吾妻鏡入門第六巻

文治二年(1186)六月小

文治二年(1186)六月小一日丁未。今年國力凋弊。人民殆泥東作業。二品令憐愍給之餘。仰三浦介。中村庄司等。相摸國中爲宗百姓等給麞牙〔人別一斗云々〕且是依恠異攘災上計也云々。」入夜。豊後守季光献盃酒。昨日自武藏國參上云々。

読下し             ことし こくりょくちょうへい  じんみんほと    とうさく   わざ  なず
文治二年(1186)六月小一日丁未。今年國力凋弊す。人民殆んど東作@の業に泥む。

 にほんれんみんせし たま のあま   みうらのすけ なかむらのしょうじら  おお     さがみのくにちゅう むねとたる ひゃくしょうら しょうが 〔じんべついっと うんぬん〕   たま
二品憐愍令し給ふ之餘り、三浦介A中村庄司B等に仰せて、相摸國中の 宗爲 百姓等に麞牙〔人別一斗と云々〕を給ふ。

かつう これ  かいい  よつ じょうさい じょうけいなり うんぬん
且は是、恠異に依て攘災の上計也と云々。」

 よ  い    ぶんごのかみすえみつ はいしゅ けん  きのう むさしのくによ さんじょう   うんぬん
夜に入り、豊後守季光C盃酒を献ず。昨日武藏國自り參上すと云々。

参考@東作は、春の耕作。「東」は春の意。「春は東作の思ひを忘れ、秋は西収の営みにも及ばず」平家物語巻第十大嘗會沙汰からの引用と思われる。
参考A三浦介は、三浦介義澄で大介義明の次男ながら総領で衣笠が本領。為通─為継─義継─義明─義澄─義村─泰村と続く。
参考B中村庄司は、中村庄司宗平で神奈川県足柄上郡中井町。中井町は「中村」と「井口村の一部」が合併した。和名抄に領主:相模国衙在庁官人・中村宗平(庄司)。平安後期には南の海岸部は小田原東部から中村原を経て中村川河口の西側、北は中井〜上曽我、大井の篠窪・赤田・山田一帯となる。
参考C季光は、毛呂季光で、埼玉県入間郡毛呂山町。藤原氏。父は成光。頼朝が伊豆時代に食料が無く、従者があちこち食い物を貰いに歩いたが何処でも断られ、とうとう毛呂まで来て、この季光に貰ったという逸話がある。頼朝は天下を取ってからこの人を大事にした。

現代語文治二年(1186)六月小一日丁未。今年は、色々とあって国力が消耗してしまったのは、農民達が軍事行動で忙しく農業が思うように、はかいかなかったからです。二位殿頼朝様は、大事にしなければいけないとお考えになられて、三浦介義澄と中村庄司宗平等に命じて、相模国中の主だった百姓達に白米〔一人当たり一斗〕を与えられました。これは、怪しい出来事(義経逃亡反撃)による災いを祓いのける良策(神を喜ばせると同時に人も喜ぶ)だからだそうです。夜になって豊後守毛呂季光がお酒を持ってご機嫌伺いに来ました。昨日武蔵国の在所から鎌倉へ来たそうです。

文治二年(1186)六月小二日戊申。刑部卿典侍領事。二品被遣御下文云々。
 下 美濃國大野郡内石太郷住人
  可早停止美濃藤次安平濫妨爲刑部卿典侍御沙汰事
 右件所。致安平無道令押領之由。有其聞。事實者尤以不當也。自今以後。可令停止之状如件。以下。
      文治二年六月日

読下し             ぎょうのきょうてんじ  りょう こと   にほんおんくだしぶみ つか さる   うんぬん
文治二年(1186)六月小二日戊申。刑部卿典侍@の領の事、二品御下文を遣は被ると云々。

  くだ   みののくにおおのぐん ないいしだごう  じゅうにん
 下す 美濃國大野郡A内石太郷Bの住人へ

     はやばや みののとうじやすひら らんぼう ちょうじ ぎょうぶのきょうてんじ  おんさたたるべ  こと
  早々と美濃藤次安平の濫妨を停止し刑部卿典侍の御沙汰爲可き事

  みぎ くだん ところ   やすひら むどう いた おうりょうせし  のよし   そ  きこ  あ      ことじつ   ばもつと もつ  ふとうなり
 右、件の所は、安平無道を致し押領令む之由、其の聞へ有り。事實たら者尤も以て不當也。

  いまよ   いご    ちょうじせし  べ  のじょうくだん ごと    もつ  くだ
 今自り以後、停止令む可し之状件の如し。以て下す。

            ぶんじにねんろくがつ にち
      文治二年六月日

参考@刑部卿は、行部省の長官。正四位下に相当。行部省は律令制による太政官の八省の一。刑罰・裁判をつかさどった役所。うたえのつかさ。うたえただすつかさ。参考典侍は、てんじ。すけ。ないしのすけ。次官。
参考A大野郡は、岐阜県揖斐郡大野町周辺一帯らしい、羽島市、揖斐川町、池田町。瑞穂市等。
参考B石太郷は、岐阜県羽島市下中町石田。

現代語文治二年(1186)六月小二日戊申。刑部省の次官(女官)の左典厩一条能保様を通じて訴えてきた(5月29日条の美濃藤次横領の)領地の問題について、頼朝様は命令書を送ってあげましたとさ。

 命令する 美濃国大野郡石田郷に住んでいる人達へ
 さっさと美濃藤次安平の横取りを止めさせて、刑部省の女官の指示に従うこと
 右の通り、その土地での安平は勝手なことをして年貢の横取りをしていると聞こえてきている。もし本当のことならばとんでもない。今からは、すぐに止めるように命令が出ているのはこのとおりです。だから命令する。
       文治二年六月日

文治二年(1186)六月小七日癸丑。神祗權大副公宣献書状。申送云。与州去比經廻伊勢國。參詣神宮。當時又在南都邊由風聞。而祭主能隆朝臣有内通事。致祈祷歟云々。

読下し             じんぎごんのだいすけ きんのぶ しょじょう けん もう  おく    い
文治二年(1186)六月小七日癸丑。神祗權大副@公宣A書状を献じ、申し送りて云はく。

よしゅうさんぬ ころ いせのくに   へめぐ    じんぐう  さんけい    とうじ また   なんとへん  あ   よしふうぶん
与州去る比、伊勢國へ經廻り、神宮に參詣す。當時又、南都邊に在る由風聞す。

しか  さいしゅよしたかあそんないつう  こと あ       きとういた   か  うんぬん
而るに祭主能隆朝臣内通の事有りて、祈祷致す歟と云々。

参考@神祗大副は、京都朝廷の神祇官の官職に、伯(かみ)副(すけ)祐(じょう)史(さかん)とある。副(すけ)に大少がある。律令制度では、朝廷に二官五衛府一台が置かれた。二官は、太政官と神祇官。五衛府は、衛門府、左衛士府、右衛士府、左兵衛府、右兵衛府。811年以降、左・右近衛、左・右衛門、左・右兵衛の六衛府(ろくえふ)となった。台は、弾正台で役人の探索をする。この時代、神祇官は花山源氏がやる。参考権の=定員外の=仮の=名官=名誉職
参考A公宣は、正月十九日に伊勢神宮の神職の長官職の後継をめぐって訴えてきた人。継いでしまった大中臣能隆を落とそうと未だ文句をつけている。

現代語文治二年(1186)六月小七日癸丑。京都朝廷神祇官の臨時副長官の源公宣が手紙を献上して言ってきました。源九郎義経が先日伊勢国へやってきて、伊勢神宮にお参りをしたそうです。今は奈良にいるらしいと噂が流れています。それなのに伊勢神宮の筆頭神主大中臣能隆は、仲良くしている義経のためにお祈りをしたらしいんだとさ。

文治二年(1186)六月小九日乙卯。去四月之比。政道事。殊可致興行之趣。付議卿令 奏聞給了。 勅答之條々。執職事目録。師中納言被進之。今日所到來也。
    條々
 一 諸社諸寺修造事
  於神社者大概被付國訖。諸寺尤大切。東寺以下殆如無其跡。如此令申旨可然事也。早可計仰之由。被申攝政訖。
 一 記録所事
  先日被計申之時。被仰攝政訖。諸方訴訟尤可被决断歟。重可有急沙汰之由被申訖。
 一 光雅朝臣事
  聞食訖。
 一 所々庄々子細事
  追可被仰左右。
 一 播磨國武士押領所々事
  委細成敗之條。返々所感思食也。人々愁已散歟。但挊保。桑原五ケ庄。上蝙。東這田庄等。猶令召進去文給。式或國領眼也。或難去思食。凡景時申状。一旦雖似有其謂。張行國中之時。爲免一日之命。有寄附所。或自由有押領之地。以之稱相傳歟。安田庄。自領家若狹局。雖稱預給。全不可然。以之察。可謂彼男一類偏蔑如國務。早可被誡仰也。於此國一國者。可然者可去進由。今被仰也。度々可随仰之由言上訖。仍仰能保朝臣。被遣仰畢。一旦雖逃去。猶隱居傍庄。催當國之輩伺隙。又致濫妨。能々可被誡仰也。桑原事。殊有被仰之旨候。
 一 備前國事
  下文等施行之後。可被仰左右。但一所〔毛〕武士事懸之所。一切不叶國衙下知之。以彼國一向被宛法勝寺御塔用途訖。全非他事。明年伊勢大神宮山口祭也。件祭被行後。不可及佛寺沙汰。仍早速思食。能々可被計下知也。
 一 美濃國事
  在廳申状等。御沙汰先了。子細追可被仰候也。
 一 所々下文事
  各分給了。但爲保猶有歎申旨。阿波國久千田庄者。父爲C法師相傳領也。何有他地頭哉。子細見折紙訖。山田庄事。猶雖有申旨。遂可被仰也。業忠事。返々驚聞食者乎。何樣被下知哉。其邊々不快ニ思タラン物ヲハ。爭不被勘當哉。證跡ナト候者。早可被申上。若又高橋庄押領武士。任口申ヲハ爲人不便。可令注申子細也。
   高連嶋。相尋可被仰左右。
    更被仰下事等
 一 春近并郡戸庄年貢事
  早無懈怠。可進濟之由。可被下知也。先々以彼年貢。被用御服。早々可有沙汰。
 一 冨士領事
  件年貢。早可進濟。可爲御領之由。先々被仰了。定存知歟。
 以前條々。以此趣。委可被仰遣也。細々成敗猶感思食候也。人愁休ハ世上安堵之計也。謀反之輩。尚歸住諸國之條。被申旨尤可然。早可被停止也。

読下し             さんぬ しがつのころ  せいどう みち  こと  こうぎょういた べ のおもむき   ぎきょう  ふ せし そうもん たま をはんぬ
文治二年(1186)六月小九日乙卯。去る四月之比、政道の事、殊に興行致す可し之趣、議卿@に付令め奏聞し給ひ了。

ちょくとうのじょうじょう しきじ もくろく  と      そちのちうなごんこれ すす られ   きょう とうらい   ところなり
勅答之條々、職事目録を執りて、師中納言之を進め被、今日到來する所也A

参考@議卿は、議奏公卿。政治の善悪を会議で決めて天皇(ここでは後白河法皇)に奏聞する事。後白河の独裁を止めさせる為に、頼朝の建議によってこの職を設ける。しかし、後白河法皇は形だけで云うことを聞かなかった。
参考A今日到來する所也は、吾妻鏡の特徴として、その事象発生時ではなく、情報が鎌倉へ届いた時点で記入する。

        じょうじょう
    條々

  ひとつ しょしゃしょじしゅうぞう こと
 一 諸社諸寺修造の事

     じんじゃ をい は  たいがいくに ふ られをはんぬ  しょじもつと たいせつ  とうじ いか ほと    そ   あとな    ごと
  神社に於て者、大概國に付せ被訖。諸寺尤も大切。東寺以下殆んど其の跡無きが如し。

     かく ごと  もうせし  むねしか  べ  ことなり  はや はか  おお  べ    のよし  せっしょう もうされをはんぬ
  此の如く申令む旨然る可き事也。早く計り仰す可き之由、攝政に申被訖B

参考B攝政に申被訖は、頼朝の云って来たことを「頼朝が推薦した親幕派の兼実にやらせる」と嫌がらせを言っている。

  ひとつ きろくしょ  こと
 一 記録所Cの事

     せんじつはか もうさる  のとき せっしょう おお られをはんぬ しょほう そしょうもつと けつだんさる べ  か   かさ   いそ   さた あ   べ  のよしもうされをはんぬ
  先日計り申被る之時、攝政に仰せ被訖。諸方の訴訟尤も决断被る可き歟。重ねて急ぎ沙汰有る可し之由申被訖。

参考C記録所は、後三条天皇が院政を始めようとしたときに、摂関家の荘園を取上げるために「記録荘園券契所」を作り、文書のきちんとしていない分の荘園は取上げようとしたが、出来なかった。それが後に後白河の時代には院政をする場所になってしまった。

  ひとつ みつまさあそん  こと
 一 光雅朝臣の事

     き     め  をはんぬ
  聞こし食し訖。

  ひとつ しょしょ しょうしょう  しさい  こと
 一 所々の庄々の子細の事

     おつ  そう   おお  らる べ
  追て左右を仰せ被る可し。

  ひとつ はりまのくに ぶし おうりょう しょしょ  こと

 一 播磨國D武士押領の所々の事

     いさい  せいばい   のじょう  かへ がえ   かん  おぼ  め  ところなり  ひとびと  うれ すで  ち     か
  委細に成敗する之條、返す々すも感じ思し食す所也。人々の愁ひ已に散らん歟。

     ただ  いぼ   くわばら  ごかのしょう  こうべ  ひがしはいたのしょう ら なおさりぶみ め  しん せし  たま  や
  但し揖保E桑原F五ケ庄G上蝙H東這田庄I等、猶去文を召し進ぜ令め給ふ哉。

     ある   こくりょう まなこなり  ある    さ  がた  おぼ  め
  或ひは國領の眼也。或ひは去り難く思し食す。

     およ かげとき もうしじょう  いったん そ  いは  あ    に      いへど   くにちゅう ちょうぎょうのとき  いちにちのいのち のが  ため  きふ     ところあ
  凡そ景時の申状、一旦は其の謂れ有るに似たりと雖も、國中に張行之時、一日之命を免れん爲、寄附する所有り。

     ある    じゆう  おうりょうのち  あ    これ  もつ  そうでん しょう か
  或ひは自由の押領之地有り。之を以て相傳と稱す歟。

     やすだのしょう りょうけ わかさのつぼねよ  あずか たま   しょう いへど   まった しか べからず
  安田庄Jは、領家K若狹局自り、預り給ふと稱す雖も、全く然る不可。

     これ もつ  さつ        か おとこ いちるいひとへ こくむ  べつじょ    い  べ     はや  いさ  おお  らる べ なり
  之を以て察するに、彼の男の一類偏に國務を蔑如すと謂う可し。早く誡め仰せ被る可き也。

     かく くにいっこく  をい  は   しか  べ    ば さ   しん  べ  よし  いまおお らる なり  たびたびおお   したが べ のよしごんじょう をはんぬ
  此の國一國に於て者、然る可くん者去り進ず可き由、今仰せ被る也。度々仰せに随う可き之由言上し訖。

     よつ よしやすあそん  おお     おお つか  されをはんぬ
  仍て能保朝臣に仰せて、仰せ遣は被畢。

     いったんのが さ   いへど  なおかたわら しょう いんきょ   とうごくのやから もよお すきま うかが  またらんぼういた
  一旦逃れ去ると雖も、猶傍の庄に隱居し、當國之輩を催し隙を伺い、又濫妨致す。

     よくよくいさ おお  らる  べ  なり  くはばら こと   こと  おお  らる  のむねあ  そうろう
  能々誡め仰せ被る可き也。桑原の事、殊に仰せ被る之旨有りて候。

参考D播磨國は、梶原平三景時が守護地頭をしている。
参考E揖保は、旧揖西郡揖保村で現兵庫県たつの市揖保町揖保上、揖保中。
参考F
桑原は、旧揖保郡内らしいが地名としては残っていない。
参考G五ケ庄は、旧加古郡野寺・北山・中・森安・六分一・国安・岡の七村なので、現兵庫県加古郡稲美町野寺・北山・中村・森安・六分一・国安・岡。
参考H上蝙は、兵庫県神戸。
参考I東這田庄は、兵庫県三木市別所町東這田。
参考J安田庄は、旧多可郡中村大字東安田・中安田・西安田で現在の兵庫県多可郡多可町中区東安田・中安田・西安田。本所は後白河法皇、預所が丹後局、領家は若狭局、地頭が梶原景時。
参考K領家は、開発領主から寄進をうけた上級荘園領主。主に中央の有力貴族や有力寺社で、その権威が他からの侵害を防いでくれる。本所>領家>預所=下司VS地頭>名主>作人>小作人>在家と続き、実際の耕作は在家がする。

  ひとつ びぜんのくに こと
 一 備前國Lの事

    くだしぶみら せぎょうののち   そう  おお  らる  べ      ただ いっしょ  〔も〕   ぶし   こと  か     のところ いっさいかなはず こくがこれ  げち
  下文等の施行之後、左右を仰せ被る可し。但し一所〔毛〕武士、事を懸くる之所、一切叶不。國衙之を下知す。

     かのくに もつ いっこう  ほっしょうじ   ごとう  ようとう あてられをはんぬ まった たごと あらず  みょうねん いせだいじんぐう  やまぐちさい なり
  彼國を以て一向に法勝寺Mの御塔の用途に宛被訖。全く他事に非。明年は伊勢大神宮の山口祭N也。

    くだん まつりおこな れるのち ぶつじ  さた  およ ぶからず  よつ さっそく  おぼ  め    よくよくはから  げち さる  べ   なり
  件の祭行は被後、佛寺の沙汰に及ぶ不可。仍て早速に思し食す。能々計ひ下知被る可き也。

参考L備前國は、土肥次郎實平が守護地頭をしている。
参考M法勝寺は、白河の地に代々の天皇・上皇・女院たちの御願によって建てられた6つの寺院六勝寺のひとつで白河天皇御願寺。
参考N山口祭は、遷宮の御造営にあたり最初に執り行われる祭儀です。御造営用材を伐採する御杣山(みそまやま)の山口に坐(ま)す神を祭ります。御杣山は時代により変遷がありますが、古例のまま皇大神宮(こうたいじんぐう)は神路山(かみじやま)、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は高倉山(たかくらやま)の山麓で行われます。http://www.sengu.info/gyoji-detail01.html

  ひとつ  みののくに こと
 一 美濃國の事

     ざいちょう もうしじょうら ごさた さき をはんぬ  しさい おつ  おお らる  べ  そうろうなり
  在廳Oが申状等、御沙汰先に了。子細は追て仰せ被る可く候也。

参考O在庁は、在庁官人の略で、ここでは国司が遥任なので変わりに国衙を守っている役人。通常は国衙の役人全般を指す。

  ひとつ しょしょ くだしぶみ こと
 一 所々の下文の事

    おのおの わ たま をはんぬ  ただ ためやすなおなげ もう むねあ  あはのくにくちだのしょうは  ちちためきよほっしそうでんりょうなり
  各、分け給ひ了。但し爲保P猶歎き申す旨有り。阿波國久千田庄Q者、父爲C法師R相傳領也。

    なん  た   ぢとう あら  や     しさい  おりがみ みをはんぬ やまだのしょう  こと なおもう むねある いへど  おつ おお  らる  べ  なり
  何ぞ他の地頭有ん哉。子細は折紙を見訖。山田庄Sの事、猶申す旨有と雖も、遂て仰せ被る可き也。

     なりただ こと  かへ がえ   おどろ き     め  ものか    いかよう  げちされ  や
  業忠の事、返す々すも驚き聞こし食す者乎。何樣に下知被ん哉。

     そ へんぺん ふかいにおもしたらんものをば   いかで かんどうされざら  や  しょうせきなどそうらへば   はや  もう  あげらる  べ
  其の邊々不快ニ思タラン物ヲハ、爭か勘當被不ん哉。證跡ナト候へ者、早く申し上被る可し。

     も  また  たかはしのしょう おうりょう ぶし  くち まか  もう   をば ひとふびん なす    しさい ちゅう もう  せし  べ  なり
  若し又、高橋庄押領の武士、口に任せ申すヲハ人不便と爲。子細を注し申さ令む可き也。

       こうれんじま  あいたず  そう  おお  らる べ
   高連嶋、相尋ね左右を仰せ被る可し。

         さら おお くださる  ことなど
    更に仰せ下被る事等

参考P爲保は、蘆名為保で為清の子。系図には為安で出てくる。
参考Q久千田庄は、阿波国阿波郡久勝村大字久千田で、古地図に阿波郡阿波町稲荷の西光寺の西側に久千田城址あり。又安政には久千田小学校もあった。なので、徳島県阿波市阿波町稲荷の周り一帯だったようである。
参考R爲Cは、三浦介義明の弟。葦名氏。芦名氏。横須賀市芦名。芦名には和田太郎義盛発注の運慶像の常楽寺がある。
参考S山田庄は、麻殖郡山田村で、徳島県吉野川市川島町山田。平業忠が領家。
参考㉑高橋庄は、伊予国越智郡日高村高橋で、現在の愛媛県今治市高橋。平業忠が領家。
参考㉒高連嶋は、文治四年(1188)七月十三日条に高運島の名で出てくるが、同じか或いは別でも双方ともに不明。岡山県倉敷市に連島町あり。

  ひとつ はるちか なら   ごうとのしょう ねんぐ こと
 一 春近并びに郡戸庄年貢の事

    はや  けたい な    しんさい べ   のよし    げち さる  べ  なり   さきざき か  ねんぐ  もつ    おんぶく  もち  らる   そうそう   さた あるべ
  早く懈怠無く、進濟す可き之由、下知被る可き也。先々彼の年貢を以て、御服に用ひ被る。早々と沙汰有可し。

参考㉓春近領は、信濃・美濃・越後に渡っていて不明だったが、一条能保のあざなであることが分かった。一条能保が領家と地頭を兼ねているが、本所は後白河法皇。つまり、一条能保が後白河法皇への上納をサボっていた。(奥富敬之氏説)
春近御領
は、春近と云う仮の名で開発した鎌倉幕府領。恐らく本所は院で、領家が頼朝であろう。地頭は誰か分からない。
地名では、長野県伊那市東春近に春近神社あり。天竜川を挟んで西春近もあり。
(とする別説もあるが、ここでは奥富説に従う)
参考㉔郡戸庄は、東筑摩郡笹賀村神戸で、現在の長野県松本市笹賀。かつての笹賀村役場は笹賀村大字神戸字宮添にあったのが現在の松本市役所笹賀出張所。北側に松本短大があり近くに神戸神社有り。

  ひとつ  ふじりょう こと
 一 冨士領の事  

     くだん ねんぐ  はや しんさい べ     ごりょうたるべ  のよし   さきざきおお られをはんぬ さだ  ぞんち    か
  件の年貢、早く進濟す可し。御領爲可き之由、先々仰せ被了。定めて存知する歟。

  いぜん じょうじょう  かく おもむき もつ   くは    おお つか  さる  べ  なり   さいさい せいばいなおかん おぼ め  そうろうなり
 以前の條々、此の趣を以て、委しく仰せ遣は被る可き也。細々の成敗猶感じ思し食し候也。

   ひと うれ      やす   は せじょう  あんどの はか なり
 人の愁ひを、休めるハ世上の安堵之計り也。

  むほんのやから なおしょこく  きじゅうのじょう  もうさる むねもつと  しか  べ    はや ちょうじさる べ  なり
 謀反之輩、尚諸國に歸住之條、申被る旨尤も然る可し。早く停止被る可き也。

参考㉕冨士領は、富士浅間社の領地で、長講堂領地なので後白河法皇の分(御領)。本所が後白河法皇、領家が頼朝、地頭が北條時政。

現代語文治二年(1186)六月小九日乙卯。先だっての四月頃に、政治のやり方について、ちゃんとするように議奏公卿を通して後白河法皇に申し上げられました。それに対する後白河法皇の返事を箇条書きに担当役人が書き出して、それを関東申し次の師中納言吉田経房様が頼朝様に送ったのが、今日到着したところです。

書き出しだ箇条書き

 一つ 神社やお寺の修繕について
   神社は、ほぼ全て国衙に修理するように命令しました。お寺の方が大切ですが、東寺を始め、殆どその跡が無いみたいに荒れています。その様に云って来ることは尤もな事なので、早くきちんと考えて伝えるように摂政兼実に命じました。

 一つ 院の政治所の記録書について
   先日、ちゃんとしなさいと、摂政兼実に命じました。記録書がやる色々な訴訟は早く解決されるべきなので、なお早く処理する様に兼実に命じおきました。

 一つ 光雅について(光雅は頼朝追討の宣旨を書いて嫌われ、流罪になっていたのをそろそろ許してあげること)
   話は伺いました。

 一つ 色々なところの荘園などの問題について
   近いうちに考えてどうするか命じましょう。

 一つ 播磨国の武士達が年貢を横取りして件について
   細やかに処理されたことに、とてもお喜びになられております。みんなの嘆きも消え去ることでしょう。だけどねー、
揖保・桑原・五ケ庄・上蝙(神戸)・東這田庄等は、まだ荘園を返しますという地頭の立ち退き報告書の去文(さりぶみ)を地頭から召し取って、荘園へ進め出しましたかねー。国衙領の役人も見ていますよ。地頭も撤退しないのは荘園を返したくないと思っているんじゃないですか。代官がやった事で私がやったんじゃないと云う景時の申し分も、一見道理が通っているように思えるけど、国中で悪事を行っているのだから、その場しのぎの言い逃れのために、誰かに寄付した所もありますよ。又、自分勝手に横取りをしている領地も有り、それを先祖代々受け継いできたとも言ってますよ。安田庄は、領家の若狹局から預かったと云っていますが、全くそれは嘘です。この例を見ただけでも分かるように、景時の仲間は国衙を馬鹿にしていると云えるじゃないですか。早く改めるよう叱ってください。この国一国については、、そうしないのなら、私の方が去って貴方に進呈しましょうかと、今おっしゃっておられます。何度も私(後白河法皇)の云うとおりにすると云っているじゃないですか。だから一条能保様を通じておっしゃられているのです。一旦は、その場しのぎにその領地から離れたとしても、近所の荘園に隠れ住んで、この国の連中を使って隙を狙っては横取りします。そんな訳なので本当にきちんとしかりつけてくださいよ。桑原の事は特に言いたいことがあるそうです。

 一つ 備前国について
   頼朝様が命令書を出した後にその成果を見てから、どうするか言いましょう。但し、一箇所も治安維持を武士に任せるような所はありません。国衙がこの治安維持を実施します。この国の年貢は法勝寺の五重塔建設のためだけに宛てております。全く他の用途には使いません。来年は伊勢神宮の遷宮造営の最初の祭りの儀式である山口祭があります。このお祭りが終わってから、お寺の始末をしてはいけないので、早く建立すべきだと思います。急いでやるように土肥次郎實平に命令をしてください。

 一つ 美濃国について
   国衙の役人である在庁官人からの苦情については、先に貴方に命じましたよね。細かいことについては後で通知します。

 一つ あちこちの荘園への命令書について
 それぞれに分け与え終えました。但し北面の葦名為保が愚痴を云っています。「阿波国千田庄は、父の為清法師からの相続なのに、どうして他の地頭がありえますか。」と。詳しいことは手紙を読みました。山田庄については、まだ言いたい事はあるのですが、又にしましょう。領家の前左馬權頭平業忠の話も、聞けば驚くことじゃないですか。どう処理されるおつもりですか。酷い目に合わされて厭な思いをさせられているのに、どうして地頭の佐々木仲務丞經高を勘当しないのですか。勘当した良い証拠が有れば早く云ってください。同様に業忠が領家の高橋庄を横取りした武士が、その根拠を口からの出まかせだけで横取りされたのでは、理屈が通りません。詳しい証拠となる話を文書で書き出させてください。
 高連島については良く調べた上で決めてください。
  なお、続けておっしゃておられること。

 一つ 春近(一条能保領)と郡戸庄の年貢について
 早く怠らずに納付するように命令してください。今後その年貢を私の服の作成に宛てますので、さっさと納付するように。

 一つ 冨士浅間社の領地について
 その年貢を早く納付するように。後白河法皇の領地であることは、前にも云ってあるじゃないの。当然承知の上でしょうね。

以上の内容をお伝え申し上げるように云われ、細かい配慮をされた御家人への指示をお喜びになっておられます。人々の心配を取り除くには、安心できる政治への配慮でしょう。謀反人たちが、未だに諸国をうろついているので、頼朝様のおっしゃっておられることも最もだと思いますので、早く捕まえて不安を納めるのが良いことでしょう。

これで、播磨で梶原景時、備前で土肥實平、美濃で頼朝自身、阿波で佐々木經高、春近で一条能保、富士で北條時政と、頼朝側近を片っ端から文句をつけている後白河法皇は食えない奴だ。

文治二年(1186)六月小十日丙辰。晩頭甚雨雷鳴。今日。丹後内侍於甘繩家病惱。二品爲令訪其躰給。潜渡御彼所。朝光。胤頼外無候于御供之者云々。

読下し             ばんとうはなは あめ らいめい  きょう  たんごのないし あまなわ いえ  をい  びょうのう
文治二年(1186)六月小十日丙辰。晩頭甚だ雨と雷鳴。今日、丹後内侍@甘繩の家に於て病惱す。

にほん そ  てい  とぶら せし たま  ため  ひそか か ところ  とぎょ    ともみつ たねより ほか  おんともにそうら   のもの な    うんぬん
二品其の躰を訪は令め給ふ爲、潜に彼の所に渡御す。朝光・胤頼の外、御供于候う之者無しと云々。

参考@丹後内侍は、比企尼の娘で藤九郎盛長の妻とされ、頼朝の弟範頼の子孫吉見氏に伝わった『吉見系図』には、丹後内侍は盛長に嫁す前に惟宗広言との間に忠久をもうけていたとされる。

現代語文治二年(1186)六月小十日丙辰。宵の口になってものすごい雨と雷。今日、比企尼の娘で藤九郎盛長の妻である丹後内侍が甘縄の家で病気になりました。頼朝様はお見舞いのために、奥方に内緒でその家へお出かけになりました。結城七郎朝光と東千葉六郎大夫胤頼のほかに、お供をするものはありませんでしたとさ。

江戸時代に作成された『島津氏正統系図』には、忠久の父は『頼朝』とあり、その誕生に関し『伝え称す、初め比企判官能員の妹丹後局、頼朝卿に幸せられて身はらむことあり。頼朝妻北条政子は嫉妬して、これを追う。丹後局は害されることをおそれて、関東を出、上方に赴き、摂津住吉に至る。夜旅宿を里人に求むも、里人これを許さず。時に大雨はなはだしく、たちまち産気あり、よって社(住吉社)辺のまがきのかたわらの石上にうずくまる。時に狐火の闇を照らすに会って遂に忠久を生む』とあるそうです。

他に、藤九郎盛長と彼女の息子「景盛」は、頼朝のご落胤との説もある。密かに見舞うなど二人の関係は否定しにくい。

文治二年(1186)六月小十一日丁巳。親光朝臣以書状申送云。去月廿八日。還任對馬守訖。是則依御擧状。遂所加朝恩也云々。 又熊野別當知行上総國畔蒜庄也。而地頭職者。二品令避付于彼人給訖。於其地下者。上総介。和田太郎義盛引募之處。各背本所使下知。不弁年貢等之間。訴申之上。已欲令言上京都之旨。達二品御聽。殊聞食驚。今日爲主計允行政奉行。一事以上。随使下知。可致沙汰之趣。觸仰于件兩人云々。

読下し               ちかみつあそん しょじょう もつ  もう  おく   い      さんぬ つきにじうはちにち つしまのかみ げんにん をはんぬ
文治二年(1186)六月小十一日丁巳。親光朝臣@書状を以て申し送りて云はく。去る月廿八日、對馬守に還任し訖。

これすなは ごきょじょう よつ   つい ちょうおん くは    ところなり うんぬん
是則ち御擧状に依て、遂に朝恩を加へる所也と云々。

また くまのべっとう  かずさのくにあびるのしょう  ちぎょう   なり   しか    ぢとうしきは   にほんかのひとに さ ふさせし  たま をはんぬ
又、熊野別當Aは上総國畔蒜庄Bを知行する也。而して地頭職者、二品彼人于避け付令め給ひ訖。

そ    ぢげ   をい  は  かずさのすけ わだのたろうよしもり ひきつの  のところ おのおの ほんじょ  し    げち  そむ    ねんぐら  べんぜずのかん
其の地下Cに於て者、上総介・和田太郎義盛引募るD之處、各、本所Eの使の下知に背き、年貢等を弁不之間、

うった もう   のうえ  すで  きょうと ごんじょうせし     ほつ  のむね   にほん  ごちょう  たつ
訴へ申す之上、已に京都へ言上令めんと欲す之旨、二品の御聽に達す。

こと  きこ  め  おどろ   きょうかぞえのじょうゆきまさ ぶぎょう  な    ひとつこといじょう   し   げち  した       さた いた  べ  のおもむき
殊に聞し食し驚き、今日主計允行政を奉行と爲し、一事以上、使の下知に随いて、沙汰致す可し之趣、

くだん りょうにんに ふ おお   うんぬん
件の兩人于觸れ仰すと云々。参考@親光朝臣は、宗親光。宗一族は親光の三代前から明治維新まで対馬(下国)の国司をした。
参考A熊野別當は、湛増か行快。
参考B
畔蒜庄は、千葉県君津市。袖ヶ浦市。後に得宗領になる。
参考C
地下は、「ぢげ」「したぢ」とも云い、年貢を出す現地管理人を指す。逆に年貢を「上分(じょうぶん)」と云う。
参考D引募るは、自分のほうへ引いて募るで、応募する。
参考E
本所は、誰だかわからない。

現代語文治二年(1186)六月小十一日丁巳。親光朝臣が手紙で申し送って来た内容は「先月の二十八日に対馬守に返り咲くことが出来ました。これは、当然頼朝様の推薦状のおかげでなんとか朝廷の官職を与えられることになりました。」だとさ。

話は違いますが熊野権現長官は上総国畔蒜庄を支配しております。それは頼朝様が地頭の職をその人に自分の分から分け与えになられたからです。でも、その現地管理の地頭代官に足利上総介義兼と和田太郎義盛が応募したけれども、それぞれ荘園領主の本所からの使者の指図に従わず、年貢を弁済しないと、鎌倉へ訴えて来た上、京都朝廷へも訴え出ようとしていると頼朝様のお耳に入りました。特にそれを聞いて驚かれ、今日主計允藤原行政を担当者として、何事も地頭熊野神社の使者の指示に従って処理するように、その足利義兼と和田義盛に対し指示書を出させましたとさ。

文治二年(1186)六月小十三日己未。當番雜色宗廉自京都參着。去六日。於一條河崎觀音堂邊。尋出与州母并妹等生虜。可召進關東歟由云々。

読下し               あた ばん  ぞうしきむねかどきょうと よ さんちゃく
文治二年(1186)六月小十三日己未。當り番の雜色宗廉京都自り參着す。

さんぬ むいか いちじょうかわさきかんのんどう  へん をい    よしゅう ははなら  いもうと ら  たず いだ  いけど
去る六日、一條河崎觀音堂@の邊に於て、与州の母A并びに妹B等を尋ね出し生虜る。

かんとう  め  しん  べ   か   よし   うんぬん
關東へ召し進ず可き歟の由と云々。

参考@一條河崎觀音堂は、京都堀川一条にあったとされる感応寺。
参考A与州の母は、義経の母なので常盤御前は生きていた。
参考B
は、父違いの妹。父はC盛か一条長成かどちらかだろう。

現代語文治二年(1186)六月小十三日己未。当番の雑用宗廉が京都から到着しました。先日の六日に京都堀川一条の観音堂付近で、与州義経の母常磐御前と妹を見つけ出し捕えました。関東へ連行したもんでしょうかだとさ。

京都市上京区梶井町。貞観年間(859から877)に一演法師が建立と伝える一条河崎観音寺とも。一条京極東に鴨川右岸を河崎と言う。河崎はかつて法成寺をはじめとする寺院や邸宅への鴨川からの取水口と推定。明月記に「今月御幸川崎泉」とある。泉は取水口の風景では。義経の母と妹が頼朝の配下に捕らえられたのはこの付近。一演法師がここで仏の感応があって築いたので、感応寺と一演はもと奈良の薬師寺の僧、貞観6年に藤原良房の病をなおして権僧正に。明月記によれば、嘉禄2年(1226)には出雲路の僧が管理をしていた。養和元年(1181)に感応寺に参詣する記事がみられ、人々の信仰を集めていた。後に清和院に合併されたといわれる。中世は京都の北東の入り口で戦略上の拠点ともなり。太平記には「西山北山賀茂北野革堂河崎清水六角堂の門の下、鐘楼の中までも軍勢の宿らぬ所はなかりけり」。応仁の乱にも「五辻火、延焼鹿苑院塔相国寺河崎観音堂」。「細川方には一条より北は出雲路東は河崎と領す」とある。享禄4年(1531)焼失上京歴史情報エクスプローラーから

文治二年(1186)六月小十四日庚申。丹後内侍違例平愈。日來病惱之間。二品及御立願之處。今日聊御安堵云々。

読下し                たんごのないし いれい へいゆ
文治二年(1186)六月小十四日庚申。丹後内侍が違例@平愈Aす。

ひごろびょうのうのかん  にほんごりゅうがん  およ  のところ  きょういささ  ごあんど    うんぬん
日來病惱之間、二品御立願Bに及ぶ之處、今日聊か御安堵すと云々。

参考@違例は、例に違うで、普段ではない。つまり病気。
参考A平愈は、平は普段の通り。愈はいえる、治る。治って普通に戻った。
参考B立願は、願(がん)を立てる。願掛けをする。

現代語文治二年(1186)六月小十四日庚申。比企尼の娘で藤九郎盛長の妻である丹後内侍の病が治りました。ここのところ具合が悪くて、頼朝様は願掛けをして祈っておられたので、今日、多少ほっとされておられましたとさ。

文治二年(1186)六月小十五日辛酉。安樂寺別當安能僧都。依有同意平家之聞。欲被改替。二品所令憤申給也。珍全望申之。於京都當時有其沙汰。而安能潜進使。属藤判官代邦通。陳申子細。寺務之間興隆事。并當寺務事付權門不可濫望之由。稱有證文。進永久起請。保延宣旨状等云々。今日參着關東也。
    安能寺務後始置佛神事
 一 建立瓦葺二階一間四面經藏一宇
 一 毎日調味御供事
  古來無此事。
 一 建立六間四面御供所屋一宇〔次々屋并六宇〕
 一 於寳前。勤修長日尊勝護摩事
 一 同於寳前。崛請十口僧侶。毎月一萬巻觀音經轉讀事。同像一萬躰摺供養事
  毎日宛一千躰。以毎月十八日供養之
 一 同於寳前。崛請持經者毎日令轉讀法華經一部事
 一 同於寳前以寺僧三口長日令轉讀大般若經事
  已上三ケ事奉祈 上皇御願。
 一 同於寳前毎月廿五日 天神御月忌。崛碩學八口勤修八講事
  件御月忌。元者轉讀阿弥陀經許也。
 一 毎月崛十口僧侶一字三礼令書冩如法經納銅筒奉篭寳殿事
 一 寺内諸社御燈奉供事
 一 北野宮寺社等供夜燈事
  已上。拝任之後。以信心所勤行也。
  自往古被始置恒例臨時大小佛神事。法會祭礼。連月連日之勤。日夜燈油佛聖供神供人供衣食供料田。一々無退轉。不及注進之。
  此三箇年。爲武士等被打止〔天〕一々断絶。寺僧神人上下數百人之輩。拭悲涙迷山野云々。
 安樂寺別當濫望人義絶状
   爲安樂寺別當濫望背氏擧依起大衆義絶事
 右。背父命者非子道。背氏擧者非氏人。然者在殷〔在良子〕不可爲子也。嚴實〔是綱子〕不可爲氏人。
 天神御起請有限。任氏擧次第所補任也。今背氏擧起大衆之輩。公家可禁制。氏人可義絶之状如件。
   永久六年正月十二日                 氏長者式部大輔菅原在良
 右弁官下太宰府
   應任起請文停止背氏人進止假事於權勢濫望安樂寺別當輩事
 右。得彼寺在京氏人等去二月十九日解状偁。去大治年中。進納 北野聖廟起請文偁。可停止稱氏僧背氏人以貴所威濫望安樂寺別當職事。右件寺者。 天滿天神御終焉之地也。桑梓松栢。尚以可崇。氏擧寺官誰以相妨。至于別當職。氏僧中推其器量。擇其性。以六年爲一任。次第擧補。其來尚〔矣〕。而世及澆末。人多貪婪。在々禪侶。面々濫望。貪兮望者。性情惡逆。行能共闕之輩也。以卑自衒之故焉。直兮待者。法器相備。年臈老大之人也。守次不擧之故耳。謂彼云此。如舊如前。偏隨氏之擧奏者。宜叶神之素意也。何啻貪一旦之名利。忝可黷累祖之廣謀哉。所謂師子中虫如食師子歟。就中去大治年中。僧定祐恣巧謀計。横致濫望。難背權貴之命。憖薦擧之状不能固辞。偏仰廟榮之處。二離未墜。吾氏無絶。定祐忽以入滅。信永猶在寺務。當于彼時也。登觸事觸境。多凶多恠。是則縡雖出意表。徴獨蒙身上歟。亭屋忽爲灰燼。身躰久沈病痾。倩思此事。偏感彼咎。伏願 靈廟。明垂冥察。自今以後。有蔑爾氏人之許否。暗以豪貴之權威。不測涯分。若致濫望之輩者。高振靈威。立与冥罸。内則 天神必加呵責之誡。外亦氏人永断親族之義。然則遂大業之人宜守此状。企濫望之輩莫致其擧。縱雖受末族。縱登崇班。自非儒者。不可知家事。明誡炳焉。于今不朽。請以一言之呈信。將爲万代之炳誡。仍起請如件者。望請 天裁。任件起請文。早被下 宣旨。將仰敬神之政令。俾断非據之濫望者。權中納言藤原朝臣成通宣。奉 勅。依請者。府宜承知依宣行之。
   保延七年六月日                    大史小槻宿祢〔在判〕
 右中弁源朝臣〔在判〕

読下し               あんらくじ べっとう あのうそうづ    へいけ  どういのきこえあ     よつ   かいたいされ   ほつ
文治二年(1186)六月小十五日辛酉。安樂寺@別當安能僧都、平家に同意之聞有るに依て、改替被んと欲す。

にほんいか  もう  せし  たま ところなり  ちんぜんこれ のぞ もう    きょうと  をい   とうじ そ    さた あ
二品憤り申さ令め給ふ所也。珍全之を望み申し、京都に於て當時其の沙汰有り。

しか    あのう ひそか つか   すす   とうのほうがんだいくにみち ぞく   しさい  ちん  もう
而るに安能潜に使いを進め、藤判官代邦通に属し、子細を陳じ申す。

 じむ  のかんこうりゅう ことなら    とうじむ   ことけんもん  ふ  らんぼう   べからずのよし  しょうもんあ    しょう
寺務之間興隆の事并びに當寺務の事權門に付し濫望Bす不可之由、證文有りと稱し、

えいきゅう きしょう  ほうえん せんじじょうなど  しん   うんぬん  きょう かんとう  さんちゃく   なり
永久の起請・保延の宣旨状等を進ずと云々。今日關東に參着する也。

参考@安楽寺は、大宰府天満宮の菅原道真廟所。
参考A安能は、菅原家で源平藤橘の橘一族。  ┌是綱─厳実
                  菅原道真┴在良┬在殷
                         ├信永
                         ├善弘─在長─
安能(現別当)
                         └為恒─
珍全(別当職を望んで安能を追い出そうと画策している)
参考B濫望は、身分をわきまえず濫りに望む。

  あのう  じむ  のち  はじ   ぶっしん  お   こと
 安能寺務の後、始めて佛神を置くC

参考C始めて佛神を置くは、今までは菅原道真一人を祀っていた。

  ひとつ かわらぶきにかいいっけんしめん きょうぞういちう  こんりゅう
 一 瓦葺二階一間四面の經藏一宇を建立す

  ひとつ まいにち ごく   ちょうみ   こと
 一 毎日御供を調味するD

     こらいかく  ことな
  古來此の事無し。

参考D御供を調味するは、祭神の菅原道真に食事を捧げる。

  ひとつ ろっけんしめん   ごくしょや  いちう 〔つぎつぎ おくなら    ろくう〕    こんりゅう
 一 六間四面の御供所屋一宇〔次々の屋并びに六宇〕を建立

  ひとつ ほうぜん をい   ちょうじつ そんしょうごま  かんじゅ  こと
 一 寳前に於て 長日の尊勝護摩を勤修の事

  ひとつ おな    ほうぜん  をい    じっく  そうりょくっしょう      まいつきいちまんがん かんのんきょう てんどく こと おな   ぞういちまんたい すりくよう  こと
 一 同じく寳前に於て 十口の僧侶屈請Eして 毎月一萬巻の觀音經を轉讀の事 同じく像一萬躰の摺供養の事

    まいつきいっせんたい あ    まいつきじうはちにち もつ これ  くよう
  毎日一千躰を宛て 毎月十八日を以て之を供養す

参考E屈請は、屈み込むの意で、跪く(ひざまずく)と訳す。

  ひとつ おな   ほうぜん  をい    じけいしゃ   くっしょう   まいにちほけきょういちぶ  てんどくせし  こと
 一 同じく寳前に於て 持經者Fを屈請して毎日法華經一部を轉讀令む事

参考F持経者は、経を手に持つ者で、毎日お経を読んでいる人。

  ひとつ おな   ほうぜん  をい    じそうみくち   もつ  ちょうじつ だいはんやきょう てんどくせし  こと
 一 同じく寳前に於て 寺僧三口を以て長日の大般若經を轉讀令む事

     いじょうさんかじ   じょうこう ごがん  いの たてまつ
  已上三ケ事、上皇の御願を祈り奉る。

  ひとつ おな  ほうぜん  をい    まいつきにじうごにち てんじん  おんつきいみ せきがく はっく  くつ  はっこう ごんじゅ  こと
 一 同じく寳前に於て 毎月廿五日 天神Gの御月忌 碩學H八口を屈し八講Iを勤修の事

    くだん おんつきいみ もとは あみだきょう  てんどくばか なり
  件の御月忌 元者阿弥陀經の轉讀許り也。

参考G天神は、菅原道真で903年2月25日に亡くなっている。
参考H碩學は、偉いお坊さん。
参考I八講は、法華八講の略で、法華經八巻を八座に分け、朝夕一座ずつ四日間で講ずる法会。

  ひとつ まいつきじっく  そうりょ  くつ    いちじさんれい にょほうきょう  しょしゃせし どうづつ おさ  ほうでん   こ たてまつ こと
 一 毎月十口の僧侶を屈し 一字三礼し如法經を書冩令め銅筒に納め寳殿に篭め奉る事

  ひとつ じない  しょしゃ  ごとう   こう たてまつ こと
 一 寺内の諸社の御燈を供じ奉る事

  ひとつ きたのぐうじしゃなど    やとう   こう    こと
 一 北野宮寺社等に夜燈を供じる事

    いじょう  はいにんののち  しんじん もつ  ごんぎょう  ところなり
  已上、拝任之後、信心を以て勤行する所也。

    おうこ よ   はじめおか  こうれい  りんじ  だいしょう ぶっしん  こと  ほうえさいれい れんげつれんじつのつと
  往古自り始置被る恒例・臨時の大小の佛神の事、法會祭礼、連月連日之勤め、

    にちや   とうゆ   ぶっしょうぐ  しんぐ   じんく   いじきぐ  りょうでん  ひとつひとつ たいてんな  これ  ちゅう しん   およばず
  日夜の燈油、佛聖供、神供、人供、衣食供、料田、一々に退轉無し。之を注し進ずに不及。

     こ   さんかねん  ぶしら   ため  うちどめられ 〔て〕  いちいちだんぜつ   じそう  じにん  じょうげすうひゃくにんのやから ひるい ぬぐ  さんや  まよ  うんぬん
  此の三箇年、武士等の爲に打止被〔天〕一々断絶す。寺僧・神人、上下數百人之輩、悲涙を拭ひ山野に迷うと云々。

現代語文治二年(1186)六月小十五日辛酉。安楽寺(大宰府天満宮)長官の安能僧都は、平家に加担したと云われているので、交代させようと頼朝様が怒って申されているのです。珍全がそれを望んで告げ口をしたので、京都で現在その措置がありました。それなので、安能は内緒で使者を大和判官代邦道に頼んで、詳しいことを弁解してきました。「寺に努めているので、仏教を盛んにすることや、寺の管理者などについて有力者に頼んで濫りに望んだりされて横取りされないようにした証文があります。」と云って、永久年間(1113-18)の鳥羽天皇の起請文や保延年間の(1135-41)崇徳天皇からの文書の、写しを送ってきましたとさ。今日関東に到着したそうです。

     安能の寺における経過について、初めて仏や神を置いた時の事
 一つ 瓦葺の二階建てに見える裳腰付一間四方のお経堂一つを建立した
 一つ 毎日神や仏への食事を捧げること
   昔はこういうことはしなかった
 一つ 六間四面の台所を一軒〔六棟が一つに繋がった建物〕を建てました。
 一つ 神前で、一日中続ける尊勝経の護摩焚きを勤めること
 一つ 同様に神前で、住人の僧侶が跪いて、毎月一万巻の観音経を擦り読みの轉讀する事 同様に観音像を一万回撫でる事
   毎日一千回撫ぜて、毎月十八日に供養の法要をする事
 一つ 同様に神前で、毎日お経を読んでいる持経者が跪いて、毎日法華経一部を擦り読みの轉讀する事
 一つ 同様に神前で、この寺の僧侶三人で一日中続ける大般若経を擦り読みの轉讀する事
   以上の三つの事は、鳥羽上皇の御祈願をお祈りするためです。
 一つ 同様に神前で、毎月二十五日は、天神様の命日なので、偉い僧侶八人が跪いて、法華經八巻を八座に分け、朝夕四日間で講ずる
   今までの命日供養、元は阿弥陀経の擦り読みの轉讀だけでした。
 一つ 毎月住人の僧侶が跪いて、一文字書くごとに三度礼をする仏教規則どおりの写経をして、銅の筒に納めて神殿に封じる事
 一つ 安楽寺境内の神社の灯篭に火を灯す事
 一つ 北野天満宮等に常夜の灯をつける事
    以上が、私が任務についてから、特に信仰心を持って勤めたことです。
    昔っから始めていた恒例や臨時の大小の神仏の行事、仏教の式典の法会、神様の祭礼、月々のお勤め、日々のお勤め、日夜に上げるお燈明の油、仏様へのお供え、神様へのお供え、道真公へのお供え、衣と食事のお供え、供養のための年貢、どれ一つをとっても怠慢はありません。この一つ一つは書いて出す程特別なことではなく、当たり前のことです。この三年間は、平家の都落ちの武士達に横取り邪魔されて、どれもこれも途切れてしまいました。寺の僧侶達、神社の神官達、身分の上下あわせて数百人の人たちが、嘆き悲しんで居場所を失い、山野に浪々していたんだとさ。

  あんらくじべっとう らんぼうにんぎぜつ じょう
 安樂寺別當濫望人義絶の状

      あんらくじべっとう らんぼう  な    うじ きょ  そむ    だいしゅ  おこ    よつ  ぎぜつ  こと
   安樂寺別當濫望を爲し、氏の擧を背き、大衆を起すに依て義絶の事

  みぎ ちち  めい  そむ もの こ  みち あらず  うじ  きょ  そむ  もの  うじびと あらず
 右、父の命に背く者子の道に非。氏の擧に背く者、氏人に非。

  しからば  ありかど 〔ありよし  こ〕   こたるべからずなり  がんじつ〔これつな  こ〕   うじびとたるべからず
 然者、在殷〔在良の子〕は子爲不可也。嚴實〔是綱の子〕は氏人爲不可。

  てんじん  ごきしょうかぎ  あ    うじ  きょ  まか  しだい  ぶにん    ところなり
 天神の御起請限り有り。氏の擧に任せ次第に補任する所也。

  いまうじ  きょ  そむ  だいしゅ  おこ のやから  こうけ    きんせいすべ  うじびちぎぜつすべ のじょうくだん  ごと
 今氏の擧に背き大衆を起す之輩、公家より禁制可し。氏人義絶可き之状件の如し。

      えいきゅうろくねん しょうがつじうににち                               うじのちょうじゃしきぶたいふすがわらありよし
   永久六年@正月十二日                 氏長者式部大輔菅原在良A参考@永久六年は、1118で鳥羽天皇の時代。
参考A菅原在良は、菅原在良(従四位上・式部大輔・贈従三位)(1041年 - 1121年)を祖とする堂上家から唐橋家(からはしけ)は起こる。ウィキペディアから
参考菅原家は、源平藤橘の橘一族。   ┌是綱─厳実氏人爲不可
               菅原道真┴
在良┬在殷子爲不可
                      ├信永
                      ├善弘─在長─
安能(現別当)
                      └為恒─
珍全(別当職を望んで安能を追い出そうと画策している)

 安樂寺長官の別当職をみだりに望む人を橘一族から放り出す手紙
  安樂寺長官の別当職をみだりに望んで、氏の長者の推挙を得ずに、僧兵を使って就任運動をしたので、橘一族から締め出すこと
 右の事は、例えば父の命令に背くようなことは、子供としての正しい道から外れている。氏の長者の推挙に逆らうものは、氏の一族とは認めない。先祖の天神様菅原道真公の命令書に決められているのは、氏の長者の推薦によって、兄弟順に任務するようになっています。それを氏の長者の推薦を得ずに僧兵を使って就任運動をするような奴は、京都朝廷で止めさせてください。橘一族から締め出すことはこの通りであります。
   永久六年(1118)正月十二日           橘一族の氏の長者の式部大輔菅原在良

   うべんかんくだ  だざいふ
 右弁官下す太宰府

      まさ  きちょうもん  まか  うじびと  しんじ  そむ  ことをけんせい  か  らんぼう    あんらくじべっとう  やから ちょうじ    こと
   應に起請文に任せ氏人の進止を背き事於權勢に假り濫望する安樂寺別當の輩を停止する事

  みぎ  か   てら  ざいきょう うじびとら  さんぬ にがつじうくにち げじょう   え  いは
 右、彼の寺の在京の氏人等、去る二月十九日解状@を得て偁く。

  さんぬ だいじねんちゅう  きたの せいびょう しんのう    きしょうもん  いは    じそう   しょう うじびと  そむ
 去る大治年中A、北野の聖廟に進納する起請文に偁く。氏僧Bと稱し氏人に背く。

  うきしょ  い  もつ   らんぼう     あんらくじべっとうしき ちょうすべ  こと  みぎくだん てらは  てんまんてんじんごしゅうえのちなり
 貴所の威を以て濫望する安樂寺別當職を停止可き事。右件の寺者、天滿天神御終焉之地也。

  そうししょうひゃく  なおもつ  あが  べ    うじ  きょ  じかん たれ もつ  あいさまた
 桑梓松栢C、尚以て崇む可し。氏の擧す寺官誰か以て相妨げん。

  べっとうしきに いた       うじそう  なま そ  きりょう   お      そ  しょう  えら   ろくねん  もつ  いちにん  な
 別當職于至りては、氏僧の中其の器量Dを推し、其の性を擇び、六年を以て一任と爲す。

   しだい  きょぶ     そ   きた   ひさ   〔と〕      しか  よ ぎゅうまつ およ    ひととんらんおお   ざいざい ぜんりょ  めんめん  らんぼう
 次第に擧補す。其の來るは尚し〔矣〕。而るに世澆末に及び、人貪婪多し。在々の禪侶、面々に濫望す。

  むさぼ て のぞ もの しょうじょうあくぎゃく ぎょうのうとも かく のやからなり  ひ  もつ みづか てら のゆえなり
 貪り兮望む者、性情惡逆、行能共に闕る之輩也。卑を以て自ら衒う之故焉。

  なお  た ま  もの  ほうきあいそな    ねんろうろうだいのひとなり  ついで まも きょせずのゆえ         み
 直し兮待つ者、法器相備へ、年臈老大之人也。次を守り擧不之故ならくの耳。

   か  い   これ  い   むかし ごと  まえ  ごと    ひとへ うじのきょそう  したが ば   よろ    かみの そい   かな なり
 彼と謂ひ此と云ひ、舊の如く前の如く、偏に氏之擧奏に隨へ者、宜しく神之素意に叶う也。

  なん  ただ  いったんのめいり  むさぼ  ことごと るいそ の こうぼう  けが  べ  や  いはゆる  ししちゅう  むし しし   く      ごと  か
 何ぞ啻に一旦之名利を貪り、忝く累祖之廣謀を黷す可き哉。所謂、師子中の虫師子を食らうが如し歟。

  なかんづく  さんぬ だいじねんちゅう そうじょうゆうほしいまま ぼうけい たく よこしま らんぼう いた
 就中に、去る大治年中、僧定祐恣に謀計を巧み、横に濫望を致す。

  ごんきのめい   すむ  がた  なまじい すいきょのじょう こじ     あたはず  ひとへ びょうえい あお  のところ  にり  いま  お
 權貴之命に背き難く、憖に薦擧之状固辞するに不能。偏に廟榮を仰ぐE之處、二離F未だ墜ちず。

  わがうじ た        な    じょうゆうたちま もつ  にゅうめつ   しんえいなお じむ  あ  かのときにあた  なり
 吾氏絶えること無く。定祐忽ち以て入滅す。信永猶寺務に在り。彼時于當る也。

  みなこと  ふ  きょう  ふ  きょうおお  かいおお   これすなは こといひょう  いで  いへど   せめひと  み  うえ  こうむ  か
 登事に觸れ境に觸れ、凶多く恠多し。是則ち縡意表に出ると雖も、徴獨り身の上に蒙る歟。

  ていおくたちまち かいじん な   しんたいひさ   びょうあ  しず
 亭屋忽に灰燼と爲し、身躰久しく病痾に沈む。

  つらつ かく  こと  おも   ひとへ か  はじ  かん    れいびょう ふく  ねが   あきら   めいさつ  た
 倩ら此の事を思ひ、偏に彼の咎を感じ、靈廟に伏し願い、明かに冥察を垂れるG

  いまよ    いご   うじびちのきょひ   べつじょあ       あん   ごうきのけんい   もつ    がいぶん  はか  ず   も  らんぼうのこと  いた     は
 今自り以後、氏人之許否を蔑爾有りてH、暗に豪貴之權威を以て、涯分を測ら不I、若し濫望之輩に致りて者、

  たか  れいい  ふる   たち めいばつ  あた    うち すなは てんじんかなら かしゃくのせめ くは    そと  またうじびとなが  しんぞくのぎ   た
 高く靈威を振い、立て冥罸を与う。内に則ち天神必ず呵責之誡を加へ、外に亦氏人永く親族之義を断つ。

  しから すなは たいぎょう と    のひとよろ  かく  じょう まも    らんぼう  くはだ のやから そ きょ いた      な
 然ば則ち大業を遂ぐる之人宜く此の状を守り、濫望を企つ之輩其の擧を致すこと莫し。

  たと  まつぞく  う       いへど   たと  すうはん  のぼ              みづか じゅしゃ あらず   け  こと  し  べからず
 縱い末族を受けるJと雖も、縱い崇班に登るKといへども、自ら儒者に非L、家の事を知る不可M

  みょうせい へいえん     いまにくちず  しょういちごんのていしん  もつ    まさ  ばんだいのへいせい な
 明誡N炳焉Oとして、今于朽不。請一言之呈信を以て、將に万代之炳誡と爲す。

  よつ  きしょうくだん ごと    ば   てんさい  のぞ  う    くだん きしょうもん まか    はや  せんじ  くだされ  まさ けいしんのせいれい  あお
 仍て起請件の如くん者、天裁を望み請け、件の起請文に任せ、早く宣旨を下被、將に敬神之政令を仰ぎ、

  いやし   ひりょのらんぼう   た    てへ      ごんのちゅうなごんふじわらあそんなりみち せん
 俾くも非據之濫望を断たん者れば、權中納言藤原朝臣成通P宣す。

  ちょく  ほう   こい  よつ  てへ      ふ よろ    しょうち  せん  よつ  これ  おこな
 勅を奉じ、請に依て者れば、府宜しく承知し宣に依て之を行う。

      ほうえんしちねん ろくがつ にち                                      だいさかんこつきのすくね 〔ざいはん〕
   保延七Q年六月日                    大史小槻宿祢〔在判〕

  みぎちゅうべんみなもとあそん〔ざいはん〕
 右中弁源朝臣R〔在判〕

参考@解状は、身分の下のものから上のものへの上申書。逆に上から下へは符。例は太政官符。同格へは牒。
参考A大治年中は、1126-1131で崇徳天皇の時代だが、実権は大治四年(1129)まで白河上皇が、その後は鳥羽上皇が握っている。
参考B氏僧は、橘一族内の僧侶。
参考C
桑梓松栢は、一般的な木の名前を並べているので、意味としては「境内では、ただの木でさえも崇め奉るべきだ」。
参考D器量は、才能や実力。
参考E廟榮を仰ぐは、天皇に頼んだ。
参考F
二離は、出離と入離。又自離と他離。=橘家の権威。
参考G明かに冥察を垂れるは、はっきりとした判決を下す。
参考H蔑爾有りては、馬鹿にして。
参考I
涯分を測ら不は、分際も考えずに。
参考J
末族を受けるは、一族の端っこの奴でも。
参考K
崇班に登るは、出世をする。
参考L儒者に非は、儒教の勉強をしていない。
参考M家の事を知る不可は、橘家の事を知るはずもない。
考N明誡は、道真が残した訓辞。
参考O
炳焉は、はっきりとしている。
参考P權中納言藤原朝臣成通は、坊門権大納言宗通の四男。
参考Q
保延七年は、1141でこの年鳥羽法皇の意により崇徳天皇退位。近衛天皇即位。七月十日永治と改元。
参考R右中弁源朝臣は、醍醐源氏俊雅で大納言能俊の子。

 右弁官が、これに回答する大宰府へ
 実際に、この誓約書の通りに、橘氏の氏の長者の命令を聞かないで、有力者に頼んで、濫りに安楽寺長官の別当職を望んだりする連中を止めさせること。
以上、その寺の京都に住む菅原一族達は、先日の二月十九日の上申する機会を得て云うことには、昔の大治年中(1126-1131)崇徳天皇の時代に、北野天満宮へ納めた誓いの文章に、橘一族の僧だと言って、氏の長者の意向に逆らって、有力者からの後ろ盾を使って、濫りに望んでいる安楽寺長官の別当職を止めさせること。この安楽寺は菅原道真公の終焉の地であります。ですから、桑、梓、松、柏と云ったただの木でさえも、崇め奉らなければならないのに、氏の長者が推薦した寺の管理者を誰が邪魔をできましょうか。長官の別当職に至っては、一族の坊さん達の中から、それなりに才能実力を持っている者を推薦して、性格の良い者を選んで、六年間を任期とします。そして系図の順番に任命されます。その通りに永くやってきましたが、世も末となり、人は皆卑しくなって、殆どの坊さんが、勝手に濫りに望むようになりました。欲張って望む者は、性格の悪い反抗者なので、修行も能力もない者に限って、卑しくも自分をひけらかすものだから。正しく順番を待っている人は、知識も器量も持っていて、心の雄大な人ですから、順番を守って、自分を無理に推薦するようなことはしません。あれもこれも昔どおりに、ちゃんと氏の長者の推薦どおりにするのが、一番神の意思に沿っていることです。それを一時の名声を望んで、先祖伝来の広い心遣いを汚すようなことをするんだ。それは要するに獅子の体に住み着いている虫が、獅子の体を中から食べて共に滅びてしまう「獅子身中の虫」といっしょだ。

特に、昔の大治年中(1126-1131)崇徳天皇の時代の僧「定祐」は、思うままに悪巧みをたくらんで、無謀にも濫りに望みました。権力者の命令には逆らい難いので、いやいやながらも推薦状の提出を断ることも出来ませんでした。熱心に崇徳天皇に頼んだので、橘家の権威は落ちずにすみ、我一族は絶えずに済みました。定祐はすぐに死んでしまいましたが、信永はまだ寺の管理者でいます。丁度あの時と同じです。こういうふうに何かにつけて、悪いことや怪しいことが多くなり、予想外の事が起きますけど、その責めは一人の身の上に来るのでしょうか。家屋敷は火災に見舞われ灰となり、体は長い病に置かされてしまいました。よくこの事柄を考えてみて、無理な推薦をした事を恥と考えて、道真公の霊廟にお願いすればはっきりとした判決を下してくれるでしょう。今から以降は、氏の長者の許すか否かの判断を馬鹿にして、裏で工作をして高貴な人の権威を利用して、分際も考えずに、もし濫りに望む者には、高く靈威を振い、立て冥罸を与う。内部的には天神様が必ず罰を与え、外部的には氏の長者は永遠に親族として扱わないでしょう。そう云う訳で、大業を遂ぐる之人宜くこの手紙の内容を守って、濫りに望をたくらむ奴を推薦することはありません。たとえ、一族の末端に居る人でも、たとえ出世を遂げた人でも、自分は儒学を勉強したわけでもないので、橘家のこのことを知るはずも有りません。道真公の残した訓辞にはっきりとしていて、今でも生きております。たった一通の手紙でも、まさに永遠の諌めであります。そこで、この誓いの文章の通りでありますので、天皇のご裁決を希望して、この誓いの文章に合わせた天皇の命令である宣旨をいただき、神の末裔である天皇とにお願いをして、とんでもない横槍の進入をさせないようにしたいので、権中納言藤原成通が宣旨を出します。天皇のお言葉を聴いて、望みに従って出す文書を承知されたので、これを実行する。
    保延七年(1141)六月日                    大史小槻宿祢隆職〔署名〕
 右中弁源朝臣〔署名〕

文治二年(1186)六月小十六日壬戌。二品并御臺所渡御比企尼家。此所樹陰爲納凉之地。其上瓜園有興之由。依令申也。御遊宴終日云々。

読下し               にほんなら   みだいどころ ひきのあま いえ  わた  たま   こ  ところ  じゅいんのうりょうのちたり
文治二年(1186)六月小十六日壬戌。二品并びに御臺所比企尼が家@へ渡り御う。此の所の樹陰納凉之地爲。

そ  うえ  くわえんきょうあ   のよし   もう  せし    よつ  なり ごゆうえんしゅうじつ  うんぬん
其の上、瓜園興有る之由、申さ令むに依て也。御遊宴終日と云々。

参考@比企尼が家は、鎌倉市大町一丁目15の妙本寺の地とされる。但し、北鎌倉の瓜ケ谷だと「鎌倉攬勝考」にあるが、間違いであろう。

現代語文治二年(1186)六月小十六日壬戌。頼朝様と奥様とが比企尼の屋敷へお出かけになられました。その所は木が繁っていて涼しい場所なのです。しかもその上、瓜園の瓜が食べごろですよと言われたからです。一日中お遊びになられましたとさ。

文治二年(1186)六月小十七日癸亥。梶原刑部丞朝景自京都進使者。執申内大臣家〔實定〕訴事。是家領等爲武士被押妨事也。所謂越前國北條殿眼代越後介高成妨國務。般若野庄藤内朝宗。瀬高庄藤内遠景。大嶋庄土肥次郎實平。三上庄佐々木三郎秀綱。各或三年。或一兩年。煩所務抑乃貢云々。二品殊令驚給。速可止妨之由。面々可被仰含之由云々。

読下し               かじわらのぎょうぶのじょうともかげ きょうとよ   ししゃ  すす   ないだいじんけ 〔さねさだ〕 うった   こと    と   もう
文治二年(1186)六月小十七日癸亥。 梶原刑部丞朝景@、京都自り使者を進め、内大臣家〔實定〕訴への事を執り申す。

これ  かりょうら ぶし  ため  おうぼうさる   ことなり  いはゆる えちぜんのくに ほうじょうどの もくだい えちごのすけたかしげ  こくむ  さまた
是、家領等武士の爲に押妨被る事也。所謂、越前國Aの北條殿が眼代 越後介高成B、國務を妨ぐ。

はんにゃのしょう  とうないともむね  せだかのしょう とうないとおかげ  おおしましょう  といのじろうさねひら  みかみのしょう  ささきのさぶろうひでつな
般若野庄Cは藤内朝宗。瀬高庄Dは 藤内遠景。大嶋庄Eは土肥次郎實平。三上庄Fは佐々木三郎秀綱G

おのおの ある  さんねん  ある   いちりょうねん  しょむ  わずら  のうぐ  おさ      うんぬん
各、或ひは三年、或ひは一兩年。所務を煩はし乃貢を抑えると云々。

にほんこと  おどろ せし  たま   すみやか さまた   や    べ  のよし  めんめん おお  ふく  らる  べ   のよし  うんぬん
二品殊に驚か令め給ひ、速に妨げを止める可し之由、面々に仰せ含め被る可き之由と云々。

参考@梶原朝景は、梶原平三景時の弟。京都駐在のようだ。
参考A
越前国は、知行国主が徳大寺実定で国司を任命する権限を持つ。これは後白河法皇が任料を取って(売官・成功)、この権限を与えた。
参考B越後介高成は、11巻建久2年11月12日条に、北条殿室家(牧の方)の外甥とある。
参考C般若野庄は、旧越中国礪波郡般若野村。後に東礪波郡般若村・東般若村・般若野村・南北般若村で、現高岡市南部と砺波市東部。知行国主は実定。
参考D瀬高庄は、旧筑後国山門郡上下瀬高。元山門郡瀬高町で現在みやま市瀬高町上庄・下庄。
参考E大嶋庄は、岡山県倉敷市大島らしい。
参考F三上庄は、旧近江国野洲郡山出・東林寺・大申小路・稲端・前田・小中小路・妙光寺の七村。現在の滋賀県の野洲市三上に大中小路・前田等の小字あり。隣は大字妙光寺。
参考G佐々木三郎秀綱は、本佐々木成綱の子。阿倍氏の系統で本佐々木と云い安土の佐々貴神社神主。

現代語文治二年(1186)六月小十七日癸亥。梶原刑部丞朝景が京都から使いをよこし、内大臣の徳大寺実定が訴えている事を取次ぎました。その内容は、自分の荘園を武士達が横取りしているとの事です。それは、越前国は北条時政殿の代官の越後介高成が国衙領分を横領しました。般若野庄は比企藤内朝宗。瀬高庄は天野藤内遠景。大島庄は土肥次郎実平。三上庄は佐々木三郎秀綱。それぞれに三年分や二年分も、実定の権限を侵して年貢を横取りしています。これを聞いて頼朝様は、とても驚かれまして、直ぐに収納役の邪魔を止めるように、それぞれ一人一人に良く言って聞かせましたとさ。

文治二年(1186)六月小十八日甲子。水尾谷藤七爲使節上洛。是去二日入道前大納言〔頼盛〕薨卒之間。爲令訪彼舊跡也云々。

読下し               みおやのとうしち  しせつ  な  じょうらく
文治二年(1186)六月小十八日甲子。水尾谷藤七@使節と爲し上洛す。

これ さんぬ ふつか にゅうどうさきのだいなごん〔よりもり〕  こうそつのかん   か  きゅうせき  とぶら  せし   ためなり  うんぬん
是、去る二日 入道前大納言 〔頼盛〕薨卒之間、彼の舊跡を訪は令めん爲也と云々。

参考@水尾谷藤七は、水尾谷十郎広徳の関係者で、埼玉県比企郡川島町表76広徳寺が館跡と云われ、水堀や空堀が現存。小字名は三保谷。

現代語文治二年(1186)六月小十八日甲子。水尾谷藤七が派遣員として京都へ向かいました。これは、先の二日に池大納言平頼盛様がなくなられたので、その弔問に代理するためなんだそうな。

文治二年(1186)六月小廿一日丁卯。爲搜尋求行家義經隱居所々。於畿内近國。被補守護地頭之處。其輩寄事於兵粮。譴責累日。万民爲之含愁訴。諸國依此事令凋弊云々。仍雖可被待義經左右。有人愁歟。諸國守護武士并地頭等早可停止。但於近國没官跡者。不可然之由。二品被申京都。以師中納言。可奏聞之旨。被付御書於廷尉公朝歸洛便宜。又因幡前司廣元爲使節所上洛也。爲天下澄C。被下 院宣。
 糺断非道。又可停止武士濫行國々事
   山城國    大和〃    和泉〃    河内〃    攝津〃    伊賀〃
   伊勢〃    尾張〃    近江〃    美濃〃    飛騨〃    丹波〃
   丹後〃    但馬〃    因幡〃    伯耆〃    出雲〃    石見〃
   播磨〃    美作〃    備前〃    備後〃    備中〃    安藝〃
   周防〃    長門〃    紀伊〃    若狹〃    越前〃    加賀〃
   能登〃    越中〃    淡路〃    伊豫〃    讃岐〃    阿波〃
   土佐〃
 右件卅七ケ國々。被下 院宣。糺定武士濫行方々之僻事。可被直非道於正理也。但鎭西九ケ國者。師中納言殿〔經房〕御沙汰也。然者爲件御進止被鎭濫行。可被直僻事也。又於伊勢國者。住人挾梟悪之心。已發謀反了。而件餘黨。尚以逆心不直候也。仍爲警衛其輩。令補其替之地頭候也。 抑又國々守護武士。神社佛寺以下諸人領。不帶頼朝下文。無由緒任自由押領之由。尤所驚思給候也。於今者被下 院宣於彼國々。被停止武士濫行方々僻事。可被澄C天下候也。凡不限伊勢國。謀叛人居住國々。凶徒之所帶跡ニハ。所令補地頭候也。然者庄園者本家領家所役。國衙者國役雜事。任先例可令勤仕之由。所令下知候也。各悉此状。公事爲先。令執行其職候ハンハ。何事如之候乎。若其中ニ。不用本家之事。不勤國衙役。偏以令致不當候ハン輩ヲハ。随被仰下候。可令加其誡候也。就中。武士等之中ニハ。頼朝モ不給候ヘハ。不知及候之所ヲ。或号人之寄附。或以無由緒之事。令押領所々。其數多候之由承候。尤被下 院宣。先可被直如此之僻事候也。又縱爲謀反人之所帶。令補地頭之條。雖有由緒。可停止之由。於被仰下候所々者。随仰可令停止候也。 院宣爭違背候哉。以此趣。可令奏達給之由。可令申師中納言殿也。
    文治二年六月廿一日                   御判

読下し               ゆきいえ よしつね いんきょ  しょしょ  さが  たず  もと    ため  きないきんごく  をい    しゅごぢとう  ぶさる   のところ
文治二年(1186)六月小廿一日丁卯。行家 義經の隱居の所々を搜し尋ね求めん爲、畿内近國に於て、守護地頭を補被る之處、

そ やからことをひょうろう   よ   けんせき ひ  かさ    ばんみんこれ ため しゅうそ  ふく    しょこく こ こと  よつ  ちょうへいせし    うんぬん
其の輩事於兵粮に寄せ、譴責日を累ね、万民之が爲に愁訴を含み、諸國此の事に依て凋弊令むと云々。

よつ よしつね   そう   またる   べ    いへど   ひと  うれ  あ     か   しょこくしゅご   ぶし なら     ぢとうら  はや  ちょうじすべ
仍て義經の左右を待被る可しと雖も、人の愁い有らん歟。諸國守護の武士并びに地頭等早く停止可し。

ただ  きんごく  ぼっかんあと  をい は   しか べからずのよし  にほんきょうと  もうされ  そちのちうなごん もつ   そうもうすべ  のむね
但し近國の没官跡に於て者、然る不可之由、二品京都へ申被、師中納言を以て、奏聞可し之旨、

おんしょを ていじょうきんとも きらく  びんぎ  ふせら    また  いなばぜんじひろもと しせつ  な  じょうらく  ところなり  てんかちょうせい  ためいんぜん  くださる
御書於廷尉公朝が歸洛の便宜に付被る。又、因幡前司廣元使節と爲し上洛する所也。天下澄Cの爲院宣を下被る。

現代語文治二年(1186)六月小二十一日丁卯。行家・義経の隠れている場所を探し出すために、京都とその近くの関西には、守護地頭を置きましたけど、その武士達は兵糧米を徴収すると理由をつけて、年貢の横取りをするので、人々はこれを苦しみ悲しみだと訴えが多くて、何処の国においてもおとろえ疲れているとの事だとさ。仕方が無いので、義経の決着を着いていないと待つべきなんだろうけど、人々が嘆いているので、諸国の守護の武士や地頭を撤退する。但し、関西の平家から取上げた領地では、そうはいかないと、頼朝様は京都朝廷へお申し出になり、師中納言吉田経房を通じて、後白河法皇に手紙を渡すように、検非違使大江公朝が京都へ帰るので、そのついでに預けました。又、因幡前司大江広元を派遣員として京都へ行かせます。世間を鎮めるために後白河法皇が院宣をよこしたからです。

   ひどう きゅうだん    また   ぶし  らんぎょう  ちょうじすべ くにぐに  こと
 非道を糺断し、又、武士の濫行を停止可き國々の事

      やましろのくに       やまとのくに       いずみのくに       かわちのくに       せっつのくに       いがのくに
   山城國    大和〃    和泉〃    河内〃    攝津〃    伊賀〃

      いせのくに         おわりのくに       おうみのくに        みののくに        ひだのくに        たんばのくに
   伊勢〃    尾張〃    近江〃    美濃〃    飛騨〃    丹波〃

      たんごのくに        たじまのくに       いなばのくに        ほうきのくに        いずものくに       いわみのくに
   丹後〃    但馬〃    因幡〃    伯耆〃    出雲〃    石見〃

      はりまのくに        みまさかのくに      びぜんのくに       びんごのくに        びっちゅうのくに     あきのくに
   播磨〃    美作〃    備前〃    備後〃    備中〃    安藝〃

      すおうのくに        ながとのくに       きいのくに         わかさのくに        えちぜんのくに      かがのくに
   周防〃    長門〃    紀伊〃    若狹〃    越前〃    加賀〃

      のとのくに         えちゅうのくに       あわじのくに        いよのくに          さぬきのくに        あわのくに
   能登〃    越中〃    淡路〃    伊豫〃    讃岐〃    阿波〃

      とさのくに
   土佐〃

 とんでもない事をしているのを調べて、武士の横取りを止めさせるべき国々

  山城國(京都府)  大和〃(奈良県)  和泉〃(大阪府)  河内〃(大阪府)  攝津〃(大阪府)   伊賀〃(三重県)
  伊勢〃(三重県)  尾張〃(愛知県)  近江〃(滋賀県)  美濃〃(岐阜県)  飛騨〃(岐阜県)   丹波〃(京都府)
  丹後〃(京都府)  但馬〃(兵庫県)  因幡〃(鳥取県)  伯耆〃(鳥取県)  出雲〃(島根県)   石見〃(島根県)
  播磨〃(兵庫県)  美作〃(岡山県)  備前〃(岡山県)  備後〃(広島県)  備中〃(岡山県)   安藝〃(広島県)
  周防〃(山口県)  長門〃(山口県)  紀伊〃(和歌山県) 若狹〃(福井県)  越前〃(福井県)   加賀〃(石川県)
  能登〃(石川県)  越中〃(富山県)  淡路〃(兵庫県)  伊豫〃(愛媛県)  讃岐〃(香川県)   阿波〃(徳島県)
  土佐〃(高知県)

参考                          能登
                           加賀    越中
     石見  出雲 伯耆  因幡 丹後 若狭  越前     飛騨
               美作     丹波 山城 近江   美濃
長門 周防 安芸 備後 備中 備前 播磨 摂津 河内 伊賀 伊勢 尾張
       伊予       讃岐   淡路    大和
             土佐     阿波     紀伊

  みぎ くだん さんじうしちか くにぐに いんぜん  くだされ  ぶし  らんぎょう  かたがたのひがごと  さだ  ただ   ひどう を せいり  なおさる  べ   なり
 右、件の卅七ケの國々。院宣を下被、武士の濫行、方々之僻事@を定め糺し、非道於正理に直被る可き也。

  ただ  ちんぜいきゅうかこくは そちのちうなごんどの おんさたなり  しからば くだん  ごしんじ  な らんぎょう  じずめられ  ひがごと  なおさる  べ   なり
 但し鎭西九ケ國者、師中納言殿の御沙汰也。然者、件の御進止と爲し濫行を鎭被、僻事を直被る可き也。

  また  いせのくに  をい  は  じゅうにん きょうあくのこころ さしはさ すで むほん はつ をはんぬ しか   くだん  よとう  なおもつ ぎゃくしん なおさずそうろうなり
 又、伊勢國に於て者、住人A梟悪之心を挾み、已に謀反を發し了。而るに件の餘黨、尚以て逆心を直不候也。

  よつ  そ  やから けいえい  ため  そ  かえのぢとう   ぶせし そうろうなり
 仍て其の輩を警衛の爲、其の替之地頭を補令め候也。

  そもそもまた くにぐにしゅご ぶし  じんじゃぶつじ いか しょにん りょう  よりとも  くだしぶみ たいさず  ゆいしょ な  じゆう  まか  おうりょう   のよし
 抑又、國々守護の武士、神社佛寺以下諸人の領、頼朝が下文を帶不、由緒無く自由Bに任せ押領する之由、

  もつと おどろ おぼ  たま そうろうところなり
 尤も驚き思し給ひ候所也。

  いま  をい は いんぜんを か  くにぐに  くだされ  ぶし  らんぎょう  かたがた ひがごと  ちょうじされ  てんか  ちょうせいさる  べ そうろうなり
 今に於て者院宣於彼の國々に下被、武士の濫行、方々の僻事を停止被、天下を澄C被る可く候也。

  およ  いせのくに  かぎらず  むほんきょじゅう くにぐに   きょうとの しょたいあとには   ぢとう  ぶせし そうろうところなり
 凡そ伊勢國に限不、謀叛人居住の國々、凶徒之所帶跡ニハ、地頭を補令め候所也。

  しからば しょうえんはほんけ  りょうけ  しょやく   こくがは   くにやくぞうじ   せんれい  まか  きんじせし  べ   のよし  げちせし そうろうところなり
 然者、庄園者本家、領家の所役、國衙者、國役雜事、先例に任せ勤仕令む可し之由、下知令め候所也。

  おのおの かく じょう つく    くじ   せん  な     そ  しき  しぎょうせし  そうらんわんは   なにごとこれ し  そうろうと
 各、此の状を悉し、公事を先と爲し、其の職を執行令め候ハンハ、何事之に如かず候乎。

  も  そ   なかに   ほんけのこと  もちいず   こくが  えく  つと  ず  ひとへ  もつ  ふとういた  せし そうらわんやからをば  おお  くだされそうろう したが
 若し其の中ニ、本家之事を用不、國衙の役を勤め不、偏に以て不當致さ令め候ハン輩ヲハ、仰せ下被候に随ひ、

  そ いさめ  くは  せし べ  そうろうなり  なかんづく    ぶしらのなかには   よりとももたまはざりそうらへば    しりおよばずそうろうのところを
 其の誡を加へ令む可く候也。就中に、武士等之中ニハ、頼朝モ給は不候ヘハC、知り及不候之所ヲ、

  ある     ひとののきふ  ごう     ある    ゆいしょな   のこと  もつ   おうりょうせし しょしょ  そ  かずおお そうろうのよしうけたまは そうろう
 或ひは人之寄附と号しD、或ひは由緒無き之事Eを以て、押領令む所々、其の數多く候之由承り候。

  もつと いんぜん くだされ  ま   かく  ごと  のひがごと  なおさる  べ  そうろうなり
 尤も院宣を下被、先ず此の如き之僻事を直被る可く候也。

  また  たと  むほんにんのしょたい  な     ぢとう  ぶせし  のじょう   ゆいしょあ    いへど   ちょうじすべ  のよし  おお くだされそうろうしょしょ をい は
 又、縱い謀反人之所帶と爲し、地頭を補令む之條、由緒有ると雖も、停止可き之由、仰せ下被候所々に於て者、

  おお    したが ちょうじせし べ そうろうなり いんぜんいかで いはい そうら   や
 仰せに随い停止令む可く候也。院宣爭か違背し候はん哉。

  かく おもむき もつ   そうたつせし  たま  べ   のよし そちのちうなごんどの もう  せし  べ  なり
 此の趣を以て、奏達令め給ふ可き之由、師中納言殿に申さ令む可き也。

        ぶんじにねんろくがつにじういちにち                                      ごはん
    文治二年六月廿一日                   御判

参考@僻事は、いけない事。
参考A伊勢國に於て者、住人は、伊勢平氏の残党。
参考B
自由は、勝手に。
参考C頼朝モ給は不候ヘハは、頼朝の下し文を出していない所は。
参考D人之寄附と号しは、誰かに貰ったと云って。
参考E由緒無き之事は、先祖代々伝えてきたと云う証拠が無い。

右の三十七の国では、後白河法皇の命令書院宣を出されて、武士達の横取りについて、あちこちのいけない事を調べて直させ、おかしな行いを正統な手続きに直して下さい。但し、九州の九カ国については師中納言の発言に任せます。そういえ訳なので、その指図に従って横取りを止めさせ、間違いを直しなさい。又、伊勢国では、伊勢平氏の残党が反対勢力として蜂起したりしており、それに味方する連中が未だに源氏への反逆を止めないので、その連中を抑えるために、地頭の平氏に替えて、鎌倉から地頭を駐在させましたね。だいたいですよ。各国に治安維持として配置された武士達が、神社やお寺や公卿達の領地で、頼朝の命令書も持たずに、証拠もなしに我侭勝手に横取りをするなんて、全くとんでもないことだと思っているところです。
今となっては、後白河法皇の命令書をそれらの国へ出させて、武士達の横取りについて、あちこちのいけない事を止めさせて、天下を清く正しくしましょう。伊勢国ばかりでなく、反逆者達が隠れていた国は、反逆者のものだった所領に、地頭を任命しておいています。但し、荘園は本家や領家への労働奉仕を、国衙は国司からの労働奉仕を昔からの例の通りに勤めるように命令を出します。それぞれこの状を守って、公への年貢をまずきちんと納めなくては、その職の本来の役目を果たすことが、何よりも大事でしょう。もしその中に荘園領主を無視したり、国衙への義務を果たさないような、とんでもないやつ達は命令書の通りに、その罰を与えて下さい。特に武士の事は、頼朝も下し文を与えていないので知らない所を、人から寄付してもらったと云ったり、又は先祖代々の証拠が無いと云って横取りをした所が、沢山あるとおっしゃっるのは、承知しました。そういうところにこそ院宣を渡して、間違いを正させ、又、たとえ反逆者たちの領地だったので地頭を置いたとしても、その理由がはっきりとある所でも、後白河法皇が地頭を止めさせるようにおっしゃられる所は、云われる旨に従い、地頭を止めさせます。なんで院宣に背くことが出来ましょうか。この内容でお伝えするように、師中納言吉田經房に云って置きます。

  文治二年六月二十一日                      花押

文治二年(1186)六月小廿二日戊辰。左馬頭飛脚自京都到來。豫州隱居仁和寺。石倉邊之由。依有其告。雖遣刑部丞朝景。兵衛尉基C已下勇士無其實。而當時在叡山。悪僧等扶持之由風聞云々。

読下し               さまのかみ  ひきゃくきょうとよ   とうらい
文治二年(1186)六月小廿二日戊辰。左馬頭@が飛脚京都自り到來す。

よしゅう にんなじ  いわくらへん  いんきょのよし  そ  つげあ    よつ    ぎょうぶのじょうともかげ ひょうえのじょうもときよいか ゆうし  つか    いへど  そ  じつな
豫州仁和寺A石倉B邊に隱居之由、其の告有るに依て、刑部丞朝景・兵衛尉基C已下の勇士を遣はすと雖も其の實無し。

しか    とうじえいざん  あ     あくそうら  ふちのよし ふうぶん   うんぬん
而るに當時叡山に在り。悪僧等扶持之由風聞すと云々。

参考@左馬頭は、一条能保。
参考A仁和寺は、京都府京都市右京区御室大内33http://web.kyoto-inet.or.jp/org/ninnaji/
参考B石倉は、京都市左京区岩倉。

現代語文治二年(1186)六月小二十二日戊辰。左馬頭一条能保様の伝令が京都から到着しました。予州義経が仁和寺や岩倉のあたりに隠れているらしいといわれたから、梶原刑部烝朝景や後藤新兵衛尉基清を始めとした勇者を行かせましたが、その事実はありませんでした。現在では比叡山に居て、武者僧達が匿って面倒を見ているとの噂があるんだってさ。

文治二年(1186)六月小廿五日辛未。歡喜光院領播磨國矢野別苻事。海老名四郎能季稱地頭。不随寺家所堪之由。依被下 院宣。向後可止非分押妨之旨。二品令加下知給云々。

読下し               かんきこういん りょうはりまのくにやののべっぷ  こと   えびなのしろうよしすえ ぢとう  しょう
文治二年(1186)六月小廿五日辛未。歡喜光院@領播磨國矢野別苻Aの事、海老名四郎能季B地頭と稱し、

 じけ  しょかん  したが  ずのよし  いんぜん くださる    よつ   きょうご ひぶん  おうぼう  や    べ  のむね
寺家の所堪に随は不之由、院宣を下被るに依て、向後非分の押妨を止める可し之旨、

にほん げち  くは  せし  たま    うんぬん
二品下知を加へ令め給ふと云々。

参考@歡喜光院は、菅原院天満宮神社京都市上京区烏丸通下立売下る堀松町406。元は道真の屋敷跡で道真死後歓喜光院となったが、後に六条道場(六条河原院)へ移している。その後、この地に菅原道真公を本座とし相殿に父是善卿を奉祀して菅原院天満宮を創建し今日に至る。
参考A矢野別苻は、赤穂郡矢野村で現在の兵庫県相生市矢野町。参考別府は、国衙領・荘園内の単独の所領として分化した土地。民部省の符で耕作地を決められた農民が、出作りをした場所を一緒の荘園に入れたいので、太政官から特別の符を出してもらった土地。
参考B海老名四郎能季は、横山党小野一族と思われる。海老名権守季貞の子に義季がいる。

現代語文治二年(1186)六月小二十五日辛未。歓喜光院の領地の兵庫県相生市矢野の離れ地を、海老名四郎能季が地頭だと言って、寺院の言い分を聞かないと後白河院から手紙が来たので、今後は権限を無視した横取りを止めるように、頼朝様は命令なされましたとさ。

参考この記事は、本来、承久の乱で海老名源三季貞が手柄を立てた結果、矢野庄を与えられて地頭となったので、切り貼りの誤謬なのに名をこの時代に合わせて書いたらしい。
 横山義孝─義兼─盛季─季兼─海老名権守季貞
                              │
      ┌───┬───────┬──┴──┬─────┬─────┐
     僧忍長 義季(下海老名) 有季(国府) 季時(荻野) 義忠(本間) 季久(上海老名) 

文治二年(1186)六月小廿八日甲戌。左馬頭〔能保〕飛脚參着。去十六日平六{仗時定於大和國宇多郡。与伊豆右衛門尉源有綱〔義經聟〕合戰。然而有綱敗北。入深山自殺。郎從三人傷死了。搦取殘黨五人。相具右金吾首。同廿日傳京師云々。是伊豆守仲綱男也。

読下し               さまのかみ 〔よしやす〕  ひきゃくさんちゃく
文治二年(1186)六月小廿八日甲戌。左馬頭〔能保〕が飛脚參着す。

さんぬ じうろくにち  へいろくけんじょうときさだ やまとのくにうたぐん  をい    いずうえもんのじょうみなもとのありつな〔よしつね むこ〕 とかっせん
去る十六日、平六{仗@時定大和國宇多郡Aに於て、伊豆右衛門尉源有綱〔義經が聟〕与合戰す。

しかれども ありつなはいぼく  しんざん  い  じさつ   ろうじゅうさんにんしょうし をはんぬ
然而、有綱敗北し、深山に入り自殺す。郎從三人傷死し了。

ざんとう ごにん  から  と     うきんご   くび  あいぐ     おな   はつかけいし  つた    うんぬん  これ  いずのかみなかつな だんなり
殘黨五人を搦め取り、右金吾Bの首を相具し、同じき廿日京師に傳うと云々。是、伊豆守仲綱が男也。

参考@{仗は、兼仗で、朝廷から三位以上に付けられた護衛兵経験者。
参考A宇多郡は、元暦二年(1185)五月廿四日条腰越状に大和國宇多郡龍門之牧へ源九郎義經は母常磐御前に抱かれて赴いたとある。源氏ゆかりの地か?
参考B右金吾は、右衛門尉の唐名。金吾は衛門府の唐名。有綱は源三位頼政の孫で、頼朝の命で四国へ行っていたが、義経と仲良くなってしまったようだ。

現代語文治二年(1186)六月小二十八日甲戌。左馬頭一条能保様の伝令が到着しました。先の十六日に平六兼仗北条時定が奈良県宇多郡で伊豆右衛門尉源有綱〔義経の婿〕と戦いました。有綱は負けて深山に入り自殺しました。その部下は三人怪我をして死にました。残った五人を生け捕りにして、有綱の首を持って、二十日に京の役人に渡したそうです。この人は源仲綱の息子です。

文治二年(1186)六月小廿九日乙亥。伊勢國林崎御厨事。爲平家与黨人家資跡。雖被加没官領注文。就大神宮訴申之。不可有地頭之旨。被下 院宣之間。今日有沙汰。所被止宇佐美平次實正知行也。」又成勝寺興行事。被申京都。凡神社佛寺事興行最中也。
 下 伊勢國林崎御厨住人
  可令早停止宇佐美平次實正地頭職。勤仕神宮課役事
 右件御厨者。謀叛人家資知行之所也。仍任前蹤。爲令致沙汰。以彼實正。補任地頭職畢。然而依有神宮訴。所令停止實正之沙汰也。但今雖令改易其職。自神宮令還補本人者。甚以可爲不便之沙汰也。早爲神宮之沙汰。可致有限御上分已下雜事之沙汰之状如件。以下。
   文治二年六月廿九日
 成勝寺修造事。可被忩遂候也。若及遲怠候者。弥以破損大營候歟。就中。被修復當寺者。定爲天下靜謐之御祈歟。然者國ニモ被宛課候テ。忩御沙汰可候也。以此旨可令申沙汰給候。頼朝恐々謹言。
      六月廿九日                      頼朝〔裏御判〕
  進上   師中納言殿

読下し               いせのくにはやしざきのみくりや こと へいけよとうにんいえすけ あと  な  ぼっかんりょうちゅうもん  くは  らる    いへど
文治二年(1186)六月小廿九日乙亥。伊勢國林崎御厨@の事、平家与黨人家資が跡と爲し、没官領注文に加へ被ると雖も、

だいじんぐうこれ  うった もう    つ     ぢとう あ べからず のむね いんぜん  くださる  のかん
大神宮之を訴へ申すに就き、地頭有る不可之旨、院宣を下被る之間、

 きょう さた あ       うさみのへいじさねまさ    ちぎょう  と   らる  ところなり
今日沙汰有りて、宇佐美平次實正Aが知行を止め被る所也。」

また じょうしょうじ  こうぎょう  こと   きょうと  もうさる    およ  じんじゃぶつじ  こと  こうぎょう さいちゅうなり
又、成勝寺Bの興行Cの事、京都へ申被る。凡そ神社佛寺の事は興行の最中也。

参考@林崎御厨は、三重県鈴鹿市林崎。
参考A
宇佐美平次實正は、宇佐美は伊豆の宇佐美、工藤と同族。但し彼は伊東市大見なので大見で出演もする。
参考B成勝寺は、白河の地に代々の天皇・上皇・女院たちの御願によって建てられた6つの寺院六勝寺のひとつで崇徳天皇御願。保延5(1139)年落慶供養。
参考C成勝寺の興行は、源平合戦の最中は年貢が滞っていたので寺は廃れていたのを興すため。

  くだ    いせのくにはやしざきのみくりや じゅうにん
 下すD 伊勢國林崎御厨の住人へ

    はやばや  うさみのへいじさねまさ   ぢとうしき  ちょうじせし    じんぐう   かえき  きんじすべ  こと
  早々と宇佐美平次實正の地頭職を停止令め、神宮の課役を勤仕可き事

  みぎ くだん みくりやは  むほんにんいえすけ ちぎょうのところなり
 右、件の御厨者、謀叛人家資が知行之所也。

  よつ  ぜんしょう まか     さた いたせし   ため  か  さねまさ  もつ    ぢとうしき   ぶにん をはんぬ
 仍て前蹤に任せE、沙汰致令めん爲、彼の實正を以て、地頭職に補任し畢。

  しかれども じんぐう うった あ     よつ    さねまさの さた  ちょうじせし ところなり
 然而、神宮の訴へ有るに依て、實正之沙汰を停止令む所也。

  ただ  いま  そ  しき  かいえきせし   いへど   じんぐう よ もと  ひと  かんぽせし  ば   はなは もつ ふびんの さた たるべ  なり
 但し今、其の職を改易令むと雖も、神宮自り本の人に還補令め者、甚だ以て不便之沙汰爲可き也。

  はやばや じんぐうの さた    な     かぎ  あ  ごじょうぶんいか   ぞうじ  いた  べ    のさたのじょう   くだん  ごと    もつ  くだ
 早々と神宮之沙汰と爲し、限り有る御上分已下の雜事を致す可し之沙汰之状、件の如し。以て下す。

      ぶんじにねんろくがつにじうくにち
   文治二年六月廿九日

  せいしょうじしゅうぞう こと  いそ  と   らる  べ そうろうなり  も  ちたい  およ そうら ば  いよいよもつ  はそん だいえい そうら   か
 成勝寺修造の事、忩ぎ遂げ被る可く候也。若し遲怠に及び候は者、弥以て破損し大營に候はん歟。

  なかんづく  とうじしゅうふくさる  ば   さだ   てんかせいひつのおいのりたるか  しからずんば くににもあてかされそうろうて いそ ごさたすべ  そうろうなり
 就中に、當寺修復被る者、定めて天下靜謐之御祈爲歟。然者、國ニモ宛課被候テ、忩ぎ御沙汰可く候也。

  かく  むね  もつ  もう   さた せし  たま  べ そうろう  よりともきょうきょうきんげん
 此の旨を以て申し沙汰令め給ふ可く候。頼朝恐々謹言。

            ろくがつにじうくにち                                          よりとも 〔うらにごはん〕
      六月廿九日                    頼朝〔裏御判〕

    しんじょう     そちのちうなごんどの
  進上   師中納言殿

参考D下すで、始まるのは尻に「以って下す」で閉じる「下し文」で、強い命令書である。
参考E
前蹤に任せは、先例どおりに。

現代語文治二年(1186)六月小二十九日乙亥。伊勢国林崎御厨については、平家の味方をした家資の跡だからと、平家から没収して頼朝様に与えた名簿に加えられていたけれども、本所の伊勢神宮が泣き言を言ってきたので、地頭を置かないようにと後白河法皇から手紙が来たので、今日、命令が出て宇佐美平次實政の領地を止めさせたところです。又、成勝寺が源平合戦の間、年貢が滞って廃れていたので、元のように繁昌させるように京都へ申し送りました。なにせ神社やお寺は大事にしているからです。

 命令する 伊勢の国林崎の御厨の在家たちへ
 さっさと宇佐美平次実政の地頭は止めさせたので、伊勢神宮のために奉公をすること
 右の通りのこの御厨は、謀反人家資が治めていた所です。そこで、先例どおりに執行するために、かの宇佐美平次実政を地頭職に任命しました。しかし、伊勢神宮のほうから泣き言が這い居たので、宇佐美平次實政の知行を止めさせたところです。但し今、その職務を止めさせたけれども、伊勢神宮のほうで別な人を地頭に任命するのでは、私の面子がつぶれるので、それはおかしなことを命じる事になる。そこで、伊勢神宮が自らやる事にして、決められた年貢を始めとする労役も直接命じるようにするように決めたのはこのとおりです。そこで強く命令する。
 文治二年六月二十九日

 成勝寺の修理の事は、早急に行うべきである。もし、ぐずぐずしていたら、尚更痛んで大事になってしまうでしょう。特にこの寺を修理することは、さぞかし天下が静かに平和になる祈りとなるでしょう。だから、各国々にも修理するように早急に命令してください。この内容でお伝えし、実施されるようによろしくお願いします。頼朝謹んで申します。
        六月二十九日       頼朝(紙の裏に花押)
   差し上げます 師中納言(吉田経房)殿

七月へ

吾妻鏡入門第六巻

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