぜんじ さいいんのすけら これ  ぶぎょう
仍て下向之間、宿次の雜事B以下、今日御家人等に宛催ほ被るC。因幡前司、齋院次官等之を奉行す。

しんぱつ ひ   ぞうじ     ささきのたろうさえもんのじょうさだつな これ  さた すべ     うんぬん
進發の日の雜事は、佐々木太郎左衛門尉定綱D之を沙汰可しと云々。

参考@御堂供養は、勝長寿院の仏式完成祝賀会。
参考A本覺院は、三井寺の本覚院。三井寺は源氏派、延暦寺は平家派。
参考B宿次の雜事は、旅の途中の宿泊や弁当の世話。
参考C宛催ほ被るは、そこの領地か近くの御家人に割り当てた。
参考D佐々木太郎左衛門尉定綱は、三井寺近くの近江に領地を持っているので出発関係の雑事を担当した。(関東御公事)

現代語文治元年(1185)九月小十日庚寅。勝長寿院の仏式完成祝賀会の指導僧の事を、三井寺の本覚院の僧正公顕が引き受けてくれたと、先に了解の知らせが来ました。そこで、鎌倉への旅行の途中の宿の手配などを、今日御家人に分担しました。因幡前司大江広元と斎院次官中原親能が指導担当をしました。出発の日のこまごました手配は、近江の佐々木太郎左衛門尉定綱が指示や手配をするようにとのことだとさ。

文治元年(1185)九月小十二日壬辰。景季。成尋等入洛。則申配流人々事云々。

読下し                       かげすえ じょうじんらじゅらく   すなは はいる  ひとびと こと  もう    うんぬん
文治元年(1185)九月小十二日壬辰。景季、成尋等入洛す。則ち配流の人々の事を申すと云々。

現代語文治元年(1185)九月小十二日壬辰。梶原源太左衛門尉景季と義勝房成尋が京都入りをしました。すぐに流罪の連中の話を申しこんだとさ。

文治元年(1185)九月小十八日戊戌。新藤中納言〔經房卿〕者廉直貞臣也。仍二品常令通子細給。於今者吉凶互被示合。而黄門有望之由。内々被申之間。二品令吹擧之給云々。

読下し                       しんとうのちうなごん〔つねふさきょう 〕は   れんちょく ていしんなり  よつ  にほんつね  しさい つう  せし  たま
文治元年(1185)九月小十八日戊戌。新藤中納言〔經房卿@者、廉直の貞臣也。仍て二品常に子細を通ざ令め給ふ。

いま  をいては きっきょうたがい しめ あわさる    しか    こうもん  のぞみあ   のよし  ないない  もうさる   のかん  にほんこれ  すいきょせし  たま    うんぬん
今に於者、吉凶互に示し合被るA。而るに黄門Bを望有るC之由、内々に申被る之間、二品之を吹擧令め給ふと云々。

参考@新藤中納言〔經房卿〕は、新しい藤原氏の中納言で京都の吉田に住んだので吉田經房。吉記の作者。
参考A吉凶互に示し合被るは、初代の関東申し次ぎをしている。
参考B
黄門は、中納言の唐名。
参考C
望有るは、要望をしている。

現代語文治元年(1185)九月小十八日戊戌。新藤中納言〔吉田経房卿〕は、真面目で忠実な役人です。それなので二品頼朝様は、常に連絡を取り合っておられます。今ではもう、つぅと云えばかぁの仲になっております。そこで、中納言になりたいと希望を内々に云ってきたので、頼朝様はこれを京都朝廷へ推薦したからなんだそうな。

文治元年(1185)九月小廿一日辛丑。參河守〔範頼〕使者參着。既出鎭西在途中。今月相搆可入洛。八月中可參洛之由雖蒙嚴命。依風波之難遲留。恐思云々。此使自京都先立之旨申之。而今申状被重御旨之條。揚焉之由。被感仰矣。

読下し                       みかわのかみ〔のりより〕   ししゃ さんちゃく   すで  ちんぜい   い   とちゅう  あ
文治元年(1185)九月小廿一日辛丑。參河守〔範頼@の使者參着す。既に鎭西Aを出で途中に在り。

こんげつあいかま じゅらくすべ    はちがつちゅう さんらくすべ  のよし  げんめい  こうむ  いへど   ふうは のなん  よつ  ちりゅう    おそ  おぼ    うんぬん
今月相搆へ入洛可しB。八月中に參洛可し之由、嚴命を蒙ると雖も、風波之難に依て遲留し、恐れ思すCと云々。

こ   つか  きょうとよ   さきだ   のむね   これ  もう    しか    いま  もうしじょう おんむね おも   らる  のじょう  けちえん のよし  かん  おお  らる
此の使い京都自り先立つ之旨、之を申す。而して今の申状、御旨を重んじ被る之條、揚焉D之由、感じ仰せ被矣。

参考@參河守〔範頼〕は、既に辞任しているので前三河守。
参考A鎭西は、九州だが占領行政をしていた。
参考B今月相搆へ入洛可しは、今月中にはなんとか京都へ入るようにします。
参考C
恐れ思すは、恐れ入っています。
参考D揚焉は、明瞭。

現代語文治元年(1185)九月小二十一日辛丑。源参河守範頼の伝令が着きました。もう既に九州を出て途中にいますが、今月中にはなんとか京都へ入れるようにします。八月中に京都へ入るよう命令を受けていましたが、海が荒れて思うように進めず、遅れてしまい恐縮しておりますとの事なんだとさ。この使いは、京都から、範頼の京入り前に先だってきたと云ってます。それなので豆に報告をよこすのは、頼朝様のご心情を理解していることは明白だと感心なされておられました。

参考範頼が、頼朝に対し慎重なのは、源參河守範頼は頼朝の母の実家熱田神宮の末社である蒲神明神社で育ったので、頼朝と交流があったので性格を知っているからだと推測される。

文治元年(1185)九月小廿三日癸卯。前大納言時忠卿下向配所能登國云々。

読下し                       さきのだいなごんときただきょう はいしょ  のとのくに  げこう    うんぬん
文治元年(1185)九月小廿三日癸卯。 前大納言時忠卿@、配所の能登國へ下向すと云々。

参考@前大納言時忠卿は、「平家にあらずんば人非人たり」と云った人。能登へ配流の後、その子孫が能登の時国家。

現代語文治元年(1185)九月小二十三日癸卯。前大納言時忠卿は、流罪先の能登国へ出発したんだとさ。

文治元年(1185)九月小廿九日己酉。南御堂内陣板敷等削之畢。二品監臨給。匠等更賜祿。各長絹一疋也。筑後權守俊兼。主計允行政奉行之。

読下し                      みなみみどうないじん いたじきらこれ  けず をはんぬ にほんかんりん  たま
文治元年(1185)九月小廿九日己酉。南御堂内陣の板敷等之を削り畢。 二品監臨し給ふ。

たくみら さら ろく  たま    おのおの ちょうけん いっぴきなり  ちくごのごんのかみとしかね かぞえのじょうゆきまさ これ ぶぎょう
匠等更に祿を賜はる。各、 長絹@一疋也。 筑後權守俊兼、 主計允行政 之を奉行す。

参考@長絹は、糊で張った仕上げの絹布。絹一疋は、幅二尺二寸(約66cm)、長さ五丈一尺(約18m)の絹の反物(一反は幅が半分)。

現代語文治元年(1185)九月小二十九日己酉。南御堂勝長寿院の床板などを削り仕上げ終えました。二品頼朝様も立ち会われました。大工さんたち技術者は、更に褒美を戴きました。一人一人に長絹一匹(二反分)です。筑後権守俊兼、主計允藤原行政が担当をしました。

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